沖縄慰霊の日

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中日春秋 6/23

沖縄には「艦砲の食い残し」という言葉がある。鉄の暴風と形容された沖縄戦の艦砲射撃で家も家族も食い尽くされた。その食い残しが、生き残った自分たち。言い尽くせぬ悲しみと虚(むな)しさが結晶となった言葉だ。

<♪うんじゅん 我(わ)んにん/いゃーん 我んにん/艦砲(かんぽー)ぬ喰(く)ぇー残(ぬく)さー…>。あなたもわたしも、おまえもおれも、艦砲の食い残し。そんな歌が大ヒットしたのは、戦後三十年を迎えたころだ。

仲松昌次さんの労作『「艦砲ぬ喰ぇー残さー」物語』によると、作詞作曲した比嘉恒敏(ひがこうびん)さんは、対馬丸の沈没で父母と長男を失い、働きに出ていた大阪での空襲で妻と次男を失った。

終戦後、廃虚となった故郷の村に帰って生活を再建させたが、米軍基地建設のため強制的に立ち退かされた。そんな自分の歩みを、民話を語るような木訥(ぼくとつ)とした口調と明るい曲調の島唄にしたのだ。

だが、比嘉さんが、この歌のヒットを見届けることはなかった。本土復帰の翌年、飲酒運転の米兵が起こした事故で、五十六歳で命を奪われてしまった。

沖縄の新聞・琉球新報に最近、七十七歳の方が詠んだ琉歌が載っていた。<野山(ぬやま)揺るがする艦砲の音(ぬうとぅ)やこの年(くぬちゃ)なるまでも追うてきよ(でぃんうーてぃちゅー)さ>源河朝盛(げんかちょうせい)。七十二年たっても止まぬ戦争の響きがある。「艦砲ぬ喰ぇー残さー」という言葉は今も痛みを伴って脈を打っている。きょうは、沖縄慰霊の日だ。

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 読谷村楚辺に「艦砲ぬ喰ぇ残さー」の歌碑がある。「若さぬ時ねー戦争ぬ世」で始まり、歌詞の最後は「いゃーん我んにん/艦砲ぬ喰ぇー残さー」のリフレインで歌われるあの歌だ。1970年代に4人姉妹の「でいご娘」によって、たちまちヒットした。作詞作曲は「でいご娘」の父親・比嘉恒敏。
 本書はその誕生と世に出るまでの物語である。著者はその歌詞を追いながら、恒敏とその家族の歴史をひもといていく。長年、テレビ・ディレクターを務めた手法さながらに、読者を引き込んでゆく。やがて読者は、この歌が作者の壮絶な人生から生まれたことを知る。
 楚辺で生まれた恒敏の人生は、出稼ぎ、戦争、両親や先妻とその子どもの戦死、戦後の故郷・楚辺の軍用地接収による立ち退きなど、戦前戦後の「沖縄」を体現したものであった。著者は「いくさ世を生き抜き、戦後の過酷な沖縄で生きたすべての人々に通底する物語となる」と書く。
 そうした苦しい生活の中でも、3男4女の子宝に恵まれ、4人娘に三線や踊りの手ほどきをしたのが評判となり、1964年に「でいご娘」としてデビュー。「艦砲の歌」ができたのは、60年代後半だった。恒敏は青年時代に、大阪で普久原朝喜の新作民謡の感化を受けている。
 70年代に入り、「でいご娘」は絶頂期に入る。ところが73年10月10日夜、公演帰りの車が、飲酒運転の米兵の車に正面衝突され、妻のシゲが即死、重体の恒敏も4日後に死亡。56歳の、あまりにも短い生涯であった。
 事故後、活動を休止していた「でいご娘」が、75年、父の遺志を継いで作曲家・普久原恒勇のプロデュースによる「艦砲ぬ喰ぇぬくさー」で活動を再開した。
 著者は言う。「単なる反戦歌ではない。親子、家族の絆をうたって希望をつなぐ歌ではないのか」と。戦後70年が過ぎ、時代はキナ臭さが漂い始めている。再び「艦砲」の犠牲を出さないために、「命のリレーの重さ」をかみしめたい。(三木健・ジャーナリスト)
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 なかまつ・まさじ 1944年、本部町瀬底島出身。首里高校・琉球大学史学科を経て日本放送協会にディレクターとして入局。主に文化教養系番組を制作。2005年に退職、帰郷。現在、フリーディレクター(演出)。

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艦砲の喰え残さ
かんぽうぬくぇーぬくさー
[kaNpoo]nu kweenukusaa
〇艦砲射撃の喰い残し
語句・くぇーぬくさー 食い残し。<くぇーぬくし 食べ残し。 語末の「あー aa」は 「・・の奴」「・・の人」と擬人化的表現。「食い残されし者」くらいの意味。

作詞作曲 比嘉恒敏


一、若さる時ね戦争の世 若さる花ん咲ちゆさん(若さる花ん咲ちゆさん)家ん元祖ん親兄弟 艦砲射撃の的になて着るむん喰えむんむるねえらん スーティーチャー喰で暮らちゃんや (うんじゅん我んにん 汝ん我んにん艦砲の喰い残さ)
わかさるとぅちねー'いくさぬゆー わかさるはなんさちゆーさん (わかさるはなんさちゆーさん)やーんぐゎんすん'うやちょ(ー)でーかんぽーしゃげきぬまとぅになてぃちるむん くぇーむんむるねーらん すーてぃーちゃーかでぃくらちゃんやー ('うんじゅんわんにん 'っやーやわんにん かんぽーぬくぇーぬくさー)
wakasaru tuchinee 'ikusanuyuu wakasaru hanaN sachiyuusaN (wakasaru hanaNsachiyuusaN )yaaN gwaNsuN 'uyacho(o)dee [kaNpooshageki]nu matu ni nati chirumuN kweemuN muruneeraN suutiichaa kadi kuracyaNyaa ('uNjyuN waNniN 'yaa ya waNniN  kaNpoo nu kweenukusaa)
〇若い時は戦争の世の中 若い花は咲くことが出来なかった(若い花は咲くことが出来なかった) 家もご先祖様も親兄弟も[艦砲射撃]の的になり 着るもの食べるものも全くなかった。ソテツを食べて暮らしたよ。(あなたもわたしも 君も僕も艦砲の食い残し)
(括弧は以下省略)
語句・わかさるとちねー 若い時には。 <わかさん 若い +とち 時 +ねー には(<にni+やjaで「ねー」になる。)・さちゆーさん  咲くことができなかった。 <さちゆん 咲く。+ゆー よく。・・する +さん しない。 よく・・することにならない。・・できない。 ・すーてぃーちゃー ソテツを。 <すーてぃーち ソテツ。+や をば。 蘇鉄は種や茎にでんぷんを多く含み救荒食料にもなるが猛毒のホルムアルデヒドなどを含むために毒抜きしないで食べると死に至る場合があり戦時中は「ソテツ地獄」(1920年代)ともいわれた。私の里九州宮崎でもよくこの話を聞かされた。
・くらちゃん 暮らした。 <くらしゅん 暮らすの過去形


ニ、神ん仏ん頼ららん 畑やカナアミ銭ならん 家小や風ぬうっ飛ばち戦果かたみてすびかって うっちぇーひっちぇーむたばって肝や誠どやたしがや
かみんふとぅきんたゆららん はるや[かなあみ]じんならん やーぐゎーやかじぬ'うっとぅばちせんくゎかたみてぃすびかってぃ 'うっちぇーふぃっちぇーむたばってぃ ちむやまくとぅどぅやたしがやー
kamiN hutukiN tayuraraN haruya [金網]jiN naraN yaagwaa ya kazinu 'uttubachi [戦果]katamiti subikatti 'ucchee hwichee mutabatti chimu ya makutudu yatashigayaa
〇神も仏も頼られない 畑は金網(張られて)銭にはならない。家は風が吹っ飛ばし戦果担いでしょっびかれて ひっくり返し返され弄ばれ 心は全く誠実だったのだがねえ
語句・はるやかなあみ 畑は金網。 おそらく戦後米軍が基地の為に張り巡らせた金網フェンスの事で、食料源であり生活の源の畑すら奪われた農民は多かったに違いない。・せんくゎ 戦果。 戦後すぐの食料難の時期「戦果あぎゃー」(戦果をあげる人)といって米軍の倉庫から食料や日用品を「盗む」ことが生きるためにされていた。もちろん銃殺も覚悟で必死だったであろう。 ・すびかってぃ しょっぴかれて。 <すびちゅん しょっぴく。の受け身と過去形 ・うちぇーふぃっちぇー ひっくり返し返し。 「なんどぅるふぃんどぅる」「たっくわいむっくわい」(べたべたひっつくさま)のようにある状態を表現するのに二つの語句をつなげるが 意味があるのは最初の語句で後のはリズミカルにするために意味がない場合が多い。疂語という。


三、泥の中から立ち上がて家庭もとめて妻とめて産子生まりて毎年産し次男三男ちんなんび哀れの中にも童ん達が笑い声聞ち肝とめて
どぅるぬなかからたちあがてぃちねーむとぅみてぃとぅじとぅめてぃ なしぐゎー'んまりてぃめーにんなしじなんさんなんちんなんびー'あわりんなかにんわらびんちゃーがわらいぐぃちちちむとぅめーてぃ
duru nu nakakara tachi'agati chinee mutumiti tuji tumeeti nashigwaa 'Nmariti meeniNnashi jinaNsaNsaN chiNnaNbii 'awariNnakaniN warabiNchaa ga waraigui chichi chimutumeeti
〇泥の中から立ち上がって家庭を求めて妻をめとり こどもも生まれて毎年産み次男三男とかたつむり(みたい)苦労の中も子どもらの笑い声聞き心を求めて
語句・ちんなんびー かたつむり。ちんなんみー とも。 ・あわり 苦労 つらいこと。


四、平和なてから幾年か子の達んまぎさなて居しが射やんらったるヤマシシの我が子思ゆるごとに潮水又とんで思れ 夜の夜ながた目くふぁゆさ
へいわなてぃから'いくとぅしか っくゎぬちゃんまぎさなて'うしが 'いやんらったるやまししぬわがく'うむゆるぐとぅに'うしゅみじまたとんでぃ'うむれーゆるぬゆながたみーくふぁゆさ
heiwanatikara 'ikutushika kkwanuchaaN magisa nati 'ushiga 'iyaNrattaru yamshishinu wagaku 'umuyurugutuni 'ushumiji matatu Ndi'umuree yurunu yunagata miikuhwayusa
〇平和になってから何年か 子ども達も大きくなっているが射られたイノシシが我が子を思うように潮が又くる(繰り返す)のだと思っては夜の夜中にねむれない
語句・いやんらったる 射たれた。 ・うすみじまたとぅ 潮がまたと。潮が繰り返すように。 また戦が繰り返されるのではないかと心配して と読まれる。 ・みーくふぁゆん 目が堅くて(寝られない)。  <みー 目 + くふぁゆん 堅い 目が堅い。


五、我親喰わたるあの戦我島喰わたるあの艦砲 生まれて変わても忘らりゆみ誰があの様しいいんじゃちゃら 恨でん悔やでん飽きざらん子孫末代遺言さな
わ'うやくわたる'あぬ'いくさ わしまくわたる'あぬ[かんぽう]'んまりてぃかわてぃんわしらりゆみ たーが'あぬさましーんじゃちゃら'うらでぃんくやでぃん'あきざらんしすんまちでー'いぐんさな
wa'uyakwataru 'anu'ikusa washima kwataru 'anu [艦砲] 'NmaritikawatiN washirariyumi taaga 'anusama shiiNjachara 'uradiNkuyadiN 'akijaraN shisuNmachidee 'iguNsana
〇私の親を食べたあの戦争 私の故郷を食べたあの艦砲射撃 生まれ変わっても忘れることができようか?誰があのようなことをしはじめたのか 恨んでも悔やんでも飽きたりない 子孫末代まで遺言したいねえ
語句・くわたる 食べた。 <くわゆん  ・しーんじゃちゃら しはじめたか。<しーんじやすん 仕出す 儲ける。 し+出す ・あきざらん 飽きたりない。 <あちざらん ←きki と ちchiが入れ代わっている。

この歌は厳粛な気持ちで訳した。私が本土出身の人間だからである。
明るい三下げ曲なのに歌詞は重たい。しかし一回聴いて重たさを感じないのは歌詞に比喩工夫がある。

あの沖縄戦を背景にうちなーんちゅがどう生きて来たかが切り取られ、切実な願いや憤りが歌に昇華している。
沖縄戦とは何だったか。
1945年日本が始めた太平洋戦争末期、連合軍は本土上陸のための足掛かりを沖縄に求め、日本軍部は抵抗する力がないことも「負け戦」になることも知りながら住民を狩り出し上陸作戦に抵抗しようとした。「捨て石作戦」とも言われた。沖縄戦の死者20数万人(これはヒロシマの被害とも匹敵する)、米軍が艦砲射撃などでうちこんだ砲弾の数60万発。鉄の暴風と言われた。いまだに不発弾が那覇市内でも見つかるくらい。ひめゆり部隊の悲劇やチビチリガマの「集団自決」(強制自殺とも言われる)。などなど狭い島で逃げる場所を失い、日本軍も敗走するなかで「切り捨てられた」戦場において何が起こったかは、私達戦後に生まれたものもその体験や事実にもっと耳をかたむけるべきである。

この唄は、唄という芸能を通じて、私達に語りかける。
それはやさしい三線の音色とウチナーグチのリズムで、ヤマトンチュにはすぐには理解できない言葉ではあるが、淡々と戦中、戦後を語っている。

耳をかたむけるものだけに聞こえる声がある。もう亡くなったたくさんの犠牲者の声、今も声にならない声で訴える声もある。そういう声をこの歌から聞き取っていきたい、と私はそう思う。
今進められている名護の新基地建設をすすめる人々、本土の私達には、この唄の遺言を今一度かみ締めてほしいと心から願う。
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