○か×か

中日春秋 4/21

小学校一年生の最初の算数の授業。先生は黒板にチョークで丸を書き、配った答案用紙に同じものを書いてごらん、と言った。皆すぐに答えを書いて、ハイ、ハイと手を挙げたが、一人だけ手を挙げない子がいた。

先生はその子のそばに行くと、感心してじっと見ていて、答案がようやく出来上がると皆に見せた。それは黒く塗りつぶされ、その中に白い丸が注意深く塗りのこされていた。

思想家・鶴見俊輔さんは著書『思い出袋』で、こういう教育、何が問題かを自分で考え、自分なりの答えを探す力、自問自答する力を養う学びが日本の教育制度では失われていると書いた。

そんな教育のありようを改めて考えさせられたのが、経済協力開発機構(OECD)が各国の十五歳に生活の満足度を尋ねた調査結果だ。日本の十五歳の満足度は四十七カ国・地域中、四十一位。

日本や台湾といった学力調査で好成績を残す東アジアで満足度が低く、中南米など学力調査ではふるわぬ国で満足度が高いというから、皮肉なものである。

日本では学力評価が低い生徒ほど満足度も低い傾向にあるという。それは、なぜか。誰かがつくった問題への○か×かを効率よく答えることばかりが評価され、子どもたちが学力という一つのものさしだけで自分に○×をつけるようになっているのではないか。そういう自問自答を誘う「四十一位」だ。


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◎不良少年だった

『鶴見俊輔コレクション』(全4巻、河出文庫)を味わいながら、つい先日の新聞に、安保法案反対の呼びかけ人の一人として、鶴見俊輔の名前もありました。反骨の知識人。鶴見俊輔は私の敬愛する知識人の代表格です。

『鶴見俊輔コレクション』を通読してから、発信しようと思っていました。しかし間に合いませんでした。以前に書いた『思い出袋』(岩波新書)の書評を中心に、感謝をこめて鶴見俊輔に迫ってみたいと思います。

(引用はじめ)
鶴見俊輔『思い出袋』(岩波新書)は。いきなりジョン万次郎のエピソードからひもとかれます。ジョン万次郎については、井伏鱒二『さざなみ軍記・ジョン万次郎漂流記』(新潮文庫)を読んで以来、ずっと興味を持っていました。その後、山本一力『ジョン・マン・波濤編』(講談社2010年)を読んで、さらに興味が増しました。山本一力「ジョン・マン」は、シリーズとして書き継がれるようですので、楽しみにしています。

――ジョン万次郎は私の出会った人ではないが、私の記憶の中できわだった人である。十四歳の少年として舟に乗りこみ、予想外の嵐にあって無人島に流され、アメリカの捕鯨船に助けられた。
(鶴見俊輔『思い出袋』岩波新書P2)
鶴見俊輔の筆は鮮やかな記憶を切り取り、それをビーズのようにつなげてみせます。難解な言葉はどこにもでてきません。

本書は岩波書店の情報誌『図書』に、「一月一話」というタイトルで書かれていたものをまとめた随筆集です。書き始めが80歳のときで、それが7年間続けられました。鶴見俊輔の経歴や思想、交友や読んだ本などを知るうえで、貴重な1冊です。

これまでに『期待と回想』(上下巻、晶文社)を読んでいました。分厚いインタビュー集でした。不良少年だった鶴見俊輔は、15歳でアメリカに留学します。『思い出袋』はそれらを言葉ではなく、文章で伝えてくれています。肩がこらない、1回が原稿用紙3枚ほどの掌編ですので、本書をお薦めさせていただきます。
(引用おわり「藤光日誌」2011.06.04)

◎アメリカ的リベラル

『思い出袋』のジョン万次郎は、おそらく15歳のときに留学した自分と重なっていたのだと思います。鶴見俊輔は、小田実らとともに「べ平連」の中心にいました。訃報を伝えた朝日新聞には、「鶴見俊輔さんの歩み」という記事がありました。ポイントを拾ってみます。

1922年:東京に生まれる
1939年:米ハーバート大哲学科入学
1942年:米FBIに連行され、日米交換船で帰国
1946年:雑誌「思想の科学」創刊
1965年:小田実さんらと「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)結成
2004年:小田実さん、加藤周一さん、大江健三郎さんらと「九条の会」の呼びかけ人となる

 鶴見俊輔は一貫して、戦争に反対し続けました。井上ひさしとの対談で、鶴見俊輔は沖縄について次のように語っています。

――沖縄というのはね、虚心に考えてみると、自治領として独立する条件は十分に整っていた、と思うんですよ。あれは日本の国家から賠償を取るべきであってね、一億玉砕とか本土上陸作戦とかいうことが、あそこだけで行われてきたんだし、日本の軍隊があそこで闘って、玉砕命令も随分出したんだし、たくさんの人が殺されたわけでしょう。(井上ひさし『笑談笑発・井上ひさし対談集』講談社文庫、鶴見俊輔の談)

鷲田小弥太は『昭和の思想家67人』(PHP新書)の一人として、鶴見俊輔をあげています。鷲田小弥太は別の著作の中で、次のように書いています。

――アメリカ的思考の豊かさと貴重さを、「リベラル」というキ^ワードで押さえて、戦後一貫して説き続けてきたのが鶴見である。(鷲田小弥太『日本を創った思想家たち』(PHP新書)

鶴見俊輔は幼いころはグレていましたが、アメリカで哲学を学んでから一度もブレたことはありません。ただし時々ノイローゼの症状に見舞われることがありました。そのあたりについて、埴谷雄高は著作の中で次のように書いています。平野謙とタクシーの車窓から、見た風景です。

――そとを眺めると、鶴見俊輔と夫人の姿がすぐ前に見えた。その頃、鶴見俊輔はノイローゼ気味と聞いていたので、健康のための散歩と見受けられたが、傍らに並んだ夫人のレイン・コ-トのポケットに手をつきこんだかたちが看護婦兼医者兼貞淑な話し相手という閃くような直観を喚起して印象的であった。(埴谷雄高『戦後の文学者たち』構想社)

頑固で硬派の印象が強い鶴見俊輔の、なんとも微笑ましい日常に、思わず笑ってしまいました。




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