2017年08月05日の記事 (1/1)

ゆっくり休養

日報抄 8/5

それは学校の土曜休みが月2回に増えた年の全国調査だった。どう過ごすかを聞くと、小学校高学年も中学・高校生も多くが「ゆっくり休養」と答えた。22年前の調査である。その世代も既に中年、子育て世代になっている。

お盆はゆったり過ごせそうですか。ただの連休ならいざ知らず、夏の休暇はそうもいかない。「どこ連れてってくれるの?」の問いに「休養」と答えて許してくれる天使のような家族はどれほどいよう。

古い調査をもうひとつ。妻が休日の夫に求めるのは「外出に付き合ってほしい」が圧倒的で、夫が願うのは「拘束しないでほしい」が一番だった。昭和の調査のようだ。青木雨彦さんが著書「男の子守歌」で取り上げていた。かつて本紙夕刊に辛口コラムを寄せた人だ。

自身はどう休日を過ごしたかというと、子供の手を引いて近所の公園へ。でも子育てに熱心な父親とは違う。散歩なら、デパート行きをせがむ妻は付いてこないから楽なのだ。ひねくれオヤジである。

混雑地に向かう人々のことが信じられないと書いた。そんな青木さんの耳にも行楽シーズンになれば、家族のひそひそ話が聞こえてくる。父親に相談したところで、つれないに決まっているから相談しない。

そこで意固地な父はゴロ寝を決め込むのかと思いきや…荷物を持たされ、家族の後に付いていくのだ。「どこへ行くかぐらい教えてヨ」が青木さんの叫びである。心当たりはありませんか。早く家族の輪に入らないと汗だくの夏になりそうだ。

ご破算

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天鐘 8/5

 そろばんが学校教育に導入されて百年以上がたつ。今は小学3、4年生が算数の授業で学ぶ。昔と同じように「ご破算で願いましては」という声が教室に響いていると思ったら、実際は違った。

「願いましては」が使われることはあっても、「ご破算」は聞かれない。八戸市内の珠算教室の指導者に聞くと、もう20年ほど前から大会でも用いなくなったそうだ。若い世代には、もはや死語かもしれない。

ご破算とは、そろばんの珠(たま)を払って零の状態にすること。読み手が「これから計算をお願いします」と告げ、新たな計算に入ることを示す。それが転じて、今までの状態を白紙に戻す意味でも使われるようになった。

共同通信の世論調査で、安倍内閣の支持率が前回調査より上昇し、支持が不支持をわずかに上回った。支持する理由で最も多かったのが「ほかに適当な人がいない」。積極的な支持とは言い難い。

首相は「加計(かけ)学園」などの問題で国民の不信を招いたとして、低下した支持率の回復を狙いに内閣改造に踏み切った。説明不足を反省し、謙虚な姿勢への転換も強調した。それが本音か、国民は今後の言動を注視する。

自民党は野党が求めた稲田朋美元防衛相の閉会中審査への参考人招致を拒否した。「元大臣は辞任で責任を果たした」「新大臣の対応で十分」との考えらしい。よもや、まだ問題が解けていないのに、これでご破算のつもりでは。

本との出会い

卓上四季 8/5

夏休みに入ったばかりのころは大喜びで遊び回った子どもたちも、この時期になると、時間を持て余す。野球も虫取りも何となくつまらない。

筆者が小5のときだ。午前中はプールで遊んだ。帰宅して昼食を食べるともうやることがない。ゲームもパソコンもない時代。何げなく手を伸ばした本が、図書館で借りた「ドリトル先生アフリカゆき」だった。

動物の言葉が分かるドリトル先生と動物たちが繰り広げる物語だ。井伏鱒二の訳が肌にあったのか、一気にのめり込んだ。登場人物(動物)が頭の中で勝手に動きだす。場面の中に自分が入り込むような感覚だ。

わくわくしながらページを繰った。読み終えると続きを借り、あっという間にシリーズ全巻を読破した。以前から本は好きだったが「ページをめくるのがもったいない」と思ったのは初めてだったかもしれない。

表紙を開けば、そこに未知の世界が無限に広がる。冒険、ミステリー、恋愛。古代から未来まで、時間の制約すらない。そんな世界で自らを自由自在に遊ばせることができる。それが本の魅力ではないだろうか。

いま、3人に1人が1カ月に本を1冊も読まないそうだ。なんとももったいない。夏休み中の子どもたちはもちろん、これからお盆休みをとる大人も、試しに本を手に取ってみてはいかがか。表紙の向こう側に、スマホより楽しい世界が広がっているかもしれない。

…………………………

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台風 5号

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台風5号

2017年8月5日4時30分発表 強い台風第5号は、5日3時には屋久島の南約120kmにあって、北西へゆっくり進んでいます。中心気圧は965hPa、中心付近の最大風速は35m/sです。この台風は、5日15時には屋久島の南西約60km、6日3時には種子島の西約80kmに達するでしょう。その後、7日3時には大分市の南約80kmに達し、8日3時には日本海に達する見込みです。台風周辺地域および進路にあたる地域は暴風や大雨に、台風周辺海域では大しけに厳重な警戒が必要です。次回の台風情報は、

自然がくれた素敵な贈り物




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2015年5月に亡くなった詩人が自ら編んだ「最後の詩集」。 『長田弘全詩集』に収められた以降の近作15篇。詩人はつねに陽気であらねばならない、というのが一貫した姿勢だった。
「夏、秋、冬、そして春」「冬の金木犀」「朝の習慣」。これらの詩行に潜む箴言のような一節。 「思うに、歳をとるにつれ/人に必要となるものはふたつ、/歩くこと、そして詩だ。」
身軽に旅をした。2013年に旧友たちと巡ったシチリア島や、ひょいと出かけたフィレンツェ、アッシジなど、晩年に好んだイタリアでの偶景が、ふと気づくと省察になっている。
そして、「One day」という短い詩。「昔ずっと昔ずっとずっと昔/朝早く一人静かに起きて/本をひらく人がいた頃」と始まり「人生がよい一日でありますように」と終わる詩で、この『最後の詩集』は静かに閉じられる。
青い空のようにあくまで明るく、なおかつ深い、75年をまるで一日のように生きた詩人が残してくれた、本の贈り物。
2014年に発表された連作小文「日々を楽しむ」を大橋歩のイラストとともに併せ収める。

目次

「最後の詩集」
シシリアン・ブルー
カタコンベで考えたこと
円柱のある風景
夏、秋、冬、そして春
詩って何だと思う?
冬の金木犀
朝の習慣
アッティカの少女の墓
アレッツォへ
アッシジにて
フィレンツェの窓辺で
ハッシャバイ
ラメント
詩のカノン
One day

「日々を楽しむ」
ネムルこと
探すこと
ドアは開いている
習慣のつくり方
何もしない
お気に入りの人生

…………………………

最後の詩集
長田弘

今年の5月3日に亡くなった詩人、長田弘は、
没する直前に『長田弘全詩集』を、そして没後2ヵ月後に『最後の詩集』を世に出した。
迫りくる自分の死を、彼は当然のものとして受け止めていたのかもしれない。

後記を見ると、『最後の詩集』というタイトルも、すでに彼自身によって付けられていたことがわかる。
「発表後、詩のおおくに推敲を徹底し、本書を以て決定稿とした」
力強い言葉である。
この人らしい、みごとな仕事、そして、人生の締めくくり方だった。

シチリアを旅した際の詩から始まる15編。
美しい青の表紙に包まれているのは、この詩集の基調をなす色が「青」だからだ。


『シシリアン・ブルー』

どこまでも、どこまでも
空。どこまでも、どこまでも海。
どこまでも、どこまでも
海から走ってくる光。
遠く、空の青、海の青のかさなり。
散乱する透明な水の、
微粒子の色。晴れあがった
朝の波の色。空色。水色。

どこまで空なのか。どこから海なのか。
見えるすべて青。すべてちがう青。
藍、縹(はなだ)、紺、瑠璃、すべてが、
永遠と混ざりあっている。


空の青は、さまざまな波長の光の散らばりであるという。すべての光と色の混在が、空の青である。


文明とは何だ。
この世で
もっともよい眺望を発見するという、
それだけに尽きることだったのでないか。

人に必要となるものはふたつ、
歩くこと、そして詩だ。


シチリアで、アメリカで、スペインで、そして日本の小さな公園の片隅で見つけた「すべての光と色の混在」
人生で出会う諸々を「本」と呼び、人々の発する切り詰められた真実の言葉を「詩」と呼ぶ。
長田弘にとって詩とは、「眺望」できる言葉の意だったのだろう。
この詩集におさめられているのは、彼の見た最後の「眺望」だった。


『冬の金木犀』

金木犀は、実を結ばぬ木なのだ。
実を結ばぬ木にとって、
未来は達成ではない。
冬から春、そして夏へ、
光をあつめ、影を畳んで、
ひたすら緑の充実を生きる、
歯の繁り、重なり。つややかな
大きな金木犀を見るたびに考える。
行為じゃない。生の自由は存在なんだと。


何かを成すこと、達成することが、生きる意味ではない、と詩人は言う。
もしそうなら、実を結ばない「今」や、実を結ぶ属性すら持たない「金木犀」はいつも途上の、欠落した時間であり、空虚なものになってしまう…
「存在」こそが意味なのだ、と彼は言う。
生の自由は、存在。存在に最高の意味がないというのなら、存在を脅かすものへの憤りも生まれてこない。
長田弘の詩に絶えず感じる「鋼の強さ」の内には、そんな秘めた怒り、憤りがいつもあった気がする。


最後の詩集の、最後に置かれた詩は
『One day 』

昔ずっと昔ずっとずっと昔
朝早く一人静かに起きて
本をひらく人がいた頃
その一人のために
太陽はのぼってきて
世界を明るくしたのだ
茜さす昼までじっと
紙の上の文字を辿って
変わらぬ千年の悲しみを知る
昔とは今のことである

一日のおまけ付きの永遠
永遠のおまけである
一日のための本
人生がよい一日でありますように


人生の「三万日」を「永遠のおまけである一日」とする行為、
それが「読書」だ。
それが「本をひらく人」としての詩人の仕事だった。
本をひらく人とは、長田弘のことである。
そして、彼の詩を読む読者もまた、そういう「本をひらく人」であってほしいと、彼は願い続けていたに違いない。
「本をひらく人」の仲間に、私も入れてもらえるだろうか。彼の望むような読み手には、ネコパパは到底及ばない。

それでも、やっぱり…ひらき続けなくては、ね。


本書には、おそらく編集者の判断で、新聞に発表された『日々を楽しむ』と題されたエッセイ6篇も収められている。
決定稿として完成されていた詩集に、この散文を収録することは、長田の意に反するだろう。勇気のいる行為だったのではないか。
しかし、敢えて収めた。
編集者はきっと、詩人が死に直面して、どれだけ静かに、慎ましく、ただ「眺望を伝える人」として「存在」したのかを、
本人の散文によっても、伝えたいと思ったに違いない。
これは、決して「蛇足」にならなかった。
詩と響きあう散文の言葉は、読み手に協和音としての感銘を届ける。

この、青く美しい一冊を、ひとりでも多くの人が手にとってほしい。

…………………………

長田弘『最後の詩集』(みすず書房、2015年07月01日発行)

 長田弘『最後の詩集』はほんとうに長田にとっての最後の詩集。もう新しい作品を読むことはできない。何だか、悔しい。悔しいけれど、まず、詩集を残してくれてありがとうと言わなければならないだろう。ほんとうに、ありがとうございます。
 この詩集を読むと、長田が「青」が好きだったことがわかる。長田にとって「青」とは「透明」でもある。そしてそれは「光」でもある。巻頭の「シシリアン・ブルー」を読むとそのことが伝わってくる。

どこまでも、どこまでも
空。どこまでも、どこまでも海。
どこまでも、どこまでも
海から走ってくる光。
遠く、空の青、海の青のかさなり。
散乱する透明な水の、
微粒子の色。晴れあがった
朝の波の色。空色。水色。

 二行目で、空と海はすでに「一体(ひとつ)」になっている。「青」の「かさなり」の「かさなり」のなかに「空」と「海」があり、そこから「光」が生まれる。そこから「光」が走ってくる。走ってくるとき、その動きのなかに「透明」が散乱する。「空色。水色。」そういうことばになって「散乱する」。「散乱する」のだが、それは、ばらばらになってしまうのではなく、「かさなり」が広がるということだ。この「広がり」を長田は「どこまでも、どこまでも」と書いている。繰り返しているのは、その「どこまでも」がずっとつづくからである。ずっとつづきながら、あるとき「空」になり、あるとき「海」になる。そして「青」になり、「透明」になり、「光」になる。ことばは変化するけれど、そこに「ある」ものは「ひとつ」。それが二行目、「空」と「海」を「一行」のなかに書いてしまっているところに象徴的にあらわれている。
 「青」についてのことばは、さらに「散乱」し、さまざまな「色」を動きつづける。

どこまで空なのか。どこから海なのか。
見えるすべて青。すべてちがう青。
藍、縹(はなだ)、紺、瑠璃、すべてが、
永遠と混ざりあっている。

 さまざまに「散乱する」が、それは「永遠」と「混ざりあっている」。それぞれのなかに「永遠」の「かさなり」がある。「永遠」と「ひとつ」になっている。「ひとつ」になっているからこそ、それを「すべて」という一語で長田は呼ぶ。
 長田はこの光景を、「イタリア、シチリアのエリチェ」の、「三千年近くも前に、フェニキュア人が/断崖絶壁の上に築いた石の砦」から見ている。そして、その見ている「青/光/透明」を再び言い直している。

フェニキュア人の砦からは、
世界のすべてが見えた。
文明とは何だ。--この世で
もっともよい眺望を発見するという、
それだけに尽きることだったのでないか。

 「文明」を定義して、長田は「もっともよい眺望を発見する」ことと言う。この「文明」を「詩」と置き換えると、長田の詩の「本質」を定義したことになるだろう。
 いま長田は「フェニキュア人の砦から」空と海を見つめている。見つめるだけでは「眺望」にならない。見つめたものを「ことば」にすることで「眺望」は完成する。いま見ているもの、見えているものに、もっともいい「ことば」は何か。それを探しながら、長田は詩を書いている。そして、「どこまでも」ということばをつかみ、「青/光/透明」ということばのなかに「散乱」させる。ことばはさまざまに「散乱」しながら視覚を「どこまでも」広げていく。「眺望」に変えていく。そして、それが完成したとき、そこに「永遠」が見える。「青と混ざりあっている永遠」から「永遠」が「透明な光」となって純粋に輝く。
 でも、それではまぶしすぎて、見えない。だから、長田は、もう一度言い直す。

ブルー、シシリアン・ブルー!

 シチリアで発見した青。シチリアで出会った色。
 「シシリアン・ブルー」は単に「青」の種類を書いているわけではない。そこには長田の「出会い」を大切にする生き方がこめられている。シチリアに行き、そこで色に出会っている。その出会いを忘れないようにするために「シシリアン・ブルー」と叫んでいる。絶対的な(抽象的な)「永遠」から少し引き返し、「現実」と切り結んでいる。「シシリアン(シチリアの)」ということばで「現実」を生きている。
 何かに出会い、その出会ったものを、もっともよく「眺望」できることばにする。そうすることで、一瞬一瞬、長田は生まれ変わっている。
 この詩集には、そういう作品が収められている。

 この「眺望」と「詩」の関係は、「詩って何だと思う?」では、

窓を開け、空の色を知るにも
必要なのは、詩だ。

 という形で言い直されている。ことばを通して、空の色を「知る」。そこにあるものを「見る」だけではなく「知る」ためには「ことば」が必要であり、見えたものを「ことば」にしたとき、「眺望」がはっきりする。その「眺望」を完成させる「ことばの動き」。それが詩である。
 さらに、この作品のなかで長田は、

人に必要となるものはふたつ、
歩くこと、そして詩だ。

 と書く。この「歩く」は、何かと出会うことと同じ意味である。「歩く」ことで自分から出て行く。いまの「眺望」を捨てて、ちがう「眺望」に出会う。たとえばシチリアに行く。そこで美しい空と海の光景に出会う。それをことばにする。そのとき世界が広がる。人間が大きくなる。そうやって長田は生きてきた。
 長田のそういう「歩き方」を支えるものに、ひとつ大切なものがある。他人のことばだ。読書だ。他人のことばとしっかり向き合う。そして自分のことばをととのえなおす。
 「円柱のある風景」は同じくシチリアを書いたものだが、そこには和辻哲郎の『イタリア古寺巡礼』の一節(ギリシャ文明/建築に触れた文章)が引用されている。和辻のことばを通りながら、長田は長田のことばの動きをととのえ、和辻の書かなかったところを「眺望」している。長田が何から影響を受けているか、それをどう受け止めて自分をととのえたか。そういうことを正直に書いている。ここにも「出会い」を大切にし、そこから「永遠」へ近づいていこうとする長田の姿勢が見える。

 詩集には、新聞に発表されたエッセイ(大橋歩のイラストつき)もおさめれらている。長田の静かな生き方が滲んでいる。
 詩集のカバーは、「シシリアン・ブルー」ではなく、少しくすんだような、まぶしすぎる空の奥の、暗さを含んだ青色だが、これが逆に詩集のなかの「透明」な感じと響きあっている。とても美しい一冊だ。

…………………………

中日春秋 8/5

<どこまでも、どこまでも/空。どこまでも、どこまでも海…/遠く、空の青、海の青のかさなり。/散乱する透明な水の/微粒子の色。晴れあがった/朝の波の色。空色。水色…>

二年前に七十五歳で逝った長田弘さんの『最後の詩集』(みすず書房)の冒頭を飾るのは、「シシリアン・ブルー」と題された鮮やかな詩だ。

<どこまで空なのか、どこから海なのか。/見えるすべて青。すべてちがう青。/藍、縹(はなだ)、紺、瑠璃、すべてが、/永遠と混ざりあっている…>。読めば、淀(よど)み濁った心が、青く染め上げられていくようでもある。

空、海、そして地球。その青を、私たちの目は、どんな仕組みでとらえているのか。なぜ私たちは、青を見ることができるのか。名古屋工業大学の神取(かんどり)秀樹教授らはそんな謎に十年がかりで取り組み、世界に先駆けて解き明かしたという。

霊長類の視細胞にある「光センサータンパク質」を調べ上げ、構造を解析した。それで浮かび上がったのは、水の大切な働き。赤や緑を感じるタンパク質では水の分子が一つずつばらばらに働いているが、青を見分けるタンパク質では、三つほどの水の分子が集まって小さなかたまりをつくり、独特の役割を担っていると分かったそうだ。

空の青、水の青を感じるため、私たちの瞳の奥でひっそりと働く水の分子たち。自然がくれた素敵な贈り物である。