動物園園長

 動物園に関係する人なら、増井光子さんの名を知らない人はいないだろう。獣医師で、東京・上野動物園や横浜市の動物園「ズーラシア」の園長を務めた。長く男社会だった動物園界にあって、上野でもズーラシアでも、増井さんは初の女性園長だった。
 9年前の冬、ズーラシアの園長室で、初めて増井さんに会った。それまで動物園には関心がなかったから、増井さんのことは全く知らなかった。先輩記者に「そういうことならまず増井さんと話したら」とアドバイスを受けて出かけたのである。
 「そういうこと」とは、当時、子ども向けの記事を充実させたいという社の方針があり、その企画として「動物園長のリレー連載」を提案して採用されたものの、どう具体化していくか思いあぐねていたのだった。
 増井さんに企画の趣旨を説明し「トップバッターをお願いできないか」と依頼した。うなずきながら聞いていたのに、増井さんの返事は意外だった。
 「それはあなたが自分で書いた方がいい。園長に書かせたって面白くない。現場の飼育係はそれぞれ、生きものとの関わりの中で、いろんな経験をして、いろんな思いを持っている。彼らにインタビューして発掘した方が絶対面白くなります」
 それは「言うは易く行うは難し」ではないか。第一、私は生きものについては無知だ。自分で書くとなると手間暇もかかる。いったいどこの動物園に行き、誰に話を聞き、どう書けばいいというのか。
 「園長の連載」にこだわって粘る私を、増井さんが逆に説得する形になった。いわく、園長は現場の人ではないので、いま起きている現場の話を生き生きと書くことはできない。生きものの専門家であることもネックになる。専門家が専門家の視点で書くものは、一般の人には往々にしてつまらないからだ。
 とどめは動物園で長く働いてきた人の実感だった。「お客さんが一番求めているのは飼育係と会話することです。初めは動物の姿やしぐさを見たいと思って来てくださるが『もう一回行こう』とか『動物園って楽しい』と思わせるのは飼育係なんです。それも動物園が用意したガイドツアーなんかじゃ駄目、一方的でしょ。そういうのじゃなくて、そのへんに飼育係の姿が見えてて、その人とちょっと動物にまつわる会話をしたいわけですよ」
 単なる生きものの紹介という枠を超え、飼育担当者の姿が見え、声が聞こえるような記事にするべきだ。増井さんの言うことを、私はそう理解した。生きものの間近にいる人間を通して、生きものと人の関わりの機微に触れるような記事を書いてほしいと。
 最近の動物園の記事は詰まらないと、増井さんは嘆いた。「動物園から記者クラブに発表文と写真を提供する。それを一斉に横並びで記事にするだけ。だからどの社も同じです。以前はみなさん、動物園に来ていた。現場をまわり、現場の人に話を聞いて、それではっと思う話を書いていました」。聞いていて耳が痛かった。ことは動物園に限らない。
 増井さんは当時、兵庫県豊岡市の「コウノトリの郷公園」の園長も兼ね、コウノトリの野生復帰に取り組んでいた。それを熱っぽく語った。それきりお目にかかる機会がないまま時が過ぎ、2年後、英・ケンブリッジで客死したとの報に接した。
 コウノトリに限らず、動物園や生きものについて、書きたいこと、伝えたいことがいっぱいあったと思う。それなのに自分を抑えて、なぜ私に書くことを強く勧めたのか。増井さんの求めた記事を私はいま、書けているのか。
 増井さんからの宿題によって、自然と生きものと人の関わりや、動物園とメディア・社会との関係について学び、考えるようになった。問いは思いの外、深く難しく、簡単には答えが見つからない。宿題を抱えながら、動物園や水族館を歩き続けている。 
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