列車好き

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阿房列車―内田百けん集成〈1〉 ちくま文庫
作者: 内田百けん
出版社/メーカー: 筑摩書房
発売日: 2002/10


紀行の極地
阿房列車。タイトルの通り、列車にまつわるお話です。
いわゆる紀行文ということになりますか。

紀行文といえば、文学における一大ジャンルです。

旅行記だとか道中記とも言ったりしますが要は、旅行の道中で何々があったよだとか、どこそこではあれを見たよ、これを食べたよなどといった、旅行中の体験を記す文学ですね。
個人的にこのジャンルが面白いと感じる点は、ただ単純に個人の"日記(旅行編)"といった枠におさまらない色々な試みがなされているところ。旅行にまつわるという点のみでカテゴライズされるという側面が強いこのジャンルには、小説でもないし随筆でもないといったような型にはまらない独特な作品が多いように感じます。

「男もすなる日記といふものを女もしてみんとてするなり」

という超有名な一文から始まる『土佐日記』。この作品こそ我が国最初の紀行文なのですが、最初の作品からして女性の立場になって書いてみるという冒険をしているジャンルですので、もう伝統的にそういうことなんですかね。

ということで、そんな我が国の偉大な紀行文の歴史にばばんと立ち並ぶこの『阿房列車』も、なかなかに強烈なユニークさを持っています。

阿房列車とは、単なる列車旅のことではありません。
厳格なルールがあります。それは「用事もなく列車に乗って出かける」ということ。

行き先に何かを求めたり、誰かと会ったり、物を食べたり、というような一般的に旅行の目的とされるものは阿房列車においては重要視されません。重要視されないというよりもむしろ、積極的に回避を図るほど。何しろ、帰り道には「家に帰り着く」という目的が発生してしまうので厳密には阿房列車と呼べるのは行きの道だけ、という徹底ぶり。

変わった旅行だな、とは思いますが、旅というものに変わった「縛り」のルールを設定すること自体は特に珍しいことではないのも確か。ヒッチハイクや青春18切符を使った電車旅なんかは移動手段に縛りを入れた旅の定番ですし、田舎に泊まろう的な地元の人との交流を重視したり、旅先で必ずジョギングをするというルールを持っていたり、どこかに行く度決まって買うものを決めていたり、などなど。何かしら旅にまつわる個人ルールを持っている人は多いのではないかと思います。

そして、「移動そのものを目的に」するという旅行の捉え方は個人的にはとても共感します。
大学時代には何度か一人で車旅行をしました。オンボロのワゴンRで最長半月ぐらい走り回ってました。特別車が好きな訳でも、車に詳しいわけでもなくて、ただひたすら運転していることが好きで1日10時間ぐらいも運転し続ける旅行を繰り返してました。
移動の行程そのものにこそ意味を求めるというのは、ある意味では旅行の極地とも言えるのではないかと思います。

内田百閒氏の場合は、それが列車なのでしょう。
列車で移動するというただそれだけのことをこれだけ語れるのは百閒先生にしかできない芸当でしょうが、その背景にあるのはもうただ単純に列車が好きで好きでたまらないという強烈な愛情に尽きるのだと思います。

"阿房"という大人の余裕
さて、そんな愚直な列車旅の自称は『阿房列車』。愚直というか「阿房」だそう。
列車移動のみを目的とする一途さをもって「阿房」と言っているのですが、それ以外にも色々と「阿房」を演出する大人の余裕によって構成されているのが本書の魅力。

大人の余裕というか、全体にまどろっこしいのです。

まずすごいのは、出発しないこと。移動のみを目的とした列車旅なのに、全然出発しないんです。
切符の手配に始まり、切符を購入するためのお金の無心やら、列車に乗る前の食事を気にしてみたり、見送りに来ただれそれとのやりとりであったりといったことが、つらつらと書き連ねられていき、出発までもだいぶ長い道のり。

毎回の旅程には、同行者ヒマラヤ山系君がいるのですが、彼との会話がまた中身がないというかはりあいがないというか。百閒先生が何をいっても「はあ」と返す退屈な会話なのに、妙に面白い。

そして、なんといっても洗練された周りくどい言い回しの一文一文が本書最大のまどろっこしさです。

一人になって大分長い間ぼんやりしていた。さて一服して考えてみると、私はまだ起きてから顔を洗っていない。何十年来同じ顔を洗っているけれど、別に綺麗にもならず段々古くなった計りである。無駄かもしれないが、今日突然羇旅の鹿児島でその習慣を廃すれば心的衝動の因となる恐れがある。だからタオルを持って洗面所へいった。

洗面所へ顔を洗いに行くための描写がこれ。この無駄無駄しい文章の引きこむ力は半端ない。

何を買おうとしているかと云えば、白雪糕のお菓子である。私は白雪糕が好きで、塩釜では名物だそうだから、買っていこうと思い立った。そう思った時は塩釜がこんなに雨が降っているとは知らなかったのだから、是非買わなければならないわけもないし、その為に山形や盛岡のおみやげの包みがびしょ濡れになってしまう。よせばいいと思うけれど、雨が降っていないならよしてもいいが、雨が降ってこんなに困っている今となっては、よすわけには行かない。やけ気味で、無闇にトラックの通る街をうろついて、二人とも川から上がった様な雫を引きながら、やっとそのお菓子屋へ這入った。

雨が振っていればこんな調子。気を抜いていると意味のないトートロジーのようにも感じてしまいかねないあやうい、でも計算されつくした回りくどさ。真似しようと思ってもできません。

このまどろっこしい雰囲気が好きになれるかどうかが本書の楽しみの分岐点。僕は憧れるくらいに好きでしたが、おそらく苦手な人も多いことと思います。

列車のいま・むかし
周りくどい文章で進んでいくお話の主眼はやはり列車です。淡々とローテンションで書き進めながら、ふとした瞬間に切り取る景色の描写が目に浮かぶほどの力を持っていてハッとすることもあります。車窓から見る景色の感慨深さというものは、見える景色が移り変わっていても、大きくは変わらない列車旅の醍醐味の一つかと思います。

一方で、いまの列車しか知らない僕にはなかなか想像の難しい昔の列車ならではの姿にも興味を覚えました。

例えば、一等、二等、三等という客室の区別。今でもグリーン車なんかはありますけど、今のものとは席はもちろんのこと、乗客の様子なんかもだいぶ違っていたのだろうなと思います。

夜行列車での旅も何度か登場します。最近、北斗星が廃止されるなど、寝台列車がどんどんと少なくなって寂しいですよね。いまよりもっともっと夜行列車が多かった時代。どんな姿で、どんな人たちが乗っていたんでしょう。

トンネルや山道を走るために、汽車と電車の車両の付け替えが行われるだとか、昔の汽車には電灯がなかったからトンネルの手前の駅で駅員さんが屋根に登って頭の上にどしどし足音をさせて歩きながら、石油ランプを天井から差し込んだだとか、今はもうなくなってしまった姿もあり、いろいろと想像しながら読むのが楽しかったです。
以上。
いまの電車旅とはいろいろ勝手が違うだろうなとは思いますが、それでも共感できる電車旅の魅力というか、雰囲気というかはあるんですよね。なかなか休みも取りにくい日常を過ごしていると、たまの旅行も移動なんかは極力短くして予定を詰め込みたくなってしまいがちですが、あえてゆったりと移動することを楽しむ旅行をまたしてみたいなーと感じさせる本でした。

…………………………

小社会 8/20

 小説家、内田百閒(ひゃっけん)の列車好きはよく知られている。何しろ用事も目的もないのに、ただ列車に乗りたいという理由だけで旅に出る。それも2等や3等車は嫌。1等車を好むが、金はないから借金までして旅費に充てる。

 どうしても行かなければならない急な仕事ができれば、やむを得ず3等に乗ることもある。だが、それ以外は自分の主義を貫く。紀行文「阿房列車」シリーズには、百閒が守り通した「自由」が生き生きと描かれていて楽しい。

 乗客が百閒先生のような一徹な人ばかりなら、鉄道会社の苦労も少ないかもしれない。JR四国と4県知事、学識者らによる懇談会が、路線維持の方策について検討を始めた。

 国鉄の分割民営化でJR四国が発足して30年。鉄道事業で黒字になったことは一度もない。今後も高速道の延伸や人口減で需要見通しは先細る。「10年、20年先を見据えれば自助努力のみでは維持は困難」。JR四国・半井社長の言葉が、苦境を端的に示している。

 もし廃線などが検討される場合、利用減が著しい予土線などは候補に挙がりかねない。税金投入による公的支援もテーマになってこよう。住民生活に死活的に関わるだけにオープンに議論し、情報は逐一提供してもらいたい。

 百閒の時代、車は今ほど普及していなかった。これから少子高齢化が進めば交通弱者も増えてくる。車にばかり頼ってはいられない未来を想定しておいてよい。
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