八月十五日男

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俘虜記/大岡昇平のあらすじ

 神戸の造船会社で事務員をしていた35歳の「私」は、建艦状況を見て日本の敗北を確信していた。1944年(昭和19年)3月に召集され、フィリピンに送られた。1945年(昭和20年)1月25日、ルソン島の西南に位置するミンドロ島(大きさは四国の半分ほど)の山中において米軍の捕虜になった。ミンドロ島の守備隊のほとんどは、昭和19年に召集され、3か月の訓練の後に島に送られた補充兵だった。

 「私」は、マラリアにかかって弱り、部隊から見捨てられ、自決するためにピンを抜いた手榴弾が不発で、水を求めてさ迷った末に米軍の捕虜となった。「私」は、山道は両脇を米兵に支えられて歩き、ふもとに降りてからは担架に乗せられて運ばれた。「私」は、「文明国の俘虜となったこと」を知った。

 サンホセの野戦病院に収容され、米兵から「フジヤマ」と「ゲイシャ」について質問責めにされた後、レイテ基地俘虜病院に収容された。

 レイテ基地俘虜病院では、米兵は気を利かしてたばこの吸い残しを、患者が拾いやすい場所に投げ捨てたりしたが、日本人の捕虜の中から選ばれた食事配膳係などは粗暴が不親切で、横領など「あらゆる日本軍隊の悪習を継承していた」。

 「私」はたまたま病院を訪れた従軍牧師から「新約聖書」をもらいうけ、20年ぶりに読み返した。米兵から興味を持たれ、クリスチャンなのか、どこで英語を学んだのかなどを尋ねられた。

 レイテ基地俘虜病院が約2キロ南の村に移動し、約2か月を過ごした後、退院。病院車で、タナワンという村にあるという収容所に移送された。ベッドにはホコリがたまり、毛布が汚れ、用便は小屋の隅に置かれたバケツに足すという不潔で不衛生な環境になり、「また日本軍隊の匂いが濃くなってきた」。

 昭和20年3月中旬、レイテ島の俘虜収容所に入った。

 「決定的な敗軍から生き残った兵士のみより成った収容所では、既に日本精神は存在し得なかった」という。「私」は英語を教えるなどによって親しくなった病棟の衛生兵から事務用紙をもらい、薬品の空箱の段ボール紙の表紙といっしょに包帯でとじて、鉛筆で、帰還するまでに「大小説のシナリオ化」も含めて11編のシナリオを書いた。「かつて私はこの時ほど独創的であったことはない。多くのものが一晩か二晩で連続して書かれ」た。

 戦局は悪化し、4月には米軍が沖縄に上陸。6月から7月にかけて新収容所に移動したりしたが、捕虜たちは、新しいシャツと猿股を着て、チューインガムを噛み、煙草を吸い、労働に従事した際は賃金が積み立てられ、「単にカロリーにおいて十分であるばかりではなく、生活の快適においても、日本の戦時的市民生活より遥かにましになっていた。我々は一段と落着き払って来た」。

 捕虜の中のリーダー的存在である本部にいる「日本人収容所長」に選ばれたのは、今本(米兵は「イマモロ」と呼ぶ)という自称曹長の十六師団上等兵。今本の下には織田(米兵は「オラ」と呼ぶ)という兵曹がいた。

 今本は英語を理解しなかったが、米軍がいったんきめた代表者を変更することをめんどうくさがったために、その地位が存続。今本の役割は、米軍収容所長の指令を捕虜に徹底させることと、捕虜に不平や不満がある場合に代表して申し立てることだった。が、「この後の方の任務は殆ど実行されることがなかった」。

 今本は、食料分配でも古参の捕虜に多く分配し、山中をさまよい続けていたために栄養を必要としていた新米捕虜には食料をしっかりと分配しないなどした。しかし、中隊ごとに米兵が管理者として付くようになると、今本の存在意義が薄れ、権益を取り戻そうと躍起なった。そんな今本を、捕虜たちはおもしろがって無視した。今本は中隊の捕虜たちを「お前ら」ではなく「あんた方」と呼ぶようになった。

 中隊付きの管理者たちは日本兵捕虜を刺激しないよう特命を受けており、捕虜の前では、昭和天皇を必ず、「ヒロヒト」ではなく「エンペラー」と呼んだ。

 収容所で「私」は、南京の「暴兵」が語る、南京郊外の堤防上で着物を裂かれた半裸の女が放心したように足を投げ出して柳の幹に背をもたせかけていた光景を聞き、その光景の凄惨さではなく、その光景を語る「暴兵」の「平静な態度」に驚いた。セブで部隊と行動を共にした女性の従軍看護婦たちが、職業的従軍慰安婦ほど酷い扱いではなかったものの、1日に1回、兵士の性処理の相手をしないと食料を与えられなかったという。

 「私」は、米軍が捕虜に自国の兵士と同じ給与を与え、一方では、兵站が完備していたために捕虜を使役する余地がなかったことが「多分我々の堕落の原因」と分析。ある捕虜はベッドの下に穴を掘り、ドラム缶をすっぽり一つ隠して、その中にスウェター、手袋、化粧品から米軍の女子兵士用の生理用品まで、盗んできたありとあらゆるものを隠し、それを発見した米兵を感嘆させたりした。

 広島に原子爆弾が投下され、ソ連が参戦し、長崎にも原子爆弾が投下され、日本は降伏した。

 日本が降伏した1時間後の旧日本軍捕虜の状態は「要するに無関心の一語に尽きる」。今本のいる大隊本部からは、確報のあるまで軽挙妄動を慎むことや、特に団体行動は戒しむことなどの注意事項が出された。捕虜たちは「自殺すべからず」という事項を見て「大いに笑った」。

 レイテ戦から終戦までの間、「私」の知る限り、収容所からの脱走事件は1件しかなかった。

 終戦時、既に捕虜になっていた者はレイテ島第一収容所には7個中隊2000名がいたが、9月中旬からは終戦後に武装解除された者たちが入り、中隊の数は11個に増えた。新しく捕虜になったある元少尉は、捕虜たちの堕落した姿を見て「貴様等何故腹を切らんか」などと怒鳴りつけたが、「何だと。ただ山ん中逃げ廻ってやがった癖に、大きなことをいうな。憚りながら俺達は最前線に出たばっかりに負傷して、止むを得ず捕虜になったんだ」などと怒鳴り返された。

 古参の捕虜たちは、錆びて止まってしまった懐中時計や腕時計も内地に持ち帰り修理すれば動くことを知っていたため、飢えていた新しい捕虜たちから、たばこや缶詰と交換という形で巻き上げ、古参捕虜の多くが得意になって腕時計を付け始めた。

 「私」は、同朋の間で食料を分け合わず、さらに、「残酷な交易」に従事したものの多くがおとなしい捕虜であることに悲しんだが、そばにいた中隊長から、「奴等の持っている時計がそもそも怪しい代物なんだ」(=兵士の遺品かフィリピン人からの強奪品)などと諭された。

 「私」は、「『これが軍隊』なのではなく、『これが世間』なのである」と記した。

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中日春秋 8/15

「俘虜記(ふりょき)」などの作家、大岡昇平さんは自分のことを「八月十五日男」だと『成城だより』の中に書いている

こういう意味だ。八月十五日が近づくと、新聞から終戦記念日に当たっての感想やコメントの依頼が殺到する。したがって「八月十五日男」であり「手頃なマスコミ・フィギュア(人形)と化せしものの如し」

お書きになったのが一九八二年八月。当時よほどひっぱりだこだったのだろう。困惑はごもっともとはいえ、生身の体験として戦争はいやだときっぱりと語ってくれる「八月十五日男・女」の声がどうしても必要である。

怖かった。痛かった。悲しかった。その声はいかなる反論も戦争の美化も許さぬ現実である。その声は戦いに向かいたがる足をためらわせ続けてきたはずである。

「空襲で弟の手を離してしまった。今でも胸が痛い」「上級生が描いてくれた食べ物図鑑で空腹をまぎらわせた」。最近の新聞の発言欄で読ませていただいた。「八月十五日男・女」の声は今なお健在とはいえ、「戦後生まれ」は総人口の八割を既に超えている。生身の声は、か細く、やがては消えてしまう。戦争に向かう足にすがり、食い止めていた手が失われることになるまいか。それをおそれる。

声を聞く。覚える。真似(まね)でよい、口にする。それならば「八月十五日子ども」や「八月十五日孫」にもできる。声は消えぬ。


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