差別と関係性

くろしお 5/15

 講義中、いつも着物の懐に手を入れて聴いている学生がいる。怒った講師の夏目漱石はその学生を叱った。すると隣席の学生が言った。「先生、この人は手がないのです」。

 さっと顔色を失う漱石。教室も静まりかえる。学生の前から教壇に戻った漱石はしばらくうつむいていたが、顔を上げて言った。「失礼した。でも僕も毎日無い知恵を絞っているのだから、君もたまには無い腕を出してもよかろう」。教室は笑いに包まれたという。

 一部だけを抜き出せば差別的な表現があるかもしれない。しかし漱石に差別の意図がないのは明白で機知によって暗い雰囲気から救った。差別的とされる言動も関係性や文脈の中で許容される場合があることをこの逸話は教えてくれる。

 映画監督の原一男さんが福岡市での講演で、水俣病患者へ差別的な発言をしたとして問題になった。複数の参加者から指摘があり、本人も反省して水俣市でも謝罪したので行き過ぎたのは確かだろう。関係性があやふやな講演では発言には特に慎重であるべきだ。

 ただ原さんによるこれまでのドキュメンタリー映画は人間関係を重視する姿勢が鮮明で、差別とは開きを覚える。問題発言も水俣病の非人間性を文学的に強調したのではと思ってしまう。患者らとの対話を通して溝が埋まることを願う。

 少なくとも最近の人権意識に欠ける政治家の失言とは次元が違うはずだ。表現活動は期せずして人を傷つける。差別に関わる話題は最初から触れない方がまし、なのか。だが問題を遠ざけるほど、差別を助長することも肝に銘じていたい。

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漱石と隻腕の学生

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懐手事件
 夏目漱石が東京帝国大学で講師をしていた時に、隻腕の学生に対してそうと知らずに小言を言ってしまうという小事件があったらしい。
No Item.
 以下、江藤淳「漱石とその時代 第三部」で引用されている、森田草平「漱石先生と私 上」からの孫引き(くの字点を使わないようにするなど、一部、仮名遣いを改めた。他の引用部も同様)。
 明治38年11月10日ごろのこと。講義を突然中断した漱石は、教室の中ほどの席につかつかと歩み寄ると、そこにいた学生に説教を始めた。前列の席にいた森田には、最初は漱石が何を言ってるのかよくわからなかった。
が、だんだん聞いてゐると、その学生は毎も懐手をして頬杖を突いたまゝ、先生の講義を聴いてゐる。それが毎々のことだ。何うでもいゝやうな事ながら、それでは余りに師に対する礼を失しはしないか。ちやんと手を出したらよからうと注意してゐられるものらしい。然るにその学生は、いくら云はれても、俯向いて黙つてゐるばかりで、返辞もしなければ手を出さうともしない。先生の声がだんだん高くなる。見兼ねて、隣席の学生が「先生、この人は元来手がないのです」と注意した。その時先生はさつと顔を赧くされた。何とも言葉が出ない程の衝撃を受けられたらしい。そのまゝ黙つて教壇へ引返されたが、暫くは両手を机に突いたまゝ、顔を上げられなかつた。教室内も水を打つたやうに鎮まり返つてゐた。学生一同も、何うなることかと一寸気を呑まれた形である。が、やつと顔を上げると、先生は「いや、失礼をした。だが、僕も毎日無い智慧を絞つて講義をしてゐるんだから、君もたまには無い腕でも出したらよからう。」かう云つて、直ぐさま後の講義を続けて行かれた

日本文壇史9 日露戦後の新文学 (講談社文芸文庫)
講談社
伊藤 整
 伊藤整「日本文壇史 9 日露戦後の新文学」の第三章にも、やはり森田草平の著書「續夏目漱石」に基づくと思われる、ほぼ同様の記述がある。
 明治三十八年、森田は、前よりも夏目の講義に熱心に出席するやうになつた。この年の十一月十日頃、森田は夏目のシェークスピアの講義を聞いてゐた。この講義は、英文科の一年、二年、三年のものが全部聞くことになつてゐるので、この時は四五十人の學生がその教室にゐた。夏目は、背はあまり高くなかつたが、ハイカラなキチンとした背廣を着て、教壇に立つときは颯爽とした風格があつた。夏目はテキストを開き、いつものやうに初めは低聲で講義をしてゐた。そのうち夏目は教壇を下りて、學生の机の間を通り、教室の中程にある一人の學生の前に立つて何か言つてゐた。その着物を着た學生が、いつも懐手をして講義を聞いてゐるので、この日夏目はそれを叱つたのであつた。夏目の聲は高くなつた。すると隣席の學生が、「先生、この人は元來手がないのです」と言つた。すると夏目の顔に、さつと赤味がさした。彼は默つて教壇に戻り、兩手を机に突いたまま顔を上げなかつた。教室内も水をうつたやうになつた。しばらくしてから、夏目は顔を上げて言つた。
「いや、失禮をした。だが、僕も毎日無い智慧を絞つて講義をしてゐるんだから、君もたまには無い腕でも出したらよからう」と言つた。その恐縮し切つた夏目の態度とユーモアとが、教室の緊張感をゆるめた。そしてまた夏目は講義を續けた。
 どうやらこの逸話を有名にした張本人は、森田草平であるらしい。
最後の一言はなかった?
 この「僕も毎日無い智慧を絞つて講義をしてゐるんだから、君もたまには無い腕でも出したらよからう」という漱石の最後の一言については、本当に彼がこんなことを言ったのか、疑問を呈している書物もある。
 例えば、川島幸希「英語教師 夏目漱石」
 この話には、そこで一瞬顔色を変えた漱石がしばらくして「僕も実はない知恵を出して講義しているのだから、君もまあない手をだしたらよかろう」と言ったという尾鰭がついている。うまい話ではあるが事実ではないらしい。
や、朝倉治彦 三浦一郎編「世界人物逸話大事典」の「夏目漱石」の項
のち誰かによって「僕だって無い知恵を絞って講義をしてるんだから、君だって無い腕を出してくれたってよいのに」というウイットに満ちた言葉が創作された。
などである。
 これらの本が、最後の一言はなかったという説の根拠としているのは、金子健二の「人間漱石」。この本の「『文学論』と私の最後の學年」の章は、金子が東京帝国大学英文科の学生だった当時詳細につけていた日記を元に書かれたもので、その明治37年12月1日についての記述は以下のようなものである。
 十二月一日 夏目先生の『英文學概説』の講義が午前九時から十一時迄あつたので出席した。この日私達の下級生某が例の野武士か山賊のやうなもしやもしやのひげづらで、その上羊羹色の紋付の書生羽織を、その垢だらけの薩摩絣のお粗末な袷の上に不作法に投げ掛けたのは、まだいいとしても、いつもの如く片手を袖口から出さないで、見るからに無精なていたらくでしかもいつも、にやにや微笑をもらしながら、先生のお顔と己がノートを五分五分に見てゐたので、かねて先生の「しやくに障る奴等」の一人としての、そのうつせきしてゐた疳癪の爆彈がとうとう此の憐れむべき紋付のひげ書生の上に破裂した。
 この後、漱石が授業中、学生の身なりや態度を事細かに観察していたことが記され、その証拠として、後年金子自身が漱石から「君は大學の制服を着て居た事はないね。それから君のいつも着てゐる羽織の紋は『蜻蛉』だね。珍しい紋だが、あれは君のお好みの心から工夫されたものかね」と質問されたことを挙げている。
今先生は此の觀察眼で、しかも特に、警戒の目を以て日頃から某君の態度を偵察して居られたのだからたまらない。先生は突然講義を止めて某君に「君、手を出し給へ」と疳癪聲で叫ばれた。私達は先生の口からこんな言葉を未だ曾つて聞かなかつたので皆びつくりしてペンを止めて其の學生の方を見た。その君は例の如くにやにや笑つてゐて、一向手を出す様子もなかつた。先生は今度はより以上に疳癪がゝつた聲で「君、手を出し給へ」と叫ばれた。その君は例の如くにやにや笑つてゐるばかりで、依然として手を出さなかつた。私には此の時某君はなかなか豪らい人物だと私かに感心した。あたりまへならこのやうに言われたら直ぐ手を出すか、又それがいやなら怒つて教室から外へ出てゆく筈だが、此の君は平氣な顔をして、しかもにやにや笑つてゐるではないか。これは膽つ玉の小さい者では到底出來るわざではない。先生は此の時どうお考へになつたものか、それ以上この君に「手を出し給へ」を繰り返されなかつた。そして講義はつゞけられた。しかし、先生の額に疳癪筋が太く張つてゐたことを私達は明らかに認めた。講義が終つた。先生はその君を面責するつもりでその傍へ近寄られた。此の時上級生の某君は以前からこの君を善く知つてゐたものと見え、直ぐ先生の側へ行つて「この君は實は少年時代に大きな負傷をして氣の毒にも片手を失つたのです。どうか、その點を御諒解下さいまして失禮の段何卒御寛恕をお願ひ致します」と釋明した。先生はだまつて教室から出られた。
 やはり漱石の教え子だった野上豊一郎の同事件に関する回想にも、最後の一言はない。以下、「漱石全集月報昭和三年版第九号『大學講師時代の夏目先生』」から引用する。
 學校は殆ど休まなかった。前にも云つたやうに謹嚴そのもので、學生のだらしないのを非常に氣にされ、高等學校の時もよく頬杖をついてゐるのを叱つたが、大學でも嘗つて左手のない男がゐて、恰も懐手をしてゐるかの如く見えるので、或る日つかつかと其男の側に來り、「おい君、手を出し給へ」と咎められた。其時生徒は默つて顔を赤めただけで、先生も沈默して居られたが、あとから手のないのを聞いて非常に氣の毒がられた事もある。
 確かに、金子健二や野上豊一郎の回想を読むと、最後の一言はなかったのではないかと思える。特に金子の「人間漱石」には、事件の起こった日時から隻腕の学生の身なりにいたるまで詳細に記されているだけに、信憑性の高さが感じられる。
やはり最後の一言はあった?
 当然この金子の文章を目にしていた江藤淳や伊藤整は、ではなぜ最後の一言があったということにしたのか。
 やはり、この言葉があった方が話が面白いということが一番だろうが、森田草平が漱石の元を訪ねるきっかけとなったのがこの事件である(少なくとも森田自身はこの事件をそう位置づけている)という点も大きいだろう。
 「日本文壇史 9 日露戦後の新文学」の第三章は、先の引用の後、以下のように続いている。
この話がやがて廣く傳はつた。その時の夏目の恐縮した態度を見てゐなかつた人は、その話のみを傳へ聞いて、「夏目といふ男はひどい奴だ。人の子の不具を材料にして洒落を吐く」と言つて非難した。しかし教室で夏目の様子を見てゐた森田は、このときの夏目が全く恐縮し切つて、本當の苦しまぎれにその洒落を言つたのを知つて、この近づきがたい教師に初めて人間味を見出した。
 「漱石とその時代 第三部」にも、先の引用の後に、以下のような記述がある。
 しかし、このときの漱石の態度に「異常な感銘」を覚えた草平が、勇を鼓して駒込千駄木町五十七番地の漱石の自宅を訪れたのは、その年の暮れ、それもかなり押し詰ってからのことであった。
 江藤淳も伊藤整も、漱石と森田の交遊の重要性から、森田の言い分に耳を傾けざるを得なかったというところか。
 さらには、漱石自身が明治38年11月13日に野村伝四に宛てた葉書に以下のように記していることも見逃せない(「漱石とその時代 第三部」での引用から孫引き。適宜改行)。
(前略)手のない人に手を出せといふのは愚物に賢人になれといふ様なものだ
是は近頃失敬の至であつた
然し僕抔はない学問を出して講義をする位だから学生の方でもない手位はだしてもよさゝうに思ふ
 金子の「人間漱石」によると、懐手事件が起こったのは明治37年12月1日のこと。常識的に考えて、それから一年近くたってから出す私信に、これが「近頃」のことだとは書かないだろう。よってこの葉書は、「人間漱石」の記述の信憑性を揺るがすものということになる。
 また、最後の一言そのものがこの葉書に書かれていることも注目される。つまり、事件のときには口にしなかったかもしれないが、少なくともこの言葉を創作したのが漱石自身であることだけは間違いないということである。
 同じ講義に出ていた他の学生の回想には出てこないにもかかわらず、森田のものにだけこの最後の一言が記されているのは、後に親しくなった漱石から何かの折りにこの言葉を聞いた森田が、これがあった方が話が面白くなると思って付け足したのではないか、という推理が成り立つ(森田が記した曖昧な事件発生日と葉書に記された日付の辻褄が合う点も、なんだかわざとらしい)。もしそうなら、事件を「創作」したのは漱石と森田の二人がかりということになるのではないか。
 さらにうがった見方をすれば、実際にこの最後の一言は発せられたのだが、当時そう非難されたとされているように、漱石が「人の子の不具を材料にして洒落を吐く」との悪評を立てられないよう慮った金子や野上が、あえて書かなかったのかもしれない。
 結局真相は藪の中である。
隻腕の学生の正体

『坊っちゃん』の時代 (双葉文庫)
双葉社
関川 夏央
 関川夏央 谷口ジロー「『坊っちゃん』の時代」の後書きに相当する「わたしたちはいかにして「『坊っちゃん』の時代」を制作することになったか」と題された一文の最後に、以下のような文章が追記されている。なお作中では、事件は「権威のある研究書」とされた「日本文壇史」記載の通りに推移し、よって当然ながら漱石は最後の一言を発したことになっている。
 本文中、教場における手のない学生と漱石の逸話がでてくる(一六一頁)。早とちりをとがめられた漱石は、野村傳四への葉書に「近頃失敬の至であつた」と記した。
 本書ではこの学生を権威のある研究書を典拠として、折蘆魚住影雄に比定し、そのように描いたところ、のちに遺族の方から、当の魚住氏は隻腕ではなかった、との申し越しがあった。魚住氏の東大時代の肖像写真にもはっきりと両手が写し出されている。また第二版分校了後にはこの経緯が通信社の記事として流され、有力紙上に掲載された結果、これも遺族の方からの通知によりかの逸話の主人公は魚住影雄氏ではなく、当時帝大生であった魚住惇吉氏であったことが明らかになり、文学史上の小さな謎がひとつここに解明された。

思いがけない涙 (文春文庫―ベスト・エッセイ集)
文藝春秋
 日本エッセイスト・クラブ編「思いがけない涙 '88年版ベスト・エッセイ集」には、魚住速人「漱石と隻腕の父」というエッセイが収録されている。タイトルからわかるように、著者の魚住速人(当時三菱マテリアル副社長)は件の隻腕の学生の息子である。
 エッセイは、懐手事件(当然最後の一言ありバージョン)を紹介した後、自分の父が東京帝大生で漱石の弟子でもあったということを誇らしく思っていたこと、新聞で「『坊っちゃん』の時代」や「日本文壇史」で隻腕の学生が別人とされていたことを知り名乗り出たこと、父親の略歴(東大卒業後、沖縄で中学校長を務めるも病を得て早々に引退、再度東大で英文学やラテン語を研究)が順に綴られていく。
 子供の頃、遊んでいた不発弾が暴発し、それで左手が吹き飛んでしまったという。ふだん、和服を着て、懐に手を隠していたのは漱石の逸話の通りである。
 手のことを話題にされるのは極端に嫌だったらしく、またそのことで特別扱いされるのも嫌っていた。なにごとも普通の人と同じように行動するのが信条で、スキーに行くのにも必ずストックは二本持って出掛けたし、山登りをするのにも、どういう具合に使うのかザイルも必ず携えて行った。野球も気違いといわれるくらいに好きで、さすがに野球は片手ではすることができず、そのかわり亡くなるまで(昭和十七年)、大学野球を克明に記録していた。
 私自身は陸士に進み、野球をするような時代でもなかったけれど、そのかわり私の息子が東大野球部に入り、法政の江川投手を四打数三安打で打ち破ったことがあるのを父が知ったら、さぞかし喜んだことであろう。
蛇足
 この文章を書き始めるにあたって、しらべものは蔵書とウェブ検索で事足りると、軽く考えていた。持ってない本にはあたる必要はないし(実際、最初から森田草平の著書そのものにはあたる気はなかった)、それで十分だと思っていた。
 しかしながら、結局、金子健二の「人間漱石」を閲覧するために図書館へ出向くはめになった。しかも近所の市立図書館ではなく、わざわざ遠くの県立図書館まで。で、せっかくここまできたのだからと図書館で資料をあさっていくと、ごく短時間でさまざまなことを知ることが出来た。まだまだウェブ上には調べたい情報がないことも多いということを痛感した。
 逆に、この文章をウェブに上げることにも多少の意味はあるかと思う。
 どっちにしろ、かなりどうでもいいことではあるのだが。
追記
 2009/11/10に「漱石と隻腕の学生・続」を追加。
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