伊勢菓子博

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大観小観 5/5

戦後の物のないころに幼年期を過ごし、高度成長期の学生時代はたむろする場所が男は純喫茶、女はアイスクリーム、パフェなどを置くパーラーや甘味喫茶だったので、菓子はせんべいぐらいしか食べた記憶がない。

せっかくの「お伊勢さん菓子博」も、伊勢の菓子は、和菓子の中心である茶菓子ではなく、「旅人へのおもてなし」として発達した甘く、腹持ちがよい餅菓子だという故事来歴に感心し、高校生の出品作品でも、県立相可高校が「野菜」をテーマに挑み、実物を観察しながらの試行錯誤を繰り返しているという本紙ルポに、食材の善しあしを見抜く目を養うことにつながっているのだろうと感じたりするのだから、歌を語るのに歌い手の振り付けを褒めるようなものでお話にならない。

端午の節句の柏餅は、霊力が宿るという餅を新芽が出るまで古い葉が落ちない柏でくるむことで子どもの健やかな成長を願う菓子として江戸時代に始まり、孫の初節句の時は親族や近所、出入り商人へ配り、他家からも到来して柏餅一色になったという。年中行事の菓子は家族が健やかに過ごせるように、たくさん子孫を残せるようにの願いが込められいる(森田環・虎屋文庫研究主査=NHK視点・論点)

菓子だけではなく、こいのぼりなど飾り物も子孫繁栄、子どもの幸せの願いが込められ、ひな人形と同様、豪華さがエスカレート。屋外飾り禁止令なども出ている。男子の祝いではなくこどもの日となったことで飾る家が少なくなったとものの本にあったが、子どもへの社会の思いが昔ほど熱くはないのかもしれない。

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視点・論点 「和菓子にみる東西の違い」
2015年01月19日 (月)

虎屋文庫 研究主査 森田環
 
 日本を東と西に分け、風習や人々の気質などを比較することは興味深く、古くから文献にも取り上げられてきました。食べものも例外ではなく、材料や調理方法の違いなどが、テレビや雑誌などで紹介されているのを見かけます。今日は菓子にまつわる東西の違いについて、東は東京、西は京都・大阪、いわゆる京阪を例にして見てまいりましょう。
 寒さが厳しいこの時期、恋しくなるのが温かい「汁粉」や「ぜんざい」でしょう。どちらも甘い小豆を使った食べものですが、東京と京阪では、粒のあり・なしなどで、呼び方が異なります。
 
一般に、こし餡で汁気の多いものは、東京では「御膳汁粉」、京阪では単に「汁粉」と呼ばれます。一方、粒餡で汁気の多いものは、関東では「小倉汁粉」あるいは「田舎汁粉」といい、京都や大阪では「ぜんざい」と呼ばれます。ところが東京で「ぜんざい」というと、餅や蒸した粟などの上に、汁気のない餡をかけたものを指します。
おなじみの「汁粉」と「ぜんざい」ですが、いつごろから食べられるようになったのか、なぜ東と西で言葉の使いわけをするようになったのか、残念ながらはっきりしたことはわかりません。ただ、江戸時代には、江戸・京阪ともに屋台などで汁粉やぜんざいが盛んに売られ、多くの人々に親しまれまれており、その頃には使い分けがされていたことがわかっています。
なお、ぜんざいの名については、室町時代、一休禅師が「善き哉此の汁」と褒めたことから、「善き哉」つまり「善哉」になったとか、出雲、現在の島根県でお供え用に用意されたという小豆と餅を煮た「神在餅」が訛ったものがはじまりだったという説などがあります。

餅といえば、「雑煮」も東西の違いが見られるものとして知られます。東京では醬油味の澄まし汁に焼いた切り餅を、京阪では白味噌仕立ての汁に煮た丸餅を入れるのが一般的といえます。
汁の違いについては、室町幕府の料理人が記した「山内料理書」に、餅などを味噌を使った調味料で整えたことが書かれています。そのため、京阪の白味噌仕立ての汁は、室町時代の雑煮の作り方の流れを汲んでいると考えられます。
一方、江戸の雑煮については、江戸時代中頃の料理書「黒白精味集」に、「薄醤油仕立よし」という記述が見られ、当時醬油を使った澄まし汁が江戸で広まっていたことがうかがえます。
ところで、丸餅と四角い切り餅と、形に違いがあるのはなぜでしょうか。餅は日本人にとって神聖な食べもので、鏡餅が丸い形をしているのも、神事に用いる鏡をかたどっているからだとされています。京都や大阪で雑煮に丸餅を入れているのも、こうした古くからの習慣が息づいているからだと考えられます。
一方、切り餅は江戸時代に江戸で広まったとされます。餅をひとつひとつ丸めるのではなく、平らにのして一気に切るという方法は、万事気の早い江戸っ子の気質にも合って広まっていったのでしょう。

さて、東西で違いのある菓子といえば、桜餅を思い浮かべる方も多いことでしょう。塩漬けの桜葉の香りが楽しめるこの菓子、東京では、水溶きした小麦粉生地を薄く焼いて餡を巻いたもの、京阪では、もち米を原料とした道明寺生地を蒸して餡を包んだものが知られています。
桜餅は、江戸・隅田川の川岸に植えられた桜の葉を利用して売り出され、江戸時代後期には、花見客からも人気を集め、隅田川名物として広まっていきました。当時書かれた随筆によると、米粉で作っていたのが葛粉の生地に替わっていったとあり、かつては小麦粉生地ではなかったことがうかがえます。
小麦粉生地の桜餅がいつから作られるようになったのかは定かではありませんが、歌川国芳が19世紀中頃に描いた錦絵に、水溶きした生地を薄く焼いて桜餅を作っている様子が見られることから、この頃には焼き皮タイプのものが作られていた可能性があります。
江戸で人気を博した桜餅は、京阪にも伝わりました。幕末から明治時代初め頃の大阪の風俗を記した『浪華百事談』には、土佐屋という菓子屋が隅田川の桜餅を模して、冬と春には片栗粉、夏と秋には葛粉を薄く溶いた生地を焼いて売ったとありますが、その後この製法は廃れてしまったのか、今は見かけることがありません。
道明寺生地の桜餅については、京都の名産品をまとめた本に桜餅が紹介されており、そこに、明治30年、1897年頃、奥村又兵衛という人物が「嵯峨名物桜餅」として発売した、とあります。嵯峨には桜の名所として知られる嵐山がありますので、隅田川の桜餅に対して、という思いもあったのかもしれません。嵐山では、今も道明寺生地の桜餅が名物として親しまれています。
現在、小麦粉生地・道明寺生地、どちらの生地を食べるかは、地域によって分かれる傾向があるといえます。そのため両者が古くから食べられているようにみえますが、意外に新しいのかもしれません。
こうした地域差が生まれた理由については、各地域の風土や嗜好の影響などもあり、さまざまといえます。文化的な背景がある一例として、江戸時代の京都と江戸で見られる特徴的な菓子に注目してみましょう。
17世紀後半、社会が安定し、交通網も整備されて砂糖が安定して流通するようになった頃、京都では、季節の風物を映した美しい意匠、古典文学にちなんだ雅な銘を持つ「上菓子」が作られるようになります。当時、『源氏物語』や『古今和歌集』などが教養の書として見直されており、それが上菓子の誕生の背景にもなったと考えられます。後に上菓子は各地に伝わり、現在の上生菓子が生まれたとされます。
一方、新興都市の江戸には、参勤交代の武士や出稼ぎなど全国から大量に人が流れ込んでいました。こうした人々がおやつとして楽しんだのは、値段も手ごろで腹持ちも良い、大福や金つばなどで、江戸の町のあちこちで売られ、大変な人気を呼びました。公家文化の色濃い京都と武家社会の江戸、それぞれの地域の特色に合わせた菓子が育まれてきたことがわかります。
以上、お話をしてまいりましたが、このほかにも、串刺しの団子の数は4つか5つか、煎餅は米でできているか、それとも小麦粉かなど、東西で違いがある菓子はいくつもあります。ところが、最近は、情報網や流通の発達などもあって、菓子も均一化される傾向にあるようです。さきほどご紹介した桜餅も、調べてみると、小麦粉生地が主流とされる関東で道明寺生地を食べている方が案外多いことがわかりました。理由を尋ねたところ、両親が道明寺生地の桜餅を食べていたからとか、スーパーマーケットやコンビニエンスストアなどで売られていたから、などということでした。
一方で、テレビや雑誌、あるいは展示会などで、地域差をテーマにさまざまな菓子が取り上げられることがあります。それらを見て、あたりまえのように食べていたものが実は地元ならではのものだったと気付き、郷土への思いを新たにすることもあるでしょう。菓子を通じ、日本の食文化の豊かさを改めて見直していきたいものです。


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視点・論点「和菓子に託す無病息災の願い」 2017.05.01

日本では古くから無病息災や五穀豊穣を願い四季折々にさまざまな菓子を用意してきました。
今回は5月5日端午の節句の菓子粽と柏餅を中心に年中行事にまつわる菓子をご紹介しましょう。
5月5日は現在子供の健やかな成長を願うこどもの日ですがもともと厄よけを行う日だった事はご存じでない方も多いのではないでしょうか。
平安時代には香りの強い菖蒲やよもぎを家の軒に挿して邪気を払ったり流鏑馬などが行われたりしました。
菖蒲の読み方が武を尊ぶ尚武に通じるとして端午の節句は後に武家でも盛んに祝われるようになり江戸時代には男子の節句として庶民にも広まり武者人形を飾ったりこいのぼりを揚げたりするようになりました。
端午に付き物の粽と柏餅ですが粽は主に関西柏餅は関東で親しまれています。
なぜ地域に違いがあるのでしょうか。
まずはその歴史からたどってみたいと思います。
粽の歴史は古く中国が起源とされます。
中国の文献「続斉諧記」によると紀元前3世紀頃楚という国の王族屈原に関する伝説にちなんでいるといいます。
屈原は博識だったうえ政治的手腕にも優れていたため王に引き立てられますが他の官僚の妬みにあい失脚してしまいます。
王に見放された屈原は楚の将来を憂いつつ汨羅の淵に身を投げ命を絶ちます。
その死を悼んだ里人たちが供養として命日の5月5日に竹筒に入れた米を汨羅の淵に投げ込むと屈原の霊が現れ「淵には龍が住んでおり供物を食べてしまう。
厄よけに栴檀の葉で包み五色の糸で巻けば龍は食べる事ができないだろう」と訴えました。
そこで人々は教えどおりに供物を作るようになりこれが粽の始まりになったと言われます。
日本では平安時代には宮中で端午の節句の厄よけとして用意されていました。
粽が現在関西でよく見られるのも宮中行事で古くから用いられてきたからと言えるでしょう。
ところで菓子の粽といえば外郎や葛などの生地を笹の葉で巻いた甘いものを思い浮かべるかと思います。
しかしかつては笹ではなく茅や真菰といったイネ科の植物がよく使われていました。
粽という呼び名も茅で包むから。
あるいは1,000回巻いた事にちなむからとも言われているのです。
「和名類聚抄」という平安時代に作られた漢和辞書によると「米を真菰の葉で包みあくで煮る」とあり甘みもつけられていませんでした。
葛や外郎の生地を笹で巻いたおなじみの甘い菓子として親しまれるようになるのは端午の節句の風習が庶民にも広まった江戸時代以降の事とされます。
ちなみに同じような形をしているものの食べられない粽があります。
これも病や厄をよけるために用意されるもので古くは平安時代の「伊勢物語」にも「かざり粽」の名で登場します。
現在は京都市で7月に行われる祇園祭で授与されるほか滋賀県の大津で10月に行われる大津祭でまかれるなど厄よけのお守りとして信仰を集めています。
一方柏餅が作られるようになったのは江戸時代の事。
柏は新芽が出るまで古い葉が落ちない事から子孫繁栄につながると家の継続を重視する江戸の武家を中心に男子の健やかな成長を願って用意されるようになりました。
それが庶民にも伝わり広まっていったと考えられます。
現在は和菓子店などで購入するイメージが強い柏餅ですが江戸時代は家で作るのが基本でした。
「南総里見八犬伝」の作者として知られる滝沢馬琴の日記には端午の節句に合わせ家族総出で柏餅を作ったという記述が出てきます。
多い時には200〜300個余り特に数が必要になった孫の初節句の時にはさすがに家で作るのは難しかったのか菓子屋へ頼んで作ってもらっています。
出来上がった柏餅は自分たちで食べたほか親族や近所の人々出入り商人へも配っているのですが配った先からも手製の柏餅が到来しこの菓子が端午の贈答の定番であった事がうかがえます。
柏餅に入っている餡といえば小豆餡と味噌餡が知られます。
それぞれ味わいに魅力がありどちらを食べるか悩まれる方も多いのではないでしょうか。
江戸時代後期の江戸・京都・大坂の庶民の風俗をまとめた「守貞謾稿」によると「いずれの町でも小豆餡で作るが江戸では味噌餡もある」。
中身を区別するため「小豆餡の場合は葉の表味噌餡は裏で包む」とあります。
現在では生地に色を付けて餡の違いを分かるようにしたものが多いのですが葉の表か裏かで見分けるようにした柏餅もあり江戸時代の工夫が生かされているように感じられます。
ところで柏の葉を使わない柏餅があるのをご存じでしょうか?柏餅に利用できるような大きな柏の葉が収穫できない地域で見られるもので西日本では山帰来サルトリイバラの葉で挟んで作るため山帰来餅などと呼ばれています。
また中部地方の一部では朴の葉を使った朴葉巻や朴葉餅が作られていますが愛知県の奥三河地方などでは柏餅と呼んでいるとの事。
代用の葉を使ってでも柏餅を作ろうという思いが感じられ人々がいかに端午の節句を重んじていたかがうかがえます。
粽や柏餅に限らず年中行事に関わる菓子は家族が健やかに過ごせるようにとかたくさんの子孫を残せるようになどさまざまな願いが込められ用意されています。
これらの菓子の多くには米や小豆が使われています。
米は稲作の象徴として神聖視され餅にして食べればその霊力を体に取り込めると考えられてきました。
鏡餅をお供えしたり餅を入れた雑煮を食べたりする正月は最も良い例と言っていいでしょう。
また滋養が豊富で和菓子の原材料に欠かせない小豆も体力をつけ邪気を払うと信じられてきました。
小豆の色は古来神聖視された太陽の色あるいは人の体を巡る血を象徴していると言われました。
小豆を食べる事で病魔を退け災いを避ける事ができると信じられていたのです。
6月30日に疫病よけの行事夏越の祓で用意される水無月や土用の頃に夏バテ防止に食べられる土用餅などもその一例と言えます。
水無月は京都を中心に作られている菓子で三角形にした外郎などの生地の上に甘く煮た小豆をのせて作られますが小豆をのせているのは病よけになるから。
また三角の形は氷や神事に用いる御幣などをかたどっているからと言われます。
土用餅は暑さ厳しい土用の頃に作られる餡餅で滋養に富んだ小豆餡を食べる事で暑さによって失われた体力を回復されると言われています。
土用の丑の日にうなぎを食べるのと同じような意味だと言えるでしょう。
このように年中行事の菓子には単においしいというだけでなく無病息災子孫繁栄の願いが込められてきた事が分かります。
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