無理心中

大観小観 4/13

無理心中というと、昔は「子殺し」で、切羽詰まった親へ同情が集まった。脳性マヒの団体が「泣きながらでも親不孝を詫びながらでも親の偏愛を蹴っ飛ばさなければならないのが我々の宿命」と言ったのは障害児を殺した親への助命嘆願が相次いだころだ。

「親の偏愛」とは「自分が死んだらこの子はどうなる」という心配がその中身。障害児は「不幸な存在」で「あってはならない、社会に迷惑な存在」という親と世間との共通認識があったという。

高齢化社会の無理心中は、親殺しへと変わる。四日市市で四十九歳の息子が八十二歳の母親を殺して首をつったのは二年前。この十一日は、川越町で、首に絞められた痕のある八十歳の父親の死体と、首をつっている五十二歳の息子が見つかった。

息子に殺害された四日市市の母親は糖尿病で両目は見えず、片足も切断していた。息子は献身的介護で知られたが「介護に疲れました。母親を殺して死にます」「迷惑をかけて申し訳ありません」などの遺書を残した。川越町の父親も足が悪く、息子は携帯電話に「こんな状態の父親を置いていけないので連れて行きます。すいません」の未送信メールと、「葬儀無用」のメモ書き。ともに、死後のことにまで気を遣っている。

四日市市の事件以降、同市の介護職員らが事件から学ぶべきことを話し合ったという。「介護者やその家族に目を向ける施策が必要だ」

ごもっともだが、その教訓は生きなかった。かつての「親の偏愛」が「介護者の偏愛」となり、世間との共通認識は依然温存されていることに根本的問題がある。
関連記事