褒めて伸ばす

編集日記 6/3

 落語家の立川談志さんは毒舌家として知られる。しかし弟子の立川談四楼さんは著書で、師匠は褒める名人だったと回顧している。面と向かって「おまえはいい!」と言われると自分の努力を師匠が見てくれていることが分かり、より稽古に力が入ったという。

 いつもは「やめちまえ、ばか野郎!」など厳しい言葉ばかりだっただけに、褒め言葉の効果は絶大だ。談四楼さんは、師匠は自分の「ヨイショの価値」を知っており、それを弟子の育成に生かしたのだろうと分析する。

 褒めるという行為は子どもの成長に好影響を与えることが、国立青少年教育振興機構の調査で改めて分かった。子ども時代に褒められた経験が多いほど、へこたれない力や自己肯定感が高い大人に成長するとの結果が出たという。

 褒められてばかりだと"打たれ弱い大人"になるのではないかと心配だが、どうやらそうではないらしい。同機構は「叱る前には、たくさん褒めてあげてほしい」と提案する。

 多くの親は、子どもを褒めて伸ばすことの大切さを知っているが、なかなか実践できないのが悩ましいところだ。それでも褒めるときも叱るときも愛情を持って向き合えば、親の気持ちはきっと伝わるはずだ。

…………………………


 最近になって読んだ本で、ある噺家さん同士の関係などについて、今まで知らなかったことをいくつか知ることができた。

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立川談四楼著『談志が死んだ』(新潮文庫)

 立川談四楼の『談志が死んだ』は、家元が亡くなってほぼ一年後の2012年12月に新潮社から単行本が発行され、昨年文庫にもなった。
 
 気にはなっていた本なのだが、私は先週読んだばかり。

 タイトルの通り、師匠のことが中心となっている本なのだが、他にもこれまで私が知ることのなかった、談四楼をめぐる周囲の人々についての興味深い内容もあって、一気に読み進んだ。

 なかでも、昭和26(1951)年生まれの談四楼が、平成23(2011)年に還暦祝いの会を開催するあたりの内容が、印象深い。

 この会は「同期会」として開催する思いがあり、ともに前座修業をした仲間に声をかけるのだが、それぞれ皆、体に変調のある時期だったのだ。

 第7章の冒頭を、まず引用する。
 還暦を迎えるのは悪くない。それをキッカケとするように、何もかもどうでもよくなった。

 私も昨年還暦を迎えたが、こういう心境にはなれなかったなぁ^^

 少し中略し、還暦記念落語会のこと。

 私の独演会の長年のお客から、記念の会をやるんでしょと問われ、もちろんやりますともと答えた。六月二十九日の国立演芸場が空いていた。それは翌日に還暦を迎えるという、シャレていてドンピシャリの日だった。
 同期を招く案がすぐに浮かんだ。古今亭志ん吉、林家公平、立川寸志の私、柳家ほたるの四人が昭和四十五年の入門だった。それぞれが八朝、らぶ平、談四楼、権太楼と名をかえ、真打となって久しいが、ともに楽屋修業をした掛け替えのない仲間である。
 (中 略)
 依頼するとすぐに出演の応答があった八朝は、しかし明けて平成二十三年の春に手術が控えていて、それが気がかりだった。八朝はこの二十年、高座の時間に合わせた投薬でパーキンソン氏病をしのいでいたが、ついにここへきて薬効に狂いが生じ、いよいよ開頭手術に踏み切るのだ。

 八朝の病気については、この文章で初めて知った。
 なお、らぶ平は、問題を起こして一門から追放となり、行方不明だったらしい。

 さて、談四楼と権太楼のこと。
 私と権太楼の間には確執があった。四半世紀を越え、三十年になんなんとする没交渉はやはり長いと言えるだろう。

 私は、このことを初めて知った。
 さて、それほど長く二人を分け隔てた原因は、何だったのか。
 さん光が抜擢を受けて真打に昇進し、権太楼を襲名するという。小朝に抜かれた時には悔しく、三島の死に接した談志同様、頭を掻きむしる焦燥感を覚えたが、さん光の抜擢と権太楼襲名は得心がいった。彼のサービス精神と笑わせる力を高く評価していたからである。だから彼の昇進披露パーティーの司会を進んで引き受けた。
 その後の真打昇進試験で八朝、らぶ平、私が落ち、八朝とらぶ平は落語協会にとどまり、私だけが割って出て立川流の旗揚げに参加した。八朝とらぶ平は追試を受け、やがて真打となるのだが、私はともに落された兄弟子の小談志とともに立川流真打第一号ということになった。

 ちなみに、談四楼は、昭和45年3月入門、昭和50年11月に二ツ目昇進で、小朝は昭和45年4月入門、昭和51年7月の二ツ目昇進だ。権太楼は昭和45年4月入門で談四楼と同じ昭和50年11月に二ツ目昇進。
 入門はこの三人ほぼ同じ時期だが、二ツ目昇進では談四楼、権太楼は小朝に先んじていた。
 しかし、小朝は、師匠柳朝の強力な支援もあって実力を蓄えるともにどんどん人気者になり、昭和53年にNHK新人落語コンクール(当時)で優勝したことも弾みにして、昭和55年真打に昇進した。

 なお、権太楼と小朝がNHKで優勝を競った舞台裏などに関しては、以前権太楼の本からの引用を含めて記事にしたことがあるので、ご興味のある方はご覧のほどを。


 さて、立川流真打第一号となった後のことを続ける。
 ここで仕掛けなきゃ男じゃないとばかりに私は気負い、試験の顛末を『屈折十三年』のタイトルで小説誌に発表し、真打昇進を記念するパーティーを“生前葬”という形で芝は増上寺で催した。
 昔の仲間が大勢やってきた。円楽党、落語芸術協会、落語協会と、垣根を越えて来てくれた。橘家円蔵は談志の顔もあって出席してくれたが、後日に協会理事としてケジメがつかぬとの理由で、寄席出演一ヶ月停止のペナルティが科せられた。
 (中 略)
 談志に褒められ、お客が面白かったと言ってくれたパーティー。一門が勢揃いしている打ち上げ。それなのに何かが足りない。・・・・・・アッと声が出た。権太楼がいなかったじゃないか。彼の門出を司会役として心から祝福したこのオレのパーティーには、あいつ、顔すら出さなかったのだ。
 私は権太楼とただちに絶交した。そう宣言したわけではないが、住所録から彼の名を抹消し、一切の連絡を絶った。不思議なもので、彼からも電話一本、ハガキ一枚来なかった。
 
 なるほど、こんないきさつがあったんだ。知らなかった。

 そして、時は過ぎ、談四楼の還暦祝いの会。
 三十年に渡る溝は埋まったのかどうか・・・・・・。
 勇を鼓して番号を押した。出ない。十回鳴らしても留守録にもならない。いったん切って考えた。高座の最中だったか、少なくともケータイから離れているのだと。三十分経って再びかけると今度はいきなり出た。名を告げると私に権太楼は久しぶりと叫ぶように言い、こう続けた。
「ごめん、八朝さんから、近々兄さんから電話があるとは聞いてたけど、知らない番号だったもんで、つい用心してさ」
 なるほど、それで最初は出なかったのか。よくわかる。私も非通知や初めての番号の電話には出ないのだから。用件を伝えた。
「喜んで出さしてもらいます」
 そのひと言で充分だったが、権太楼は更に言った。
「必ず頼んでくると思ってた」
「えっ、どういうこと?」
「オレも還暦になる時、今までのあれこれがどうでもよくなったから」 
 権太楼は同期だが、四つ年上だ。大学を卒業しての入門だからだが、そうか、四年前にそんな心持ちになっていたのか。
「聞いていると思うけど、腎臓患ってね、それもあるんだ。還暦の時、休むチャンスだったんだけど、欲が深いんだろうね、来る仕事をみんな受けちゃったんだ。で、過労、血尿、腎臓という順でね、ようやく休めるというわけさ」 頷いて聞くしかなかった。


 平成23(2011)年6月29日に開催された立川談四楼独演会には、開頭手術が成功した八朝と権太楼の同期が駆けつけることができた。

 開催時期は、あの3.11から三ヵ月後。

 開催に踏み切った談四楼の思いや鼎談コーナーの様子が次のように綴られている。
 人々はあまりにも悲惨な映像を見過ぎて、沈鬱になっていた。そして自粛ムードにモヤモヤしたものを抱えていて、この会をやる意義は十二分にあると思った。案の定、娯楽への飢えが観客動員につながり、還暦記念の会“同期とともに”は満席となった。
 八朝が権太楼に、さっきのまぜっ返しへの仕返しとばかりに言う。
「腎臓を一つ取っちゃったんだって?」
「そうなんだよ、結局がんでさ、悪い方を取っちゃった。いい方を取ったらシャレにならないだろ」
「そらそうだ」
 手術をした者同士、話が弾んでいる。そして私は驚く。権太楼は腎臓がんだったのか。それにしても、こういうことを笑顔で話せるなんて。おや、当の権太楼はまだニヤニヤしている。
「でね、その取った腎臓だけど、四国の方の医者に一千万円で売れたんだよ」
 客席がドカンと波打ったようにウケた。臓器移植を巡る腎臓の売買の話が、つい先だってマスコミを賑わせたばかりだった。私はあらためて権太楼に瞠目した。すげえ、想像以上に大きくなっている。何もかも晒け出し、がんをネタにし、シャレのめしている。八朝と言い権太楼と言い、オレの同期はスゴいと確信する。私は、「丈夫でごめんね」とはさみ、小さい笑いを取ったのみだった。

 この部分を読んで、私は同じ2011年の4月9日、震災後に初めて行った会の第六回大手町落語会で、高座を務めることができなくなった権太楼が、マスクをしてわざわざ会場に出向き、お詫びの口上をしたことを思い出した。
 その時の自分の記事から、その“お詫び口上”を再掲する。


権太楼 『お詫び口上』(14:03-14:13)
 幕が上がって、本来は開口一番のはずだが、めくりに「権太楼」の文字。会場のお客さんの大方は、私と同様に「前座がしくじったなぁ・・・・・・」と思ったのではなかろうか。しかし、マスク姿の権太楼が登場し、会場は無言な中にも、「?」とか「!」の渦だったように思う。
 たぶん、相当悩んだ末の登場だったのだと思う。「都合」の内容を隠さず、公表することで自分自身も戦うつもりだったのだろう。だから、権太楼が語った内容を書くことにする。
 昨年11月に腎臓にガンが見つかった。今年1月に片方の腎臓を手術で除去。3月に医者に勧められて抗ガン剤治療を1週間入院して行い、放射線治療も受けたらしい。今は通院でいいのだが、治療の結果として白血球が減少しているので、人前に出る時はマスク必須、と医者に言われているらしい。
「マスクして、百年目はできないでしょう!」で、会場は大爆笑。この会の顔ぶれを語り、「柳家でこの人たち以外には・・・喬太郎くらいしかいない、凄い顔ぶれで出たかった・・・」と語ると、良いタイミングで「小三治!」と声がかかる。「あの人は別、ですから」で、また会場が沸く。 マスク越しとはいえ、権太楼節は健在、のように思えた。いや、そう思いたい。「これから帰って、婆さんの言うとおりにうがいして手洗って、ニンニク卵黄飲みます!」と高座を降りる時の会場の拍手は、結果として他の出演者よりも一段と大きく、そして長い時間続いた。

 談四楼還暦記念の会で、権太楼は絶品の『笠碁』を披露したらしい。

 その高座は、このお詫び口上から二か月余り後のことだった。
 私は、権太楼が自粛したのは、同期談四楼の会のためでもあったのではないか、などと今は思っている。

 つい、権太楼のことが長くなってしまったが、それは、先日のNHK新人落語大賞の審査について小言を書いた反動(?)かもしれない。

 この談四楼の本は、彼と師匠談志のことが中心ではあるが、この執筆は、師匠の死を契機に自分の半生を振り返る良いきっかけにもなったのではなかろうか。

 なかでも、この還暦落語会を“同期会”とすることで、三十年に渡る二人の噺家の溝を埋めることになったいきさつは、読んでいて実に胸に沁みるものがある。

 それは、昨年還暦を迎えた自分だからこそ感じる何かが、そこにあるからなのだろう。

 この本からは、家元のことなども今後紹介するつもり。これがまた、凄いネタが多い。

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