2017年10月06日の記事 (1/1)

あなたの声

『あなたの声』

歌:上白石萌音 

聞こえる ほら 聞こえる
あなたの声が
小さい声 懐かしい声で
いつも 聞こえる

おはよう まど あけたら
あなたの声で
鳥は歌う 風に包まれて
おはよう 聞こえる

いっしょに 歩いた道は
けんかもしたけど
でこぼこして にぎゆかだったよ
ねえ ありがとう

手を伸ばせば 届きそうな
夜空の向こうで
帰り道に 聞こえてくるのは
星歌う声

聞こえる ほら 聞こえる
雨降る 夜に
扉あけて ただいまのあとに
おかえり 聞こえる
胸が痛くて 眠れない日は
ほら目を閉じて 耳を澄ませて
おやすみ おやすみ おやすみ
聞こえる 聞こえる 聞こえる

(間奏)

夢の中で 約束した
また会う その時まで
遠い光に 包まれてる
ずっと一緒に 入られるように
海に眠った 貝殻のような
わたしの心で
小さいけど 今も響いてる
いつも 聞こえる

ほら 聞こえる あなたの声は
小さいけど おまもりのように
いつも 聞こえる

原発と「罪」の意識

凡語 10/6

アインシュタインは晩年、「生まれ変わったら、科学者ではなく、鉛管工になりたい」と言っている。広島への原爆投下を知ると、うめいたあと絶句したという。

ナチスドイツによる核兵器研究を恐れ、米大統領に原爆開発を進言したことを悔いていた。この有名なエピソードを引いて、科学者たちの罪の意識を問うたのは、評論家の唐木順三である。

<物理学者が己が社会的、時代的責任を表白する場合、単に善悪の客観的判断ばかりでなく、自己責任の問題、「罪」の問題にまで触れるべきである>(「科学者の社会的責任」についての覚え書)。長年の考えを書き始めたのは、亡くなる前年である。

東京電力柏崎刈羽原発が審査「合格」と聞いても、すっきりしない。唐木の問いが引っかかっている。福島第1原発事故を起こした「罪」の意識が、どこにも感じられない。

当事者の東電は、原発を動かすのが責任と原子力規制委員会で発言し、規制委は結局のところ東電に「適格」のお墨付きを与えた。これでは「福島は原点」と繰り返しても、原発事故で生活を奪われた人々には届くまい。

科学技術上の適否以前に大切なことがある。過ちと罪に向き合う。唐木は<そこから新しい視野が開かれるのではないか>と書いた。ここで未完となったのが残念だ。

ダイバーシティー

越山若水 10/6

ロンドンの幼稚園が新入園児にまずさせるのは、一人一人が向かい合ってあいさつすることだそう。これを延々と繰り返して先生が尋ねる。「同じ人はいますか」。

次にまた、先生は聞く。「みんな外見が違いましたね。では、中身はどうですか」。こうして、人はそれぞれ違っているということを心から納得させるという。

「教養は児童書で学べ」(出口治明著、光文社新書)によると、園が教えるのはあと二つ。自分の思いをはっきり言うこと、そして社会のルールに従うことである。

童謡詩人の金子みすゞも歌っている。「みんなちがってみんないい」と。この世界に生きる人々は確かに見た目も違えば、価値観も多様。それを「ダイバーシティー」という―。

とばかり思っていたので、小池百合子東京都知事の考えはよくのみこめない。多様性社会を掲げながら、外国人には地方参政権を認めないというのである。矛盾しないだろうか。

外国人の参政権については国民の間でも論議が尽きない。見解はさまざまだから、ひとまず置こう。ただ、社会の多様性を大切にするなら、丁寧な説明がほしいところ。

希望の党は「寛容な改革保守を目指す」ともいう。学問的には「熱狂や拙速などを注意深く避ける」のが「保守」だというから「改革」とは相性が悪い。そのうえ「寛容」。児童書を読むようにはいかず、困る。

秋刀魚骨ごと

日報抄 10/6

先の大戦末期、都内のとある料亭でのことという。よほど飢えていたのだろう。振る舞われたサンマの塩焼きに詩人は頭からかぶりつく。「それから胴体、下腹部、尾っぽと残らず食べてしまった」。酒を愛しうまい肴(さかな)の探求に余念のなかった草野心平の回想である(「秋刀魚(さんま)骨ごと」)

サンマの塩焼きといえば庶民の味の代表格。不釣り合いな料亭の主菜を務めることに相成ったのは、窮迫した食糧事情のためだった。経済封鎖によって補給路を断たれた上、乏しい資源は軍需につぎ込まれ食料の生産、供給は後回し。漁も輸送もままならない鮮魚は、たとえサンマであろうと高根の花だった。

国民を深刻な飢餓に陥れた太平洋戦争に日本を駆り立てたのは、米国による石油禁輸措置だった。資源確保のために侵攻した東南アジアからの全面撤兵などを求められた日本は、無謀な対米戦に踏み切った。

翻って現代。かつての日本と同じ轍(てつ)を踏むことがないよう祈るばかりだ。核・ミサイル開発に執着し、国際社会で孤立を深める北朝鮮のことである。

あの時の日本は「鬼畜米英」を叫び、交渉や説得には一切耳を貸さず戦争の辛酸をなめ尽くした。その経験を踏まえ、北朝鮮を交渉のテーブルに向かわせることこそ日本の役目だろう。

かの国が一線を越えれば、サンマはおろか、われわれの暮らしそのものが危機にひんする。国民の安全を守るためにするべきことは何か。選挙に奔走する前に、政治家一人一人が立ち止まって考えてほしい。



赤バイ

談話室 10/6

「白バイ」はもともとは「赤バイ」だった。1918(大正7)年に警視庁に導入された取り締まり用バイクは赤色で、昭和の初期、欧州に倣って塗色を白に変更し、白バイになった。警察庁公式サイトが伝えている。

パトカーも戦後は自治体警察の一部に全体が白色の車があった。しかし、なにしろ当時の道は未舗装が多い。土ぼこりでひどく汚れ、道路事情から廃止された。米国のパトカーを参考に白黒ツートンを採用、55(昭和30)年には全国的に統一された。上が白、下が黒である。

明から暗へと移り変わる、こちらはグレーな時間帯の話である。夕暮れ時は風情はあるものの、交通安全上は「魔の時間帯」だ。データが物語る。過去5年間の死亡事故(2万件余)を警察庁が分析したところ、日没前後1時間の薄暮時間帯の事故が全体の13%にも上った。

薄暮時でも、日没が早まる10~12月に最も多く、5~7月の2.6倍にも上る。日没は6日が午後5時14分で、日に日に早まっている。夕暮れ時は事故防止に特に注意を払いたい。ところで、政界のモリ・カケ問題など、こちらのグレーな事案は白黒はっきりさせるに限る。

眉唾

卓上四季 10/6

「眉に唾を付ける」と言えば、だまされないよう用心することだ。なぜ眉に唾を付けるとだまされないのか。ことわざ辞典などによると、タヌキやキツネは人の眉毛の数を数えて心を読み、だますと考えられてきた。そこで、眉に唾を付ければ眉毛がくっつき、数を数えられない―ということらしい。

公示が迫る衆院選も、眉に唾を付けて各党の主張を見極めたい。たとえば憲法では、自民党は「自衛隊の明記」を公約に盛り込んだ。希望の党も改正に積極的だ。しかし、自民と連立を組む公明党は慎重姿勢を示す。どう整合性をとるのか。

消費税についても、希望や日本維新の会などは増税に反対する。だが「身を切る改革」だけで財政再建や社会保障は進められるのか。一方、自公は増税分の一部を教育無償化などに使うというが、同時に財政健全化も進めるとする。果たして可能なのか。

「自民党ができないことをする」と対決姿勢を見せながら、選挙の結果次第では自民との連携をにおわせる希望の姿勢も気になるところだ。消費税と原発以外で両党に大きな違いは見いだせない。

希望は「寛容な保守」を掲げる。けれど、安保関連法などの「踏み絵」を迫り、公認希望者を選別する姿勢と「寛容」は相いれるのか。

秋も深まってきた。「狐狸(こり)」が奏でる甘い公約や姑息(こそく)な主張がないか、しっかり吟味したい。眉に唾を付け、ご用心、ご用心。

仕事持ち帰らないで

金口木舌 10/6

NHK連続テレビ小説「ひよっこ」が先週、最終回を迎えた。主人公のみね子は、何か大きなことを成し遂げるわけではないが、家族や周りの人々の優しさを感じながら成長していく。

“ひよっこロス”の中で、ある場面を思い出した。茨城から上京し、紆余(うよ)曲折を経て洋食屋に雇われたみね子。ウエートレスの仕事は、覚えることがたくさんある。意欲満々に、メニューを持ち帰って内容を覚えたいと言う。

しかし、店主はその申し出をきっぱりと制する。「私は、勤務時間の分しか給料を払っていない。家に帰ったら仕事のことは忘れろ」。「みね子、頑張るな」などとのんきに思いながらテレビを見ていたので、はっとした。

店主の言う通り、業務時間以外は個人の時間で、自由に使えばいい。また心身ともにリフレッシュすることが、結果的にいい仕事にもつながる。当たり前のことだが、それが新鮮に聞こえてしまう現状がある。

電通違法残業事件を機に「働き方改革」の議論が加速している。だが長年、長時間労働やサービス残業を前提に運営してきた多くの企業で、なかなか体質改善が進まない。

死を招くほど働かなければならない社会は、不幸だ。「改革」が一筋縄ではいかないことも承知しているが、命の尊さには代えられない。社会全体が考えることを怠けず、一歩ずつでも歩を進める時だ。

喜びと悲しみ

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中日春秋 10/6

二十世紀音楽界の巨匠パブロ・カザルスが生まれて初めて、投票したのは、五十四歳の時だった。愛するカタルーニャに自治をもたらすため、一九三一年の選挙で一票を投じたのだ。

新生カタルーニャの出発を、彼はベートーベンの交響曲第九番を指揮して祝ったが、わずか五年後にファシストが反乱を起こした。反乱軍が迫り、どんな明日が訪れるかも分からぬ状況で、カザルスは、第九の終楽章を奏で、歌って、お互いの別れのあいさつにしようと、楽団員に呼び掛けた。

<♪やさしき翼の飛び交うところ すべての同胞(はらから)はちぎりをむすんだ兄弟…>。その響きは無上のものだったと、巨匠はふり返っている(『パブロ・カザルス 喜びと悲しみ』)

その後の内戦と独裁政治でカザルスは亡命を強いられ、異国の地で生涯を終えた。彼が九十六歳で逝って、四十四年。カタルーニャで独立を問う住民投票が行われ、結果は「独立賛成」と出た。

しかし、スペイン政府はこれを頑として認めない。投票率の四割という低調さには、住民の複雑な思いもにじんでいるのだろう。独立がスペインはもちろん、カタルーニャ内部にも分裂と対立をもたらすのではないかとの懸念もある。

カタルーニャ州議会は近く独立を宣言する構えだと伝えられる。それは、カタルーニャの人々と「兄弟」にとって、「歓喜の歌」となるのだろうか。



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パブロ・カザルス「喜びと悲しみ」 

 パブロ・カザルス(パブロ・カルロス・サルヴァドル・カザルス)は、1876年12月29日、カタロニアの小村ヴェンドレルで、教会付きのオルガン奏者を父とし、その教え子であった母との間に長男として生まれました。小さいときから父より、オルガン、ピアノ、ヴァイオリンを習い、8歳のときには父に代わって教会でオルガンを弾き、その才能に近所の人たちを感嘆させたようです。11歳のとき、ヴェンドレルで開かれた音楽会で、ホセ・ガルシアのチェロを初めて聞きその素晴らしさに魅了され、以来生涯に渡るチェロとの長い付き合いが始まりました。父はパブロを大工にするつもりだったのですが、既にパブロの才能を見抜いていた情熱家の母によって、音楽家の道を歩き始めました。その後バルセロナ、マドリード、ブリュッセルなどで学び、23歳のときパリで当時の大指揮者ラムルーの演奏会でチェロの独奏をし、一夜にしてチェリストカザルスの名が世界に知られるようになりました。ここに至るまでの間、カザルスは多くの芸術家、音楽家と出会い、その中には絵画のピカソやまたギターの世界でも知られているアルベニス、グラナドスといった人たちもいたようです。

 パリで成功を収めたカザルスは、アメリカを始め世界各地で演奏活動をし、25歳のとき(ある本では1909年と書いてある)、初めてバッハの「無伴奏チェロ組曲」の全5楽章を、繰り返しを省略しないで弾き、絶賛されました。それまでこの曲を最後まで完全に弾き通した音楽家はいなかったようです。この話にはほかにも感動したところがあって、後で重複するかもしれませんが、実はこの曲の譜面を見つけたのはカザルスが13歳のときであり、以来12年間人前で弾く勇気がでるまで曲の研究と練習をしていたとのことです。

 やがてカザルスは、1919年バルセロナに戻り、1920年、自費で88名の「パウ・カザルス管弦楽団」をつくって、今度は指揮者として祖国の音楽活動の普及に努めました。これを基にバルセロナに「勤労者音楽協会」が設立され、協会を中心としてアマチュア合唱団や音楽学校などが作られるようになりました。カザルスはこの運動に心から打ち込んだと言われ、それを知った各地の名のある演奏家達が惜しみない協力をしたと言われます。ただこのころから少しづつ世界大戦の暗い影響が見え始め、1936年、「第九」の練習をしていた楽団は、ファシストの暴動によって練習の中断を余儀なくされました。この日を境に楽団は、「この国に平和が戻る日、再び第九を演奏しよう」と誓い合って解散したということです。

 1938年、カザルスはフランコ独裁政権の圧政に抗議してスペインを去り、ピレネー山脈の小都市プラードに移り住みました。大戦が終わるまでの間、フランコやナチスの迫害や音楽家としての勧誘にも一切応じず、プラードから一歩も出ることはなかったようです。そして大戦が終わった1945年、カザルスは再びパリ、ロンドンで演奏を開始し、大熱狂で迎えられたと言われます。でも戦後フランコ独裁政権の復活とそれを容認煽動した世界諸国に対し、カザルスは、1946年の演奏を最後に「スペインに自由と人民を尊重する政権が再建されない限り、チェロの演奏はしない」と宣言して、プラードに閉じこもってしまいました。世界の音楽家達はこれを非常に嘆き、ついには1950年のバッハ200年祭のときには、逆に世界各国から著名な音楽家達がカザルスの基に集まり、プラードで盛大なバッハ音楽祭が開かれました。

 その後カザルスは常に音楽を通して自由と平和を訴え、世界の不誠実に対して抗議してきました。その一つの印が、演奏の最後には必ずカタロニア民謡の「鳥の歌」を弾いてきたということです。この歌は、もともとはキリスト降臨を歌ったものですが、カザルスによって圧政から祖国を離れることを余儀なくされたスペインの亡命者の望郷の歌として知られるようになりました。カザルスは、1945年以来このカタロニア民謡の「鳥の歌」を演奏の最後に必ず弾いて、祖国への悲しみと抗議を訴えてきました。そして1973年10月、心不全のためプエルトリコの病院に入,院、危篤状態を続け、10月22日、96歳と10か月で帰らぬ人となりました。自由な祖国で再び「第九」の指揮をするというカザルスの夢は、ついにかなえられませんでした。でもカタロニアのモンセラート修道院では、カザルス作曲の宗教曲が今でも少年合唱隊によって歌い続けられているということです。

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 過去80年間、私は1日を全く同じやり方で始めてきた。(中略)ピアノに向かい、バッハの「前奏曲とフーガ」を2曲弾く。ほかのことをするなど思いも寄らぬ。       「喜びと悲しみ」

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 14歳のとき、バルセロナで私は最初の本格的な演奏会をした。(中略)会場についたとき、「お父さん、曲の出だしがわからない。曲の音符が1つも出てこないんです。」父は私を落ち着かせてくれた。あれは80 年前のことだった。だが演奏前の恐ろしい焦燥感はいまだに克服できないでいる。       「喜びと悲しみ」       
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 港の古い楽器店で、突如、一束の楽譜を見つけた。それがなんとバッハの「無伴奏組曲---チェロ独奏のための」だった。私は驚きの目を見張った。(中略)私は12年間日夜、この曲を研究し弾いた。私がこの組曲の1つを演奏会で公開する勇気が出るまで、そうだ12年かかり、私も25歳になっていた。    「喜びと悲しみ」

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 教師たることは重大な責任をもつことである。「喜びと悲しみ」

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 私は常々テクニックは手段であって、それ自体目的でないと思っている。(中略)最も完璧なテクニックは全く目立たないものである。私は絶えず自分に問い続けた。「どうしたら、いちばん自然に弾けるか」と。私は市立音楽学校の生徒だったときに考案した運指法や弓の使い方、力を抜くことの重要さを生徒達に教えた。(中略)私はどうしたら瞬間的に、ほんの数秒でも、弾きながら手と腕の力を抜くことができるかを教えた。     「喜びと悲しみ」 

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 事故が起こったのはタマルペイス山から下りてくる途中だった。(中略)上を見ると丸石が私めがけてとんできた。頭をそらしたので危うく命拾いをしたが、石は左手にあたって運指の手を骨折した。友人は肝をつぶした。だが、肉が裂けて血が指から流れるのを見たとき、妙な別の考えが私の心に浮かんだ。最初に、「ありがたい、もう2度とチェロを弾かないですむ」と思った。 
                      「喜びと悲しみ」 

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 私の演奏歴のなかで、演奏前に緊張したりあがったりしなかったことは1度もなかった。これまで何千回とコンサートをしてきたが、そのたびに初舞台のときと同じくらいあがる。君、気がついていた?                    「鳥の歌」  

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 人は大きな期待をもって演奏を聴きにくる。その期待どおりだったという評価を得て初めて、あがるということの本当の意味がわかるのだ。                   「鳥の歌」 

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 もちろんテクニックはマスターしなければならない。だが同時にその奴隷になってはいけない。         「鳥の歌」 

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 大変長くなりまして、すみません。今回はとりあえずここまでということで失礼します。最後に参考しました図書名を記しておきます。
 
 「パブロ・カザルス 喜びと悲しみ」 (朝日選書)
 「パブロ・カザルス 鳥の歌」    (筑摩書房)
 「総特集 カザルス」        (文藝別冊) 
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