いじめの構造 なぜ人が怪物になるのか

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内藤朝雄 「いじめの構造―なぜ人が怪物になるのか」 (講談社現代新書)

いじめが社会的に大きな問題になったのは,1990年前後です。
それから,四半世紀経ちますが,その問題が解決したという話は聞きません。

それどころか,つい先日も,いじめが原因で自殺をした中学生のことがニュースになっていました。そこで取り上げられたのは,中学生自身が書いていた生活記録でした。毎日,担任に提出するノートの中に,自殺をほのめかすことが書かれていて,社会に衝撃を与えました。

そこで,今回,いじめそのものについて考察しようと,本文献を講読しました。

まず最初に,いじめをめぐる様々な言説を取り上げながら,それぞれの言説の矛盾から,生徒たちの属する秩序が一つではないことを明らかにしています。また,生徒同士の関係も,個人主義的な希薄なものではなく濃密であり,「濃密に付和雷同して生きている」と論じます。

ここを入り口に,いじめの構造を明らかにしていくのです。

まず,秩序についてですが,いじめの起こるそれを「群生秩序」と呼び,普遍的で人間的な「市民社会の秩序」とは異なることを説明しています。この「群生秩序」では,「市民社会の秩序」において悪でも,正になります。また,そこでは,「全能」を配分しようとしたり,身分の厳格化が起こったりします。

この「全能」は,まず「不全感」から「不全感の反転」を経て,「全能」になることをたくさんの事例から導出します。そして,「全能」になるために,でっち上げも含め,役に立つ体験を「全能筋書」と呼び,これをエネルギーに「全能」になり,それがさらに拡大すると述べています。

ここまでの,多数秩序の小社会や,「全能感」を目指す「全能筋書」などは,新しい概念で,新鮮でした。それだけでなく,なるほどと納得することばかりでした。

さらに,内藤氏は,「全能筋書」の三つのモデルを提示されます。
1「破壊者と崩れ落ちる生贄」 2「主人と奴婢」 3「遊びたわむれる神とその玩具」
いずれも,レトリカルな表現です。レトリカルであるゆえに,過激とも言えます。ただ,この比喩は,いじめの中でも,暴力的なものを指しているので,このような表現になったとも言えます。

これらの三つのモデルは,それぞれが圧縮されたり切り替わったりしなが,複雑に入り組みながら「筋書」として,いじめる側の「全能」に向かって行使されます。つまり,暴力的ないじめが実行されるのです。

他の「全能筋書」として,「タフ」さであるとか,「投影同一化」などもあると述べています。ここでは,詳しく紹介できませんが,どちらも興味深いものです。

その中でも「タフ」の筋書を例に,いじめの構造を「祝祭」と「属領」という概念で説明します。
「祝祭」というのは,「Xすることの全能」と「Xすることを通じて集まることYの全能」です。つまり,実際に暴力的ないじめ行為をする全能と,それを傍観したり一緒に参加したりする者の全能が,ちょうど祭りの主催者と参加者のようであり,「祝祭」と呼んでいるのです。

それだけでなく,「祝祭が物理的空間を覆い尽くすことの全能」まで拡大することを示し,これを「属領」と呼んでいます。つまり,学級全体や学年全体,学校全体を覆い尽くすようになるというのです。そこには,いじめに直接関与しない生徒や先生も含まれます。

以上の三つの全能を「全能筋書の三重圧縮」と呼んでいます。

さらに,「全能」は「利害」とマッチングしたり利害図式が全能筋書に転用されることでも,いじめの構造ができるといいます。

そして,氏は,このようないじめを強化したり固定化するものとして「学校共同体主義イデオロギー」だと,現行の教育制度を批判します。読みようによっては,この制度だからいじめが発生するとも読めます。

それは,「赤の他人であるのに,深いきずなでむすばれているかのようなふりをしなければならない,」や「学校の友達や先生に親密さを感じないこころの自由を否定している」のです。

普通の市民社会の秩序では,「単純明快に付き合わない」という選択肢があるのに,学校共同体ではそれが不可能な仕組みになっているというのです。

これらの指摘は,学校教育にかかわるのものとして,ドキッとさせられます。教師や学校が,理想としているものが,実は子どもたちにとっては,さまざまな自由,それも人間関係にかかわる自由を奪っていることになるかもしれないからです。

氏は最後に,解決策として,短期的・中期的・長期的な提案をされます。
短期的には,「学校の法化」「学級制度の廃止」「市民的な自由が確保された生活環境」などです。
「学校の法化」というのは,学校であるという聖域を排し,法のもとにさらすという意味です。つまり,警察や検察の力を持ち込むということです。

この短期的な解決策には,ほぼ同意できますが,実現するかというと難しい面もあります。「学校の法化」というのは,ある程度実現しているのではないかと思いますが,後の二つはかなり工夫が必要です。つまり,学校運営上の工夫が必要なのです。

中・長期的には,制度そのものを変えなければならないといいます。確かに,戦後70年ほとんど変わらない制度やシステムで,現代に通用するとは思えません。この際,小手先のマイナーチェンジではなく,学校制度そのものを変える必要があるのかもしれません。

そして,制度を変える時には,「狭い閉鎖的な空間に囲い込んでいる条件を変える」「公私の区別の明確化と客観的・普遍的なルールが力を持つ」ような枠組みを用意しなければならないと述べて,論を閉じられています。

なかなか,骨のある文章で,読み応えがありました。
そして,教師や学校の掲げる理想について,つまり学校共同体イデオロギーを,見直しつつ氏の提唱されることをどのように組み込んでいくのかということを考えたいと思います。ー
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