鎮守の森

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 小学生の頃、一番の遊び場は学校近くの神社だった。複雑な建物配置はかくれんぼに最適。「鎮守の森」では木登りやセミ捕りをした。大人たちも事あるごとに集まっていた記憶がある。

 古くから地域住民の拠点だった神社と鎮守の森。その大切さを約110年前、粘菌の研究で知られる博物学者・民俗学者、南方熊楠は懸命に訴えた。

 当時の明治政府は、小規模な神社を統廃合する「神社合祀(ごうし)」を強引に進めていた。全国に20万あった神社のうち、7万が取り壊され、森の木々も切り倒された。愛媛県内では約7割がなくなったというから驚く。

 和歌山県にいた熊楠は、森の消滅で自然界の微妙な生態バランスが崩れることを恐れた。貴重な生物が死滅し、農業や漁業にも悪影響を及ぼす。風景が損なわれ、地域独自の祭礼や習俗も失われると反対運動を展開した。おかげで熊野古道の森林が救われ、2004年の国連教育科学文化機関(ユネスコ)世界文化遺産の登録につながった。

 百科事典を書き写して丸暗記したとか、十数カ国語を理解できたとか、熊楠の天才ぶりを示す逸話は多い。官職に就くことなく、一生「在野」を貫いた。明日は生誕150年。

 「生まれ育った町に森や林を取り戻したい」。東日本大震災の被災地で植樹活動が広がっている。鎮守の森になるまでには、気が遠くなるような時間を要する。小さな苗木に故郷の未来を託す人たちの思いを共有したい。
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2004年にユネスコ世界文化遺産に登録された"紀伊山地の霊場と参詣道"、通称「熊野古道」。これは、熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)へと通じる6つの参詣道* の総称です。この熊野古道が世界遺産に登録されたのは、樹齢千年を超える巨木を含む深い森林に覆われた紀伊山地の中で守られてきた山岳霊場と参詣道、及び周囲を取り巻く文化的景観が評価されたものです。

この価値ある自然が今の世の中にまで残る端緒となった日本で最初のエコロジストこそ、南方熊楠です。紀伊の国で生まれ、微生物学(特に粘菌の蒐集と研究)や民俗学をはじめとして、哲学、歴史学、心理学、社会学、比較宗教論、科学論などの在野の研究者で、「歩く百科事典」とも呼ばれました。どういう経緯で南方熊楠が日本で最初のエコロジストと目されるようになったのか、彼の人生とともに見ていくことにしましょう。

* 6つの参詣道の1つ、紀伊路のみは世界遺産の指定を受けていない。


学位はなくとも広範な知識をもった人物

南方熊楠(1867~1941年)は、世界でも権威のある雑誌の1つとして有名な『ネイチャー(Nature)』に1893年から1914年までの間に50本の記事を寄稿したほか、現在オックスフォード大学出版局から発行されている「文学者・芸術家・古物研究家・系譜学者その他の間をとりもつ相互交流のための媒体」という副題が付いている雑誌『ノーツ アンド クィアリーズ(Notes and Queries)』には、1899年から1933年まで実に323の文章を寄稿しています。

『ネイチャー』に掲載された最初の1本は、「極東の星座」という天文学にまつわるもので、その後も評価の高かった「拇印考」、「『さまよえるユダヤ人』の譚」等、分野が多岐に渡っており、その博学ぶりがうかがえます。また、生涯で操った言語は英語を初めとするヨーロッパ言語だけにとどまらず、ラテン語などの古典語やサンスクリット語なども含む19言語にも及んだと言います。今ほど海外への行き来が簡単ではなく、辞書や資料等を手に入れるのも非常に難しかった時代ゆえ、この能力は驚嘆の一言に尽きます。

ただ幼い頃から一貫して「勉強は大好き、学校は大嫌い」という性格であったため、現在の東京大学にあたる大学予備門に合格するも、学校を休んでは、上野図書館に通い和漢洋の書物を思うままに読み、遺跡発掘や菌類の標本採集などに明け暮れたそうです。結果、学校では成績がふるわず、落第したことをきっかけに2年で中退、その後、単身渡ったアメリカでもイギリスでも大学に入学はするものの学位を取得しなかったため、海外におけるすばらしい活躍も、当時の日本ではあまり知られていませんでした。

熊楠は8、9歳の頃から蔵書があるとわかれば遠方であっても毎日歩いて通い、読んで覚えて帰ってはそれを家で紙に書くということを繰り返し、百科事典『和漢三才図会』(全105巻)の写本を3年がかりで完成させました。その他にも12歳までに全50冊を写本したり、博物学や解剖学、人類学の英書も既にこの頃から読んだり、『漢訳大蔵経』2千冊・7千巻を読破する一方、動物や植物をとりに近くの御坊山に登り数日間行方不明になったり、興味の向かうところにはどこまでものめりこむところがあったようです。

この頃から、書物で読んだことと実際の自然界で起きていることの比較を徹底的に行い、自分の目で見、耳で聞き、どんなに権威ある人が著した書物であっても自分の頭で考えるという実証主義を体現していました。

そのため、書物で学んだ学者に対しては批判的で、「生来事物を実地に観察することを好み、師匠のいうことなどは毎々間違い多きものと知りたるゆえ、一向傾聴せざりし...」と当人の著した『履歴書』(全長7m70cmの巻紙に5万5千字も書き込まれた長大なもの。世界最長の履歴書と言われています)に書くほどです。

一方、よく近所の床屋や銭湯に行って、さまざまな職業の人たちに会い、現場で得られる実地の知識や知恵については好んで聞いていました。大酒飲みで、風貌に構わず、植物採集に明け暮れていたため、どちらかというと変人扱いされていた熊楠が農民や漁民、職人たちから慕われていた所以はここにありそうです。

植物採集に熱心だった熊楠が注力していたのが、種子ではなく胞子で増える植物、すなわちコケやシダ、藻類、菌類でした。粘菌(変形菌)と呼ばれる移動して微生物などを摂食するという動物的性質を持ちながら、植物的性質もあわせもつ生物の研究において特に有名で、6,000点以上の変形菌の標本を残し、目録も数度に渡り発表しました。熊楠自身が発見した新種の菌も10種ほどあり、彼の名がつけられたミナカタホコリ(Minakatella longifila G. Lister)は有名です。


神社合祀反対運動

アメリカ、キューバをはじめとする中南米、イギリスでの13年余りの研究生活を経て、熊楠は1900年に帰国、地元の和歌山に戻った後は、田辺を永住の地と決め、冒頭にも述べた熊野での植物採集を続けていました。その頃の日本は江戸から明治へと時代が変わり、近代化を能率的に進めるために急速な中央集権化を図っていました。行政的側面としての市町村合併、そして神道の国教化政策としての神社合祀です。

ちなみに1847年当時は78,280あった全国の町村数は、1889年末までに15,280へと激減しました。それまで一自然村には必ず1つの産土の神社があったので、市町村合併により二つ以上の産土社をもつ町村が生じました。それを原則各行政村に一社として、その他の産土社や小社小祀を統廃合することになったのです。1906年から1911年の間に全国でおよそ80,000の村社が統廃合され、熊楠の故郷和歌山は、三重県に次いで全国で二番目にこうした合祀が進められた県で、数にしてわずか5分の1近くになってしまいました。

日本の神社は鎮守の森と呼ばれる森林に常に覆われています。それは高い樹の梢から神が伝って降りてくるという信仰があり、樹木を伐ってはならないという考えが長く根付いていたためで、その下草も本来のまま生い茂っていました。神社を統廃合するということは、こうした古来存在する森林とそれが育んできた生態系そのものを破壊してしまうことにつながります。しかも大きく育った木は伐採の後払い下げられたため、自治体の役人と業者が結託して神社合祀令を利用している節もありました。それを止めようと熊楠は立ち上がったのです。

熊楠は10年に渡って論陣を張り、途中18日間の投獄もありましたが、神社合祀令が撤回されるまで、徹底的に闘い抜きました。その中で、当時、合併の対象となり、伐採の手が伸びようとしていた和歌山の小島「神島(かしま)」の小祀における森独自の生態系を調査し、保安林にするための請願にも尽力しました。

当時親交のあった民俗学者の柳田国男に送られた自然保護と神社合祀令撤廃のための意見書は、請願書とともに『南方二書』として、柳田が自費で印刷、政界・官界・学界の有力者へと配布し、次第に神社合祀に疑問を唱える議員の増加へとつながっていきました。このような熊楠の不退転の活動が実って神島の森林は保安林となり、のちに国の天然記念物に指定されるに至りました。

『南方は、植物学者として、神林の濫伐が珍奇な植物を滅亡させることを憂えた。 民俗学者として、庶民の信仰を衰えさせることを心配した。また村の寄合の場 である神社をとりこわすことによって、自村内自治を阻むことを恐れた。森林 を消滅させることによって、そこに棲息する鳥類を絶滅させるために、害虫が 殖え、農産物に害を与えて農民を苦しめることを心配した。海辺の樹木を伐採 することにより、木陰がなくなり、魚が海辺によりつかず、漁民が困窮する有 様を嘆いた。産土社を奪われた住民の宗教心が衰え、連帯感がうすらぐことを 悲しんだ。そして連帯感がうすらぐことによって、道徳心が衰えることを憂え た。南方は、これらすべてのことを、一つの関連ある全体として捉えたのであ る。自然を破壊することによって、人間の職業と暮しとを衰微させ、生活を成 り立たなくさせることによって、人間性を崩壊させることを、警告したのであ る。 「南方熊楠 地球志向の比較学 (講談社)」 鶴見和子著 224ページより引用』

熊楠は、決してエコロジーというものを植物生態系だけに限っていたわけではありませんでした。引用にもある通り、熊楠が神社合併に反対する意見の中には、植物生態系を破壊することにより、人間の生活や生命も壊され、人間性そのものが荒廃していくという過程がつづられています。熊楠は植物の生態系の破壊に対する反対にとどまらず、小地域ごとの社会生態系が権力による強制的な合併によって乱されてしまうことにも反対していました。

ただ植物学のみを追求していたのでは至らなかった発想かもしれません。和漢洋の書物を読み漁り、動植物だけでなく、人間の営みの1つ1つの探求にも熱心で、土壌・気温・湿度・その他の植生などの全体環境と深くつながっている粘菌という特殊な菌類の研究者であった熊楠だからこそ、自然環境・動植物・菌類と人間の暮らしの間を遮るものは存在せず、すべてがつながっていることがありありと見えていたのでしょう。

そして、菌類という顕微鏡でしか見えない世界の研究に没頭しながらも、それぞれの地域には、それぞれの自然生態系と、それに関連した人間の生態があり、それらを全体として把握するという俯瞰的なものの見方ができ、それを破壊することの恐ろしいまでの危険性を危惧したのではないでしょうか。

世界各地で貴重な自然生態系が失われ、砂漠化が進み、飢餓や水不足を生み出し、それが原因で奪い合いや戦争が生じています。それは熊楠が憂えた世の中にほかなりません。南方熊楠の世界観は、間違いなく現代の世の中に必要とされる観点のひとつであると言えるでしょう。

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