2017年10月15日の記事 (1/1)

小惑星

20171015132645ddb.jpeg

20171015132645a3f.jpeg
 みずがめ座のそばを左上から右下に向けて移動する小惑星「2012TC4」=11日夜(東京大木曽観測所提供)

大弦小弦 10/15

12日の午後2時42分に、まだ暑さが残る秋空の一角を2012年にハワイで見つかった「2012TC4」という小惑星が通り過ぎていった。

東京大学の木曽観測所によると直径は約10~30メートル。13年にロシアで大きな被害が出た隕石(いんせき)に近い大きさで最接近時の地球との距離は約5万キロ、一部の人工衛星軌道のすぐ外側だった。

月と地球間の距離は約38万4400キロだから、かなり近くを通過したことになる。ハリウッドのSF映画のような話だが、ご心配なく。発見直後から世界中の天文学者が軌道を計算し、地球には衝突しないとの結果が出ていた。

ある試算によると同規模の小惑星数は推定で1千万個。このうち既に発見され、軌道の計算が進んでいるのは5千個程度にとどまる。そんな中、新たな小惑星発見の期待が高まるのが、木曽観測所で進行中の高性能カメラを使った計画だ。

担当の酒向重行助教は「観測技術の進歩と監視網の強化で、発見数も増え軌道も分かっていく」と話す。的確な予測が進めば、地球直撃の可能性があっても、落下点を割り出して避難を呼び掛けるなど事前の対応ができるというわけだ。

ことし5月には関係機関による国際会議も開かれた。未知の天体が急接近して世界が大混乱に-。そんな事態を避けるため、国を越えた対策が立てられているのは頼もしい。

もうひと花

水や空 10/15

〈記憶力のピークは20代の前半でしょう。自分の将棋だけでなく、隣で指している将棋の棋譜もすべて覚えていることがありましたから〉〈覚えることは大変ですが、忘れる力は年齢が上がるとどんどん伸びていってくれます〉

どんな世界にも世代交代はつきものだ。この人も笑いを交えた涼しげな口調で老いや衰えを語ることが増えてはいた。将棋界の第一人者、羽生善治さん。

前人未踏の獲得タイトル「100期」を目前にして、思うように勝てない日々に直面している。8月以降、若手棋士に二つのタイトルを立て続けに奪われ、保持しているのはとうとう「棋聖」の1冠だけに。

昨日は公開対局の早指し棋戦「日本シリーズ」で敗れて決勝進出を逃した。4月以降の戦績は18勝16敗。戦う相手や舞台を考えれば「指し分け」は上々の数字なのだろう。ただ、相手の研究手順に陥り、序盤に形勢を損ねたまま土俵を割る将棋も増えた。

9月で47歳になったが、さわやかな人柄は相変わらずだ。「王位戦」では失冠した直後に解説会場に姿を見せ、解説で使う大盤の駒の操作にせっせと手を貸す気さくさでファンを驚かせた。

20日に開幕する「竜王戦」7番勝負には挑戦者として登場する。もうひと花-が咲くかどうか。アラフィフ世代の切実な声援は届くか。

…………………………

羽生善治の名言

羽生善治のプロフィール

羽生善治(はぶ よしはる/1970年9月27日-/男性)は、東京都出身の将棋棋士(埼玉県生まれ)。将棋界初の七冠王を達成した名棋士であり、他の棋士が思いつかないような絶妙の手順はたびたび「羽生マジック」と称された。これまでに史上初の七冠王、史上初の永世六冠(後に永世七冠)、通算タイトル獲得数歴代1位、通算1200勝を史上最年少で達成、公式戦優勝回数歴代1位など数々の業績を残しており、将棋史上最強格の棋士として名を挙げられることも多い。主に居飛車(いびしゃ/飛車を右翼に配置)が得意な戦法とされているが、振り飛車(ふりびしゃ/飛車を左翼に配置)を採用することもあり、羽生自身が「相手の得意な戦型に挑戦する」と述べている通り相手に合わせて多彩な戦術をとることでも知られる。また羽生と同年代には永世棋聖の佐藤康光、竜王戦史上初の3連覇を達成した藤井猛、永世名人の森内俊之などトップクラスの若者たちが集まっており、彼らは「羽生世代」と呼ばれている。

著書

主な著書に『捨てる力/PHP研究所』『羽生善治の定跡の教科書/河出書房新社』『迷いながら、強くなる/三笠書房』『羽生善治の将棋の教科書/河出書房新社』『戦いの絶対感覚 羽生善治の将棋の教科書実戦篇/河出書房新社』『羽生善治のみるみる強くなる将棋入門シリーズ/池田書店』『決断力/角川書店』『もっと羽生流!初段プラスの詰将棋150題/成美堂出版』『適応力/扶桑社』『直感力/PHP研究所』『羽生対局から50問!投了図からの詰将棋/梧桐書院』『羽生の法則シリーズ/日本将棋連盟』『大局観 自分と闘って負けない心/角川書店』『才能とは続けられること 強さの原点/PHP研究所』などがある。

羽生善治の名言集

私は才能は
一瞬のひらめきだと
思っていた。
しかし今は10年とか20年
30年を同じ姿勢で
同じ情熱を傾けられることが
才能だと思っている。

勝負の世界では
「これでよし」と
消極的な姿勢になることが
一番怖い。

常に前進を目ざさないと
そこでストップし
後退が始まってしまう。

誰でも最初は
真似から始める。
しかし、丸暗記しようと
するのではなく
どうしてその人が
その航路をたどったのか

どういう過程で
そこにたどり着いたのか
その過程を
理解することが大切。

ただ一局一局を大切に
そこにだけ集中して
指してきた。

見た目にはかなり危険でも
読み切っていれば怖くはない。
剣豪の勝負でも
お互いの斬り合いで
相手の刀の切っ先が
鼻先1cmの所を
かすめていても
読みきっていれば
大丈夫なんです。

すでに過ぎ去ったことは
仕方がない。
私は、意識的に先のことを
考えるようにしています。

反省は
勝負がついた後でいい。

「いかに戦うか」は
大局観にかかわるが

その具体的な戦略は
事前研究が決め手になる。
事前にしっかり準備して
万全の態勢で
対局に臨んでくる人は強い。

プレッシャーはその人の
持っている器に対して
かかるものだ。
器が大きければ
プレッシャーを感じることが
ないはずだと
自分に言い聞かせています。

一番いいと思えるものを簡単に
単純に考えることができれば
逆境からの突破口を見出せる。

ビジネスや会社経営でも
同じでしょうが
一回でも実践してみると
頭の中だけで考えていたことの
何倍もの「学び」がある。

勝敗を決定するのは
“ただの一手”で
あったりする。
絶妙の一手。
あるいは絶妙に見えて
最悪の一手。

大一番の対局では
誰しも手堅く
安全、確実な道を
選びたくなるものだ。
自分もそうすることが
よくある。
しかし、確実にという
気持ちに逃げると
勝負に勝ち続けるのは
難しくなってしまう。

決まり切った局面で
長考して時間を使って
疲れるより
勝負どころの場面で
深い集中力を
発揮できることが大切。

興味が続くかぎり
集中力は続くものです。

勝つのは
一点差でいい。
五点も十点も大差をつけて
勝つ必要はない。
常にギリギリの勝ちを
目指しているほうが
むしろ確実性が高くなる。

相手のことを知るよりも
自分自身が強くなれば
それで済む世界だし
それを目指した方が
本筋というか
王道という気がする。

直感には
邪念の入りようがない。

長く考えると言うのは
道に迷っている状態
なんですね。

「勝ちたい」とか
余計な思考も入ってくる。
だから、いくら考えても
分からない時は
最初に戻って
直感にゆだねることが
よくあります。

勝負では
知っていることに
自分の思考とかアイデアを
プラスしないと
意味がないのですが

知っているという
その一点だけで
有利になるということも
よくあるんです。

簡単に
単純に考える。

山ほどある情報から
自分に必要な情報を得るには
「選ぶ」より
「いかに捨てるか」の方が
重要なことだと思います。

勝ち負けには
もちろんこだわるんですが
大切なのは過程です。

結果だけなら
ジャンケンでいい。

いろいろ考えられる
選択肢の中から
「この一手」を選ぶのは
自分しかいないわけです。

ミスはミスを呼び
悪手は悪手を呼ぶ。
プロがミスをしないのは
ミスしにくい局面を
選択しているからなんです。

本当に見たこともない新手は
ひらめきみたいものからしか
生まれない。
でもそれは先入観を
すべて捨てて考えないと
なかなかできない。

守ろう、守ろうとすると
後ろ向きになる。
守りたければ
攻めなければいけない。

夢は目指した時から
目標に変わる。

ひらめきやセンスも
大切ですが
苦しまないで
努力を続けられる
ということが
何より大事な
才能だと思います。

イメージが浮かぶのは
序盤と終盤である。
浮かんでしまえば
あとは中盤でその間の
つじつまを合わせればいい。

平均点を目指すと
限界も決まってしまう。

基本的に人間というのは
怠け者です。

何も意識しないでいると
つい楽な方向や
平均点をとる方向に
いってしまいます。
だから相当意志を強く持って
志を高く揚げ
核となっている
大きな支えを持たないと

一生懸命に
やっているつもりでも
無意識のうちに
楽な方へ楽な方へと
流されていく。

自分自身の目標に向かって
ちょっと無理する
くらいの気持ちで
踏みとどまらないといけません。

漠然とした不安は
立ち止まらないことで
払拭される。



ウサギとカメ

20171015134619787.jpeg


くろしお 10/15

 宮崎大学副学長の伊達紫(ゆかり)さんは、祖母50回忌の説法で、次のような質問を投げかけられた。「イソップ童話の『ウサギとカメ』に出てくるウサギはなぜカメに負けたのか」。

 「油断したから」が求められている答えではないことは明白。さりとて他に気の利いた答えも浮かばず座はしばし沈黙したという。お坊さんの回答は「カメはゴールだけ見て走ったが、ウサギは相手だけを見ていたから」だった(2011年3月7日付本紙客論)。

 日本の針路を決める衆院選投票日まであと1週間。5年近く一強時代を続ける安倍政治を問う選挙である。政権継続を狙う自民、公明両党に対して希望の党、日本維新の会、共産、立憲民主、社民各党の三つの極が対決する構図になった。

 衆院選序盤情勢の電話世論調査で、300議席超をうかがう勢いと報じられた与党は油断すれば風向きが一気に変わり敗北につながると、神経をとがらせる。一方劣勢が伝えられた野党側は選挙戦後半での逆転を目標に巻き返しを期す。さて、結果はどうなるか。

 小池都知事の新党旗揚げや野党第1党の分裂などドラスチックな政界変動があったため前回より有権者の関心は高い。投票率が上がれば無党派層の票の積み重ねが選挙の帰趨(きすう)を決める可能性が高まる。与党必死の引き締めは当然である。

 伊達さんは6年前の客論で、国会議員にゴールを見つめる一流のウサギであれ、と要望しているが今の候補者はどうか。わが身のみ思い、他党の揚げ足を取ろうと目を血走らせたウサギならば、有権者の期待をすぐ裏切ることになるだろう。

…………………………

20171015135416307.jpeg


宮崎大の女性活躍・人財育成担当理事になった 伊達 紫(だて・ゆかり)さん
2015年10月18日

 国立大学法人宮崎大学が新たに設けた「女性活躍・人財育成担当理事」に1日付で就任した。「女性」の冠の宣伝効果を自覚しつつ、任期中の3年間は医学部教授の立場を超えた幅広い人材育成に挑む。「大学は多様な人材を育てたい。その中に女性も入る。いろんな人の力を引き出せば、相乗効果が生まれる」と信じる。

 同大学の男女共同参画推進室長を7年間務めてきた。今後は取り組みをさらに地域に広げるつもりだ。「大学の役割は未来の地域に人を残すこと。地域と連携しながら、年齢や性別にかかわらず誰もがチャンスをつかめる土壌をつくりたい」 福岡県飯塚市出身。大分医科大を卒業、宮崎医科大大学院を修了した。実はずっと、女性の問題を実感したことはなかった。両親からは「女性は生活するための経済基盤を持つべきだ」と育てられ、医師の道へ。指導者にも恵まれ、神経内科医としての仕事や研究に夢中になっていた。

 男女共同参画推進室長になって初めて、挫折する女性の存在や不公平な現実を突き付けられた。「女性管理職の数値目標には疑問を感じていた」というが、同時期に医学部医学科でただ一人の女性教授に。会議などで比率の重みを身をもって知った。自らも葛藤しながら、男女ともに働きやすい環境づくりは続く。

 54歳。スポーツ観戦が好きで、ラグビーワールドカップに学生時代のラグビーブームを思い出し、胸を熱くしている。「首が折れそうなのにぶつかっていき、一歩でも前に進もうとする。仕事もかくありたい」。宮崎市在住。

…………………………

スポーツの秋~第3レース
 10月といえば...体育の日!? スポーツの秋の到来です。全国各地で運動会やスポーツ大会が開催されることでしょう。

 私が小学生の頃の運動会の思い出といえば、毎年のように雨で順延になることでした。その原因として噂されていたのが、元々、小学校の校舎や運動場があった場所が墓地だったため、「呪われている」というものでした(笑)。これはおそらく都市伝説に違いありませんが、6年間のうちの半分くらいは雨で順延になったことは確かです。
 私は幼い頃から、かけっこが得意なほうでした。お寺の住職になってからも度々、校区の運動会のリレーやムカデ競争に引っぱり出されますが、40歳を過ぎると思うように脚が前に出ません。

 ところで、夏休み中に小学生の坐禅会を行なった際、「ウサギとカメ」のお話をしました。昔話では、ウサギに歩みの遅さをバカにされたカメが山の麓までのかけっこを挑みます。スタートするや否や、一目散に駆けていったウサギですが、途中で余裕綽々と居眠りをしてしまい、マイペースで進むカメに勝利を奪われてしまいます。
 このお話の教訓は、過信して思い上がり、油断をすると物事を逃してしまう。また、能力が弱く歩みが遅くとも、脇道にそれず着実に真っすぐ進むことで、最終的に成果を得ることができるというものです。
 では、同じ条件で第2レースを行なうとします。今度はウサギとカメのどちらが勝つでしょう? おそらく同じ失敗を繰り返さない限り、ウサギが勝つのは明白です。しかし、そもそも不利なかけっこで、ハンデもなしに勝負を挑むカメはあまりにも無謀です。
 そこで第3レースを行ないます。今度は途中までのコースは同じですが、池の中に浮かぶ小島がゴールです。果たしてウサギとカメのどちらが勝つでしょうか? ちなみにウサギは水が大の苦手です。
 さて、真っ先に池に辿り着いたのはウサギ。しかし、水が苦手なウサギは途方に暮れています。そこへ後から遅れてやってきたカメ。カメは困っているウサギを背に乗せると、スイスイと泳いで池を渡っていきます。そして、ウサギとカメが仲良く手をつないでゴールイン! お互いの違いや個性を認め合い、活かすことで、みんなが幸せに暮らせるようになるはずです。

 無門関の第一則に見られる「把手共行」という禅語は、手をとって共に行くと読みます。自他が協力し合うだけでなく、自己に内在する仏(慈悲心)と一つになるということでもあります。
 もしも、カメが自分だけ泳いで渡ったとしたら? もしも、ウサギがラストスパートとばかりに抜け駆けしたら? おそらく、どちらも後世の笑い者になってしまうでしょうね。

…………………………

「兎と亀」

 今日は皆様方がよくご存知の話からちょっと考えさせていただきましたことをお話させていただきます。
日本の昔話に ”ウサギと亀”という話がございます。うさぎが亀にカケッコを申し込みまして亀さんは、やりたくなかったかどうか判りませんけれども申し出を受けてマラソンをやります。うさぎが途中ひる寝をしてしまい、亀さんが先にゴールインするという、あの有名な話ですけれどもこのような話は日本だけでなく、アフリカのカメルーンという国や、或いはロシアにもウサギと亀の話があるようでございます。
 日本のウサギと亀の話は、ウサギが安心してしまい。途中でひる寝して負けてしまうという油断大敵と、亀の遅くてもこつこつと努力をしていくことの大切さを私達に教えてくれていると思います。
 さて、これが、外国の話になりますと、カメがうさぎに競争を申し込み、日程や場所を取り決めて後日レースが始まります。ですが、そのレースが始まる前の1~2日余裕のあるうちに、カメは仲間、親戚に全部声をかけてそのレースをする一定のところにカメを全部配置させる。ヨーイ・ドンの合図で競争がはじまります。勿論、カメはのろいですから、うさぎに敵う訳がありませんので一定のところで代わる代わに入れ替わり、うさぎが振り返ると、後ろにぴったりついています。ということで。勝ったのはうさぎが勝ったのですが、うさぎは最後まで短距離ではありますが全速力で駆けていますからゴールした途端に死んでしまったと。ですから、日本の話は油断大敵ということを教えますが、この話は準備とか、知恵とか、連帯とかいうものをイメージする、そういう教えの話になっているそうでございます。

 こういう話というのは、寺にもいろんな法話の材料になる本がたくさんありますので、この話を元に調べてみますとやはりインドとか或いはロシアもそうですが要するに、この話をいたしますと、それはカメが悪いということになるそうです。 なぜ悪いのか、もしうさぎが寝ておったら何で起こしてやらないのか、これは友情も何にもないじゃないか、そのカメというのはとんでもないやつだ。とこうなる訳でありまして、では、果たして日本人に同じようにこの話をいたしました時に、どういう感覚をもたれるのかなあ...たとえば、うさぎのひる寝している奴が悪いのだ、起こしてあげる義務、ルールはないのだから起こさなくてもいいんじゃないかという考え方も出てくるのかなあと思います。 競争なのだから、一生懸命に走っているのだから、ひる寝して,油断大敵しているやつが悪いのだ 起こすことはないということになってしまう。となると、勝つためならなんでもいいというそんなエコノミック アニマル的感覚に、捉われすぎてしまうのかなあーと思います。

 敗者には、負者の痛みがあり 勝者の方にも勝った方の痛みというものも、出てくるのではなかろうか、負けた者は口惜しい、残念だというこういう気持ちが出てまいります。それ故に更に努力して、次回には、とこう云う気持ちにもなる訳です。その時 一番大切なのは,勝った方の 勝者の人の気持ちはどうなのかな。お前は勝負に負けたのだから、敗者だ 負け犬だ 何も云う資格はない黙っていろ と云うそんな驕り 昂ぶりとなった時には、勝者といえども、本来の人間性を失った言動、行動ではないのかな。勝った者が、負けた者に対するいたわりの気持ちを持ってこそでありますが、それが今申したように、ルールもない ひる寝していた奴が悪い、確かに悪いかも知れませんが、負けた者を罵るような勝者の気持ちというものを、我々はよくよくこのうさぎとカメの話の中に学ぶ必要があるのではないかと思います。 合掌  

…………………………

~カメがウサギを追いこしていたら~

ウサギとカメが競争して、途中寝込んでしまったウサギがカメに負けてしまうという話は、さまざまな受け取り方があるようですね。日本では「油断大敵」という教訓になっていますし、イソップ物語では、たとえ遅くても着実にやっておれば必ず成功するのだとの教えになっているようです。
随分前に、ある保母さんのレポートを読んだことがあります。その保母さんが園児に質問をしました。
「ウサギが居眠りをしているのを見たら、カメさんはウサギさんをおこしてやって、いっしょに山へ行こうって言ったらいいのにねえ?」
すると子どもたちの間からワーッと反対の声がおこりました。
「いやや! そんなんウサギおこしてやったら損や。ウサギの横をそおっと通って、先に行かんと損や、損や!」 
さて、ある女性が、ソビエトヘ旅行したときのことです。小さな小学校を訪ねる機会があり、日本の童話を聞かせて欲しいとせがまれました。とっさのことで、ウサギとカメの話をしたのでした。すると、次々に子どもたちの手が上がって質問ぜめにあったのです。
「なぜ、カメはウサギをおこさないのか!」
「眠っているウサギをおこさないで、勝つなんて本当の勝ちではないのでは……。」などです。
「うさぎをおこすのは損や!」という子どもも「おこさないで勝ったことは本当の勝ちではない!」という子どもも、それぞれに日常生活の中にその判断をさせる何かがあるように思えてなりません。
ウサギとカメの話は、現実の大人の社会にはよくある話。その大人のもとで育つ子どもたちは、思ったまま、見たままを言っているのかもしれません。

…………………………

精進 -仏教における努力とは-
東福寺住職  伊藤 弘陽

 がんばることは大切なことです。でも、がんばっても必ず結果が出るとは限りません。成績や結果ばかりにとらわれていては、大切なものを見落としてしまいます。昨今、学校の部活動やスポーツの世界における体罰が大きな社会問題となっています。これは現代社会における行き過ぎた「成果主義」が問題点としてあげられるのではないでしょうか。がんばること、努力することの意味を問い直してみましょう。
 みなさんは「ウサギとカメ」という昔話をご存知でしょうか。ウサギとカメが足の速さのことで言い争い、かけっこで競争するお話です。ウサギは生まれつき足が速いので、真剣に走らず、道からそれて居眠りをはじめてしまいます。カメは自分が遅いことを知っているので、休まず走り続け、ウサギが横になっているのを通り過ぎて勝利のゴールに到着しました。足の遅いカメでも努力を続けた結果、最後にはウサギに勝つことができた。才能よりも努力を続けることの大切さを説くお話でした。ところが成果主義の視点でいうと、「成果のない努力は価値のないもの」となってしまいかねません。
 なぜカメは勝てるはずのない勝負をウサギに挑んだのでしょうか。普通に競争したならば、カメがウサギに勝てる確率は万に一つもありません。ウサギが途中で居眠りすることも競争する前に予測はできません。もし仮に、私がカメの立場なら、自分の苦手なかけっこではなく、得意な泳ぎで勝負したことでしょう。それなら勝負に勝ってウサギを見返してやることは十分にできたはずです。しかし、カメは苦手なかけっこで勝負を挑んだのです。
 仏教に「精進(しょうじん)」という言葉があります。「仏道修行にはげむこと、一所懸命に努力すること」という意味です。他と比較して優劣をつけたり、勝ち負けに一喜一憂したりするのではなく、自分自身と向き合い、自分自身を見つめ、自分自身を高める努力を精進というのです。カメとウサギは同じ道を走ってはいましたが、他人との比較でしか自分自身を見つめられないウサギと、自分自身をまっすぐに見つめるカメの心の内には大きな隔たりがあったと思われます。
 お釈迦様の短い教えを集めた『法句経』の中に次のような一節があります。

  おのれをととのえ なすところ つねにつつしみあり
  かく おのれに克つは すべて他の人々に かてるにまさる
  (『法句経』104 友松円諦訳)

 カメが選んだのはウサギに「勝つ」のではなく、己に「克つ」ことなのかもしれません。自暴自棄になったり、逃げたりするのではなくただウサギと競争したい。そこには楽しささえ感じられるのではないでしょうか。仏教の「精進」を通じて「己に克つ」仏さまの心で歩んで参りましょう。

…………………………

  「ウサギとカメ」物語再考 =ウサギの名誉回復珍説=
  
常現寺住職 高山元延

 「さわやか説法」新春号は卯年にちなみ、かの有名な『イソップ物語』にある「ウサギとカメ」の寓話(ぐうわ)を、この高山和尚が仏教説話『ウソップ物語』「ウサギとカメ」に変じて、改めて再考し、ウサギさんの味方になって語ってみたい。
 なんたって、今年はウサギ年ですからね!!
 イソップさんには申し訳ないけど、カメさんに味方しないで、ウサギさんの名誉を回復させたいのである。
 イソップさんとは、紀元前六世紀頃の古代ギリシャの人。「イソップ物語」の作者で、その物語は動物や虫や鳥の寓話を中心にして語られ、現代においても幼児や子ども達に語り継がれ、絵本やアニメそして童話本として数多く出版されている。
 代表的な話では、「アリとキリギリス」「北風と太陽」「ありとハト」そして標題の「ウサギとカメ」とかがある。
 日本には、文禄二年(1593)イエズス会宣教師によって伝来され、江戸初期から「伊曾保物語」として出版されていたという。その当時から子供教育の書として親しまれていたというから、スゴイ物語なのである。
 それは、とりもなおさず、「寓話(ぐうわ)」という形式で、その内容が、いつの時代にもマッチした人間形成の教え、あるいは教訓が根底にあったからこそであろう。
 その中の「ウサギとカメ」の内容は、こうである。
  もしもし かめよ かめさんよ せかいのうちに おまえほど あゆみののろい ものはない どうして そんなにのろいのか ♪(石原和三郎作詞)と日本の童謡にも歌われているように、ウサギとカメが小山のふもとまでどちらが先に駆け着くか競争したのである。
 ウサギはピョンピョン跳ねての俊足であり、カメはノタノタの鈍足である。
 だから当然、ウサギが勝つということになるが、イソップさんは、俊足のウサギに途中で昼寝をさせてしまい、結果的に鈍足のカメが追越してゴールしてしまうという物語にしたのであった。
 ここでイソップさんは、我々に教訓するのだ。自分の能力を過信し、思い上がって油断をすると物事を逃してしまう。しかし着実に歩みを進め、一生懸命努力をすることによって、最終的には大きな成果を得ることが出来る。とのことである。
 だから、あなた達も怠ることなく、励みなさいとの教えであった。
―しかしながら―
 私は「イソップ」ならぬ「ウソップ和尚」となって(もとより、ほら吹き、嘘っぷ和尚ではあるが)、ウサギを弁護してみることにした。
 何たって、ウサギちゃんは可愛いし、仏教の物語では、我が身を火に投じてまでも、おじいさんを救わんとした思いやりのある動物だし、長横町では、その衣装を着て乾杯してニッコリ笑ってくれたし…。
 そしてまた、冒頭に述べた通り、今年は「卯年」だからである。

 イソップ版「ウサギとカメ」の教訓とする問題点は「ウサギの途中の昼寝」にある。
 もし、ウサギが昼寝をしなければ、カメより先にゴールしていたということになり、何ら物語として成立しないし、面白くも、おかしくも、教えともならない。
 このウサギの昼寝の状態をどう判断するかが、大きな問題点とするところだ。
 あれは、どうしても、ウサギさんは途中で昼寝しなければならなかったのだ。
 何故、昼寝しなければならなかったのか、それは、向こうの小山のふもとまでの「距離」にある。
 きっと近場の小山までではなく、ずうっと遠い遠いはるか向こうの小山のふもとだったに違いないと私は思った。
 ウサギは俊足ではあるが短距離走者であって、長距離は苦手である。ところがカメは、鈍足ながらも、スタミナは抜群であり、長距離走者向きであった。

 それに反し、ウサギの寿命は、せいぜい5~6年であり、持久力においては全然比較にならないのである。
 だから、あのウサギさんは疲れ果てて、途中でどうしても昼寝せざるをえなかった。
 かくして「亀は万年説」に立てば、あのカメさんは百才であろうが千才であろうが、まだまだ若者であって、かたやウサギさんは3,4才ならば早や中年、5才ともなれば、もう高齢者に属するのであって、鼻から、この勝負は目に見えていたと思わざるをえない。(私、ウソップ爺さんは、一生懸命ウサギさんを擁護してます)
 それをカメさんは、倒れているウサギさんを、介抱することもなく見て見ぬ振りをしてゴールしたのであろうか。ウサギは怠けて昼寝したのではない、倒れていたのかもしれないのだ。

 ひるがえって、近場の小山のふもとがゴールだったと仮定しよう。
 その時、火に我が身を投じてまでも、おじいさんを救わんとするぐらいの優しいウサギさんだからこそ、カメさんの歩みが、あんまりにも遅いものだから、気を使いゴール手前のところで待っていたのだ。でも、待ちくたびれて、ついつい眠ってしまったのかもしれない。
 そんなウサギさんの優しさを知らずに、しめしめとカメさんはゴールしたのである。
 はたまたウサギの目は赤い。きっとそれは前の日飲み過ぎて二日酔いか、あるいは泥酔騒ぎをしたかもしれないのだ。(あの海老蔵会見でも、目が充血していた。…)
(※またまた昨年に引き続きワイドショーの感化を受けてます)
 だから、どうしても次の日、身体(からだ)を休まざるをえなかったのである。

 ついつい「ウソップ和尚版ウサギとカメ」は、ウサギさん擁護の為、昼寝の状況を分析しているが、今度はカメさんの立場からも考えてみよう。
 あの時のウサギさんは、目線は競争相手のカメさんしか見ていなかったのである。
 それに反し、カメさんは、足の速いウサギさんを見ずに、遠くのゴールを見ていたのであった。
 つまり、カメさんは自分の足の速さを十分に認識していて、ともかくゴールすることだけを目指していたのである。
 だからこそ、ウサギさんが倒れてた(or昼寝)していたことに気づく余裕すらなかったことも確かなことだ。

 イソップさんのこの物語から考察できることは、人生に於いての「競争」とは、競争相手を見るか、目標であるゴールに視点を置くかのことを教えているのであろう。
 いわゆる「ウサギ目線」か「カメ目線」か、どちらの立場で競争し、勝負していきますかの問い掛けでもあったのだ!!
 案外、私達人間はカメ目線ではなくして、ウサギ目線の競争をしているようである。
(ちょっと、カメさんも擁護してしまいました……。)

―でもね―
 ウソップ和尚の仏教説話「ウサギとカメ」の結末は、こうなるのだ。
 あのウサギさんが途中、草むらで休んでいたのは、昼寝でも、倒れていたのでもなかった。
 実は「瞑想中(めいそうちゅう)」だったのである。お釈迦様と同じように、坐禅を組み、「禅定(ぜんじょう)」に入り、安らぎの世界にいたのである。
 ウサギさんは、ゴール目指してピョンピョン跳ねていたが、その途中で気がついたのである。「カメさんとの競争の無意味さを」
「カメさんの一生懸命なひた向きさ」を、ウサギさんは先刻御承知であった。歩みは遅くとも着実さを知っていた。
 だからこそ、そんなカメさんを急に愛らしく感じ始めていた。
 ウサギさんは、優しさに満ち、慈悲深いウサギの心に立ち返っていたのであった。
 カメさんがゴールして喜んでいる姿を自分の喜びとしようとした。
 ウサギさんの目線はカメさんの人柄(亀柄?)も立場も見ていたし、勿論ゴールも視線に入っていた。
 そればかりではなくウサギさんは、自分という「ウサギの心」も目線に入っていたのだ。
 だから、かのウサギさんは、自らあの草むらで休んでいたのである。
 以上、卯年に因み、ウサギさんの「心」を皆さんに知ってもらいたくて再考を論じてみましたが、かなり無理があり、珍説となってしましました。
 やはり、私は「イソップさん」には、かないません。「ウソップ和尚」であることに間違いないですね。

…………………………

即身成仏

布教師 吉田 勝弘

即身成仏とは、私たちがこの身(肉体)を持ちながらにして、仏に成ることを意味しています。つまり即身成仏とは、死んでからではなく、今生きているうちに、仏に成ります(成仏します)ということであります。

 私たち法華宗徒が、どんな時でも、いかなる場合でも、必ずお読みするお経に、妙法蓮華経如来壽量品第十六(お自我偈)があります。

 このお経の中に、『常住此説法(じょうじゅうしせっぽう) 我常住於此(がじょうじゅうおし) 以諸神通力(いしょじんづうりき) 令顛倒衆生(りょうてんどうしゅじょう) 雖近而不見(すいごんにふけん)』とあります。これを訓読しますと、「常(つね)に此(ここ)に住(じゅう)して法(ほう)を説(と)く、我(わ)れ常(つね)に此(ここ)に住(じゅう)すれども、諸(もろもろ)の神通力(じんづうりき)を以(もっ)て、顛倒(てんどう)の衆生(しゅじょう)をして、近(ちか)しといえども而(しか)も見(みえ)ざらしむ」と読みます。そして、その意味するところは、「常にこの娑婆世界にとどまって法を説き続けているのです。私(久遠の本仏・釈迦牟尼世尊)は、常にこの娑婆世界にとどまっているのですが、さまざまな神通の力によって、(心が)顛倒している衆生には、近くにいようとも見えないようにしているのです」というものであります。

 久遠の本仏であるお釈迦様が、私たちの目の前にお姿をあらわし、私たちの耳元で法を説かれているにもかかわらず、私たちにはそのお姿も見えないし、そのお声も聞こえません。そして、「その理由は、心が顛倒しているからですよ」と、お釈迦様は仰っています。心が顛倒しているから、考え方が真逆になっているから、せっかくお釈迦様がお出ましになり、法を説いてくださっているのに、私たちには“見えない・聞こえない”のであります。

 閑話休題。昔話の「兎と亀」です。兎はピョンピョンと走り、みるみるゴールに近づきますが、途中で油断して居眠りをします。この間に亀は先にゴールに着き、亀の勝ちとなります。
油断大敵。一歩一歩の努力の積み重ねが最後は勝利する。だから「油断するな、亀のように努力しなさい!亀のように生きなさい!」と私達は子供の頃に教わり、私達は子供に教えてきました。

 お釈迦様から見れば、この昔話は真逆になります。お釈迦様なら、“亀になってはいけない”と仰います。私達は「亀に成りなさい」と言い、お釈迦様は「亀に成ってはいけない」と仰います。

 なぜ亀に成ってはいけないのでしょうか?
「兎さん・目を覚ましてください!兎さん・起きてください!。私と一緒にゴールを目指しましょう!」と声が掛けられるのが菩薩であり、私が(私さえが)勝つためには、声を掛けずに黙って素通りしてしまうのが凡夫であります。だから、居眠りをしている兎の横を、黙って素通りしてしまう亀に成ってはいけないのです。私が(私さえが)という「我欲の凡夫」に成ってはいけないのであります。

 このように、お釈迦様から見ると、私達の心(考え方)は顛倒しているのであります。だから、私たちにはお釈迦様のお姿もお声も“見えない・聞こえない”のであります。この顛倒している心を正す特効薬が、色香美味のお題目(南無妙法蓮華経)であります。お題目を唱え続けることで、顛倒した凡夫の心を、正しい菩薩の心にすることができます。
正しい菩薩の心を持ったとき、私達はこの身を持って仏に成るのであります。その時、あなたの姿はお釈迦様のお姿と同じであり、あなたの声はお釈迦様のお声と同じなのであります。これを即身成仏と言います。菩薩になるため、命のある限り毎日毎日お題目を唱え続けましょう。

…………………………

 参加することに意義がある

法寿院 水崎圭二

 今年、2012年は、ロンドンオリンピックの年じゃった。日本も、よう頑張った!金メダル7個、銀メダル14個、銅メダル17個。合計38個ものメダルを獲得した。金も銀も銅もみんな、すばらしかった。銀は、金より良いと書くし、銅は金と同じと書く。メダルをとれたということ自体が、すごいことなんじゃんな。

 一番多くのメダルを獲得した国はアメリカじゃ。104個というずば抜けた数じゃ。それに次いで中国が88個。そして、イギリスの65個と続く。まぁイギリスは、開催国としての意地じゃな。ホームでの力強い後押しのおかげじゃろうて。ここで、考えてみたいことは、人口との比較。つまり、各国の人口の比較とメダルの数がどうなんだろうということじゃ。人口でいえば、第一位は、中国。2011年の国連の人口推計では、中国は、13億5000万人。第二位が、インド。12億2000万人。そして、アメリカの3億1000万人とつづく。人口でいえば、中国、インド、アメリカの順でメダルの獲得数があって不思議はないのだが、前記のような順になっておる。中国は、順当なところかもしれぬ。アメリカは、負けず嫌いの国民性が如実に表れておるのう。さて、問題は、インドじゃ。世界第二位の人口を要しながらメダル獲得数でいえば、55位。金0、銀2、銅4という結果じゃ。このていたらくというと失礼にあたるかもしれんが、もっと獲得してなんの不思議もないと思うのは私だけだろうか。そこで、いろいろと考えてみた。

 インドでのイソップ童話の「ウサギとカメ」の話。内容は、日本とまったく同じじゃ。競争するウサギとカメ。途中で寝込んだウサギを追い越してカメが勝つという話。過信して思い上がり、油断すると失敗してしまう。歩みが遅くとも脇道にそれずこつこつとまっすぐに進むことが大きな成果を生むという教訓じゃ。じゃが、この教訓は、日本のものじゃ。インドではな、このカメほど悪いカメはいないとされている。途中で寝込んでいるウサギを知らぬふりで追い越していくということは、勝つためにはなんでもしてしまうという恐ろしい行為だというのじゃ。ウサギは、もしかしたら事故に遭ったのかもしれぬ、病気で寝込んでいたのかもしれぬ、その横を声もかけずに平気で通り越してしまった。こんな身勝手な血も涙もない冷酷なカメは、ひどい!というのじゃな。まあ勝ち負けにこだわらない性格が、子供の時より培われていたのなら、オリンピックのこの成績もなんとなくは理解できるのう。ある運動会で、インド人の親子が話しておった。リレーでころんでしまった子供を平気で抜いてしまうようなことは、私たちはしない。相手チームの子供が走るのをやめても手を貸してあげて、大丈夫?って云うよ。なるほど。さすがお釈迦様がお生まれになった国じゃわい。しかし、インドではクリケットというスポーツの人気はすごくて、ほぼ一日かけて一試合を行うんじゃが、その中継が一日中テレビで流れているし、勝った負けたの応援もそれはすごいと聞くのう・・・やはりそれぞれお国柄は違うということじゃのう。

 日本は、人口では世界第一〇位。メダル数は一一位。ちょうどよろしい!そして、たくさんの感動をありがとう!

…………………………

どこ見とんじゃ、バカヤロー

春秋 10/15

「ボール」の判定に「どこ見とんじゃ、バカヤロー」とロッテの金田正一監督。「退場!」と山崎夏生球審。26年前のこと。その日が誕生日だった球審の妻はワインと料理を用意しながら帰宅を待ち、テレビのスイッチを入れたら夫が怒鳴られたので仰天した。

プロ野球の世界は選手も大変だが審判員もつらい。何とか定年まで務めた山崎さんは、2010年の最終戦で「ありがとう」の横断幕を観客席に見て、ウルルとなった。

自著「プロ野球審判 ジャッジの舞台裏」(北海道新聞社刊)から拾った。引退後は審判技術委員として若手を育成している。

新潟の高校、北海道の大学で野球をし、会社員時代に一念発起、勉強し直して審判員になった山崎さんは、若手審判員からいろいろ相談も受ける。先日の北海道新聞に次のような話を書いていた。

昨秋、若手が「あと1試合の出場を」と懇願してきた。その人は次季の契約は更新しないと告げられていた。公式戦後の練習試合で願いがかなった彼は、家族を呼び寄せ、仲間に塁審をしてもらって球審を務めた。試合後みんなの胸の中で泣いた。今は故郷で別の道を歩み始めたという。

55歳の定年まで審判員でいられる人は「実は半分ほどしかいない」と山崎さん。2軍での修業生活は厳しくて長い。1軍に上がった後、健康問題や心労で辞めていく人もいる。公表はされず、ひっそりと球界から離れるそうだ。

…………………………

20171015124409d29.jpeg


 天の声も絶賛した「ジャッジの舞台裏」


 腐ってもタイ、地に堕ちても天声人語。これって褒め言葉です。4月30日にジュンク堂に行ったら、前に並んでいたおじさんが天声人語の切り抜きを広げて「これありますか」。同じ本だ~道新ブックの「プロ野球審判 ジャッジの舞台裏」(山崎夏生著)です。ずいぶん岡ちゃん似だなと思ったら、表紙左上の小さな写真が山崎さんでした。

 道新ブックはおもろいから、あちこちの新聞で紹介されます。でも、朝日の「天声人語」に載るのはオリンピックより難しい。私は約3年間、出版局にいましたが、記憶にないですね。

 月末恒例「4月の言葉から」の1フレーズです。

 ▼北海道大の野球部OB、山崎夏生さん(56)が「プロ野球審判 ジャッジの舞台裏」(北海道新聞社刊=とは書いてなかった)を出版した。審判人生の原点は補欠体験だったと振り返り、「補欠だったからこそ頑張り続けることができた。補欠は人生の必修科目」と書いた。宣告した退場17回は歴代1位という▼・・・

 朝日の読書欄に半五段のやや大きめな全国広告を出したことがあります。2008年の「田中将大-ヒーローのすべて」(黒田伸著)です。7割引の破格といっても150万円でした。

 賛否両論。勢いのある時に打って出るべきだという積極論と、どれだけ売れるかは未知数という慎重論が交錯しました。売れ行きが好調だったので、思い切って出しました。結局、4刷り3万3千部出して、広告費の数倍の利益を上げました。最大の効果は局内が急に騒がしくなり、活気にあふれたことでしょうか。

 本は水ものです。それこそジャッジが難しい。だから意外なところで記事になると大喜びでした。この「天声人語」で100冊は固いと読みました。

<誤審見っけ@_@;)>①カウント0-2でやや高めのストレートはボールくさい②嶋捕手はす早くグラブを30センチ下げてど真ん中に③球審は「ストラック・バッターアウト」。高いじゃんとガックリの小谷野選手=4月30日、日ハム-楽天戦3回表~ビデオで再現

 横浜のササキは大魔神、審判のヤマザキは大ゴシンだったそうです。誤審だから、監督がカッカする。1軍の審判に上がって退場の初宣言は1991年、ロッテ監督のカネやんでした。ボール判定に口角泡を飛ばして「どこ見とんじゃ、バカヤロー」。山崎球審は即「タイジョー」。

 後日、カネやんが謝ったそうです。「バカヤローって言ってすまんかったのぉ。ヘタクソって言えばよかったな」と。(「歴代1位の退場物語」から)

 誤審が続くと2軍落ちです。でも大ゴシンはめげなかった。2軍球場に一番乗りして黙々とトレーニングに励み、見事カムバックを果たしました。

 日ハムの野球中継は半分くらいは最後まで見ます(勝っている時)。だから動態視力が鍛えられます。

 誤審がやたらと目に付きます。きのうの1塁・塁審もひどかった。TVだとビデオで再現するから、「ああ、やっぱり」となります。イナバさんだとボールなのが、まだまだ格下のナカタ君だとストライクになるシーンもよく見ます。

 でも「舞台裏」の審判の苦労を知って、ちょっこし同情しました。厳正なジャッジに向けて、ひたすら体と心を鍛える姿はカンドーものです。

 人間のやることだから誤りはあります。大相撲でもビデオ判定をやる時代です。プロ野球もホームランの判定から、さらに拡大すべきでしょうね。

 1球1球やっていたら、試合時間が6時間を超すでしょう。とりあえず、ホームベースのきわどい判定はビデオを導入した方がいいと思う。要は正しい判定で公平な試合をやることです。

…………………………

20171016042158159.jpeg

パ・リーグ一筋29年、歴代1位17回の退場宣告をしたベテランが明かす〝もう一つの激闘〟元プロ野球審判が告白
「乱闘寸前ジャッジの舞台裏」

 これは、プロ野球の名選手のプロフィールではない。歴代1位の17回にのぼる退場宣告をしたパ・リーグの審判、山崎夏生氏(56)の経歴だ。山崎氏は、選手や監督と判定をめぐって衝突したり、ファンからのヤジに耐えた現役時代を綴った『プロ野球審判 ジャッジの舞台裏』(北海道新聞社)を3月10日に出版した。名プレイヤーとの、思い出を振り返り、

「長年見ていて、一流になるのは図太く自分の思いを貫ける選手です」
 そう言って山崎氏がまず名前を挙げたのは、近鉄のエースとして活躍し、ドジャースに移籍した野茂英雄(43)である。
「彼は審判にまったく興味を持っていませんでした。通常の投手はボールと判定されれば、横に外れたのか高すぎたのかストライクゾーンが気になるものです。しかし野茂は、そんなことお構いなしにドンドン投げ込んでくる。彼は’95年にメジャーリーグへ移籍しますが、ある時、日本と米国のストライクゾーンの違いについて尋ねたことがあります。すると野茂は『う~ん』としばらく考えてから、『気にしたことないですね』と答えるんです。彼にとって、審判の判定などどうでもよい。自分の納得のいく球が投げられればそれで良かったのでしょう」
 野茂のストレートは「バズーカ砲のように重みがあり、フォークは30㎝も落差があって目の前から消えた」と山崎氏は語る。捕手の後ろにいても恐怖心が湧くほどの球威で、試合前のメンバー表に「先発・野茂」と書かれてあると審判たちは一様にため息をついたという。

 巨人で173勝を挙げた桑田真澄(43)も、信念を曲げない投手だった。
「彼が新人の、’86年5月のことです。当時の桑田はまだ二軍で、その日は群馬の高崎城南球場での西武戦に先発し、完封勝ちを収めていました。試合後、私たちが翌日行われる長野の軽井沢でのゲームに備え移動の準備をしていると、桑田が氷で満たされたバケツを持って審判室に入ってきた。地方球場ですから、他に適当な場所がなかったのでしょう。
『すいません、ちょっとここでアイシングさせてください』と言って、部屋の隅で火照った右ヒジを冷やし始めたんです」
 すると巨人のスタッフが、血相を変えて審判室に飛び込んできた。
「スタッフは部屋に入るなり『こらっ。何をやってるんだ。さっさとバスに乗れ!』と桑田を叱りつけます。当時の高卒のルーキーは、試合が終われば汗まみれのまま着替えもせず、ボールやバット、先輩の荷物をバスに積み込み、一番後ろの席で待機するのが常識です。桑田はそんな慣例など無視して、飄々とこう答えていました。
『どうぞ先に行ってください。僕は後からタクシーで追っかけますから』と。彼にとっては先輩の荷物を運ぶことよりも、百数十球投げて疲労した右ヒジを冷やすことのほうが大事だったんです。18歳にして、このプロ根性には恐れ入りました。桑田が一軍に昇格したのは、この1週間後のことです」

 打者ではロッテで三冠王を3度獲得した落合博満(58)の練習法も、山崎氏を驚かせた。’91年までロッテの本拠地だった、川崎球場の打撃練習でのことである。
「私は早く出かけて試合前に打撃ゲージに入り、ボールに目を慣らしていました。落合さんはゲージに入ると、驚くことに彼を目がけて投手にボールを投げさせるんです。しかも落合さんは、いとも簡単に腰を回転させバットの芯で打ち返している。それが終わると、わざとファウルだけを打ち続ける練習もしていました。ヒットにできない球はファウルにし、好球を待つトレーニングだそうです」

 判定をめぐっては、多くの監督とも揉めた。ダイエーの根本陸夫やオリックスの仰木彬(いずれも故人)など、多くの監督に退場宣告し乱闘寸前までいった。山崎氏が一軍で初めて退場させたのは、ロッテの金田正一監督(78)だという。

「’91年5月の日本ハム戦でのことです。試合終盤のもつれた場面で、球審の私は日ハムの打者にボールの判定をしました。すると三塁側ベンチから飛び出した金田さんが、いきなり『どこ見とんじゃバカヤロー!』と私を怒鳴りつけたんです。私も利口ではないが、他人に言われる筋合いはない。カッとなって『退場!』と叫びました。その後もしばらく打席付近で金田さんと怒鳴り合いとなりましたが、後日談があります。再び球場で金田さんと会ったのですが、こう言われたんです。『お前、大学(北海道大)を出てるんだったな。そりゃバカヤローって言ったのはすまんかったのお。ヘタクソ!って言えば良かったな』と。金田さん独特の、暴言すれすれの冗談でしょう」

 山崎氏が「重大なミス」と悔やむのが、’00年6月に東京ドームで行われた日ハム対ロッテの試合での判定である。
「6回を終わって10対3と、日ハムがリードしていました。事件は7回表に起きます。二死一、二塁でロッテの大塚明(36)が、レフトのポール際に大飛球を放ったのです。三塁の塁審をしていた私からは、打球がポールをかすめてレフトの観客席に入り、そこで跳ねてライン際に落ちたように見えました。判定は本塁打。自信を持って右手を大きく回しました」

 しかし日ハムの当時の監督・大島康徳(61)は、一塁側ベンチを飛び出して「違うだろ」と山崎氏に詰め寄る。この抗議は23分間に及び、山崎氏は大島監督に遅延行為による退場を言い渡した。日ハムファンからは「山崎、ふざけるな!」と罵声が飛び、場内放送がかき消されるほどだったという。日ハムは結局12対7で逃げ切ったが、疲れ果てて帰宅した山崎氏はテレビをつけて衝撃の事実を知る。
「スポーツニュースを見て愕然としました。本塁打と判定した打球は、ポールの50cmほど左側を通っていたのです。明らかに私のミスジャッジ。パ・リーグの連盟にも『あんな審判は辞めさせろ!』と、抗議の電話が殺到します。私は翌日も同じカードで球審をしなければなりませんでしたが、悔しさで一睡もできず、試合前は軽食も喉を通りませんでした」

 試合が始まると、場内のファンからは「帰れ、山崎!」のコールが連呼される。
「まさに針のムシロです。連盟からは『この試合で何かあったらかばいきれない』と言われていましたが、『逃げたらおしまいだ』と自分を鼓舞してボールに立ち向かいました。幸い無事に試合を終え帰宅すると、珍しく居間のテレビの前に普段は野球に関心のない息子たちがいます。彼らは私のただならぬ雰囲気に不安を感じ、『親父、頑張れ!』と祈りながら試合中継を見ていたそうです。妻からも『お疲れさまでした』と声をかけられると、私は張り詰めていた糸が切れ大声で泣いていました。審判とは重圧のかかる仕事です。トラブルに見舞われ、体調を崩したり、途中で辞める人も多くいるのです」

 現在でも後進の指導のために、球場に足を運ぶ山崎氏。今季のプロ野球では、どんなドラマが生まれるだろう。

「フライデー」2012年4月13日号より


 

新聞週間

雪どけ水はつめたくて

歌:NSP
作詞:天野滋 作曲:天野滋

雪どけ水は冷たくて つかっているのはつらいけど
きみがひざまでつかってるので
ボクもがまんしてるんだ

でもボクはとても ひざまでは
はいるきもちになれなくて
きみのあとをおうのは なかなかできない

※おくびょうなボクは
小説の主人公みたいになれないで
きみをさらっていけやしない
さらってゆけない※

そして木片をひろってきては
たきびをつくっているんだ
はやくあがってこないかと
おもっているのに

(※くり返し)





…………………………

風土計 10/15

フォークグループNSPの初期を代表する曲「雪どけ水はつめたくて」は、新聞配達がきっかけとなって生まれたらしい。作詞・作曲した一関市出身の故天野滋さんがエッセーにつづっている。

一関高専1年だった天野さんは、通学のために自転車を買い、せっかく自転車があるのだからと一念発起。新聞配達のアルバイトを始めた。最初は近所だけだったのが、そのうち20分もかかる街はずれまで担当するようになった。

一軒一軒、新聞を配りながら「この家はまだ寝ている」「ここはもう起きている」と推測する。そのうち、その家の仕事が分かったりすると、自分が街の主になったようで悪い気持ちではなかった-という。

春先のあぜ道には苦労したようだ。解けかかった雪でぬかるみができ、タイヤがとられる。指がかじかみ新聞を落としたり、ブレーキが利かず田んぼに突っ込んだことも。おかげで学校に遅刻したこともあった。

そんな季節に釣山公園のあずまやから見下ろす磐井川の美しさ。氷が解けて、透明な水が音をたてて川に注ぐ。神々しい景色が創作意欲をかきたてたのだろう。

きょうから新聞週間。「新聞配達の日」でもある。戸別配達制度は新聞と読者を結ぶ根幹であり多くの人に支えられている。たまには早起きして、届けてくれる人に「ご苦労さま」と声をかけようか。

悪魔の代弁者

中日春秋 10/15

「悪魔の代弁者」と聞けば、ほとんどの人は論戦に勝利するためならば、どんな汚い手も辞さぬ底意地の悪い人物を思い浮かべるだろうが、さにあらず。悪魔という名とは裏腹に、その代弁者の役割は大切である。

ディベート(討論)などで、議論を深めるため、あえて多数派の意見に逆らい、反論する人をいう。元はローマ・カトリックの宗教用語。ある人物を「聖人」として認めるかどうかの審査会で、あえて、その人物がふさわしくないという立場から意見や論拠を述べる「検事」のことをそう呼んだそうだ。

なるほど、なにごとにおいても、吟味を尽くし、判断するためには意地の悪い悪魔やつむじ曲がりの「天(あま)の邪鬼(じゃく)」の目は必要であろう。

総選挙の投票日がいよいよ迫ってきた。おそらく、今のわれわれに求められているのは「悪魔の代弁者」になることではないだろうか。心に決めた党や候補が既にいらっしゃるかもしれぬが、人の良い目や優しい耳ではなく、アラを探す目と疑り深い耳で、その主張をもう一度、聞き直し点検したい。

事前の世論調査の結果によって、各党の予測議席などが報道されているが、現段階での傾向にすぎぬ。悪魔は流されることも同調することもなく、「それで本当に大丈夫なのかね」としつこく問い続けるはずである。

大切な一票である。こと選挙に限っては悪魔は有権者の友である。

…………………………

ここが変だよ 日本人-悪魔の代弁人がいる議論の風景

西部直樹(N&Sラーニング代表/研修講師

悪魔の代弁人

「悪魔の代弁人」英語でdevil's advocateと言います。
悪魔の代弁人とは、(議論を面白くするために)あえて反論を唱える人 (プログレッシブ英和辞典)のことです。
議論をしていると、時として膠着状態に陥ってしまったり、水掛け論が続いてしまったりすることがあります。
もし、その場に「悪魔の代弁人」がいれば、それまでの議論とは違う視点が提示されたり、新たな基準が持ち出されたり、あるいは論理の矛盾を指摘されたりして、議論はより深まってゆきます。
「悪魔の代弁人」の機能を、討論TV番組「ここが変だよ、日本人」から見てみようと思います。

悪魔の代弁人の弁「殺人者の小説は殺人者しか書けないことになる」
ある事柄についてだけ当てはまる論理は、その特定の事柄だけを見ていると、見事に物事を説明し、説得力があるように思えます。
しかし、その説得力はその事柄だけのことで、普遍性をもたず、ただの言い訳でしかないことがあります。
悪魔の代弁人は、時に「あなたの論理で行くと、こうなりますね」と、その誤謬を指摘してきます。
「ここが変だよ、日本人」では、毎回テーマに沿って日本在住の外国人と日本人の間で議論が戦わされます。
時には、そのテーマとなっている当事者をスタジオに招いて、外国人・日本人・当事者間の三つ巴の議論も行われます。
「風俗につとめる女子大生」というテーマの回のことです。
SMクラブに勤める女子大生が、なぜそのようなところに勤めるのか、その訳をこのように説明していました。
「私は作家になりたいんで、今やっていることって絶対プラスになるじゃないですか。
うちは山田詠美さんが書いた小説とか村上龍さんが書いた小説よりも、もっと生々しいSM小説とか書いてみたいですし、それなら自分で飛び込んでM嬢も女王様もやって、はじめて自分の中で消化してから書けるものだと思いますし、そういうのって普通に学生やっていて、社会人やっていてできないじゃないですか」
この女子大生は、小説を書くためには、そのテーマに合った体験を経なければならない、と説明をしています。
この説明に対して、ビートたけしは次のように返していきます。
「でも、殺人者の小説、殺人者しか書けないことになる」
その論理を他のことに当てはめると成り立たないことで、論理の誤謬を端的に指摘しています。
論理が破綻した彼女は、その後勤めている本当の理由を正直に話していました。

あなたも「悪魔の代弁人」に
議論が暗礁に乗り上げたり、あるいは一人で考えているときに煮詰まったりしたら、「悪魔の代弁人」を呼びましょう。
ビートたけしを呼ぶことはできませんが、「悪魔の代弁人」になるのは、簡単です。
幾つかのキーワードを元に考えてみればいいのです。
例えば、
反対から考えてみたら
他のことに当てはめてみたら
なぜ、そうなるの
すると、どうなるの  ・・・etc
ただし、他の人と議論をしているときには、断りを言ってから使いましょう。
「議論を深めるために、あえて異を唱えてみます」
そうしないと、ただの「嫌な人」になってしまいます。ご注意下さい。

…………………………

ディベート

…………………………

ディベートとは? 

議論の練習のためのゲームです。

普通に行われている議論とは異なり、議論の練習のために、ある意味「窮屈な」決めごとがあります。主に5つのことが挙げられます。

1 1つの論題について話し合う

 議論をするテーマが「~は、…すべきだ」という形で決められています。普段学校の授業やホームルームで行われる討論・話し合いでは「~について」という形で、もっと大雑把にテーマが投げかけられることが多いものです。これだと、たしかに議論の広がりはあるでしょうが、それぞれが思い思いに言いたいことを述べただけで終わりがちです。「今日はいろいろとみんなが意見を言ってくれたね。大変活発でいい話し合いができたと思うよ。」なんて先生がまとめて終わっても、さて、ではいったい何が話し合われ、どんなふうにお互いの考えていることを検討しあって、どんな結論が提出されたのかがわからない、といったことになってしまいます。あるいは、声の大きいものが「これは~だ」と言ったことが誰からも反論されずに、そのまま通ってしまう、といったこともあるでしょう。  話し合うテーマが 「~は、…すべきだ」という形(命題と言います。判断を言語化したものです。)で示されていれば、議論は「すべきか、すべきでないか」という判断の妥当性の点に集約されます。限られた時間でかみ合った議論をするためには、このように1つの論題(命題)について話し合う、ということが必要なのです。

2 肯定側否定側に機械的に分けられる

 2つめは、肯定側、否定側に別れることです。パネルディスカッションのように、中間派といったものは置きません。そして練習のためですから、「その論題について賛成の立場か、反対の立場か」ということはいったん棚に上げて、肯定側からも否定側からも議論をすることになります。「自分は陪審制度は導入する必要があるから、肯定側の立場しかできない」といったことは認められないことになります。しかし、自分の考え方と議論の立場がかならずしも一致しないということは、実は大切なことです。2つ理由があります。

 第1の理由は、「人と議論を分ける」ということによって冷静な議論を行えるようになるということです。  たとえば、「朝まで生テレビ」なんて銘打って、激しく議論を行う番組がありますね。あれを見ていると、議論が白熱するのはいいんだけれど、時として「だいたいあんたみたいな思想の持ち主は、いつもそういう決め付け方をするんだ」とか、議論の内容より、個人の人格攻撃なんかになってしまったりすることがあります。私たちの普段の生活の中でも、自分が思っていることを、相手から頭ごなしに否定されたりすると、なんだか自分という人格が否定されたような気になったりすることもありますよね。ですから、あまり篤くならず、冷静に議論を進めるには「人と議論を分ける」ということが大切なことなのです。

 第2の理由は、自分の意見を客観的にみつめ直し、より深い考えを持つことができるようになるということです。  普段、自分が正しいと思っていることって、なぜそれが正しいのか、なんて考えたりしません。「正しいから正しい」、まあ無理に理屈をつけようとすると、そんな堂々巡りになってしまうものです。  ところが、ディベートで、あえて自分の意見と反対の立場に立って、自分の意見に反論を加えてみると、自分の考え方の偏りとか、底の浅さに気づかされます。自分の考えだと思っていたものが、案外他人からの受け売りだったり、新聞やテレビの解説で聞きかじったものを、そのまま鵜呑みにしていたなんてことも結構あるんですね。  弁証法ではないですが、肯定側・否定側両面から検討し直すことで、意見は代わらなくても、以前よりも自分の意見をより深く、よりはっきりしたものとしてとらえることができるようになります。

3 一定のルールに従う

 議論の練習ですから、いろいろなルールが決められています。  たとえば、肯定側から議論が始まって、途中順番を入れ替えて最後はまた肯定側で終えるようにするとか、発言の順番や時間がはっきりと決められていて、相手の議論の途中で口をはさむことは許されないとか、前半戦で争点となる議論はすべて提出しなくてはならず、後半戦で新たな議論を提出しても評価してもらえないとか。  こうしたルールの一つ一つは普段の話し合いに比べると、実に窮屈に感じられます。しかし、こうしたルールはすべて、「かみ合った議論を行う」という目的のために必要なのです。

4 証明された議論を戦わせる

 ディベートでは、かならず主張に根拠をつけることが要求されます。「あの人はうそつきだ」といった個人的な感想をいくら述べても、ディベートでは評価してもらえません。「私の意見はこうだ。なぜならこれこれのりゆうからだ。」このような主張と根拠を1セットとしたものが「証明された議論」となります。相手は主張と根拠との間にズレや矛盾はないか、を検証し、おかしいと判断したところをさらに根拠を示して反論してきます。こうした応酬を繰り返し、どちらの議論のほうがより説得力があるかを競い合うわけです。

5 審判によって判定が下される

 ゲームですから、勝敗がつけられます。勝敗は相手を言い負かすことによってではなく、第三者である審判を説得するという形で争われます。審判は肯定側・否定側それぞれの議論の証明具合を判断し、より説得力のある方を勝ちと判定します。  またゲームの勝敗は意志決定とはなんら関わりを持ちません。たとえば、日弁連主催で行われた「陪審DEディベート」では、「日本の刑事裁判に陪審制を導入する-是か非か」という論題でディベートが行われました。結果は否定側の勝ちでした。しかし、だからといって日弁連が今まで行ってきた陪審制導入を訴えるのをやめるということにはなりません。  こうした点も、冷静に議論の練習を行うために、有効な手立てと言ってよいでしょう。

…………………………

ディベート授業あれこれ

(1)ディベート授業の多様性

ディベート授業には様々な型のディベートがありえる。

現在、日本の学校で一番普及しているディベートは「ディベート甲子園」が採用する「メリット・デメリット比較方式」だろう。しかし教室で行うディベート授業は目的に応じて様々なタイプの報告がある。たとえば魚住忠久編著『ディベート学習の考え方・進め方』(黎明書房)である。この本には「サンタクロースはいるの」(小2・道徳)のような素朴なタイプから「日本は陪審裁判制度を復活すべし」(中3・社会)のような本格的なタイプまである。

(2)ディベート授業を工夫するための五つのポイント

ディベートというと、細かなルールがたくさんあって、ちょっと堅苦しいイメージが強い。しかし、とくに準備なしでも、楽しく、論理的な「話し合い」の授業が工夫できる。

1)「対立」が基本である。
ディベート型の話し合いの基本は「対立」である。
 たとえばアメリカなどで「ディベートしよう」という場合、一般的には「二者択一の討論」というくらいの意味で使われる。
 つまり「対立」を明示した話し合いが基本である。
2)「論題」の設定がポイントである。
対立型の話し合いをするには「論題」が大事である。
 たとえばディスカッションのテーマは単に問題領域を示すだけで参加者に「肯定・否定」のような立場の強制をしない。「日本のディベート授業」のようなテーマである。これに対してディベートでは「日本はディベート授業を推進すべし」のような論題を設定する。論題によって「肯定・否定」の二つの立場を明確にする。
3)フォーマットは「時間・順序」を公平に設計する。
もっとも単純な進行形式(フォーマット)は次の通りである。
 肯定側立論 2分
 否定側質疑 2分
 否定側立論 2分
 肯定側質疑 2分
 準備時間  3分
 否定側反駁 2分
 肯定側反駁 2分
 フォーマット作成の原則は「肯定スピーチで始まって肯定スピーチで終わる」「両チームの持ち時間を均等にする」の二点である。肯定・否定双方の「時間・順序」が公平になるとよい。準備時間はステージとステージの間にとる。ちなみにスピーチの種類は「立論」「反駁」の二つが必須である。「質疑」(反対尋問)はディベートのタイプによって入れる場合と入れない場合がある。
4)発言ルールには様々な工夫の余地がある。
競技では「発言者の数・スピーチ時間」を厳密に決める。しかしディベート授業の場合は「発言ルール」を様々に工夫することができる。たとえば、「持ち時間中、メンバーは何人でも自由に立って発言してよい」というルールは十分にありえる。

 前述の『ディベート学習の考え方・進め方』にはアメリカの中学・社会科で実践されたディベート授業が紹介されている。ディベートの流れは「立論・質疑・反駁」と基本に忠実である。ただし「懐疑的批判者」という「肯定・否定・審判」以外の役目の者を登場させる。「懐疑的批判者」は肯定・否定双方に鋭い質問をすることで「肯定・否定双方の議論の誤りを探す」役目を担当する。
5)判定方法に関しては様々ある。
判定の原則は奇数人の審判が投票で実施する。
 しかしディベート授業では参観者が手をあげて勝敗を決める場合もある。判定基準はその場で設定することもできる。
 全く判定なしで感想交換のみの場合もある。
 

(3)実践記録による検証の重要性

ディベート授業では実践記録が大事である。

これまで日本ではディベートは非常に効果の高い教授方法として鳴り物入りで導入をされた側面があった。そのため教師の思いと簡単な指導法の記述のみで子どもたちの変容が十分に語られてこなかった。授業タイプとの関係で変容がもっと語られるとよい。

ディベートの「基本構造」を踏まえた上でディベート授業のどの部分が子どもを変えたのか。指導力点はどこか。それによって子どもはどう変わったのか。因果関係を明示するとよい。

実践記録の工夫が待たれるところである。

いろいろな動物の乳 ~世界のミルク~

いろいろな動物の乳 ~世界のミルク~


■市場で売られている乳
当然ですが、哺乳類の動物であれば乳が採れます。
しかし、一般の市場に回るためには条件があります。

1.おいしいこと
  売れなければ、商用には向きません。
  希少性のあるものなら多少まずくても売れる可能性はあります。

2.値段を安く設定できること
  採れる量と手間を考えて、採算が合わないと
  ビジネスになりません。
  製造コストが高いと、どうしても商品の値段が
  高くなってしまい、売れなくなります。

3.ある程度の量を供給できること
  量が少ししか採れなくて珍しいものは、一般市場には
  まず出てきません。市場に回るくらいの余裕が必要です。
  また、継続してその量を確保できるかどうかも重要です。

■一般に入手できそうな乳
では、一般に手に入りそうなミルクを示していきます。

・牛乳
  ホルスタイン種
    あの白黒のパンダカラーの牛。日本で一番メジャー。
    無脂乳固形分8.5%、乳脂肪分3.5%くらい。
  ジャージー種
    英仏海峡のジャージー島が原産。
    日本でもジャージー牛乳が流通しているが、それほど数は多くないです。
    無脂乳固形分9.0%以上、乳脂肪分5.0%以上とホルスタインに比べて濃厚なのが特徴。
    濃厚なため色も黄色がかっています。脂肪球が大きく、バターを作るのに最適です。
  ガンジー種
    英仏海峡のガンジー島が原産。
    乳質はジャージー種と同じくらい。日本でも少し流通しています。

・水牛乳
  スイギュウ(水牛、バッファロー)の乳。
  牛乳より淡白で低脂肪。主に、スイギュウを家畜として飼う
  南アジア等で飲用されているようです。
  中国やフィリピンで普通にお店で売られているという情報があります。


・ヤク乳
  ヤクの乳。ヤクはネパールやチベット、モンゴルなどの高山地帯で飼われる家畜。
  ヤク乳が普通にお店で売られているものかどうかはわかりませんが、
  現地に行ったときには飲める可能性があります。元ねたはこちら
  現地の人に聞いてみるのが一番よさそうです。
  やはり寒いところを好む動物なだけに、乳脂肪分はかなり濃い模様。
  

・山羊乳
  ヤギの乳。主にヨーロッパで飲用され、ヤギ乳から作られるチーズも多い。
  無脂乳固形分8.0%以上、乳脂肪分3.5%以上と、牛乳に比べ無脂乳固形分が
  若干少なめ。

  
・羊乳
  ヒツジの乳。
  無脂乳固形分10.0%以上、乳脂肪分6.0%以上と、かなり濃厚。

  

・馬乳
  ウマの乳。モンゴルではけっこう飲まれているようです。
  モンゴル土産として「馬乳酒」というものがあり、馬が一般的な家畜の
  モンゴルならではの土産といえましょう。
  日本でも馬乳酒は購入できる可能性はあります。
  実際、モンゴル料理店で馬乳酒を置いているところもあります。
  しかし、生の馬乳はやはり現地にいかなければ手に入らないと思います。
  モンゴルに行くなら、馬乳は要チェックです!


・ラクダ乳
  ラクダの乳。中東のラクダのいる地方で飲用にされています。
  ラクダの体型から牛乳より高脂肪かと思ったら、逆に低脂肪とのこと。元ねたはこちら
  それほどクセもなくおいしく飲めるそうです。普通にスーパーとかで買えるらしいので、
  ドバイとかに行ったときはぜひ忘れずにご賞味ください!


■一般には手に入らない乳
今のところ入手できそうなのは上に書いたものくらいですが、
付随的な調査結果について書いておきます。

・豚乳
  なぜ豚乳はないのか?
  結論から言えば、採れる量が牛乳に比べてはるかに少なく、
  売るためにはかなりコストをかけないといけないというのが理由です。
  味はおいしいらしい。

・鹿乳
  鹿肉は売られているものの、鹿は家畜化されておらず、
  定期的に乳を生産することができないのだと思われます。
  ただし、家畜化の試みはあり、もしかしたら将来鹿のミルクが
  飲めるようになるかもしれません。
 
・象乳
  これは筆者が考えただけで、まったく根拠はありません。
  東南アジアでは象は一般的であり、体も大きいことから
  そのミルクが飲まれることもあるのではと思っています。
  実際、どうなんでしょう?飲んでみたい気がします。

豚乳 なぜ飲まぬ?

2017101505083530c.jpeg


「豚乳 なぜ飲まぬ?」 帯畜大林田さんが研究 学会で表彰される

 牛やヤギと異なり、豚のミルクはなぜ利用されないのか-。この疑問を解決するため、帯広畜産大大学院修士課程1年の林田空さん(23)は、味や搾乳方法の観点から豚ミルク利用の可能性を研究している。独創的な研究が評価され、9月に富山県で開かれた日本哺乳類学会では学生口頭発表優秀賞を受けた。

 林田さんは豚の研究を進める中で、世界を見渡しても豚ミルクを利用する文化がないと知り、興味を持った。まず苦労したのは搾乳方法。豚は子豚が乳頭を刺激しないとミルクが出ない上、1時間に1回の頻度で授乳するが量は少なく、1回当たり10~20秒しか出さない。このことから、研究で豚ミルクを使う場合はホルモン注射を打って採取するのが一般的という。

 自然な状態で搾乳するため、林田さんは帯広農業高の生徒と一緒に手法を検討した。その結果、手搾りという原始的な方法を採用。帯広市内の豚舎に朝から夕方まで張り付き、子豚がミルクを吸った後に搾った。

 豚ミルクを手に入れた後は、家畜として利用している牛やヤギ、ヒツジのミルクと味を比較。味覚センサーで客観的に評価すると、他の3種類に比べて「うま味コク」が突出して高く、「渋味刺激」「塩味」などが極めて低い結果となった。実際に豚ミルクを飲んだ林田さんは「こってりした感じで、若干の甘さはあるが、雑味が強い。なじみのない味が、敬遠されてきた理由では」と分析する。

 ミルクで育つ子豚は1日1キロ体重が増えるなど栄養は豊富で、利用価値は高いと考えている。林田さんは効率的な搾乳方法を検討するとともに、味や匂いの成分分析を進め、チーズ加工など食品分野に活用できないか探る。

 健康に育てられたSPF豚のおいしさに魅了され、幼少期に豚好きになった林田さん。将来は農場や繁殖・餌の研究など豚に関わる仕事を志している。学会での受賞については、「研究テーマが特殊過ぎたが、評価され自信になった。豚肉加工を含め、豚舎から食卓まで幅広く研究していきたい」と話す。

…………………………

なぜ豚乳は飲まれないのか

牛乳は多く利用されていますが、豚の乳(豚乳?)は利用されていないですよね。これなぜなんでしょう?ということが、「所さんの目がテン」(日本テレビ 2009年3月8日 07:00~)という番組の「ブタの科学」の回を見ていて判明しました。

実は成分を見てみると、脂肪もタンパク質も豚乳の方が多いんですよね。栄養価的には問題なしです。

では、味がまずいのでは?
いえいえ、スタジオで実際に飲んだ所さんも、甘みが強く、「いいんじゃない?」と発言。

ブタの乳が商業的に利用されない理由は、1回の授乳量にありました。

ウシは乳槽という器官が発達していて、ここにお乳を溜めておくことができますが、ブタにはこれが発達していないため、1回の授乳量は、乳牛の4リットルに対して、豚は0.2リットルという少量なんです。

そのため、ブタは子供への授乳も1日約25回と、回数が多くなるそうです。

…………………………

豚乳の研究


宇宙ヤバイコピペ

「宇宙ヤバイコピペ」って科学的に正しいの? 国立天文台に聞いてみたら、やっぱり宇宙はヤバかった
「宇宙ヤバイコピペ」って正しいの?

 2ちゃんねるで誕生したとされる有名な文章「宇宙ヤバイコピペ」をご存じですか? 「ヤバイ。宇宙ヤバイ。まじでヤバイよ、マジヤバイ」とハイテンションなノリで、宇宙がいかに人類の想像を絶する世界であるかを紹介したもの。内容が秀逸なことから、いくつもの改変コピペが作られたことでも知られています。

 しかし、「宇宙ヤバイコピペ」の内容はどこまで正しいのでしょうか。宇宙研究は日々進んでおり、もう古くなってしまった部分もあるかもしれません。国立天文台に話を伺い、検証してみました。

ーーーーーー
●宇宙ヤバイコピペ

ヤバイ。宇宙ヤバイ。まじでヤバイよ、マジヤバイ。
宇宙ヤバイ。
まず広い。もう広いなんてもんじゃない。超広い。
広いとかっても
「東京ドーム20個ぶんくらい?」
とか、もう、そういうレベルじゃない。
何しろ無限。スゲェ!なんか単位とか無いの。何坪とか何ヘクタールとかを超越してる。無限だし超広い。
しかも膨張してるらしい。ヤバイよ、膨張だよ。
だって普通は地球とか膨張しないじゃん。だって自分の部屋の廊下がだんだん伸びてったら困るじゃん。トイレとか超遠いとか困るっしょ。
通学路が伸びて、一年のときは徒歩10分だったのに、三年のときは自転車で二時間とか泣くっしょ。
だから地球とか膨張しない。話のわかるヤツだ。
けど宇宙はヤバイ。そんなの気にしない。膨張しまくり。最も遠くから到達する光とか観測してもよくわかんないくらい遠い。ヤバすぎ。
無限っていたけど、もしかしたら有限かもしんない。でも有限って事にすると
「じゃあ、宇宙の端の外側ってナニよ?」
って事になるし、それは誰もわからない。ヤバイ。誰にも分からないなんて凄すぎる。
あと超寒い。約1ケルビン。摂氏で言うと-272℃。ヤバイ。寒すぎ。バナナで釘打つ暇もなく死ぬ。怖い。
それに超何も無い。超ガラガラ。それに超のんびり。億年とか平気で出てくる。億年て。小学生でも言わねぇよ、最近。
なんつっても宇宙は馬力が凄い。無限とか平気だし。
うちらなんて無限とかたかだか積分計算で出てきただけで上手く扱えないから有限にしたり、fと置いてみたり、演算子使ったりするのに、
宇宙は全然平気。無限を無限のまま扱ってる。凄い。ヤバイ。
とにかく貴様ら、宇宙のヤバさをもっと知るべきだと思います。
そんなヤバイ宇宙に出て行ったハッブルとか超偉い。もっとがんばれ。超がんばれ。

ーーーーーー

●宇宙ヤバイ。まず広い。もう広いなんてもんじゃない。超広い。 → 正解

 「宇宙ヤバイコピペ」で最初に取り上げられるのは、宇宙の広さ。国立天文台によれば、地球から見て、宇宙空間の最も遠いところは「下限で780億光年先にある」という説が存在するとのことで、たしかに信じられないほどの広大さです。

 この説に従うと、1光年はおよそ9.5兆キロメートルなので、最低でも地球から741000000000000000000000キロメートルは離れていることに。チャリで行く場合は、時速15キロメートルで49400000000000000000000時間走り続ける必要があります。年数に置き換えると約564京年。

●広いとかっても「東京ドーム20個ぶんくらい?」とか、もう、そういうレベルじゃない → 正解

 地球上にある巨大な物体の大きさを分かりやすく示す際によく使われる「東京ドーム○個分」という表現。1個分の容積が約124万立方メートルなので、宇宙の体積が分かれば割り算で算出できるのですが、「そもそも宇宙に関する説明では『立方○○』」という単位は、ほとんど使われない」そうです。

 ただし、ちょっと違和感はありますが、「立方光年(一辺が1光年の立方体)」という単位もあるにはあります。およそ847000000000000000000000000000000000000000000000平方メートルに相当し、東京ドームに換算すると約683064516129032000000000000000000000000000個分の体積。大量に並ぶ「0」のおかげで、宇宙と東京ドームを比べる意味が無いことがはっきりと分かります。

●しかも膨張してるらしい。ヤバイよ、膨張だよ → 正解

 ビッグバン以降、宇宙は膨張を続けていると考えられています。そのため、138億光年先の場所で発せられた光が地球上で観測されたときには、その場所は470億光年先まで離れていると推測されています(光が地球に届くまでの138億年のあいだに、宇宙空間が広がり遠くなってしまう)。

●だって普通は地球とか膨張しないじゃん。だって自分の部屋の廊下がだんだん伸びてったら困るじゃん → 不明

 実は、宇宙空間と一緒に人間などが膨張しているという説も存在しており、われわれの身近なところで膨張が起こっていないとは言いきれません。ただし、「もしその説が本当だとしても、われわれには観測できないかもしれない」とのこと。

●(宇宙が有限だとすると)「じゃあ、宇宙の端の外側ってナニよ?」って事になるし、それは誰もわからない → 正解

 宇宙の外側に関する考察は天文学の領域を超えており、答えられないとのこと。

●あと超寒い。約1ケルビン。摂氏で言うと-272℃。ヤバイ。寒すぎ → 正解

 「ケルビン」は絶対零度(マイナス273.15℃)を0とする温度の単位。ピンポイントで見ると太陽のように熱い天体もありますが、宇宙は全体で見るとほぼ絶対零度で、1ケルビン程度となります。

●超何も無い。超ガラガラ → 正解

 これも本当。「われわれには大きな太陽も、宇宙規模で考えると小さな点のようなもの」だそうです。

●ヤバイ。宇宙ヤバイ。まじでヤバイよ、マジヤバイ → 正解ということでいいのでは?

 国立天文台に質問をぶつけてみたところ、7項目中6つが正解、1つだけ不明という結果になりました。ただ不明の項目も検証が非常に難しそうな説が邪魔で、正解と断言できないだけ。ヤバイヤバイと連呼する「宇宙ヤバイコピペ」は、お世辞にも頭の良さそうな文章ではありませんが、実際には分かりやすく宇宙の真実を教えてくれるものだったことが明らかになりました。

 宇宙の小さな点である太陽よりも小さな地球の表面に暮らす、さらに小さな生物である人類……の中でもこぢんまりと暮らすわれわれ一般人にとって、宇宙は今なお不思議すぎる世界。「ヤバイ」としか言いようのない漠然とした驚きを覚えてしまうのも仕方がないのでは?