ごっこ

中日春秋 4/3

お金もないが、花見の気分を味わいたい。お酒の代わりに番茶の煮出したやつを水で薄め、カマボコは大根、玉子焼きはタクアン…。おなじみの落語「長屋の花見」である。

花見をやろうと言い出すのは長屋の大家さん。「花見ごっこだ。粋に振る舞おう」。この人はまだ優しい方で、落語の世界にはなかなか厳しい大家、家主が登場する。

いつもは温和なのに、自分の趣味である義太夫を聞きたがらぬ長屋の衆に腹を立て、店立(たなだ)てを迫る「寝床」の大家。「大工調べ」の大家はもっと血も涙もない。手のかかる与太郎に「てめえみたいなやつは本当は追い出してやりたいが、それじゃあ長屋の連中がぐずぐず言うから、置いといてやるんだ」。与太郎の世話を焼く長屋の住民に手を合わせたくなる。

そんな大家さんばかりではないことはよく知っているが、気になる法務省の調査結果である。日本にいる外国人を対象にした差別や偏見調査によると、過去五年間に日本で住居を探した約二千人のうち外国人であることを理由に入居を断られた経験がある人が約四割いたという。

外国人お断りの張り紙を見てあきらめたという人も約二割。門前払いの悲しさを思う。

長屋の花見ごっこではないが、こんなごっこを空想する。外国に移住すると決めた。良い物件を見つけた。でも、日本人を理由に入居を拒否されたらのごっこである。


〈長屋の花見〉


〈寝床〉


〈大工調べ〉
長屋の花見(ながやのはなみ)  落語

お茶けに練馬のかまぼこ。ビンボー長屋の愉快で哀しい花見風景です。

貧乏長屋の一同が、朝そろって大家に呼ばれた。
みんなてっきり店賃の催促だろうと思って戦々恐々。

なにしろ、
入居してから十八年も店賃を一度も入れていない者もいれば、
もっと上手はおやじの代から払っていない。

すごいのは「店賃てな、何だ?」

おそるおそる行ってみると大家、
ウチの長屋も貧乏長屋なんぞといわれているが、
景気をつけて貧乏神を追っぱらうため、
ちょうど春の盛りだし、
みんなで上野の山に花見としゃれ込もう
と、言う。

酒も一升瓶三本用意したと聞いて、一同大喜び。

ところが、
これが実は番茶を煮だして薄めたもの。

色だけはそっくりで、
お茶けでお茶か盛り。

玉子焼きと蒲鉾の重箱も、
「本物を買うぐらいなら、無理しても酒に回す」
と大家が言う通り、
中身は沢庵と大根のコウコ。

毛氈(もうせん)も、むしろの代用品。

まあ、向こうへ行けばがま口ぐれえ落ちてるかもしれねえ
と、情なくもさもしい料簡で出発した。

初めから意気があがらないことはなはだしく、
出掛けに骨あげの話をして大家に怒られるなどしながら、
ようやく着いた上野の山。

桜は今満開で、大変な人だかり。

毛氈のむしろを思い思いに敷いて、
一つみんな陽気に都々逸(どどいつ)でもうなれ
と、大家が言っても、お茶けでは盛り上がらない。

誰ものみたがらず、一口で捨ててしまう。

「熱燗をつけねえ」
「なに、焙じた方が」
「何を言ってやがる」

「蒲鉾」を食う段になると
「大家さん、あっしゃあこれが好きでね、
毎朝味噌汁の実につかいます。
胃の悪いときには蒲鉾おろしにしまして」
「何だ?」
「練馬の方でも、蒲鉾畑が少なくなりまして。
うん、こりゃ漬けすぎですっぺえ」

玉子焼きは
「尻尾じゃねえとこをくんねえ」

大家が熊さんに、
おまえは俳句に凝ってるそうだから、一句どうだ
と言うと
「花散りて死にとうもなき命かな」
「散る花をナムアミダブツと夕べかな」
「長屋中歯をくいしばる花見かな」

陰気でしかたがない。

月番が大家に、
おまえはずいぶん面倒見てるんだから、
景気よく酔っぱらえと命令され、
ヤケクソで
「酔ったぞッ。オレは酒のんで酔ってるんだぞ。
貧乏人だって馬鹿にすんな。
借りたもんなんざ利息をつけて返してやら。
くやしいから店賃だけは払わねえ」
「悪い酒だな。どうだ。灘の生一本だ」
「宇治かと思った」
「口あたりはどうだ?」
「渋口だ」

酔った気分はどうだと聞くと
「去年、井戸へ落っこちたときとそっくりだ」

一人が湯のみをじっと見て
「大家さん、近々長屋にいいことがあります」
「そんなことがわかるかい?」
「酒柱が立ちました」

…………………………

寝床(ねどこ) 落語

だんなの義太夫を聴く長屋の連中の七転八倒ぶり。文楽のおはこです。

ある商家のだんな、
下手な義太夫に凝っている。

それも人に聴かせたがるので、皆迷惑。

今日も、
家作の長屋の連中を集めて
自慢のノドを聞かせようと大張りきり。

番頭の茂造に
長屋を回って呼び集めさせ、
自分は小僧の定吉に、
晒に卵を買ってこい、お茶菓子はどうした、
料理は、見台は、
と、うるさいこと。

ところが茂造が帰ると
雲行きが怪しくなる。

義太夫好きを自認する提灯屋は、
お得意の開業式で三百五十ほど請け負ったので来られず、
小間物屋はかみさんが
臨月で急に虫がかぶり(産気づき)、
鳶頭はごたごたの仲裁と、
口実を設けて誰も来ないとわかると、
だんなはカンカン。

店の一番番頭の卯兵衛まで、
二日酔いで二階で寝ているというし、
他の店の者もやれ脚気だ、
胃痙攣だと、仮病を使って出てこない。

「それじゃ、おまえはどうなんだ?」
「へえ、あたしはその、
一人で長屋を回ってまいりまして……」

しどろもどろで言い訳しようとすると
だんながにらむので
「ええ、あたしは因果と丈夫で。
よろしゅうございます。
覚悟いたしました。伺いましょう。
あたしが伺いさえすりゃ」
と、涙声。

だんなは怒り心頭で
「ああよござんす、
どうせあたしの義太夫はまずいから、
そうやってどいつもこいつも
仮病を使って来ないんだろ。
やめます。
だがね、義太夫の人情がわからないようなやつらに
店ァ貸しとく訳わけはいかないから、
明日十二時限り明け渡すように、
長屋の連中に言ってこい」
と大変な剣幕。

返す刀で、
まずい義太夫はお嫌でしょう、
みんな暇をやるから国元へ帰っとくれ
と、言い渡してふて寝。

しかたなく店の者がもう一度長屋を回ると、
店だてを食うよりはと、
一同渋々やってくる。

茂造が、
みんなさわりだけでも聞きたがっていると、
うって変わってお世辞を並べたので、
意地になっていただんな、
現金なものでころりと上機嫌。

長屋の連中、
陰で、横町の隠居がだんなの義太夫で
「ギダ熱」を患ったとか、
佐々木さんとこの婆さんは七十六にもなって
気の毒だとかぶつくさ。

だんな、
慌ただしく準備をし直し、
張り切ってどら声を張り上げる。

どう見ても、人間の声とは思えない。

動物園の脇を通るとあんな声が聞こえる、
この家の先祖が義太夫語りを絞め殺したのが祟ってるんだ
と、一同閉口。

まともに義太夫が
頭にぶつかると即死だから、
頭を下げて、
とやっているうち、
酒に酔って残らずその場でグウグウ。

だんな、静かになったので、
感動して聞いているんだろう
と、御簾内から覗くとこのありさまで、
家は木賃宿じゃないと怒っていると、
隅で定吉が一人泣いている。

だんなが喜んで、
子供でさえ義太夫の情がわかるのに、
恥ずかしくないか
と説教し、定吉に
「どこが悲しかった? 
やっぱり、子供が出てくるところだな。
『馬方三吉子別れ』か? 
『宗五郎の子別れ』か? 
そうじゃない? 
あ、『先代萩』だな」
「そんなとこじゃない、あすこでござんす」
「あれは、あたしが義太夫を語った床じゃないか」
「あたくしは、あすこが寝床でございます」

【うんちく】

日常語だった「寝床」

上方落語「素人浄瑠璃」を、
「狂馬楽」と呼ばれた奇人・三代目蝶花楼馬楽が
明治中期に東京に移したとされますが、
明治22年の二代目柳家(禽語楼)小さんの速記が残るので、
それ以前から東京でも演じられていたのでしょう。

古くから東西で親しまれた噺で、
少なくとも戦前までは、「下手の横好き」のことを「寝床」といって
普通に通用したほどです。

昭和5年、雑誌「キング」に連載され、
古川ロッパ主演で舞台や映画でも人気を集めた
佐々木邦原作の「ガラマサどん」では、
ビール会社のワンマン社長が、社員相手に
「寝床」をそっくり再現して、笑いを誘いましたが、
これもむろん落語が下敷きになっています。

原話と演者など

江戸初期の寛永年間(1624~44)刊行の笑話本
「醒睡笑」(→「子ほめ」「てれすこ」「幇間腹」「寄合酒」)や
「きのふはけふの物語」にすでに類話がありますが、
最も現行に近い原話は安永4年(1775)刊
「和漢咄会」中の「日待」で、オチも同じです。

三代目三遊亭円馬が上方のやり方を踏襲して演じ、
それを弟子筋の八代目桂文楽が
直伝で継承、十八番としました。

主人公がいかに下手くそとはいえ、
演じる側に義太夫の素養がないとこなしきれないため、
大看板でも口演できるものは限られます。

近代では、文楽のほか六代目三遊亭円生が
子供義太夫語りの前身を生かして
「豊竹屋」とともに自慢ののどを聞かせ、
三代目金馬、八代目三笑亭可楽も演じました。

異色の志ん生版「寝床」

五代目古今亭志ん生は、「正統派」の文楽・円生に対抗して、
ナンセンスに徹した異色の「寝床」を演じました。

前半を短くまとめ、後半、だんなが逃げる番頭を追いかけながら
義太夫を語り、「獲物」が蔵に逃げ込むと、
その周りを悪霊のようにグルグル回ったあげく、
とうとう蔵の窓から語り込み、中で義太夫が渦を巻いて、
番頭が悶絶というすさまじいもの。
オチは、「今ではドイツにいるらしい」という奇想天外。

実はこれ、師匠だった大正の爆笑王・初代柳家三語楼のやり方を
そのまま踏襲したものです。
三語楼は、英語まじりのギャグを連発するなど、
生涯エログロナンセンス、異端児で通した人でした。

むろん、このやり方では「寝床」の題のいわれもわからず、
正道とはいえませんが、
無頼の青春を送り、不遇な時期が長かった志ん生は、
師匠の反逆精神にどこか共鳴し、
それを引き継いでいたのでしょう。

円生などと違い、義太夫の素養がなかったので
こういう行き方を選んだのかもしれません。
現在、このやり方で演じるのは、橘家円蔵ら少数です。

義太夫って?

大坂の竹本義太夫(1651~1714)が貞享2年(1685)ごろ、
播磨(はりま)流浄瑠璃から創始、
二世義太夫(1691~1744)が大成し、
人形芝居(文楽)とともに、上方文化の礎として興隆しました。

噺に登場する「千代萩」など三編はいずれも
今日も文楽の重要なレパートリーになっている代表作です。
義太夫が庶民間に根付き、必須の教養だった
明治期までは、このほか「釜入りの五郎市」
「志度寺の坊太郎」などの子役を並べました。

だんなの強権

この噺の長屋は通りに面した表長屋で、おそらく二階建て。
義太夫だんなは、居附(いつ)き地主といって、
地主と大家を兼ねています。

表長屋は、店子は鳶頭など、比較的富裕で、
今で言う中産階級の人々が多いのですが、
単なる賃貸関係でなく、店に出入りして
仕事をもらっている者が大半なので、 
とても「泣く子とだんな」には逆らえません。

加えて、江戸時代には、引越しして新しい長屋を借りるにも、
元の家主の身元保証が必要な仕組みで、
二重三重に、義太夫の騒音に命がけで耐えなければならない
しがらみがあったわけです。

…………………………

大工調べ(だいくしらべ)
大工調べ

江戸っ子が言い立てる悪態。小気味よさがうまく出ているのはこの噺!

神田小柳町に住む大工の与太郎。

ぐずでのろまだが、腕はなかなか。

老母と長屋暮らしの毎日だ。

ここのところ仕事に出てこない与太郎を案じた
棟梁(とうりゅう)・政五郎が長屋までやって来ると、
店賃(たなちん)のかたに道具箱を家主・源六に
持っていかれてしまったとか。

仕事に行きたくても行けないわけ。

四か月分、計一両八百文ためた店賃のうち、
一両だけ渡して与太郎に道具箱を取りに行かせる。

政五郎に
「八百ばかりはおんの字だ、あたぼうだ」
と教えられた与太郎、
うろおぼえのまま源六に「あたぼう」を振り回し、
怒った源六に
「残り八百持ってくるまで道具箱は渡せない」
と追い返される。

与太郎が
「だったら一両返せ」
と言えば
「これは内金にとっとく」
と源六はこすい。

ことのなりゆきを聞いた政五郎、
らちがあかないと判断。

与太郎とともに乗り込むが源六は強硬だ。

怒った政五郎は
「ものがわからねえから丸太ん棒てえんだ。
つらァ見やがれ、この金隠しッ」
と啖呵を切り、
「この度与太郎事、
家主源六に二十日余り道具箱を召し上げられ、
老いたる母、路頭に迷う」
と奉行所へ訴えた。

お白州で、両者の申し立てを聞いた奉行は、
与太郎に、政五郎から八百文を借り、
すぐに源六に払うよう申し渡した。

源六は有頂天。

またもお白州。

奉行が源六に尋ねた。
「一両八百のかたに道具箱を持っていったのなら、
その方、質株はあるのか」

源六「質株、質株はないッ」

奉行「質株なくしてみだりに他人の物を預かることができるか。
不届き至極の奴」

結局、
質株を持たず道具箱をかたにとったとがで、
源六は与太郎に二十日間の大工の手間賃として
二百匁払うよう申しつけられてしまった。

奉行
「これ政五郎、一両八百のかたに日に十匁の手間とは、
ちと儲かったようだなァ」

政五郎
「へえ、大工は棟梁、
調べをごろうじろ(細工はりゅうりゅう、仕上げをごろうじろ)」

【うんちく】

大家さん、ご乱心!その1

お奉行所の質屋に対する統制は、
それは厳しいものでした。

質物には盗品やご禁制の品が紛れ込みやすく、
犯罪の温床になるので当然なのです。

早くも元禄5年(1692)には惣代会所へ登録が
義務付けられ、享保の改革時には奉行所への
帳面の提出が求められました。

株仲間、つまり同業組合が組織されたのは
明和年間(1764-72)といわれますが、
そのころには株を買うか、譲渡されないと
業界への新規参入はできなくなっていました。

いずれにしても、モグリの質行為はきついご法度。
大家さん、下手するとお召し取りです。

大家さん、ご乱心!その2

この長屋の店賃、4か月分で一両八百ということは、
月割りで一分二百。高すぎます。

店賃も地域、時代、長屋の形態によって変わりますから
一概にはいえませんが、

貧乏な裏長屋だと、文政年間(1818-30)の相場で、
もっとも安いところで五百文、
どんなにぼったくっても七百文がいいところ。
ほぼ倍です。(銭約千文=一分、四分=一両)

日本橋の一等地の、二階建て長屋なら
この値段に近づきますが、神田小柳町は
火事で一町内ごと強制移転させられた代地ですから、
地代も安く、店賃もそれほど無茶苦茶ではないはずです。

神田小柳町(かんだ・こやなぎちょう)

現在の東京都千代田区神田須田町一、二丁目、
および神田鍛冶町三丁目にあたります。

元禄11年(1698)の大火で下谷一丁目が焼けた際、
代地として与えられました。
延享2年(1745)以来、奉行所の直轄支配地と
なっています。

あたぼう

語源は「当たり前」の「当た」に「坊」をつけた
擬人名詞という説、
すりこぎの忌み言葉「当たり棒」が元だと
いう説などがありますが、
一番単純明快なのは、
「あったりめえでえッ!べらぼうめェッ!」
が縮まったとするもの。
さらに短く「あた」とも。

実際は使われてない!?

でも、「あたぼう」は、
下町では聞いたこともない
という下町野郎は数多く、
どうも、落語世界での誇張された言葉のひとつのようです。

落語というのは長い間にいろんな人が
こねくりまわした果てに作り上げられたバーチャルな世界。
現実にはないものや使わないものなんかが
ところどころに登場するんです。

それはそれで楽しめるものですがね。

与太郎1

実は普通名詞です。

したがって、正確には「与太郎の○○(本名)
と呼ばれるべきものでしょう。

元は浄瑠璃の世界の隠語で、嘘、でたらめを
意味し、「ヨタを飛ばす」は嘘をつくことです。

落語家によって「世の中の余り者」の意味で
馬鹿のイメージが定着されましたが、
現立川談志が主張するように、
「単なる馬鹿ではなく、人生を遊び、
常識をからかっている」
に過ぎず、
世の中の秩序や寸法に
自分を合わせることをしないだけ、
と解する向きもあります。

【コラム 古木優】

 大岡政談のひとつ。裁き物には「鹿政談」「三方一両損」「佐々木政談」など
がある。政五郎の最後の一言は「細工はりゅうりゅう、仕上げをごろうじろ」
のしゃれ。棟梁を「とうりょう」でなく「とうりゅう」と呼ぶ江戸っ子ことば
がわからないとピンとこない。明治24(1891)年に禽語楼小さんがやった「大
工の訴訟(しらべ)」の速記には、「棟梁」の文字に「とうりゃう」とルビが
振られている。これなら「とうりょう」と発音するのだが。

 落語を聴いていると、ときにおかしな発音に出くわすものだ。「大工」は「で
えく」だし、「若い衆」を「わけえし」「わかいし」と言っている。「遊び」
は「あすび」と聞こえるし、「女郎買い」は「じょうろかい」と聞こえる。

 歯切れがよい発音を好み、次のせりふの言い回しがよいように変化させている
ようだ。
 
 池波正太郎は、落語家のそんな誇張した言いっぷりが気に入らなかった。
「下町で使われることばはあんなものではなかった。いつかはっきり書いてお
かなくてはならない」などと書き散らしたまま、みまかった。残念。

 この噺では貨幣が話題となっている。江戸時代では、金、銀、銭の3種類の貨
幣を併用していた。ややこしいが、一般的なところを記しておく。
 1両=4分=16朱 
 金1両=銀60匁=銭4貫文=4000文

 いまの価格にすると、1両は約8万円、1文は20円となるらしい。ただし、消
費天国ではなかったから、つましく暮らせば1両でしのげた時代。いまの貨幣
価値に換算する意味はあまりないのかもしれない。

 1両2分800文とは、6800文相当となる。幕末期には裏長屋の店賃が
500文だった。ということは、13か月余相当の額。5代目古今亭志ん生は
「4か月」ためた店賃が「1両800」とやっている。月当たり1200文。
うーん、与太郎は高級長屋に住んでいたのだろうか。

 質株とは質屋の営業権。江戸、京阪ともに株がないと質屋を開業できなかった。
享保8(1723)年、江戸市中の質屋は253組、2731人いたという。ずい
ぶんな数である。もぐりも多くいたそうだから、このような噺も成り立ったの
だろう。

 勘兵衛の職業は家主。落語でおなじみの「大家さん」のことだ。「大家といえ
ば親も同然」と言われながらも、地主(家持)に雇われて長屋を管理するだけ
の人。地主から給金をもらい、地主所有の家を無料で借りて住んでいる。マン
ションの管理人のような存在である。

 この噺では、大家の因業ぶりがあらわだ。こんなこすい大家もいたものかと、
政五郎や与太郎以上に人間臭くて親近感がわいてくる。

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