ニホンカワウソ

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河北春秋 8/19

 供え物をして先祖を祭るように、カワウソは捕った魚を並べるという。書物に囲まれて文を書く様になぞらえる「獺祭(だっさい)」の言葉が生まれ、諧謔(かいぎゃく)たっぷりに「獺祭屋主人」と号したのが明治の俳人正岡子規だ。当時はそれほど身近な存在だったのだろう。

38年前、高知県で目撃されたのが最後の確認例とされるカワウソが長崎県の対馬で見つかった。琉球大の研究者らが偶然に動画で姿を捉え、環境省の調査の結果、2匹分のふんもあった。

同省が絶滅種に指定する固有のニホンカワウソが生きていたとすれば奇跡。ふんの分析では大陸の近親種ユーラシアカワウソかもしれぬというが、ならば対岸の韓国から海を渡ったことにもなり、それまた奇跡。

「獺沢(おそざわ)川」の地名が仙台にあり、カワウソはもともと日本中にいた。絶滅させたのは人間。明治以後、毛皮を防寒具に珍重し乱獲した。戦後は川辺の生息地が護岸工事で失われ、農薬で汚され、海辺でも多くがナイロン漁網に掛かり死んだ。

子規の古里愛媛県は、カワウソが県獣。県独自に絶滅危惧種に据え置き、42年前に捕獲例がある宇和島周辺でカメラを据え、情報を募り続ける。同県自然保護課は「対馬からのニュースは心強い」。自然の守り手となった人間の改心を、対馬のカワウソに伝えられたら。

…………………………

正平調 8/19

むかし、カワウソありけり。「イチゴがある」とサルに連れてこられた山中で置き去りにされた。オオカミに追われる羽目になり、命からがら逃げたという話が兵庫北部に伝わる(喜尚晃子編纂(へんさん)「但馬・温泉町の民話と伝説」)

もう一話。魚捕りに秀でたカワウソに「たまには1匹よこせ」と声をかけた老人がいた。翌日、家の前には立派なクロダイが置かれてあったという。こちらは本紙姫路版に載っていた播磨・家島の昔語りである。

明治のころまで全国にいたというから、兵庫各地でも見られたのだろう。民話から思うに、食いしん坊で少し間が抜けてはいるが、愛嬌(あいきょう)があって憎めない生き物らしい。

事実は時に伝承の世界に勝るほどのロマンをかきたてる。長崎・対馬で野生らしきカワウソの姿がカメラにとらえられた。国内での目撃は実に38年前の高知以来という。

絶滅したはずのニホンカワウソが息を潜めて暮らしていたか。韓国から大陸系の種が泳いでやってきたか。何となく渡来説に分がありそうな気配だが、まだ分からない。

彼らには捕った魚を並べて楽しむ習性があるそうだ。そのさまを獺(かわうそ)の祭り、「獺祭(だっさい)」と呼ぶ。久しぶりの登場で人を驚かせ、してやったりの気分かもしれない。今ごろは祭りのさなかだろう。


…………………………

地軸 8/19

 一報に「えっ!」と声を上げた。長崎の対馬で、国内で38年ぶりとなるカワウソの生息が確認された。環境省が、ニホンカワウソを絶滅種としたのは5年前。カメラに写り込んだ姿は「元気だよ」とアピールしているよう。

 種類の判別には、さらなる調査が必要。しかし、環境悪化や乱獲で激減したカワウソが、日本で生きていたことを素直に喜びたい。

 全国で唯一、ニホンカワウソを県獣とする愛媛。環境省が絶滅種に指定した後も、県は絶滅危惧種に据え置き、調査を続ける。県内では1975年、宇和島市九島での情報が最後とされるが、人の手が入っていない自然は多く残り「再発見」へ期待が高まる。

 見掛けなくなった今も、宇和島市は出生届にイラストを載せ、愛南町はゆるキャラのモチーフにする。地元ゆかりの生き物に関心を持ってほしい、との思いがにじむ。

 7年前、山梨の西湖で70年ぶりに確認された淡水魚クニマスを思い出す。秋田の田沢湖にだけ生息し、絶滅種とされていたが、西湖に卵が放流されていたという。発見に関わった「さかなクン」の笑顔も印象に残る。田沢湖では今、クニマスが再びすめるよう水質改善が進む。

 四国南西部は、ニホンカワウソの生息が最も期待される地域。魚介類しか食べず、環境変化に対応できない彼らのために、きれいな水を取り戻し、自然の海岸や河川を守りたい。それはすべての生き物にとっても、望ましいはず。

加熱たばこ



「ぼくの好きな先生」

歌:RCサクセション
作詞:忌野清志郎 作曲:肝沢幅一

たばこを吸いながらいつでもつまらなそうに
たばこを吸いながらいつでも部屋に一人
ぼくの好きな先生
ぼくの好きなおじさん
たばこと絵の具のにおいのあの部屋にいつも一人
たばこを吸いながらキャンバスに向かってた

ぼくの好きな先生
ぼくの好きなおじさん

たばこを吸いながら困ったような顔して
遅刻の多いぼくを口数も少なくしかるのさ

ぼくの好きな先生
ぼくの好きなおじさん

たばこと絵の具のにおいのぼくの好きなおじさん

たばこを吸いながらあの部屋にいつも一人
ぼくと同じなんだ職員室がきらいなのさ

ぼくの好きな先生
ぼくの好きなおじさん

たばこを吸いながら劣等生のこのぼくに
すてきな話をしてくれたちっとも先生らしくない

ぼくの好きな先生
ぼくの好きなおじさん

たばこと絵の具のにおいのぼくの好きなおじさん

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有明抄 8/19

 ♪たばこを吸いながら…で始まるロックバンド「RCサクセション」の名曲「ぼくの好きな先生」は故忌野清志郎(いまわのきよしろう)さんの作詞である。歌は<いつでもつまらなさそうに/たばこを吸いながら/いつでも部屋に一人/ぼくの好きな先生/ぼくの好きなおじさん/たばこと絵の具のにおいの…>と続く。

清志郎さんには終生慕った高校の美術部顧問の先生がいた。歌のモデルだが、<劣等生のこのぼくに/すてきな話をしてくれた>と詞にあるように、忘れられない人だったのである。たばこの匂いが青春の日々を思い起こさせてくれたのだろう。

たばこの形態が変わってきた。電気で葉タバコに熱を加えて専用の器具で吸う「加熱たばこ」が増えている。煙や灰が出ない上、有害物質も大きく減るという触れ込み。だが、税額が紙巻きより小さいことと、たばこ離れもあって、今年のたばこ税が前年より500億円以上も減るとの予想が出た。

身近でも見かけるようになった加熱たばこ。スマートな喫煙スタイルがいいのか、市場のベクトルは次世代たばこへと向いている。禁煙は世の趨勢(すうせい)とされる中、愛煙家には共存の道とも映っているのだろうか。

歌人の寺山修司に一首ある。<煙草(たばこ)くさき国語教師が言ふときに明日という語は最もかなし>。同じたばこの匂いも受け取り方はさまざまなようだ。

カワウソ

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『画図百鬼夜行』より「獺」

狸、狐、貂らと同様に、化けて人を脅かすと言われる獺(動物のカワウソと同じ)。
地方によって様々な伝承があり、中には河童の正体は獺であるというものまである。
それについては、河童が結局のところ謎な妖怪であるので、その正体を川辺に棲息する獺に求めるのは自然な気もする。とにかく、恐らくあなたが思っている以上に、獺の伝承というのは色々なところに存在しているのである。
石燕の描いたこの獺は、これから化けるところなのか、それとも化け終えたところなのか、はたまた化け損なった姿なのか。何にしろ傘を被って提灯を持つ様はどこか人間臭くってかわいい。

ちなみにカワウソはラッコの仲間でもあり、性格は至って温厚。
きっとその愛くるしいカワウソに嫉妬して誰かが妖怪に仕立て上げたに違いない。うん、違いない。

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宮城県の事例

かつて仙台の荒巻伊勢堂山に、夜毎に唸り声を発する大岩があった。さらにはその大岩が雲をつくような大入道に化けるという話もあった。
当時の藩主の伊達政宗はこの怪異を怪しんで家来に調査させたが、戻って来た家来たちは、大入道の出現は確かでありとても手に負えないと皆、青ざめていた。
剛毅な政宗は自ら大入道退治に出向いた。現場に着くとひときわ大きな唸り声と共に、いつもの倍の大きさの入道が現れた。政宗が怯むことなく入道の足元を弓矢で射ると、断末魔の叫びと共に入道は消えた。岩のそばには子牛ほどもあるカワウソが呻いており、入道はこのカワウソが化けたものであった。以来、この坂は「唸坂(うなりざか)と呼ばれたという。
この唸坂は仙台市青葉区に実在しているが、坂の名を示す碑には、かつて荷物を運ぶ牛が唸りながら坂を昇ったことが名の由来とあり、妖怪譚よりもこちらのほうが定説のようである。

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中日春秋 8/18

昔話などで、何かに化けて人をだます動物といえば、キツネやタヌキを連想するが、この動物もなかなかの化かし上手らしい。カワウソである。

青森県の津軽地方では生首に化けて川を流れ、漁をする人を驚かせていたという話が残る。宮城県の伝説ではカワウソが大入道に化け、伊達政宗に退治されたそうな。水木しげるさんの『日本妖怪大全』にあった。

まさか人をたぶらかそうと現れたわけではあるまいな。琉球大学の研究チームが長崎県・対馬で野生のカワウソを確認したと発表した。国内で野生のカワウソが確認されたのは一九七九年、高知県で目撃されたニホンカワウソ以来、三十八年ぶりという。

気になるのはカワウソの種。絶滅したはずのニホンカワウソだとすれば対馬で細々と生き残っていたことになるし、ユーラシアカワウソなら、生息する韓国の離島から約五十キロも泳いで対馬にやって来たことになる。

見つかったふんからユーラシアカワウソのDNAが検出されているが、断言はできないらしい。どっちの種でも、キツネではなく、カワウソにつままれたような話である。

カワウソにつままれたとしても人間に叱る資格はなかろう。かつて日本全国に分布していたカワウソは明治以降、毛皮目当ての乱獲と河川の水質悪化などで姿を消していった。昔話と違い、ひどい目にあわせてきたのは人間の方である。

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越山若水 8/18

森の夜道を男が1人歩いていると怪しい声がする。「げた貸そか〜、傘貸そか〜」。テレビでかつて放送されていた「まんが日本昔ばなし」に、そんな回があった。

「竹やぶから化けもの」と題された話は、敦賀市内に残る民話に材を得たらしい。オチを明かすのは気が引けるが題名の化け物とはほかでもない、カワウソだ。

真っ暗な道中、雨に降られて難儀する男を見かねたとの美談である。人を化かすキツネやタヌキとは違い、彼らは優しい。そんな温かい地元民のまなざしを感じる。

長崎県・対馬で琉球大のチームがカワウソを撮影したという。これがニホンカワウソと特定されれば奇跡のようなニュースである。彼らは38年も前に絶滅したと考えられている。

昔は全国のどこにもいた。先の民話が残る敦賀市内には「獺河内(うそごうち)」、福井市にも「獺ケ口(うそがぐち)」という地名がある。この「獺」がカワウソで、身近な存在だったことをうかがわせる。

「獺祭(だっさい)」という言葉もある。近ごろは山口県の地酒の銘柄として知られるが、もともとは中国の書物「礼記(らいき)」の「獺(かわうそ)魚を祭る」から来た言葉だ。

カワウソは捕らえた魚を岸に並べる習性を持つという。それはまるで、物を供えて祭りをするようだと見立てた。いまは並べるほど魚もいない。そもそも「絶滅」させたのは誰か―。島の片隅で彼らは無言で抗議しているのだろうか。

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竹やぶから化けもの

演出:木村哲 文芸:沖島勲(脚本:平柳益実) 美術:古宮陽子 作画:数井浩子

あらすじ
むかし、ある村に九右衛門辻子(くえもんずし)という小さな道があった。この道は2つの寺のある大きな森の中を通っており、森の中には道を横切る小川があった。小川には半分朽ちかけた土橋が架かっており、辺りは浄泉寺のこんもりとした竹やぶ、その奥は良覚寺の墓場となっていた。そこは昼間でも薄暗く気味が悪いので、大の大人でも九右衛門辻子を通るのを避けていた。

しかし、全く通らないという訳にもいかず、ここに二人の男が村の寄り合いで遅くなったため、雨の中、夜の九右衛門辻子を急いでいる。二人が小川に架かる土橋のところまで来ると、小川から赤く光る目がのぞき、怪しい声が聞こえる。「下駄貸そか~~~、傘貸そか~~~」二人は震え上がり、大慌てでその場から走り去る。

それからしばらくして、彦三郎という男が親戚の招きで隣村まで行くことになった。隣村に行くためにはどうしても九右衛門辻子を通らねばならない。この彦三郎という男、臆病者であったが酒には目がなく、親戚の集まりで振舞われる酒のことなど考えながら九右衛門辻子を通って行った。彦三郎は親戚の家で勧められるままに酒を飲み、グテングテンに酔っ払ってしまう。

彦三郎が半ば追い出されるように親戚の家を出た時には、あたりは真っ暗になっており、おまけに黒い雲まで立ち込めていた。彦三郎が千鳥足になりながら九右衛門辻子を通る頃、とうとう雨が降り出した。彦三郎はそれでも上機嫌で鼻歌を歌いながら土橋のところまで来る。すると風が吹き始め、小川の中から赤い目が光る。そしてどこからともなく怪しい声が聞こえる。

「下駄貸そか~~~、 傘貸そか~~~。」酒が入っていた彦三郎はさほど怖いとも感じず、ちょうど雨に降られ濡れていたので、「下駄も傘も貸してくれ~~~!!」と怪しい声に答えた。すると竹やぶの中から傘と下駄が飛び出し、彦三郎の前にやって来た。彦三郎は、これで濡れなくて済むと思い、「化け物、明日返すぞ~~」と言って家に帰って行った。

翌朝、酔いから覚めた彦三郎は自分のしたことが怖くなってしまい、嫁さんと二人で化け物から借りた下駄と傘を恐る恐る見てみる。すると土間には馬の骨と馬用のわらじが転がっているだけだった。

これを聞いた村人は、雨に降られて難儀している彦三郎をみかねて、カワウソが助けてくれたのだろうと言った。それから九右衛門辻子の化け物の噂は消えて、周りに人家なども建つようになったという話だ。(カワウソが小川から顔をのぞかせる)

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獺祭(だっさい)とは

獺祭

山口県にある旭酒造が作る、国内外で愛飲されている吟醸酒です。吟醸酒とは、玄米の表面を40%以上削り取り、精米の度合いが60%以下の低温で時間を掛けて作ったものです。時間やコストがかかるため、値段も張り普通酒と異なります。
また、大吟醸酒の場合、玄米の表面を50%以上削り取る必要があります。「酔うため、売るための酒ではなく、味わう酒」をコンセプトに、杜氏制度を廃止した上で、社員と共に年間を通して作っています。一般的な酒作りは、杜氏と蔵人たちによって行われるため、旭酒造のこの取り組みは斬新なものでした。そのため、生産性が上がることはもちろん、お客さんの要望にも迅速に応えられるようになり、品質向上に繋がっています。

名前の由来

旭酒造の所在地「獺越(おそごえ)」の由来が、「川上村に古い獺(カワウソ)が居て、子供を化かして当村まで追越してきた」ということから獺越と称され、この地名から一字取って「獺祭」と名付けました。
また、獺祭とは獺が捕まえた魚を岸に並べて、祭りをするかのように見えることから、文章などを作る時に数多くの資料を広げることを意味します。

獺祭ができるまで

旭酒造では、「遠心分離システム」を採用しています。これは、1分間におよそ3,000回転し、遠心力によってもろみからお酒を分離させます。日本酒業界においてこのシステムは画期的で、袋吊りで絞った時と同じように無加圧状態でお酒を分離させられるため、純米吟醸酒のもつ香りなどが損なわれず、非常に純度の高い酒が完成します。

袋吊り
もろみが完成してから酒を絞る過程で、槽を使用せずにもろみの入った布袋を吊るし、圧力をかけずに自然に落ちた酒のみを集める方法です。

海外でも人気がある

獺祭は、国内だけでなく海外でも人気があり、ニューヨーク・パリ・香港などの飲食店においても展開しているのです。このように、旭酒造が特に力を入れているのが海外市場の開拓です。2002年に初めて海外進出したところが台湾で、一定の成果を得てから米国に販売ルートを作りました。

獺祭のラインナップ

獺祭 発泡にごり酒 スパークリング50
獺祭には、さまざまな種類があり「発泡にごり酒 スパークリング50」は、女性の間で非常に人気があります。この酒の特徴は泡で、通常の炭酸ガスではなく酵母が発酵した時に生まれる二酸化炭素になります。瓶の中では、酵母から生まれた二酸化炭素により気圧が高くなっており、開栓するとポンッと心地よい音が鳴ります。

獺祭 磨き二割三分
繊細で、上品な香りと旨味が特徴です。ふんだんにお米を使っているため、お値段は張りますが飲む価値は十分にあります。ヨーロッパにおいて、最も権威のある食品コンクール「モンド・セレクション」を2002年に金賞受賞しています。米の精米歩合23%、日本最高峰といっても過言ではありません。精米歩合とは、玄米に対する重量の割合を指します。精米歩合60%であれば、玄米の表面を40%削り取って米ぬかに、60%まで磨いていること表します。
このことから、精米歩合の数値が低いほど、硬度に精米しているということになります。吟醸酒は27%が最高でしたが、二割三分の登場によって記録が塗り替えられ、酒造関係者を驚かせました。

おわりに

獺祭は日本酒を飲んだことのない方、苦手な方にも楽しんで飲めるように開発されたものです。獺祭の裏舞台を知ることで、より楽しんで飲んでいただけたら幸いです。

藪入り





藪入り(やぶいり)/落語


たっぷり笑わせ、しっかり泣かせる名品です。ホントはエロネタ!?

正直一途の長屋の熊五郎。

後添いができた女房で、
一粒種の亀をわが子のようにかわいがる。

夫婦とも甘やかしたので、
亀は、朝も寝床で芋をたべなければ起きないほど、
わがままに育った。

これではいけない、かわい子には旅をさせろだと、
近所の吉兵衛の世話で、泣きの涙で亀を奉公に出した。

それから三年。

今日は正月の十五日で、
亀が初めての藪入りで帰ってくる日。

おやじはまだ夜中の三時だというのに、
そわそわと落ち着かない。

かみさんに、奉公をしていると食いたいものも食えないからと、
「野郎は納豆が好きだから買っておけ。
鰻が好きだから中串で二人前、刺し身もいいな。
チャーシューワンタンメンというのも食わしてやろう。
オムレツカツレツ、ゆで小豆にカボチャ、安倍川餠」
と、きりがない。

時計の針の進みが遅いと、一回り回してみろ
と言ったり、
帰ったら品川の海を見せて、
それから川崎の大師様、横浜から江ノ島鎌倉、
足を伸ばして静岡、久能山、
果ては京大阪から、讃岐の金比羅さま、九州に渡って……
と、一日で日本一周をさせる気。

無精者なのに、
持ったこともない箒で家の前をセカセカと掃く。

夜が明けても
「まだか。意地悪で用を言いつけられてるんじゃねえか。
店に乗り込んで番頭の横っ面を」
と、大騒ぎ。

そのうち声がしたので出てみると
「ごぶさたいたしました。お父さんお母さんにもお代わりがなく」

すっかり大人びた亀坊が、
ぴたりと両手をついてあいさつしたので、
熊五郎はびっくりし、胸がつまってしどろもどろで
「今日はご遠方のところをご苦労様で」

涙で顔も見られない。

この間、風邪こじらせたが、おめえの手紙を見たら途端に治ってしまった
と、打ち明け
「この間、店の前を通ったら、
おめえがもう一人の小僧さんと引っ張りっこをしているから、
よっぽど声を掛けようと思ったが、里心がつくといけねえと思って、
目をつぶって駆けだしたら、大八車にぶつかって……」
と、泣き笑い。

亀が小遣いで買ったと土産を出すと、
「もったいねえから神棚に上げておけ。
子供の御供物でござんすって、長屋中に配って歩け」
と、大喜び。

ところが亀を横町の桜湯にやった後、
かみさんが亀の紙入れの中に、
五円札が三枚も入っているのを見つけたことから一騒動。

心配性のかみさんが、
子供に十五円は大金で、そんな額をだんながくれるわけがないから、
ことによると魔がさして、お店の金でも……
と言いだしたので、気短で単純な熊、
さてはやりゃあがったなと逆上。

帰ってきた亀を、いきなりポカポカ。

かみさんがなだめでわけを聞くと、
このごろペストがはやるので、
鼠を獲って交番に持っていくと一匹十五円の懸賞に当たったものだ
と、わかる。

だんなが、子供が大金を持っているとよくないと預かり、
今朝渡してくれたのだ、という。

「見ろ、てめえが余計なことを言いやがるから、
気になるんじゃねえか。
へえ、うまくやりゃあがったな。
この後ともにご主人を大切にしなよ。
これもやっぱりチュウ(=忠)のおかげだ」

【うんちく】

江戸時代の児童性的虐待

原話は詳細は不明ながら、
天保15年(1844=12月から弘化と改元)正月、
日本橋小伝馬町の呉服屋・島屋吉兵衛方で、番頭某が小僧をレイプし、
気絶させた実話をもとに作られた噺といいます。

表ざたになったところを見ると、何らかの
お上のお裁きがあったものと思われますが、
当時、商家のこうした事件は何ら珍しいことではなく、
黙阿弥の歌舞伎世話狂言「加賀鳶」・「伊勢屋の場」にも、

太助: これこれ三太、よいかげんに言わないか、たとえ鼻の下が長かろうとも。
左七: そこを短いと言わなければ、番頭さんに可愛がられない。
三太: 番頭さんに可愛がられると、小僧は廿八日だ。
太・左: なに、廿八日とは、
三太: お尻の用心御用心。

というやりとりがあります。

「お釜様」から金馬十八番へ

明治末期に初代柳家小せん(→「五人まわし」)が
アブナイ男色の要素を削除して、きれいごとに塗り替えて改作しましたが、
それまでは演題は「お釜様」で、サゲも
「これもお釜さま(お上さま=主人と掛けた地口)のおかげだ」
となっていました。

つまり、亀が独身の番頭にお釜(=尻)を貸し、
もらった小遣いという設定で、小せんがこれを
当時の時事的話題(→次項)とつなげ、「鼠の懸賞」と改題、
サゲも現行のものに改めたわけです。

小僧奉公がごく普通だった明治・大正期によく高座に掛けられましたが、
昭和初期から戦後にかけては、三代目三遊亭金馬が
「居酒屋」と並ぶ、十八番中の十八番としました。

金馬の、親子の情愛が濃厚な人情噺の要素は、
自らの奉公の経験が土台になっているとか。
現役では、三遊亭円楽が得意にしています。

鼠の懸賞

明治38年、ペストの大流行に伴い、その予防のため
東京市がネズミを一匹(死骸も含む)3~5銭で買い上げたことは
「意地くらべ」のその項に記しました。

補足すると、ペストの最初の日本人犠牲者は明治32年11月、広島で、
東京市が早くも翌年、明治33年1月に、ネズミを買い取る旨の
最初の布告を出しています。

希望者は区役所や交番で切符を受け取り、
交番に捕獲したネズミを届けた上、銀行、区役所で換金されました。

東京市内の最初のペスト患者は明治35年12月で、
38年にピークとなったのは「意地くらべ」でご紹介の通りです。
噺の中の15円は、特別賞か、金馬が昭和初期の物価に応じて変えたものでしょう。

ネズミの買い上げは、大正12年9月、関東大震災まで続けられました。

藪入り

「藪入りや曇れる母の鏡かな」
という、哀れを誘う句をマクラに振るのが、この噺のお決まりですが、
藪入りは江戸では、古くは宿入りといい、
商家の奉公人の特別休暇のことです。
江戸から明治・大正にかけ、町家の男の子は
十歳前後(明治の学制以後は、尋常または高等小学校卒業後)で
商家や職人の親方に奉公に出るのが普通でした。

一度奉公すると、三年もしくは五年は、親許に帰さないならわしでした。
それが過ぎると年二回、盆と旧正月に一日(女中などは三日)、
藪入りを許されました。
商家の手代・小僧は奉公して十年は無給で、五年ほどは
小遣いももらえないのが建前でした。

「藪」は田舎のことで、転じて親許を指したものです。
なお、「藪入り」の言葉と習慣は、労働条件が改善された
昭和初期まで残っていて、相撲史上有名な横綱・双葉山の
「70連勝ならざるの日」がちょうど
藪入りの日曜日(昭和14年1月15日)だったことは、
今でも昭和回顧で、よく引き合いに出されます。



…………………………

水や空 8/17

はなし家の語りにぴたりと合わせて役者が演技するテレビ番組がある。「落語の映像化」という感じだろうか。先ごろ見たのは「藪(やぶ)入り」だった。その昔、奉公人が正月と盆の16日だけ暇をもらい、実家に帰ったことを指すという。

3年ぶりに帰省した亀吉は目の前にいるのに、父は「亀、大きくなったか?」と妙なことを言う。姿を見ようにも「顔上げると涙がこぼれそうで、上げらんねえ」のだ。

昔も今も変わるまい。祖母なのだろう、JRで県外にUターンする親子を、涙ぐんで見送るご年配の女性の姿がテレビニュースで流れていた。心待ちにして迎え、ともに過ごしたのも、つかの間だったろう。

帰省にUターンにと続いた人の大移動が、ようやく落ち着いたらしい。もっとも11日の「山の日」から連休という人もいて、盆休みは近ごろ分散化しているとも聞く。人いきれがいくらか緩むといい。

こちらはむしろ、人いきれが望まれたろうに。対馬市が、島外から帰省した人に地元就職を促そうと11日に企業説明会を開いた。訪れたのは島内の2人きりで、空振りに終わったという。記事に寂しさが漂う。

日取りとか、周知の仕方とか、工夫の余地はあるのかもしれない。おそらくは「藪入り」の父に負けないほどの"待つ身"の思いが、そのうち届きますよう。

実家問題

凡語 8/16

 「土地・家屋」という、詩らしからぬ題の作品が1968年刊の石垣りん詩集にある。<ひとつの場所に/一枚の紙を敷いた。/ケンリの上に家を建てた。>

だれもがマイホームを夢見た高度成長期。<不動産という名称はいい、/「手に入れました」/という表現も悪くない。>けれど権利書一枚のために人生の大半を労働に費やす滑稽、やるせなさを問いかけているようにも読める作品である。

苦労して手に入れたのに、いまや「負動産」と呼ばれるそうだ。子どもたちが巣立ち、継ぐ人のない古家や土地。処分しようにも買い手がつかず、管理費と税金がかかるばかり-との声は交通の便に恵まれない地域で特に多い。

お盆に帰省した息子・娘夫婦と相続や墓守について話すつもりが、今年も切り出せなかった-ともよく聞く。あわただしく都会へ戻る姿を見送り、ため息をつく親。子の側にも事情や遠慮があり、実家の整理問題は先送りになりがちだ。

25歳の時に空襲で焼け出された前掲の詩人は、病弱な父と、父が次々に迎えた3人の後妻の子を含む弟妹たちの生計を女性の独り身で支えた。14歳から40年間働き、定年前にやっと自分の家を得た。

家は生涯の安心を意味した。それが変わる中、負の遺産にしない策を、社会全体で考える時にきている。

…………………………

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石垣りんの詩

「シジミ」 「子供」 「表札」 「くらし」 「夜毎」 「旅情」 「海辺」 「花」 「幻の花」 「島」 「えしやく」 「杖突峠」 「冠」 「崖」 「健康な漁夫」 「仲間」 「藁」 「貧しい町」「落語」「めくら祭り」 「海のながめ」 「土地・家屋」 「鬼の食事」 「経済」「愚息の国」 「カッパ天国」「銭湯で」「公共」「ひとり万才」「弔詞」 「唱歌」 「家出のすすめ」「干してある」「母の顔」「ちいさい庭」「童謡」「生えてくる」


「シジミ」

夜中に目をさました。
ゆうべ買つたシジミたちが
台所のすみで
口をあけて生きていた。

「夜が明けたら
ドレモコレモ
ミンナクツテヤル」

鬼ババの笑いを
私は笑つた。
それから先は
うつすら口をあけて
寝るよりほかに私の夜はなかつた。


「子供」

子供。
お前はいまちいさいのではない、
私から遠い距離にある
とうことなのだ。

目に近いお前の存在、
けれど何というはるかな姿だろう。

視野というものを
もつと違つた形で信じることが出来たならば
ちいさくうつるお前の姿から
私たちはもつとたくさんなことを
読みとるに違いない。

頭は骨のために堅いのではなく
何か別のことでカチカチになつてしまつた。

子供。
お前と私の間に
どんな淵があるか、
どんな火が燃え上がろうとしているか、
もし目に見ることができたら。

私たちは今
あまい顔をして
オイデオイデなどするひまに
も少しましなことを
お前たちのためにしているに違いない。

差しのべた私の手が
長く長くどこまでも延びて
抱きかかえるこのかなしみの重たさ。


「表札」

自分の住むところには
自分で表札を出すにかぎる。

自分の寝泊りする場所に
他人がかけてくれる表札は
いつもろくなことはない。

病院へ入院したら
病室の名札には石垣りん様と
様が付いた。

旅館に泊まつても
部屋の外に名前は出ないが
やがて焼場の鑵(かま)にはいると
とじた扉の上に
石垣りん殿と札が下がるだろう
そのとき私はこばめるか?

様も
殿も
付いてはいけない、

自分の住む所には
自分の手で表札をかけるに限る。

精神の在り場所も
ハタから表札をかけられてはならない
石垣りん
それでよい。


「くらし」

食わずには生きてゆけない。
メシを
野菜を
肉を
空気を
光を
水を
親を
きょうだいを
師を
金もこころも
食わずには生きてこれなかつた。
ふくれた腹をかかえ
口をぬぐえば
台所に散らばつている
にんじんのしつぽ
鳥の骨
父のはらわた
四十の日暮れ
私の目にはじめてあるれる獣の涙。



「夜毎」

深いネムリとは
どのくらいの深さをいうのか。
仮に
心だとか、
ネムリだとか、
たましい、といつた、
未発見の
おぼろの物質が
夜をこめて沁みとおつてゆく、
または落ちてゆく、
岩盤のスキマのような所。
砂地のような層。
それとも
空に似た器の中か、
とにかくまるみを帯びた
地球のような
雫のような
物の間をくぐりぬけて
隣りの人に語ろうにも声がとどかぬ
もどかしい場所まで
一個の物質となつて落ちてゆく。
おちてゆく
その
そこの
そこのところへ。
旅情
ふと覚めた枕もとに
秋が来ていた。

遠くから来た、という
去年からか、ときく
もつと前だ、と答える。

おととしか、ときく
いやもつと遠い、という。

では去年私のところにきた秋は何なのか
ときく。
あの秋は別の秋だ、
去年の秋はもうずつと先の方へ行つている
という。

先の方というと未来か、ときく、
いや違う、
未来とはこれからくるものを指すのだろう?
ときかれる。
返事にこまる。

では過去の方へ行つたのか、ときく。
過去へは戻れない、
そのことはお前と同じだ、という。


がきていた。
遠くからきた、という。
遠くへ行こう、という。



「海辺」

ふるさとは
海を蒲団(ふとん)のように着ていた。

波打ち際(ぎわ)から顔を出して
女と男が寝ていた。

ふとんは静かに村の姿をつつみ
村をいこわせ
あるときは激しく波立ち乱れた。

村は海から起きてきた。

小高い山に登ると
海の裾は入江の外にひろがり
またその向うにつづき
巨大な一枚のふとんが
人の暮らしをおし包んでいるのが見えた。

村があり
町があり
都がある
と地図に書かれていたが、

ふとんの衿から
顔を出しているのは
みんな男と女のふたつだけだつた。



「花」

夜ふけ、ふと目をさました。



私の部屋の片隅で

大輪の菊たちが起きている

明日にはもう衰えを見せる



この満開の美しさから出発しなければならない

遠い旅立ちを前にして

どうしても眠るわけには行かない花たちが

みんなで支度をしていたのだ。



ひそかなそのにぎわいに。

「幻の花」

庭に

今年の菊が咲いた。



子供のとき、

季節は目の前に、

ひとつしか展開しなかつた。



今は見える

去年の菊。

おととしの菊。

十年前の菊。



遠くから

まぼろしの花たちがあらわれ

今年の花を

連れ去ろうとしているのが見える。

ああこの菊も!



そうして別れる

私もまた何かの手にひかれて。

 「島」

姿見の中に私が立つている。

ぽつんと

ちいさい島。

だれからも離れて。



私は知つている

島の歴史。

島の寸法。

ウエストにバストにヒップ。

四季おりおりの装い。

さえずる鳥。

かくれた泉。

花のにおい。



私は

私の島に住む。

開墾し、築き上げ。

けれど

この島について

知りつくすことはできない。

永住することもできない。



姿見の中でじつと見つめる

私――はるかな島。

「えしやく」

私は私をほぐしはじめる。

おさない者に

煮魚(にざかな)の身を与える手つきで



風の中で薄れて流れる雲の方向で

種子(たね)を播(ま)く畑の土を鋤(す)き返す力で

青いりんごが季節を迎え

熟れてゆくあの頃合いで



亡母の手編みのセーターを解いてゆく

古いちいさい形への愛惜で



満ちた月はその先どうするか

飽きることなく教えつづけてくれた

あの方のほうへ会釈して



いまは素直にほぐしはじめる。

「杖突峠」

信州諏訪湖の近くに

遠い親類をたずねた。



久しぶりで逢つた老女は病み

言葉を失い

静かに横たわつていた。



八人の子を育てた

長い歳月の起伏をみせて

そのちいさい稜線の終るところ

まるい尻のくぼみから

生き生きと湯気の立つ形を落とした。



杖突峠という高みに登ると

八ケ岳連峯が一望にひらけ

雪をまとつた山が

はるかに横たわつていた。



冬が着せ更(か)えた白い襦袢(じゅばん)の冷たさ、

衿もとにのぞく肌のあたたかさを

なぜか手は信じていた。

うぶ毛のようにホウホウと生えている裸木

谷間から湧き立つ雲。



私は二つの自然をみはらす

展望台のような場所に立たされていた。

晴天の下

鼻をつまんで大きく美しいものに耐えた。

「冠」

奥歯を一本抜いた

医者は抜いた歯の両隣り

つごう三本、金冠をかぶせた

するとそのあたり

物の味わいばつたり絶え

青菜をたべても枯葉になつた

ああ骨は生きていなければならない

けだものの骨

鳥の骨

魚の骨

みんな地球に生えた白い歯

それら歯並びのすこやかな日

たがいに美しくふれ合う日

金冠も王冠もいらなくて

世界がどんなにおいしくなるか。

「崖」

戦争の終り、

サイパン島の崖の上から

次々に身を投げた女たち。



美徳やら義理やら体裁やら

何やら。

火だの男だのに追いつめられて。

とばなければならないからとびこんだ。

ゆき場のないゆき場所。

(崖はいつも女をまつさかさまにする)



それがねえ

まだ一人も海にとどかないのだ。

十五年もたつというのに

どうしたんだろう。

あの、

女。

「健康な漁夫」

天空に海苔シビのようなものが並び

家ごとにテレビのアンテナが並び。



光や風や水滴の中の

おりのような

こけのような

かすのような

人間の映像がひつかかり

少しづつたまり。



いまや季節の当来。

晴れた日、

寒冷に舟をやつて、

アンテナに生えた海苔のようなものを集め。



人間が食糧として好む、

有名

光栄

満足

等を。

簀(す)にうつすらのべて

干しあがるのを待つている。



向う岸で

赤銅色に焦げている漁夫とその家族。

「仲間」

行きたい所のある人、

行くあてのある人、

行かなければならない所のある人。

それはしあわせです。



たとえ親のお通夜にかけつける人がいたとしても、

旅立つ人、

一枚の切符を手にした人はしあわせです。

明日は新年がくる

という晩、

しあわせは数珠(じゅず)つなぎとなり

冷たい風も吹きぬける東京駅の通路に、

新聞紙など敷き

横になつたり 腰をおろしたりして

長い列をつくりました。



この国では、

今よりもつと遠くへ行こうとする人たちが

そうして待たされました。



十時間汽車に乗るためには、

十時間待たなければ座席のとれないことをわきまえ

金を支払い。



でも、

行く所のある人

何かを待ち

何かに待たれる人はとにかくしあわせ。



かじかんだ手の浮浪者が列の隣りへきて、

横になりました。

大勢のそばなので

彼は今夜しあわせ。

ひとりぽつちでない喜び

ああ絶大なこの喜び。

彼は昨日より

明日よりしあわせ。

何という賑やかな夜!



目をほそめて上機嫌の彼。

やがて旅立つ  誰よりもさき

誰よりも上手にねてしまつた  彼。

「藁」

午前の仕事を終え、

昼の食事に会社の大きい食堂へ行くと、

箸を取りあげるころ

きまつてバックグラウンド・ミュージックが流れはじめる。



それは

はげしく訴えかけるようなものではなく、

胸をしめつける人間の悲しみ

などでは決してなく、

働く者の気持をなごませ

疲れをいやすような

給食がおいしくなるような、

そういう行きとどいた配慮から周到に選ばれた

たいそう控え目な音色なのである。



その静かな、

ゆりかごの中のような、

子守唄のようなものがゆらめき出すと

私の心はさめる。

なぜかそわそわ落ち着かなくなる。

そして

牛に音楽を聞かせるとオチチの出が良くなる、

という学者の研究発表などが

音色にまじつて浮んでくる。



最近の企業が、

人間とか

人間性とかに対する心くばりには、

得体の知れない親切さがあつて

そこに足の立たない深さを感じると、

私は急にもがき出すのだ。



あのバックグランド・ミュージックの

やさしい波のまにまに、

溺れる

溺れる

おぼれてつかむ

おおヒューマン!

「貧しい町」

一日働いて帰つてくる、

家のちかくのお惣菜屋の店先きは

客もとだえて

売れ残りのてんぷらなどが

棚の上に  まばらに残っている。



そのように

私の手もとにも

自分の時間、が少しばかり

残されている。

疲れた  元気のない時間、

熱のさめたてんぷらのような時間。



お惣菜屋の家族は

今日も店の売れ残りで

夕食の膳をかこむ。

私もくたぶれた時間を食べて

自分の糧(かて)にする。



それにしても

私の売り渡した

一日のうち最も良い部分、

生きのいい時間、

それらを買つて行つた昼の客は

今頃どうしているだろう。

町はすつかり夜である。

「落語」

世間には

しあわせを売る男が、がいたり

お買いなさい夢を、などと唄う女がいたりします。



商売には新味が大切

お前さんひとつ、苦労を売りに行つておいで

きつと儲かる。

じや行こうか、  と私は

古い荷車に

先祖代々の墓石を一山

死んだ姉妹のラブ・レターまで積み上げて。



さあいらつしやい、  お客さん

どれをとつても

株を買うより確実だ、

かなしみは倍になる

つらさも倍になる

これは親族という丈夫な紐

ひと振りふると子が生まれ

ふた振りで孫が生れる。

やつと一人がくつろぐだけの

この座布団も中味は石

三年すわれば白髪になろう、

買わないか?



金の値打ち

品物の値打ち

卒業証書の値打ち

どうしてこの界隈(かいわい)では

そんな物ばかりがハバをきかすのか。

無形文化財などと

きいた風なことをぬかす土地柄で

貧乏のネウチ

溜息のネウチ

野心を持たない人間のネウチが

どうして高値を呼ばないのか。



四畳半に六人暮す家族がいれば

涙の蔵が七つ建つ。



うそだというなら

その涙の蔵からひいてきた

小豆は赤い血のつぶつぶ。

この汁粉  飲まないか?

一杯十円、

寒いよ今夜は、

お客さん。



どうしたも買わないなら

私が一杯、

ではもう一杯。

「めくらの祭り」

人は持っている

ふたつの顔。

顔には見鼻だち

からだにも

ひとくみの目鼻だち。

(そのひとくみを

いつからか、人はかくした)

両方の乳房は

見えない眼、

めくらは知っている

みえなくとも何かが在る。



何があるのだろう

ふれながらたしかめる。

ある日

たいかめたものの喜びと悲しみに

女の眼はうるみ

白い涙をとめどなくこぼした。

白い涙で育つ子。



おなかのまんなかにあるちいさいくぼみは

原初の鼻、

鼻は

遠い日母胎の中から

不思議なものを吸い上げてしまつた。

そこから花の匂い

潮の香り

風も光も吹き込んできた、

あのはじめての記憶を

やわらかいヒダのおくに

深くたたみこんでいる。



鼻のしたはくさむら、

女も男も

古い沼のほとりに羊歯(しだ)類を生やし

そのかげで鳴く虫

燃えているたくさんの舌。



舌は知つている、

海のようなテーブルの上に

やがてととのえられるご馳走について。



どこの国にも

ふたつとない果実

どんな料理人もつくりかたを知らない

華麗な晩餐

火の酒。



世界中の人たちが

すべての衣裳を捨てて

その食卓に向かう。



めくらの祭り

祭りの太鼓

熱も色もないかがり火。

「海のながめ」

海は青くない

青く見えるだけ。



私は真紅の海

海には見えないだけ。



生まれたときから皮膚は

からだ全体をおしつつみ

いつも細かく波立つていた。

そして自分の姿

私をとりかこむすべて

岸辺という岸辺に

打ち寄せ打ち寄せてきた。



けれどどんなことをしても

私の波立つ血が私を離れて

あの陸地、

と呼ぶ所にあがることは出来なかつた。



太陽にあたためられる表皮

つかの間の体温

内部にひろがる暗い部分は

冷えた祖先の血の深み。



もういわない、

私が何であるか

食卓でかみ砕いたのは岩

町で語りかけたのは砂

森で抱きしめたのは風

それだけ。



両手を顔にあてれば

いつかはげしく波立ちはじめる、

落日の中

暮れてゆく

みえなくなる

女。

「土地・家屋」

ひとつの場所に

一枚の紙を敷いた。



ケンリの上に家を建てた。



時は風のように吹きすぎた

地球は絶え間なく回転しつづけた。



不動産という名称はいい、



「手にいれました」

という表現も悪くない。



隣人はにつこり笑い

手の中の扉を押してはいつて行つた。



それつきりだつた

あかるい灯がともり

夜更けて消えた。



ほんとうに不動のものが

彼らを迎え入れたのだ。



どんなに安心したことだろう。

「鬼の食事」

泣いていた者も目をあげた。

泣かないでいた者も目を据えた。



ひらかれた扉の奥で

火は

矩(く)形にしなだれ落ちる

一瞬の火花だつた。

行年四十三才

男子。



お待たせいたしました、

と言つた。



火の消えた暗闇の奥から

おんぼうが出てきて

火照(ほて)る白い骨をひろげた。



たしかにみんな、

待つていたのだ。



会葬者は物を食う手つきで

箸を取り上げた。



礼装していなければ

恰好のつくことではなかつた。

「経済」

買ってきた一束の花を

紐でくくつて逆さにつるす。

流通のいい所、冷房の風が吹きぬける天井の近くに。



彼女は笑いながら言う。

こうして乾くのを待つの、

すると――

するとどうなる?

花はしぼまない、

花は色あせない。

咲いている花の姿のままで

いのちだけが吹きぬけてゆく。

いま流行の

キレイで経済的なドライフラワーが

どつさりできる。



熱気に満ちた外界の夏をよそに

そこは本当に設備のととのつた

涼しい



大会社の

女子社員控室の

頭の上のあたりで

やがてすつかり乾き

目的通り出来あがつた花が

通常の位置に返り咲くと。



こんどは逆さにぶるさがり、

揺れながら笑っているのは彼女たちだ。

あの新しい花をつくつた

手先きをヒラヒラさせて。

「愚息の国」

あなたはどなたでいらつしやいますか。



ロケットが、もう月の世界にとどいている

一九六〇年の一月一日

新聞をひらけば

我が子を「日の御子(みこ)」と呼んで

その結婚をことほぐあなたの歌がのせられている。



元来つつしみ深い日本の庶民たちは

賢い子供も愚息と呼び

トン児などと言い捨ててきた。



正月気分で街に出れば

年令はこの国の皇太子がらみ

丈高く面影うつくしい若者がいて

片手に大きなプラカードを持ち

さあいらつしやい、遊んでらつしやい

おたのしみはこちら。



指さす戸口にはパチンコ屋の騒音が

チンチンじやらじやらとあふれでている。

これはどなたの御子、か。



晴着を持たないひとりの女が外から帰り

すり切れた畳の部屋で

「ついこの間

一杯の塩もない新年があつた」

と呟きながら

餅焼網で餅を焼けば

白い餅よりもたいかな手ざわりで

喜びはかなしみに

愛はいかりに 裏返され。



しかも家族はめでたくて

地続きに住む雲上人の御慶事に

目を輝かせているばかり。



日、とは抽象。

御子、は尊称。



そこぬけに善意の御方とうかがえば

善とは何でありましょう。



あなたはどなたでいらつしやいますか。

「カッパ天国」

そこで、お勤めのほうはいかがですか

と、きた。



「重いですよ、月給が」



多すぎて重いですか、とはさすがに

きかなかつた。



無い、と生きてゆけない

その重たさ、だ。



どれはごく、うすでの枯葉色の

紙製品で、私の生活をつつむ

ただ一枚の衣裳で

いわば、かっぱの背にはりついているアレ。



精神の恥部はまるだしで

顔に化粧するご愛嬌。

このへん、みんなカッパだから

まあいいや。



(ひよつとすつと人間は、どこかの寓話の川のほとりに、すんでいる

かもしれないな)



私はにつこり笑つて

いつた

とてもいい所なんです。



ある日、遠くからきた新聞記者に答えたこと。

「銭湯で」

東京では

公衆浴場が十九円に値上げしたので

番台で二十円払うと

一円おつりがくる。



一円はいらない、

と言えるほど

女たちは暮らしにゆとりがなかつたので

たしかにつりを受け取るものの

一円のやり場に困つて

洗面道具のなかに落としたりする。



おかげで

たつぷりお湯につかり

石鹸のとばつちりなどかぶつて

ごきげんなアルミ貨。



一円は将棋なら歩のような位で

お湯のなかで

今にも浮き上がりそうな値打ちのなさ。



お金に

値打ちのないことのしあわせ。



一円玉は

千円札ほど人に苦労もかけず

一万円札ほど罪深くもなく

はだかで健康な女たちと一緒に

お風呂などにはいつている。

「公共」

タダでゆける

ひとりになれる

ノゾキが果される、



トナリの人間に

負担をかけることはない

トナリの人間から

要求されることはない

私の主張は閉(し)めた一枚のドア。



職場と

家庭と

どちらもが

与えることと

奪うことをする、

そういうヤマとヤマの間にはさまつた

谷間のような

オアシスのような

広場のような

最上のような

最低のような

場所。



つとめの帰り

喫茶店で一杯のコーヒーを飲み終えると

その足でごく自然にゆく

とある新築駅の

比較的清潔な手洗所

持ち物のすべてを棚に上げ

私はいのちのあたたかさをむき出しにする。



三十年働いて

いつからかそこに安楽をみつけた。

石垣りん

「ひとり万才」

新年!

と言つてみたところで

それは昨日の今日なのだ。

別段のこともあるまいと

寝正月を決めれば

蒲団の衿のあたりから

新年らしいものがはいり込んできて

何となくそんな気分になつてしまう。



習慣とか

しきたりとか

常識とか

それらは木や石でこしらえた家より

何倍かがつちり仕組まれていて

人間共の心の住処(すみか)になつている。



だから

正月といえば

正月らしい気分になり

今夜は是非とも良い初夢を見よう、などと

夢のような期待を

自分にかけたりする。



それ、

それほどの目出度(めでた)さで

新年という

あるような

ないようなものがやつてくる

地球の上の話である。

「弔詞」

職場新聞に掲載された105名の戦没者名簿に寄せて



ここに書かれたひとつの名前から、ひとりの人が立ちあがる。



ああ あなたでしたね。

あなたも死んだのでしたね。



活字にすれば四つか五つ。その向こうにあるひとつのいのち。悲惨にとぢられたひとりの人生。



たとえば海老原寿美子さん。長身で陽気な若い女性。一九四五年三月十日の大空襲に、母親と抱き合って、ドブの中で死んでいた、私の仲間。



あなたはいま、

どのような眠りを、

眠つているだろうか。

そして私はどのように、さめているというのか?



死者の記憶が遠ざかるとき、

同じ速度で、死は私たちに近づく。

戦争が終つて二十年。もうここに並んだ死者たちのことを、覚えている人も職場に少ない。



死者は静かに立ちあがる。

さみしい笑顔で

この紙面から立ち去ろうとしている。忘却の方へ発(た)とうとしている。



私は呼びかける。

西脇さん、

水町さん、

みんな、ここへ戻つて下さい。



どのようにして戦争にまきこまれ、

どのようにして

死なねばならなかつたか。

語つて

下さい。



戦争の記憶が遠ざかるとき、

戦争がまた

私たちに近づく。

そうでなければ良い。



八月十五日。

眠っているのは私たち。

苦しみにさめているのは

あなたたち。

行かないでください 皆さん、どうかここに居て下さい。

「唱歌」

みえない、朝と夜がこんなに早く入れ替わるのに。

みえない、父と母が死んでみせてくれたのに。



みえない、

私にはそこの所がみえない。

               (くりかえし)

「家出のすすめ」

家は地面のかさぶた

    子供はおできができると

    それをはがしたがる。



家はきんらんどんす

    馬子にも衣裳

    おかちめんこがきどる夜会。



家は植木鉢

    水をやつて肥料をやつて

    芽をそだてる

    いいえ、やがて根がつかえる。

家は漬け物の重石

   人間味を出して下さい

   まあ、すつぱくなつたこと。



家はいじらしい陣地

   ぶんどり品を

   みなはこびたがる。



家は夢のゆりかご

   ゆりかごの中で

   相手を食い殺すかまきりもいる。



家は金庫

   他人の手出しはゆるしません。



家は毎日の墓場

   それだけに言う

   お前が最後に

   帰るところではない、と。



であるのに人々は家を愛す

   おお、愛。



愛はかさぶた

   子供はおできができると

    ………。



だから家をでましょう、

みんなおもてへでましよう

ひろい野原で遊びましよう

戸じまりの大切な

せまいせせまい家をすてて。

「干してある」

私の肩にかかる

ふんわりとやさしいものが

よせてくる波打ち際(ぎわ)

なんべんも溺れて解けて

消えて生れる。

意識というもの

記憶というもの

あたたかい波の

きれぎれの海岸線に沿つて、

夫婦という町

兄弟という町

親子という町

恋人という町

その入江にひろがる

夜の深さ

夜明けのうすあかり。

ふとんはひろがる

いのちの半分

こころの半分

世界の半分

太陽が月にかぶせる

あの遠い半分の影のように。

浅く深く

かたくおもく

やがて呑む、

うめたくはげしく

全部の町

全部の人

ふとんの中の魚

ふとんが打ち上げる貝殻

たえまない饒舌

白い歯。



ふとんが空にいちまい。

「母の顔」

家は古い

死んだ母親が住んでいる。



どの新しいと呼ばれる家庭にも

母親がひとり。



働き者で

料理好きで

掃除好きで

洗濯好きで。



若い嫁がシチューをつくるそばで

赤ん坊の指を伸ばしたりしている

死んだ母親。



私は見た。

廊下を拭くため

人間のハラワタをしぼつているのを。



少年の肌は

死んだ母親が洗つている間に黄ばんでくる。



うつかりしていると

みんな片付けられて

その辺がせいせいしている。



やさしく、残酷な

生きている母たちの本当の母親。

死んだ母親。



家はどこもたいそう古い。

「ちいさい庭」

老婆は長い道をくぐりぬけて

そこへたどりついた。



まつすぐ光に向かつて

生きてきたのだろうか。

それともくらやみに追われて

少しでもあかるい方へと

かけてきたのだろうか。



子供たち――

苦労のつるに

苦労の実がなつてだけ。

(だけどそんなこと、

人にいえない)



老婆はいまなお貧しい家に背をむけて

朝顔を育てる。

たぶん

間違いなく自分のために

花咲いてくれるのはこれだけ、

青く細い苗。



老婆は少女のように

目を輝かせていう

空色の美しい如路(じょろ)が欲しい、と。

「童謡」

お父さんが死んだら

顔に白い布をかけた。



出来あがつた食事の支度に

白いふきんがかけられるように。



みんなが泣くから

はあん、お父さんの味はまずいんだな

涙がこぼれるほどたまらないのだな

と、わかつた。



いまにお母さんも死んだら

白い布をかけてやろう

それは僕たちが食べなければならない

三度のごはんみたいなものだ。



そこで僕が死ぬ日には

僕はもつと上手に死ぬんだ

白い布の下の

上等な料理のように、さ。



魚や 鶏や 獣は 

あんなにおいしいおいしい死にかたをする。

「生えてくる」

私の家はちいさいのに暮らしが重い。

二本の足で支えているのに

屋根がだんだんずり落ちてくる。



しかたがないので

希望とか理想とか

幸福とかいうもの

それらの骨格のようなものを

ひとつずつぬき捨て

ついに背景までひきぬいていまい

わたしのからだはぐにゃぐにゃになつていまい。



どうぞこの家、

過去のしがらみ、

仏壇ばかりにぎやかに

仏壇の中に台所まであり

毎日の料理もそこでつくられる

その味わいの濃さ

血の熱量に耐えられますように

と両手のなかで祈るうち。



私の同体からは

タコみたいな足が生え

四本も五本も生え

八本にもなって。

さあこれでどうやら支えられると安堵したら

その足を食べにくる

見たような顔をした不思議な人間。



あなたは?

と聞けば

親だという

誰々だという

忘れたの?

という。



私は首をふつて涙をこぼす、

いいえ

私の同族ではない、

私はタコです、人間ではない。



けれどタコの気持は人間に伝わらなくて

八本の足が食べられる

きのう一本、今日一本。



悲しまぎれに

六本足をたべられた、

と言いふらしたら

人間の足はもともと二本

二本足の人間なら

言つてならないことがある。



と、私を愛する家族がいう。

口をとがらせてみても

吸いこんでみても

広い、深い

正真正銘の愛というものが



海のようにとりまくので

かぎりなくとりまくので

私の足は減つたところから

またどうにか食べられそうな恰好で

生えてくる。

石垣りん詩集「表札など」完結

三太郎音頭





三太郎音頭 歌詞

歌:浦島太郎(桐谷健太)
作詞:篠原誠 作曲:馬飼野康二

(アッソレ アッヨイショ)
ハ~
好きに踊れば 三太郎音頭
パッカーンと夜空も 雲晴れて
団子食べたら お供だね
(ソレ)
どんどどんどん ドンブラコ
どんどどんどん ドンブラコ
どんどどんどん ドンブラコ
どんどどんどん ドンブラコ

(アッソレ アッヨイショ)
ハ~
君と踊れば 三太郎音頭
ズギューンと心が 奪われて
箱を開けたら おじいさん
(ソレ)
はんははんはん ハンパねぇ
はんははんはん ハンパねぇ
はんははんはん ハンパねぇ
はんははんはん ハンパねぇ

(アッソレ アッヨイショ)
ハ~
みんな踊れば 三太郎音頭
まさかり担いで 相撲とる
別の名前は かね太郎
(ソレ)
はっけよいよい はっけよい
はっけよいよい はっけよい
はっけよいよい はっけよい
はっけよいよい はっけよい

…………………………

 スマートフォン「au」のCMソング「三太郎音頭」が、全国各地の盆踊り会場で採用され人気を集めている。“三太郎シリーズ”と呼ばれるCMで流れているもので、俳優の桐谷健太(37)がCMで演じている「浦島太郎」の名義で発表した曲。

 6月に放送が始まると、桐谷の個性的な野太い声とシンプルで明るい曲調がマッチし、たちまち話題に。先月30日に東京・中野で行われた「中野駅前盆踊り大会」や同30、31日に東京・青山の善光寺で行われた盆踊りなど、都内有数の規模を誇る大会で続々と使用された。

 今月5日には桐谷が、今年初開催となった、渋谷駅前スクランブル交差点を封鎖しての「渋谷盆踊り大会」にサプライズで登場。「踊るアホウに見るアホウ、同じアホなら踊らにゃ損ですからね!渋谷の皆さんの力で最高の夏にしましょう」と「三太郎音頭」を熱唱。スクランブル交差点は興奮に包まれた。

 熱狂的に支持されている要因は、CMで広い層になじまれていることとともに、踊りが比較的覚えやすいことだ。公式ホームページには踊り方が動画で紹介されており、曲が今月4日に配信限定でリリースされると反響が加速。保育園や幼稚園など、子供向けの盆踊りでも、多数の会場で使われ始めた。

 桐谷は昨年、同じくauのCMで使われた「海の声」で大みそかの「NHK紅白歌合戦」に初出場。「三太郎音頭」も子供から高齢者まで広い世代に支持されて盛り上がっていることから、連続出場の可能性も高まってきている。関係者は「ここまでの反響は予想外。今年はNHKホールにやぐらを建てられたら」と話している。

三すくみ

(ガマの妖術)市川猿之助の天竺徳兵衛

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 映画やテレビ、ましてインターネットなどなかった江戸時代、芝居見物は庶民にとって最高の楽しみでした。娯楽のあふれる現在でも、歌舞伎の舞台を見ていると、究極のエンターテインメントを目指した当時の芝居関係者の心意気を感じることができます。超常現象を舞台上でどう見せて客をあっと言わせるか、作者や裏方たちは、日夜工夫に明け暮れていたのです。
 「東海道四谷怪談」で知られる四世鶴屋南北は遅咲きの狂言作者でした。50歳で書いた出世作「天竺徳兵衛韓噺(てんじくとくべいいこくばなし)」の初演は1804(文化元)年7月の江戸・河原崎座でした。客入りの悪い夏場を乗り切ろうと、小屋主が座頭の初代尾上松助に出演を頼み、松助の指名で南北が初めて新作を書いたのです。芝居は、さまざまな仕掛けをほどこした「ケレン」と呼ばれる演出が評判を呼んで大当たりとなり、主役の徳兵衛を演じた松助は、毎夏の盆狂言で上演される怪談ものには欠かせない人気役者となりました。
 天竺徳兵衛というのは、江戸時代初期に実在した商人です。少年時代から朱印船に乗ってベトナムやシャム(タイ)に渡航、さらにオランダ人ヤン・ヨーステンと天竺(インド)に渡ったことから「天竺徳兵衛」と呼ばれるようになりました。鎖国令が出された以降は見聞録を書き、珍しい異国のありさまを伝えています。死後、歌舞伎や浄瑠璃に取り上げられた徳兵衛は、キリシタンと結びつけられ、ガマの妖術を使って日本転覆を志す悪人として描かれました。ご本人には気の毒ですが、鎖国下の人々には「キリシタン=妖術使い」という怪しいイメージがあったのでしょう。
 南北の名を世に知らしめた「韓噺」は、徳兵衛を描いたさまざまな先行作を集大成した芝居です。屋体崩しの屋根の上に、火を噴く大ガマに乗って現れ、舞台上の池の水に飛び込み、すぐに裃(かみしも)を着た使いに化ける早替わりを見せるなどで人々をあっと驚かせました。水中の早替わりがあまりに鮮やかなので、「キリシタンの妖術を使っているらしい」といううわさが江戸市中に広まり、奉行所の役人が調べに来る騒ぎとなって、それがまた人気に火を付けました。実はそのうわさは、芝居関係者がわざと広めたのだそうで、あざとい宣伝は江戸の昔も今と変わらないようです。
 天竺徳兵衛の正体は、朝鮮国王の臣下、木曽官(もくそかん)の息子大日丸。日本に潜入して吉岡宗観と名を変えていた父からガマの妖術を譲り受け、切腹した父の思いを受け継いで日本転覆を目指します。奇想天外、荒唐無稽なお話ですが、序幕では、厚司(あっし)という蝦夷(えみし)模様の入ったエキゾチックな衣装を着た徳兵衛が、珍しい異国の話をするのが見どころです。天竺の話ですが、ここは当て込みで現代の話題を話してもいいというのが歌舞伎の約束で、オバマ大統領やワールドカップなどの話も出てきます。
 次の見どころは追っ手に取り囲まれた徳兵衛が、ガマに乗って大屋根に現れる大スペクタクル。その場を逃れた徳兵衛は、今度はガマに変身して水門に現れ、立ち回りを演じます。花道でガマのぬいぐるみを脱ぎ、元の姿に戻った徳兵衛は六方を踏んで花道を引っ込むのですが、主役がぬいぐるみを着て出るのも歌舞伎では珍しい演出です。大詰めでは、座頭に化けた徳兵衛が現れて木琴を演奏しますが、正体を見破られると水に潜って姿を消し、すぐに上使の姿に変わって現れる早替わりを見せます。
 動物を使った妖術というと「伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)」の悪役、仁木弾正が使うネズミの妖術などが知られていますが、ガマの妖術が広まったのは「天竺徳兵衛」以降のことで、絵双紙などに盛んに描かれました。幕末に人気を集めた「児雷也」は、主人公の児雷也がガマの妖術を使って活躍する話で、現代のマンガにも影響を与えています。舞踊劇「将門」に登場する平将門の娘、滝夜叉姫は、筑波山でガマ仙人から妖術を授かり、大宅太郎光圀と戦う幕切れで、屋体崩しの中を大ガマとともに現れます。
 ガマ仙人は中国由来の伝説ですが、キリシタンと結びつけられたのは、近松門左衛門が天草四郎をガマの妖術使いとして描いたのが始まりのようです。徳兵衛はガマの妖術で「南無さったるまグンダリギャ、守護聖天、はらいそはらいそ」と呪文を唱えますが、これはキリシタンの祈とう(オラショ)から来たのだと言われています。ガマの妖術は、巳の年月日時刻のそろった女性の生血で破れますが、ガマと蛇は相争う関係で、こうした話は数多く残されています。
 「天竺徳兵衛韓噺」は、松助から養子の三代目尾上菊五郎に受け継がれ、音羽屋(菊五郎家)の家の芸となりました。これとは別に、二代目市川猿翁(三代目猿之助)が別の怪談話を加え、宙乗りやつづら抜けなどケレンを増やした「天竺徳兵衛新噺(いまようばなし)」を近年上演し、当代の猿之助にも受け継がれています。


…………………………
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中日春秋 8/16

紙、はさみ、石ではなく、江戸期に蛇、カエル、ナメクジのじゃんけんが流行したのは歌舞伎「天竺徳兵衛韓噺(てんじくとくべえいこくばなし)」の大当たりによる。芝居に出てくる大ガマが評判になった影響と聞く。蛇はカエルにカエルはナメクジに勝つ。最も弱そうなナメクジは蛇を溶かし勝つ。三すくみの関係が成立し、じゃんけんとなる。

東京タワーにほど近い、東京都港区の宝珠院。このお寺にその三すくみの蛇、カエル、ナメクジがいる。といっても石像や彫刻でそれぞれが、にらみあっている。

どうも不思議である。「三すくみ」と聞けば、物騒なにらみ合いを思い浮かべ、あまり、ありがたいものには思えぬが、お寺の見方は違うらしい。

三すくみであろうとにらみ合いであろうと物事が動かぬ状態は平和ではないか。そういうお考えである。なるほど。内心ではどう思っていようと動きさえしなければ、最悪の事態には発展しない。

三すくみではないが、にらみ合う米朝にこちらはすくむばかりである。攻撃すれば、待つのは反撃であろう。お寺の「三匹」が意を決しそれぞれに飛びかかったらを想像するまでもない。

ミサイル発射をちらつかせ、強気一辺倒だった北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長が十四日、やや軌道修正し「米国の行動を見守る」と発言した。決して楽観はしない。だが、その言葉が、賢き「すくむ」の兆しであることを願う。

八月十五日男

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俘虜記/大岡昇平のあらすじ

 神戸の造船会社で事務員をしていた35歳の「私」は、建艦状況を見て日本の敗北を確信していた。1944年(昭和19年)3月に召集され、フィリピンに送られた。1945年(昭和20年)1月25日、ルソン島の西南に位置するミンドロ島(大きさは四国の半分ほど)の山中において米軍の捕虜になった。ミンドロ島の守備隊のほとんどは、昭和19年に召集され、3か月の訓練の後に島に送られた補充兵だった。

 「私」は、マラリアにかかって弱り、部隊から見捨てられ、自決するためにピンを抜いた手榴弾が不発で、水を求めてさ迷った末に米軍の捕虜となった。「私」は、山道は両脇を米兵に支えられて歩き、ふもとに降りてからは担架に乗せられて運ばれた。「私」は、「文明国の俘虜となったこと」を知った。

 サンホセの野戦病院に収容され、米兵から「フジヤマ」と「ゲイシャ」について質問責めにされた後、レイテ基地俘虜病院に収容された。

 レイテ基地俘虜病院では、米兵は気を利かしてたばこの吸い残しを、患者が拾いやすい場所に投げ捨てたりしたが、日本人の捕虜の中から選ばれた食事配膳係などは粗暴が不親切で、横領など「あらゆる日本軍隊の悪習を継承していた」。

 「私」はたまたま病院を訪れた従軍牧師から「新約聖書」をもらいうけ、20年ぶりに読み返した。米兵から興味を持たれ、クリスチャンなのか、どこで英語を学んだのかなどを尋ねられた。

 レイテ基地俘虜病院が約2キロ南の村に移動し、約2か月を過ごした後、退院。病院車で、タナワンという村にあるという収容所に移送された。ベッドにはホコリがたまり、毛布が汚れ、用便は小屋の隅に置かれたバケツに足すという不潔で不衛生な環境になり、「また日本軍隊の匂いが濃くなってきた」。

 昭和20年3月中旬、レイテ島の俘虜収容所に入った。

 「決定的な敗軍から生き残った兵士のみより成った収容所では、既に日本精神は存在し得なかった」という。「私」は英語を教えるなどによって親しくなった病棟の衛生兵から事務用紙をもらい、薬品の空箱の段ボール紙の表紙といっしょに包帯でとじて、鉛筆で、帰還するまでに「大小説のシナリオ化」も含めて11編のシナリオを書いた。「かつて私はこの時ほど独創的であったことはない。多くのものが一晩か二晩で連続して書かれ」た。

 戦局は悪化し、4月には米軍が沖縄に上陸。6月から7月にかけて新収容所に移動したりしたが、捕虜たちは、新しいシャツと猿股を着て、チューインガムを噛み、煙草を吸い、労働に従事した際は賃金が積み立てられ、「単にカロリーにおいて十分であるばかりではなく、生活の快適においても、日本の戦時的市民生活より遥かにましになっていた。我々は一段と落着き払って来た」。

 捕虜の中のリーダー的存在である本部にいる「日本人収容所長」に選ばれたのは、今本(米兵は「イマモロ」と呼ぶ)という自称曹長の十六師団上等兵。今本の下には織田(米兵は「オラ」と呼ぶ)という兵曹がいた。

 今本は英語を理解しなかったが、米軍がいったんきめた代表者を変更することをめんどうくさがったために、その地位が存続。今本の役割は、米軍収容所長の指令を捕虜に徹底させることと、捕虜に不平や不満がある場合に代表して申し立てることだった。が、「この後の方の任務は殆ど実行されることがなかった」。

 今本は、食料分配でも古参の捕虜に多く分配し、山中をさまよい続けていたために栄養を必要としていた新米捕虜には食料をしっかりと分配しないなどした。しかし、中隊ごとに米兵が管理者として付くようになると、今本の存在意義が薄れ、権益を取り戻そうと躍起なった。そんな今本を、捕虜たちはおもしろがって無視した。今本は中隊の捕虜たちを「お前ら」ではなく「あんた方」と呼ぶようになった。

 中隊付きの管理者たちは日本兵捕虜を刺激しないよう特命を受けており、捕虜の前では、昭和天皇を必ず、「ヒロヒト」ではなく「エンペラー」と呼んだ。

 収容所で「私」は、南京の「暴兵」が語る、南京郊外の堤防上で着物を裂かれた半裸の女が放心したように足を投げ出して柳の幹に背をもたせかけていた光景を聞き、その光景の凄惨さではなく、その光景を語る「暴兵」の「平静な態度」に驚いた。セブで部隊と行動を共にした女性の従軍看護婦たちが、職業的従軍慰安婦ほど酷い扱いではなかったものの、1日に1回、兵士の性処理の相手をしないと食料を与えられなかったという。

 「私」は、米軍が捕虜に自国の兵士と同じ給与を与え、一方では、兵站が完備していたために捕虜を使役する余地がなかったことが「多分我々の堕落の原因」と分析。ある捕虜はベッドの下に穴を掘り、ドラム缶をすっぽり一つ隠して、その中にスウェター、手袋、化粧品から米軍の女子兵士用の生理用品まで、盗んできたありとあらゆるものを隠し、それを発見した米兵を感嘆させたりした。

 広島に原子爆弾が投下され、ソ連が参戦し、長崎にも原子爆弾が投下され、日本は降伏した。

 日本が降伏した1時間後の旧日本軍捕虜の状態は「要するに無関心の一語に尽きる」。今本のいる大隊本部からは、確報のあるまで軽挙妄動を慎むことや、特に団体行動は戒しむことなどの注意事項が出された。捕虜たちは「自殺すべからず」という事項を見て「大いに笑った」。

 レイテ戦から終戦までの間、「私」の知る限り、収容所からの脱走事件は1件しかなかった。

 終戦時、既に捕虜になっていた者はレイテ島第一収容所には7個中隊2000名がいたが、9月中旬からは終戦後に武装解除された者たちが入り、中隊の数は11個に増えた。新しく捕虜になったある元少尉は、捕虜たちの堕落した姿を見て「貴様等何故腹を切らんか」などと怒鳴りつけたが、「何だと。ただ山ん中逃げ廻ってやがった癖に、大きなことをいうな。憚りながら俺達は最前線に出たばっかりに負傷して、止むを得ず捕虜になったんだ」などと怒鳴り返された。

 古参の捕虜たちは、錆びて止まってしまった懐中時計や腕時計も内地に持ち帰り修理すれば動くことを知っていたため、飢えていた新しい捕虜たちから、たばこや缶詰と交換という形で巻き上げ、古参捕虜の多くが得意になって腕時計を付け始めた。

 「私」は、同朋の間で食料を分け合わず、さらに、「残酷な交易」に従事したものの多くがおとなしい捕虜であることに悲しんだが、そばにいた中隊長から、「奴等の持っている時計がそもそも怪しい代物なんだ」(=兵士の遺品かフィリピン人からの強奪品)などと諭された。

 「私」は、「『これが軍隊』なのではなく、『これが世間』なのである」と記した。

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中日春秋 8/15

「俘虜記(ふりょき)」などの作家、大岡昇平さんは自分のことを「八月十五日男」だと『成城だより』の中に書いている

こういう意味だ。八月十五日が近づくと、新聞から終戦記念日に当たっての感想やコメントの依頼が殺到する。したがって「八月十五日男」であり「手頃なマスコミ・フィギュア(人形)と化せしものの如し」

お書きになったのが一九八二年八月。当時よほどひっぱりだこだったのだろう。困惑はごもっともとはいえ、生身の体験として戦争はいやだときっぱりと語ってくれる「八月十五日男・女」の声がどうしても必要である。

怖かった。痛かった。悲しかった。その声はいかなる反論も戦争の美化も許さぬ現実である。その声は戦いに向かいたがる足をためらわせ続けてきたはずである。

「空襲で弟の手を離してしまった。今でも胸が痛い」「上級生が描いてくれた食べ物図鑑で空腹をまぎらわせた」。最近の新聞の発言欄で読ませていただいた。「八月十五日男・女」の声は今なお健在とはいえ、「戦後生まれ」は総人口の八割を既に超えている。生身の声は、か細く、やがては消えてしまう。戦争に向かう足にすがり、食い止めていた手が失われることになるまいか。それをおそれる。

声を聞く。覚える。真似(まね)でよい、口にする。それならば「八月十五日子ども」や「八月十五日孫」にもできる。声は消えぬ。


故郷へ帰りたい



中日春秋 8/14

米カントリー歌手ジョン・デンバーの「故郷へかえりたい」は一九七一年のヒット曲で日本でもおなじみだろう。「カントリー・ロード」と呼んだ方がピンとくるか。望郷の歌である。

歌詞にウェストバージニアと出てくる。この縁でウェストバージニア州歌の一つになったそうだが、歌われるブルーリッジ山脈、シェナンドー川はいずれもウェストバージニア州というよりもお隣のバージニア州に大部分がかかっている。作詞者は地元出身ではなく、勘違いした可能性もあるそうだ。

そのシェナンドー渓谷にほど近く、世界遺産も抱えるバージニア州シャーロッツビルでの痛ましい事件である。白人至上主義者とこれに抗議する人々が衝突。猛スピードの車が抗議の声を上げていた人々に突っ込んで、女性一人が死亡。十九人が負傷した。

独立宣言起草のトーマス・ジェファソン大統領ゆかりの地。落ち着きある歴史の町に人種対立の血が流れた。

「家に帰れ」。州知事が白人至上主義者を厳しく非難したのに対し、トランプ大統領はどうも腰が定まらぬ。白人至上主義者を最後まで名指しせず「すべての側からの憎悪、偏見、暴力を非難する」。これでは差別への抗議者も悪いかのように聞こえる。

自分の支持層への配慮らしい。差別する者。それに目をつぶるかのような国のリーダー。望郷のあの温かい歌がうまく重ならぬ。

彗星


「ジャコビニ彗星の日 」

歌:松任谷由実
作詞:松任谷由実作曲:松任谷由実

夜のFMからニュースを流しながら
部屋の灯り消して窓辺に椅子を運ぶ
小さなオペラグラスじっとのぞいたけど
月をすべる雲と柿の木ゆれてただけ

72年 10月9日
あなたの電話が少いことに慣れてく
私はひとりぼんやり待った
遠くよこぎる流星群

それはただどうでもいいことだったのに
空に近い場所へでかけてゆきたかった
いつか手をひかれて川原で見た花火
夢はつかの間だと自分に言いきかせて

シベリアからも見えなかったよと
よく朝弟が新聞ひろげつぶやく
淋しくなればまた来るかしら
光る尾をひく流星群

…………………………

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談話室 8/13

少し切ない恋心を歌う松任谷由実さんの「ジャコビニ彗星(すいせい)の日」は、詞の中に1972年10月9日という具体的な日付が唐突に出てくる。流星群が大出現するとの予想に日本中が沸いたものの、空振りだった日である。

流星の正体は、彗星が通った後に川のように残された大量の塵(ちり)だ。その塵でできた川と地球の軌道が年に1度交差する夜が流星群となる。ジャコビニ流星群は後年、太いと思われていた塵の川が実は細い川の集まりで、川と川の隙間を地球がするりと抜けたことが判明した。

国立天文台副台長の渡部潤一さんも小学生だった45年前、流星群を待ちながら会津若松市の夜空を眺めていた。予想の大外れで逆に、謎に満ちた宇宙への興味をかき立てられ天文学者になったそうだ。あの夜、流星群が出現しなかった謎を自らの手で解き明かした人である。

さてペルセウス座流星群は昨晩からきょう未明が出現ピークだった。県内は曇りや雨で観測条件は厳しかったようだが、この流星群は天気さえ良ければ観測チャンスがまだ数日は続くという。夏休みの一夜、親子でわくわくしながら流れ星を待つだけでもいい思い出になる。


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・ペルセウス座流星群とは

ペルセウス座流星群は毎年8月12日、13日頃を中心に活動する流星群です。

ペルセウス座流星群は、とても観察しやすい流星群です。

毎年、ほぼ確実に、たくさんの流星が出現することがその理由のひとつです。1月の「しぶんぎ座流星群」、12月の「ふたご座流星群」とともに「三大流星群」と呼ばれています。条件が良ければ最大で40個以上の流星を見ることができます。

また、流星群の活動期間が多くの方の夏休みやお盆休みに重なっているため、夜更かしをしやすかったり、星のよく見える場所に行きやすかったりすることも理由に挙げられます。

さらに、「しぶんぎ座流星群」と「ふたご座流星群」の活動は寒い冬の時期に当たりますが、ペルセウス座流星群の活動は夏の盛りに当たりますので、観察時の寒さについてあまり心配する必要がありません。

・ペルセウス座流星群を観察するために

今年のペルセウス座流星群を観察するのに役立つ情報をまとめました。

・観察に適した時期

・観察に適した日

8月12日から13日にかけての夜に最も多くの流星が見られそうです。

また、13日から14日にかけての夜も、ある程度の数の流星が出現すると考えられます。

2017年のペルセウス座流星群の極大は、日本時間の8月13日4時頃と予想されています。その頃ちょうど日本ではペルセウス座流星群の放射点が高く昇り、多くの流星が出現することが期待されます。そのため、12日から13日にかけての夜は、最も多くの流星を見ることができそうです。
また、極大からは時間的に少し離れてしまうために極大の夜ほどではありませんが、13日から14日にかけての夜も、ある程度の数の流星が出現すると考えられます。

ただ、いつ晴れるかはわかりませんし、予想外のタイミングで流星が活発に出現する可能性もあります。上記の予想にあまりとらわれず、なるべく長い時間、そして長い期間観察を続けてみてください。長く観察すれば、それだけ流星を見るチャンスが増えることになります。

8月7日頃から15日頃までは、ペルセウス座流星群の活動が比較的活発な状態が続いているため、普段より多くの流星を見ることができると考えられます。出現する流星の数は、極大から日が離れるほど少なくなります。
また、ペルセウス座流星群の全活動期間はさらに長く、7月17日頃から8月24日頃まで続くと考えられています。

・観察に適した時間帯

なるべく、夜半から未明までの間に観察するのがよいでしょう。

(流星群自体の活動が一定であれば)流星群の放射点の高度が高いほど多くの流星が出現します。ペルセウス座流星群では、時間帯ごとの流星の出現状況は、おおよそ次のようになります。

21時前放射点がまだ地平線近くの低い位置にあるため、流星はあまり出現しません。21時過ぎから夜半まで放射点の高度が徐々に上がり、流星が出現し始めます夜半から未明まで放射点の高度は高くなり続け、未明に最も高くなります。放射点の高度が高くなるにつれて出現する流星の数も多くなっていき、空が明るくなり始める前に最も多くの流星が出現します。

・月明かりの影響

極大の前後数日間は、観察に適した時間帯に明るい月が見えています。なるべく月が視界に入らないようにして観察しましょう。

今年は、8月8日が満月、15日が下弦です。出現する流星の数が多くなると考えられる13日頃を含む数日間は、観察に適した時間帯にさしかかる夜半前には月が昇ってきます。下弦前の月は明るく、月が出ている間は、暗い流星は月明かりにまぎれて見ることができません。月は夜が明けるまで沈みませんので、今年は月明かりを避けることはなかなか難しいでしょう。

今年のように月明かりがある場合には、月がなるべく視界に入らない方向を向いて観察をするとよいでしょう。また、月明かりに負けないくらい明るい流星が現れることを期待しましょう。

月の出入り時刻は、国立天文台暦計算室の「こよみの計算(CGI版)」で調べることができます。


・見える流星の数

夜空が十分に暗い場所で観察すれば、最も多いときには、1時間当たり35個程度の流星を見ることができると考えられます。
これは、(月が出ていなければ肉眼で5.5等星まで見えるような)夜空が十分に暗い場所で観察した場合を想定しています。

街明かりの中で観察したり、極大ではない時期に観察したりした場合には、見ることのできる流星の数が何分の1かに減ってしまうことがあります。反対に、目のよい方や、流星観測の熟練者が観察した場合には、2倍以上の数の流星を観察できることがあります。

・観察に適した方向と流星の見分け方

空の広い範囲が見渡せれば、どちらを向いて観察しても構いません。月が視界に入らないようにしましょう。

ペルセウス座流星群の放射点の位置を示した図
画像サイズ:中解像度(2000 x 1265) 高解像度(5500 x 3480)
流星群の流星はある一点を中心に放射状に出現します。中心となる点を「放射点」といい、ペルセウス座流星群の場合は、ペルセウス座のγ(ガンマ)星の近くにあります。
しかしこれは、放射点のあるペルセウス座付近だけに流星が出現するということではありません。流星は夜空のどこにでも現れます。例えば、放射点とは反対の方向を見ていても、平均すれば、放射点の方向を見たときと同じ数の流星を見ることができます。

ですから、放射点の方向にはあまりこだわらず、空の広い範囲に注意を向けるようにしましょう。空をより広く見渡しているほうが、より多くの流星をとらえられる可能性が高くなります。

今年は、月明かりの中で観察することが多くなると思われます。月が視界の中にあるとその明るさのために暗い流星を捉えづらくなります。月がなるべく視界に入らない方向を向いて観察しましょう。

ペルセウス座流星群が活動する期間にも、ペルセウス座流星群以外の流星が出現します。
ペルセウス座流星群の流星かどうかは、流星の軌跡を反対の方向にたどり、ペルセウス座流星群の放射点を通るかどうかで判断します。 放射点を通らなければペルセウス座流星群の流星ではありません。放射点を通れば、ペルセウス座流星群の流星である可能性が高いと考えられます。

放射点との位置関係によって、流星の軌跡の長さは違ってきます。放射点近くに出現する流星は、こちらに向かって飛んでいるために短い軌跡の流星が多く、一方、放射点から離れた方向では、流星の軌跡を横から見ることになるために、長い軌跡の流星が多くなります。

詳しい見分け方は、キャンペーンサイトの「流星の見分け方」(「夏の夜、流れ星を数えよう 2017」キャンペーンサイト)をご覧ください。

・観察に適した場所

空をなるべく広く見渡すことができ、街灯などが少ない場所で観察しましょう。

林の中のように空があまり見渡せない場所や、ベランダのように空の一部しか見えない場所では、空全体に現れる流星をとらえきれません。なるべく視界を遮るものが少なく、空を広く見渡せる場所を探してください。

また、できるだけ、街灯など人工の明かりが少ない場所を選びましょう。流星の光は、街灯の明かりなどに比べるととても弱いものです。明かりが多いと、その明るさに妨げられて暗い流星が見づらくなり、それだけ、見ることのできる流星の数が少なくなってしまいます。

大きな都市やその周辺地域では、都市全体の明るさに妨げられ、暗い流星を見ることができません。大きな都市からはなるべく遠く離れた場所で観察できるとなおよいでしょう。

・観察の際の注意

望遠鏡や双眼鏡などの特別な道具は必要ありません。肉眼で観察しましょう。望遠鏡や双眼鏡を使うと視野がたいへん狭くなってしまうため、流星の観察には適しません。
立ったままで長い時間観察をすると疲れます。レジャーシートなどを用意して、寝転がったまま観察できるよう準備をしておくとよいでしょう。
屋外に出てから暗さに目が慣れるまで、最低でも15分間は観察を続けるようにしましょう。
夜遅く屋外で行動することになりますので、事故などに十分注意してください。
人家の近くで大声を出したり、立入禁止の場所に入ったりしないよう、マナーを守ってください。