人体に危険なレベルの暑さ

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中日春秋 7/9

全国的に気温が上がってきている。早いもので十日は四万六千日(しまんろくせんにち)である。

この日に観音様をお参りすれば四万六千日分の参拝と同じありがたみがある。浅草観音ではほおずき市の縁日が立つ。「四万六千日、お暑い盛りでございます」。八代目桂文楽の「船徳」。江戸の夏がぱっと広がる名調子である。

夏の暑苦しさとはどういうものか。ある人が、江戸の狂歌師、蜀山人(しょくさんじん)(大田南畝(なんぽ))に尋ねたそうだ。寝惚(ねぼけ)先生、詠んでいわく、<西日射(さ)す九尺二間に太っちょの背なで児(こ)が泣く飯(まま)が焦げつく>-。確かに。

それでも蜀山人の暑さの程度ではもはや、さほどでもない現代の夏かもしれぬ。世界気象機関(WMO)によると五月以降、欧州、中東、米国などで熱波が続いているそうで先月二十九日にはイラン南西部アフワズで五三・七度を記録した。

<アフワズで鍋焼きうどん>。ふざけている場合ではなく、人体に危険なレベルの暑さが世界各地で観測されている。気候変動によって、夏が長く厳しくなっているとWMOは警告する。

さてG20サミット。気候変動を討議していた時間、肝心のトランプ米大統領は米ロ首脳会談を理由にそそくさと席を立ったそうだ。温暖化対策の「パリ協定」からの米国離脱を批判する声を聞きたくなかった。温暖化問題に背を向ける、大統領のふるまいにかっと体温が上昇し、やがて、ゾッとなる。

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蜀山人 大田南畝 -大江戸マルチ文化人交遊録

蜀山人(しょくさんじん)の名前でも知られる大田南畝(おおたなんぽ)は、江戸時代中・後期、下級武士でありながら、狂歌師や戯作者、また学者としても人気を博したマルチな文化人です。この南畝を中心にして、武士や町人たちの身分を越えた交流が生まれ、さまざまな絵画や文芸が花開きました。
江戸時代研究者の中では非常に重要な存在として考えられている大田南畝ですが、これまでまとまった形での展覧会は開催されておらず、また、現代の私たちにとってすっかり馴染みの薄い人物になってしまいました。


1.江戸の庶民文化の大御所、大田南畝とは何者か?

大田南畝は蜀山人の号でも知られており、中学校の歴史教科書にもその名前が載っていますが、現代の私たちにはすっかり馴染みが薄くなってしまっています。蜀山人と聞いて、美食家で陶芸家の北大路魯山人と勘違いされる笑い話もしばしばあるようです。落語が好きな方は、蜀山人の面白おかしい狂歌がしばしば噺に取り上げされるので聞き覚えがあるかもしれません。現代ではすっかり忘れ去れている南畝でありますが、さまざまな絵師や戯作者、学者など関わりの深く、実は、江戸の庶民文化を語る上では決して外すことができない大御所ともいえる存在なのです。


2.昼は真面目な役人、夜は引く手あまたの文化人

大田南畝の業績で最も知られているのは、五七五七七の歌を面白おかしく詠んだ狂歌でしょう。例えば、「世の中は酒と女が敵(かたき)なり どうか敵にめぐりあいたい」という歌には、時代を越えても変わらぬ面白さがあります。大田南畝は、狂歌、さらには、狂詩や戯作など、笑いに溢れた文芸作品をたくさん執筆し、ベストセラー作家として人気を博し、ついには物語の登場人物にもなりました。しかしそれはあくまで裏の顔。表の顔の南畝は、身分の低い幕臣(御徒歩職)として、70歳の高齢を過ぎても幕府への勤めに励んだ、真面目で実直な役人だったのです。昼は真面目に仕事に励み、夜は大勢の仲間たちと戯れる文化人。二つの世界を南畝は巧みなバランス感覚で渡り歩いていました。


3.武士と町人、身分を越えた文化コミュニティ


江戸時代は士農工商の身分の違いがはっきりと定められていた時代ですが、文芸や学問の世界では、武士と町人がお互いの身分を気にすることなく、同好の仲間として交流をしていました。特に狂歌の世界では、地域ごとにグループを作り、面白おかしい名前を名乗りあって活動していました。元木網(もとのもくあみ)、智恵内子(ちえのないし)、頭光(つむりのひかり)など、全くふざけた芸名が多々あります。まるで、ネット上で匿名で交流する、そんな21世紀の文化のあり方をすでに先取りしていたかのようです。その狂歌界で中心的な役割を担ったのが、四方赤良(よものあから)と名乗っていた大田南畝でした。


4.浮世絵師と狂歌師のコラボレーション

狂歌の世界は文芸という一つの枠に収まりません。喜多川歌麿や葛飾北斎など、浮世絵界の大物たちも狂歌の世界と密接に関わっていました。狂歌グループの仲間たちが浮世絵師に協力を依頼して、自分たちの狂歌の入った浮世絵や絵本をたくさん出版していたのです。浮世絵師の中には、自らグループに参加し、狂歌を楽しんでいるような人もいました。絵画と文芸、二つの異なるジャンルが結びついて新しい文化が花開いたのです。


5.教養=遊びの文化

ゆとり教育に端を発する学力低下が叫ばれる昨今、「教養」の価値が見直されています。しかし、幅広い知識を獲得したり、豊かな人格を育成したりすることだけが教養を持つ意味ではありません。江戸時代には、先に紹介したように、文学や絵画、歴史についての幅広い興味を持つ人たちがサークルを作り、真面目な和歌や絵画のパロディーを作って笑いあったり、謎解きをしあったり、さらには仲間内で本を作って出版したりと、お洒落な遊びをしていたのです。教養が遊びにつながる、そんな江戸時代の人たちの肩の力の抜けた姿勢は、現代人からみて学ぶところが多いでしょう。

6.浮世絵研究家・南畝

東洲斎写楽といえば、謎の浮世絵師として、その正体を解き明かそうとする人たちの興味を惹きつけて離しませんが、この東州斎写楽について語る際にまず引用されるのが、大田南畝の記した『浮世絵考証』という、浮世絵師についての記録です。南畝は、狂歌や狂詩といった娯楽の文芸だけでなく、江戸の歴史や文化について深い造詣を示し、それを考察した随筆を数多く記した学者としての側面も備えています。さらには、谷文晁や酒井抱一、亀田鵬斎といった江戸の一流の文化人とも親しく交流をしていました。南畝はまさしくマルチな才能を備えた人だったといえるでしょう。



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