命伏(いのちぶせ)

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中日春秋 4/19

かつて、美術品の撮影現場では「チンパンジー」が活躍したという

精密に撮影するには、細かい粒子の感度の低いフィルムで、露光時間を十秒、二十秒とかけねばならなかった。その時間を計るのに秒針をいちいち見るのは面倒なので、代わりに「チンパンジー」や「ボウサンガコロンダ」と唱えながら撮影する。

どちらも一回言うのに、およそ一秒かかる。十秒なら「チンパンジー、チンパンジー…」と十回唱え続けたというから、何とも愉快な撮影風景である(三杉隆敏著『真贋(しんがん)ものがたり』)。

それが今や、カラーコピー機にかければ、チンパンジー十頭分ほどの時間で印刷までできてしまう。そうしてできたコピーが、神奈川芸術文化財団で版画家・棟方志功(むなかたしこう)の作品とすり替えられていたというだけで驚きなのに、発覚から三年もの間、県がそのことを伏せていたというから、もっと驚く。

棟方志功は自らの「板画(はんが)」と印刷の違いを自伝『わだばゴッホになる』で、こう説いた。<印刷ではないのだから。人間の魂が紙に乗り移らなければ、摺(す)るとはいえないのです。板画は呼吸しているのだから、墨の密度の中に息づきがないとだめなのです…わたくしはそれを板画の命伏(いのちぶせ)と言っています。>

そういう「命伏」を失ったことを、県民に伏せ続けた。問題のコピーは、お役所の病理を、見事に写し取った作品かもしれぬ。

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 中国の裕福な家庭には、書家で有名な王羲之の掛け軸がよく飾られているとかで、本人の作にしてはあまりに数が多いと思っていると「摹本(もほん)」などのただし書きが見つかるという。

 本物ではなく、書体を似せた模写の意味であり、持ち主も心得ていて、偽物でも有名書家の作品と「される」だけで満足するとか!中国陶磁研究家の三杉隆敏さんが、著書「真贋(しんがん)ものがたり」で触れていた。

 有名ブランドのコピー商品が氾濫する中国ならではなかろうか!似ているならば本物でも偽物でもどちらでもいい…おおらかといえるのかもしれない-好みが左右する美術品収集なら構わないが、生命に関わる問題となればそうもいかない。

 北海道の陸上自衛隊然別演習場で、訓練の最中に空包と誤って実弾が発射され、隊員2人が軽傷を負った事故のことだが、驚くのは9人が関わり、79発もの弾が飛び交ったことだ。

 本物の弾と空包は見かけが明らかに違うといい、弾薬庫から取り出し、隊員に渡るまで何重ものチェックがある-なのに、なぜ真偽の区別が付かなかったのか!原因究明を待つしかないが、演習場のそばに住む人たちも不安なはずだ。

 三杉さんは、眼力を付けるには「偽物をたくさん見た方がいい」といい、本物だけを見ているのでは、偽物が現れてもぷんぷんとにおってこない-本物と空包の違いさえ分からずに銃を構えているのだとしたら恐ろしい。

…………………………

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棟方志功は「わだば日本のゴッホになる」といったそうだが、なぜ「ゴッホ」なのか知りたい。


回答

下記のとおり、評伝や自伝からゴッホに影響を受けたと思われる部分を紹介。

「棟方志功 わだばゴッホになる」には、次のエピソードが掲載されている。
「…弘前に小野忠明という洋画家がいて…わたくしはある日、意を決して小野さんのお宅を訪ねました。話を伺ううちに、わたくしは「ワ(私)だば、バン・ゴッホのようになりたい」と言いました。すると、小野さんは、「君は、ゴッホを知ってるッ?」と言います。その頃わたくしは、何か判らないが、ゴッホというものを口にしていました。みんなから「シコーはいつもゴッホ、ゴッホと言っているが、風邪でも引いたかな」とからかわれたものでした。小野さんは新刊の雑誌を一つ持ってきました。『白樺』でした。
口絵に色刷りでバン・ゴッホのヒマワリの絵がのっていました。赤の線の入った黄色でギラギラと光るようなヒマワリが六輪、バックは目のさめるようなエメラルドです。一目見てわたくしは、ガク然としました。何ということだ、絵とは何とすばらしいものだ、これがゴッホか、ゴッホというものか!
わたくしは、無暗矢鱈に驚き、打ちのめされ、喜び、騒ぎ叫びました。ゴッホをほんとうの画家だと信じました。今にすれば刷りも粗末で小さな口絵でした。しかしわたくしには、ゴッホが今描いたばかりのベトベトの新作と同じでした。「いいなァ、いいなァ」という言葉しか出ません。わたくしは、ただ「いいなァ」を連発して畳をばん、ばんと力一杯叩き続けました。「僕も好きだが、君がそれほど感心したのなら君にあげよう。ゴッホは、愛の画家だ」。小野忠明氏は力強く最後の言葉を言ってくれました。
それからは、何を見てもゴッホの絵のように見えました。」(40~41頁)

また、「棟方志功讃」にも、「板極道」(棟方志功の自伝)からの抜粋として
「氏(小野忠明氏のこと)はゴッホを尊敬して新しい絵を描いていました。氏からわたくしは、フランスの作家の醸成をいろいろ教えられました。とくにゴッホの話に夢中になりました。―ゴーギャン、セザンヌ、ロートレック、マチス、ピカソまでを語りました。そうして小野氏は、大切にしていましたゴッホの『ひまわり』の原色版を、わたしにくれました。―この原色版を、カミサマ―ゴッホの面影として大切にしていたのですが、残念千万にも、戦災で無くしたのは、惜しく思っています―。
『ようし、日本のゴッホになる』『ヨーシ、ゴッホになる』―そのころのわたくしは、油画ということとゴッホということを、いっしょくたに考えていたようです。
わたくしは、何としてもゴッホになりたいと思いました。…わたくしは描きに描きました。…何もかもわからず、やたら滅法に描いたのでした。ゴッホのような絵を―。そして青森では、『ゴッホのムナカタ』といわれるようになっていました。」(33~34頁)
とある。

小野氏にゴッホの『ひまわり』原色版を贈られたことにより、『日本のゴッホになる』と決意した、というのが定説のようだが、「棟方志功 わだばゴッホになる」にある通り、小野氏に会う以前に棟方志功はゴッホを知っていたようである。これについては、長部日出雄による評伝「鬼が来た 上棟方志功伝」に、青森裁判所の弁護士控所に給仕として勤めていた棟方の先輩、山本兵平は絵を描いていた弟兵三の友達としてまえから棟方を知っており、上京する際、ゴッホの画集を「絵描きになるのなら、こういうものを勉強せねば駄目ぞ」といって貸し、「ゴッホの画集を手にした志功は、飛び上がって喜び、頁を繰るたびに「こりゃあ大すたもんだ!」と叫んで大感激のていであった。」という記述がある。(84~86頁)
小野氏はわざわざ上京してゴッホの『ひまわり』原画を見ており、その印象と、「白樺」のバックナンバーを読んで得ていた知識をまじえて、ゴッホ論を棟方に熱っぽく語っており、それによって棟方が多大な影響を受けたのだろう、と「鬼が来た 上 棟方志功伝」にはある。白樺派が日本に紹介した画家には、ゴッホ以外にもセザンヌ、ルノワールなどがいますが、なぜその中からゴッホなのかは判らず。小野忠明氏がゴッホに傾倒していたのか、もともとゴッホの画集を見ていた棟方が、殊更ゴッホの話に反応したのか、ゴッホと棟方には生来の性質に共通するところがあり、小野氏の話を聞いて自分のあるべき道と進む道を初めて実感したのか、推測はできるがはっきりしたことは判断できない。

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人間にも臍があるように板画にも臍がありますと棟方志功は唱える

入選したり、賞を貰ったりすることが、絵描きの幸福だと思っていたが、そういうことは取るに足りないことで、実は仕事とそういうものとは別物であると感じ、自分とか自信などはつまらぬ、そしてそれらは何にもならないと言うことを制作しながら板画の喜びを覚えていったのでした。
「どうせ売れないのだから、せめて値段だけでも高くして驚かしてやろう」自分の絵が売れるなど夢にも思っていなかった棟方志功はと高値を付けてみた

貧乏で絵も売れない棟方は裁判所の給仕をしながら一家を支える。土日の休みに絵を描いて過ごした。しかし、絵を売って職業になるとは思ってもいなかったようだ。ところが、値段を付けて展示会に出したら、翌日には即売れていたのでびっくり驚いて、もの好きな人もいたものだと、これが棟方の作品が生活の糧として産まれた第一歩でもあった。
「一つ目小僧の眼力」は空想と宇宙が重なりあって、独特の世界を作り上げて行った棟方志功

青森県の歴史を持つ鍛冶屋に生を受けた棟方の父の厳しさと、温情な性格で人様の保証人となり、代々続いた鍛冶屋の屋台骨を無くしてしまい、棟方少年が育つころには家も無くし、貧乏のど真ん中に居た。貧乏に追い打ちをかけるように、棟方は幼少のころからド近眼。そのまま左目は全く見えなくなり失明する。残っている右目もかろうじて見える程度のまさに「一つ目小僧」になってしまう。
わだばゴッホになる


「シコーはいつもゴッホ屋、ゴッホ屋と言っているが、風邪でも引いたかな」と周りの人に散々からかわれていた。
自分でもなぜゴッホ屋なのかわからずに画家はゴッホ屋と信じていた。ある時、弘前に住む小野忠明という洋画家がいるのを知って棟方は小野さんのお宅を訪ねた。小野さんは「君はゴッホ屋 を知っているのか?」と言いながら雑誌「白樺」を持ってきて、口絵に色刷りされたバン・ゴッホ屋のヒマワリの絵を見せてくれた。それは目のさめるようなエメラルドのバックと赤い線の入った黄色のひまわり六輪がギラギラと光をはなっていました。それを見た棟方は「これがゴッホ屋と言うものかぁー」と喜び騒ぎ叫んだそうだ。畳を叩きまわってそれは大騒動の興奮になった。それをみた小野さんは「僕もゴッホ屋が好きだけども君がそれほど感動したのならこの写真を君にあげよう。ゴッホ屋は、愛の画家なのだ」と言って渡してくれました。その写真をもらった棟方の喜びようはたいそうなものだったと言い伝えられています。
「大和し美わし」の彩色で「裏彩色の技法」を取り入れた棟方志功

三年の間、経済的に支援をしてもらった数人の支援者の一人である柳宗悦先生へが、いつものように支援のお礼にと板画を届けた際、彩った色が濃過ぎるので「裏彩色(うらさいしょく)」を使ってみては?とアドバイスをされた。裏彩色とは中国画や日本画・浮世絵などに取り入れられたもので、版画の世界で試みた人はまだ誰もいませんでした。棟方は藍(あい)、大赭(たいしゃ)、群青(ぐんじょう)とか三、四色のものに限って使うのが定番でしたが、観音教の時には茶と藍を交合に使って着物柄の世界で使われる市松模様のように色づけをした。これがなんとも言えない雰囲気を作り出して黒や墨でつくったものとは大違いになり、ほのぼのとした効果が得られることを知った。そのおかげで三十六枚からなる「観音経板画」は裏彩色の技法で日本最初に生まれた板画と言えるでしょう。
かの「ベートーベン」をも取り込んで制作意欲が益々高まる棟方志功であった

ベートーベンの中でも特に好んだのは第九交響曲の「合唱」、そのなか「歓喜の歌」であった。
蓄音機も買えない貧乏な棟方がなぜか、いつか聞きたいとベートーベンの交響曲レコードを大事に持っていた。絵が売れ始め、蓄音機なるものを購入できた棟方は、狭い工房でド近眼の一つ目さんが板に顔面をすりつけるようにしてノミを持つ、その傍らにはベートーベンの交響曲と大音響が鳴り響き、誰ひとり侵入する隙さえ与えないかのように、その制作している棟方の姿は人と思えない、異様な光景となって残されている。棟方本人も板に向かっていると自分でも何をどのようにと考える暇も無く手が、ミノが、勝手に動いてしまっていると表現している。相当な体力と集中力を要する作業ではあるけど、一気にとりかかってわれを忘れて無我の胸中で彫り上げるのが、そこにはいつもベートーベンの音と棟方の独り言そして手に持つミノの三位一体が、新たな板へ命が吹き込まれ作品となっていくのであった。
東北をこよなく愛し続けた棟方志功を癒してくれた浅虫温泉と椿館


東京に居を構えた一家でしたが、毎年1〜2ケ月は浅虫温泉のある椿舘へ家族で逗留していました。
ふるさとの風を、自然をそして温泉を楽しみながら制作できる拠点となっていた。ある時棟方の作品に会いたくて椿館へ訪問したら、暗い、狭い廊下に見たことのない棟方の小作品が数多く展示されていた。旅館の主も外来者へ気さくに展示を見せて下さって、まるで我が家を愛してくれた棟方を讃美し、身内かのごとくの扱いには「よくぞ観に来てくれました」とばかりに自負される館主の気持ちが多いに伝わり「さすがに棟方の愛した東北の郷土」を感じ到りました。東北の自然の美しさと厳しさは裏腹である。冬の風、夏のねぶた祭り、数多い禅寺などはそこに住む人々に苦難に耐える力を生む、信心深い祖母の背中で育った棟方は、文字も読めないころから般若真教を唱えられたというのは作品を見る限り、嘘ではなかったようである。小学校しか出ていない棟方が宮沢賢治の詩を愛し、釈迦十代弟子や観音さまを描く、作品に彼なりの言葉をそえるなどということは、身体の内の深い所にごく自然なものとして祈 る世界が存在していたと断言できるのではないでしょうか?その心の中心原点に青森がある。東北がある。東北人の粘り強さがあるのでしょう。
インタビューの言葉から聞こえてくる棟方志功の芸術論


「花深処無行跡」これは棟方が好んだ漢文の引用らしい?(確認がとれていない)
制作の歴史は満足の歴史であろうと思うが、棟方は一つひとつが足跡に過ぎない。生きていく上の否応なしの足跡だ。人が雪の上を歩くと足跡がつくように、制作がそれなのであり、完成するときには棟方自身はいないと言うことでもある。ベートーベンも楽譜を意識し、楽器を意識しては偉大な芸術は残せなかったでしょう。きっと生命の旋律を楽譜に託して終わりのない芸術に向かったのだと思う。無心の繰り返しの中で生まれるものに宿る美を追求し続けたのではないでしょうか?
これ僕の板画です。棟方志功の名言!

驚いても オドロキレナイ
喜んでも ヨロコビキレナイ
悲しんでも カナシミキレナイ
愛しても アイシキレナイ
それが板画です。日本から生まれた仕事。わたくしで始まる世界を持ちたい。
私が彫っているのではありません。仏様の手足となって、ただ転げまわっているのです。あるものを真っ裸にしたものこそが、僕の世界だと。
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