精いっぱい生きた

中日春秋 6/25

「天が、この国の歴史の混乱を収拾するためにこの若者を地上にくだし、その使命がおわったとき惜しげもなく天へ召しかえした」。若者とは坂本龍馬。司馬遼太郎さんの『竜馬がゆく』の最終回。近江屋で龍馬が刃(やいば)にたおれる場面である。

「惜しげもなく天へ召しかえした」の部分。最近見つかった自筆原稿によると当初は「惜しむように」だった。線で消し「惜しげもなく」と修正している。

読み返す。やはり、この部分、「惜しげもなく」でなければならぬ。そう思う。三十一歳での龍馬の死は早い。惜しいと書きたくなる。されどである。大政奉還、薩長同盟。龍馬の大仕事に天が心から満足し「よくやった」と考えるのなら「惜しげもなく」の方がぴたりとくる。それは精いっぱい生きたと同じ意味であるまいか。

小林麻央さんが亡くなった。病床にあってもそのブログには同じ病の人への慰めや励ましの言葉があふれていた。誰かのためにの大仕事を最後まで続けていた。

この人にも「惜しむように」が似合わぬか。そのときを迎えても「可哀想(かわいそう)に」とは思われたくない。そう書いていた。病気が「私の人生を代表する出来事ではないから」

かなえた夢、出会い、家族との生活。それこそが人生を代表する出来事。だとすれば、お別れは「可哀想」とか「惜しい」よりも「精いっぱい生きた」の方がふさわしかろう。


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