知の休日

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『知の休日』
―退屈な時間をどう遊ぶか
五木 寛之  
休日は「知のゆりかご」
疲れた頭と心を劇的に活性化する刺戟にみちた遊びのヒント。ためしてみますか?

本と遊ぶ。アートと遊ぶ。車と遊ぶ。体と遊ぶ……。この本は、ふだん忙しい生活のなかで頭と心がコチコチに固まりきっているのを、どうすればまともな状態にもどすことができるかという遊びの実験である。<知>という字には、ココロとふりがなをふってもいいし、アタマと読んでもいい。著者は、身近な例をあげながら、アタマとココロに心地よい刺戟を与える新しい緊張感のある休日を提案する。好奇心と知的な娯しみに支えられた、本当の意味でのリフレッシュされた休日をつくりだすためのマニュアルがここにある。


知の休日―退屈な時間をどう遊ぶか (集英社新書)





というのも、下記の目次にもあるように、「~と遊ぶ」と題された各章の内容が、ディテールにこだわる五木さんの魅力でもあるのかもしれませんが、大きなテーマからそれているような気がして、あまり共感できなかったのです。また、安易なひまつぶしのすすめともとられかねない内容であるようにすら感じました。


『知の休日』目次

はじめに
 リラックスのしすぎは問題だ
 手巻き時計のネジは戻し戻し巻く
 「休日はゴロ寝が一番」は正しいか
 私は<休日性頭痛>に悩まされてきた
 休みの日に限って体調を崩す謎
 盃の最初の一杯は三分かけて飲め
 <ブルー・マンデー>の正体
 擬似知識人としての父の生き方

第一章 本と遊ぶ
 活字を読むのは病気である
 読書をしても人は美しくならない
 活字人間だった寺山修司
 アフマートワの三冊の本
 『歎異抄』を捨てられるか
 本は精神の道具である
 一冊の重さをしみじみと感じるとき

第二章 体と遊ぶ
 裸の姿を全身鏡に映してみる
 わらじ足に対する偏見
 自分の尻の正しい拭き方を考える

第三章 アートと遊ぶ
 名作地獄に堕ちる人びと
 脂ぎった目を洗う
 盗むか、買うか、究極の一点
 オペラに誘われて退屈しない方法
 バレリーナの恋人になったつもりで
 悪所の卑俗さを残してこそ

第四章 車と遊ぶ
 『日曜はダメよ』という歌があった
 車が生きがいだった頃のこと
 「無事これ名馬」のモットーを守るために
 事故をさけるための必須マニュアル
 安全のための具体的な提案
 車社会への愛と絶望の狭間に

第五章 声と遊ぶ
 黙読は新しい習慣である
 声に出して読まれて生きるもの
 軍人勅諭とモールス信号
 活字は声に出して読んでみる

第六章 靴と遊ぶ
 なぜ靴にこれほどこだわるのか
 三十年間はかないブルー・スウェード・シューズ
 靴は生命を支える道具である
 和足洋靴のムリを承知で
 快楽をもたらす靴を求めて

第七章 夢と遊ぶ
 夢野久作になってみよう
 夢の世界をどう創るか

第八章 何とでも遊ぶ
 虱をとる福沢諭吉の母親
 どんなものとでも遊ぶ
 退屈な時間をどう生かすか

おわりに
 お恥ずかしい<見本>として
 類似品のひとつとしての現代人
 退屈を黄金の時間に変えて



ところが、当時から10年経ち、このたび改めて読み返してみると、大きなテーマが隠されていることに気づきました。それは、「おわりに」に掲げられている「退屈を黄金の時間に変えて」というテーマなのです。この深刻な時代に「退屈」とは何を脳天気なと思われるかもしれませんが、ここに大きなテーマがあるのです。

第八章は、喜んで虱とりをする福沢諭吉の母親のエピソードを紹介して、五木さんがこれに感嘆するところから始まり、次いで、加賀平野の「虫送り」という害虫を絶滅させるのではなく追い遣る生命を大切にする日本人らしいエピソードを紹介しています。そして、そこから、二葉亭四迷がロシア語の「トスカ」を「ふさぎの虫」と訳した話を紹介します。

「ふさぎの虫」とは、人が生まれながらにして心の深いところに宿している深い<愁>のことで、五木さんは当時の著作で頻繁に紹介しています。不安とか愁いを、害虫をDDTで駆除するように排除するのではなく、それとともにあることをすすめています。

後に著わされた『不安の力』でも語られているように、この現代の状況に不安を感じるのは極めて人間的なことで、何も感じずにプラスチックのように無機質なこころであるよりはずっとよいというのが五木さんの持論です。

この『知の休日』でも、休日のながい一日を、うつうつと<ふさぎの虫>と向き合ってすごすのも、なかなか味わい深い人生の一シーンであるとすすめています。

驚くべきことに五木さんは、さらに踏み込んでこのように語っています。

畢竟、人間はその<虫>のことを忘れようとして、さまざまな慰めの方法や、気分をそらすさまざまな方法を考えてきた。宗教も、芸術も、文化もたぶんそういうものではないか、と、私は思う。

これは、当時私が哲学の勉強で接していたドイツの哲学者、マルティン・ハイデガーの考えとも通ずるところがあり、私はとても驚きました。

ハイデガーは、主著『存在と時間』で、現存在(人間存在)の根本気分は「不安」と「退屈」であり、その中でこそ存在と向き合うことができるとしています。ところが実際は、気晴らしや好奇心でそこから逃れるだけでなく、日々の生活のために必要なことで心が一杯になっており、その実用性にとらわれる態度こそが、非本来的な生き方であるとされています。もちろん、道徳的にそれが問題があるわけではないのですが、存在の明るみを隠すものであるという点で非本来的であるというのです。

さらにそれだけでなく、ハイデガーは一種の文化革命のようなことまで目論んでいましたから、諸科学など学問のあり方まで現存在のあり方の一つであるに過ぎないと論を展開していきます。あくまで、不安や退屈の中で死への存在としてのあり方を先回りして自覚すること(先駆的覚悟性)が本来的なあり方で、その存在論の上に全てを基礎付けしようという大胆な目論見を持って、ハイデガーは『存在と時間』を構成しています。


五木さんは第一章で、哲学が「わかる」ためには二つの道筋があり、一つは天与の哲学的人間であることで、もう一つは小学生くらいの頃から哲学的思考の基礎を学ばせることだとしていて、五木さん自身はそのいずれでもないとしていますが、五木さんも直観のレベルではハイデガーが謂わんとすることを見抜いているようにも思います。

「退屈」とは、ドイツ語でLangeweileで、それを分解するとLange(長い)+Weile(時間)となります。さらに、weilenという動詞には留まるという意味があり、ハイデガーはそれを積極的に解釈して、退屈とは存在の明るみのもとに永らく逗留する時のことであるとしていたような記憶があります。

一方で五木さんは、「退屈を黄金の時間に変えて」の最後で、以下のように述べています。まるでハイデガーとパラフレーズしているかのようで、次元と境域こそ違え、ハイデガーの言わんとすることを感覚的に平易に言うとこうなるのかもしれないと驚いています。

歳を重ねるごとに一年が早くすぎてゆく、とは、よく耳にすることだ。たしかに時間が矢のようにとび去っていく感じがある。しかし、ちゃんと退屈することができたとき、時間はゆるやかに流れはじめるのだ。さて、なにをしてきょう一日をすごそうか、と考えるときは、すでにもう世間の時間ではなく、自分の時間に変りはじめているのである。


私の二十代の精神世界は、ハイデガーと五木さんによって満たされていました。この二人のつながりが、今までは全く見えなかったのですが、この『知の休日』を読んで、はじめて見えてくるような気がしました。また、新たな五木さんの発見に喜びつつ、この文を結ばさせていただきます。



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