2017年08月08日の記事 (1/1)

通算登板回数

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中日春秋 8/8

世阿弥が「風姿花伝」に五十歳を超えた能役者の演じ方を教えている。「五十有余。此(こ)の頃(ころ)よりは大方、為(せ)ぬならでは、手立てあるまじ。麒麟(きりん)も老いては土馬(どば)に劣ると申す事あり」。ようするに「何もしないでいる以外に方法がない」とは厳しい。

十五世紀の能役者の五十歳が、現在の野球選手の何歳に当たるかは知らない。が、盛りを過ぎ一時は引退を決意した四十二歳の投手は「為ぬ」に背を向け、まだまだと、もがく道を選んだのであろう。中日の岩瀬仁紀投手。その道は通算登板試合九百五十の大記録につながっていた。

大半が先発登板だった米田哲也投手らの記録とは時代が異なり、一概に比較はできぬ。

されど緊迫した場面での登板や連投、いつでも投げられる準備-。救援投手の厳しき役割を思えば、あの頃のタフな大投手に似合った「鉄腕」なる称号よりもこの救援左腕には「鉄心」「鉄魂」の方がふさわしい。

さむけの走る鋭いスライダーは消えたかもしれない。「ピッチャー、岩瀬」。そのアナウンスに心配がまったくないわけではない。それでも抑える。打ち取る。

<さりながら真に得たらん能者ならば(中略)花は残るべし>。世阿弥はそうも教えている。かつて咲かせた花は残る。技術、知識、覚悟、喜び、悲しみ。野球人生で培った、すべての「花」を一球に込め投げる、それが今の岩瀬の魔球である。

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風姿花伝(花伝書)

 こんな芸術論は世界でもめずらしい。ヨーロッパ人なら詩学とか詩法と名付けるだろう。なにしろ六百年前である。ブルネッレスキがやっとウィトルーウィウスを発見し、ファン・アイク兄弟が出てきたばかり、アルベルティの『絵画論』ですら『花伝書』の二十五年あとになる。
 それも建築論や絵画論なら、まだしもわかる。『花伝書』(風姿花伝)は人の動きと心の動きをしるした芸能論である。証拠がのこらないパフォーマンスの理論であって、しかもそこには楽譜のようなノーテーションやコレオグラフはひとつも入っていない。ただひたすら言葉を尽くして芸能の真髄と教えをのべた。それでいて、ただの芸能論でもない。観阿弥が到達した至芸の極致から人間をのべている。人間の「格」や「位」の学習理論にもなっている。
 それを世阿弥が記録して、省き、言葉を加えて、さらに磨きをかけた。したがってこれは世界史的にもめったにあらわれぬ達人の世界観でもあって、かつ極上の人間観にもなっている。それがまた人後に落ちぬ秘伝であることもめずらしい。ちなみに「達人」という言葉は『花伝書』の序にすでに用いられている言葉である。名人の上に達人がいた。観阿弥・世阿弥の父子はあきらかに達人を意識した。
 本座に一忠がいた。これが名人で、観阿弥は一忠を追って達人になる。そして五十二歳で駿府に死んだ。だから世阿弥には名人と達人のモデルがあったということになる。一忠が観阿弥の名人モデルで、観阿弥が世阿弥の達人モデルである。生きた「型」だった。
 そのモデルを身体の記憶が失わないうちにまとめたものが『花伝書』である。観阿弥が口述をして、それを世阿弥が編集したことになっている。きっと観阿弥がわが子世阿弥に英才教育を施し、死期が近づくころに、何度目かの口述をしたのだろうとおもわれる。それを世阿弥はのちのち何度も書きなおす。

 実は『花伝書』は長らく知られていなかった。明治四十二年に安田善之助の所蔵の古伝書群が吉田東伍にあずけられ、それが『世阿弥十六部集』の校刊となって耳目を驚かせたのであって、それまでは数百年にわたってあまり知られていなかった。
 ということは、『花伝書』はそれぞれの能楽の家に口伝として記憶されたまま、半ばは【文字のない文化】の遺伝子として能楽史を生々流転していたのだということになる。『花伝書』は現在では各伝本とも七章立てに構成されているが、その各章の末尾に秘密を守るべき【大事】のことが強調されているのが、その、文化遺伝子を意識したところである。「ただ子孫の庭訓を残すのみ」(問答)、「その風を受けて、道のため家のため、これを作する」(奥義)、あるいは「この条々こころざしの芸人よりほかは一見もを許すべからず」(花修)、「これを秘して伝ふ」(別紙口伝)といった念押しの言葉が見える。
 こうした秘密重視の思想の頂点にたつのが、別紙口伝の「秘すれば花、秘せねば花なるべからずとなり」である。やたらに有名になって人口に膾炙してしまった言葉だが、その意味するところは、いま考えてみても、そうとうに深い。加うるに、このあとにすぐ続いて「この分目を知ること、肝要の花なり」とあって、この分目{わけめ}をこそ観阿弥・世阿弥は必ず重視した。このこと、すなわち「秘する花の分目」ということが、結局は『花伝書』全巻の思想の根本なのである。この根本にはふいに戦慄をおぼえる。
 もともと『花伝書』は正式には『風姿花伝』といった。世阿弥の捩率{れいりつ}の効いた直筆「風姿華傳」の文字も残っている。うまい字ではないが、おもしろい書だ。それにしても『風姿花伝』とは、おそらく日本書籍史の名だたる書名のなかでも最も美しく、最も本来的な標題ではなかろうか。風姿はいわゆる#風体{ふうてい}のこと、『花伝書』には風姿という言葉は見えないが、その本文にない言葉をあえて標題にした。「風姿の花伝」、あるいは「風姿が花伝」なのである。風姿が花で、その花を伝えているのか、風姿そのものが花伝そのものなのか、そこは判然としがたく根本化されている。
 世阿弥はよほどの才能をもっていたとおもわざるをえない。とうてい観阿弥の言葉そのままではないだろう。川瀬一馬をはじめ一部の研究者たちは、世阿弥は観阿弥の話を聞き書きしたにすぎないことを強調するが、聞き書きをしたことがある者ならすぐにわかるように、そこには聞き書きした者、すなわち世阿弥の編集的創意が必ずや入っている。その創意、とりわけ世阿弥は格別だった。そんなことは『花伝書』を読みはじめれば、すぐわかる。

 では、少々ながらガイドをしておくが、『花伝書』は現代語で読んではいけない。もともと古典はそうしたものだが、とくに『花伝書』にはろくな現代語訳がない。けれども、もっと深い意味で『花伝書』の言葉は当時そのままで受容したほうがいい。
 キーワードやキーコンセプトは実にはっきりしている。際立っている。第一に「花」である。何をもって「花」となすかは読むにしたがって開き、越え、迫っていくので、冒頭から解釈しないようにする。
 この「花」を「時分」が分ける。分けて見えるのが「風体」である。その風体は年齢によって気分や気色を変える。少年ならばすぐに「時分の花」が咲くものの、これは「真の花」ではない。そもそも能には「初心の花」というものがあり、この原型の体験ともいうべきが最後まで動く。それを稽古(古{いにし}えを稽{かんが}えること)によって確認していくことが、『花伝書』の「伝」になる。
 第二のコンセプトは「物学」であろう。「ものまね」と読む。能は一から十まで物学なのだ。ただし、女になる、老人になる、物狂いになる、修羅になる、神になる、鬼になる。そのたびに物学の風情が変わる。それは仕立・振舞・気色・嗜み・出立{いでたち}、いろいろのファクターやフィルターによる。
 第三に、「幽玄」だ。この言葉は『花伝書』の冒頭からつかわれていて、観阿弥や世阿弥が女御や更衣や白拍子のたたずまいや童形を例に、優雅で品のある風姿や風情のことを幽玄とよんでいる。それは芸能の所作にあてはめた幽玄であって、むろんその奥には俊成や定家に発した「無心・有心{うしん}・幽玄」の余情{よせい }の心がはたらいている。その心の幽玄は『花伝書』の奥に見え隠れするもので、明示的には書かれていない。われわれが探し出すしかないものなのである。もし文章で知りたければ、世阿弥が晩年に綴った『花鏡』のほうが見えやすい。
 第四には、おそらく「嵩{かさ}」と「長{たけ}」がある。これは能楽独得の「位」の言葉であって、「嵩」はどっしりとした重みのある風情のことで、稽古を積んで齢を重ねるうちにその声や体に生まれてくる位{くらい}である。これに対して「長」は、もともと生得的にそなわっている位の風情というもので、これがしばしば「幽玄の位」などともよばれる。けれども世阿弥は必ずしも生得的な「幽玄の位」ばかりを称揚しない。後天的ではあるが人生の風味とともにあらわれる才能を、あえて「闌{た}けたる位」とよんで、はなはだ重視した。『花鏡』にいわゆる「闌位{らんい}」にあたる。
 第五にやはり「秘する」や「秘する花」ということがある。すでにのべたように、これは「家」を伝えようとする者にしかわからぬものだろうとおもう。しかし、何を秘するかということは、観世一族の家のみならず、能楽全体の命題でもあったはずで、その秘する演出の構造をわれわれは堪能する。このことはいずれ別の「千夜千冊」の項目で、あらためて謡曲論あるいは能楽論としてふれてみたい。

 こうして「花」「物学」「幽玄」「嵩」「位」を動かしながら、『花伝書』はしだいに「別紙口伝」のほうへ進んでいく。そして進むたび、「衆人愛嬌」「一座建立」「万曲一心」が掲げられ、その背後から「声の花」や「無上の花」が覗けるようになっている。それらが一挙に集中して撹拌されるのが「別紙口伝」の最終条になる。これが絶妙である。
 この口伝は「花を知る」と「花を失ふ」を問題にする。そして「様{よう}」ということをあきらかにする。問題は「様」なのだ。様子なのである。しかしながらこのことがわかるには、「花」とは「おもしろき」「めづらしき」と同義であること、それを「人の望み、時によりて、取り出だす」ということを知らねばならない。そうでなければ、「花は見る人の心にめづらしきが花なり」というふうには、ならない。そうであって初めて「花は心、種は態{わざ}」ということになる。
 ここで口伝はいよいよ、能には実は「似せぬ位」というものがあるという秘密事項にとりかかる。物学{ものまね}をしつづけることによって、もはや似せようとしなくともよい境地というものが生まれるというのである。そこでは「似せんと思ふ心なし」なのだ。かくて、しだいに「花を知る」と「花を失ふ」の境地がふたつながら蒼然と立ち上がってきて、『花伝書』の口伝は閉じられる。ぼくは何度この一冊を読んだかは忘れたが、いつも最後の「別紙口伝」のクライマックスで胸が痛くなる。

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世阿弥の言葉 :7段階の人生論


『風姿花伝』の第一章を、「年来稽古条々」といいます。この本来の趣旨は、年齢に応じた稽古の仕方を示すもので、年齢に応じた対処の仕方や、歳を経ていく自らについて、後世に伝えるものですが、教育者として、親として、どのように子ども(若年者)に対応していったら良いのかという観点や、年齢を経ていくことにも言及しており、世阿弥の教育論、人生論としても示唆に富んだ内容となっています。

幼年期(7歳頃)

「能では、7歳ごろから稽古を始める。この年頃の稽古は、自然にやることの中に風情があるので、稽古でも自然に出てくるものを尊重して、子どもの心の赴むくままにさせたほうが良い。良い、悪いとか、厳しく怒ったりすると、やる気をなくしてしまう。」

世阿弥は、親は子どもの自発的な動きに方向性だけを与え、導くのが良いという考え方を示しています。親があまりにも子どもを縛ると、親のコピーを作るだけで、親を超えていく子どもにはなれない、という世阿弥のことばには含蓄があります。

少年前期(12〜13歳より)

12〜13歳の少年は、稚児の姿といい、声といい、それだけで幽玄を体現して美しい、と、この年代の少年には、最大級の賛辞を贈っています。しかし、それはその時だけの「時分の花」であり、本当の花ではない。だから、どんなにその時が良いからといって、生涯のことがそこで決まるわけではない、と警告もしています。

少年期の華やかな美しさに惑わされることなく、しっかり稽古することが肝心なのです。

少年後期(17〜18歳より)

この時期を世阿弥は、人生で最初の難関がやってくる頃と言っています。

「まず声変わりぬれば、第一の花失せたり」

能では、少年前期の声や姿に花があるとしていますが、声変わりという身体上の変化が加わり、その愛らしさがなくなるこの時期は、第一の難関なのです。

こんな逆境をどう生きるか。世阿弥は、「たとえ人が笑おうとも、そんなことは気にせず、自分の限界の中でムリをせずに声を出して稽古せよ」と説いています。

「心中には、願力を起こして、一期の堺ここなりと、生涯にかけて、能を捨てぬより外は、稽古あるべからず。ここにて捨つれば、そのまま能は止まるべし」

周りからも、本人も才能があると思っていたことが、身体の発育というどうしようもないことにぶつかり絶望する。しかし、そういう時こそが、人生の境目で、諦めずに努力する姿勢が後に生きてくる。

限界のうちで進歩がない時には、じっと耐えることが必要だ。そこで絶望したり、諦めたりしてしまえば、結局は自分の限界を超えることができなくなる。無理せず稽古を続けることが、次の飛躍へと続くのです。

青年期(24〜25歳の頃)

この頃には、声変わりも終わり、声も身体も一人前となり、若々しく上手に見えます。人々に誉めそやされ、時代の名人を相手にしても、新人の珍しさから勝つことさえある。新しいものは新鮮に映り、それだけで世間にもてはやされるのです。

そんな時に、本当に名人に勝ったと勘違いし、自分は達人であるかのように思い込むことを、世阿弥は「あさましきことなり」と、切り捨てています。

「されば、時分の花をまことの花と知る心が、真実の花になお遠ざかる心なり。ただ、人ごとに、この時分の花に迷いて、やがて花の失するをも知らず。初心と申すはこのころの事なり」(新人であることの珍しさによる人気を本当の人気と思い込むのは、「真実の花」には程遠い。そんなものはすぐに消えてしまうのに、それに気付かず、いい気になっていることほど、おろかなことはない。そういう時こそ、「初心」を忘れず、稽古に励まなければならない。)

自分を「まことの花」とするための準備は、「時分の花」が咲き誇っているうちにこそ、必要なのです。

壮年前期(34〜35歳の頃)

この年頃は、ちょうど世阿弥が風姿花伝を著した時期と重なります。世阿弥は、この年頃で天下の評判をとらなければ、「まことの花」とは言えないと言っています。

「上がるは三十四−五までのころ、下がるは四十以来なり」

上手になるのは、34〜35歳までである。40を過ぎれば、ただ落ちていくのみである。だから、この年頃に、これまでの人生を振り返り、今後の進むべき道を考えることが必要なのだというのです。34〜35歳は、自分の生き方、行く末を見極める時期なのです。

壮年後期(44〜45歳の頃)

「よそ目の花も失するなり」

この時期についてのべた世阿弥のことばです。どんなに頂点を極めた者でも衰えが見え始め、観客には「花」があるように見えなくなってくる。この時期でも、まだ花が失せないとしたら、それこそが「まことの花」であるが、そうだとしても、この時期は、あまり難しいことをせず、自分の得意とすることをすべきだ、と世阿弥は説きます。

この時期、一番しておかなければならないこととして世阿弥が挙げているのは、後継者の育成です。自分が、体力も気力もまだまだと思えるこの時期こそ、自分の芸を次代に伝える最適な時期だというのです。

世阿弥は、「ワキのシテに花をもたせて、自分は少な少なに舞台をつとめよ」ということばを残しています。後継者に花をもたせ、自分は一歩退いて舞台をつとめよ、との意で、「我が身を知る心、得たる人の心なるべし」(自分の身を知り、限界を知る人こそ、名人といえる)と説くのです。

老年期(50歳以上)

能役者の人生最後の段階として、50歳以上の能役者について語っています。

『風姿花伝』を書いた時世阿弥は36〜37歳だったので、この部分は、自分の父である観阿弥のことを思い、書いていると言われています。

「このころよりは、おおかた、せぬならでは手立てあるまじ。麒麟も老いては駑馬に劣ると申すことあり。さりながら、まことに得たらん能者ならば、物数は皆みな失せて、善悪見どころは少なしとも、花はのこるべし」(もう花も失せた50過ぎの能役者は、何もしないというほかに方法はないのだ。それが老人の心得だ。それでも、本当に優れた役者であれば、そこに花が残るもの。)

この文章に続けて世阿弥は、観阿弥の逝去する直前の能について語っています。観阿弥は、死の15日前に、駿河の浅間神社(せんげんじんじゃ)で、奉納の能を舞いました。

「その日の申楽、ことに花やかにて、見物の上下、一同に褒美せしなり」

「能は、枝葉も少なく、老木(おいき)になるまで、花は散らで残りしなり」

観阿弥の舞は、あまり動かず、控えめな舞なのに、そこにこれまでの芸が残花となって表われたといいます。これこそが、世阿弥が考えた「芸術の完成」だったのです。老いても、その老木に花が咲く。それが世阿弥の理想の能だったのです。

世阿弥が説く7段階の人生は、何らかを失う、衰えの7つの段階であるともいえます。少年の愛らしさが消え、青年の若さが消え、壮年の体力が消える。何かを失いながら人は、その人生を辿っていきます。しかし、このプロセスは、失うと同時に、何か新しいものを得る試練の時、つまり初心の時なのです。「初心忘るべからず」とは、後継者に対し、一生を通じて前向きにチャレンジし続けろ、という世阿弥の願いのことばだといえるかもしれません。