生き物のぬくもり

越山若水 6/1

医師で作家の南木佳士(なぎけいし)さん(65)は、30年ほど前にうつ病を発症した。朝の回診を済ませ外来に向かう廊下でのことだった。いきなり激しいめまいと動悸(どうき)に襲われた。

その後の苦しみは尋常ではなかった。睡眠導入剤を飲んでも未明に目覚めてしまい幻覚を見た。無数の小鳥が壁から飛び出し、それが白いスクリーンに変わる。

医師として看取(みと)った何百人もの顔が映し出される。「許してください」。正座し深く下げた頭を布団に埋める儀式を繰り返して朝になった(「トラや」文春文庫)。

南木さんの場合「こんな生活しとったら、長く生きられませんよ」と言われたほどだから、過労が一因だったのだろう。最後の一線を越えなかったのが、せめてもの幸いだった。

そんな人たちが大勢、潜在するなかでの統計だと思えばいっそう心が痛む。日本の自殺死亡率は10万人当たり約20人。約90カ国・地域のワースト6位だときのうの本紙にあった。

欧州の古典的な研究は気候や信仰、家族形態を自殺の因子に挙げている。が、日本には必ずしも当てはまらない。自殺に抵抗感が薄い国民とも言われるが、どうだろう。

うつと格闘した南木さんは常に死のふちにあった。そこから引き戻したのは愛猫だった。生きて老いて病んで死ぬ、という「一大事」を教えてくれたという。「生き物のぬくもり」―。それが命綱なのは確かだ。

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■小さな生命の存在に救われて

 内田百けんの「ノラや」を類推させる題が示すように飼い猫トラを回想した小説である。ここにあるのは猫への愛情だけではない。猫も人間もふくめた、命のはかなさと生の重さである。
 信州の病院で内科医をつとめる「私」は作家でもあり、大きな文学賞を受けた翌年、突然うつ病になる。夕日のころになると強くなる死への誘惑。それをまぎらわせてくれたのが、軒下にやってきた子猫たちの姿で、やがて家の中で飼い始める。とりわけ強く死を意識して刃物を探したとき、足元にからみついた小さな生命の存在に救われる。
 そんなトラとの時間に、さまざまな死が語られる。死期をさとって飼っていた百羽の小鳥を放した老女。悪性腫瘍(しゅよう)のため42歳で先立った後輩の医師。寝たきりの父を自宅にひきとっての介護は「私」や家族に疲れをもたらした。だが葬儀を契機に心療内科の通院は終わる。「まぎれもなく、この身は父の死を糧に生き延びたのだった」という一行は重い。時によって変容していく人間の、生死の微妙な響きあいが静かな余韻を残す。
 小型の本造りは、病んだ人でも手に取りやすい。まるで、あの子猫のように読者のそばにありたい、というかのように。
 
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