コラムの記事 (2/124)

メード・イン・アメリカ・ウイーク

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中日春秋 7/20

トランプ大統領が就任演説で「私たちが守るのは、二つの単純なルールです。米国製品を買い、米国人を雇うということです」と宣言して、半年。いま、米国は「メード・イン・アメリカ・ウイーク」の最中だそうだ。

ホワイトハウスに並べられたギブソン社のギターやキャタピラー社の重機など米国製品を前に、大統領はこう言って拍手を浴びた。「米国の製造業を復活させるということは、富の復活だけではないのです。私たちのプライドをも復活させるのです。」

この言葉にうなずくならば、米国民は大統領の長女イバンカさんの名を冠したブランドの靴は買うべきではないだろう。何しろそれは「メード・イン・チャイナ」なのだ。

「イバンカ・トランプ」ブランドの靴を作る工場では、無給の長時間残業などが当たり前のように行われ、その実態を調べていた人権団体の調査員らが中国当局に逮捕される騒ぎも起きた。

イバンカ・ブランドの服を作るインドネシアの工場では、女性労働者への虐待が横行しているというから、汗を流して働く人々のプライドには、関心がないのだろう。

しかし、「イバンカ・ブランド」は例外ではなかろう。私たちが手にする格安の電化製品や衣服の陰にも、低賃金での過酷な労働が潜んでいるのではないか。そんな疑問から目をそらしたまま、トランプ一家の偽善を笑うわけにはいかぬ。

いい相撲をお見せすること

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「リレーコラム」

国技支える“魅せる”努力 藤井聡太四段来場で分かったこと

大相撲名古屋場所を観戦に訪れ、観客の注目を集めた将棋の藤井聡太四段。

大相撲名古屋場所の4日目、いよいよ幕内に突入した愛知県体育館はいつもと違う雰囲に包まれた。
向正面の升席で将棋界最多の29連勝を達成した14歳藤井聡太四段が、観戦のため訪れたのだ。
新聞の一面を飾り、テレビでも顔を見ない日はないほど。愛知県瀬戸市出身の今をときめく“時の人”の登場に館内は騒然となった。
多くの人が写真を撮るためにスマートフォンを片手に土俵に背を向けていた。それも無理はないと思う。
ただ一時的に相撲そっちのけの状態になり、命を削るような真剣勝負に臨む力士にとっては集中力を保つのが難しかったはずだ。
力士には気の毒な状況が幕内前半戦が終わるころまで続いた。こういった珍しい状況で目を引いたのは、力士以外の国技を支える面々だ。ある行司はざわつきが収まらない館内で普段より大きな声を張ってさばきを務めたという。
「力士の方なら誰もが憧れる幕内の関取が勝負をするんです。最高の見せ場です。どうしてもしっかり見てほしかった」と胸中を明かした。国技を演出するプロとしての矜持がその言葉から強く感じられた。
大相撲人気は沸騰し、今や入場券を手に入れるのも困難になっている。そんな状況だからこそ優先されるのは、いかにいい勝負が繰り広げられるか。そのための努力はほかにもある。
稀勢の里の横綱昇進などで注目が高まるにつれて、懸賞の本数も増加している。増えれば増えるほどいいようなものだが、実は一つの取組に懸けられる上限は60本となっている。
進行と勝負の妨げにならないように上限が設けられているのだ。ここにも伝統ある国技ならではの演出がある。
呼出の方たちが懸賞幕を持って1周するため、土俵に上がれるのは20人まで、3周が時間の限度だという。それ以上だと力士のリズムに影響を及ぼす恐れもある。
そのあたりを関係者は「相撲そのものに影響があっては元も子もない」と説明する。
日本相撲協会の担当者によれば、この上限を超える申し込みが5月の夏場所であったが調整をして減らすことになった。
八角理事長(元横綱北勝海)は休場者が出ると「番数が減ってしまい申し訳ない」とファンへおわびの気持ちを口にする。
何よりも「いい相撲をお見せすること」と土俵の充実を柱に掲げる。そのために周囲は細やかな配慮で対応している。
それを生かすも殺すも力士の精進次第。大相撲の魅力を伝えるため、角界挙げての尽力が続く。


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日野原さん、105歳で逝く

大弦小弦 7/19

「生と死の意味とは」-。簡単に答えられるものではないが、18日に105歳で亡くなった聖路加国際病院名誉院長の日野原重明さんはこうした問いに多くの示唆を残している。

「生活習慣病」を提唱し、予防医療や終末期医療などの普及に尽力。自立した高齢者の生き方の提案や小中学生に命の授業を行うなど幅広い分野で命や平和の大切さを訴えてきた。

東日本大震災以降、「命の使命」についての問いかけが印象深い。命が突然奪われる現実。いつかは訪れると理解していても、震災や事故など理不尽とも思える結果にどう向き合うか。

「死んだ者の生、残された者のいのちの意味を見つけること」。日野原さんは著書「『いのち』の使命」でこうつづる。前向きに一歩踏み出す、復興に力を尽くす-など残された使命に気づき、命の意味を深めることを促す。

そう説くのも、1970年に起きた「よど号ハイジャック事件」の際に乗客として搭乗した経験からだ。死んでいたかもしれない状況で「生かされている」と実感し、意味を理解したという。人生を変えたという体験から出る言葉が響く。

「生涯現役」として100歳を超えても現場に立ち、患者と向き合った。凜とした姿と行動が、命を見つめる機会を与えてくれた。多くの人生にとっての主治医でもあった。冥福を祈りたい。

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天鐘 7/19

2011年6月、八戸市公会堂で開かれた講演会は超満員だった。会場に入りきれなかった人々のために、講演の様子が隣接の公民館で映像と音声で中継された。聴衆は合わせて約2千人。大盛況だった。

講師は聖路加国際病院理事長で、「新老人の会」会長の日野原重明さん。秋に100歳を迎えるという年齢ながら、約1時間半に及んだ講演は立ったまま。「希望と愛の種を悩む友の心の中にまきましょう」などと語った。

当時、八戸市総合健診センターの所長で、講演会の事務局を担当した医師の菅原泰男さん(82)は、日野原さんの人となりに胸を打たれた。東日本大震災から3カ月後の講演だけに開催を危ぶむ声も一部にあったが、日野原さんは「いや、行きます」

講演終了後には急きょ中継会場へも足を運び、短時間ではあったが聴衆に直接語りかけた。後日、講演を聴いた77歳の主婦は「あの感動を月日とともに忘れてしまうのはもったいない」と、小紙の投稿欄に感動的な文章を寄せた。

優しい人柄と気遣いで八戸の聴衆を感激させた日野原さんは、その後、同病院の名誉院長に。末期がんの入院患者に寄り添い、死への不安を和らげる姿がテレビでたびたび放送された。

その日野原さんが、きのう亡くなった。105歳。生涯現役の信念を貫いた人生だった。多くの人々の心にまいた種は確実に芽を出し、きっと大きな花を咲かせる。

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鳴潮 7/19

 人生にも四季があって、春には春の、夏には夏の過ごし方がある。老いを迎えた秋、これからは下り坂と思いがちではあるけれど-。<また一つの登りがあると考えてみたらどうでしょうか>

 東京・聖路加(せいるか)国際病院の名誉院長、日野原重明さんは「人生の四季に生きる」(岩波現代文庫)に書いている。若いころのように苦しみながら上る坂ではない。気楽に、自由人として上る坂。そう考えてみればどうか。

 自分という木の葉をどう染めるか。秋には秋のやるべきことがある。時間は入れ物にすぎない。何を詰めるかで、その質は決まるのである。いくつになっても新しいことを始める勇気を持とう。

 ベストセラーの題を借りれば「生きかた上手」の人である。教えてくれたのは、臨床で出会った患者さんだった。100歳を超えても現役医師として活躍した。講演や執筆も精力的にこなし、多くの人の生き方の手本となった。

 4年前、妻の静子さんをみとっている。容易に口にすることができないほどの重みがあったという。亡くなったその人も、時間を共有した人々とともに生き続けている。そんな妻への思いを詩にしている。<入院一年九カ月の間/朝夕の見舞いに握った手のあたたかさを想い出す私は/あゝ、何という幸せか>

 与えられるべきものを与え尽くした人が今、天に昇る。

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河北春秋 7/19

<白寿近しステージに立つ我(われ)息弾む>。友人たちが年重ねの祝う会を開いてくれ、その時即興で作った俳句という。巡る日々は「春近し」のように心が躍っている-。季語や字数の定型にとらわれない、正直な心情が伝わってくる。

100歳を超えても現役医師だった日野原重明さんがきのう亡くなった。105歳。ある随筆によると「2万2千個の遺伝子で使っていないものもたくさんある」として、98歳になって俳句作りを始めた。ピーンと来たら、常に携行するメモ帳に記した。

年老いてなお、物事に積極的に取り組む姿を見せてくれた人であった。人生の転機は1970年、58歳で遭った「よど号ハイジャック」だった。搭乗から4日間拘束され、地上に降り立った時「命が与えられた」と受け止める。

間もなく「人は始めることさえ忘れなければ、いつまでも若い」と思い、実践していく。2000年には75歳以上の生き方を提唱する「新老人の会」を立ち上げた。スローガンは「愛し愛される」「創(はじ)める」「耐える」だった。

東北にも目を向けた。東日本大震災で宮城県南三陸町を慰問。「私も生き延びて復興を見たいのです」と自著『日野原重明一〇〇歳』に書いた。きっと息を弾ませて再訪したかったに違いない。被災地への遺言と胸に刻む。

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卓上四季 7/19

「長老」や「古老」「老師」と、かつては尊敬のまなざしで見られていた「老い」というものが、昨今は「老衰」「老廃」「老醜」と負の印象で捉えられている。そんな社会の中で存在意義を見いだせない寂しさが、お年寄りの生きづらさにつながっている―。そう分析したのは哲学者の鷲田清一さんだ。

ならば、年を取っても自分なりの存在意義が見つけられれば老いを豊かにできるはず。きのう、105歳で亡くなった医師の日野原重明さんは、そう考え「新老人の会」を設立した。

65歳までが第一の人生、74歳までは助走期間。新老人の75歳からは、趣味でもボランティアでも新しいことに挑戦しようと呼び掛けた。自らも90歳を過ぎてパークゴルフや俳句を始め、ミュージカル制作にも携わった。

「モデルとなるすてきなシニアがいれば、その目標に向けていくつになっても努力できる」。そう言って、精力的に「生涯現役」を続けた日野原さん自身が、多くの高齢者の目標となった。

生前から「死とは生き方の最後の挑戦」と語っていた。だから、過度な延命措置を望まず、体調を崩しても胃ろうや経管栄養補給を辞退した。自ら提言してきた望ましい人生の終え方を、身をもって実践しようとしたのだろう。

死のふちまで果敢に挑戦を続け、かっこよく、爽やかに老いを駆け抜けた。まさに老師の風格で、穏やかに天国に旅立っていった。

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あぶくま抄 7/19
生涯現役

生涯現役を貫いた105歳だった。日野原重明さんが18日朝、亡くなった。内科医としてだけでなく多方面で活動し、本県にも何度も講演で訪れた。悼む声が県内各地から聞かれる。

「人はいくつになっても生き方を変えられる」。日野原さんは講演や著書などで、多くの名言を残してきた。2013(平成25)年6月、川俣町にある飯舘村の小学校仮設校舎を訪れた時には「成長したら誰かのために生きる必要がある」と訴えた。原発事故で避難生活を送る児童に命の大切さを語り掛けた。

自ら結成した「新老人の会」本部のフェイスブックには亡くなる直前までのメッセージが残っている。「今日一日を精一杯[いっぱい]、激しく生きようではありませんか」(13日)。「人はひ弱いからこそ、寄り添って生きることができます」(17日)。老いを恐れずに、何歳になっても貪欲に生きていこう-。そんな熱い思いが伝わってくる。

日野原さんは常に自分を現場に置いた。天国からも「まだまだ。雲の上でも頑張る」との声が聞こえてきそうだ。元気で行動的なお年寄り像を、手本として実践してきた日野原さん。生に対する姿勢、数々の名言はみんなの心に刻まれ続ける。

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斜面 7/19

ビバルディの「四季」が舞台に流れる。カエデの葉が主人公の音楽劇「葉っぱのフレディ〜いのちの旅〜」だ。春に萌えたフレディはダニエルら仲間と一緒に成長し、秋には紅葉しやがて大地にかえる。その一生を子どもたちが演じる。

初演は2000年。米国のベストセラー絵本を題材に当時88歳だった日野原重明さんが脚本を書き下ろした。脚本と随想を収めた著書「『フレディ』から学んだこと」を読むと人生の四季をどう生き抜き、命をまっとうするかメッセージが伝わってくる。

晩秋。「死」を怖がるフレディに訳知りのダニエルが説く。樹木も人も変わる。死も変化の一つ。僕らは人に木陰を作ったりしてよく働いた。意味ある生き方ができ幸福なんだよ、と。フレディが散りイブ・モンタンの「枯れ葉」が流れて葉っぱたちが「いのちは巡る」と歌う―。

日野原さんが105年に及んだ人生の幕を閉じた。3月、食事をするのが困難になって入院した。経管栄養や胃ろうをするか医師が確かめると拒み、自宅療養を選んだという。患者の生命の尊厳を何よりも大切に考えてきた医師にふさわしい最期だった。

江戸期の禅僧、良寛は死の床で〈うらを見せおもてを見せて散るもみぢ〉と詠んだ。音楽劇に登場する哲学者はこれを引き〈人もまた自らを自らの色素で染め、風が吹けばお迎えの風に乗って大地に還る〉と独白する。日野原さんの死生観でもあったろう。遺した言葉は人の心に染み入る。

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大自在 7/19

<「新老人」は知恵を伝えてほしい。ボランティアもしようよ>。65歳以上を高齢者とする国の定義を時代遅れと批判し、75歳からの自立と社会貢献を呼び掛けた聖路加[せいるか]国際病院(東京)の日野原重明[ひのはらしげあき]名誉院長。卒寿の折、提唱間もない「新老人運動」について本紙インタビューで語っている^ - ^

高齢化で生産人口が減る中、介護や医療を必要とする人は増えていく。もし働けなくなったとしても、上手に自己管理して健康で過ごせたなら、支えられるのでなく社会を支える側にも回れるはず。子どもや若者と友達になって良き習慣を説き、良き生き方を実践しよう-と。

運動は十数年を経て全国に広がり、設立された「新老人の会」は今や1万2千人規模。県内でも2支部が平和や命の尊さを子どもたちに伝える活動を展開する。会長を務める日野原さん自身の生き方が何よりも新老人運動を体現し、勇気づけてきた。

100歳を超えても内科臨床医として診療の日々。3年前、心臓病を患って以降も車いすに乗って旺盛な講演・執筆活動をこなした。昨年秋の誕生日から8カ月の間に膨大な著書にさらに5冊を加えたという。

インタビューには生きることをキャッチボールに例えたくだりがある。<私という命のボールをキャッチしたんだから、どう神様に返すかが宿題なんだよ>。命は長さよりも質。どう全うするかが、問われているということだろう。

分厚いスケジュール帳を手放すことなく、文字通り生涯現役を貫いた105歳。延命措置を拒否し、きのう朝、見事に天へ命を返球した。

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時鐘 7/19

 105歳(さい)で逝(い)った日(ひ)野原重明(のはらしげあき)さんに教(おそ)わった元気(げんき)の秘訣(ひけつ)がある。階段(かいだん)を上(あ)がるときは「一段飛(いちだんと)ばしを心掛(こころが)けよ」
取材(しゅざい)の合間(あいま)に教わって実践(じっせん)に及(およ)んだが、にわか大股歩行(おおまたほこう)に、足(あし)より先(さき)に息(いき)が上がった。達者(たっしゃ)な老医(ろうい)師(し)が実践する健康法(けんこうほう)に、若輩者(じゃくはいもの)があっさり音(ね)を上げた。

会(あ)ったのは、主治医(しゅじい)として接(せっ)した鈴(すず)木大拙(きだいせつ)の取材が目的(もくてき)だった。診察(しんさつ)のたび、「あと5年大丈夫(ねんだいじょうぶ)か」と尋(たず)ねるのが大拙の常(つね)だったと教わった。新(あたら)しい仕事(しごと)には、それだけの時間(じかん)と力(ちから)がいる。「私(わたし)には、あと6年必(ひつ)要(よう)です」。主治医はそう応(おう)じ、敬愛(けいあい)する人(ひと)との長寿問答(ちょうじゅもんどう)を楽(たの)しんだ、と明(あ)かしてくれた。

長(なが)い人生(じんせい)を走(はし)り抜(ぬ)け、なお5年、6年先(さき)を見据(みす)える。晩年(ばんねん)と呼(よ)ばれる日々(ひび)でも安息(あんそく)に浸(ひた)らず、一段飛ばしで階段を上がるように足(あし)腰(こし)と心(こころ)を鍛(きた)えて先を急(いそ)ぐ。そんな途方(とほう)もない生(い)き方(かた)もある、とあらためて思(おも)う。

95歳で逝った大拙を「まだ長(ちょう)命(めい)を保(たも)てた」と、日野原さんは悔(く)いた。あと5年、6年の望(のぞ)みも、いつかは途絶(とだ)える。105歳、「堂々(どうどう)の天寿(てんじゅ)」と世間(せけん)はうらやむ。が、まだ仕事(しごと)があるよ、と温厚(おんこう)なまなざしで反論(はんろん)されそうな気(き)がする。

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越山若水 7/19

このごろのように蒸し暑い夜は特に寝付けない。それはあおむいて寝るからだよと聞かされ、うつぶせ寝を試したことがある。体の力が抜け、よく眠れる気がした。

気がしただけで、すぐにあおむけ寝に戻ってしまった。枕を薄くし、足を軽く曲げる寝姿勢もお手本に倣ったけれど慣れなかった。うつぶせ寝はどうも人を選ぶらしいと諦めた。

日野原重明さんは、思えば選ばれた方の人だった。100歳を超えてなお各地で年間100回の講演をこなした。短時間のうつぶせ寝で奔走する姿はただただ貴かった。

「いのちとは、ひとりひとりが持つ大切な時間」。2006年に大阪教育大付属池田小で開いた「いのちの授業」で、そう日野原さんは語った。自身の生き方そのものと思えた。

池田小は01年、児童ら23人が男に殺傷される悲劇を経験した。でも、日野原さんは言った。「世界や人のために何ができるか、宿題にするから考えてね」

東京大空襲やよど号ハイジャック事件、地下鉄サリン事件…。歴史的な大事件をくぐり抜けてきた人ならではの凄(すご)みや包容力を感じたものである。

きょうは、1576人の命が奪われた福井空襲の日。もう72年も前になる、と言っては日野原さんに叱られるだろう。「いのち」を大切にし世界平和を訴え、現役医師のまま105年の生涯を閉じた。大変な人生を見せていただいた。

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日野原重明さん死去

 講演の場に持参した聴診器で心臓の鼓動を聞かせながら、穏やかに問い掛ける。「命って何?」「時間って何だと思う?」-。そんな「いのちの授業」を思い返している"子どもたち"は県内にも多いだろう。

「生涯現役」の提唱者として、精力的に各地を飛び回り続けた聖路加病院名誉院長の日野原重明さんが亡くなった。105歳。生と死や平和を語る平易な言葉が印象に残る。

集団的自衛権の行使を可能にする安全保障関連法に「絶対反対」と異を唱えたのは103歳の時。長崎での講演で少子化に触れ「子どもをたくさん産んでもらうには教育・養育費を税金で出さなければならないが、軍備をなくせば可能だ」と語ったことも。

〈昨年秋からの8カ月で、既刊の新装版を含め5冊を送り出した〉とつい2週間前に紙面で紹介されたばかりだった。その1冊が手元にある。

タイトルは「今日すべきことを精一杯!」。決して行き当たりばったりの自転車操業を奨励する中身ではないのだが、題名だけ見て少し勇気をもらいました、と書いたら苦笑いされるだろうか。

終末医療について〈...テクノロジーでただゴムひもを引き伸ばすように命を引き延ばすより、短い命を心豊かに過ごせるケアが最も必要〉と説いている。言葉通りに自宅での最期を選択された。

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南風録 7/19

 主人公は1枚の葉っぱである。春に生まれて成長し、夏を楽しく過ごすが、冬になると1枚、また1枚と仲間が減っていく。「散ることは死ぬこと?」「そうだ、でもみんなそうなるんだから怖くないよ」。

 医師の日野原重明さんがミュージカル「葉っぱのフレディ」の脚本を手掛けたのは88歳の時だ。原作にほれ込んで舞台化を提案すると、出版社から「それならぜひ脚本を」と頼まれた。

 「ええっ」と思っても、断らないのがこの人らしい。子どもの頃から教会で演劇に親しみ、観劇が趣味だったこともあり、新しい分野に挑戦した。舞台では子どもたちと一緒に踊った。

 生涯現役を続けた日野原さんが105歳で亡くなった。東京の聖路加国際病院に勤め始めたのは1941年。人間ドックの開設や予防医療に携わり、生活習慣病という名称が生まれるきっかけをつくった。

 超高齢者となってからは次々とベストセラーを生み、講演で全国を回った。鹿児島も何度も訪れた。「いくつになっても生き方を変えられる」「車椅子から眺める世間も格別」。柔和な表情から語られる前向きな言葉に、励まされた方は多かろう。

 命と向き合った言葉の説得力は、医師として何千もの最期をみとった経験から生まれたのだろう。葉っぱのフレディはやがて土に返り、新たな命を育む。日野原さんの生き方が残してくれたものは計り知れない。

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有明抄 7/29
道しるべ

 「先生、お母さんには心配をかけつづけで、申し訳なく思っていますので、先生からお母さんに、よろしく伝えてください」-。死期を悟った16歳の少女が、新米医師に告げた。うろたえた医師は「またよくなるのですよ。元気を出しなさい」と励ますが、そのまま息を引き取る。

この新米医師は、100歳を越えて現役を続けた日野原重明さん。著書『死をどう生きたか』(中央公論新社)につづっている。「『お母さんには、あなたの気持を充分に伝えてあげますよ』となぜいえなかったのか? そして私は脈をみるよりも、どうしてもっと彼女の手を握っていてあげなかったのか?」

講演で全国を飛び回り、佐賀県内も度々訪れた。佐賀新聞社のメンバーズクラブ「Begin(ビギン)」の出演は99歳の時。「ビギン(始める)は大好き。長寿にもつながる」とユーモアたっぷりで、1時間40分立ちっぱなしだった。

満員の会場に「寿命は運命ではなく、生き方によって変わる」と語りかけていた。「成人病」の呼び方を「生活習慣病」に変えるよう提唱したのも日野原さん。暮らしを改めれば防げるというメッセージを込めたのだろう。

私たちは「人生100年時代」を迎えようとしている。存分に生きた日野原さんの105年の歩みは、後に続く私たちにとって道しるべであり続ける。

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凡語 7/19

 「元気の源は、若い人とともに前進したい、という思い」。一昨年春、明朗な声が国立京都国際会館に響いた。紀寿を超えても日野原重明さんは「前進、前進、また前進」と日本医学会総会で語りかけた。

生活習慣病という言葉を広め、予防医療や終末期医療に尽くした文化勲章受章者の日野原さんが亡くなった。享年105。「生涯現役」として著作や講演をこなし続け、大往生だった。

旧制三高から京都帝大へ進んで内科医となり、京都で12年間暮らした。多感な時代を過ごした経験から「今でも関西派。関西は実行力があり、僕は行動派だ」と自負した。

1970年にハイジャックされた「よど号」に乗り合わせて死を覚悟したり、95年には地下鉄サリン事件で院長だった現場近くの聖路加国際病院へ即座に被害者640人を受け入れ、陣頭指揮を執ったり。その人生は波乱に富む。

100歳を過ぎても時々、病棟を回診。3年ほど前から移動は車椅子に頼る生活だったが、講演などで月に数回出張し、手帳には10年先の予定も書き込んであったという。

日本は今、百寿者が6万人を超すが、介護なしに暮らすのは約2割。そんな中、明治、大正、昭和、平成を歩み切って高齢者が元気に生きるモデルを自ら演じて見せてくれた。前進もひと休み、安らかに。

絵日記と台風




「夏休み」
歌:吉田拓郎

作詞:吉田拓郎 作曲:吉田拓郎

麦わら帽子は もう消えた
たんぼの蛙は もう消えた
それでも待ってる 夏休み

姉さん先生 もういない
きれいな先生 もういない
それでも待ってる 夏休み

絵日記つけてた 夏休み
花火を買ってた 夏休み
指おり待ってた 夏休み

畑のとんぼは どこ行った
あの時逃がして あげたのに
ひとりで待ってた 夏休み

西瓜を食べてた 夏休み
水まきしたっけ 夏休み
ひまわり 夕立 せみの声

…………………………

金口木舌 7/29

吉田拓郎さんの代表曲「夏休み」は懐かしい人や生き物を折り込み、戻っては来ない少年期を振り返る。「姉さん先生」や「たんぼの蛙(かえる)」「畑のとんぼ」のそれぞれに愛惜がこもる。

歌詞にある「絵日記つけてた夏休み」は誰しも思い出があろう。小学校低学年時の夏休みには決まって絵日記の宿題が出る。絵日記を付けるためにピクニックを親にねだる子は今もいるはずだ。

絵日記に欠かせないのは天気である。夏休みの終盤、まとめて絵日記を描こうにも天気を忘れてしまい、困り果てた苦い記憶がある人もいよう。当方もその一人。それでも台風の襲来を忘れることはなかった。

台風のことを絵日記につづったのは小学1年の時だった。家に閉じこもり、窓から外を見つめる自分と庭でカタカタと音を立てて揺れる植木鉢を描いた。ろうそくの明かりの下で非常食の缶詰を食べたのも忘れ難い。

過去10年、3~11個の台風が毎年沖縄地方に接近しているという。16日付本紙「りゅうちゃんのそこ詳しく!」に教えられた。近年、台風接近が減ったと感じていたが勘違いのようだ。今年はどうだろうか。

「夏休み」は「ひまわり 夕立 せみの声」と結ぶ。あさってから公立学校で夏休みが始まる。楽しい思い出に加え、台風の怖さも絵日記に描くことにもなろう。これも沖縄の子には欠かせない夏休みの思い出だ。

ありがとう

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日野原重明「僕は頑固な子どもだった」

105歳で生きている人はいるだろうが、これほど元気でなお社会のために働いているのは日野原先生くらいだろう。
先生を見ていると、まだまだ大丈夫。世のため人のために頑張ってもらいたいと思う。
このような人は絶対に神様からの使命を受け、神様からのご加護も受け、この世につかわされているのだろう。
これまでたくさんの著者がある日野原先生だが、この本の帯を見て驚いた。
これが「初の自叙伝」だというのだ。
えーっ、そうなの?という気持ちになるのは、あまりにも日野原先生についてのエピソードを知っているからだ。

牧師の家に生れ、敬虔なクリスチャンであること。
よど号ハイジャックの飛行機に乗客として遭遇したこと。
人間ドッグを日本で初めて実施したこと。
「生活習慣病」という言葉を創り広めたこと。
地下鉄サリン事件の時の聖路加病院の素晴らしい対応。
朝昼はほとんど食べず(飲み物とビスケットくらい)、夕食だけしっかり食べること。
エレベーターは使わず階段を二段跳びで上がること。
・・などなど。

でも考えてみればそれらは断片的なもので、日野原先生の一生を通しての越し方はあまり知っていないかもしれない。
この本には幼少時代の家族や友達、中学・高校・京都帝大医学部での生活、アメリカ留学などについて、当時の先生の気持ちを含めて詳細に語られている。
なによりも胸を打つのが、長年連れ添い、ずっと先生を支えてくれた奥さんの静子さんとの別れだ。
80歳ごろから認知症を発症し静子さんの最期の1年9カ月を、聖路加病院で主治医として看取った。
ずっと多忙で家庭のことは静子さんにまかせっきりだった先生にとって、その1年9カ月は静子さんとの蜜月だったに違いない。
この世では静子さんの不在で寂しくなったけれど、あの世は静子さんを迎えて賑やかになっていることだろう、と先生は自分を慰める。そしていつか自分もそこに加わることを楽しみにしている。
死は必ずしも悲しいものではなく、生と同じように意味のあること。。

日野原先生の人間としてのバックボーンにはもちろん、キリスト教がある。
しかし医師として、1950年代初頭のアメリカ留学でホリスティック医療に触れたことは大きなことだったはずだ。
医療がどんどん細分化され専門化されていくまっただ中において、人の体というものはそうではなく全体が繋がっていると考えるのは大きな意味のあることだと思う。
いつも先生はこのように「本質」を見ながら生きてこられたのだろう。

そんな先生は子どものころ結構、頑固だった。
絶対に自分を曲げなかった。
優秀で有名な中学に受かりながら、入学式に出席しただけで退学し関西学院に行ったのも、軍の影響が強いのを嫌い自由を求めてのことだった。

お顔をみてえいるだけで、幸せになれるひとがいる。
日野原先生もそうだし、瀬戸内寂聴さんもそうだ。こういうのを仏教では「顔施」というらしい。
お顔が「愛」ってすごいこと!


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中日春秋 7/19

日野原重明さんは、その百五年の生涯で、主治医として千人を超える人々の最期をみとったという。その最初の一人は、十六歳で逝った少女だった。

少女は八十年前の七月、大きな目を見開きながら、こう語ったそうだ。「私はこれで死んでゆくような気がします」。日野原さんは懸命に治療を続けつつ、励ました。「あなたの病気はまたよくなるのですよ。元気を出しなさい」。しかし、その言葉もむなしく、少女の心音は消えた。

医師として初めて受け持った患者の死は衝撃だった。だが、それ以上に日野原さんは重い石を胸に抱え込んだのだろう。こう自問し続けたという。

なぜ、死を受容した患者を受け止めることができなかったのか。むなしい励ましの言葉ではなく、ただ黙って手を握ってあげればよかったのではないか。(『僕は頑固な子どもだった』)

そんな日野原さんには、「理想の死」があったという。自宅で家族に「ありがとう」と柔らかに響く声で伝えてから、静かに逝った祖母。幼かった日野原さんも恐怖や悲しさより、あたたかさを感じたほど、安らかな最期だったという。

戦争や天災、テロ。あまりに多くの不条理な死を目にしてきた日野原さんにとって、一人でも多くの人に静かな最期を迎えてもらうことこそ、医師の使命だったのだろう。「ありがとう」と口にしつつ、静かな最期を迎えたそうだ。

将棋の用語

春秋

藤井聡太四段の活躍で、がぜん盛り上がる将棋人気。現下の政治状況を将棋の用語で読み解くと。

持ち時間…対局者に与えられる制限時間。時の政権も、経済政策が順調で選挙に強い間はたっぷり続投時間を託される。半面、国民からの支持率が急落すると求心力が落ち、瞬く間に「秒読み」に入ることも。

矢倉…王将の周りを金、銀を中心に固める守備陣形。一見堅牢(けんろう)だが、適材適所を誤ると実にもろいのは先の国会で露呈した通り。お友達ばかり集めても機能しない。近く駒を入れ替える改造を行う予定。

棒銀…銀を先陣に攻め込む戦法。変じて、政界では「暴言」。加えて「失言」「放言」も。古来、政治家が多彩に繰り出す。後で「待った」をかけて発言を取り消す例も数知れず。

感想戦…勝負の後で対局を振り返ること。自民党が大敗した東京都議選投開票の夜、安倍晋三首相は党幹部らと会食。「首相に責任はない」「国政への影響はない」と確認したそうだ。場所は高級フランス料理店。落選候補者の怨嗟(えんさ)の声は届いたか。

ひふみんアイ…先日引退した加藤一二三棋士が発案者。相手の側から盤面を見ることで違う視野から戦局を捉える。「反省」「丁寧な説明」を口にはするものの、どうも動きの鈍い政府、自民党。有権者の疑念や不信感の強さを本当に理解しておいでか。今の局面。国民の側から、国民の目線に立って一度ご覧いただきたい。


新潟の日本海

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三山春秋 7/17

 「あなたの思い出の海」を尋ねた本紙アンケート#上毛つぶやき(5日付)の回答は、「新潟の日本海」が太平洋の大洗や湘南を抑えて最多65%に上っていた。新潟で行われた臨海学校も、楽しい思い出の一つだろう 。

 海なし県の小学生にとって臨海学校は貴重な体験の機会と思っていたら、ここ数年、廃止が相次いでいる。市や広域圏で運営する海の家の老朽化や安全性への懸念、家族の海水浴が一般化したことが廃止の理由だ 。

 本年度は、高崎市が新潟・笠島の臨海学校に替えて榛名林間学校をスタートさせた。県内で続けているのは佐波伊勢崎、多野藤岡の両地域だけとみられる 。

 だが、少数派とはいえ継続の市町村も意欲満々だ。伊勢崎市は新潟・寺泊の臨海学校を近く本格改修し、長期利用を図る。藤岡市も廃止の予定はなく、独自の考えが表れていて興味深い 。

 同じ海なし県でも、隣の栃木県では茨城・鉾田の太平洋岸にある県立とちぎ海浜自然の家が利用され、ちょっとうらやましい。海水浴でなく海辺の生活を学ぶ宿泊施設で1992年の開設以来、200万人が訪れた 。

 地域によって海や山の体験学習はさまざまだ。優劣は簡単につけられないが、級友と遊んだ笠島の海が今では無性に懐かしい。今日の「海の日」を迎えるたび、ないものねだりの海への憧れが膨らんでくる。

キッズウイーク

雷鳴抄 7/17

「キッズウイーク」が来年度から始まる。小中学校の夏休みを5日短くし、地域ごと異なる週に、平日を休みにすれば前後の土日も含めて9連休となる。親が休暇を取ることで、子どもと向き合う時間をもっと増やすことが狙いという。

政府の教育再生実行会議がまとめた第10次提言に盛り込まれた。経済財政運営の指針「骨太方針」には「『キッズウイーク』を設定し、学校休業日の分散化、有給休暇取得の促進などを官民一体として推進する」とある。

経団連も要請に応える考えだという。ただ、サービス業で休みにくい、非正規雇用で有休が少ない…など、さまざまな理由で一緒に過ごせない家庭も多いのではないか。

この政策の本当の狙いは、家族旅行に出掛けてもらうことにある。つまりは観光振興である。2020年に名目国内総生産(GDP)600兆円を達成するには、16年度より10%以上の上乗せが必要。子どもをだしに使ってでも、上乗せをとの思いだろう。

そういえば、月末の金曜日の仕事を早く切り上げる「プレミアムフライデー」は今年2月にスタートしたが、浸透はいまひとつ。

プレ金もキッズウイークも「働き方改革」に政府が熱心に取り組んでいるという「印象操作」には使える。だが中小も含めて企業側の協力次第というのでは政策として心もとない。

地球温暖化

金口木舌 7/17

「車いすの天才科学者」として知られる英ケンブリッジ大のスティーブン・ホーキング博士。トランプ米大統領が、温暖化対策の新枠組み「パリ協定」離脱を表明していることについて、英BBC放送のインタビューで批判した。

「気温250度で硫酸の雨が降る、まるで金星のようになる崖っぷちまで地球を追いやるようなものだ」。強い言葉で指摘、米誌タイムやニューズウィークが報道するなど話題となっている。

宇宙物理学者としての危機感の表れだろう。トランプ氏の姿勢について「われわれと子孫にとって、美しい地球に本来避けられる環境破壊を招き、自然界を危険にさらすものだ」と指摘する。

温暖化が進めば、最大風速80メートルに達する極めて強い「スーパー台風」が日本を襲う恐れがあると国内の研究者が予測している。大きな被害を出した室戸台風(1934年)、伊勢湾台風(59年)をしのぐ強さだ。

九州北部で7月上旬に降った豪雨が多くの犠牲者を出した。6月中旬には沖縄本島などで降った雨が各地で「観測史上最大」を記録した。全てを単純に温暖化が理由とすることはできないが、近年にない激しい気象の変化が目立つ。

「地球温暖化は、後戻りできない転換点に近付いている」。ホーキング博士が鳴らす警鐘に、この星の全ての人が耳を傾ける必要がある。

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スティーヴン・ウィリアム・ホーキング

人類は、大惨事がないまま永久に地球に生存し続けることなどできないと思っています。なので、人類滅亡のリスクを最小限にするためにも、ひとつの惑星にとどまらずに、宇宙に飛び出して欲しいですね


子どもというのは、いろんな意味で最高の聞き手だと思っています。ためらわずに理由を聞こうとしますし、ごく自然に宇宙に興味を持っている。早い段階で興味を引きつければ、そういった子どもたちが、将来、科学者になるかもしれません


ブラックホールに吸い込まれるのは、カヌーに乗ってナイアガラの滝に落ちることに似ています。必死でオールを漕げば抜け出せるのです。ブラックホールはいわば究極の“リサイクル・マシーン”で、飲み込んだものを再構成してもう一度同じものを出現させます


(「ガリレオとアインシュタインに会ったら、どんなことを伝えたいですか?」という質問への答え)
ガリレオは、現代科学の何もかも知りたがるでしょうね。ガリレオであればすぐに理解できると思います。アインシュタインには、「ブラックホールについては間違いでしたね」と言うと思います


私たちは、「地球上の生命は自然発生的に産み出された」と考えているので、地球以外の宇宙のどこかに生命が存在または誕生する可能性はあるでしょう。しかし、どこか他に知的生命体が存在とするとしても、果てしなく遠いところにいるに違いありません。近くにいるのであれば、もう地球に来ているでしょう。もし、地球に来ていれば、映画の『インデペンデンス・デイ』のようになるから、わかると思いますよ


科学コミュニケーションは楽しいですよ。重要な判断を他者に委ねるのを良しとしないならば、一般人がサイエンスの基礎を理解するのは大切なことです


私は障がいを持っていることで、ある意味助けられています。教鞭を執ったり退屈な会議に出席することを義務づけられて無駄な時間を浪費することなく、研究や思考実験に打ち込めるんですから


個人的にも宇宙旅行は楽しみにしています。実際に行けるようになれば、真っ先にチケットを買い求めると思いますよ。外惑星を除けば、これから100年以内に太陽系のどこにでも行けるようになるでしょう


M理論が宇宙の究極的な理論だと考えていますが、まだ断片的な理解をしているに過ぎません。ジグソーパズルで言えば、端は埋めてしまったものの、まだ真ん中にぽっかりと穴が開いているといった状態です。もちろん、全体像を誤って捉えてしまっていることに気付く可能性もあります。予期せぬことも起こりますからね


理想はジェームス・ボンド映画での悪役です。車椅子とコンピューターの合成音声は、はまり役ではないでしょうか。ポップ・カルチャーについてはよく知りません。サイエンスのことばかりに気をとられていましたから


身体の障がいがあまりマイナスにならない理論物理学という学問に身を捧げてこられたこと、著書がベストセラーになったことなど、私はラッキーでした。障がいを持つ人々に対するメッセージは、自分の障がいがマイナスにならないことに集中して、それでも妨げられることには決して悔やまないでくださいということです


ブラックホールに吸い込まれるのは、カヌーに乗ってナイアガラの滝に落ちることに似ています。必死でオールを漕げば抜け出せるのです。ブラックホールはいわば究極の“リサイクル・マシーン”で、飲み込んだものを再構成してもう一度同じものを出現させます


声を失くす以前は不明瞭な発音で、親しい人たちしかわたしを理解できませんでしたが、コンピューターの音声ならば大衆向けの講演ができるとわかったのです


四次元でものを見るなど、誰にもできませんよ。三次元でも難しいのですから。わたしがやるのは、四次元全体の一部であると頭にとどめておきながら、まず二次元に区切ってヴィジュアライズすることです


太陽の数倍もの質量をもつブラックホールからのホーキング放射は、絶対零度よりもわずか100万分の1度上という温度のため、見つけるのが非常に困難です。もっと小さな原始的ブラックホールであれば、より高い温度をもつものですが、それらは見つかってはいません


わたしはただ成長しきれなかっただけです


ある歴史においては、ロックフォート・チーズでできている月があるかもしれない...しかしわれわれが知る月はチーズではなく、ネズミにとっては残念な知らせだ


私は“神”という言葉を、アインシュタインがそうであったようにこの世を支配する“自然法則”という意味で使っています。科学的な物理法則は宇宙の起源をじゅうぶんに説明し得ます。(宗教的な)神を持ち出すまでもないのです


今後100年間のどこかの時点でAIは人間の能力を超えていきます。そしてこの人工知能の目的は我々人間を“余所者”にすることだと気づく必要があるのです


もしエイリアンが我々を訪問したなら、ネイティブアメリカンにとって望ましいことではなかったコロンブスのアメリカ大陸発見と同じ結果を招くでしょう。そのような先進文明を持つエイリアンはおそらく宇宙をさすらっていて、辿り着いた星ならどこでも支配し植民地化することを目論んでいます。(これに備えるためにも)私の数学的思考では、エイリアンがどんな存在であるのかを追求することは現実の課題であり、まったくもって理性的な行為なのです


(安楽死を選ぶことにより)人間は動物を苦しませることはしない。では、なぜ人間に対しては(苦しみを)強いるのか


人類のサバイバルの鍵を握るのは、我々が宇宙のどこかに新しい居住地を見つけられるかどうかにかかっています。なぜなら大規模災害が地球を滅すリスクが高まっているからです。だから私は宇宙開発の重要性について皆さんの意識を高めたいと思っているのです


人類は宇宙人とのコンタクトは避けるべきだ。結果として壊滅的な事態になることもあり得るのだから


私の頭脳は数学的なので、数字の面からだけ言っても、宇宙人は存在すると考えるのは完璧に合理的だ


100年以内に人工知能は人間を超える


自分の場合もそうなるところだったが、真剣に自らの命を絶つことを考えている人のためのセーフガードを設け、知識や本人の同意なしに安楽死せざるを得ない状況に追い込まれるようなことがないようにすることが必要だ


人工知能の進化は人類の終焉を意味する


(安楽死について語った言葉)
末期疾患の患者でひどい苦痛があるのなら、自らの命を絶つ権利を与えられるべき。また、自殺をほう助した者を裁きの対象とするべきではない


(「毎日何について考えているのですか?」と尋ねられた時の言葉)
女性だよ。彼女達ってとてもナゾに満ちてる存在なんだ


人類の次のミレニアムを生き抜けないかもしれないと心配している。温室効果で地球の大気は熱くなり、灼熱地獄の中で人類は滅びるのではないか。他の惑星を植民地化する努力が必要になりそうだ


私たちの命は短く、宇宙の歴史の中でほんの一瞬にしか過ぎません


我々は無数にある銀河のひとつの周辺部に位置する、ごく平均的な小さな惑星に住んでいる


(人間の脳について「部品が壊れた際に機能を止めるコンピューターと見なしている」とし述べた言葉)
壊れたコンピューターにとって天国も死後の世界もない。それらは闇を恐れる人の架空のおとぎ話だ


私は幸運だ。なぜなら脳は筋肉で出来ていないからだ


我々の時代に未来からの観光客が押し寄せたことはない。ただ、それについて私は誰とも賭けをしないだろう


宇宙の創造に神の力は必要ない


私が人生で学んだことは、自分が今持っている力を全部使えということです


宇宙に始まりがある限り、宇宙には創造主がいると想定することができる


人は、人生が公平ではないことを悟れるくらいに成長しなくてはならない。そしてただ、自分の置かれた状況のなかで最善をつくすべきだ


宇宙が本当にまったく自己完結的であり、境界や縁を持たないとすれば、始まりも終わりもないことになる


一つ目は、足元を見るのではなく星を見上げること。二つ目は、絶対に仕事をあきらめないこと。仕事は目的と意義を与えてくれる。それが無くなると人生は空っぽだ。三つ目は、もし幸運にも愛を見つけることができたら、それはまれなことであることを忘れず、捨ててはいけない


もし、地球外の知的生命体が接触して来た場合、地球環境にどのような影響を与えるか不明だ。地球生命の免疫系に致命的な損傷を与える可能性がある


自らの行動の価値を最大化するため努力すべき


人生は、できることに集中することであり、できないことを悔やむことではない


(我々地球人が)宇宙人と接触しようとすることは危険な行為である


基本的に宗教と科学の違いは、宗教は権力を基本としており、科学は観察と理由を基本としている


神の概念に触れずに宇宙のはじまりを論ずるのは難しい


宇宙に始まりがある限り、宇宙には創造主がいると想定することができる


宇宙がどうして存在するのか知りたい、なぜ無より偉大なものがあるのかが知りたい


我々はその生命体を探しだしてはならず、できるだけ接触を避けなければならない


もし、地球外の知的生命体が接触して来た場合、地球環境にどのような影響を与えるか不明だ。地球生命の免疫系に致命的な損傷を与える可能性がある


私達はどこにでもある恒星の、マイナーな惑星に住む、血統の良い猿にすぎない。しかし私達は宇宙というものを理解できる。そのために、ちょっとは特別な存在なのだ


脳はコンピューターのようなもの。部品が壊れれば動作しなくなる。壊れたコンピューターには天国も来世もない。天国は、暗闇を恐れる人間のための架空の世界だ


期待値が「ゼロ」まで下がれば、自分に今あるものすべてに間違いなく感謝の念が湧く


わたしはこの49年間、死と隣り合わせに生きてきた。死を恐れてはいないが、死に急いでもいない。やりたいことがまだたくさんあるからね


(「宇宙人の容姿は?」という質問に対しての答え)
(我々人類と同じように)目や口、脚はあるだろうが、マリリン・モンローのような容姿は期待しない方がいいね


科学は勝つ、つじつまが合うから


タイムトラベル(時間旅行)は実現可能


宇宙はなぜ、存在するという面倒なことをするのか


宇宙創造の理論において、もはや神の居場所はない


…………………………

すっぱ

『日本人の知らない日本語』(蛇蔵&海野凪子著)

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日本語学校の先生が直面する、外国人学生との日々が漫画で
面白おかしく書いてある。学生たちのギャクといい、日本語の
説明といい、秀逸なのはタイトルだけではなかった。

・「頂けますか?」と「下さいませんか?」では、前者のほうが
 教えてもらえる権利が高い

・「恐れ入りますが」と「差し支えなければ」では、前者のほうが
 相手の断れる権利は低い

・「頑張れ」というのは目下の者への励ましの言葉。あまり
 使われないが、正式には「お疲れの出ませんように」がいいそうだ

・音読みは中国起源。訓読みは日本起源。
 「玉」は音読みが「ぎょく」で、訓読みが「たま」

・丁寧語につける「お」は昔から日本で使われている言葉に、
 「ご」は中国から入ってきた言葉)につく

知らないでも生活できるが、日本人であるなら知っておくべき
ことばかりだった。
 
…………………………
くろしお 7/17

 教室でテストを返された生徒。答案用紙を見ると赤でマルがたくさんついていて、がっかりした。察した先生は、その米国人生徒に「マルがついている方が正解だからね」。

 実は外国人向けの日本語教室での一幕。よくある誤解で、海外では正解にピンのようなチェックを入れる国の方が多く、マルは「ここは間違っている」の印という。数年前ベストセラーになった「日本人の知らない日本語」(蛇蔵、海野凪子著)にあるエピソード。

 外国人留学生たちの珍回答、珍質問に大笑いするが、実は日本人自身が日本語や自国の文化について詳しくないという現実にも気付かされる。2作目でスウェーデンからの女子学生が聞く。「『すっぱ抜く』の『すっぱ』って何ですか」。

 先生も分からず調べたら「透破」または「素破」。戦国時代の忍者のことだ。来日した時に「先生は忍者ですか、武士ですか」と尋ねたほど日本の時代劇マニアで忍者大好きの女子学生は大喜び。アニメやドラマから日本に関心を持って来日する学生は多いそうだ。

 忍者の真実に迫る「The NINJA 忍者ってナンジャ!?」がみやざきアートセンターで始まった。忍術が荒唐無稽な伝説ではなく、意外に科学的な知識と合理的な鍛錬に基づく戦術だったことに、現代に役立つ知恵を見る思いだ。

 先の女子学生。先生から「今の日本に忍者はいない」と諭されて肩を落としたが、教室を出る間際「でも本当はいるんですよね。いないことにしないといけないんですよね」とにやり。うん、隠れた能力に気付くかも。自信がつく忍者展だ。

海の日


風が吹けば桶屋が儲かる【かぜがふけばおけやがもうかる】

何か事が起きると巡り巡って思いがけない意外なところにも影響が出ること。また、当てにならない期待をすること。大風が吹けば桶屋が喜ぶ。風が吹けば箱屋が儲かる。

由来
風が吹くと土ぼこりがたち、それが目に入ることで盲人が増える。盲人は三味線で生計を立てようとするので三味線の需要が増える。三味線には猫の皮が張られることで猫が減る。猫が減るとねずみが増えて、ねずみにかじられる桶が増えることから、桶を売る桶屋が儲かって喜ぶ。という

…………………………

滴一滴 7/17

「風が吹けば桶屋(おけや)がもうかる」の例えをほうふつさせる。レジ袋やペットボトルといった身近なプラスチックごみが、回り回ってわれわれにもたらす意外な影響である。

ポイ捨てや風で飛ばされ、小川や用水を流れる。回収されなかったごみは大きな川などを経て、やがて海へ。漂着した海岸で紫外線や熱によって劣化し、小さく砕けていく。

それらは直径5ミリ以下の「マイクロプラスチック」と呼ばれる微細片となって沖に出て、世界中の海を漂う。プラスチックには有害物質を吸着する性質があり、のみ込んだ魚介類の体内に蓄積して汚染が生態系にも及ぶ―。そんな実態が分かり、懸念が強まっている。

この問題は先の先進7カ国(G7)環境相会合で検討されるなど、世界的な課題に浮上した。国連環境計画はプラスチック削減策を各国に求め、使い捨てプラスチックの規制が動きだしている。米国ではペットボトル飲料水の販売やレジ袋を禁止した市、州もあるという。

岡山市内ではきのう、山本公一環境相や研究者らを招いてシンポジウムが開かれた。海に出る前のごみ回収やプラスチックをごみにしないことの大切さを話し合った。

きょうは海の日。日本が海に流出させているプラスチックごみは推計で年6万トンに上る。何げなく便利に使う身近な物が与える脅威を知っておきたい。

家族道具


「せーの!

なにかを一緒にしようとするとき、たとえば重い荷物を何人かで持ち上げるときに、「せーの!」って掛け声を出しますよね。

でも、なんで「せーの」っていうんでしょう。

調べてみると、「せーの」の語源はフランス語のhisser(イセーと発音)にあるようです。意味は「引き上げる」。

明治時代に政府が軍隊を作るのに、ヨーロッパ諸国の軍隊をお手本にしました。そのうち、海軍はフランス軍を手本にしたのです。フランス海軍は帆船の帆を引っ張るときに「イセー、イセー(引き上げろ、引き上げろ)」と言いながらロープを引っ張っていました。それを海軍の用語として取り入れたのです。それが一般に広まるときに、「みんなで一緒に何かをするときのことば」と解釈されて、その後「イセー、イッセー、いっせーの、せーの」と変化していったのだと考えられているようです。

ちなみに、綱引きをするときの掛け声「オーエス」も、一説では、「Oh,hisser」からきたともいわれています。さだかではありませんが…。

ところで、地域によって、「いっせーの」とか「いっせーのーで」「いっせーのーせ」などと、言い方が違うようです。

「せーの」:その後…
?掛け声をかけて、例えば複数の人で物を持ち上げたりする場合、どのタイミングで持ち上げるかが、関東と関西とで違う。

(関東の場合)
「いっ、せー、のー、せっ」と4拍あり、4拍目の「せっ」を言いながら持ち上げる。

(関西の場合)
「せー、のー、で」と3拍掛け声をかけてから、その後の4泊目でよいしょっと持ち上げる。福岡や熊本の人は、「さんのーがーはいっ!」と言う。調べていくと、いろいろとでてくるもんですねえ。

…………………………

中日春秋 7/27

重いモノを二人以上で持ち上げるには掛け声がないとタイミングが狂い、うまくいかない。掛け声はだいたい「いっせいのせい」や「せーのっ」か。

友人がある掛け声について腹を立てていたことを思い出す。友人の母親が亡くなり、棺(ひつぎ)を運ぶとき、葬儀会社の若い方が「せーのっ」の掛け声を使ったそうだ。その掛け声に、母親が引っ越し荷物か何かのように扱われた気になったという。悪気はなかろうが、こういう場合、「せーのっ」の掛け声は、目の前の悲しみの状況とはうまく釣り合わぬ。

「せーのっ」に似た話かもしれない。ごみと呼ばないで。熊本県社会福祉協議会が発行する被災地ボランティア向けのガイドブックによると被災によって汚れていても家財道具をごみと呼ばれたくないと思っている。

よく分かる。テーブル、たんす、学習机。泥まみれでも、壊れていても、そこには思い出と家族の会話がしみついているはずである。

捨てなければと分かっていてもそれをごみと呼ばれることはやりきれないだろう。ただでさえ心の傷ついている被災直後である。

先の集中豪雨に襲われた九州北部の被災地にこの週末、大勢のボランティアが集まった。ありがたい。被災地を気遣う善意の人にごみと呼ぶ人は少ないと思うが念のため。それは家財道具という呼び方さえぶっきらぼうすぎる別れがたい「家族道具」である。

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殸 ケイ・キョウ・セイ  殳部         
解字 甲骨文は、吊るした石板をバチでたたいて鳴らしている形。篆文と楷書は、「声(つるした石板)+殳(たたく)」の会意。石の板を紐でぶら下げ、バチでたたいて音を出すさまで、石の楽器を表わす。磬ケイ(うちいし)の原字。
意味 (1)楽器の一種。石の楽器。(=謦) (2)石の楽器の音。こえ。(=聲)

イメージ   「たたいて音をだす」 (磬・声・謦)
        たたいて出た音が 「つたわる」 (馨)
音の変化  ケイ:磬・謦・馨  セイ:声
たたいて音をだす

磬 ケイ  石部
解字 「石(いし)+殸(たたいて音をだす)」 の会意形声。殸はもともと石板をたたいて音をだす形。そこに石をつけてもとの意味を強調した字。打って音を出す石の楽器をいう。
意味 (1)打ち石。 (2)「へ」の字形の中国古代の打楽器。「磬鐘ケイショウ」(磬とつりがね)「磬声ケイセイ」(磬を打つ音)「編磬ヘンケイ」(磬をいくつも連ねて編成した楽器) (3)身体を楽器の磬のように折り曲げて礼をする。「磬折ケイセツ」

声[聲] セイ・ショウ・こえ・こわ  士部
解字 旧字は聲で 「耳(みみ)+殸(たたいて音をだす)」 の会意。たたいて出る音を耳で聞くさま。転じて、耳をうつ音響や音声をいう。新字体の声は、旧字の上部左にある「声(つるした石板)」の字を取り出して「聲」に代えたもの。
意味 (1)こえ(声)。人のこえ。また音・ひびき。「音声オンセイ」「声域セイイキ」「声紋セイモン」 (2)こえを出す。言う。述べる。「声明セイメイ」「声援セイエン」「声色こわいろ」(音声の調子や口調) (3)うわさ。評判。「声望セイボウ」(名声と人望)

謦 ケイ・キョウ・しわぶき  言部
解字 「言(ことば)+殸(たたいて音をだす)」 の会意形声。たたいて出したような音を言葉で発すること。
意味 しわぶき(謦)。せきばらい。軽いせき。「謦咳ケイガイ」(せきばらい。また、笑ったり語ったりすること)
つたわる

馨 ケイ・かおる・かおり  香部
解字 「香(かおり)+殸(つたわる)」の会意形声。伝わってくる香り。
意味 (1)かおる(馨)。かおり(馨り)。かぐわしい。「馨香ケイコウ」(遠くまで漂う香り) (2)良い評判

                
…………………………

中日春秋 7/16

【声】の異体字の【聲】。耳という字の上に配置されているのは石で作った楽器の意味だそうだ。神を呼ぶために打ち鳴らしたものと考えられている。だとすれば【聲】という漢字は音だけでは成立せぬ。その音を聞く人間の耳があってはじめて【聲】として認識されるのかもしれぬ。

その十九歳の男性は障害によって会話がほとんどできなかったそうだ。埼玉県上尾市の障害者施設の送迎ワゴン車の中に約六時間取り残され、熱中症で亡くなった。エアコンを切った七月の車内の暑さと残酷な時間を想像する。どれほど苦しかったことか。

障害によって助けを求められなかった可能性がある。けれどもである。その男性は心の中で「助けて」という音を大きく打ち鳴らしていたはずである。

聞こえぬ声に気づく機会はあっただろう。朝に提出されるはずの連絡帳が出ていない。昼食は手付かずのまま残っている。その状況のひとつひとつは「ぼくはここにいない」と知らせる声である。叫びである。不在に気づいた職員もいたが、情報は共有されぬままで捜すことも家族に連絡することもなかった。

捜査による真相解明を待つが、どこへいったのだろうと男性の身を案じる心という耳を澄ませば、ちゃんと聞こえる「助けて」の【聲】ではなかったか。

「純粋で素直で、いつもにこにこしている人」だったそうだ。事故がくやしい。

金句

越山若水 7/15

古いことわざや格言には、先人の知恵や社会の真実が含まれている。多くの人々の経験が集約され、普遍性を備えている。昔の言葉だからと軽んじてはいけない。

早速に一つ紹介しよう。「よい主人は、智慧(ちえ)ある者を使い、健気(けなげ)な者を使い、欲に耽(ふけ)る者をも使い、愚痴(ぐち)なる者をも捨てずして、それぞれの用に応じて使うぞ」

16世紀の末、九州天草でイエズス会が刊行した「金句集」に所収の言葉。人間には必ず取りえがあり、才能に応じて配置すれば持ち味を発揮するという教訓である。

つまり人の上に立つ「よい主人」とは、飛び切りの優れた人材ばかりを欲するのでなく、いろんな人間を適性に応じて生かす力量が必要だと諭している。この金言をぜひとも差し上げたい人物がいる。

「富山で生まれた人は極力採りません」「閉鎖的な考え方が非常に強い」―。総合機械メーカー、不二越の本間博夫会長である。富山市内の中間決算発表でそう言い放った。

富山は同社の創業地。しかしロボットを核にした事業拡大に向け、近く本社を東京に一本化。「優秀な人材を全国、世界から集めたい」考えのようだ。

激烈なグローバル化を視野に入れての発言だろうが、出身地差別や富山県民侮辱とのそしりも免れず、経営トップとは思えない軽率さ。「よい主人は…」。先人から伝承された金句をジックリと吟味してはいかが。

休養日

いばらき春秋 7/15

「働き方改革」が叫ばれるようになり、長時間労働の是正に知恵を絞る企業は少なくない。ワークライフバランス(仕事と生活の両立)推進のため、残業を減らし社員に休養してもらう。仕事にメリハリをつけることで生産性の向上を図る。

リフレッシュ効果を狙うのは職場だけでなく、学校の部活動にも及んでいるようだ。中学や高校で定期的に練習を休む日を設けるケースが多くなっているという。

熱戦が続く全国高校野球選手権茨城大会でも休養日が導入されている。連投の弊害が懸念される投手をはじめ選手の疲労回復やけがの防止には有効だろう。

大相撲の横綱稀勢の里が名古屋場所6日目のきのうから休場した。3月の春場所で痛めた左上腕付近が治り切らないまま出場していたが、新たに左足首を痛め、5月の夏場所に続く途中休場となった。

春場所の劇的な逆転優勝が記憶に新しいだけに、得意の左おっつけを出せない不振続きの取組にファンの心配が募っていた。

稀勢の里は責任感が強く土俵に上がることにこだわる精神力の持ち主だという。しかし、これ以上無理を重ねれば力士生命に関わる事態になりかねない。けがを完治させ万全の状態で本場所に臨むため何よりも休養が必要である。

三つのパン

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◎ナマコ(海鼠、trepang、sea cucumber)

 夏目漱石は「我輩は猫である」の中で、「始めて海鼠(なまこ)を食い出せる人は其胆力に於いて敬すべく、始めて河豚(ふぐ)を喫せる漢は其勇気に於いて重んずべし」と書いています。そのナマコは、棘皮動物門ナマコ綱に属する海生の動物の総称で、世界中に1500種類以上、日本にも約200種ほどがいるそうです。この中で食用になるのは、マナマコなど約30種類だそうです。寿命は約5~10年くらいだそうです。最も深海で見つかったナマコは、フィリピン海溝の底で、水深10,497mだそうです。
 ナマコは、ウニやヒトデなどと同じ棘皮(きょくひ)動物で、表面のイボイボは小さな骨片です。腹面には管足(かんそく)が三列あります。これは柔軟な管状の肉で、水の出し入れが出来ます。移動時は水を吸ったり吐いたりして管を収縮させ、先端の吸盤を海底の岩や砂に吸いつかせます。
 20本ほどの触手に囲まれた口で砂や泥を吸い込み、その中のプランクトンなどの有機物を食べます。消化器官は口から排泄口までつながる一本の腸だけです。
 ナマコは古事記にも出てくるほど、古くから日本では関わりがあったようです。天照大神(あまてらすおおみかみ)が天の岩屋戸に隠れた時、岩屋戸の前で踊りをおどった女神、アマノウズメノミコトが、ある時、魚たちを集めて「我に従うか?」と質問したところ、ナマコだけが返事をしなかったので、ミコトは刀でナマコの口を切り開いたと書かれています。
 元々、ナマコは単に「コ」と呼ばれていたようです。それで干したものを「イリコ」(煎り「コ」)、生のものを「ナマコ」(生「コ」)と呼ぶようになったといいます。珍味のコノワタ(「コ」の腸)、コノコ(「コ」の子)もこれに由来しているようです。他の説としては、ナマコには人の眼(マナコ)にあたるものがないので、マナコナシとか、ナマナコ(無眼)と呼ばれていたのが訛ったと言うものや、ヌルヌルして捕らえどころが無く、まるで「滑(なめ)りこ」のようだと言うのなどがあります。
 ナマコは内海の浅い海に棲息して、晩春から初夏にかけて産卵します。その後は、深海に移動して定着し、海底に穴を掘って絶食夏眠します。そして、水温16度以下になると夏眠から覚めて冬の活動期に入ります。このため、味が良くなるのは寒い間で、通は冬至の頃に採れるものを「冬至ナマコ」と言って珍重するそうです。
 食用にする海鼠は「棘皮動物ナマコ網楯手目マナマコ科マナマコ属マナマコ」で、このマナマコには体色でアカナマコ・アオナマコ・クロナマコの3つに分けられています。関東では暗緑色のアオナマコが好まれます。砂地に住み、肉が柔らかいのが特徴です。一方、関西では赤褐色のアカナマコが好まれます。岩礁に住み肉が硬めです。
 ナマコは、ちょっとした刺激でも、肛門から消化器管をはき出す「腸はき」をします。でも、約3週間で元通り再生するといいます。パラオでは、手づかみで捕らえ、胴の先端を切って腸を取り出し、塩をまぶして食べるそうです。胴の方は海に捨てるのだそうです。これは、再び、腸が再生するのを知っているための効率的な食事方法なのでしょうか。
 中国では、乾ナマコを海の「朝鮮人参」という意味で「海参」と呼び、滋養強壮剤として珍重しています。

・コノワタ(海鼠腸):ナマコのはらわたの塩辛です。コノワタの歴史は古く、千年以上前の宮中の記録である「延喜式(えんぎしき)」に「人紅梅」と出ており、珍重されていたようです。

・コノコ(海鼠子):生殖巣を素干しにした物

・イリコ(煎海鼠):ナマコのはらわたを取り去って煮て干したもの。薬用や中華料理の材料などに用いる。平安初期から調物(ちょうもつ:税として納めるもの)とされています。英語では、形が胡瓜(キュウリ)に似ているのでsea cucumber(海の胡瓜)と呼ばれます。

 字が似ている「老海鼠」は「ホヤ」と読みます。今は「海鞘」と書きますが、昔は海鼠(ナマコ)が年老いて老海鼠(ホヤ)になると考えられていたので、このように書かれたようです。


…………………………

四季風 7/15

聖書に「人はパンのみにて生きるにあらず」との言葉がある。生物学者の本川達雄氏は、人が生きていくためには「体のパン」「心のパン」「脳のパン」という三つのパンが必要と説く。

パンを供給する農学や経済学などの実学が「体のパン」。心に栄養を与える宗教や芸術、文化が「心のパン」。たとえば、アリなどを研究する学問が「脳のパン」

ナマコを研究する本川氏は、自らの学問を「虚学」と自嘲気味に呼ぶ。虚学が社会生活に役立つとは思えないが、本川氏は「なぜこんな生き物が存在するのかを研究し、世のさまざまな物事を知り、自分の世界を広げることで脳が快感を覚える。」

アリストテレスは『形而上学(けいじじょうがく)』で、「すべての人は生まれながらにして知ることを欲する」と記す。知る楽しさをもとに世界を知り、自らを知り、その上で世界の中での自分の立ち位置を知る。本川氏はそれが学問の楽しさだという。

子どもたちが待ち望む夏休みがやってくる。不確定なことや分からないことが充満し、正解がない世界にあって、それを見る私たちの視野は決して広くはない。これまで知らなかったものの見方や問い方に触れる日々も大切な思い出になるかもしれない。

百合は霊魂の光だ


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目次

天安門事件と 「08憲章」 を一つにする存在――序にかえて
子安宣邦

劉暁波について
及川淳子


Ⅰ 〈詩〉 天安門事件――墳墓からの叫び             劉暁波

十七歳へ 〔2周年を迎えて〕
(劉燕子訳)

記 憶 〔6周年を迎えて〕
(劉燕子訳)

ぼくのからだのなかの天安門事件 〔12周年を迎えて〕
(劉燕子訳)

六四、 一つの墳墓 〔13周年を迎えて〕
(劉燕子訳)


Ⅱ 天安門事件の真相隠蔽に抗する――中国民主化の原点   劉暁波

忘却に対する記憶の闘い 〔15周年を迎えて〕
(劉燕子訳)

「天安門の母たち」 ――受難が生んだ高貴で堅固な思想
(横澤泰夫訳)

歴史の真実を恐れる独裁権力 〔17周年を迎えて〕
(横澤泰夫訳)

文化大革命から天安門事件まで――中国民主化の挫折
(横澤泰夫訳)

これは 「住民虐殺」 である――真の友好は真相究明を求めること 〔18周年を迎えて〕
(横澤泰夫訳)

「転換期の正義」 ――変革に暴力革命は必要ない 〔18周年を迎えて〕
(横澤泰夫訳)


Ⅲ 希望は民衆の自治・共生にあり――中国民主化への突破口  劉暁波

寛容精神にもとづく抵抗に無力な独裁権力―― 「箱舟教会」
(蒋海波訳)

一人一言の真実が独裁権力を突き崩す――言論の自由こそ民主化の出発点
(及川淳子訳)

四川大震災の受難に見る希望の光――民間による自発的な自治・共生
(及川淳子訳)

民間組織はすべて 「非合法組織」 なのか――結社の自由をめぐって
(蒋海波訳)


Ⅳ 「08憲章」 とは何か――中国民主化の方途

「08憲章」 (全文)
(及川淳子訳)

我々と劉暁波を切り離すことはできない――劉暁波を釈放せよ
(及川淳子訳)

アジアにおける 「08憲章」 の意義
余 傑 (及川淳子訳)

なぜ私は 「08憲章」 を支持するのか
子安宣邦


編者解説     劉燕子
編者あとがき   劉燕子

…………………………

中日春秋 7/15

「百合は霊魂の光だ」と書いたのは、中国の民主活動家・劉暁波さんである。

民主化を求める人々が武力で圧殺された天安門事件。その日がめぐり来るたび、劉さん夫妻は、百合を部屋に飾ったという。彼は、書いている。

<白い百合が暗夜にきらめく。ほころぶ花びらと緑の葉がきらめく。淡い花の香りがきらめく。まるで霊魂の死んでも死にきれない瞳のようだ>(『天安門事件から「08憲章」へ』藤原書店)

天安門事件のときに彼は、自由のためには非暴力での抵抗を貫くことこそが大切だと訴えた。「憎しみは暴力と専制を生み出すのみ」との理念を投獄されても変えず、国家政権転覆扇動罪に問われた裁判で、言い切った。「私には敵はいない。私には憎しみはない」。自分を弾圧した警察官や検察官も「みな私の敵ではない」と。

二〇一〇年のノーベル平和賞の授賞式に劉さんは出席できず、彼が座るべき椅子は空席のままだった。六十一歳での早すぎる死を、ノルウェーのノーベル賞委員会は「彼が座るべき椅子は永遠に空席のままとなってしまった」と悔やんだが、その席に似合うのは、純白の百合であろう。

彼は、こうも書き残した。<百合は、霊魂のために灯(とも)された祈りの火で、ぼくをじっと見つめ、熱く燃えあがらせ、明るく照らしだす。自由を渇望した人は死んだが、霊魂は抵抗のなかで生き続けている>

サンマ





「秋刀魚の歌」 佐藤春夫

あわれ
秋風よ
情〔こころ〕あらば伝へてよ
――男ありて
今日の夕餉〔ゆふげ〕に ひとり
さんまを食〔くら〕ひて
思ひにふける と。

さんま、さんま
そが上に青き蜜柑の酸〔す〕をしたたらせて
さんまを食ふはその男がふる里のならひなり。
そのならひをあやしみてなつかしみて女は
いくたびか青き蜜柑をもぎて夕餉にむかひけむ。
あはれ、人に捨てられんとする人妻と
妻にそむかれたる男と食卓にむかへば、
愛うすき父を持ちし女の児〔こ〕は
小さき箸〔はし〕をあやつりなやみつつ
父ならぬ男にさんまの腸〔はら〕をくれむと言ふにあらずや。

あはれ
秋風よ
汝〔なれ〕こそは見つらめ
世のつねならぬかの団欒〔まどゐ〕を。
いかに
秋風よ
いとせめて
証〔あかし〕せよ かの一ときの団欒ゆめに非〔あら〕ずと。

あはれ
秋風よ
情あらば伝へてよ、
夫を失はざりし妻と
父を失はざりし幼児〔おさなご〕とに伝へてよ
――男ありて
今日の夕餉に ひとり
さんまを食ひて
涙をながす と。

さんま、さんま
さんま苦いか塩つぱいか。
そが上に熱き涙をしたたらせて
さんまを食ふはいづこの里のならひぞや。
あはれ
げにそは問はまほしくをかし。


…………………………

越山若水 7/14

「さんま、さんま/さんま苦いか塩っぱいか」と佐藤春夫に歌われたほどだから、サンマは日本の魚。と思うのは早計で、実は太平洋の真ん中の公海に棲(す)んでいる。

夏から秋にかけ、産卵のために南下する。西へ回遊すれば日本沿岸も通る。それを捕っているのが日本の漁船だ。ところが回遊量が減り一昨年から不漁に泣く。

公海では、どの国も好きなだけ捕れる。なかでも進出が著しいのが、中国だ。船を大型化し、はるばる出掛けて一網打尽に。この5年間で漁獲量を30倍に伸ばした。

生鮮サンマや加工品を輸出する台湾も活発だ。一番の水揚げを誇った日本の1・5倍に増やした。なぜこうなったか。公海での乱獲で魚が減ったからだ、とみるのが日本である。

8カ国・地域が参加する北太平洋漁業委員会が、札幌市で始まった。日本はサンマの漁獲枠を国別に設ける提案をした。捕る量を制限し、資源を枯渇させないようにする意図だ。

折も折、東京・築地市場には北海道沖で取れたサンマが初入荷した。その量は昨年の8倍近く。うれしい話だが、資源枯渇を心配する主張からすればちぐはぐになった。

専門家によれば、マイワシなどと比べればサンマの資源量にはまだ余裕があるらしい。けれど巨大な胃袋を持つ中国がいまの勢いで捕り続けたら…。難航必至の協議だが、サンマだからといって苦い結論は困る。
…………………………

有明抄 7/14

 「さんま、さんま/そが上に青き蜜柑(みかん)の酸(す)をしたたらせて/さんまを食ふはその男がふる里のならひなり」-。青き蜜柑は、まだ青い温州ミカンを絞ったものとか。サンマの焼けた脂の匂いまで伝わってくるようで、食欲をそそる。佐藤春夫の詩『秋刀魚(さんま)の歌』である。

今週、北海道であったサンマの初競りで、1キロ40万円の値がついたというニュースに驚いた。初物のご祝儀相場とはいえ、たった7匹でこの値段。1匹当たり5万7千円というから、ずいぶん気前がいい。これも景気が回復した表れかと思ったら、ちょっと事情が違うようだ。

乱獲が進み、サンマそのものが枯渇しかねないのだという。中国の漁獲高は、たった3年で20倍以上も伸びた。乱獲に加えて、地球温暖化を背景にした海流の変化なども指摘されており、深刻な不漁が心配されている。きのう札幌市で始まった漁業管理の国際会議。日本は漁獲枠を設けるよう提案したが、果たしてまとめきれるだろうか。

佐藤の詩はサンマのくだりで生唾(つば)がわくが、実は気楽な内容ではない。「今日の夕餉(ゆうげ)に ひとり/さんまを食(くら)ひて/思ひにふける と」。妻に去られた男の独白で「さんま苦いか塩(しょ)っぱいか」と続く。

サンマは時にほろ苦く、人々と哀歓をともにしてきた。願わくは、これから先も庶民の味覚であり続けますよう。

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雑学『サンマ』という名前の由来


サンマは秋を代表する魚として有名で、名前に「秋」という漢字が使われている魚です。ちなみに秋刀魚(さんま)という漢字の由来はシンプルで、秋によく釣れることと、細い身体が日本刀のように鋭い刀に見えることから『秋刀魚』という漢字で書かれるようになりました。

しかし、この「秋刀魚という漢字」が登場したのは近年になってからで、昔は「サイラ」「サマナ」という名で呼ばれていました。漢字にすると「佐伊羅魚」「狭真魚」と書き、特に「サマナ」が変化して「サンマ」と言うようになったというのが有力説です。


サンマは昔食べられていなかった?

サンマは日本人なら誰でもその名を知っているでしょう。その証拠に、サンマが旬を迎える秋になると、ニュースなどでも焼いたサンマや、色々なサンマを使った料理が紹介されています。ところが、サンマは江戸時代後半になるまでの間は、庶民さえ食べようとしない、格の低い魚として扱われていたのです。
江戸時代では、サンマは主に油を取るためだけに利用されていました。
今でこそ「あんな美味しい魚を食べないのか?」と疑問に持つかもしれません。しかし、当時は鮮度を維持をするのも難しい時代で調理の手間などもあり、なかなか庶民が食べる機会が無かったと考えられています。



謎多き魚 サンマの生態

今となっては日本人に親しまれているサンマですが、その生態には謎が多いといわれています。
まず、最近までサンマの寿命は四年前後と言われていました。しかし、最近の研究では、サンマはたった1~2年程度の寿命しかないということがわかりました。
最近では「アクアマリンふくしま」にて、サンマの飼育に成功し、サンマが卵を産むところまで育てることができました。今までサンマの産卵は冬の時期だと考えられていました。しかし、稚魚のサンマが成長して産卵するまでの期間はたった半年ということが分かりました。

サンマは短い寿命の中で、すぐに産卵できるようになるため、子孫を残す機会が多い魚といえます。現在ではサンマは一年中産卵をしていることがわかっています。

養殖しなくても、サンマを安定して供給できる理由は、サンマが一年中産卵する特性があるからです。



『サンマは目黒に限る』とは?

すでに説明したように江戸時代までは、サンマは庶民さえ食べない、油をとるためだけに消費されていました。
しかし、とある有名な落語にサンマが登場し、お殿様から絶賛された話があります。それが、『目黒のサンマ』という話です。
お殿様が狩りに出かけると、その日は良く獲物が取れたため、帰りの時間がかなり時間が遅くなってしまいました。お殿様や家来達は空腹を我慢できず、良い匂いがしている近くの庶民の家へと近づいていきました。どうやらその家ではサンマを焼いており、家来は「殿様が食べるような魚ではない」と食べることに反対しました。しかし、お腹が空きすぎていたお殿様は、家来の反対を押し切ってサンマを食べたのです。すると、殿様はそのサンマの味を気に入り、城に戻ってからもサンマを用意させて食べました。ところが、それは庶民が焼いたサンマの味に遠く及ばないものだったそうです。殿様が食べたサンマは目黒のサンマで、「綺麗に調理されたサンマよりも、目黒の庶民が焼いた魚の方が美味しい」と殿様は考えました。それから「サンマは目黒に限る」といったそうです。
この話は、「見た目にこだわって調理したものよりも、庶民が焼いたサンマの方が美味しい」という秋の話として有名です。格が高い殿様が庶民が食べていた魚の味も知らなかった、というおもしろい話ですね。

朝顔

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四季風 7/14

朝顔がやっと1輪咲いた。早朝に花を開き、お昼前にはしぼむ、はかない命である。花が開いている時間はなぜそんなに短いのか、3年前に研究成果が発表された。

花がしおれる時間を調整する遺伝子が見つかった。それならと遺伝子の働きを抑えたところ、開花時間が2倍以上に延び、次の日の朝まで花はもった。

朝顔の特性のひとつに色の変化がある。青かった花がしぼむころには赤紫色になったりする。一種の老化現象だが、先の研究で、開花時間は延びたのに、色は従来通り変化した。

人間なら、寿命を延ばすことはできても老化の諸相は止められないということか。何やら暗示的だと思いながら見つめる朝顔に、多くの俳人が詠んできた名句が重なった。

勝手な印象ではあるが、朝顔は市井を連想させるのにぴったりな花である。井戸端会議、そしてコミュニティーの象徴として。江戸時代の俳人加賀千代女「朝顔につるべとられてもらひ水」はその代表句だ。「蕣(あさがお)に子供の多き在所哉」(小林一茶)もいい。

九州北部豪雨で犠牲者ゼロの集落での原動力は地域の共同体意識だったという報道に触れた。以来「蕣に垣ねさへなき住居(すまい)かな」(炭太祇)の句が頭から離れない。

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アサガオの雑学

アサガオと言えば、あなたも小学生の頃に学校で栽培をしたり、家で夏休みの宿題として観察日記を書いたのではないでしょうか?アサガオは夏の花の代表ですよね。

その頃を思い出して欲しいのですが、アサガオの色は何色でしたでしょう。

では、夏の花の雑学から行きますよ!

黒いアサガオや黄色のアサガオは存在しない!
「えっ!黒いアサガオや黄色のアサガオは見たことがあるぞ!」と思われる方は、昭和40年より前に生まれた方だと思います。

正確には、昭和40年代を最後に黒いアサガオと黄色のアサガオは絶滅したと言われています。

しかし、黄色のアサガオは2014年10月10日に愛知県の基礎生物研究所の研究グループによって「幻の黄色いアサガオ」として再現されました。


アサガオはその昔々、遣唐使がお腹の薬として日本へ入ってきました。

その当時のアサガオの色は淡い青色だけでしたが、江戸時代に入ると品種改良が盛んに行われ「黒いアサガオ」や「黄色のアサガオ」も登場したようです。

黒いアサガオも黄色のアサガオも現在では幻のアサガオと言われています。

黒いアサガオはイギリスの花卉栽培会社が世界で初めて自然交配で栽培を成功!と話題になりました。

残念ながら、日本では幻のアサガオと言われる、黄色のアサガオは再現に成功しましたが、黒王や明鳥という黒いアサガオがありますが、濃い紫色で黒とは呼べない状態で一歩イギリスに負けています。
さつまいもはアサガオの仲間?
さつまいもはピンク色のアサガオのような形の花が咲くのを見たことがありますか?

日本のような温帯ではあまり花がつかないようです。

正解は、さつまいもはヒルガオ科サツマイモ属の植物になるので、アサガオの仲間になります。

さつまいもはスペイン人やポルトガル人によって広められましたが、日本へはフィリピンから琉球(沖縄)そして薩摩藩に伝わったと言われています。

難民選手団

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イエーシュ・ピュール・ビエル、21歳、南スーダン出身、陸上男子800メートル

イエーシュ・ピュール・ビエルは人生で成功したければ、自分自身で成し遂げなければならないだろうことを、早い段階から知っていました。2005年にスーダン南部の紛争から逃れることを余儀なくされ、彼は結局自分でケニア北部にある難民キャンプにたどり着きました。彼はそこでサッカーをはじめましたが、多くをチームメイトに委ねなければならないことにフラストレーションを感じるようになりました。走ることでは、彼は自分の運命をよりコントロールできると感じました。

「私たちは皆、たくさんの困難に直面しています」とイエーシュは語ります。「難民キャンプにはなんの設備もないのです。靴すらありません。ジムもありません。日が昇ってから夕方まで、晴れていてとても暑いので、気候すらトレーニング向きではありません。」
「私は難民の仲間たちに、人生には機会も希望もあるということを示すことができます」

けれども、彼はやる気に満ちています。「私は故郷の国、南スーダンのことを気にかけています。なぜなら変革を起こすのは我々若い世代だからです」と彼は言います。「そして2つ目には、両親のことを気にかけています。彼らの生活を変える必要があるのです。」
リオ五輪で陸上800メートルの競技に参加することで、各地にいる難民のための大使になれるかもしれない、とイエーシュは言います。「私は難民の仲間たちに、人生にはチャンスも希望もあるということを示すことができます。教育を通じて、そしてマラソンでも、世界を変えることができます。」

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中日春秋 7/14

イエーシュ・ピュール・ビエルさん(22)は、リオ五輪で一つの夢をかなえた。出場した陸上男子800メートルでは予選最下位。しかし、選手村にいた彼にある朝、一本の電話がかかってきた。

彼の母国・南スーダンでは内戦が続き、故郷の村も戦闘に巻き込まれた。ビエルさんは家族と離れ離れになり、隣国の難民キャンプに逃れ、十歳からひとりきりで生きてきた。

だが、「難民選手団」の一員として彼がリオ五輪に出ていることを知った母が、援助機関に頼んで国際電話をかけた。生きているかどうかも分からなかったお母さんの声を、聞くことができたのだ。

国際オリンピック委員会が、東京五輪にも「難民選手団」を参加させる方針を確認したという。ビエルさんも「東京で世界記録樹立を」と意気込んでいるそうだが、気になるのは、この国が難民にどれだけ門戸を開いているかだ。

昨年は一万人を超える人々が難民認定を求めたが、政府が認めたのは、わずか二十八人。認められなかった人が異議を申し立てた場合は、法相に任命された有識者らが審査するが、この審査で「難民相当」と認められた人ですら、法相が「不認定」で押し通すことも多いというから、ほとんど「開かずの門」である。

門を閉じたままで、三年後の東京五輪を迎えるのか。それで、「難民選手団」が躍動する姿に、心から拍手を送れるのだろうか。