2017年09月17日の記事 (1/1)

木に学べ

日報抄 9/17

その本を読むと人の身勝手を考えさせられる。「人間、賢いと思ってるけど一番アホやで」。宮大工として法隆寺の大修理をした故・西岡常一(つねかず)さんが「木に学べ」に書いた。

木は雪だからといって逃げられない。風雪に曲げられてたまるものかと反発し、身をよじる。それは木材のクセとして現れる。棟梁(とうりょう)は、ねじれの個性をうまく抱き合わせ木を組んだものだった。そうやって建てられた法隆寺は1300年を経ても美しく立っている。いまは個性をクギで押さえる。

怒りは過去にも向けられる。「昔の人は、木はヒゲと同じように思うてたんや。伐(と)ってもええ、はやしてもええと。これじゃ木はなくなりまっせ」。建築に使いたい千年もののヒノキは、もう日本にない。この嘆きは30年ほど前のものだ。

現在は、切り育てる人がいない。県内でもだいぶ前から問題になっている。「モヤシの林」と呼ばれたこともある。やせたモヤシのような杉しか植林地にない。安い輸入材に押され、林業では食っていけないから山に手が入らない。やせた山は雨をためる力を失った。

先日の「窓」欄でも指摘があった。元営林署員の男性が林業への思いが乏しい政治を嘆いた。山地崩壊と流木が命を奪った九州豪雨災害を目の当たりにしたいま、林業の活性化を力強く語るべきだと訴えた。

宮大工の西岡さんは、木を育む山は人にとって「ふところ」だと例えた。「母親のふところやと思います」と言った。おろそかにされた母なる山の涙が災害を招く。

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職人世界の業を究めた人

西岡常一
きょうは法隆寺、薬師寺、法輪寺を復興させた「最後の宮大工」 西岡常一(にしおか つねかず)の誕生日だ。
1908(明治41)年生誕~1995(平成7)年逝去(86歳)。

奈良県生駒郡法隆寺村西里に、明治以来 法隆寺に仕える宮大工棟梁 西岡楢光の長子(三代目)として生まれる。
法隆寺の棟梁をつとめた祖父の常吉に小学校に入る前から仕事を仕込まれた。1924(大正13)年16歳の時、木を育てる土を学び生駒農学校卒業、1925(大正14)年17歳の時 大工見習から宮大工、棟梁への道に進んだ。

1934(昭和9)年26歳の時から始まった法隆寺の「昭和の大修理」で、世界最古の木造建築の金堂や五重塔の解体修理に携わった。
西岡はこれを「天運」、時代の巡り合わせだと言う。法隆寺には最古の飛鳥建築から、天平・藤原・鎌倉・室町・江戸の建築様式が全て揃っていて、各時代の日本建築の特徴を学ぶ幸運に巡り合った。

このときの金堂の解体では、学者の間で玉虫厨子のような錣葺き(しころぶき)だとされていた屋根が、「入り母屋」造りであることを、実際に組み立てて証明し、定説をくつがえした。

1971(昭和46)年63歳の時、奈良 薬師寺復興の大工棟梁となり、1976(昭和51)年68歳の時には竜宮造りといわれる金堂を復興した。続いて西塔、中門、玄奘三蔵院などを完成させ、回廊や講堂の復興に尽力した。

1975(昭和50)年、戦時中に落雷で焼失した斑鳩(いかるが)の三古塔のひとつ法輪寺 三重塔の再建の棟梁を務めた。
1992(平成4)年84歳の時には宮大工としては初めて文化功労者に選ばれた。1995(平成7)年亡くなった。

西岡は、日本建築の原点ともいうべき飛鳥時代の古代工法で大伽藍を造営することのできる「最後の宮大工」といわれた。木を生かす為の道具として槍鉋(やりがんな:古代のかんな)を復元を使用した。

職人世界の業を究めた人ならではの、深く考え得た珠玉の言葉の数々を、『法隆寺を支えた木』や『木のいのち木のこころ 天』(小川三夫著)などに残した。
吉川英治文化賞(1974昭和49年)、日本建築学会賞(1981昭和56年)、国土緑化推進機構のみどりの文化賞(1991平成3年)など数々の賞を受けている。

宮大工の世界に代々伝わる口伝に、「木を買わず山を買え」という言葉がある。山には当然ながら、東西南北というものがある。山の南側の木は、細いけれど強い。北側の木は、太いけれど弱い。そうした性質の木を、建物の東西南北に合わせてそのまま使えという。

ひと口に木と言っても、育つ環境はさまざまである。強風の地では左右に捻れ、大きな伽藍の心柱などに用いられる樹齢2000年前後の檜(ひのき)に至っては、人を寄せつけない岩盤に、根が岩を割って生育しているのが常だという。

こうしたくせの強い木ほど耐用年数も長く、水分が多く嵐の少ない環境で育った素直でくせのない木は弱いのだそうだ。しかし、弱いから、くせが強いから、曲がっているから「だめだ」というのではない。強い木は柱や桁、梁などの骨組みに用い、弱い木は長押(なげし)や天井、化粧板に用いればよい。

西岡は云う。「性根というもんは、直せるもんやないんですわ。やっぱり包容して、その人なりの場所に入れて働いてもらうんですな。曲がったものは曲がったなりに、曲がったところに合う所にはめ込んでやらんといかんですな」

法隆寺には先人の技術と知恵が凝縮されていること。木に残された手斧(ちょうな)の跡や鑿(のみ)が彫り込んだほぞに職人の腕や心構えが見えること。木を生かす技は数値に表せず「手の記憶」によって引き継がれること…。

西岡常一は、最後の宮大工といわれた人で、法隆寺、薬師寺、法輪寺など優れた仕事をしている。彼はあまり弟子をとらなかったようだが、仕事を通して多くの人に人としての生き方を教えている。書物にもなっているが、彼の考え方が形として残っているので説得力は大きく、謙虚にならざるを得ない。

企業においても、教育は非常に大切な項目だが、あれこれと手取り足取り教え込むよりも、自分の仕事ぶりを見せて、それを学ばせるのがベストである。要は、学ぶ姿勢を学ばせることだ。

西岡常一のことば
  「個性を殺さず癖を生かす。人も木も、育て方、生かし方は同じだ」
  「みんな自然の中での行いです。自然を無視して建築はできませんわ」
  「古いことでもいいものはいいんです。
   明治以来ですな、経験を信じず、学問を偏重するようになったのは」
  「1300年前に法隆寺を建てた飛鳥の工人の技術に現代は追いつけない」





永井荷風

小社会 9/17

 作家、永井荷風が日記「断腸亭日乗」を書き始めたのは、今から100年前の1917(大正6)年9月16日。31(昭和6)年の満州事変後には、東京・銀座の様子をこう記している。
 
 〈商店の硝子(ガラス)戸には日本軍上海攻撃の写真を掲げし処多し。蓄音機販売店にては盛に軍歌を吹奏す。時に満街の燈火一斉に輝きはじめ全市挙(こぞ)つて戦捷(せんしょう)の光栄に酔はむとするものの如し〉。核実験やミサイル発射を繰り返す北朝鮮の街も、同じように沸いているのだろうか。

 国連安全保障理事会の制裁決議にも、「備蓄した外貨や燃料で持ちこたえられるうちに、核戦力を完成させるつもりだ」。本紙に載った北朝鮮消息筋のコメントは、これまた太平洋戦争前夜の日本をほうふつとさせる。

 日本は米、英、中国とオランダによる経済封鎖に苦しんでいた。ジリ貧になるより戦争をやれば勝利の公算は半分。このまま滅亡するよりはいい―。そんな論理で真珠湾攻撃に突き進む。一度、破滅への道を歩んだ日本だからこそ、北朝鮮に同じ過ちをさせてはなるまい。

 小泉首相=当時=が電撃訪朝し、金正日(キムジョンイル)総書記が日本人拉致を認めたのは15年前のきょう。日朝平壌宣言には「互いの安全を脅かす行動はとらない」「核・ミサイル問題も関係国間の対話を促進し解決を図る」とある。

 どれほど時間がたとうとも、過去と誠実に向き合えば、未来を開く鍵を見つけることはできる。

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四季風 9/17

東京暮らしを始めた半年前、毎日読みふけっていたのが評論家の川本三郎氏の『荷風と東京』(岩波現代文庫)。永井荷風(1879~1959年)が死の前日まで42年間にわたって書き続けた日記『断腸亭日乗』をひもときながら、荷風が歩いた東京の細部を浮かび上がらせた名著だ。

築地、銀座、新橋、赤坂-。仕事で足を運ぶ先々の往時の姿が私の眼前に立ち現れ、それまでどこか気後れを感じていた場所が、好きな大作家の導きによって昔からのなじみのような身近な存在に。せわしない都会生活にひとときの安らぎを与えてくれた。

荷風が日乗を書き始めたのは1917年9月16日。100年前のきのうだ。日乗は激動の時代の記録でもある。日中戦争勃発や日米開戦により暗さを増す世相、物資窮乏が市民生活を脅かすさま、東京大空襲で自宅や蔵書が焼失する光景などを透徹した筆致で伝える。

その荷風は太平洋戦争終結を敗戦や終戦ではなく「休戦」の言葉で表現したという。「戦争のない世などありえないというシニシズムのためだろう」と川本氏は書く。

「時代の雰囲気が戦前に似ている」と言われる昨今。戦争の忍び足の方は、身近なものになってほしくない。 

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断腸亭日乗

断膓亭日記巻之一大正六年丁巳九月起筆

永井荷風


+目次

荷風歳卅九

◯九月十六日、秋雨連日さながら梅雨の如し。夜壁上の書幅を挂け替ふ。
碧樹如レ烟覆二晩波一。清秋無レ尽客重過。故園今即如二烟樹一。鴻雁不レ来風雨多。姜逢元
等閑二世事一任二※(「さんずい+冗」、第4水準2-78-26)浮一。万古滄桑眼底収。偶□心期帰図画。□□蘆荻一群鴎。王一亭
 先考所蔵の畫幅の中一亭王震が蘆雁の図は余の愛玩して措かざるものなり。
◯九月十七日。また雨なり。一昨日四谷通夜店にて買ひたる梅もどき一株を窗外に植ゆ。此頃の天気模様なれば枯るゝ憂なし。燈下反古紙にて箱を張る。※(「虫+車」、第3水準1-91-55)頻に縁側に上りて啼く。寝に就かむとする時机に凭り小説二三枚ほど書き得たり。
◯九月十八日。朝来大雨。庭上雨潦河をなす。
◯九月十九日。秋風庭樹を騒がすこと頻なり。午後市ヶ谷辺より九段を散歩す。
◯九月二十日。昨日散歩したるが故にや今朝腹具合よろしからず。午下木挽町の陋屋に赴き大石国手の来診を待つ。そも/\この陋屋は大石君大久保の家までは路遠く徃診しかぬることもある由につき、病勢急変の折診察を受けんが為めに借りたるなり。南鄰は区内の富豪高嶋氏の屋敷。北鄰は待合茶屋なり。大石君の忠告によれば下町に仮住居して成るべく電車に乗らずして日常の事足りるやうにしたまへとの事なり。されど予は一たび先考の旧邸をわが終焉の処にせむと思定めてよりは、また他に移居する心なく、来青閣に隠れ住みて先考遺愛の書画を友として、余生を送らむことを冀ふのみ。此夜木挽町の陋屋にて独三味線さらひ小説四五枚かきたり。深更腹痛甚しく眠られぬがまゝ陋屋の命名を思ふ。遂に命じて無用庵となす。
九月廿一日。大石国手来診。
九月廿二日。無用庵に在り。小説おかめ笹執筆。
〔欄外「原本廿三日より廿九日迄記事なし」トアリ、朱線ヲ引キ胡粉デ抹消〕
九月三十日。深夜一時頃より大風雨襲来。無用庵屋根破損し雨漏り甚し。黎明に至りて風雨歇む。築地一帯海嘯に襲はれ被害鮮からずと云。午前中断膓亭に帰りて臥す。
〔欄外「原本十月一日及二日欠記事」トアリ、朱線ヲ引キ胡粉デ抹消〕
十月三日。断膓亭窗外の樹木二三株倒れ摧かる。
十月四日。百舌始て鳴く。
〔欄外「原本五日より七日まで記事を欠く」トアリ、朱線ヲ引キ胡粉デ抹消〕
十月八日。連日雨歇まず。人々大風再来を憂ふ。藪鶯早くも庭に来れり。
十月九日。大雨。無用庵雨漏りいよ/\甚しき由留守居の者知らせに来りし故寐道具取片づけ断膓亭に送り戻さしむ。唖々子にたのみて三味線食器は一時新福亭へあづけたり。(久米秀治氏細君営業の待合茶屋なり)
十月十日。夜庭後子風雨を冒して来訪せらる。断膓亭襍稾出版についての用談なり。
十月十一日。この日雨始て晴る。百舌頻に鳴く。旧稾つくりばなしを訂正して文明に寄す。
十月十二日。赤蜻※(「虫+廷」、第4水準2-87-52)とびめぐり野菊の花さかりとなる。
十月十三日。秋※(「こざとへん+(人がしら/髟のへん)」、第4水準2-91-70)夢の如し。夜庭後君再び訪来り文明編輯の事を相談す。
十月十四日。空始めて快晴。小春の天気喜ふべし。八ツ手の芽ばへを日当りよき処に移植す。午後神楽阪貸席某亭に開かれたる南岳追悼発句会に赴く。帰途湖山唖※(二の字点、1-2-22)の二子と酒楼笹川に飲む。
十月十五日。曇る。鵯鳴く。園丁来りて倒れたる庭木を引起したり。夜また雨。
十月十六日。雨。石蕗花開く。その葉裏に毛虫多くつきたり。今年は秋に入りて殊に雨多かりし故にや此頃に至り葉※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)頭野菊紫苑のたぐひに至るまで皆毛虫つきたり。
十月十七日。鶺鴒飛来る。晩風蕭索。夕陽惨憺たり。
十月十八日。先人揮毫の扇面を見出し書斎の破襖に張る。其の中の一詩を録すれば、隔水双峰雪未銷。白堤寒柳晩蕭蕭。三杯傾尽兪楼酒。馬上思君過断橋。
十月十九日。大石君の診察を請はむとて数寄屋橋新福亭に徃く。大石君来らず空しく帰る。唖々子に逢ひ四谷に飲む。
十月廿二日。晴天。風寒し。断膓亭に瓦斯暖炉を設く。八ツ手の蕾日に日にふくらみ行けど菊は未開かず。竜胆花をつけたり。おかめ笹第六回に進む。夜執筆の傍火鉢にて林檎を煮る。
十月廿三日。晴天。文明第十一号校正。午後日吉町庄司理髪店に赴き米刃堂に立寄り庭後唖々の両子と三十間堀寿※(二の字点、1-2-22)本にて晩餐をなす。清元延園おりきを招ぐ。
十月廿四日。両三日腹具合大に好し。午後家を出で紀の国坂を下り豊川稲荷に賽す。
十月廿五日。朝より大雨終日歇まず。庭上雨水海の如く点滴の響滝の如し。夜に入つて風また加はる。燈下孤坐。机に凭るに窗外尚残蛩の啼くを聞く。哀愁いよ/\深し。
十月廿六日。晴天。写真師を招ぎて来青閣内外の景を撮影せしむ。予め家事を整理し万一の凖備をなし置くなり。近日また石工を訪ひ墓碑を刻し置かむと欲す。夜風あり。月明かなり。虫語再び喞々たり。
十月廿七日。晴天。階前の黄菊始て開く。午後青山辺を歩む。夜梔子の実を煮、その汁にて原稿用罫紙十帖ほど摺る。梔子の実は去冬後園に出でゝ採取し影干になしたるもの。
十月廿八日。来青閣壁間の書幅を替ふ。毅堂先生絶句三幅を懸く。朝の中雨ふりしが晩に歇む。是夜十三夜なれど月なし。初更のころ門を敲くものあり。燈を挑げて出でゝ見れば旧友葵山子の訪来れるなり。※(「口+加」、第3水準1-14-93)※(「口+非」、第4水準2-4-8)を煮て款晤す。
十月廿九日。曇る。夜九穂子来訪。
十月三十日。快晴。後園に菜種を蒔く。
十月卅一日。唖※(二の字点、1-2-22)子来訪。
十一月一日。
十一月二日。
十一月三日。快晴。南伝馬町太刀伊勢屋に徃き石州半紙一〆を購ひ、帰途米刃堂を訪ふ。
十一月四日。大雨。断膓亭襍稾表帋板下絵を描く。
十一月五日。晴。山茶花開く。菊花黄紅紫白の各種爛漫馥郁たり。八ツ手の花もまた開く。午後水仙蕃紅花の球根を地に埋む。
十一月六日。夜唖※(二の字点、1-2-22)子来訪。晩風漸く寒し。虫の音全く後を絶しが、家の内薄暗きところには猶蚊のひそめるあり。
十一月十日。今年は去月の暴風にて霜葉うつくしからず。此の頃に至りて楓樹の梢少しく色づきたれど其の色黒ずみて鮮ならず。
十一月十二日。快晴。樫の芽ばへを日あたりよき処に移植す。
十一月十三日。小説腕くらべを訂正し終りぬ。午後三十間堀の酒亭寿※(二の字点、1-2-22)本に徃き、庭後唖※(二の字点、1-2-22)の二子と飲む。
十一月十五日。断膓亭襍稾印刷校正に忙殺せらる。夜唖※(二の字点、1-2-22)子来談。
十一月十六日。鵯毎朝窗外の梅もどきに群り来る。余起出ること晩きが故今は赤き実一粒もなくなりたり。
十一月廿一日。断膓亭襍稾校正終了。下婢を銀座尾張町義昌堂につかはして水仙を購ふ。
十一月廿二日。毎日天気つゞきにて冬暖甚病躯に佳し。午後市ヶ谷辺を散策す。古道具屋にて三ッ抽出し古箪笥を購ふ。余以前は箪笥あまた持ちたるに一棹は代地河岸にて失ひ、又重箪笥二棹は宗十郎町にて奪はれ、今はわが衣服を入るゝに西洋トランクと支那文庫とあるのみ。日常使用に不便なれば已むことを得ず新に購求めしなり。代価参円半。
十一月廿三日。晴天。満庭の霜葉甚佳なり。萩芒の枯伏したる間に鵯二三羽来りて枯葉を踏む。其の音さながら怪しき者の忍寄るが如き気色なり。晩間寒雨瀟瀟として落葉に滴る。其声更に一段の寂寥を添ふ。再びおかめ笹の稿をつぐ。
十一月廿九日。両三日寒気強し。樹※(「こざとへん+(人がしら/髟のへん)」、第4水準2-91-70)日光に遠きあたり霜柱を見る。今暁向両国相撲小屋跡菊人形見世物塲より失火。回向院堂宇も尽く焼亡せしと云ふ。西大久保母上の許より昆布佃煮を頂戴したり。
十一月三十日。この頃小蕪味ひよし。自ら料理して夕餉を食す。今朝肴屋の半台にあなごと海鼠とを見たり。不図思出せば廿一二歳の頃、吉原河内楼へ通ひし帰途、上野の忍川にて朝飯くらふ時必ずあなごの蒲焼を命じたり。今はかくの如き腥臭くして油濃きものは箸つける気もせず。豆腐の柔にして暖きがよし。夜明月皎皎たり。
十二月一日。蝋梅の黄葉未落尽さゞるに枝頭の花早くも二三輪開きそめたり。予今年は病のため更に落葉を掃はざりしが、今になりては荒果てたる庭のさま却て風趣あり。
十二月二日。昨日の寒さに似ず今日は暖なり。母上来たまひて来青閣の広間にて余の蒲団を縫はる。
十二月三日。余が懸弧の日なれど特に記すべきこともなし。唯冬日の暖きを喜ぶ。
十二月四日。腕くらべ印刷校正下摺はじまる。
十二月五日。中央公論社におかめ笹前半の草稾を渡す。九穂子来談。
十二月七日。日日寒気加はる。寒月氷の如し。
十二月八日。庭上の霜雪の如く白し。本年の寒気前年の比にあらずと新聞紙に見ゆ。午後風ありしが寒気甚しからず。福寿草の芽地上にあらはる。
十二月九日。正午新福主人来訪。本日帝国劇塲。松莚君連中見物の当日なればとてわざ/\さそひに来られしなり。久振りの芝居見物興なきにあらず。食堂にて花月主人に逢ふ。看劇後新福亭に一茶して家に帰る。夜三更を過ぐ。
十二月十日。快晴。紅箋堂佳話起草。
十二月十一日。快晴。園丁来りて落葉を掃ふ。肴屋白魚を持来りしが口にせず。
十二月十二日。八ツ手山茶花共にちり尽しぬ。
十二月十五日。久振にて築地の梅吉を訪ふ。弟子梅之助手すきの様子なりければ清心始の方すこしさらつて貰ひたり。
十二月十六日。九穂子来談。毎日好晴。蝋梅の花満開なり。
十二月十七日。午後九段を歩む。市ヶ谷見附の彼方に富嶽を望む。病来散策する事稀なれば偶然晩晴の富士を望み得て覚えず杖を停む。燈下バルザツクのイリユージヨンペリユデイを繙読す。就床前半時間ばかり習字をなす。
十二月十九日。※[#「抜」の「友」に代えて「丿/友」、U+39DE、15-3]辯天の縁日を歩み白瑞香一鉢を購ひ窗外に植ゆ。
十二月二十日。兼てより花月主人と午後一時を期し栄寿太夫を招ぎ清元節稽古の約あり。此日浦里上の段をけいこす。
十二月廿一日。今日もまた花月に徃く。帰途銀座島田洋紙舗にて腕くらべ用紙見本を一覧したれど思はしきものなし。
十二月廿二日。冬至。晴れて暖なり。紅箋堂佳話を書きはじめたれど興味来らず。※[#「くさかんむり/聿」、U+831F、15-9]を抛て神田を散歩す。夜半輪の月よし。沢田東江の唐詩選を臨写す。
十二月廿四日。毎朝霜柱甚し。水仙の葉舒ぶ。
十二月廿五日。午後花月に徃きしが栄寿太夫来らず空しく帰る。
十二月廿六日。唖※(二の字点、1-2-22)子米刃堂用談にて来訪。この夜寒月氷の如く霜気天に満つ。未夜半に至らざるに硯の水早くも凍りぬ。
十二月廿八日。米刃堂主人文明寄稿家を深川八幡前の鰻屋宮川に招飲す。余も招がれしかど病に托して辞したり。雑誌文明はもと/\営利のために発行するものにあらず。文士は文学以外の気焔を吐き、版元は商売気なき洒落を言はむがために発行せしものなりしを、米刃堂追々この主意を閑却し売行の如何を顧慮するの傾きあり。予甚快しとなさず、今秋より筆を同誌上に断ちたり。薄暮月蝕す。
十二月廿九日。この頃寒気の甚しさ、朝十時を過るも庭の霜猶雪の如し。八ツ手青木熊笹の葉皆哀に萎れたり。小鳥の声も稀になりぬ。大明竹の鉢物を軒の下日当りよき処に移す。午後花月に徃き浦里上の段稽古を終る。本年はこれにて休み来春また始めるつもりなり。帰途夕暮になりしを幸新福亭に立寄り夕餉をなす。主人も折好く芝居稽古を終りて帰来りたれば、清元一二段さらひて後、来合せたる妓雛丸とやらを伴ひ銀座通年の市を見る。新橋堂前の羽子板店をはじめ街上繁華の光景年※(二の字点、1-2-22)歳※(二の字点、1-2-22)異る所なし。唯余のみ年老いて豪興当時の如くなる能はざるのみ。鳩居堂にて香を購ひ車にて帰る。桜田門外寒月の景いつもながらよし。
十二月卅一日。風あり。砂塵濛※(二の字点、1-2-22)たり。午後空くもる。雪を憂ひしが夜に至り二十日頃の月氷の如く輝き出でたり。家に籠りて薄田泣菫子が小品文集落葉を読む。余この頃曾て愛読せし和洋書巻の批評をものせむとの心あり。依りてまづ泣菫子が旧著を取出して一読せしが思ふところ直に筆にしがたくして休みぬ。今余の再読して批評せむと思へるものを挙ぐるに、
落葉 薄田泣菫著     照葉狂言 泉鏡花著
今戸心中 広津柳浪著   三人妻 尾崎紅葉著
一葉全集 樋口一葉著   柳橋新誌 成島柳北著
梅暦 為永春水著     湊の花 為永春水著
即興詩人 森鴎外著    四方のあか 蜀山人著
うづら衣 横井也有著   霜夜鐘十時辻占 黙阿弥著
其他深く考へず。漢文にては入蜀記、菜根譚、紅楼夢、西廂記、随園詩話等。西洋のものはまた別に考ふべきなり。


独身女性の貧困問題

金口木舌 9/17

 「負け犬の遠吠え」という本がベストセラーになったのは今から14年前。「未婚、子なし、30代以上の女性」を負け犬と定義したのは著者の酒井順子さんだった。

自虐的に「負け犬」と言いつつも、独身者はしがらみが少なく、時間的にも経済的にも自由で、前向きにその生き方を捉えていた。どちらかといえば酒井さんのように、経済的に自立している人の視点だった。

国立社会保障・人口問題研究所の調べでは、20~65歳(勤労世代)の独身女性の相対的貧困率は32%に上るという。子どもの貧困の陰で、独身女性の貧困問題はあまり表に出て来ない。

貧困の要因は女性の大学進学率が男性に比べ低いこと、40代前半以下の世代は就職氷河期と重なり、就職難だったこと、非正規雇用に女性が多いことなどが考えられる。根底にあるのは「女性はいずれ結婚するだろう」という前提だ。

税金や社会保障制度は、将来女性は夫の扶養下に入ることを前提にしている。女性の生涯未婚率は年々上昇し2015年は14・06%と過去最高を更新。旧型のモデルは見直し、多様な選択肢を示す時期に来ている。

「負け犬」「勝ち犬」、「子なし」「子有り」、「正社員」「非正社員」など女性を二分しては問題の本質を見失う。既婚・未婚を問わず、生きづらさを感じる女性の「つらさ」を解消せずして女性の活躍推進は進まない。

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『負け犬の遠吠え』から12年

『負け犬の遠吠え』(講談社)という本を出した時、様々な反響が寄せられた中で、意外に多かったのが、

「私は結婚しているのですが、子供はいません。こんな私は、負け犬なのでしょうか?」

というものでした。

私はこの本の中で、「未婚、子ナシ、三十代以上」の人を、負け犬と定義しました。ですから、「子供がいようがいまいが、結婚しているなら勝ち犬に決まっているじゃないの」と、その手の質問に対して思っていたのですが、今考えるとわかります。「結婚しているが子供はいない」という状況に、いかにその人達が〝負け感〟を抱いていたかということが。

私は当時、結婚さえしてしまえば、人は「宿題は終わった」という気分になるのだろうと思っていたのです。しかしどうやらそうではないらしく、結婚した人には「子供はまだ?」というプレッシャーがかかる。一人目を産んだなら、「二人目は?」というプレッシャー。二人以上の子を持って初めて、結婚は完成したと見なされるらしいのです。

こういったプレッシャーは、既婚者をうんざりさせるものでしょう。が、もしもその手の外圧が無くなったら、日本の出生率はどこまでも下がっていくであろうことを考えれば、意外に重要な「声かけ」なのかも。

このように、「子供は婚姻関係にある男女間で作るもの」という認識がある日本では、純粋独身者である私のような者は「結婚はしないの?」とは聞かれても、「子供はまだ?」とは聞かれません。四十歳が見えてきて、「そろそろ妊娠もラストチャンス」となると、

「子供だけ産んでおくっていうのも、いいかもよ?」

といったことは言われたものの、それは半ば冗談のような口調でした。

対して、結婚していても子供がいない人は、

「お子さんは?」

と、しょっちゅう聞かれるのです。それも、「期待しているわよぅ」と、善意に満ちた顔で。完全な結婚をしている人、すなわち配偶者と二人以上の子供を得ている人にとって、「既婚子ナシ」というのは、もしかしたら純粋独身者よりも不自然な状態として映るようなのです。

子ナシ既婚者が、

「こんな私は負け犬でしょうか?」

と問う目は、今思い返すと切実な光を湛(たた)えていました。彼女達はおそらく、

「既婚者とはいえ、あなたも負け犬の仲間ですよ。仲良くしましょう」

と、言ってほしかったのです。

彼女達は、勝ち犬すなわち既婚者の群れの中では、「結婚しているのに子供がいない」という意味で、半端者扱いされていました。既婚者仲間と集まっても、子育て話には参加できない。ママ友だって当然、いない。

では、ともう一方を見てみれば、負け犬すなわち独身者達が、「私達は負け犬だからさぁ〜」と、開き直り気味でツルみ、楽しくやっている様子。一体自分の居場所はどこにあるのだろう……と、寂しくなったのではないか。

ところが私は、

「あなたは結婚しているのだから、勝ち犬です。子供がいないくらい、何よ。私達は結婚すらできていないのよ」

と、バッサリ斬り捨ててしまいました。ああ、今だったら、

「つらいなら、負け犬の仲間に入る? いいわよ、こちら側に来ても」

くらいのことを言ってあげたのに。

私が四十代になって、やっとわかったこと。それは、女性の人生の方向性には、「結婚しているか、いないか」よりも、「子供がいるか、いないか」という要因の方が深くかかわる、ということでした。

離婚して再び独身になった友人もたくさんいますが、子ナシで独身になった人と、子持ちで独身になった人の気分は異なります。負け犬と勝ち犬にグループ分けするとしたら、子持ち独身者は勝ち犬グループの方が合うでしょうし、子ナシ独身者は負け犬グループの方がしっくり来るのです。

子ナシの既婚者、すなわち「こんな私は負け犬なのでしょうか?」と聞いてきた人達も、本当は負け犬グループに属した方が、気がラクなのでしょう。子供のお弁当作りやサッカーの送迎についての話ができない人は、負け犬仲間と過ごした方がのびのびできること、間違いなし。

さらに年をとって、皆の夫達が先立つ頃になったら、ますます違いははっきりするに違いありません。夫持ちか否かより、子持ちか否かが、「アラウンド死期」の女性の生活を左右することとなるのですから。

結婚は、一度したからといって盤石の関係性ではありません。離別もするかもしれないし、また夫の方が先に死ぬ可能性も高い。

しかし子供を一度産むと、どれほど親子仲が悪かろうと、そのつながりは一生、切れません。多くの場合、子供は親よりも長生きするわけで、母親にとって子供は、自分が死ぬまで付き合う相手となります。

私がそのことをリアルに実感したのは、まさに母親が他界した時でした。父は既に他界していましたが、父の他界時は母や兄夫婦や私で「看取る」という作業を行いました。そして母の他界時は、今度は兄夫婦と私で、看取りをすることになったわけです。

看取るというのは、単に死の瞬間に立ち会うことだけではありません。人によっては、長い介護生活をする場合もあるでしょう。人はそうポックリと死ぬものでなく、人一人が死ぬまでには、様々な山だの谷だのを乗り越える必要があり、その全体が看取り作業。看取り作業のクライマックスが「死」の瞬間ということになります。

死亡時点で看取り作業が終わりかといったら、これまたそうではありません。お通夜、告別式に四十九日……といった諸行事に加え、遺品や家の片付けに、相続にまつわる作業等、人間一人の死亡にあたって、こなさなくてはならない作業は、山のようにある。そして、それをこなすのは子供の役割なのです。

二人目の親すなわち母親が他界した後、様々な作業をこなしながら、私は思いました。

「で、私が死んだ時は誰がこれをするわけ?」

と。私には子供はいませんから、普通にいけば兄の子供である姪が、これらの作業を担うのでしょう。しかし自分の親でもない人の死後処理をさせられるとは、何と可哀想なのだろう、と思わざるを得ません。

人は一人で生きることはできないと言いますが、一人で死ぬこともできないのです。母親からは、私が若い頃に、

「結婚はしなくていいから、子供を産んでおくといいわよ」

と言われたことがありましたが、そこには「一人では死ねないのだから、看取り要員を産んでおきなさい」という意味も込められていたのかもしれません。

もちろん、人は「死ぬ時に看取ってもらいたいから」という理由で子供を産むわけではありません。男女が出会って、その愛の結果として誕生するのが、子供。子供を産み育てる、そのこと自体に大きな意義があります。

しかし親の死に際して、私ははっきりとわかったのです。「親が死んだ時のために、子供は存在する」ということが。

死んだら死にっぱなしではなく、遺体を燃やしたり墓に入れたり祈ったり祀ったりせずにいられないのが、人間という生き物。子供として最後のそして最も大切な仕事は、「親をきちんと死なせ、その遺体をどうにかする」ということなのです。

そして私はやはり、

「で、私は?」

と思うのでした。「子供」が担う最大の役割に気付いたはいいものの、私は既に四十代半ば。生殖適齢期は過ぎています。「いや、頑張ればまだ大丈夫。五十代で子供を産んだ人だっているのだから」という意見はありましょうが、そこまで無理をして「自分の遺体をどうにかしてくれる要員」を手に入れるというのも、いかがなものか。

以前、新聞に「結婚していないきょうだいの面倒をみさせられるのが負担」といった記事が載っているのを見ました。自分および配偶者のきょうだいが独身・子ナシの場合、その老後の面倒が自分達やその子供にまで降りかかってくるのが迷惑だ、という話だったのですが、それはまさに我が家のことでもあります。

まだ姪は小さくてわけがわからないものの、もう少し物心がついたら、「ゲッ、私は両親のみならず、この叔母さんの死に水を取らなくてはいけないわけ……?」となることでしょう。

そして私は、「子供がいない人生」について、思いを馳せるようになったのです。今、日本では生涯未婚率が男性で約二割、女性で約一割ということになっています。生涯未婚率というのは、五十歳の時点で、一度も結婚したことがない人の割合。すなわち、「ま、五十を過ぎたら人はもう結婚なんてしないでしょう」というのが国の見解ということになる。

それはいいとして、婚外子が極端に少ない日本において、生涯未婚率はそのまま、子ナシ率でもあります。のみならず、結婚している人の中にも子供がいない人達がいるわけですから、その分も数字は上乗せされる。……ということで、決して少なくない割合の「子ナシ族」が発生していることになります。

統計としては存在しないようなのですが、「生涯未婚率」ならぬ「生涯未産率」が、この先は重要な数字になってくるのではないかと、私は思うのです。「生涯、一度も子を産まなかった女性」の割合は、相当高いのではないか。

男性の場合、生殖機能はかなり高齢になるまで衰えないと言いますから、七十代になってパパになりました、という離れ業も可能。「生涯で一度も父親にならない人の割合」の測定も難しそうですが、こちらの数字もまた、かなりのものなのではないか。

子ナシ族が大量発生するということは、将来は子ナシ高齢者が大量発生するということでもあります。

生涯未産で終えそうな私は、その大量の子ナシ高齢者の一人となることが確実。来たるべき子ナシ老人大量発生の時代を前に、子がいないという人生を、どう捉えればいいのか、そしてどう過ごせばいいのか。これからしばらくの間、考えてみたいと思います。

秋刀魚

天地人 9/17

 サンマは食卓に秋を運んでくれる。やはり塩焼きがいい。皮はこんがり、身はふっくらと。上手に焼くと、すっとはしを入れただけで、きれいに身がほぐれる。大根おろしをたっぷりのせて、スダチやレモンを搾るなどし、苦みのあるはらわたも一緒にたいらげる。

 ところが、例年なら最盛期を迎えている北海道や三陸の主要漁港で、サンマの水揚げが振るわず苦戦していると報じられている。記録的な不漁だった昨年を下回るペースという。価格も上昇している。旬を味わうイベント開催などにも影響が出ている。

 青森市内の店頭で見かけた新サンマは、特売で1匹100円前後もあったが200円台になったものも。しかも、脂がのっておいしい時期を迎えたわりに、ほっそりしている。「不漁のため」と解凍サンマに切り替えている店もあった。海水温の変化などを背景に、日本近海に来遊する資源量が減少、小型化も指摘されているようだ。

 昭和の食通・池波正太郎さんは、サンマを「毎日のように食べて飽きない」と「味と映画の歳時記」(新潮文庫)につづった。子ども時代、夕暮れとなって遊びから帰ると、家々の路地にサンマを焼く煙が流れた。安くてうまいから、初秋の食膳には1日おきに出たと懐かしむ。

 平成のサンマは庶民の食卓から遠ざかりつつある。うまくても毎日とはいかない。1日おきも厳しい。

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明窓 9/17

 「飯熱く 下魚(げざかな)ながらも秋刀魚(さんま)かな」(籾山柑子)。さんまを焼くためだけに置いてある七輪(しちりん)が、今年も出番を迎えた。さんまの水揚げも持ち直したとか。値段も安くなってきた。

七輪で煙を上げながらさんまを焼くのは、田舎暮らしの醍醐味(だいごみ)。「食べ物の焦げはがんの原因」と言われてきたが、どうやらそれはないと最近聞いたので、これからは遠慮なし。焦げのところがうまいのだ。

下魚(低級な魚)といわれても食卓の主役を張れるのは、一にも二にも味が良いから。江戸の昔、鯛(たい)とは違って殿様の膳には載らない魚だが、そこをどんでん返ししたのが落語の「目黒のさんま」だ。

鷹(たか)狩りの途中、目黒あたりを通りかかった殿様。さんまを焼く匂いにつられ初めて口にする。以後、その味が忘れられない。御殿で家来に焼かせると、脂を抜いたり骨を抜いたり、まったく別の代物に。殿様は思わず「さんまは目黒に限る」

実在の大名とは無関係のフィクションで、噺家(はなしか)によってバリエーションがあるが、出雲国松江松平家の当主を主人公としているものが多く、目黒のさんまは松江藩ゆかり、と自慢できる。風土記の時代から、山海の産物に恵まれた出雲地方。殿様も本物を知る食通だったと尾ひれも付けたい。

設定は江戸寛永年間というので、初代松江藩主、松平直政の頃。その「殿様」の銅像は、太平洋戦争時に金属類供出されたが、松江藩開府400年を機に再建された。日本独特の食文化にまつわる、モニュメントにも見えてくる。


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鳴潮 9/17

 スーパーに並ぶサンマがやけに細い。秋刀魚と書く。けれども、こんな刀で立ち合えば、すぐに折れそうな心細さだ。今年もサンマの魚影は薄いらしい
 
 10年ほど前は30万トン前後で世界一だった漁獲量は昨年、11万トンにまで落ち込んだ。スダチが活躍する東京は「目黒のさんま祭り」に新鮮な魚を提供している岩手県宮古市も、このところ不振続きで、代わりに北海道産を用意した
 
 政府は、漁獲量を急増させている台湾や中国の乱獲が不漁の一因とみている。日本の排他的経済水域の、さらに先の公海に大型船を繰り出し、サンマの回遊ルートを押さえて、ごっそり持って行ってしまう
 
 近海中心の日本の漁船ではとても太刀打ちできない、といえば分かりやすい図式とはなるが、実際は地球温暖化による海流の変化や、相次ぐ台風で出漁できなかったことも影響している
 
 そもそも日本が取り過ぎたから、との主張もある。「サンマはおいしい」が既にアジアの標準となった以上、ジャパンファーストとはいかない。妥協すべきは妥協し、引き続き資源量の国際管理の方策を探っていかないと、いずれサンマも危機的な状況に陥る恐れがある
 
 アジアの食欲は旺盛だ。魚介類の消費増大は和食人気のたまものとあれば、スダチや上勝のつまもの「彩(いろどり)」の出番も多かろう。もののついでに考えた。

風切り鎌

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 忘れられた年中行事・風切り鎌
   

二百十日(にひゃくとうか)、9月1日は立春から数えて210日目にあたります。この日、大風が来る方向に鎌を立て風除けの行事を行います。今では見られなくなってしまいましたが記憶を辿りかかげました。
 「どうか、台風が来ないように、着たら切っちゃうぞ」そんな気持ちになりました。この頃から田んぼの稲穂が頭(こうべ)をたれ始めます。大切な稲が倒れては収穫に影響もしますし倒れた稲を刈るのには大変です。
 会社から帰り、急いで立てたところ、犬の散歩でAさんが通りました。相当ビックリされ、「どうして・・・」とたずねられました。「なるほど怖いな、風の神様もこれでは怖くて来れないだろう」そう思いました。
 昔の人たちは多分、そんな願いを持ちながら「風切り鎌」を立てたのだろうと思います。
 「備えあれば憂いなし」とか、災害に備えもう一度、避難ルートや懐中電灯等、家族で検討しておくのも良いと思います。


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中日春秋 9/17
 
先日、大型ハリケーン「イルマ」が米国を襲った際、ハリケーンに向けて銃を発砲しようという呼びかけが広がり、当局が絶対にやめてと訴える騒ぎがあった。ハリケーンへの恨み、ストレスも分からぬではないが、詮ない上に危険極まりない。銃社会の歪(ゆが)みを見る思いである。

この話に日本に残る風習を連想する。「風切り鎌」という。屋根や竹ざおの先に鎌をくくりつけて立てる。鎌で風を切って退治するというまじないである。

風におびえ、「風切り鎌」にすがりたい人もいるか。「解散風」のかすかな音が聞こえる人には聞こえるらしい。二十八日召集の臨時国会の会期中、首相が衆院解散・総選挙に打って出るのではという現段階では当てにできぬ観測がある。

北朝鮮の動きを考えれば、選挙どころではなかろうし、解散に値する大義も名分も今はうかがえない。それでも、党利党略だけで、状況を考えた場合、政権支持率が回復に向かい、離党者相次ぐ、民進党が低迷する中、ここが好機と映るらしい。不穏な見立てが永田町のススキを揺らす。

「九月つごもり、十月のころ、空うち曇りて、風のいと騒がしく吹きて、黄なる葉どものほろほろとこぼれ落つる、いとあはれなり」。「枕草子」だが、与党の一部は、「黄なる葉」が野党に見えるのか

大義なき解散となれば世間の「鎌」がどちらに向くかは分かるまいて。


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[枕草子]

190段

風は嵐。三月ばかりの夕暮れにゆるく吹きたる雨風(あまかぜ)。

八、九月ばかりに、雨にまじりて吹きたる風、いとあはれなり。雨の脚横さまに、騒がしう吹きたるに、夏とほしたる綿衣(わたぎぬ)のかかりたるを、生絹(すずし)の単衣(ひとえぎぬ)重ねて着たるも、いとをかし。この生絹だに、いと所狭く暑かはしく、取り捨てまほしかりしに、いつのほどにかくなりぬるにかと思ふも、をかし。

暁に、格子(こうし)、妻戸(つまど)を押しあけたれば、嵐のさと顔にしみたるこそ、いみじくをかしけれ。

九月つごもり、十月のころ、空うち曇りて、風のいと騒がしく吹きて、黄なる葉どものほろほろとこぼれ落つる、いとあはれなり。桜の葉、椋(むく)の葉こそ、いととくは落つれ。

十月ばかりに、木立多かる所の庭は、いとめでたし。
楽天AD

[現代語訳]

190段

風は嵐。三月頃の夕暮れに、ゆるく吹いた雨風。

八~九月の頃に、雨混じりに吹いた風は、とてもしみじみとした趣きがある。雨脚が横殴りに、騒がしい感じで風の吹いている時、夏を通して使った綿入れの衣が掛かっているのを、生絹(すずし)の単衣に重ねて着たのも、とても面白い。この生絹の単衣だって、とても大げさで暑苦しく、脱ぎ捨ててしまいたいほどだったのに、いつの間にこんなに涼しくなったのかと思うのも、面白い。

明け方に、格子や妻戸を押しあけたところ、嵐がさっと冷たく顔に沁みたのは、とてもしみじみとした風情を感じさせた。

九月の末、十月の頃、空が曇って、風がひどく騒がしく吹いて、黄色くなった木の葉がはらはらと散って落ちるのは、とても哀れな情感を誘う。桜の葉、椋(むく)の葉は特に、早々と散ってしまう。

十月頃に、木立の多い家の庭は、とても素晴らしい。

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