問い型の夢

くろしお7/6

 思想家の二宮金次郎(尊徳)7代目子孫で臨床教育学を専門にしている中桐万里子さんは子どもたちの夢、目標には大別してふたつ種類がある、という。答え型と問い型だ。

 たとえば「野球選手になる」は前者。この夢、目標そのものが答えでありゴールになる。野球選手になれたら(もしくはなれなかったら)終わりそこまでの夢。これが、「野球選手になって活躍する」ならば後者。ドラフト会議で指名されただけでは終わらない。

 プロの世界で活躍するために何が必要か。どうしたら速く走れ、ヒットをたくさん打て、守備が上達するかなど夢、目標を問いに次々新しい答えが生まれる。現役選手でいる間、ずっとだ(中桐万里子著「現代に生きる二宮翁夜話」)。

 並んだ職業をひとつひとつ確認するのが楽しみなアンケートがある。可能性のかたまりみたいな子どもたちは将来どんな職業に就きたいのか、化学メーカーのクラレが今春、小学校を卒業した1424人の回答を集計したところ男子トップはスポーツ選手だった。

 その内訳は、野球が32・3%で昨年の調査から10・4ポイント上昇、サッカーの37・1%に迫った。ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)開催や、日本ハムの大谷翔平選手が投打二刀流で大活躍したことなどが影響したとみられる。

 WBCにも出場、先月、通算2千安打を達成した青木宣親選手に県民栄誉特別賞が贈られる。「野球選手になって青木選手みたいに活躍する」という子が来春は増えるはず。夢、目標は問いを重ねながら引き継がれていく。たぶんそうだろう。

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<自分の発見>

致知出版社
「現代に生きる二宮翁夜話」より引用 その12
中桐万里子氏著
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相手から答えを教えてもらい、何をすべきか指示されることは、一見ラクに見えます。
でも不思議なことに、どこか妙な息苦しさや、手ごたえのなさや、疲労感が生まれたりもします。

他方、相手から問いをもらい、知恵を絞り、考え、悩み、試行錯誤しなければならないことは一見負担にもみえます。でも不思議なことに、やりがいや、達成感や、面白味や、誇りを感じ、肉体は疲れていても気持ちは疲れない・・・・・ということが起きたりもします。
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相手に依存することは楽ですよね。考えなくてもいいからね。答えはいつも側にいる人が教えてくれる。でも、それって何か不安を感じている。幼い頃の家庭環境もあると思うけど、長い間そのような生き方をしてきているので、変えるのは難しいものだと思える。

その人は単に考えなくてもいいという思考でしょうが、外から見れば責任を追わないという逃げ口上とも捉えることができる場合もある。

自分で考えて生み出すこと、やりがいとか達成感を感じることができた時、心のスイッチがオンになって潜在能力が湧き出してくる気がする。だから、自分には出来る、可能性があると勝手に思い込んでチャレンジしてみることの方が面白い。思わぬ自分の発見がある。

自分には無理だ、出来ないと思った時が終わりのような気がする。些細なことでもいいので、今までやってこなかったことをやってみて、小さな成功体験をすることが自信になり、次への挑戦への意欲になると思うのです。
新たな自分を発見してみること。そんなワクワクすることを体験したいのです。



<今を生きる>

致知出版社
「現代に生きる二宮翁夜話」より引用 その11
中桐万里子氏著
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金次郎は、向上心や欲を必要なものだと考えています。よりよい暮らしを求めるからこそ、一生懸命働き、技術を生み、努力するからです。ただしここでも語るように、重要なのは、その動機にある想いです。与えられた現状を否定することからはじめるとき、それは、「大きな間違い」であり「迷い」となる。反対に、現状を尊いものと肯定し、感謝しそのうえでより佳きものへ向かおうとする。それが、大切だと言うのです。
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この地でこの両親のもとで生まれたわけです。誰でも同じです。
自分があっち(雲の上)の世界で、「この地のこの母さんで生まれよお!」ってな感じで選択したきたと考えたらどうだろう。そんなのアホか!
と思ったら、そこで話は終わりなんだけど。考え方なんですよねぇ。

結局、生まれも、今の自分があるのも、この道を進んできたのも全て自分が選択してきた結果なんですよねぇ。一番身近にいる女房や旦那だって自分が選んだもんね。

だから、今という現実にしっかりと地に足をつけること、全てを肯定することが始まりだよねぇ。だって自分が決めたことだからさぁ。羨ましい人を見て、憂いても始まらんしね。考えても変えられるもんじゃないしね。「今を生きる」それが一番いいと思うようになってくるよ。未来はどうなるか分からんしね。

さぁ、どうする。
決まってるんじゃん。
今より、もっと、もっとよくしよう。
家庭だって、趣味だって、仕事だった、もっと楽しもうよ。
ドラマチックな映像を見ている感じ。そうそう、今、辛いなぁ、しんどいなぁ、いやいや、
ちょっとオモロクなってきたじゃん。まるで、映画の映像を見ているような。ヒーローかな。ってな感じで欲張ってみてはいかがでしょう。
何か妙なファイトが湧いてきますよ。よし、決まったよね。
でも、なんだかんだと言いながら、

今、みんな

ちゃんと一生懸命に働いているんだから頑張ろうという気になるんですよ。
多くの人の意見を聞く
<多くの人の意見を聞く>

致知出版社
「現代に生きる二宮翁夜話」より引用 その10
中桐万里子氏著
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あらゆるものに「徳」がある、と金次郎は言います。
楽しいことや嬉しいことばかりでなく、苦しいことや辛いこともたくさん存在するのが現実です。傷のない、壁にぶつからない道のりなんて、現実には絶対にありません。それでもなお、いまここにあるもの、それらは出遭った傷や壁や悲しみを、たしかに乗り越える知恵と力をもち、あきらめず、挫けず、一歩を重ねてきた、そして重ねている・・・・・。そんな尊さをもつ存在だ・・・・・と言うわけです。

金次郎が言おうとした「徳」。それは単なる長所や美点ではないと、わたしは感じています。もっともっと凸凹をもつドラマであり、そんな数々のドラマをくぐりぬけることで培われてきたタフなパワーやきらめきをイメージするのです。
(中略)
悩みがゼロなんてひとが誰一人もいないという、当たり前の事実です。彼ら彼女たちは、みんなふつうに、それぞれの傷を抱え、それぞれなりに懸命に生きていました。

金次郎と同じように、私もまた、光だけ、長所だけ、美点だけ、成功だけ、喜びだけ・・・・・の現実なんてあり得ないと、そう体験しています。だからこそ、相手の光にばかりに目を奪われると見失う気がします。その光が、悩みだって辛さだっていっぱい味わいながら、それでも懸命に生きている
証としての「徳」であることを・・・・・。
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相手の短所、いやな所など相手のマイナス面についつい意識がいってしまう。自分の事は棚に上げて、実に良く見える。見えるということは、自分も知っているということ。
知っているということは、自分の内面に相手のマイナス面と同様なものをもっていて、今の自分は上手くコントロールできているに過ぎないと考えるのです。裏を返せば、相手のいい所に気づく人ことは自分にも同じよい内面をもっていることになるわけです。

どんな人にも長所、短所があります。それも同じ量だけ。だからみんな似たようなもんです。短所にフォーカスすると自分の意識まで負に引きづりこまれてしまう。長所を見ること、よい所を見ること。そんなことを意識すると相手を素直に受け入れることができるようになってくる。相手の考えていることも見えるようになってくる。

不思議である。

誰しも好きで短所をもっているわけではない。でも長所ばかりでは面白くない、味がない。いろんな人がおって、いろんな考えがある。だから面白い。

自分の考えと相反するものを排除しがちであるがそうではいけない。
それはまったく別の角度から同じものを見ているから見えるもの違うのである。だから、多くの人の意見を聞くこと。それが正しい判断をすることになると思うのです。



<感謝の循環>

致知出版社
「現代に生きる二宮翁夜話」より引用 その9
中桐万里子氏著
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金次郎は現状への感謝や満足を大事にしたのではなく、そこから行動に出ること(感謝をカタチにすること、受けた徳に報いること)を尊びました。
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私たちは、よく感謝という言葉を使います。では感謝とはいったい何だろうかと考えた時があります。答えは少なくとも私の感謝は、如何に軽いものであったと思えてきました。

仲間に助けてもらって感謝、仕事を頂いて感謝、家族に感謝、両親、多くの方々に恩恵を受けて感謝という言葉を発信しています。すると気がついたのです。今の存在そのものが多くの周りの人の支えがあったからこそであるということ。手を合わせたくなるほど、実は有り難いものであること。それこそが感謝であるということ。

するとある矛盾に気がついたのです。感謝、感謝と多くの恩恵を頂いていると分かっていながら、自分が何を返しているのか。もらいっぱなし、一人締めをしていないだろうかということです。感謝とは行動をしてこそ感謝になるのではないだろうか。そんな思いに至ったわけです。

行動とは、大それたことは出来そうにもないので、電車でお年寄りに席を譲る、ごみを拾う、掃除をするなど、そんな小さな行動が私にできるせめてものお返しなのです。

まだまだ実践としては弱いものですが、意識して行動を続けること、その積み重ねが感謝の循環ということになると思えてきたのです。



<人がイキイキ動く仕組みづくり>

致知出版社
「現代に生きる二宮翁夜話」より引用 その8
中桐万里子氏著
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人は、外にある軸で答えを言われるとき、それがどんなに正しい善でも、どこか押し付けられる息苦しさや、やらされる束縛感や、重苦しい義務感をおぼえないでしょうか。金次郎はここで、人々に正しいことを教えることも、ましてや裁くこともしません。「関係が薄い者」には、なおのことそれをする代わりに、むしろただただ愛情を注ぐのだと言います。

もしかしたら人は、そうやって信じ、愛してくれる他者が存在するとき、自分自身の力で、自らの良心に立ち返り、あるべき判断をするようになるかもしれない・・・・・。そんなことをつよく想ったお話でした。
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自分を変えることもできないのに人を変えることなんておこがましいことと思える。自分が自分がとやってきたが思うようにいかない、続かない。
ある時、三ヶ日にあるN社さんに見学に行ってイキイキとした従業員さんを見て気づいたのです。

社長が中心にやってきたことを止めることにして7つの委員会をつくりました。朝礼委員会、おもてなし委員会、清掃員会、地域貢献委員会、広報委員会、環境整備委員会、社内木鶏委員会。

各委員会は月例報告会にて成果発表します。5月からスタートしましたが、これが素晴らしくいいのです。各委員会は、週に数回集まって活動しています。

感激したことがあります。パートさんだけの委員会があるのですが、その委員会は勤務時間中の委員会活動にかなり苦労されていたようです。

それを聞きつけた朝礼委員会が毎週水曜日の朝礼の時間を使って委員会活動をやりましょうと提案されたのです。この提案にパートさんチームは大そう喜んでいる姿がありました。事務所にいる社長では、この情報をキャッチできないでしょう。

委員会活動を通じて働く人の考えが成果になれば喜びになり、チームワークも向上すると考えるのです。

毎月の月例報告会が楽しみなのです。

社長の役割は多くの人の知恵をつかうこと。
人がイキイキと動く仕組みをつくることだと実感したのです。



<良心>

致知出版社
「現代に生きる二宮翁夜話」より引用 その7
中桐万里子氏著
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わたしは、幼い頃からともかくよく嘘をついたし、悪いこともいっぱいしました。イライラした八つ当たりで、毎日のように妹たちに意地悪もしました。でも、いつだってそれが悪いことだと知っていました。
悪いと叱られたからではありません。祖母や母に言われ続けたからです。
「何をしてもいいけど、自らの良心に正直に生きなさい」と。

いまこの場で正しいことは何で、必要なことは何で、すべきことは何なのか・・・・・。
そうしたことを考え、判断するのは、親でも先生でも世間でもなく、神さまや仏さまでもないと言うのです。すべてを知っているのは、「良心」という名の自分自身だと。

どこにいても「自分」だけは自分を離れません。
何をしていても「自分」だけはいつも知っています。
絶対にズルができないのです。そんな教育のせいか、わたしはひとを裏切る以上に、自分自身を裏切ることが一番いけないと、どこかで思ったりします。
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自分には嘘はつけない。嘘をついていると分かっていても、その嘘を自ら正当化して自分の罪悪感を消し去っていった。昔はそんな人間であったように思います。

善悪の判断は誰にでもできることであるが、損得、人から良く思われたい、評価されたい、好かれたい、悪く思われたくない、バカにされたくない、嫌われたくないという自我がでると「負の意識」に引きづり込まれてしまう。

どんな状況でも正直に誠実である強い心、信念をもち、良心にしたがって行動すること。そんな人間になりたいと思うのです。
毎日、ダメな自分が出てきて、それを打ち消しながら葛藤の毎日ですが、人様に対して無理に善悪を押し付けるよりも、まずは自分の良心に正直に行動したいと考えているのです。


<真(まこと)の財産>

致知出版社
「現代に生きる二宮翁夜話」より引用 その6
中桐万里子氏著
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仕事をしだして間もなくのころ、ある新しいことをはじめるべきかどうか、大きな判断が必要になりました。しかしそれは、失敗したときの途方もない借金を抱えるかもしれない・・・という甚大なリスクが想定されたため、とても迷っていました。このことを、母に相談すると、思いもかけず、母はケラケラと大笑いをしていました。「いまのあなたに、持っていかれて困るものなんて何かある?」と。
そして、弁護士の娘だった母は続けました。「大丈夫。いつでも自己破産の方法を教えてあげるから!」

母は私に伝えたのです。自分が何かを失うことを恐れて決断しないのは、つまらないと。そんなことに心を遣うのではなく、ただただ、それが本当に必要なことかどうか、その一点に集中して判断しなさいと。
わたしは、とてもびっくりしました。なぜなら自分が、持っていかれては困るものを本当に何ひとつ所有していなかったからです。困るもの・・・・・。たとえば命だったり、家族だったりしますが、それは借金をしたぐらいで持っていかれはしないでしょう。そこに気づくことができたとき、不安という霧が消え、事態はすがすがしく、そしてフェアに鮮明になったのを覚えています。

私の家、私の持ち物、私の財産・・・・・。「私の、私の・・・・・」とこだわるほど、どこかで手放しては大変という妙な不安が膨れ上がるかもしれません。そんな風に、本当はありもしない恐怖に呑み込まれたり、自分で自分の首をしめたりするのは、もっと自分が損をすることのようにも感じます。

もしかしたら、金次郎が「この身をわが身と思わず、生涯一途に世のため人のためだけを思い・・・・・」などと語るとき、崇高すぎる自己犠牲の姿に見えるかもしれません。でも、私はむしろ、そこに大笑いした母の姿をみます。そして実体験を通して思うのです。
この発想や覚悟こそ、もっと効率的に自分をラクにし、軽やかにしてくれる、自分をトクさせる秘訣ではないか・・・・・と。
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経営は何のためにやるのか。経営者はよくよく考えなければならないと考えるわけです。雇用している多くの社員、その家族の生活の基盤を支えているわけですから、経営者は極めて重い責任があります。

稲盛和夫氏は「動機善なりや私心なかりしか」。
松下幸之助氏は、「企業は社会の公器である」とおっしゃっています。

自分のやろうとしている方向づけ、考えていることや、行動が自己満足ではないだろうか、公に正しいだろうかと熟慮して行動しなければその責任は果たせない。

しかし、臆病になってもいけないと考えるのです。自分の財産に執着する心と素直に向き合いながら、会社にとって真(まこと)の財産とは、かけがえのない従業員に「働く喜び」を感じてもらうこと、そして世の中にお役に立つ貢献であると考えるのです。
その行動が真に正しければ結果は自ずとついてくると信じたいわけです。

まだはじまったばかりである。目指す会社の姿まで走り続けていきたいと思います。


<未来を生む力>

致知出版社
「現代に生きる二宮翁夜話」より引用 その5
中桐万里子氏著
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金次郎は、自然災害による飢饉に苦しむ時代を生き、農業に命を懸けました。
そんな時代背景をあり、農業やそれが産出する豊かな米櫃は、命を救うためのものと思われがちだったのでしょう。

しかしこのお話からは、彼が、単にそのようには捉えていないことがうかがい知れます。彼は考えているのです。米櫃の豊かさこそが、一人ひとりを冷静な場所に引き戻し、本心に返らせ、礼節をよみがえらせ、覚醒する・・・・・・。そこから人は、田畑を耕しに出たり、未来を担う子どもたちを育てたりする・・・・・と。つまり米櫃は、人を「救う」ためだけでなく、「押し出す」ために必要なもの。それは、マイナスを充足させる力でなく、新しい実りを創造する力として機能する、というわけです。

米櫃(経済)を自らの不足や不満を埋めて満足や安心をくれ、自らを救うものと捉えるとき、もしかしたら永遠に「足りる」ことはなく、不安を生み続けるのかもしれません。

しかし金次郎も言うように、今日の米櫃は、新しい米櫃を生む力でもあり、明日に向かうパートナーでもあります。
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発展途上国では戦争や飢餓に苦しみ生死の狭間で生きている。そんな中でキレイごとを言ったところで通用しない。やはり、飢えていては正気ではいられない。

人間らしい生き方、明日への挑戦、創造という希望に満ちた生き方をしていくためには、お金の蓄えという余力がいるのだろう。さすれば安心する。しかし、安心とは不安の裏返しであり失った時の不安をいつも抱えることになる。

人間の金銭欲は果てしなく、あればあるほど邪魔にならない。銀行の通帳にゼロが増えるという不思議な世界である。

お金を無駄に浪費することでもなく、単に貯蓄すればよいというものでもなさそうである。お金は道具であり、道具は使ってこそ生きてくる。生かして成果となって帰ってくれば喜びとなり、希望となる。その時、過ちに気づき、迷いから覚めるのだろうか。

お金を追えば追うほどお金は遠ざかり、その人から金(カネ)という異臭を放ち周囲は暗黒となる。お金を正しく生きた使い方をすれば、お金に振り回されることなく、きっと未来を生む力となっていくものと考えたいのです。


<徳を生む>

致知出版社
「現代に生きる二宮翁夜話」より引用 その4
中桐万里子氏著
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ある学生さんから聞いた話を思い出しました。その方が飲食店で研修を受けていたとき、来る日も、来る日も皿を洗うことばかりさせられたと言います。だから思います。「これじゃぁ、なんの経験にもならないし、せっかく大学で勉強したことも、自分の力も、ぜんぜん活かせないじゃないか・・・・・」と。しかしある時、肚を決めます。「こうなったら洗い場の仕事を徹底してやるぞ!」と。

皿洗いとまっすぐに向き合っていると、目にとまるようになります。そこに残されていた料理です。お客様は何を残すのか・・・注意深く観察し続けます。すると、漬け物代わりのちりめんじゃこがよく残されていることに気づきます。ただし、たいていは手をつけてある。「味じゃなく、量の問題かな?」と感じます。

これを作り手に伝え、改善がなされ、ちりめんじゃこが残されることは減ったそうです。
洗い場の自分にしか果たせない役割をみつけ、働くことの楽しさがぐっと増したと語られていました。

ひなびて見えるそんな小さく「卑近」の場所こそ、大きな実益や実徳を生む力をもつ「富の源」「宝のありか」だ・・・・・。金次郎のように捉えると、新しい景色が見えてくるかもしれません。
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チームで仕事をする場合、Aさんは、到底一人ではやりきれそうもない仕事を休憩時間もろくにとらずに必死にこなしている。Bさん、Cさんはそこそこ余裕があり休憩もとれている。そこでBさんは、余裕がある時間を使ってAさんの仕事を手伝った。Cさんは知らんぷりである。

成果はAさんが休憩時間がとれるようになったこと。Bさんの休憩時間が減ったことである。果たしてそれだけだろうか。

AさんはBさんへの感謝の気持ち、Bさんは感謝されたという喜び。
AさんとBさんのチームワーク力の向上、Bさんの工夫する力の向上、それだけではありません。AさんとBさんが力を合わせることにより、成果は2倍ではなく、それ以上になったということ。

何の得にもならないと知らんぷりしているCさんの行く末は知れたものである。

目の前の仕事に真剣に向き合い行動することは、自分だけではなく、周りの人にも幸せをもたらすことになる。そこには、成果という利益だけでなく、感謝、信頼という言葉に相応しい、相互の「徳」が生み出される。なんとも素晴らしいものだろうか。

身の周りの日常生活の中にこそ、徳を生み出す宝が眠っているように思えるのです。それの全て源は自身の実践以外にないということです。


<見返りと恩返し>

致知出版社
「現代に生きる二宮翁夜話」より引用 その3
中桐万里子氏著
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報徳。それは時に「忍耐をし、善きことをしていれば幸せになれる」といったイメージで捉えられ、「がんばれば報われる」と訳されます。しかし、これは完全に誤訳です。
徳に「報いる」という語は、どう考えても「報われる」とはならないからです。

がんばれば報われる・・・・・。一見すれば正論のようですが、しかしこれは「見返り」の発想です。我慢を強いられてがんばるほどに、「報いて欲しい」と求める力も強くなってしまいます。だからこそ、金次郎はむしろこれを嫌い、否定するのです。

現実を見れば、わたしたちは、すでにたくさんのものを持っています。使える命が、体力が、時間が、知恵があります。さらには、同時代を生きる同志たちの懸命な働きに支えられ、先人先輩たちからの恩恵もあふれるほど受け、日々の生活を営んでいます。そんな風に、すでにたっぷり「徳を受ける」ことで暮らしが成立していると、彼は捉えます。

そしてだからこそ、受けた徳に「報いよう」と考えるのです。それは、「幸せだからがんばろう」という呼びかけであり、「恩返し」の発想です。
お腹いっぱいにご飯を食べること、日常の幸せを再認識すること・・・・・。
質素、倹約、我慢、忍耐といった犠牲の先にではなく、そうした幸福感の先にこそ、報いようとする実践が生まれ、世界が豊かになると彼は信じていたわけです。
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「相手のためにやった!」、という言葉の裏側には、「なんで礼がないんだ!」
「私は頑張っている!」、という言葉の裏側には、「なんで上手くいかないんだ!」。
言葉の裏側に見返りを求めていることに気づく。

二宮尊徳氏のおっしゃる、「恩返し思想」は、既に私たちは、たくさんの恩恵を受けているのだから、そのお返しをしようというもの。凄い考え方だと思えます。それに気づいた時に一つひとつの行動に嫌味がなくなり、素直の心となって相手に、仲間に伝わっていくでしょう。そして、生きていることに、多くの人に支えられていることに、全てが当たり前ではないということに気づくのではないだろうか。

よくよく考えれば、我々は感謝の連続の中で生きていると感じてくる。
だとすれば、「見返り思想」ではなく、「恩返し思想」で生きていく方が自然であり、上手くいくような気がする。

恩返しをして、恩返しがやってくる。また恩返しをする。するとどちらが先か分からなくなり、恩返しのスパイラルとなって、「幸せの好循環」のフィールドに包まれるのでしょう。


<楽(らく)と楽しい>

致知出版社
「現代に生きる二宮翁夜話」より引用 その2
中桐万里子氏著
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人が自分に与えられている現場で尽くすことが「勤労」です。するとそこでは、田畑の実りをはじめ収穫物が産出さてます。そのとき、彼は問いかけます。それは、自分ひとりの成果物ですか、と。

他社の、国の、自然の助け・・・・・・。
そんな多くの仲間の力があって、初めて得たものではないですか、と。だから提案するのです。

だったら自分以外に助けられた分は、自分以外に配当しようじゃないか、と。
ここにおいて、配当の割合を決める事を「分度」、実際に配当することを「推譲」と呼ぶわけです。

つまり、ひとはまず、他から「推譲」をさせる側であり、その力で実践へと向かい、実りを生む。そして今度は、他へ「推譲」する側となり、次なる者の実践を後押しする役を担う・・・・という具合でしょうか。

金次郎にとっての「推譲」は、けっして自己犠牲による正義や善行ではないと私は感じています。むしろ、「受けたものを返す」という、素朴すぎるほどにシンプルでフェアな行為ではないかと思うのです。
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自分に与えられた仕事に全力を尽くす。果たして出来ているだろうか。楽(らく)して成果を上げようとしていないだろうか。楽(らく)と楽しいは同じ字を書くのに大きな違いです。

楽(らく)な仕事からは何も生まれそうもありません。楽しい仕事だからこそ何かが生まれる。そこには、やりがい、働きがい、元気や躍動感があります。そして、その人の周りには多くの応援者がいます。応援され、応援する。そんな仲間がいれば楽しくなってきます。

社内木鶏会がスタートした。社内木鶏会は、最高のコミュニケーションツール。
今週は17回実施。昨日は早朝の3時と5時。2名の乗務員さんが帰社してくるのを待って、乗務員さんに労いをしながら行いました。それだけではなく、多くの女性も応援に駆け付けてきてくれて、泣けるほど嬉しい思いをしました。私ひとりでは挫けているかもしれません。応援されることは勇気の源。応援してくれた皆さんの念いに応えるために、いい会社にすることを心に誓いました。
応援してくださる皆さん、本当に有難うございました。


仕事は多くの人に支えられ自分という存在が認められていることを知ることです。給料を計算してくれる経理の方がいる。身の回りの準備してくれる総務の方がいる、そんな多くの人が会社という組織を通じて、一人ひとりの役割を担いチームとして成果を出しているのです。自分ひとりだけが頑張っているわけではありません。

だからこそ相手のためにも尽くそう、仕事も全力を尽くそうという気持ちになってきます。その行動こそが、反射鏡のように自分に戻ってきて「楽しさ」という実感をしてくるものと思うのです。

仕事は辛くて大変ですが、楽(らく)ではなく、楽しくするのは自分次第と思うのです。

<恩返し思想>

致知出版社
「現代に生きる二宮翁夜話」より引用 その1
中桐万里子氏著
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すべてのはじまりとなる、もっとも重要な「至誠」。それはシンプルには、一人ひとりが自らの幸福感を知っていること。自分に注がれている多くのパワーに気づいていること、とも言えます。

「父母も その父母も わが身なり われを愛せよ 我を敬せよ」という道歌に凝縮されているように、彼は、ひとはみな多くの愛や支援や想いや育みを受けることではじめて存在できると捉えていました。
だからそれを、誠実に謙虚に、自覚することがはじまりになるのです。これが金次郎流「至誠」であり、「徳を知ること」「新田を耕すこと」ともほぼ同義ではないかと思います。

そうした幸福感の認識が、「だからがんばろう」という意欲へとつながり、「実行」を生むわけです。
いわば、「受けた徳に報いること」「田畑を耕すこと」と言い換えてもいいでしょう。
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妻が家事をやらないと嘆く。
仕事がキツイと嘆く。
給料が安いと文句をいう。言い出せばきりがない。

本当は、
妻がいてくれるからこそ仕事に励むことができる。
仕事があるからこそ成長ができる。
給料を頂けるからこそ家族を養うことができる。

「こそ」と変えるだけで、凄くイメージが変わります。感謝という言葉が湧き上がってきます。
私たちはすでに多くの恩恵を受けて十分に幸せなはずなのに、「もっと、もっと欲しい!」と欲張ります。
自己欲求を言えばきりがありません、果てしなく続きます。行き着く先は破滅だと考えるのです。

だからこそ今、
週末は妻の手伝いをして家族サービスをしよう。
仕事はキツイけど頑張って貢献しよう。
給料を頂けることに感謝をしよう。
という「恩返し思想」とになってきます。

既に私たちは足るを知り、十分に幸せであることを気づくことです。
それが自己成長であり、誠を貫く、凛とした自分を創ることになると思うのです。


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