2017年08月09日の記事 (1/1)

長崎平和宣言

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 「ノーモア ヒバクシャ」
  この言葉は、未来に向けて、世界中の誰も、永久に、核兵器による惨禍を体験することがないように、という被爆者の心からの願いを表したものです。その願いが、この夏、世界の多くの国々を動かし、一つの条約を生み出しました。
 核兵器を、使うことはもちろん、持つことも、配備することも禁止した「核兵器禁止条約」が、国連加盟国の6割を超える122か国の賛成で採択されたのです。それは、被爆者が長年積み重ねてきた努力がようやく形になった瞬間でした。
 私たちは「ヒバクシャ」の苦しみや努力にも言及したこの条約を「ヒロシマ・ナガサキ条約」と呼びたいと思います。そして、核兵器禁止条約を推進する国々や国連、NGOなどの、人道に反するものを世界からなくそうとする強い意志と勇気ある行動に深く感謝します。
 しかし、これはゴールではありません。今も世界には、15,000発近くの核兵器があります。核兵器を巡る国際情勢は緊張感を増しており、遠くない未来に核兵器が使われるのではないか、という強い不安が広がっています。しかも、核兵器を持つ国々は、この条約に反対しており、私たちが目指す「核兵器のない世界」にたどり着く道筋はまだ見えていません。ようやく生まれたこの条約をいかに活かし、歩みを進めることができるかが、今、人類に問われています。
 核兵器を持つ国々と核の傘の下にいる国々に訴えます。
 安全保障上、核兵器が必要だと言い続ける限り、核の脅威はなくなりません。核兵器によって国を守ろうとする政策を見直してください。核不拡散条約(NPT)は、すべての加盟国に核軍縮の義務を課しているはずです。その義務を果たしてください。世界が勇気ある決断を待っています。
 日本政府に訴えます。
 核兵器のない世界を目指してリーダーシップをとり、核兵器を持つ国々と持たない国々の橋渡し役を務めると明言しているにも関わらず、核兵器禁止条約の交渉会議にさえ参加しない姿勢を、被爆地は到底理解できません。唯一の戦争被爆国として、核兵器禁止条約への一日も早い参加を目指し、核の傘に依存する政策の見直しを進めてください。日本の参加を国際社会は待っています。
 また、二度と戦争をしてはならないと固く決意した日本国憲法の平和の理念と非核三原則の厳守を世界に発信し、核兵器のない世界に向けて前進する具体的方策の一つとして、今こそ「北東アジア非核兵器地帯」構想の検討を求めます。
 私たちは決して忘れません。1945年8月9日午前11時2分、今、私たちがいるこの丘の上空で原子爆弾がさく裂し、15万人もの人々が死傷した事実を。
 あの日、原爆の凄まじい熱線と爆風によって、長崎の街は一面の焼野原となりました。皮ふが垂れ下がりながらも、家族を探し、さ迷い歩く人々。黒焦げの子どもの傍らで、茫然と立ちすくむ母親。街のあちこちに地獄のような光景がありました。十分な治療も受けられずに、多くの人々が死んでいきました。そして72年経った今でも、放射線の障害が被爆者の体をむしばみ続けています。原爆は、いつも側にいた大切な家族や友だちの命を無差別に奪い去っただけでなく、生き残った人たちのその後の人生をも無惨に狂わせたのです。
 世界各国のリーダーの皆さん。被爆地を訪れてください。 遠い原子雲の上からの視点ではなく、原子雲の下で何が起きたのか、原爆が人間の尊厳をどれほど残酷に踏みにじったのか、あなたの目で見て、耳で聴いて、心で感じてください。もし自分の家族がそこにいたら、と考えてみてください。
  人はあまりにもつらく苦しい体験をしたとき、その記憶を封印し、語ろうとはしません。語るためには思い出さなければならないからです。それでも被爆者が、心と体の痛みに耐えながら体験を語ってくれるのは、人類の一員として、私たちの未来を守るために、懸命に伝えようと決意しているからです。
 世界中のすべての人に呼びかけます。最も怖いのは無関心なこと、そして忘れていくことです。戦争体験者や被爆者からの平和のバトンを途切れさせることなく未来へつないでいきましょう。
 今、長崎では平和首長会議の総会が開かれています。世界の7,400の都市が参加するこのネットワークには、戦争や内戦などつらい記憶を持つまちの代表も大勢参加しています。被爆者が私たちに示してくれたように、小さなまちの平和を願う思いも、力を合わせれば、そしてあきらめなければ、世界を動かす力になることを、ここ長崎から、平和首長会議の仲間たちとともに世界に発信します。そして、被爆者が声をからして訴え続けてきた「長崎を最後の被爆地に」という言葉が、人類共通の願いであり、意志であることを示します。
 被爆者の平均年齢は81歳を超えました。「被爆者がいる時代」の終わりが近づいています。日本政府には、被爆者のさらなる援護の充実と、被爆体験者の救済を求めます。
 福島の原発事故から6年が経ちました。長崎は放射能の脅威を経験したまちとして、福島の被災者に寄り添い、応援します。
 原子爆弾で亡くなられた方々に心から追悼の意を捧げ、私たち長崎市民は、核兵器のない世界を願う世界の人々と連携して、核兵器廃絶と恒久平和の実現に力を尽くし続けることをここに宣言します。

2017年(平成29年)8月9日
長崎市長  田上 富久

平和への誓い

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平和への誓い 深堀好敏さん

 原爆が投下された1945年8月9日、私は16歳。爆心地から3・6キロ離れた長崎県疎開事務所に学徒動員されていました。11時2分、白い閃光(せんこう)と爆発音を感じ慌てて机の下にもぐり込みました。夕方、帰宅命令が出て、私は学友と2人、金比羅山を越えて帰ろうと山の中腹まできたところ、山上から逃げてくる多くのけが人に「山の向こうは一面火の海だから…」と制止され、翌朝、電車の線路に沿って歩き始めました。長崎駅の駅舎は焼け落ち、見慣れた町並みは消えてなくなり、別世界に迷い込んだようでした。ようやく辿(たど)りついた山王神社近くの親せきの家は倒壊していました。その中で家の梁(はり)を右腕に抱きかかえるような姿で18歳の姉は息絶えていました。あの時、私が無理をしてでも家に帰っていれば、せめて最期に声をかけられたのではないかと、今でも悔やまれてなりません。そのあと大学病院へ向かい、さらに丘を越えると眼下に浦上天主堂が炎上していました。涙があふれ出るとともに怒りを覚え、「ああ、世界が終わる」と思いました。ここ平和公園の横を流れる川には折り重なって死体が浮いていました。私は、三ツ山に疎開していた両親に姉の死を報告し、8月12日、母と弟と3人で材木を井桁に組み、姉の遺体を荼毘(だび)に付しました。その日は晴天でした。頭上から真夏の太陽が照りつけ、顔の正面からは熱気と臭気がせまり目がくらみそうでした。母は少し離れた場所で地面を見つめたまま、ただ祈り続けていました。
 たった一発の原子爆弾は7万4千人の尊い命を奪い、7万5千人を傷つけました。あの日、爆心地周辺から運よく逃げ延びた人々の中には、助かった喜びも束(つか)の間、得体(えたい)のしれない病魔に襲われ多くが帰らぬ人となりました。なんと恐ろしいことでしょう。私は「核は人類と共存できない」と確信しています。2011年3月、福島第一原子力発電所の事故が発生し国内の原発は一斉に停止され、核の脅威に怯(おび)えました。しかし、リスクの巨大さに喘(あえ)いでいる最中、こともあろうに次々と原発が再稼働しています。地震多発国のわが国にあって如何(いか)なる厳しい規制基準も「地震の前では無力」です。原発偏重のエネルギー政策は、もっと自然エネルギーに軸足を移すべきではないでしょうか。戦後「平和憲法」を国是として復興したわが国が、アジアの国々をはじめ世界各国から集めた尊敬と信頼は決して失ってはなりません。また、唯一の戦争被爆国として果たすべき責務も忘れてはなりません。
 私は1979年、原爆で生き残った有志6人で原爆写真の収集を始め、これまでに様々な人たちが撮影した4千枚を超える写真を収集検証してきました。原子雲の下で起きた真実を伝える写真の力を信じ、これからも被爆の実相を伝え、世界の恒久平和と核廃絶のために微力をつくすことを亡くなられた御霊の前に誓います。

2017年(平成29年)8月9日
被爆者代表 深堀好敏

長崎原爆の日

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卓上四季 8/9

「女子挺身(ていしん)隊の少女たちもモップ状になって立っていた。肉の脂がしたたって、はちゅう類のように光った。小刻みに震えながら、いたかねえ、いたかねえ、とおたがいに訴えあっている」

今年2月に86歳で亡くなった作家、林京子さんが長崎の被爆体験を書いた「祭りの場」の一節だ。爆心地から1・4キロの動員先の工場。苛烈な爆風で肉がはがれてモップのようになった。「原爆には感傷はいらない」と考えた人の容赦ない描写である。

爆心地から同じ距離の病院で、歌人の竹山広さんも被爆した。「人に語ることならねども混葬の火中にひらきゆきしてのひら」「<まつだよしこはここにゐます>と叫ばなくなりて落葉に顔伏する見き」。8月9日の記憶は数々の歌に結実する。

原爆がさく裂した瞬間、おびただしい命が理不尽に断たれた。身元確認のすべもなかった死者も多い。

土地の言葉で痛みを訴える少女、炎の中で開いた手のひら、<まつだよしこ>のうめき。これらの作品は、大量殺りくが、名前も顔も声も持つ誰かの死だったことを教える。

竹山さんの遺歌集にこんな一首がある。「原爆を知れるは広島と長崎にて日本といふ国にはあらず」。あの時、何が起きたのか。生き残った被爆者が今もどれだけ苦しんでいるか。私たちは、まだ何も知らないのではないか。きょうは72回目の長崎原爆の日。繰り返し心に問う必要がある。



天地人 8/9

「ふとっちょ」を意味する「ファットマン」と呼ばれた。米軍B29爆撃機が長崎に投下した、原爆第2号のプルトニウム爆弾である。第1号のウラン爆弾「リトルボーイ」を広島に落として3日後のことだった。1945年8月9日に、被爆した午前11時2分を指したまま、とまった時計が長崎に残る。

 広島型よりも大きな破壊力をもつファットマン投下の第1目標は、兵器工場のあった福岡県の小倉(現在の北九州)だったという。視界が悪かったため、爆撃機は小倉をあきらめ第2目標の長崎にむかった。

 長崎もまた、雲におおわれていた。計測器搭載機にのっていたW・L・ローレンスが手記『0(ゼロ)の暁』を残している。長崎市編集の『ナガサキは語りつぐ』(岩波書店)が、その記述を引く。<ところがそのとき、本当に最後の瞬間、雲の切れ間が見えた。数秒の短い瞬間…>。

 原爆は上空500メートルで爆発した。強烈な熱線や爆風で、爆心地から1キロ以内にいた人のほとんどが即死であったという。推計およそ7万4千人が亡くなり、およそ7万5千人がけがをした。

 秋月辰一郎医師は、原爆症による死者の出る地域が爆心地を中心に円を描きつつ日々拡大していくことに気づく。<病院近くまでくるに及んで、慄然(りつぜん)として身がひきしまった>。『長崎原爆記-被爆医師の証言』(弘文堂)に書く。「死の同心円」と呼んだ。



北斗星 8/9

 広島と長崎に原爆が投下された72年前、秋田市内の小学校にたまたま広島君と長崎君が同級生でいた。「お、この組にはヒロシマとナガサキがいるな」と冗談めかして話す先生もいたという。

その数年後、学級で見た映画に、原爆で両親を失った子が「とうちゃん、かあちゃん、ピカドンでハングリー」と進駐軍に物乞いする場面があったという。映画の影響もあったのだろう、広島君のあだ名は「ピカドン」になった。

いま70代後半の広島君は当時を振り返り、「自分の名字と原爆を結び付けて考えることはなかった」と話す。ピカドンと呼ばれるのを嫌だとも思わなかったという。秋田と被爆地の遠さに加え、占領下とあって戦争のことをよく教わらなかったためでもある。

いち早く原爆の悲惨さを訴えた映画に「原爆の子」(新藤兼人監督)と「ひろしま」(関川秀雄監督)がある。広島君が見たのは「原爆の子」だったかもしれない。どちらの映画も、広島で被爆した少年少女の手記集「原爆の子」(岩波文庫)を原作としている。

この中で当時5歳だった男児は「おつかいから、かえってみると、そのときはもうおとうちゃんは、しんでいた」「二、三日たってから、おかあちゃんも、しんだ」と書いている。壊滅した街の描写より、肉親との別れの場面が胸に迫る。

被爆地との距離は遠く、出来事はさらに遠い過去となりつつある。「原爆の子」を読み返すことで、距離と時間をいくらかでも埋めたいと思う。



風土計 8/9

二つの被爆地を称して「怒りの広島、祈りの長崎」と言い表されることがある。世界に類例のない過酷体験への両地方のスタンスを示唆するフレーズは、代表的文学作品のイメージが影響しているのだろう。

「にんげんをかえせ」と訴えた広島の詩人峠三吉の原爆詩集は被爆者の怒り。一方、長崎では医師を本業とするキリスト教徒の永井隆が、原爆症と闘いつつ「長崎の鐘」など数々の著作で恒久平和と隣人愛を説いた。

長崎の爆心地はカトリック教徒が集まる浦上に近く、信徒1万2千人中、8500人の命が一瞬で散った。地域に戦中のキリシタン差別の意識が残る中で「天罰だ」との流言が飛び交い、信者らを苦しめた。

永井は終戦の年の秋の合同ミサで信徒代表として読み上げた弔辞で「原爆は神の摂理」であり、浦上は「選ばれて燔祭(はんさい)に供された」と述べた。燔祭は神にいけにえを供する儀式。これが永井の評価を複雑にしている。

その宗教的解釈が日本の戦争責任と米国の原爆投下を免責したとの論。「原爆天罰論」に絶望する信徒への純粋な励ましであり政治的文脈で批判するべきではないとする論。「祈り」は壮絶な葛藤でもある。

東日本大震災を、「天罰」と言い放った政治家がいた。平和利用のはずの原子力が、再び三度住民を苦しめる現実。絶望感がよみがえる72年目の夏。



【長崎原爆の日】平和と鎮魂の祈り共に(2017年8月9日配信『福島民報』-「論説」)

 長崎市はきょう、戦後72回目の原爆の日を迎える。同市の平和公園で原爆投下時刻に合わせて「長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」が挙行される。東日本大震災と東京電力福島第一原発事故を経て本県と長崎市は、広島市と同様、より強い絆と縁で結ばれるようになった。長崎市民が歩んできた戦後の苦難の歴史に思いを至らせ、共に平和と鎮魂への祈りをささげる日としたい。
 1945(昭和20)年8月9日午前11時2分に投下された原子爆弾は、広島型の約1・5倍の威力があったとされる。山で囲まれた地形のため広島より被害が軽減されたというが、それでも当時の人口の3分の1に当たる約7万4000人が犠牲になった。その一人一人には大切な日常の生活があったはずだ。全ては一瞬で消し飛んだ。
 市民は原爆の後遺症にも苦しむことになる。6日後の終戦を経て進駐してきた連合国軍は、原爆の被害実態についての情報が広がらないようにしたという。放射線が人体に及ぼす影響を医師らが調査した資料は全て米国に提出させた。国民は放射線が及ぼす影響について正確な情報を知らせられないまま戦後を過ごす。その結果、長崎、広島市民らは結婚や出産などで根拠のない風評にさらされた。
 西洋近代医学の発祥の地として明治以来、国内医学界をけん引してきた旧制長崎医大も原爆で壊滅的な被害を受けた。学舎は倒壊し、医学生の約6割と学長をはじめ教職員合わせて約900人が犠牲となった。しかし戦後、長崎大医学部として復活をすると、先人の思いを引き継ぎ、被爆や放射線関連医療の中心的機関としての役割を担ってきた。
 被爆研究を続けてきた長崎大医学部の存在は、原発事故において本県医療界の大きな力となる。事故の3日後には長崎大医学部のチームが福島医大を拠点に活動を始め、的確なアドバイスをもたらした。経験のない大規模原発事故と放射線の影響について混乱し始めていた医師らは落ち着きを取り戻し、県民医療に全力で取り組む。長崎市職員の派遣や民間の積極的な援助も続けられた。いわれなき風評に対する悲しみを誰よりも理解していた。
 原爆投下による被爆を経験し、心から平和を願う長崎市民の思いを、原発事故を経験し、風評に苦しむ県民はより深く理解できるはずだ。郡山市長崎派遣団の中学生29人もきょうの平和祈念式典に出席する。県民を挙げて長崎市民と共に平和への祈りをささげよう。



天声人語 8/9
 
 原爆投下から25年後のことである。子ども向けの雑誌に全身ケロイドの怪獣が掲載され「ひばくせい人」との説明が添えられた。出版社は批判を浴び、社会問題になった。長崎での被爆体験を持つ作家の林京子さんが作品で取り上げている。

けしからん、と書いているわけではない。「これはこれでいい。漫画であれピエロであれ誰かが何かを感じてくれる」。原爆が風化しているとの危機感ゆえであろう。被爆30年後の私小説『祭りの場』にある。

語り部と呼ばれた作家は、今年2月に他界するまで原爆を書き続け、問い続けた。女学校時代に動員された兵器工場での被爆体験。原爆症で亡くなった友人たち。そして自分もいつ発症するかと、おびえる日々。

半年ごとの診断で「異常なし」と記入されるのが何よりありがたかったと、エッセーで書いている。「次の定期診断の日まで生きられる……六カ月の保証を信じて、ひたすら生きた」。白血球の減少が指摘されたときは空に手をあわせた。「どうかあと少し、せめて息子が中学生になるまで、生かして下さい」

核兵器がいかに非人道的か。どのように人間を破壊するか。実相を知る人たちが一人、また一人と去る。語り継ぐことの重みをかみしめる72回目の原爆忌である。

「体験しなければわからぬほど、お前は馬鹿か」。絵画により原爆を告発した故・丸木俊(とし)さんの言葉だとして林さんが記したものだ。原爆も、戦争も。いまを生きる私たちに投げかけられた警句であろう。



斜面 8/9

はだしの少年が川岸の火葬場にやってきた。息絶えた幼い弟をおぶって唇をかみしめ、直立不動で順番を待っている。ジョー・オダネルさんは心揺さぶられシャッターを切った。原爆投下後の長崎に入った米海兵隊のカメラマンだった。
  
係員が弟を下ろし炎の中に横たえた。少年の顔が赤く染まる。まっすぐ前を見続け背筋を伸ばして立っていた少年は、やがて回れ右をすると一度も振り返ることなく歩き去った―。オダネルさんが著書「トランクの中の日本」に記した少年との出会いだ。
   
惨状を忘れたいと帰国後300枚のネガをトランクに押し込め、ホワイトハウスのカメラマンとして活躍した。被ばくした体は病魔に侵されていく。原爆の不条理を訴えるのが使命―と決心し43年ぶりにトランクの封印を解いた。各地で写真展を開き、4度来日して少年を捜した。
   
願いはかなわず10年前の長崎原爆の日に85歳で亡くなった。存命ならば憤るに違いない。核兵器禁止条約に日本が反対したことだ。「ノーを突きつけるのは、被爆者の頬をはたくことに等しい」と批判されている。被爆国日本が少年の頬をはたいている。
   
美術史家吉岡栄二郎さんの「『焼き場に立つ少年』は何処(どこ)へ」(長崎新聞社刊)は少年の行方を追った記録だ。特定には至らなかった。時間の壁もありこれ以上の情報は得にくい。この「沈黙の一葉」(吉岡さん)からどんな言葉をくみ取り子や孫に伝えていくか。考えずにはいられない。



小社会 8/9

 8月9日は長崎原爆の日。戦争をどう伝えていくかは戦後生まれはもちろんのこと、体験者にとっても難問であるようだ。それは表現を職業とする作家であっても同じなのか。深刻な体験であるほど、書きあぐねる人がいる。

 2017年2月に86歳で亡くなった作家の林京子さんは、14歳のとき長崎市で被爆し、その体験をもとに芥川賞受賞作「祭りの場」を書くまでに約30年かかった。同級生にも多かった長い「沈黙」は、「恐怖のあまりです」と言っている。

 8月9日の体験は鮮烈だが、被爆者にとってはそれで終わりではない。結婚や出産、子育てなどを通じ、内部被ばくの恐怖に襲われる。林さんは「話してしまうと、自分に死が刻印されると感じるのでしょう」と話す。

 小説家・劇作家の故井上ひさしさんは敗戦の年、東北の国民学校の生徒だった。広島で被爆した父と娘を描いた戯曲「父と暮せば」を書くのに、原爆投下から50年かかった。「これほど悲惨な悲劇を体験しない人間が軽々に書いてはいけない」と信じていたそうだ。

 この思いは戦後生まれが戦争について書いたり、語ったりするときの一種の後ろめたさに似ている。しかし林さんは井上さんに、8月の「六日九日は、被爆者の特許ではありません」と語りかけた(「座談会 昭和文学史」)。

 「新しい人にどんどん書いてほしい」と林さんは願った。それが戦争や被爆体験の風化を防ぐ道だ、と。



鳴潮 8/9

原爆が終戦を早め、たくさんの米兵を救った―。米国では今も広島、長崎への原爆投下を正しかったと信じる人が多いという。他の核保有国も事情は同じようだ。

日本原水爆被害者団体協議会(被団協)の田中煕巳(てるみ)代表委員(85)は、7年前に会談したフランス当局者の言葉を覚えている。「わが国民は核兵器保有を誇りに思っている。その世論が変わらなければ、放棄できない」

田中さんは「だったら、世論を変えればいい」と考えた。そこで生まれたのが、昨春に始まった「ヒバクシャ国際署名」である。世界中から数億人の賛同を集め、世論を動かす。高齢になった被爆者らが最後の運動と定めて取り組む。

キャンペーンリーダーを務めるのは、長崎の被爆3世の林田光弘さん(25)だ。高校時代、国連で核廃絶を訴える「高校生平和大使」となり、大学進学後もいろんな社会運動に加わってきた。

活動で大切なのは、被爆体験をきちんと伝えていくことだと思っている。同世代の若者に、どうすれば非人道的な兵器だと実感してもらえるか。被爆者と共に考える試みも行いたいという。

世論といえば、唯一の被爆国の日本が最も厳しいはずなのに、政府は核兵器禁止条約に反対した。世代間だけでなく、政治と世論の溝をどう埋めるか。きょう、長崎原爆忌。被爆者の闘いはまだ終わらない。



長崎原爆の日 世界に通じた祈りと願い(2017年8月9日配信『西日本新聞』-「社説」)

 今年2月に亡くなった作家の林京子さんは、長崎で原爆に遭った。当時14歳。学徒動員で長崎市内の兵器工場で働いていた。
 芥川賞を受賞した「祭りの場」で自身の体験を重ねている。
 「空襲! 女が叫んだ。物音を聞いたのはそれだけである。文字にすれば原爆投下の一瞬はたったこれだけで終わる。(中略)気づいたら倒壊家屋の下にいた」
 きょう8月9日は「長崎原爆の日」である。72年前、一発の原子爆弾が「地獄」とも形容される惨状を引き起こした。
 ●条約前文に「ヒバクシャ」
 瞬時に、無差別に、命という命を奪い去ったばかりではない。かろうじて生き残った人にも急性の、あるいは長期間にわたっての放射線の影響を与え続けている。
 「原水爆は人間の尊厳を踏みにじる、非人道的な兵器だ」。林さんたち文学者は文字を通じて訴えた。医師や科学者たちも声を上げた。そして被爆者たちは、時に傷ついたわが身をさらして世界へ発信し続けたのである。
 国連で7月に採択された核兵器禁止条約には、前文に「hibakusha(ヒバクシャ)」の言葉が盛り込まれた。「受け入れ難い苦痛」を心に刻む、との内容である。核兵器による悲惨な歴史を二度と繰り返さないという決意を表したものだ。
 被爆者で、条約交渉会議の場でも演説した日赤長崎原爆病院名誉院長の朝長万左男(まさお)さん(74)は「被爆者の活動があってこそ、ここまでたどり着けた」と語る。
 長崎、広島は世界の人々に被爆地への訪問を呼び掛けてきた。空撮映像の中で遠く立ち上るきのこ雲が原爆なのではない。その雲の下で同じ時、何が起きていたのか。直接見て、聞いて、知ってほしい-。そんな願いからだ。
 前文の「ヒバクシャ」はその成果である。多くの国が雲の下の惨禍に心を寄せた証しといえよう。
 核保有国は条約交渉の場に出てこなかった。早々と「署名もしない」との方針を示しており、日本もその姿勢に追随している。
 だが、長崎で平和運動に携わる人たちに孤立感はない。「長崎を最後の被爆地に」。その願いと訴えが今回の条約採択ではっきり世界の潮流となったからである。
 今年を核兵器廃絶への「新しい出発点に立った年」として被爆者は心に刻んでいる。
 厚生労働省のまとめでは被爆者健康手帳を持つ全国の被爆者は約16万4千人(2016年度末)。平均年齢は81・41歳で、16年度に被爆者9581人が亡くなった。
 会員の高齢化で既に解散したり、解散を検討したりする被爆者団体がある。長崎市の平和祈念式典で「平和への誓い」を読む被爆者代表の人選は会員の高齢化で関連団体間の持ち回りが困難となり、今年初めて公募方式を採った。
 日本原水爆被害者団体協議会(被団協)の事務局長を20年間務め被爆者運動の先頭に立っていた田中熙巳(てるみ)さん(85)も、高齢などを理由に6月で職を退いた。
 あらがえない、厳しい現実である。風化という時間の流れも容赦なく襲い掛かる。それゆえに被爆体験を継承し、語り継ぐ「次代」の重要性がさらに増している。
 ●政府に行動促す責務
 長崎市は16年度から「体験交流者」を育成する事業を始めている。被爆体験を「受け継ぎたい人」が「託したい人」から話を聞き、講話などで語ってい
く取り組みである。初年度は18歳の高校生など3人が誕生した。本年度も2
期生の研修が進む。
 毎年、国連に核兵器廃絶の署名を届ける「高校生平和大使」も今年20年を迎えた。過去の大使経験者が4月に「高校生平和大使の会」を結成。OB、OGの立場で活動を広げていくことを確認した。
 7日から長崎市で始まった「平和首長会議」では、初めて「若者の役割」を討議する時間が設けられた。若者と首長の意見交換を通じて、今後の平和教育の在り方や平和活動を担う人材育成の方策などを考える狙いだ。
 「核兵器を次の世代に残したくない」。高齢化の進む被爆者の思いは切実だ。悲願をかなえるためには廃絶に向けた現実的な議論を始めるべきである。日本政府には先頭に立って主導するように求め続けなければならない。その世論を高める責務は私たちにある。



春秋 8/9

 熊本市の男性(70)から連絡をいただいた。「この人は私が中学2年生のころ、田崎(同市西区)の東映でフィルム運びをしていた大柄の男性ではないか。太か声で歌いながら外を歩きよったです」

明善高(福岡県久留米市)野球部OBからはこんな話も。「40年ほど前、彼は出前のラーメンを持って自転車で走りよった。『グラウンドに入ったらいけん』と言うのに、横切って」

長崎原爆で孤児になった男性の消息を追った本紙連載「シゲちゃん」に読者から情報や感想が寄せられた。6歳で独りぼっちになりながらもけなげに生き抜いた軌跡は、一人の戦争被害者の戦後史でもあった。

シゲちゃんは勤め先で、一度だけ「長崎で原爆に遭った」と明かしたそうである。けれど、被爆者健康手帳を持っていたのかは分からない。手帳があれば種々の援護施策を受けられると知っていたのかも不明だ。そんな人がほかにも、あるいは自分が被爆者だとさえ知らない人も、多分いたことだろう。

釣り銭の勘定がうまくできなかったシゲちゃん。それで怒られることもあったというシゲちゃん。身寄りを失い、学校に通えず、最期は放射線の影響が疑われる病気で亡くなったとみられている。

「72年前のその瞬間、何人のシゲちゃんが生まれたことか」。連載を担当した長崎総局の記者は問う。一発の原子爆弾が何十万人もの人生を狂わせた。きょう長崎原爆の日。



水や空 8/9

息子が朝刊を広げていた。そばを何気なく通ると、さっとページをめくろうとした。被爆者である母親は動揺する。隠すようにして息子が読んでいたのは、被爆2世にまつわる記事だった。

もしやわが身にも-と息子は放射線の影響を内心で恐れているふうだが、母を気遣って、そのそぶりを見せない。2月、86歳で亡くなった作家、林京子さんの回想である。

原爆とは無縁のはずの子までも苦しめる戦争の悲劇を記す。林さんの文筆活動はここに始まったのだと、文芸評論家の渡邊澄子さんは書いている(「林京子-人と文学」長崎新聞社刊)

14歳のとき長崎で被爆した体験が、芥川賞を受けた「祭りの場」に結実するまで30年かかった。長い長い歳月に包み込まれたのちに、ようやく絵や文学になり、語り継ぐ言葉になる。そういう想像に余る体験がある。

子、孫、さらにその先の世代や時代に心を寄せるとき、体験の記憶は沈黙を破るものらしい。先ごろ、ある読者から何枚もの、胸を打つ被爆体験記を送っていただいた。手紙が添えてある。「いつか長崎新聞に『最後の被爆者が亡くなりました』と記事が載るでしょう。そう考えたら、何か残さないとヤバイと思うようになって」...

誰かが、どこかで語る言葉を聞き漏らすまい。きょうはそう誓う日でもある。



くろしお 8/9
 
 夕食中、戸締まりをしていたのにソ連の兵隊2人が部屋に侵入してきて自動小銃を突き付けられた。奥歯をかみしめてもガチガチして「あの時の恐怖と言ったらなかった」。

 「私の『戦後70年』談話」(岩波書店編集部編)にある俳優宝田明さん(83)の体験談。映画やミュージカルにおける二枚目スターのイメージが強い宝田さんだが、戦争中は満州(中国東北部)の中央部ハルビンに住み、終戦前後、壮絶な体験を経て日本に帰国した。

 8月9日は長崎の「原爆の日」。ソ連が日ソ中立条約を破って、満州に侵攻した日としても記憶される。満州や朝鮮半島にいた日本人が引き揚げまで苦難の道を歩み、命を落とした人も多い。日本兵のシベリア抑留という悲劇も生んだ。

 ハルビンは無政府状態になり、宝田さんはソ連兵の銃弾を腹部に受けたこともあるという。本人も出演する朗読劇「宝田明物語」が9月18日、宮崎市で上演される。積極的に平和への発言を続ける宝田さんに共鳴した県民らが実行委員会を組織、上演にこぎつけた。

 「一夜にして民間人が被害に遭う状況に、戦争の悲惨さが詰まっている」。実行委員長の詩人南邦和さん(84)は朝鮮半島からの引き揚げ者。過酷な体験を封印する人が多い中、故郷を失う意味や祖国への思いに向き合い詩作を続けてきた。

 「体験が風化する中で、語り部としての自覚と責任を持って引き揚げを伝えたい」と南さん。公演は華々しいミュージカル曲もあり、往年のファンから若い人まで楽しめる構成という。終戦前後の体験が原点にあるから輝く平和の尊さだ。



有明抄 8/9

 命ばかりか、名前までも奪う死がある。シベリア抑留を経験した詩人の石原吉郎が、ジェノサイド(大量殺戮(さつりく))の恐ろしさを随筆で書き残している。「死においてただ数であるとき、それは絶望そのものである。人は死において、ひとりひとりその名を呼ばれなければならないものなのだ」

死者の数が多ければ多いほど、一人一人の死の重みが薄れ、「死者数」へと置き換えられる。原爆もまた、「名を奪う死」に違いない。72年前のきょう午前11時2分、長崎に原爆が落とされた。自らも被爆しながら医療活動に尽くした永井隆博士が著書『長崎の鐘』に、あの日の人々の暮らしぶりを描いている。

「地本さんは川平岳で草を刈っていた。ぴかり、いきなり光った」「古江さんは道ノ尾から浦上へ帰る途であった。身体が宙に浮いた」「田川先生は防空日誌に今朝の警報記事を書きこんでいたが、ちょっと顔をあげて窓の外へ目を休めた」

あの日、あの場に居合わせたというだけで背負わされた過酷な運命。私たちの誰もが地本さんであり、古江さんであり、田川先生でありえたのだと思い知らされる。

長崎の原爆死没者名簿には今年、新たに亡くなったり、判明した3551人の名前が書き加えられた。17万5743人。それは、名前まで奪い去ることを許さない、決然たる意志でもある。



南風録 8/9

歌手の福山雅治さんの曲に「クスノキ」がある。出身地の長崎市の神社に立つ大クスが題材だ。原爆の爆風や熱線で枝葉が吹き飛び、幹が黒焦げになっても朽ちず、平和と生命力の象徴として親しまれる。

きのこ雲の惨禍を伝える「もの言わぬ語り部」である。福山さんは「我が魂はこの土に根差し 葉音で歌う生命の叫びを」とうたう。被爆2世の使命感に導かれたと自身の番組で語っていた。

核兵器禁止条約が国連で採択されて初の原爆忌を迎えた。だが、被爆地に笑顔は広がらない。唯一の被爆国でありながら、日本が条約に背を向けているからだ。米国の「核の傘」に頼ることを優先した。

北朝鮮が核・ミサイル開発に突き進む中、抑止力は重要である。確かに安全保障の現実は厳しい。とはいえ、条約交渉の席にすら着かないのは嘆かわしい。長崎市の田上富久市長はきょうの式典で、政府に条約参加を訴えるという。

条約は核兵器の開発から使用、威嚇までも違法とする画期的な内容である。被爆者が自らケロイドをさらしてまで、核の非人道性を訴え続けてきた努力の結晶だろう。「核なき世界」の道は険しくても、画餅にすまい。

被爆者の平均年齢は81歳を超えた。その思いは朽ちることはない。被爆クスノキの苗木は全国に配られ、鹿児島でも育つ。クスの葉が触れ合う音のように核廃絶のメッセージが広がればいい。



[禁止条約後の原爆忌]核廃絶のリード役たれ(2017年8月9日配信『沖縄タイムス』-「社説」)

 広島、長崎の被爆者の悲願だった核兵器禁止条約が国連で採択されてから初めて迎えた、6日の広島平和記念式典。
 際立ったのは、条約を「核なき世界」実現への一歩としたい被爆地と、米国の「核の傘」に依存し条約に反対する政府との立場の違いである。
 広島市の松井一実市長は平和宣言で核兵器を「絶対悪」と断じ、政府に対して条約の締結促進を目指し「核保有国と非核保有国との橋渡しに本気で取り組むよう」に要求した。
 一方の安倍晋三首相はあいさつで条約には一切触れなかった。そればかりか式典後の会見で「保有国と非保有国との隔たりを深めてはならない。双方に働き掛けるわが国のアプローチとは異なる」と述べ、条約へ署名、批准しないことを明言した。
 松井市長が求める「橋渡し」と、安倍首相の言う「隔たりを深めてはならない」はまったく意味の違う言葉である。
 オバマ前米大統領が、昨年5月の広島訪問後に「核の先制不使用」を検討した際、日本が足かせとなったことが米政府関係者の証言で明らかになっている。当時のケリー国務長官が日本を説得するのは時間の制約もあり困難だと主張し、軍部の反対論に同調したという。
 「核の傘」にすがり、条約交渉にも参加せず、核廃絶を求める世界の流れを阻むことが日本のアプローチということか。
 唯一の被爆国としての自覚と責任が感じられない。
■    ■
 核廃絶に向け国際社会をリードすべき日本の姿勢はあまりにも消極的だ。
 政府は昨年4月、憲法9条が一切の核兵器保有と使用を禁止するものではないとする答弁書を閣議決定した。自衛のための必要最小限度の実力を保持することは憲法9条2項でも禁止されていないからとするが、必要最小限度の核兵器というものがあるのだろうか。
 さらに同じ月、広島市で開かれた先進7カ国(G7)の外相会合で採択された広島宣言には核兵器の「非人道性」の文言が盛り込まれなかった。
 戦後70年の広島平和記念式典のあいさつで、安倍首相が国是でもある「非核三原則」に触れず批判されたことも記憶に新しい。
 将来、三原則を変えるのではないか、核保有の可能性が出てくるのではないかという不安が消えない。
■    ■
 長崎はきょう9日、被爆から72年の「原爆の日」を迎える。
 長崎市の田上富久市長は平和宣言で、核兵器禁止条約を評価し、日本政府へ参加に転じるよう求める方針だ。核兵器に依存する安全保障政策の見直しも提言するという。
 平均年齢が80歳を超える被爆者たちは、体験の風化に加え、条約への不参加を表明した政府の対応に心を痛めている。 
 安倍首相は広島でのあいさつで「国際社会を主導していく」と語った。条約に参加せず主導することなどできない。



潮流 8/9

「特別な年です」。原爆が落とされてから72年のこの年を、長崎の田上富久市長はそう表現しました。被爆地にとっても、被爆者にとっても、核兵器のない世界を実現するために運動してきた人びとにとっても^ - ^

人類史に刻まれる核兵器禁止条約の採択後に開かれた今年の原水爆禁止世界大会。日本被団協の木戸季市事務局長が「喜びを分かち合えてうれしい」とあいさつしたように、国内外から集まった参加者は希望にあふれていました。

絶対悪の兵器によって命を奪われ、深く長く続く被害に苦しんできた被爆者。その切なる願いの結実は世界中の反核平和運動をねばり強く励まし、推進してきたこの大会の営みがあったからでしょう。

酷暑の中、汗をしたたらせながらヒバクシャ国際署名を呼びかけていた若者は「自分たちがやっていることに勇気と確信をもてた」。国連会議で訴えた被爆者の和田征子さんは「一人ひとりの一筆一筆が世界を動かす力になると実感している」

喜びの一方で「恥ずかしく、悲しく、腹立たしい」(木戸事務局長)感情も渦巻きました。唯一の戦争被爆国で、国民が耐えがたい苦難と被害を受けながら、条約に背を向ける日本政府に対して。私たちの気持ちがわかるか、なぜ条約に署名しないのか。被爆者たちは安倍首相に怒りを込めて迫りました。

禁止から廃絶へ。長年の努力によって手にした力をさらに。大会に満ちた希望と決意。思いの先はもうひとつ。国民の命と暮らしを守る新しい首相をつくろう―。

ハンドスピナー

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ハンドスピナー 遊び方

ハンドスピナーの遊び方は、
大きく分けて2つあります。

■1つ目
勢いよく回して、どのハンドスピナーが一番回るのか?
ストップウォッチを用意して、タイムを競い合うもの。
(これは、テーブル上などで止まるまで待ち続ける)

そして、長く回ったハンドスピナーの勝ち。

■2つ目
回転が止まるまで待つのではなく、ハンドスピナーを一度回しては止め、回しては止め。
という作業を無意識レベルで繰り返す。遊び方です。

ペン回しのような、手遊び感覚として利用するケースがほとんどです。
指の腹にハンドスピナーを乗せ、落とさないようにバランス感覚を取りながら、
回転している円盤を見たり、指にハンドスピナーを乗せながら人と話をしたり・・・

「●●~ながら」ながら作業を行う時に、無意識にハンドスピナーを回すものです。

長くハンドスピナーと接していると、この手遊び感覚が忘れられず、
また近くで誰かがハンドスピナーを回していたら気になって自分も回したくなる症候群になってきます。

ここで紹介した以外にも、回しているハンドスピナーを
指から指へ移動させたり、肘の上でハンドスピナーを回してみたり・・・
ハンドスピナーをジャンプさせてジャンピングキャッチをしてみたり・・・

遊び方は、無限大です。

是非、あなたも、ハンドスピナーを手にとってみて、
あなた好みの遊び方を見つけてみてください!

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怪獣人生



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中日春秋 8/9

黒沢明監督の『野良犬』では出番のシーンを、すべてカットされた。『七人の侍』では、あっさり斬り倒される名もなき野武士の役。そんな大部屋俳優に超特大の役が回ってきたのは、六十三年前の夏のことだった。

その役は、身長五〇メートルの怪獣ゴジラ。誰も演じたことのない役を演じるにあたって二十五歳の中島春雄さんが足を運んだのは、上野動物園だったという。

一週間ほど通い詰めて、ゾウの脚の運びを観察した。クマのえさの取り方にハゲタカの首の振り方、カンガルーの前脚の使い方…。動物たちから演技指導をみっちり受けたのだ。(『怪獣人生』)

そうして臨んだゴジラ第一作の撮影現場で強く感じたのは、孤独だったそうだ。百キロもある分厚いゴムの着ぐるみに入れば、中は六〇度にもなる。周囲の音もよく聞こえず、どんなに苦しくなっても、自力では出られない。

中島さんが着ぐるみの中で強烈な孤独や閉塞(へいそく)感と闘っていたからこそ、水爆実験で目を覚まされ、未知の人類と対峙(たいじ)したゴジラの哀(かな)しき憤怒(ふんぬ)があれほど、生々しく伝わってきたのかもしれぬ。

「特撮の神様」と呼ばれた円谷(つぶらや)英二さんは、危険な撮影が終わるたび、中島さんを「春ちゃん、今回も死ななくてよかったね」とねぎらってくれたそうだ。おととい、八十八歳で逝った「ゴジラ俳優」を、本物の神様は何と言ってねぎらっているだろうか。

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談話室 8/9

生ゴムを型に入れ、焼いて作った着ぐるみの重さは100キロほど。硬くて身動きできない。股の間には重いバッテリーがあった。ライトで照らされて中は暑い。流れた汗が足元にたまった。息苦しく、孤独でもあった。

本多猪四郎(ほんだいしろう)監督(鶴岡市出身)の映画「ゴジラ」(1954年公開)は破壊の限りを尽くす「怪獣」を銀幕に出現させ、大ヒットした。後に特技監督となる円谷英二氏の特撮技術が新境地を切り開く。着ぐるみをまとったスーツアクターが「主役」として迫力の演技をした。

「元祖ゴジラ俳優」の中島春雄さん(酒田市出身)が逝去した。スーツアクターの草分けで、出演は「ゴジラ対ガイガン」(72年)まで12作を数える。ゴジラは「自分自身でもあると同時に最高の相棒だよ」(「怪獣人生」)。2012年には酒田ふるさと栄誉賞に輝いた。

体長50メートルで体重2万トン―。中島さんは動物園に通いゾウやクマを怪獣の動作の参考にした。暴れるゴジラはファンの心を捉え、本多、円谷両氏の信頼に応えた。「中ちゃん、よろしく頼むよ」。鬼籍に入った両監督とともに新作怪獣映画づくりは天上でもう始まっているか。


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河北春秋 8/9

 昔、東京で「ゴジラ映画」特集に通い、昭和に作られた十数本をまとめて見た。恐ろしかったのは水爆実験で目覚めたゴジラ登場の第1作(1954年)。同年に起きた第五福竜丸被ばく事件を反映し、放射能をまき散らす怪物だった。

迫真の作品は米国でも大ヒットし、怪獣映画の金字塔となる。生みの親は3人の東北人だった。監督を務めた鶴岡市出身の故本多猪四郎さん、特撮を担った須賀川市出身の故円谷英二さん。そして、着ぐるみのゴジラを演じた酒田市出身の中島春雄さん(88)も7日、鬼籍に入った。

第12作「地球攻撃命令 ゴジラ対ガイガン」(72年)まで出演。ゴジラは悪役として暴れ回り、後に宇宙怪獣や公害怪獣らと戦う地球の守り手になるが、憎めない「人間味」が魅力で、漫画のギャグの「シェー」も披露し観客を笑わせた。中島さんの演技の味だった。

18歳で俳優を志したが芽は出ず、戦争映画で火だるまになるスタントに挑み、ゴジラ役につながる。5年前、古里でのトークショーで「100キロもある着ぐるみは猛烈に暑かった」「動物園のゴリラや熊の動きを研究した」と当時の苦労を語った。

今もゴジラの新作はヒットし、テレビの特撮ヒーローものも廃れない。その人気を支える「スーツアクター」たちの先駆者だった。


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