ウサギとカメ

20171015134619787.jpeg


くろしお 10/15

 宮崎大学副学長の伊達紫(ゆかり)さんは、祖母50回忌の説法で、次のような質問を投げかけられた。「イソップ童話の『ウサギとカメ』に出てくるウサギはなぜカメに負けたのか」。

 「油断したから」が求められている答えではないことは明白。さりとて他に気の利いた答えも浮かばず座はしばし沈黙したという。お坊さんの回答は「カメはゴールだけ見て走ったが、ウサギは相手だけを見ていたから」だった(2011年3月7日付本紙客論)。

 日本の針路を決める衆院選投票日まであと1週間。5年近く一強時代を続ける安倍政治を問う選挙である。政権継続を狙う自民、公明両党に対して希望の党、日本維新の会、共産、立憲民主、社民各党の三つの極が対決する構図になった。

 衆院選序盤情勢の電話世論調査で、300議席超をうかがう勢いと報じられた与党は油断すれば風向きが一気に変わり敗北につながると、神経をとがらせる。一方劣勢が伝えられた野党側は選挙戦後半での逆転を目標に巻き返しを期す。さて、結果はどうなるか。

 小池都知事の新党旗揚げや野党第1党の分裂などドラスチックな政界変動があったため前回より有権者の関心は高い。投票率が上がれば無党派層の票の積み重ねが選挙の帰趨(きすう)を決める可能性が高まる。与党必死の引き締めは当然である。

 伊達さんは6年前の客論で、国会議員にゴールを見つめる一流のウサギであれ、と要望しているが今の候補者はどうか。わが身のみ思い、他党の揚げ足を取ろうと目を血走らせたウサギならば、有権者の期待をすぐ裏切ることになるだろう。

…………………………

20171015135416307.jpeg


宮崎大の女性活躍・人財育成担当理事になった 伊達 紫(だて・ゆかり)さん
2015年10月18日

 国立大学法人宮崎大学が新たに設けた「女性活躍・人財育成担当理事」に1日付で就任した。「女性」の冠の宣伝効果を自覚しつつ、任期中の3年間は医学部教授の立場を超えた幅広い人材育成に挑む。「大学は多様な人材を育てたい。その中に女性も入る。いろんな人の力を引き出せば、相乗効果が生まれる」と信じる。

 同大学の男女共同参画推進室長を7年間務めてきた。今後は取り組みをさらに地域に広げるつもりだ。「大学の役割は未来の地域に人を残すこと。地域と連携しながら、年齢や性別にかかわらず誰もがチャンスをつかめる土壌をつくりたい」 福岡県飯塚市出身。大分医科大を卒業、宮崎医科大大学院を修了した。実はずっと、女性の問題を実感したことはなかった。両親からは「女性は生活するための経済基盤を持つべきだ」と育てられ、医師の道へ。指導者にも恵まれ、神経内科医としての仕事や研究に夢中になっていた。

 男女共同参画推進室長になって初めて、挫折する女性の存在や不公平な現実を突き付けられた。「女性管理職の数値目標には疑問を感じていた」というが、同時期に医学部医学科でただ一人の女性教授に。会議などで比率の重みを身をもって知った。自らも葛藤しながら、男女ともに働きやすい環境づくりは続く。

 54歳。スポーツ観戦が好きで、ラグビーワールドカップに学生時代のラグビーブームを思い出し、胸を熱くしている。「首が折れそうなのにぶつかっていき、一歩でも前に進もうとする。仕事もかくありたい」。宮崎市在住。

…………………………

スポーツの秋~第3レース
 10月といえば...体育の日!? スポーツの秋の到来です。全国各地で運動会やスポーツ大会が開催されることでしょう。

 私が小学生の頃の運動会の思い出といえば、毎年のように雨で順延になることでした。その原因として噂されていたのが、元々、小学校の校舎や運動場があった場所が墓地だったため、「呪われている」というものでした(笑)。これはおそらく都市伝説に違いありませんが、6年間のうちの半分くらいは雨で順延になったことは確かです。
 私は幼い頃から、かけっこが得意なほうでした。お寺の住職になってからも度々、校区の運動会のリレーやムカデ競争に引っぱり出されますが、40歳を過ぎると思うように脚が前に出ません。

 ところで、夏休み中に小学生の坐禅会を行なった際、「ウサギとカメ」のお話をしました。昔話では、ウサギに歩みの遅さをバカにされたカメが山の麓までのかけっこを挑みます。スタートするや否や、一目散に駆けていったウサギですが、途中で余裕綽々と居眠りをしてしまい、マイペースで進むカメに勝利を奪われてしまいます。
 このお話の教訓は、過信して思い上がり、油断をすると物事を逃してしまう。また、能力が弱く歩みが遅くとも、脇道にそれず着実に真っすぐ進むことで、最終的に成果を得ることができるというものです。
 では、同じ条件で第2レースを行なうとします。今度はウサギとカメのどちらが勝つでしょう? おそらく同じ失敗を繰り返さない限り、ウサギが勝つのは明白です。しかし、そもそも不利なかけっこで、ハンデもなしに勝負を挑むカメはあまりにも無謀です。
 そこで第3レースを行ないます。今度は途中までのコースは同じですが、池の中に浮かぶ小島がゴールです。果たしてウサギとカメのどちらが勝つでしょうか? ちなみにウサギは水が大の苦手です。
 さて、真っ先に池に辿り着いたのはウサギ。しかし、水が苦手なウサギは途方に暮れています。そこへ後から遅れてやってきたカメ。カメは困っているウサギを背に乗せると、スイスイと泳いで池を渡っていきます。そして、ウサギとカメが仲良く手をつないでゴールイン! お互いの違いや個性を認め合い、活かすことで、みんなが幸せに暮らせるようになるはずです。

 無門関の第一則に見られる「把手共行」という禅語は、手をとって共に行くと読みます。自他が協力し合うだけでなく、自己に内在する仏(慈悲心)と一つになるということでもあります。
 もしも、カメが自分だけ泳いで渡ったとしたら? もしも、ウサギがラストスパートとばかりに抜け駆けしたら? おそらく、どちらも後世の笑い者になってしまうでしょうね。

…………………………

「兎と亀」

 今日は皆様方がよくご存知の話からちょっと考えさせていただきましたことをお話させていただきます。
日本の昔話に ”ウサギと亀”という話がございます。うさぎが亀にカケッコを申し込みまして亀さんは、やりたくなかったかどうか判りませんけれども申し出を受けてマラソンをやります。うさぎが途中ひる寝をしてしまい、亀さんが先にゴールインするという、あの有名な話ですけれどもこのような話は日本だけでなく、アフリカのカメルーンという国や、或いはロシアにもウサギと亀の話があるようでございます。
 日本のウサギと亀の話は、ウサギが安心してしまい。途中でひる寝して負けてしまうという油断大敵と、亀の遅くてもこつこつと努力をしていくことの大切さを私達に教えてくれていると思います。
 さて、これが、外国の話になりますと、カメがうさぎに競争を申し込み、日程や場所を取り決めて後日レースが始まります。ですが、そのレースが始まる前の1~2日余裕のあるうちに、カメは仲間、親戚に全部声をかけてそのレースをする一定のところにカメを全部配置させる。ヨーイ・ドンの合図で競争がはじまります。勿論、カメはのろいですから、うさぎに敵う訳がありませんので一定のところで代わる代わに入れ替わり、うさぎが振り返ると、後ろにぴったりついています。ということで。勝ったのはうさぎが勝ったのですが、うさぎは最後まで短距離ではありますが全速力で駆けていますからゴールした途端に死んでしまったと。ですから、日本の話は油断大敵ということを教えますが、この話は準備とか、知恵とか、連帯とかいうものをイメージする、そういう教えの話になっているそうでございます。

 こういう話というのは、寺にもいろんな法話の材料になる本がたくさんありますので、この話を元に調べてみますとやはりインドとか或いはロシアもそうですが要するに、この話をいたしますと、それはカメが悪いということになるそうです。 なぜ悪いのか、もしうさぎが寝ておったら何で起こしてやらないのか、これは友情も何にもないじゃないか、そのカメというのはとんでもないやつだ。とこうなる訳でありまして、では、果たして日本人に同じようにこの話をいたしました時に、どういう感覚をもたれるのかなあ...たとえば、うさぎのひる寝している奴が悪いのだ、起こしてあげる義務、ルールはないのだから起こさなくてもいいんじゃないかという考え方も出てくるのかなあと思います。 競争なのだから、一生懸命に走っているのだから、ひる寝して,油断大敵しているやつが悪いのだ 起こすことはないということになってしまう。となると、勝つためならなんでもいいというそんなエコノミック アニマル的感覚に、捉われすぎてしまうのかなあーと思います。

 敗者には、負者の痛みがあり 勝者の方にも勝った方の痛みというものも、出てくるのではなかろうか、負けた者は口惜しい、残念だというこういう気持ちが出てまいります。それ故に更に努力して、次回には、とこう云う気持ちにもなる訳です。その時 一番大切なのは,勝った方の 勝者の人の気持ちはどうなのかな。お前は勝負に負けたのだから、敗者だ 負け犬だ 何も云う資格はない黙っていろ と云うそんな驕り 昂ぶりとなった時には、勝者といえども、本来の人間性を失った言動、行動ではないのかな。勝った者が、負けた者に対するいたわりの気持ちを持ってこそでありますが、それが今申したように、ルールもない ひる寝していた奴が悪い、確かに悪いかも知れませんが、負けた者を罵るような勝者の気持ちというものを、我々はよくよくこのうさぎとカメの話の中に学ぶ必要があるのではないかと思います。 合掌  

…………………………

~カメがウサギを追いこしていたら~

ウサギとカメが競争して、途中寝込んでしまったウサギがカメに負けてしまうという話は、さまざまな受け取り方があるようですね。日本では「油断大敵」という教訓になっていますし、イソップ物語では、たとえ遅くても着実にやっておれば必ず成功するのだとの教えになっているようです。
随分前に、ある保母さんのレポートを読んだことがあります。その保母さんが園児に質問をしました。
「ウサギが居眠りをしているのを見たら、カメさんはウサギさんをおこしてやって、いっしょに山へ行こうって言ったらいいのにねえ?」
すると子どもたちの間からワーッと反対の声がおこりました。
「いやや! そんなんウサギおこしてやったら損や。ウサギの横をそおっと通って、先に行かんと損や、損や!」 
さて、ある女性が、ソビエトヘ旅行したときのことです。小さな小学校を訪ねる機会があり、日本の童話を聞かせて欲しいとせがまれました。とっさのことで、ウサギとカメの話をしたのでした。すると、次々に子どもたちの手が上がって質問ぜめにあったのです。
「なぜ、カメはウサギをおこさないのか!」
「眠っているウサギをおこさないで、勝つなんて本当の勝ちではないのでは……。」などです。
「うさぎをおこすのは損や!」という子どもも「おこさないで勝ったことは本当の勝ちではない!」という子どもも、それぞれに日常生活の中にその判断をさせる何かがあるように思えてなりません。
ウサギとカメの話は、現実の大人の社会にはよくある話。その大人のもとで育つ子どもたちは、思ったまま、見たままを言っているのかもしれません。

…………………………

精進 -仏教における努力とは-
東福寺住職  伊藤 弘陽

 がんばることは大切なことです。でも、がんばっても必ず結果が出るとは限りません。成績や結果ばかりにとらわれていては、大切なものを見落としてしまいます。昨今、学校の部活動やスポーツの世界における体罰が大きな社会問題となっています。これは現代社会における行き過ぎた「成果主義」が問題点としてあげられるのではないでしょうか。がんばること、努力することの意味を問い直してみましょう。
 みなさんは「ウサギとカメ」という昔話をご存知でしょうか。ウサギとカメが足の速さのことで言い争い、かけっこで競争するお話です。ウサギは生まれつき足が速いので、真剣に走らず、道からそれて居眠りをはじめてしまいます。カメは自分が遅いことを知っているので、休まず走り続け、ウサギが横になっているのを通り過ぎて勝利のゴールに到着しました。足の遅いカメでも努力を続けた結果、最後にはウサギに勝つことができた。才能よりも努力を続けることの大切さを説くお話でした。ところが成果主義の視点でいうと、「成果のない努力は価値のないもの」となってしまいかねません。
 なぜカメは勝てるはずのない勝負をウサギに挑んだのでしょうか。普通に競争したならば、カメがウサギに勝てる確率は万に一つもありません。ウサギが途中で居眠りすることも競争する前に予測はできません。もし仮に、私がカメの立場なら、自分の苦手なかけっこではなく、得意な泳ぎで勝負したことでしょう。それなら勝負に勝ってウサギを見返してやることは十分にできたはずです。しかし、カメは苦手なかけっこで勝負を挑んだのです。
 仏教に「精進(しょうじん)」という言葉があります。「仏道修行にはげむこと、一所懸命に努力すること」という意味です。他と比較して優劣をつけたり、勝ち負けに一喜一憂したりするのではなく、自分自身と向き合い、自分自身を見つめ、自分自身を高める努力を精進というのです。カメとウサギは同じ道を走ってはいましたが、他人との比較でしか自分自身を見つめられないウサギと、自分自身をまっすぐに見つめるカメの心の内には大きな隔たりがあったと思われます。
 お釈迦様の短い教えを集めた『法句経』の中に次のような一節があります。

  おのれをととのえ なすところ つねにつつしみあり
  かく おのれに克つは すべて他の人々に かてるにまさる
  (『法句経』104 友松円諦訳)

 カメが選んだのはウサギに「勝つ」のではなく、己に「克つ」ことなのかもしれません。自暴自棄になったり、逃げたりするのではなくただウサギと競争したい。そこには楽しささえ感じられるのではないでしょうか。仏教の「精進」を通じて「己に克つ」仏さまの心で歩んで参りましょう。

…………………………

  「ウサギとカメ」物語再考 =ウサギの名誉回復珍説=
  
常現寺住職 高山元延

 「さわやか説法」新春号は卯年にちなみ、かの有名な『イソップ物語』にある「ウサギとカメ」の寓話(ぐうわ)を、この高山和尚が仏教説話『ウソップ物語』「ウサギとカメ」に変じて、改めて再考し、ウサギさんの味方になって語ってみたい。
 なんたって、今年はウサギ年ですからね!!
 イソップさんには申し訳ないけど、カメさんに味方しないで、ウサギさんの名誉を回復させたいのである。
 イソップさんとは、紀元前六世紀頃の古代ギリシャの人。「イソップ物語」の作者で、その物語は動物や虫や鳥の寓話を中心にして語られ、現代においても幼児や子ども達に語り継がれ、絵本やアニメそして童話本として数多く出版されている。
 代表的な話では、「アリとキリギリス」「北風と太陽」「ありとハト」そして標題の「ウサギとカメ」とかがある。
 日本には、文禄二年(1593)イエズス会宣教師によって伝来され、江戸初期から「伊曾保物語」として出版されていたという。その当時から子供教育の書として親しまれていたというから、スゴイ物語なのである。
 それは、とりもなおさず、「寓話(ぐうわ)」という形式で、その内容が、いつの時代にもマッチした人間形成の教え、あるいは教訓が根底にあったからこそであろう。
 その中の「ウサギとカメ」の内容は、こうである。
  もしもし かめよ かめさんよ せかいのうちに おまえほど あゆみののろい ものはない どうして そんなにのろいのか ♪(石原和三郎作詞)と日本の童謡にも歌われているように、ウサギとカメが小山のふもとまでどちらが先に駆け着くか競争したのである。
 ウサギはピョンピョン跳ねての俊足であり、カメはノタノタの鈍足である。
 だから当然、ウサギが勝つということになるが、イソップさんは、俊足のウサギに途中で昼寝をさせてしまい、結果的に鈍足のカメが追越してゴールしてしまうという物語にしたのであった。
 ここでイソップさんは、我々に教訓するのだ。自分の能力を過信し、思い上がって油断をすると物事を逃してしまう。しかし着実に歩みを進め、一生懸命努力をすることによって、最終的には大きな成果を得ることが出来る。とのことである。
 だから、あなた達も怠ることなく、励みなさいとの教えであった。
―しかしながら―
 私は「イソップ」ならぬ「ウソップ和尚」となって(もとより、ほら吹き、嘘っぷ和尚ではあるが)、ウサギを弁護してみることにした。
 何たって、ウサギちゃんは可愛いし、仏教の物語では、我が身を火に投じてまでも、おじいさんを救わんとした思いやりのある動物だし、長横町では、その衣装を着て乾杯してニッコリ笑ってくれたし…。
 そしてまた、冒頭に述べた通り、今年は「卯年」だからである。

 イソップ版「ウサギとカメ」の教訓とする問題点は「ウサギの途中の昼寝」にある。
 もし、ウサギが昼寝をしなければ、カメより先にゴールしていたということになり、何ら物語として成立しないし、面白くも、おかしくも、教えともならない。
 このウサギの昼寝の状態をどう判断するかが、大きな問題点とするところだ。
 あれは、どうしても、ウサギさんは途中で昼寝しなければならなかったのだ。
 何故、昼寝しなければならなかったのか、それは、向こうの小山のふもとまでの「距離」にある。
 きっと近場の小山までではなく、ずうっと遠い遠いはるか向こうの小山のふもとだったに違いないと私は思った。
 ウサギは俊足ではあるが短距離走者であって、長距離は苦手である。ところがカメは、鈍足ながらも、スタミナは抜群であり、長距離走者向きであった。

 それに反し、ウサギの寿命は、せいぜい5~6年であり、持久力においては全然比較にならないのである。
 だから、あのウサギさんは疲れ果てて、途中でどうしても昼寝せざるをえなかった。
 かくして「亀は万年説」に立てば、あのカメさんは百才であろうが千才であろうが、まだまだ若者であって、かたやウサギさんは3,4才ならば早や中年、5才ともなれば、もう高齢者に属するのであって、鼻から、この勝負は目に見えていたと思わざるをえない。(私、ウソップ爺さんは、一生懸命ウサギさんを擁護してます)
 それをカメさんは、倒れているウサギさんを、介抱することもなく見て見ぬ振りをしてゴールしたのであろうか。ウサギは怠けて昼寝したのではない、倒れていたのかもしれないのだ。

 ひるがえって、近場の小山のふもとがゴールだったと仮定しよう。
 その時、火に我が身を投じてまでも、おじいさんを救わんとするぐらいの優しいウサギさんだからこそ、カメさんの歩みが、あんまりにも遅いものだから、気を使いゴール手前のところで待っていたのだ。でも、待ちくたびれて、ついつい眠ってしまったのかもしれない。
 そんなウサギさんの優しさを知らずに、しめしめとカメさんはゴールしたのである。
 はたまたウサギの目は赤い。きっとそれは前の日飲み過ぎて二日酔いか、あるいは泥酔騒ぎをしたかもしれないのだ。(あの海老蔵会見でも、目が充血していた。…)
(※またまた昨年に引き続きワイドショーの感化を受けてます)
 だから、どうしても次の日、身体(からだ)を休まざるをえなかったのである。

 ついつい「ウソップ和尚版ウサギとカメ」は、ウサギさん擁護の為、昼寝の状況を分析しているが、今度はカメさんの立場からも考えてみよう。
 あの時のウサギさんは、目線は競争相手のカメさんしか見ていなかったのである。
 それに反し、カメさんは、足の速いウサギさんを見ずに、遠くのゴールを見ていたのであった。
 つまり、カメさんは自分の足の速さを十分に認識していて、ともかくゴールすることだけを目指していたのである。
 だからこそ、ウサギさんが倒れてた(or昼寝)していたことに気づく余裕すらなかったことも確かなことだ。

 イソップさんのこの物語から考察できることは、人生に於いての「競争」とは、競争相手を見るか、目標であるゴールに視点を置くかのことを教えているのであろう。
 いわゆる「ウサギ目線」か「カメ目線」か、どちらの立場で競争し、勝負していきますかの問い掛けでもあったのだ!!
 案外、私達人間はカメ目線ではなくして、ウサギ目線の競争をしているようである。
(ちょっと、カメさんも擁護してしまいました……。)

―でもね―
 ウソップ和尚の仏教説話「ウサギとカメ」の結末は、こうなるのだ。
 あのウサギさんが途中、草むらで休んでいたのは、昼寝でも、倒れていたのでもなかった。
 実は「瞑想中(めいそうちゅう)」だったのである。お釈迦様と同じように、坐禅を組み、「禅定(ぜんじょう)」に入り、安らぎの世界にいたのである。
 ウサギさんは、ゴール目指してピョンピョン跳ねていたが、その途中で気がついたのである。「カメさんとの競争の無意味さを」
「カメさんの一生懸命なひた向きさ」を、ウサギさんは先刻御承知であった。歩みは遅くとも着実さを知っていた。
 だからこそ、そんなカメさんを急に愛らしく感じ始めていた。
 ウサギさんは、優しさに満ち、慈悲深いウサギの心に立ち返っていたのであった。
 カメさんがゴールして喜んでいる姿を自分の喜びとしようとした。
 ウサギさんの目線はカメさんの人柄(亀柄?)も立場も見ていたし、勿論ゴールも視線に入っていた。
 そればかりではなくウサギさんは、自分という「ウサギの心」も目線に入っていたのだ。
 だから、かのウサギさんは、自らあの草むらで休んでいたのである。
 以上、卯年に因み、ウサギさんの「心」を皆さんに知ってもらいたくて再考を論じてみましたが、かなり無理があり、珍説となってしましました。
 やはり、私は「イソップさん」には、かないません。「ウソップ和尚」であることに間違いないですね。

…………………………

即身成仏

布教師 吉田 勝弘

即身成仏とは、私たちがこの身(肉体)を持ちながらにして、仏に成ることを意味しています。つまり即身成仏とは、死んでからではなく、今生きているうちに、仏に成ります(成仏します)ということであります。

 私たち法華宗徒が、どんな時でも、いかなる場合でも、必ずお読みするお経に、妙法蓮華経如来壽量品第十六(お自我偈)があります。

 このお経の中に、『常住此説法(じょうじゅうしせっぽう) 我常住於此(がじょうじゅうおし) 以諸神通力(いしょじんづうりき) 令顛倒衆生(りょうてんどうしゅじょう) 雖近而不見(すいごんにふけん)』とあります。これを訓読しますと、「常(つね)に此(ここ)に住(じゅう)して法(ほう)を説(と)く、我(わ)れ常(つね)に此(ここ)に住(じゅう)すれども、諸(もろもろ)の神通力(じんづうりき)を以(もっ)て、顛倒(てんどう)の衆生(しゅじょう)をして、近(ちか)しといえども而(しか)も見(みえ)ざらしむ」と読みます。そして、その意味するところは、「常にこの娑婆世界にとどまって法を説き続けているのです。私(久遠の本仏・釈迦牟尼世尊)は、常にこの娑婆世界にとどまっているのですが、さまざまな神通の力によって、(心が)顛倒している衆生には、近くにいようとも見えないようにしているのです」というものであります。

 久遠の本仏であるお釈迦様が、私たちの目の前にお姿をあらわし、私たちの耳元で法を説かれているにもかかわらず、私たちにはそのお姿も見えないし、そのお声も聞こえません。そして、「その理由は、心が顛倒しているからですよ」と、お釈迦様は仰っています。心が顛倒しているから、考え方が真逆になっているから、せっかくお釈迦様がお出ましになり、法を説いてくださっているのに、私たちには“見えない・聞こえない”のであります。

 閑話休題。昔話の「兎と亀」です。兎はピョンピョンと走り、みるみるゴールに近づきますが、途中で油断して居眠りをします。この間に亀は先にゴールに着き、亀の勝ちとなります。
油断大敵。一歩一歩の努力の積み重ねが最後は勝利する。だから「油断するな、亀のように努力しなさい!亀のように生きなさい!」と私達は子供の頃に教わり、私達は子供に教えてきました。

 お釈迦様から見れば、この昔話は真逆になります。お釈迦様なら、“亀になってはいけない”と仰います。私達は「亀に成りなさい」と言い、お釈迦様は「亀に成ってはいけない」と仰います。

 なぜ亀に成ってはいけないのでしょうか?
「兎さん・目を覚ましてください!兎さん・起きてください!。私と一緒にゴールを目指しましょう!」と声が掛けられるのが菩薩であり、私が(私さえが)勝つためには、声を掛けずに黙って素通りしてしまうのが凡夫であります。だから、居眠りをしている兎の横を、黙って素通りしてしまう亀に成ってはいけないのです。私が(私さえが)という「我欲の凡夫」に成ってはいけないのであります。

 このように、お釈迦様から見ると、私達の心(考え方)は顛倒しているのであります。だから、私たちにはお釈迦様のお姿もお声も“見えない・聞こえない”のであります。この顛倒している心を正す特効薬が、色香美味のお題目(南無妙法蓮華経)であります。お題目を唱え続けることで、顛倒した凡夫の心を、正しい菩薩の心にすることができます。
正しい菩薩の心を持ったとき、私達はこの身を持って仏に成るのであります。その時、あなたの姿はお釈迦様のお姿と同じであり、あなたの声はお釈迦様のお声と同じなのであります。これを即身成仏と言います。菩薩になるため、命のある限り毎日毎日お題目を唱え続けましょう。

…………………………

 参加することに意義がある

法寿院 水崎圭二

 今年、2012年は、ロンドンオリンピックの年じゃった。日本も、よう頑張った!金メダル7個、銀メダル14個、銅メダル17個。合計38個ものメダルを獲得した。金も銀も銅もみんな、すばらしかった。銀は、金より良いと書くし、銅は金と同じと書く。メダルをとれたということ自体が、すごいことなんじゃんな。

 一番多くのメダルを獲得した国はアメリカじゃ。104個というずば抜けた数じゃ。それに次いで中国が88個。そして、イギリスの65個と続く。まぁイギリスは、開催国としての意地じゃな。ホームでの力強い後押しのおかげじゃろうて。ここで、考えてみたいことは、人口との比較。つまり、各国の人口の比較とメダルの数がどうなんだろうということじゃ。人口でいえば、第一位は、中国。2011年の国連の人口推計では、中国は、13億5000万人。第二位が、インド。12億2000万人。そして、アメリカの3億1000万人とつづく。人口でいえば、中国、インド、アメリカの順でメダルの獲得数があって不思議はないのだが、前記のような順になっておる。中国は、順当なところかもしれぬ。アメリカは、負けず嫌いの国民性が如実に表れておるのう。さて、問題は、インドじゃ。世界第二位の人口を要しながらメダル獲得数でいえば、55位。金0、銀2、銅4という結果じゃ。このていたらくというと失礼にあたるかもしれんが、もっと獲得してなんの不思議もないと思うのは私だけだろうか。そこで、いろいろと考えてみた。

 インドでのイソップ童話の「ウサギとカメ」の話。内容は、日本とまったく同じじゃ。競争するウサギとカメ。途中で寝込んだウサギを追い越してカメが勝つという話。過信して思い上がり、油断すると失敗してしまう。歩みが遅くとも脇道にそれずこつこつとまっすぐに進むことが大きな成果を生むという教訓じゃ。じゃが、この教訓は、日本のものじゃ。インドではな、このカメほど悪いカメはいないとされている。途中で寝込んでいるウサギを知らぬふりで追い越していくということは、勝つためにはなんでもしてしまうという恐ろしい行為だというのじゃ。ウサギは、もしかしたら事故に遭ったのかもしれぬ、病気で寝込んでいたのかもしれぬ、その横を声もかけずに平気で通り越してしまった。こんな身勝手な血も涙もない冷酷なカメは、ひどい!というのじゃな。まあ勝ち負けにこだわらない性格が、子供の時より培われていたのなら、オリンピックのこの成績もなんとなくは理解できるのう。ある運動会で、インド人の親子が話しておった。リレーでころんでしまった子供を平気で抜いてしまうようなことは、私たちはしない。相手チームの子供が走るのをやめても手を貸してあげて、大丈夫?って云うよ。なるほど。さすがお釈迦様がお生まれになった国じゃわい。しかし、インドではクリケットというスポーツの人気はすごくて、ほぼ一日かけて一試合を行うんじゃが、その中継が一日中テレビで流れているし、勝った負けたの応援もそれはすごいと聞くのう・・・やはりそれぞれお国柄は違うということじゃのう。

 日本は、人口では世界第一〇位。メダル数は一一位。ちょうどよろしい!そして、たくさんの感動をありがとう!

…………………………

関連記事