独身女性の貧困問題

金口木舌 9/17

 「負け犬の遠吠え」という本がベストセラーになったのは今から14年前。「未婚、子なし、30代以上の女性」を負け犬と定義したのは著者の酒井順子さんだった。

自虐的に「負け犬」と言いつつも、独身者はしがらみが少なく、時間的にも経済的にも自由で、前向きにその生き方を捉えていた。どちらかといえば酒井さんのように、経済的に自立している人の視点だった。

国立社会保障・人口問題研究所の調べでは、20~65歳(勤労世代)の独身女性の相対的貧困率は32%に上るという。子どもの貧困の陰で、独身女性の貧困問題はあまり表に出て来ない。

貧困の要因は女性の大学進学率が男性に比べ低いこと、40代前半以下の世代は就職氷河期と重なり、就職難だったこと、非正規雇用に女性が多いことなどが考えられる。根底にあるのは「女性はいずれ結婚するだろう」という前提だ。

税金や社会保障制度は、将来女性は夫の扶養下に入ることを前提にしている。女性の生涯未婚率は年々上昇し2015年は14・06%と過去最高を更新。旧型のモデルは見直し、多様な選択肢を示す時期に来ている。

「負け犬」「勝ち犬」、「子なし」「子有り」、「正社員」「非正社員」など女性を二分しては問題の本質を見失う。既婚・未婚を問わず、生きづらさを感じる女性の「つらさ」を解消せずして女性の活躍推進は進まない。

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『負け犬の遠吠え』から12年

『負け犬の遠吠え』(講談社)という本を出した時、様々な反響が寄せられた中で、意外に多かったのが、

「私は結婚しているのですが、子供はいません。こんな私は、負け犬なのでしょうか?」

というものでした。

私はこの本の中で、「未婚、子ナシ、三十代以上」の人を、負け犬と定義しました。ですから、「子供がいようがいまいが、結婚しているなら勝ち犬に決まっているじゃないの」と、その手の質問に対して思っていたのですが、今考えるとわかります。「結婚しているが子供はいない」という状況に、いかにその人達が〝負け感〟を抱いていたかということが。

私は当時、結婚さえしてしまえば、人は「宿題は終わった」という気分になるのだろうと思っていたのです。しかしどうやらそうではないらしく、結婚した人には「子供はまだ?」というプレッシャーがかかる。一人目を産んだなら、「二人目は?」というプレッシャー。二人以上の子を持って初めて、結婚は完成したと見なされるらしいのです。

こういったプレッシャーは、既婚者をうんざりさせるものでしょう。が、もしもその手の外圧が無くなったら、日本の出生率はどこまでも下がっていくであろうことを考えれば、意外に重要な「声かけ」なのかも。

このように、「子供は婚姻関係にある男女間で作るもの」という認識がある日本では、純粋独身者である私のような者は「結婚はしないの?」とは聞かれても、「子供はまだ?」とは聞かれません。四十歳が見えてきて、「そろそろ妊娠もラストチャンス」となると、

「子供だけ産んでおくっていうのも、いいかもよ?」

といったことは言われたものの、それは半ば冗談のような口調でした。

対して、結婚していても子供がいない人は、

「お子さんは?」

と、しょっちゅう聞かれるのです。それも、「期待しているわよぅ」と、善意に満ちた顔で。完全な結婚をしている人、すなわち配偶者と二人以上の子供を得ている人にとって、「既婚子ナシ」というのは、もしかしたら純粋独身者よりも不自然な状態として映るようなのです。

子ナシ既婚者が、

「こんな私は負け犬でしょうか?」

と問う目は、今思い返すと切実な光を湛(たた)えていました。彼女達はおそらく、

「既婚者とはいえ、あなたも負け犬の仲間ですよ。仲良くしましょう」

と、言ってほしかったのです。

彼女達は、勝ち犬すなわち既婚者の群れの中では、「結婚しているのに子供がいない」という意味で、半端者扱いされていました。既婚者仲間と集まっても、子育て話には参加できない。ママ友だって当然、いない。

では、ともう一方を見てみれば、負け犬すなわち独身者達が、「私達は負け犬だからさぁ〜」と、開き直り気味でツルみ、楽しくやっている様子。一体自分の居場所はどこにあるのだろう……と、寂しくなったのではないか。

ところが私は、

「あなたは結婚しているのだから、勝ち犬です。子供がいないくらい、何よ。私達は結婚すらできていないのよ」

と、バッサリ斬り捨ててしまいました。ああ、今だったら、

「つらいなら、負け犬の仲間に入る? いいわよ、こちら側に来ても」

くらいのことを言ってあげたのに。

私が四十代になって、やっとわかったこと。それは、女性の人生の方向性には、「結婚しているか、いないか」よりも、「子供がいるか、いないか」という要因の方が深くかかわる、ということでした。

離婚して再び独身になった友人もたくさんいますが、子ナシで独身になった人と、子持ちで独身になった人の気分は異なります。負け犬と勝ち犬にグループ分けするとしたら、子持ち独身者は勝ち犬グループの方が合うでしょうし、子ナシ独身者は負け犬グループの方がしっくり来るのです。

子ナシの既婚者、すなわち「こんな私は負け犬なのでしょうか?」と聞いてきた人達も、本当は負け犬グループに属した方が、気がラクなのでしょう。子供のお弁当作りやサッカーの送迎についての話ができない人は、負け犬仲間と過ごした方がのびのびできること、間違いなし。

さらに年をとって、皆の夫達が先立つ頃になったら、ますます違いははっきりするに違いありません。夫持ちか否かより、子持ちか否かが、「アラウンド死期」の女性の生活を左右することとなるのですから。

結婚は、一度したからといって盤石の関係性ではありません。離別もするかもしれないし、また夫の方が先に死ぬ可能性も高い。

しかし子供を一度産むと、どれほど親子仲が悪かろうと、そのつながりは一生、切れません。多くの場合、子供は親よりも長生きするわけで、母親にとって子供は、自分が死ぬまで付き合う相手となります。

私がそのことをリアルに実感したのは、まさに母親が他界した時でした。父は既に他界していましたが、父の他界時は母や兄夫婦や私で「看取る」という作業を行いました。そして母の他界時は、今度は兄夫婦と私で、看取りをすることになったわけです。

看取るというのは、単に死の瞬間に立ち会うことだけではありません。人によっては、長い介護生活をする場合もあるでしょう。人はそうポックリと死ぬものでなく、人一人が死ぬまでには、様々な山だの谷だのを乗り越える必要があり、その全体が看取り作業。看取り作業のクライマックスが「死」の瞬間ということになります。

死亡時点で看取り作業が終わりかといったら、これまたそうではありません。お通夜、告別式に四十九日……といった諸行事に加え、遺品や家の片付けに、相続にまつわる作業等、人間一人の死亡にあたって、こなさなくてはならない作業は、山のようにある。そして、それをこなすのは子供の役割なのです。

二人目の親すなわち母親が他界した後、様々な作業をこなしながら、私は思いました。

「で、私が死んだ時は誰がこれをするわけ?」

と。私には子供はいませんから、普通にいけば兄の子供である姪が、これらの作業を担うのでしょう。しかし自分の親でもない人の死後処理をさせられるとは、何と可哀想なのだろう、と思わざるを得ません。

人は一人で生きることはできないと言いますが、一人で死ぬこともできないのです。母親からは、私が若い頃に、

「結婚はしなくていいから、子供を産んでおくといいわよ」

と言われたことがありましたが、そこには「一人では死ねないのだから、看取り要員を産んでおきなさい」という意味も込められていたのかもしれません。

もちろん、人は「死ぬ時に看取ってもらいたいから」という理由で子供を産むわけではありません。男女が出会って、その愛の結果として誕生するのが、子供。子供を産み育てる、そのこと自体に大きな意義があります。

しかし親の死に際して、私ははっきりとわかったのです。「親が死んだ時のために、子供は存在する」ということが。

死んだら死にっぱなしではなく、遺体を燃やしたり墓に入れたり祈ったり祀ったりせずにいられないのが、人間という生き物。子供として最後のそして最も大切な仕事は、「親をきちんと死なせ、その遺体をどうにかする」ということなのです。

そして私はやはり、

「で、私は?」

と思うのでした。「子供」が担う最大の役割に気付いたはいいものの、私は既に四十代半ば。生殖適齢期は過ぎています。「いや、頑張ればまだ大丈夫。五十代で子供を産んだ人だっているのだから」という意見はありましょうが、そこまで無理をして「自分の遺体をどうにかしてくれる要員」を手に入れるというのも、いかがなものか。

以前、新聞に「結婚していないきょうだいの面倒をみさせられるのが負担」といった記事が載っているのを見ました。自分および配偶者のきょうだいが独身・子ナシの場合、その老後の面倒が自分達やその子供にまで降りかかってくるのが迷惑だ、という話だったのですが、それはまさに我が家のことでもあります。

まだ姪は小さくてわけがわからないものの、もう少し物心がついたら、「ゲッ、私は両親のみならず、この叔母さんの死に水を取らなくてはいけないわけ……?」となることでしょう。

そして私は、「子供がいない人生」について、思いを馳せるようになったのです。今、日本では生涯未婚率が男性で約二割、女性で約一割ということになっています。生涯未婚率というのは、五十歳の時点で、一度も結婚したことがない人の割合。すなわち、「ま、五十を過ぎたら人はもう結婚なんてしないでしょう」というのが国の見解ということになる。

それはいいとして、婚外子が極端に少ない日本において、生涯未婚率はそのまま、子ナシ率でもあります。のみならず、結婚している人の中にも子供がいない人達がいるわけですから、その分も数字は上乗せされる。……ということで、決して少なくない割合の「子ナシ族」が発生していることになります。

統計としては存在しないようなのですが、「生涯未婚率」ならぬ「生涯未産率」が、この先は重要な数字になってくるのではないかと、私は思うのです。「生涯、一度も子を産まなかった女性」の割合は、相当高いのではないか。

男性の場合、生殖機能はかなり高齢になるまで衰えないと言いますから、七十代になってパパになりました、という離れ業も可能。「生涯で一度も父親にならない人の割合」の測定も難しそうですが、こちらの数字もまた、かなりのものなのではないか。

子ナシ族が大量発生するということは、将来は子ナシ高齢者が大量発生するということでもあります。

生涯未産で終えそうな私は、その大量の子ナシ高齢者の一人となることが確実。来たるべき子ナシ老人大量発生の時代を前に、子がいないという人生を、どう捉えればいいのか、そしてどう過ごせばいいのか。これからしばらくの間、考えてみたいと思います。
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