雨の語り口

南風録 6/17

 雨は雄弁な語り手だ。エッセイストの三宮麻由子さんが「雨の日の楽しみ」という一文を書いている。幼い時に視力を失い、音を聞き分ける感性は豊かである。

 晴れの日は無愛想なトタン屋根や路肩の空き缶が、雨粒があたると楽器になり、音を紡いで街の輪郭を浮かび上がらせる。特に梅雨のまっすぐな雨は細やかに語ってくれるという。降り方によっていろいろな音色を奏でると思えば、じめじめした季節も楽しく過ごせそうだ。

 だが、雨の語り口がいつも耳に心地よいとは限らない。気象庁が示す「雨の強さと降り方」によれば、時間50ミリを超えると滝のようなごう音が響く。車を運転中に激しい水しぶきで目の前が白っぽくなり、立ち往生した経験を持つ人もいるだろう。

 大隅半島は昨年の台風上陸で時間150ミリという記録的な大雨が降った地域もあった。雨音が大きくて、防災無線を聞き取れなかった住民もいた。この「降り方」は、息苦しいような圧迫や恐怖を感じるレベルだ。想像するだけで災害の不安にかられる。

 土石流などの大雨災害には、前兆現象が生じる。地鳴りなど聞き慣れない音が耳に入ることもある。過去の災害の貴重な教訓に違いない。

 この夏も多雨の予報が出ている。大隅には台風による流木や土砂が片付いていない河川もあり、少しの雨でも警戒は怠れない。雨の語り口に、じっと耳を澄ませたい。


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途中に信号が変わるのを待って
いた。頭上の傘に大粒の雨が降り注いでいる。あんまりう
るさく落ちてくるので、ふと、傘の天井あたりに内側から
掌をあててみた。 形からいうと手で傘を支えたような格
好である。そんなことをしたところで、雨が食い止められ
るはずもない。ところがそのとき、私は何か、とても不思
議な感覚を覚えた。掌に大きな丸いものがひっきりなしに
落ちてくる。まるで小人が掌の上で踊っているかのようだ
った。あるいは妖精たちが宝石をばらまいているとでもい
ったほういいかもしれない。
「雨粒だ」
その一瞬前まで、重苦しい音の圧力となって私の頭にのし
かかっていた雨が、突然、無邪気でかわいらしい粒々に姿
を変えて、掌の上で楽しそうに飛び跳ねている。それはま
さに、空が魔法の箱となって、恐ろしい雨をえもいわれぬ
滴の精に変身させた瞬間だった。  
(「雨の日の楽しみ」より)

4歳の時一夜にして視力を失い、<sceneless>(全盲) に
なったという三宮さんのエッセイを読むと、三宮さんは本
当によく見ているのだと、驚くばかりである。目の不自由
な方というのは、実は三宮さんのことではなくて、目に頼
って、ものを見ていない私たちのことだろう。

三宮さんは全国さまざまな所で講演をしている。中でも
学校で生徒を前に話をして、講演の後の質疑応答という
のを、楽しみにしているという。
あるとき三宮さんは一人の高校生から「もし、目が見える
ようになるといわれたら、晴眼者に戻りたいと思いますか」
と質問された。 大人には遠慮があって聞けない質問でも
晴眼者なら一度は聞きたい質問だろうと思っていたので、
とうとうこの質問が来た、と思って、三宮さんは即座に戻
りたいとは答えられなかったという。

会場はシーンと水を打ったように静まり返り、私が口を開
くのを待っている。私は決心すると、自分の深いところか
ら出てくるような声に心を預けて答えた。
「たしかに、目が見えたら、見てみたいものがたくさんあ
ります。さまざまな自然の姿や大好きな鳥たち、私を育ん
でくださる方々のお顔。でも反対に、たとえ見えるように
なれないと宣告されたとしても、かまわない気がします。
いつも見えるようになりたいと思っていなければいられ
ない人生より、見えなくて不便だけれど、これで十分幸せ
だっていえる人生のほうが、本当の意味で幸せでないかと
思うのです。いかがでしょう」
すると、その言葉が終わらないうちに、満場の拍手をいた
だいた。(「講演こぼれ話」より)

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