学校と時計

有明抄 4/6

 陽気で桜の開花も進む。きょうは小中学校で始業式がある。一つずつ学年が上がるにつれ環境も変わることだろう。入園、入学式を控えた子どもたちもいて、心弾む春だ。すぐ給食が始まり、勉強に部活にと気ぜわしい日常がスタートする。

今でこそチャイムの音とともに、きちんと運営される学校だが、明治の中ごろまでの小学校規則や学校管理法書には、校時の区切りを拍子木で打ち鳴らす「撃柝(げきたく)」や、太鼓を使った「鼓報」で知らせると書いてある(佐藤秀夫著『学校ことはじめ事典』)。

戦前から戦後すぐの瀬戸内海の島の分教場を舞台にした映画「二十四の瞳」でも、校時を鐘で知らせる情景が描かれている。学校に時計が普及していない時代は、時限が細かく分かれていなかったようだ。

日ざしや、時には先生の「腹時計」で大体の区切りをつける。ちょっと笑えるような、おおらかな時代だったのである。義務教育の普及で学校の規模が大きくなり、先生の数も増え、管理運営の画一化の傾向は時計の備え付けを必要とした。

時計の普及が学校に幸せを運んだかは分からないが、子どもたちは時間を守ることの大切さを学ぶ。社会全体の流れが速い時代だ。時間に追われながらも、しばらく足を止める時もあっていい。いつもいつも走っていては、見えない風景もあるのだから。

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内容説明
なぜ4月新学期なのか。なぜ教室は20坪なのか。なぜ女生徒はセーラー服を着るのか。…従来ごく当り前と考えられてきた慣行や事柄の「成り立ち」を追求することで、かくれた問題を掘りおこし、広く日本の教育をとらえ直す。
目次
1 学校の始まり(学校と塾;公立学校;校門と塀;4月学年始期;夏休み;学校と時計 ほか)
2 授業の成り立ち(知育偏重論;教科と教科目;修身;万国史 ほか)
3 先生と子ども(生徒;就学義務;身体検査;掃除;学生服;セーラー服;ランドセル ほか)
4 学校の改革(教育改革論;高等教育会議;臨時教育会議;教育審議会 ほか)
出版社内容情報
「学校」と「塾」はどう違うのか。遅生まれと早生まれ、運動会・修学旅行の始まりは、教育勅語と御真影、女生徒はなぜセーラー服を着るのか、など学校に関するさまざまな話題を取り上げ、そのルーツを探る。

〔第1 章 学校の始まり〕 学校と塾(1)?「学校」と「塾」とはどう違う? 学校と塾(2)?自由に出入りできない「学」と「校」 公立学校?「官立」「公立」「私立」の区分の誕生 私立学校?政府は疎んじてもしぶとく残った私学 各種学校?「正規」学校と「その他」の学校 校門と塀?日本の学校にはなぜ塀があるのか 校地?通風・日当たり・静穏の校地規準はいま? 運動場?児童一人に一坪の体操場がなぜ必要か 雨天体操場?木造の雨天体操場造りは困難 校舎?ギヤマン校舎から兵営式校舎へ 昇降口?はきものを区別する日本独特の出入り口 二〇坪の教室?畳一枚に子ども二人の空間 児童控所?休み時間を子どもたちはどう過ごしたか 裁縫教室と理科実験室?特別教室の条件と意味 講堂?明治の頃も現在も専用講堂は数少ない 廊下?中廊下から片廊下への進化 廊下の南北論争?南廊下説の敗退 学年?学年は一年単位でなくてもよい? 遅生まれと早生まれ?一日違いの「断絶」 四月学年始期(1)?四月始期制は人材獲得競争から 四月学年始期(2)?「四月始まり」に教育的意義はない 夏休み?「夏期ニ授業ヲ行ハサル日」 併行学年?明治末から認められていた併行学年 学期?夏休みのせいで難しくなる学期の区分 

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「学校ことはじめ辞典」

   「学校ことはじめ辞典」   佐藤 秀夫
P46.~森有礼(もりありのり)は、学生・生徒に国家意識を植え付ける一方法として、「君臣接近」、天皇の存在を生徒が身近に感ずるように「御真影」の下付を思い立ったのである。ただ、森の場合、その拝礼式の施行を三大節、国家の祝日にだけ限定し、祭日は除いた。宗教(国家神道)と公教育の分離原則が念頭にあったからである。~法令で強制しようとはしなかった。
P48.~この教育勅語とは、1890(明治23)年10月30日、日本の教育の基本理念を示す文書として、明治天皇から時の文相芳川顕正に下付されたもので、全文わずか315字の小文。~日本の教育は皇室を中心とした日本独特の「国体」に基礎をおくとした序文、孝行から始まって16の徳目を列挙した中間徳目、この教訓の普遍妥当性を強く強調した結文、の三部分からなり、序文が最重要視された。教育勅語はもとより天皇自身が起案したものではなく、首相山県有朋の指導下、法制局長官、井上毅中心で、宮中顧問官元田永孚(ふ) が補助して、1890年から約4ヵ月間でまとめられた。
P68.~「輓近(ばんきん)専ラ知識才芸ノミヲ尚(たつと)トヒ、文明開化ノ末ニ馳セ、品行ヲ破リ、風俗ヲ傷フ者少ナカラス」。これは1879(明治12)年夏、近代学校が知育のみに走って徳育がおろそかになったとして、明治天皇の名で政府に示された批判文「教学趣旨」の一部である。
P72.~庶民教育では昔から、「よみ・かき・そろばん」の三科目が基本とされていたし、儒学がほぼ唯一の学習内容とされた武士の藩校では、素読・論講・詩文などが主な科目であった。
P74.~「修身」~「その家をととのへんと欲せば、まづその身を修めよ」という中国古典の「大学」に出典をもつこのことばは、「斉家治国平天下」つまり「家をととのへ、国をおさめ、天下を平安にする」基礎としての、道徳教育関係の一科目名として、1872(明治5)年から1945(昭和20)年末まで、この国の近代学校に存続していたのである。~最初は、「ギョウギノサトシ」つまり日常の子どもたちの立ち居振る舞い(行儀)を好ましいと考えられているルールに沿うよう~1880(明治13)年まで、小学校の基本科目…読書・習字・算術・地理・歴史・修身の、最末尾に掲げられる科目にすぎなかった。~1880年末に公布された第二次「教育令」以来一挙に首位に、つまり教育において最も重んずべき科目として指定された。
P75.~明治新政権が自己の民衆支配を強化するために、江戸時代以来の伝統的な儒教思想を学校教育の場に導入したものとされている。~上下の身分的秩序を重視する儒教の思想を学校現場にもちこんで、当時自由民権運動の地方における主な担い手であった小学校教員たちを牽制するとともに、未来の大人である子どもたちに従順・服従の態度を植え付けようとしていたことは明らかであた。
P76.~明治政府は、封建制下になずんでいた民衆を、組織的効率的に文明開化の民たらしめるために、民衆の育ててきた教育体系を否定した。~明治政府がつくり出した学校に、すべての教育を独り占めさせようとした。このために、学校は知育・徳育・体育のすべてを扱うことになったのである。~人間形成の責任すべてを負わされた学校では、いきおい人作りの核としての徳育を、重視。~だが、学校で徳育を重視したために肝心の徳育が育てられなくなるという、深刻な矛盾が作り出されることになるのだった。
P77.~修身は確かに儒教的な色彩を当初から持っていた。開明派の森有礼は、1880年代末これを嫌って、中学校や師範学校には欧米風の「倫理」を課すとしたほどである。~儒教そのものであったとしたら、欧米風近代化への途を歩むのに障害になってしまう。そこで日本得意の「ごった煮」方式がここでもとられた。~近代学校は、何といっても文字や言語を媒介として教育するところ、~教科書を使って教えられる「修身」は、徳そのものの教育でなくて、「徳について言語や文字で表された知識」を教授する科目にならざるをえなかった。
P78.~1941(昭和16)年度からの国民学校国民科修身におよんで、それは頂点にのぼりつめる。天皇の神格性・神国日本のアジア支配の正当性・皇軍の不敗性などがうたいあげられたのだから、敗戦直後の1945(昭和20)年12月、国民科国史・同地理とともに、占領軍によって授業停止処分を受けたのは当然だったといえる。~1958(昭和33)年文部省は「逆コース」にのって「道徳」の授業を復活させたが、それは「教科」や「特別教育活動」などとも異なるカリキュラム中の特別の分野とされた。~「知」
の科目と化した、戦前への反省にたっているのだろうが「学校で徳は教えられうるのか」
という根本問題は、まだ解決をみていない。
P79.~戦前国民道徳の目標とされた「忠君愛国」がどうなったか~「忠君」とは、いうまでもなく君主への忠誠でタテのモラル、「愛国」は国民の連帯を前提としたヨコのモラル。封建制下の道徳と市民国家でのモラルとを、無媒介にセットしたこの徳目は、そのために一体に融合することができなかった。~大正期以降、社会の近代化に合わせて次第に「愛国」に力点が移されるようになるが、民衆レベルの社会改革論を否定したファシズム期には一転して「忠君」が絶対化された。そして、敗戦。「忠君」優位の忠君が、突如否定されたとき、独り立ちしていなかった「愛国」は自己主張をなしえず「忠君」と運命をともにした。かくして「愛国」は「忠君」とセットのもの、したがって多くの人々から「古めかし」ものとみなされてしまった。
P80.~森は、文相としてその解決の途を「万世一王」の天皇の存在と、「人民護国ノ精神忠武恭順ノ風」、要するに「忠君」モラルの武士的資質を「無二ノ資本至大ノ宝源」として、兵式訓練により上から愛国心を与えようと提案する。~欧米では市民革命の結果、公民としての自由と平等がかちとられたことが強固な愛国心の基礎となっていたことは十分知っていたはずである。…だが、藩閥に身をおく立場からは民権運動に組することはできず、「下から」生まれたものを「上から」教育を通じて作り出そうという「矛盾」に陥らざるをえなくなった。以来この国では、「みんなの国」ではなく「おかみの国」を守るために、みんなが犠牲となることを辞さないことが崇高極まりない愛国心だと教えられるようになった。~その非論理性・非理性化は、日本の場合とくにはなはだしくなり、その結果として、戦後は「愛国心」自体をナンセンスと否定する風潮が生じてきてしまった。
P84.~「よみ・かき・そろばん」~一般化したのは明治時代、小学校教育が普及してからのことと考えられる。江戸時代の寺子屋で、この三種が合わせて教えられるようになったのは、その後期、しかも江戸・京・大阪など都市部の寺子屋の一部に限られていた。寺子屋教育の主流は「手習い」、つまり「よみ・かき」で、そろばんを同時におしえうるお師匠さんはそう多くは居なかった。~そろばんが主要基礎教育内容の一つに加えられるようになったのは、「算術」が必須科目となった小学校になってから、
P86.~「国語」とよばれるようになったのは、1900(明治33)年八月の第三次「小学校令」からで~それまでは、長く「読書」「作文」「習字」の三科目に分かれていた。「よみ」「かき」の伝統によるもので、「かき」が文章の作法と文字の書法とに分かれていたのである。それらが「国語」科に統一されると、その中の「読み方」「書き方」「綴り方」に衣替えすることになる。1941(昭和16)年四月、国民学校での「国民科国語」に改められたとき、新しく正式に「話し方」が加わって四領域となる。~言語教育の科目へと「国語」が転換しはじめるきっかけとなった。
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