「逸郎」君

正平調 6/17

大分県のある洞窟で、探検ごっこをしていた小学6年生の「逸郎」君が壁に名を刻んだ。20年後。1983年の夏、それが発見されてちょっとした騒ぎになる。「旧石器時代の壁画か」と。

円満字(えんまんじ)二郎著「常用漢字の事件簿」によれば、「逸」の字が1万年前に滅んだオオツノシカの図に見えたらしい。なるほど、角と足があるようにも思えるが、逸郎さんの恐縮ぶりやどれほどだったかと同情する。

早とちりで夏の幻に終わった騒動には、おかしくも見果てぬ歴史へのロマンがある。比べてこの“探検ごっこ”はどうだろう。加計(かけ)学園の学部新設にからんで文部科学省でようやく見つかったという文書である。

「ある」と言えば、「ない」とかみつかれ、「出てきたぞ」とこちらで叫べば、「書かれているようなことはない」とあちらで首を振る人がいる。発見と否定の繰り返しで何が正しいのやらさっぱり分からない。

内閣府側が言ったという「総理の意向」。学園に有利な計らいとも読める「官房副長官の指示」。すべて記録のプロが刻んだ言葉だろう。それがまるで夏の幻とでも?

大分の洞窟には「槍(やり)を持つ人」の絵もあったが、よく見たら漢字の「使」だったそうだ。「総理の意向」はどこから見ても「総理の意向」である。

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珍しい名字の著者であるが、これは本名とのこと。

漢字をキーワードにした世相史という珍しいタイプの本である。『昭和を騒がせた漢字たち―当用漢字の事件簿』(2007年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)の続編に当る内容で、常用漢字表が施行された1981年から現在までに起きた様々な事件や出来事を、漢字という観点から捉えていく。

テレビドラマ「おしん」に漢字を覚えることの喜びを見出し、「かい人21面相」らの脅迫状に和文タイプからワープロへの進化を読み取る。新党さきがけの「魁」という漢字が何に由来するのかを推測し、漢字が読めないことで麻生元首相が批判されたことの問題点を指摘する。

1967年生まれの著者と私はほぼ同世代なので、リアルタイムに経験して来た事件が次々と登場する。著者の鋭い分析にも納得させられることが多かった。

昨年2010年に常用漢字表は29年ぶりに改訂された。この先、漢字をめぐって一体どんな事件が起きることになるのだろうか。
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