2017年05月15日の記事 (1/1)

夢を小さく

水や空 5/15

コピーライターの糸井重里さんは、人に何度か「夢が小さくていいね」と言ったという。例えば大作家であっても、家族に褒められたいという小さな夢が何より励みになるものだ、と。

「ボールのようなことば。」という本に書いている。〈「ほんとうに実現したい」という思いがあって、「それに向かって少しでも進みたい」という意思があって、「とはいえ、なかなかぐいぐい進めないんだよな」という俯瞰(ふかん)した見方ができていると、いい感じで夢が小さくなります〉。

大それた絵ではなく、具体的な目標を描く。一足飛びにいくはずもないから、試行錯誤を繰り返す。夢を小さく絞るのも良し、ということだろうか。

いい感じで夢が小さくなるのかどうか。この春に就職した若者への人材育成会社の調査で「仕事や成長のためにできるだけたくさん働きたい」人は前年より5ポイントほど減って、「定時に帰りたい」は逆に5ポイント以上増えたという。

自分の将来像が「はっきりしない」人の比率も過去になく高い。「過労」がやり玉に挙げられるこの頃、「定時」志向にもうなずけるのだけど、小さな夢の一つ二つ、追うのも悪くはないだろう。

5月のこの時節、新社会人が「やる気が出ない」と訴えがちとも聞く。誰かに褒められたい。確かに、そんな小さな夢があっていい。





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差別と関係性

くろしお 5/15

 講義中、いつも着物の懐に手を入れて聴いている学生がいる。怒った講師の夏目漱石はその学生を叱った。すると隣席の学生が言った。「先生、この人は手がないのです」。

 さっと顔色を失う漱石。教室も静まりかえる。学生の前から教壇に戻った漱石はしばらくうつむいていたが、顔を上げて言った。「失礼した。でも僕も毎日無い知恵を絞っているのだから、君もたまには無い腕を出してもよかろう」。教室は笑いに包まれたという。

 一部だけを抜き出せば差別的な表現があるかもしれない。しかし漱石に差別の意図がないのは明白で機知によって暗い雰囲気から救った。差別的とされる言動も関係性や文脈の中で許容される場合があることをこの逸話は教えてくれる。

 映画監督の原一男さんが福岡市での講演で、水俣病患者へ差別的な発言をしたとして問題になった。複数の参加者から指摘があり、本人も反省して水俣市でも謝罪したので行き過ぎたのは確かだろう。関係性があやふやな講演では発言には特に慎重であるべきだ。

 ただ原さんによるこれまでのドキュメンタリー映画は人間関係を重視する姿勢が鮮明で、差別とは開きを覚える。問題発言も水俣病の非人間性を文学的に強調したのではと思ってしまう。患者らとの対話を通して溝が埋まることを願う。

 少なくとも最近の人権意識に欠ける政治家の失言とは次元が違うはずだ。表現活動は期せずして人を傷つける。差別に関わる話題は最初から触れない方がまし、なのか。だが問題を遠ざけるほど、差別を助長することも肝に銘じていたい。

…………………………

漱石と隻腕の学生

■ ■ ■ ■ ■ ■
懐手事件
 夏目漱石が東京帝国大学で講師をしていた時に、隻腕の学生に対してそうと知らずに小言を言ってしまうという小事件があったらしい。
No Item.
 以下、江藤淳「漱石とその時代 第三部」で引用されている、森田草平「漱石先生と私 上」からの孫引き(くの字点を使わないようにするなど、一部、仮名遣いを改めた。他の引用部も同様)。
 明治38年11月10日ごろのこと。講義を突然中断した漱石は、教室の中ほどの席につかつかと歩み寄ると、そこにいた学生に説教を始めた。前列の席にいた森田には、最初は漱石が何を言ってるのかよくわからなかった。
が、だんだん聞いてゐると、その学生は毎も懐手をして頬杖を突いたまゝ、先生の講義を聴いてゐる。それが毎々のことだ。何うでもいゝやうな事ながら、それでは余りに師に対する礼を失しはしないか。ちやんと手を出したらよからうと注意してゐられるものらしい。然るにその学生は、いくら云はれても、俯向いて黙つてゐるばかりで、返辞もしなければ手を出さうともしない。先生の声がだんだん高くなる。見兼ねて、隣席の学生が「先生、この人は元来手がないのです」と注意した。その時先生はさつと顔を赧くされた。何とも言葉が出ない程の衝撃を受けられたらしい。そのまゝ黙つて教壇へ引返されたが、暫くは両手を机に突いたまゝ、顔を上げられなかつた。教室内も水を打つたやうに鎮まり返つてゐた。学生一同も、何うなることかと一寸気を呑まれた形である。が、やつと顔を上げると、先生は「いや、失礼をした。だが、僕も毎日無い智慧を絞つて講義をしてゐるんだから、君もたまには無い腕でも出したらよからう。」かう云つて、直ぐさま後の講義を続けて行かれた

日本文壇史9 日露戦後の新文学 (講談社文芸文庫)
講談社
伊藤 整
 伊藤整「日本文壇史 9 日露戦後の新文学」の第三章にも、やはり森田草平の著書「續夏目漱石」に基づくと思われる、ほぼ同様の記述がある。
 明治三十八年、森田は、前よりも夏目の講義に熱心に出席するやうになつた。この年の十一月十日頃、森田は夏目のシェークスピアの講義を聞いてゐた。この講義は、英文科の一年、二年、三年のものが全部聞くことになつてゐるので、この時は四五十人の學生がその教室にゐた。夏目は、背はあまり高くなかつたが、ハイカラなキチンとした背廣を着て、教壇に立つときは颯爽とした風格があつた。夏目はテキストを開き、いつものやうに初めは低聲で講義をしてゐた。そのうち夏目は教壇を下りて、學生の机の間を通り、教室の中程にある一人の學生の前に立つて何か言つてゐた。その着物を着た學生が、いつも懐手をして講義を聞いてゐるので、この日夏目はそれを叱つたのであつた。夏目の聲は高くなつた。すると隣席の學生が、「先生、この人は元來手がないのです」と言つた。すると夏目の顔に、さつと赤味がさした。彼は默つて教壇に戻り、兩手を机に突いたまま顔を上げなかつた。教室内も水をうつたやうになつた。しばらくしてから、夏目は顔を上げて言つた。
「いや、失禮をした。だが、僕も毎日無い智慧を絞つて講義をしてゐるんだから、君もたまには無い腕でも出したらよからう」と言つた。その恐縮し切つた夏目の態度とユーモアとが、教室の緊張感をゆるめた。そしてまた夏目は講義を續けた。
 どうやらこの逸話を有名にした張本人は、森田草平であるらしい。
最後の一言はなかった?
 この「僕も毎日無い智慧を絞つて講義をしてゐるんだから、君もたまには無い腕でも出したらよからう」という漱石の最後の一言については、本当に彼がこんなことを言ったのか、疑問を呈している書物もある。
 例えば、川島幸希「英語教師 夏目漱石」
 この話には、そこで一瞬顔色を変えた漱石がしばらくして「僕も実はない知恵を出して講義しているのだから、君もまあない手をだしたらよかろう」と言ったという尾鰭がついている。うまい話ではあるが事実ではないらしい。
や、朝倉治彦 三浦一郎編「世界人物逸話大事典」の「夏目漱石」の項
のち誰かによって「僕だって無い知恵を絞って講義をしてるんだから、君だって無い腕を出してくれたってよいのに」というウイットに満ちた言葉が創作された。
などである。
 これらの本が、最後の一言はなかったという説の根拠としているのは、金子健二の「人間漱石」。この本の「『文学論』と私の最後の學年」の章は、金子が東京帝国大学英文科の学生だった当時詳細につけていた日記を元に書かれたもので、その明治37年12月1日についての記述は以下のようなものである。
 十二月一日 夏目先生の『英文學概説』の講義が午前九時から十一時迄あつたので出席した。この日私達の下級生某が例の野武士か山賊のやうなもしやもしやのひげづらで、その上羊羹色の紋付の書生羽織を、その垢だらけの薩摩絣のお粗末な袷の上に不作法に投げ掛けたのは、まだいいとしても、いつもの如く片手を袖口から出さないで、見るからに無精なていたらくでしかもいつも、にやにや微笑をもらしながら、先生のお顔と己がノートを五分五分に見てゐたので、かねて先生の「しやくに障る奴等」の一人としての、そのうつせきしてゐた疳癪の爆彈がとうとう此の憐れむべき紋付のひげ書生の上に破裂した。
 この後、漱石が授業中、学生の身なりや態度を事細かに観察していたことが記され、その証拠として、後年金子自身が漱石から「君は大學の制服を着て居た事はないね。それから君のいつも着てゐる羽織の紋は『蜻蛉』だね。珍しい紋だが、あれは君のお好みの心から工夫されたものかね」と質問されたことを挙げている。
今先生は此の觀察眼で、しかも特に、警戒の目を以て日頃から某君の態度を偵察して居られたのだからたまらない。先生は突然講義を止めて某君に「君、手を出し給へ」と疳癪聲で叫ばれた。私達は先生の口からこんな言葉を未だ曾つて聞かなかつたので皆びつくりしてペンを止めて其の學生の方を見た。その君は例の如くにやにや笑つてゐて、一向手を出す様子もなかつた。先生は今度はより以上に疳癪がゝつた聲で「君、手を出し給へ」と叫ばれた。その君は例の如くにやにや笑つてゐるばかりで、依然として手を出さなかつた。私には此の時某君はなかなか豪らい人物だと私かに感心した。あたりまへならこのやうに言われたら直ぐ手を出すか、又それがいやなら怒つて教室から外へ出てゆく筈だが、此の君は平氣な顔をして、しかもにやにや笑つてゐるではないか。これは膽つ玉の小さい者では到底出來るわざではない。先生は此の時どうお考へになつたものか、それ以上この君に「手を出し給へ」を繰り返されなかつた。そして講義はつゞけられた。しかし、先生の額に疳癪筋が太く張つてゐたことを私達は明らかに認めた。講義が終つた。先生はその君を面責するつもりでその傍へ近寄られた。此の時上級生の某君は以前からこの君を善く知つてゐたものと見え、直ぐ先生の側へ行つて「この君は實は少年時代に大きな負傷をして氣の毒にも片手を失つたのです。どうか、その點を御諒解下さいまして失禮の段何卒御寛恕をお願ひ致します」と釋明した。先生はだまつて教室から出られた。
 やはり漱石の教え子だった野上豊一郎の同事件に関する回想にも、最後の一言はない。以下、「漱石全集月報昭和三年版第九号『大學講師時代の夏目先生』」から引用する。
 學校は殆ど休まなかった。前にも云つたやうに謹嚴そのもので、學生のだらしないのを非常に氣にされ、高等學校の時もよく頬杖をついてゐるのを叱つたが、大學でも嘗つて左手のない男がゐて、恰も懐手をしてゐるかの如く見えるので、或る日つかつかと其男の側に來り、「おい君、手を出し給へ」と咎められた。其時生徒は默つて顔を赤めただけで、先生も沈默して居られたが、あとから手のないのを聞いて非常に氣の毒がられた事もある。
 確かに、金子健二や野上豊一郎の回想を読むと、最後の一言はなかったのではないかと思える。特に金子の「人間漱石」には、事件の起こった日時から隻腕の学生の身なりにいたるまで詳細に記されているだけに、信憑性の高さが感じられる。
やはり最後の一言はあった?
 当然この金子の文章を目にしていた江藤淳や伊藤整は、ではなぜ最後の一言があったということにしたのか。
 やはり、この言葉があった方が話が面白いということが一番だろうが、森田草平が漱石の元を訪ねるきっかけとなったのがこの事件である(少なくとも森田自身はこの事件をそう位置づけている)という点も大きいだろう。
 「日本文壇史 9 日露戦後の新文学」の第三章は、先の引用の後、以下のように続いている。
この話がやがて廣く傳はつた。その時の夏目の恐縮した態度を見てゐなかつた人は、その話のみを傳へ聞いて、「夏目といふ男はひどい奴だ。人の子の不具を材料にして洒落を吐く」と言つて非難した。しかし教室で夏目の様子を見てゐた森田は、このときの夏目が全く恐縮し切つて、本當の苦しまぎれにその洒落を言つたのを知つて、この近づきがたい教師に初めて人間味を見出した。
 「漱石とその時代 第三部」にも、先の引用の後に、以下のような記述がある。
 しかし、このときの漱石の態度に「異常な感銘」を覚えた草平が、勇を鼓して駒込千駄木町五十七番地の漱石の自宅を訪れたのは、その年の暮れ、それもかなり押し詰ってからのことであった。
 江藤淳も伊藤整も、漱石と森田の交遊の重要性から、森田の言い分に耳を傾けざるを得なかったというところか。
 さらには、漱石自身が明治38年11月13日に野村伝四に宛てた葉書に以下のように記していることも見逃せない(「漱石とその時代 第三部」での引用から孫引き。適宜改行)。
(前略)手のない人に手を出せといふのは愚物に賢人になれといふ様なものだ
是は近頃失敬の至であつた
然し僕抔はない学問を出して講義をする位だから学生の方でもない手位はだしてもよさゝうに思ふ
 金子の「人間漱石」によると、懐手事件が起こったのは明治37年12月1日のこと。常識的に考えて、それから一年近くたってから出す私信に、これが「近頃」のことだとは書かないだろう。よってこの葉書は、「人間漱石」の記述の信憑性を揺るがすものということになる。
 また、最後の一言そのものがこの葉書に書かれていることも注目される。つまり、事件のときには口にしなかったかもしれないが、少なくともこの言葉を創作したのが漱石自身であることだけは間違いないということである。
 同じ講義に出ていた他の学生の回想には出てこないにもかかわらず、森田のものにだけこの最後の一言が記されているのは、後に親しくなった漱石から何かの折りにこの言葉を聞いた森田が、これがあった方が話が面白くなると思って付け足したのではないか、という推理が成り立つ(森田が記した曖昧な事件発生日と葉書に記された日付の辻褄が合う点も、なんだかわざとらしい)。もしそうなら、事件を「創作」したのは漱石と森田の二人がかりということになるのではないか。
 さらにうがった見方をすれば、実際にこの最後の一言は発せられたのだが、当時そう非難されたとされているように、漱石が「人の子の不具を材料にして洒落を吐く」との悪評を立てられないよう慮った金子や野上が、あえて書かなかったのかもしれない。
 結局真相は藪の中である。
隻腕の学生の正体

『坊っちゃん』の時代 (双葉文庫)
双葉社
関川 夏央
 関川夏央 谷口ジロー「『坊っちゃん』の時代」の後書きに相当する「わたしたちはいかにして「『坊っちゃん』の時代」を制作することになったか」と題された一文の最後に、以下のような文章が追記されている。なお作中では、事件は「権威のある研究書」とされた「日本文壇史」記載の通りに推移し、よって当然ながら漱石は最後の一言を発したことになっている。
 本文中、教場における手のない学生と漱石の逸話がでてくる(一六一頁)。早とちりをとがめられた漱石は、野村傳四への葉書に「近頃失敬の至であつた」と記した。
 本書ではこの学生を権威のある研究書を典拠として、折蘆魚住影雄に比定し、そのように描いたところ、のちに遺族の方から、当の魚住氏は隻腕ではなかった、との申し越しがあった。魚住氏の東大時代の肖像写真にもはっきりと両手が写し出されている。また第二版分校了後にはこの経緯が通信社の記事として流され、有力紙上に掲載された結果、これも遺族の方からの通知によりかの逸話の主人公は魚住影雄氏ではなく、当時帝大生であった魚住惇吉氏であったことが明らかになり、文学史上の小さな謎がひとつここに解明された。

思いがけない涙 (文春文庫―ベスト・エッセイ集)
文藝春秋
 日本エッセイスト・クラブ編「思いがけない涙 '88年版ベスト・エッセイ集」には、魚住速人「漱石と隻腕の父」というエッセイが収録されている。タイトルからわかるように、著者の魚住速人(当時三菱マテリアル副社長)は件の隻腕の学生の息子である。
 エッセイは、懐手事件(当然最後の一言ありバージョン)を紹介した後、自分の父が東京帝大生で漱石の弟子でもあったということを誇らしく思っていたこと、新聞で「『坊っちゃん』の時代」や「日本文壇史」で隻腕の学生が別人とされていたことを知り名乗り出たこと、父親の略歴(東大卒業後、沖縄で中学校長を務めるも病を得て早々に引退、再度東大で英文学やラテン語を研究)が順に綴られていく。
 子供の頃、遊んでいた不発弾が暴発し、それで左手が吹き飛んでしまったという。ふだん、和服を着て、懐に手を隠していたのは漱石の逸話の通りである。
 手のことを話題にされるのは極端に嫌だったらしく、またそのことで特別扱いされるのも嫌っていた。なにごとも普通の人と同じように行動するのが信条で、スキーに行くのにも必ずストックは二本持って出掛けたし、山登りをするのにも、どういう具合に使うのかザイルも必ず携えて行った。野球も気違いといわれるくらいに好きで、さすがに野球は片手ではすることができず、そのかわり亡くなるまで(昭和十七年)、大学野球を克明に記録していた。
 私自身は陸士に進み、野球をするような時代でもなかったけれど、そのかわり私の息子が東大野球部に入り、法政の江川投手を四打数三安打で打ち破ったことがあるのを父が知ったら、さぞかし喜んだことであろう。
蛇足
 この文章を書き始めるにあたって、しらべものは蔵書とウェブ検索で事足りると、軽く考えていた。持ってない本にはあたる必要はないし(実際、最初から森田草平の著書そのものにはあたる気はなかった)、それで十分だと思っていた。
 しかしながら、結局、金子健二の「人間漱石」を閲覧するために図書館へ出向くはめになった。しかも近所の市立図書館ではなく、わざわざ遠くの県立図書館まで。で、せっかくここまできたのだからと図書館で資料をあさっていくと、ごく短時間でさまざまなことを知ることが出来た。まだまだウェブ上には調べたい情報がないことも多いということを痛感した。
 逆に、この文章をウェブに上げることにも多少の意味はあるかと思う。
 どっちにしろ、かなりどうでもいいことではあるのだが。
追記
 2009/11/10に「漱石と隻腕の学生・続」を追加。

言葉の力

滴一滴 5/15

 〈つまづいたり/ころんだり/したおかげで/物事を深く考えるようになりました〉。詩人で書家の故・相田みつをさんの「つまづいたおかげで」と題する一編である。

〈あやまちや失敗をくり返したおかげで/少しずつだが/人のやることを/暖かい眼で/見られるようになりました〉。行間から作者の実直さが伝わってくる。

相田さんの生涯をたどる特別展が高梁市成羽美術館で開かれている(6月25日まで)。平易な詩と温かみのある筆が独特の味わいを醸し、心にしみる。

その余韻に浸りつつ、昨年末に亡くなった渡辺和子・ノートルダム清心学園前理事長の柔和な笑顔を思い浮かべた。滋味に富んだ著書には、相田さんの詩がよく引用されている。お元気だったなら、きっと会場に足を運んでいたはずだ。

遺作となった近刊「どんな時でも人は笑顔になれる」(PHP研究所)でも、冒頭の詩を引いて逆境を糧とする心得を説いている。〈どうしようもなく、それらが“来る”時、そういうマイナス要素からさえ、プラスの要素を摑(つか)みとることが人間にはできるのです〉と。

人の弱さや迷いをそっと包み込む言葉の数々は二人に共通する他者へのまなざしだろう。この時節、五月病の若者が少なくない。理想と現実の落差が大きいほど悩みは深まる。そんなとき、二人の言葉が力になろう。 


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願ったことが叶えられなかった時の落胆や失望には計り知れないものがあります。でも、そういう切なさ、つらさこそが、実は人間が成長してゆく上で「本当にたいせつなもの」「必要なもの」だったのだと、いつか必ず気づく日があるものです――

 本書は200万部を超えるベストセラ―『置かれた場所で咲きなさい』の著者で、昨年末に89歳で帰天したノートルダム清心学園理事長・渡辺和子さんの図らずも遺作となった書。

 2.26事件での父の死、母の反対を押し切って入った修道生活や若くして就いた学長職、つらい鬱病や難病の経験など、厳しい現実の中で学んだことをまとめた既刊著書の中から、いま改めて伝えたいことを厳選。親交のあったマザー・テレサや恩師、そして苦手だった母との思い出も交え、読みやすくまとめたものです。

 <神が置いてくださったところで咲きなさい>で始まる詩も収録しました。心疲れて道に迷うとき、生きるヒントを示してくれる本です。

生涯を教育に捧げ、89歳で帰天した著者が、最後に遺した書。

生きる指針、人生のヒントが満載。

「たった一度の人生をいかに生きるか」「マザー・テレサが教えてくれたこと」など5章。

第1章  たった一度の人生をいかに生きるか(名前で呼ぶことがたいせつ/人を生かすもの  ほか)

第2章  人を育てるということ(生き方が自らの証になる/有言実行の努力をしよう  ほか)

第3章  祈ること、願いが叶うということ(思い煩いながらおまかせして生きる/なぜ祈るのか、祈りは叶うのか  ほか)

第4章  マザー・テレサが教えてくれたこと(マザー・テレサとの出会い/「きれい」だけれど「貧しい」  ほか)

第5章  美しく生きる秘訣(マザーがかもし出しているもの/きれいさと美しさの境目  ほか)


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『つまづいたって いいじゃないか にんげんだもの』(相田みつをの50代後半の言葉)。
詩人・書家として知られる相田みつをは、1924年5月20日に栃木県足利市で生まれた。本名は光男。雅号、貪不安(ドンフアン)。父は刺繍職人。6人兄弟の3男であり、相田は次兄・幸夫(ゆきお)をよく慕っていた。相田がまだ3、4歳の頃、小学生の幸夫がよく紙芝居を見に連れ出してくれた。その際、家が貧乏で飴を買わずに遠くからタダで見ていた為、あるとき幸夫が紙芝居屋に襟首を掴まれ引きずり出され、皆が見ている前でぶん殴られた。兄一人なら逃げることができたが、幼い弟がいるため捕まったのだ。幸夫は殴られても泣かずにじっと弟を見つめ、紙芝居屋は「強情なヤツめ」と何度も殴った(『歯をくいしばってがまんをしたんだよ 泣くにも泣けなかったんだよ 弟のわたしがいっしょだったから』)。

幸夫は新聞社の模擬テストで県一番に輝いた秀才だったが、家計を助けるため長兄・武雄と同様、小学校を出た後は費用の掛かる旧制中学に通えなかった。そして2人の兄の稼ぎのおかげで4人の弟妹たちが中学に行けた。相田が中学に進むと幸夫は懇々と諭した。「みつを、中学校ってのは下級生を殴るという噂を聞いたけれども、無抵抗な下級生を殴るのは一番野蛮だぞ。無抵抗なものを絶対に殴るなよ」「足袋の穴は恥ずかしくない。その穴から太陽を見ていろ」「どんなにひもじくても、卑しい根性にはならないでくれ」。
そんな優しい兄たちの人生を戦争が狂わせた。

1937年、13歳のときに日中戦争が勃発し、最初に幸夫が兵隊にとられた。出征前に幸夫は弟に言う。「お前なあ、男として生まれてきた以上、しかも中学校に我々の働きで行かせてやったんだから、自分の納得する生き方をしてくれよ。世間の見てくれとか、体裁よりも、自分の心の納得する生き方をしてくれよ」。
幸夫は北京で憲兵隊に回され、自身の調書の書き方ひとつで中国人は即死刑になった。ある日、幸夫から「読んだら燃やせ」「この戦争は間違っていた」と秘密の手紙が相田家に届いた。「自分はいま思想犯の調書を書いているが、捕まえてくるのは北京大学の学生が多くみんな秀才だ。弟を見るようでとても殺すに忍びない。彼らから“どう理屈をいっても武器弾薬を持って他人の国に入って来るのは根本的に間違っている”と言われると二の句が継げない。中国の将来性のある青年を銃殺刑にするのは可哀相だから、なんとか自分の配慮でみんな無罪釈放できるように調書を書いている」。
1941年8月(17歳)、相田家に悲痛な電報が届く。「相田幸夫殿、山西省の戦闘において、左胸部貫通銃創を受け、名誉の戦死」。弔問客が帰った後、母は幸夫の遺影に向かって叫んだ。「幸夫、なんで死んだ、勲章も名誉も母ちゃんはいらない、おまえさえ生きて帰ればなんにもいらない、ユキオ!!ユキオ!!ユキオー!!」。

その後、幸夫の死を看取った戦友Tから手紙が届く。幸夫は撃たれた後2時間ほど生きており、しきりに故郷の親兄弟を心配していた。「死んでゆく自分はいいけれども、両親や弟妹たちの嘆き悲しむ様を想うとそのことが一番つらい」。そして戦友Tは“読んだら必ず焼却して欲しい”と断った後、兄の最期の言葉を記した。「戦争というものは人間の作る最大の罪悪だなぁ……」。同年12月、新たに日米開戦となり、今度は長兄・武雄が兵隊にとられ、1944年5月「ビルマにて戦死」と訃報が届いた(当時、ビルマでは『インパール作戦』の最中。当作戦の日本軍死傷者は5万以上。死者は大半が餓死。武雄もこの作戦で犠牲に)。母は2人の子どもを奪われて気も狂わんばかりになり、85歳で没した際も、臨終前に「武雄!幸夫!」と叫び続けていた。

相田は兄たちを失った後、何か困ったことがあると墓参りに行き「あんちゃんなぁ、どっちの道選んだらいいかなぁ」と石塔と相談するようになった。「私は何かに迷うと、もし、あんちゃんたちが生きていたら、自分がどういう生き方をすれば喜んでくれるだろうかと考えるんです。そして、いつでも、あんちゃんたちが喜ぶ方の道を選ぶんです。私は今日まで、あんちゃんたちに守られて、こういう人生を生かしてもらってきたのです」。

※相田みつを『三人分』より~「三人分の力で頑張れば どんな苦しみにも耐えられるはずだ 三人分の力でふんばれば どんなに険しい坂道でも 越えられるはずだ 三人分の力を合わせれば どんなに激しい波風でも 何とか乗り切れるはずだ そして 三人分の力を合わせれば 少なくとも 人並みぐらいの仕事は できるはずだ たとえ私の力は弱くとも…」「三人分とは 一人はもちろんこの自分 気の小さい 力の弱い だらしのない 私のこと あとの二人は 戦争で死んだ二人の兄たちのこと 豊かな才能と体力に恵まれながら 戦争のために 若くして死んで行った 二人のあんちゃんのこと 学問への志を果たすこともなく 人並みの恋の花すらさかすことなく 青春の固い蕾(つぼみ)のままで死んでいった 二人のあんちゃんのことです わたしの仕事は いつもこの二人のあんちゃんといっしょ だからわたしの仕事は 三人で一ツです」。

戦時の中学には必須科目に軍事教練があり、相田の通う学校には教官として軍から少佐が直接派遣されていた。前任者のときに、相田から筆を借りた友人たちが、その筆を使って日の丸に映画女優の名前を書いた事件が起き、朝礼で犯人探しが行われた。友人たちはシラをきり黙り込んだが、相田は筆を貸した責任を感じ名乗りをあげた為、「アカ」として教練不合格になっていた。相田は新しい教官から、兵器庫の屋根を傷つけたイタズラ犯と決めつけられ、全く無関係なのに体罰を受けた。身に覚えがない相田は罪を認めず、激怒した教官は軍刀を抜いた。
「貴様は上官の俺に反抗するのか!上官に反抗するのは天皇陛下に反抗するのと同じだぞ!」「自分ではありません。殺されても自分ではありません!」。この時の相田は教官と刺し違える覚悟だったという。殺気を感じた教官は刀を納めた。相田は“天皇の名前さえ出せばどんな無理でも通った時代”と振り返る。
「たとえどんな生徒であっても、自分の持っている権力を笠に着て相手の人格を全面的に抹殺するような叱り方は、一生恨みを残すだけで、何の効果もありません。人間を育てる教育者としては最低だと思います。(略)そして、こういう人間の一番始末におえないことは、威張り散らすそのことを“勇ましくてカッコいい”と、本人が思っていることです。戦時中の軍人の中には、そういう単細胞がいっぱいいたのです」。

1942年(18歳)、市内の寺で行われた短歌会にて、生涯の師となる曹洞宗高福寺の武井哲応老師と出会い、在家のまま禅を学び始める。続けて歌人・山下陸奥に師事し、19歳からは書家を志して岩沢渓石に師事した。20歳で軍に召集されたが出征前に敗戦を迎える。間もなく相田は書の才能を開花させ、1954年(30歳)、書道界で権威ある『毎日書道展』に入選を果たした。同年、相田は足利市で初の個展を開き、千江夫人と結婚する。この後、技巧派の書家として『毎日書道展』に7年連続で入選している。
30代になった相田は、伝統的な書で高評価を得つつも、閉鎖的な書道界に違和感を持つようになり、シンプルで短い「詩」をぬくもりのある易しい字体の「書」と融合させた独特の作風を完成させた。
相田は書道教室を開いていたが、妻と2人の子を抱えて生活費が足りず、“ろうけつ染め”を学んで風呂敷や暖簾を制作したり、地元商店から包装紙デザインの注文をとるなどしてギリギリの生活を送っていた。「私は、誰とも競争しない生き方をしたかった。私の学んだ禅の教えは、勝ち負け、損得を越えた世界を生きることにあったからだ」「不思議なもので真剣に歩き続けていると、いつかは仕事をくれる人にめぐり逢える。世の中はそういうもんです」。

1960年12月。相田は『私がこの世に生まれてきたのは、私でなければできない仕事が何か一つこの世にあるからなのだ。それが社会的に高いか低いかそんなことは問題ではない。その仕事が何であるかを見つけ、そのために精一杯の魂を打ち込んでゆくところに人間として生まれてきた意義と生きてゆく喜びがあるのだ』と書く。男36歳、覚悟の言葉だ。

1974年(50歳)、仏教学者・宗教家の紀野(きの)一義がベストセラー『生きるのが下手な人へ』の中で相田のことを紹介。また1984年(60歳)の初詩集『にんげんだもの』がミリオンセラーとなって相田ブームが起きた。3年後に刊行した第2詩集『おかげさん』(1987)も約25万部のベストセラーとなり、各地での講演も増えた。あるとき講演先で、相田は反物の行商をしていた亡き父を知るお婆さんに「あなたのお父さんは仏さまのような大変いい人でした」と言われた。相田いわく「私は涙が出るほど腹の底から嬉しかった。親の財産というのは、何も遺(のこ)さなくていいけれども、“あんたのお父さんは大変いい人でしたよ”という、その一言が、我が子に残す一番いい財産じゃないかと思うんです。私は、こんな嬉しい言葉を聞いたことがありませんでした」。

2つの詩集が話題になり、長年の苦労が報われたその矢先に悲劇が訪れる。1991年、自転車を避けようとして転倒し足を骨折、さらに脳内出血を起こして12月17日に足利市内の病院で急逝した。享年67。相田は成功後も作品制作に妥協せず、印刷による墨の微妙な色の変化や、印刷位置の小さなズレを理由に、印刷済みの色紙千枚を廃棄したことも。長男・一人との最期の会話では「一文字を書いた大作だけを集めた展覧会を開きたい」と夢を語っていたという。

他界翌年に自伝的な遺稿集『いちずに一本道いちずに一ッ事』が出版され、翌々年には遺作集『雨の日には……』が刊行された。没後5周年の1996年、銀座に『相田みつを美術館』が開館(後に丸の内・東京国際フォーラムへ移転)。以降も日本各地で展覧会が催され、『生きていてよかった』(1998)、『じぶんの花を』(2001)と出版が続き、多くの人々から愛され続けている。※2006年時点で作品集とカレンダーは800万部を超えるベストセラーになっている。
『あのときのあの苦しみも あのときのあの悲しみも みんな肥料になったんだなあ じぶんが自分になるための』(死の前年の詩)。


『自分の番 いのちのバトン』相田みつを

父と母で二人
父と母の両親で四人
そのまた両親で八人
こうしてかぞえてゆくと
十代前で千二十四人
二十代前では---?
なんと百万人を越すんです

過去無量の
いのちのバトンを受けついで
いまここに
自分の番を生きている
それが
あなたのいのちです
それがわたしの
いのちです

〔参考文献〕遺稿集『いちずに一本道いちずに一ッ事』を中心に、『生きていてよかった』『にんげんだもの』など作品集。他にエンカルタ総合大百科、Wikipediaなど。
【相田みつを語録&一部に本人の注釈】

『いいことはおかげさま わるいことは わるいことは身から出たさび』

『途中にいるから中ぶらりん 底まで落ちて地に足が着けば ほんとうに落ち着く』

『セトモノとセトモノとぶつかりッこするとすぐこわれちゃう どっちか柔らかければだいじょうぶ やわらかいこころを持ちましょう』

『うばい合えば足らぬ わけ合えばあまる うばい合えば憎しみ わけ合えば安らぎ』

『おかげさん』
※「つまづいたりころんだりしたおかげで少しずつだが自分のことがわかってきました。あやまちや失敗を繰り返したおかげで人のことをいう資格のない自分に気がつきました。そして---いざという時の自分の弱さとだらしなさがよくよくわかってきました。だからつまづくのもおかげさま、ころぶのもおかげさまです」。

『出逢いが人間を感動させ感動が人間を動かす 人間を動かすものは難しい理論や理屈じゃない』

『花はただ咲く ただひたすらに ただになれない人間のわたし』

『どうころんでもおれのかお』

『雨の日には雨の中を 風の日には風の中を』
※「雨の日を天気のいい日と比べて「悪い日」だと思う、人間(自分)中心の考えをやめること。雨の日には雨をそのまま全面的に受け入れて、雨の中を雨と共に生きる。風の日には風の中を、風と一緒に生きてゆく、という意味です。そしてこの場合の雨や風は、次から次へと起きてくる人間の悩みや迷いのことです」。

『あんなにしてやったのに 『のに』がつくとぐちが出る』

『そんかとくか人間のものさし うそかまことか仏さまのものさし』

『しあわせはいつも自分のこころがきめる』(34歳)

(ただいるだけで)『あなたがそこにただいるだけでその場の空気が明るくなる あなたがそこにただいるだけでみんなの心が安らぐ そんなあなたにわたしもなりたい』(56歳)

『つまづいたって いいじゃないか 人間だもの』1980年頃(50代後半)

若者の三大○○離れ

越山若水 5/15

「若者の三大○○離れ」というフレーズがある。その代表は海外旅行、ビール、クルマらしい。若者の内向き志向や付き合いの悪さを裏付ける理由に挙げられる。

果たして本当なのか。「だから数字にだまされる」(小林直樹著、日経BP社)が反論を加えている。海外旅行を検証するため20代の出国者数をチェックした。

「地球の歩き方」が発売された1979年、出国者は100万人を突破し96年は463万人を記録。しかしこれをピークに2015年には253万人まで減少した。

確かに20年ほどで45%、210万人もの大幅な減り方だ。これなら大騒ぎしても仕方ない。でもちょっと冷静に考えよう。96年の20代人口は第2次ベビーブーム世代を含み1900万人を超えていた。

一方、2015年の20代は出生率が過去最低で「1・57ショック」と呼ばれた89年の前後。96年より33%少ない1274万人まで落ち込んだ。出国者が減るのは当然である。

ちなみに20代の出国者率を見れば、96年は24%、15年は20%で大差ない。むしろ80年代以前は1ケタ台で「近ごろの若い者は…」とはとても言えない。

具体的な数字やデータで説明されるると、つい警戒心を緩め信じてしまう。相手をだまそう、説得しようとする悪者の思うつぼ。何事も疑うべし―とは悲しいが、数字の魔力対策には自分の目で確かめるしかない。

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だから数字にダマされる
 「若者の○○離れ」「昔はよかった」の9割はウソ
内容紹介

学者やアナリストら統計のプロ、そしてマスコミも見落とす「落とし穴」とは?
数字の読み方が劇的に変わる

「最近の若い人は内向き志向で海外旅行に興味がない」これ、ウソです。統計調査やアンケートの結果は、そのまま受け止めると実態とズレが生じてしまいます。
 日本からの海外渡航者に占める20代の比率が大きく下がっている。これは事実。しかし20代の人口そのものが少子化で大きく減っているのだから、20代の渡航者も減るのは当然です。20代の中で渡航者の割合をみると、80年代後半のバブル期の20代よりも上回っています。「若者の海外旅行離れ」はかなり無理がある。ウソと言っていいでしょう。

「若者の○○離れ」と言われているものの多くが、実は離れていなかったり、離れはしたが他世代も同様に離れていたりします。そして若者に限らず、こうしたイメージだけでレッテルを張っている例が随所に見られます。
 いわゆる「統計にダマされない」系の類書は、「数字で一般人をダマして買わせようとする悪い大人がいるから、惑わされないようにしよう」という趣旨ですが、実際のところ、学者やアナリストら統計のプロらも意図せず検証を欠いたデータを公表し、それをメディアが無批判にニュースとして報じることで、おかしな数字が悪意なくニュース視聴者・閲覧者に届いてしまっているのが実情です。
 本書ではそうした具体的な事例をケースに分けて紹介し、違った角度からの見方を提示しました。

これって、ホント?ウソ?
◆消費不況の元凶は、モノを欲しがらない若者のせい?
◆内向き志向の若者急増で「海外旅行」に興味ナシ?
◆「キレる若者」が急増しているのは教育が悪いからか?
◆禁酒すると早死にする?朝食を食べると頭が良くなる?
◆英語教師のTOEICスコアが高いと生徒の成績が上がる?
◆「使えない人材」を輩出するワースト1位は○○大学?
◆保育園の建設に反対しているのは中高年の頑固オヤジ?

毎日『ひよっこ』

いばらき春秋5/15

「毎日『ひよっこ』を見ていますよ。尻上がりの茨城弁はなかなか味わいがあります。東北もそうですが、お国言葉はいいですね」。仕事で訪れた岩手県で、地元の人が話してくれた。

先月始まったNHK連続テレビ小説「ひよっこ」。桑田佳祐さんが歌う主題歌のメロディーも、すっかり耳になじんだ。ドラマは有村架純さん演じる主人公で小さな農家の長女、谷田部みね子が架空の「奥茨城村」から上京し工場で仕事を始めた。工場の女子寮では地方からの就職者同士が、方言交じりで会話する。

毎日テレビの前で、みね子や周囲の人たちが困難に立ち向かって支え合いながら生きる姿にほろりとしたり、元気をもらったりする視聴者もたくさんいるだろう。

放映にちなみ、きのうは水戸市の県庁講堂で高校生と若手農家がコラボレーションした農作業着のファッションショーが開かれた。

5月も半ば。この春、就職した新社会人は職場に慣れただろうか。環境の変化や対人関係で戸惑うことも少なくないはずだ。疲労が重なり心身の不調を来す、いわゆる「五月病」が増える頃でもある。

仕事がうまくいかないこともあるだろうが、まだまだ半人前の「ひよっこ」である。焦らず、ゆとりを持って前へ進もう。


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NHK新会長が放言で炎上! 桑田佳祐『ひよっこ』主題歌に「聞き取りにくい」「意味不明」

 NHKの上田良一会長が11日、定例会見に出席。放送中のNHK連続テレビ小説『ひよっこ』について、桑田佳祐が担当する主題歌「若い広場」に「意味不明なところがある」と語り、批判が相次いでいる。

『ひよっこ』のオープニングを「気に入っている」という上田会長は、主題歌のメロディーについて「非常に軽快でいいと思う」と絶賛。

 一方、歌詞については「聞き取りにくくて、なかなか難しくて……」と桑田の独特の歌いまわしに困惑。「どういう歌詞なのか調べてもらった」というが、「調べてもらっても、なかなか意味不明なところがある」と苦笑いを浮かべていた。

 これに、ネット上では「起用しといて、後から四の五の言うとか信じられない」「歌詞を頭で理解しようとするなんて……」「絵に描いたような“おじいちゃん”」といった批判が殺到。さらに、「この会長は、桑田さんを歌を聴いたことがないのか?」「きわどい歌詞もないし、すごくわかりやすい内容なのに」との声も。

 なお、桑田は以前、主題歌の起用について「主題歌のお話を頂戴し身に余る光栄」「『ひよっこ』は1964年を舞台に始まる物語ということで、自然と自分自身の人生を今一度辿っていくような感覚とともに、夢と希望に溢れた日本の未来に思いを馳せながら、歌詞を綴りました。古き良き日本の情感のようなものも、合わせて感じていただけますと幸いです」などとコメントしていた。

「『若い広場』は、まさにドラマの世界観にマッチした歌詞で、桑田の楽曲の中でもトップクラスにわかりやすい内容。今回の水を差すようなコメントは、“老害”としか言いようがない。また、上田会長の言葉を借りるなら、前作『べっぴんさん』のミスチルの主題歌のほうが、よっぽど“意味不明”でしたよ」(テレビ誌記者)

 先月1日に最終回を迎えた『べっぴんさん』の主題歌は、Mr.Childrenの「ヒカリノアトリエ」。その歌詞には、「大量の防腐剤 心の中に忍ばせる」「優しすぎる嘘で涙を拭いたら 虹はもうそこにある」といった想像力の膨らむ言葉が並ぶ。

「そもそも歌詞とは、聴いた人が“それぞれ感じるもの”との認識が一般的。上田会長のナンセンスな発言に呆れた人は多く、ネット上では『受信料、払いたくなくなった』なんて書き込みも。今年、就任したばかりの上田会長ですが、前会長の籾井勝人氏同様、今後も問題発言が飛び出しそう」(同)

 日本屈指のベテランアーティストに対し、「聞き取りにくい」「意味不明」と言い放った上田会長。国民の溜め息は届いているだろうか?

2日目のカレー

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中日春秋 5/15

用意いたしますものは、まず昨夜のシチューの残り。ここに刻んだラッキョウ、しば漬けを投入する。さらには残っていたようなチーズケーキも加える。そこに納豆のタレ、ケチャップ、中濃ソース。黒豆、オイスターソースなども入れ、煮込むこと二時間。「談志カレー」の出来上がりである

立川談志さんの弟子、立川談春さんが『赤めだか』に書いている。入門の日、談志さんに作り方を教えてもらったそうだ。目をつぶって一口食べたところ「意外にもうまかった」とあるが、お試しにならぬ方がいいかもしれぬ

「談志カレー」はシチューの残りをベースにしているが、前の晩にこしらえたカレーはより味が深く、まろやかになったように感じられるものだ。いわゆる「二日目のカレー」

そのファンには悲しいお知らせである。なんでも作り置きのカレーにはウエルシュ菌なる菌が発生しやすく、食中毒の原因となるそうだ。東京の幼稚園では今年三月、前の日のカレーを食べた園児が食中毒症状を訴えている。

煮込んでいるから大丈夫なはずだと怒るファンもいるか。残念ながらその菌の中には熱に強いのもいて、常温で放置すれば、増殖することもある。

<秋風やカレー一鍋すぐに空>辻桃子。句の季節とは違うが、ものの傷みやすい時季である。その日に食べきって、鍋は空にしてしまった方が良さそうである。

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―― 『赤めだか』は、立川談春さんが落語家前座時代を綴った青春記です。この破天荒なエッセイを書くことになったいきさつを教えてください。
立川 文芸評論家の福田和也さんに、文章を書いて欲しいと言われました。寿司をご馳走になっちゃって、じゃあ一回書きますよって。「面白い」と言われて、自分でも書いているってことが面白くなって、「en―taxi」という雑誌で連載することになった。間近で談志師匠や談四楼師匠が、集中して時間をかけて書く姿を見ていましたので、書くって大変だ、生半可なことじゃできないと不安に思っていたのが、「あなたはできます。私が請け合います」って、福田さんにいい文句で口説かれたんですよ。

―― 昭和五十九年三月に入門して、「二十二歳までに二つ目になる」と目標を決め、昭和六十三年、誓いを叶えるまでが主に書かれています。
立川 何を書こうかと考えた時、みんな立川談志には興味があるだろうと。十七で入門するまでを書いたら、まず依頼された原稿用紙三十枚になったってことです。その後連載という形になって、どこかで止めないと終わらねえから、二つ目でとりあえず終わりにしようと。福田さんは延々と続けてくれって言いましたが、嫌だって(笑)。人さまにひけらかして、「へえ、面白い人生だね」と言ってくれる人もいるかもしれませんが、まだそこまでじゃないですね、僕は。書いている暇があったら、落語をしている方がいいって話です。そうしたら編集の人が、本にしますよと。

―― 連載時「談春のセイシュン」というタイトルでしたが、単行本のタイトルが『赤めだか』になったのはなぜですか。
立川 「談志」とか、「修業」「師弟」といった文言を一切入れたくなかったんです。編集者は入れたがるんですが、僕は、福田さんや目黒考二さんが褒めてくれてるんだから、引っかかる人には引っかかる、そこに賭けりゃいいと。あんたんとこ(扶桑社)は『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』が売れたんだから少々冒険したっていいだろう、俺は本が出なくても困らねえんだ、初版なんか三百部だっていいよって言いました(笑)。みんなでタイトルを考えているうちに、”赤めだか”って良くない? って意見が出て、いいねえ、それにしようと。でも編集が納得しないからね、「しょうがない、いいよ、俺も鬼じゃないからね、タイトル案三つ出すから、好きなのを選べ。一番、赤めだか、二番、かたつむり、三番、ふんづまり」って言ったら(笑)、涙ぐんで「赤めだかでいいですっ!」って。でも、これは当たったと思います。タイトルが『赤めだか』じゃなければ、たぶん講談社エッセイ賞を取れていなかったですよ。「談志と私」じゃ、ああ、弟子の本か、で終わりでしょ。

―― 一門の濃密な人間関係、落語家の私生活がこんなに面白いのかと驚きました。ハワイ旅行に行き、談志師匠がトリコロール柄の海パンにグンゼの長袖の下着とももひき、地下足袋とチューリップハットでビーチを歩いたとか。
立川 俺も驚いたよ。生まれて初めて行ったハワイでね。やっぱり、凄い人なんですよね、立川談志という人は。「俺は立川談志なんだ」というプライドに命を賭けて毎日を送っているってことでしょうね。だから簡単に言うと、なんでウェットスーツなんか着なきゃいけないんだということですよ。何でこんなものに何万円も払うんだと。カレーにチーズケーキを入れるエピソードだって、チーズケーキは卵とチーズと小麦粉だから、煮込めばいいとろみが出て、まずくなるわけがねえという話で、常識にとらわれない。簡単に納得しないんでしょうね。それをすると生きづらくなるんだけれども、安易に手を打たないことに、命賭けているんですよね。それは全部「実技」で、世間が「変人」と言ったとしても、舞台に出た時には十五、十六のガキでも分かる、圧倒される超一流の芸をするわけですから。とにかく落語家として凄きゃあ、あとはもう何でもいいんでしょう。確かに変だけれど、僕は是としなければいけないと思う。

―― そのほかのエピソードも面白い。どう選んでいったんですか。立川 そうですね。締め切りの一週間後くらいから書き始めて、校了日の午後くらいに書き終えるわけです。エピソードなんて選んでいる暇がないわけです。目の前の三十枚の原稿用紙を埋めるのが第一義で、終わると持っていかれて添削する暇もなく雑誌に載ることの繰り返し。そんなことをしているうちに「これでいいんだ」という自信は出てきましたけれどね。だって、一回だけ書けばよかったのが、もっと書いてくれと言われるのは、まあ悪くはないんだろうと。

―― 文体にリズム感のよさを感じました。〈落語を語るのに必要なのはリズムとメロディだ。それが基本だ〉と、談志師匠が言うエピソードがありましたね。
立川 そうそう、普段ひっかかりのない言葉で、耳に訴えかけて勝負しているから、目と耳と頭で読んでくれるものでリズム感が出ないわけがない。書くための勉強は何一つしていませんが、一人で座ったまま喋る落語は、省くところや、観客の想像力に頼るところがある。こっちを向くと人物が変わるとか、四百年かけてルールが凄く洗練されていて、二次元でしょ、文章と共通するものがあるんじゃないですか。歴史を紐解いても、文学に落語が与えた影響はとてつもないですよね。この本を読んで面白いと思ったら、落語を聞くといいんじゃないですかね。僕のじゃなくてもいいから、落語は聞いて欲しいですね。

―― 前座全員で築地の魚河岸に働きに出されたそうですね。修業するうちにだんだん世界が広がって、高田文夫さんら、個性的な人たちと遭遇していく。
立川 落語家の弟子になって魚河岸に行きました、は事実だからね(笑)。行ってみたら全くマイナスじゃない。魚河岸の人は親切なんだけれど、仲間になるまでつっけんどんだし、人の親切を受けるのにどんな資格が必要なのか、こっちも教えてもらいました。出会う人が全て超一流の人だったというのは、談志の弟子だった恩恵ですね。しかもその超一流の人が、談志が好きだという親近感で、年は違っても同じ目線で話してくれるわけでしょう。心の底からありがたいと思う。僕らは、入門して本名を捨て、家元からもらった名前をつける。芸だけを教わることはできないのかって言うと、それはできないんですね。落語家になりたくて名前も捨てたような人間の揺らぎを増幅させるのは、人間関係の中の情なんです。こいつじゃしょうがねえとか、こいつにはもう一回チャンスやろうとかね。正しい落語なんてないんですから。観客の好き嫌いに一生を捧げていくわけだから、自分がやりたいと思ったことが人に愛されるかどうかで右往左往するしかないんです。

―― 一門には優秀な兄弟弟子がいて、悔しい思いをしていたら、突然談志師匠から嫉妬について教えられるエピソードもありますね。風邪で稽古を断ったら、師匠が激怒して、辞めようかと悩んで、兄弟子たちに支えられたり。
立川 人間て、何で嫉妬するんだ、どうすりゃ嫉妬しないんだと、コントロールできない感情について解決法まで師匠を筆頭にいろんな人が全て教えてくれる。ただ、嫉妬している自分が恥ずかしいなんて自意識はない。嫉妬する理由だけ分かって、あとは「業の肯定」。ここで納得しているから、根本はちっとも改まらない(笑)。まず、落語は人間を語る商売だと教わるんです。人間を語る商売をするやつが、人間に興味を持たなくてどうするんだと。お前はこのシナリオで何を言いたい、どこを演出したいんだと、語る対象を、縦、横、斜め、裏表、見るように教わる。今、自分で弟子を持つようになって感じるのは、相手の進歩に合わせて無理なことを教えなかったのが、立川談志という人の大きさであり、凄さだということ。理解できる状態になるまで、決して背伸びさせない、先を急がない。凄く我慢をして教えてくれていたわけですよ。俺が命懸けで惚れた落語にこんなガキが惚れて、落語家になろうとしているんだ、俺も育ててもらったから、俺も育ててやろうと。それは師匠自身の体験によるものだと思う。俺も生意気だけれど、師匠の十代の方がもっと生意気だったんじゃないの?(笑)

―― 最終章の柳家小さん師匠をめぐる人々の葛藤はスリリングです。
立川 よくできているでしょ、この本(笑)。そこには、芸という絶対的な共通の価値観があって、やっぱり素晴らしいんですよ。四十、五十の人間を、この人の弟子になってよかったなって思わせられる芸をね、六十、七十でできる世界は、あんまりないですよね。師匠選びも芸のうちって言いますが、その意味で言ったら僕はどんぴしゃです。十五、六で「この人」と思って、十七で入った結果がこの本まで書いて、賞までもらったんですから。

―― 一筋に芸に打ち込んできた談春さんのような生き方がある反面、新入社員の離職率が高くなり、「三年で辞める若者」と言われていますが、辞めるな、と言いたいですか。
立川 ない。全くない。だって、辞めても困らない状況があるんだし。たしかに今の若い子を見ていてどうしてこう、闘争心がないんだろうと思うけど、追い求める俺たちが正しくて、後へ続けとは言いづらい。俺たちが親の世代になって、その子供たちが勤め続けることがいやだって言うんでしょ。絶対に突然変異じゃないから何か自分達の世代にも原因がある。いろいろ連綿と続いて、どうにもならなくなった時に、きっと罰は当たるのよ。子供からお小遣いもらえなくて、コーヒーも飲みにいけないねってお年寄りに俺たちがなるんでしょ。「僕、二十二から二十五までは働いたんだけどな、もうあれっきり働かなかったよ、お父さん」と言われて、「うん、じゃあ、お父さんも、コーヒーは我慢する」って(笑)、そういうお年寄りになるんでしょうね。

―― 最後に、これからの執筆予定はいかがでしょうか。
立川 初めて文章を書いた、褒められた、うろたえた(笑)。そしてここまで来ると、褒められることに慣れてしまった。でも、次が怖い。ものを書くのは「偶然」が続く世界じゃない、そこを突き詰めてもまだ書きたいのかというと、答えは三ヵ月、半年では出せない。書いて、叱られて、ガクッとなるでしょう。そうなった時にどうするんだという話ですよね。僕、趣味はマイナス思考なんで(笑)。でも精一杯のお土産で言えば、意外と半年くらいで、もういっぺん褒められたいから書こうかな、なんてね、思うせこさは十二分にございます。


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立川談春さん

名人・立川談志をして「古典落語で言えば、どんな落語家よりもコイツがうまい」と言わしめた落語家・立川談春。今もっともチケットがとりづらい落語家のひとりでもある。談志に惚れ込み、飛び込んだ落語の世界。厳しい修行を乗り越え、正解のない芸の世界を生き抜いてきたオトコが読んできた本、そして座右の一冊とは――。
人生は博打の連続。そう考えれば、世界が変わる誰も見向きもしない。だからこそ落語にハマった

 落語との出会いは中学の図書室にあった落語全集。当時は一大ブームを巻き起こしていた漫才の話で盛り上がるクラスメイトを尻目に、落語に傾倒していった。
「他人が盛り上がっていると素直にそれに乗れない性格だったんですね。自分独りで盛り上がれるところがまた嬉しくて。寄席に入ったこともなければ、テープを聴くわけでもないのに、いっぱしの落語通気取り。当時の僕にとって、落語とは“読むもの”だったんです」
 幼い頃から本が好きで、学校で推薦図書を大量に注文し、親に呆れられたほどだったという。
「いくら何でも買いすぎだろうと(笑)。その頃から、浪費癖があったんでしょうね。とはいえ、本が欲しいと言えば、まず親は止めないという時代でしたから、『ホントにお前はバカな子だね』なんて言いながら全部買ってくれた記憶があります」
眠い目をこすりながら読んだ吉川英治。そして星新一。


 高校を中退し、17歳で立川流家元・立川談志に入門。親の反対を押し切り、新聞販売店で住み込みで働きながらの修行生活が始まった。
「入門したときに、うちの家元から『これ読んでおけ』と言われたのは吉川英治の『三国志』と『新・平家物語』。家元が談志になる前――小ゑん時代につくった地噺『源平盛衰記』の元ネタになっているのが『新・平家物語』だったんですね。『源平盛衰記』は古典落語の中に新しいギャグを入れ、トークに近いようなものをやって大評判になった出世作。だから、弟子である僕も読んでおくべきだというわけです。落語家になるぐらいだから、本は好きだったし、面白いけれど、とにかく長い!(笑)。星新一の『進化した猿たち』を読んだのも家元にすすめられたのがきっかけ。『これを読めば、ギャグをつくるのがどういうことなのかわかる』と言われてね」
人生の極意はすべてこの本から学んだ/『うらおもて人生録』


 21歳で二つ目に昇進。その頃、出会ったのが『うらおもて人生録』。著者は雀聖・阿佐田哲也の別名でも知られる、色川武大。本書では<勝ち星にこだわるより、適当な負け星を先にたぐり寄せるほうが大事>といった勝負の極意、人生を生き抜くための知恵が語られている。
「人生には、絶対にここだけは負けちゃいけないという局面もありますが、同じ黒星でも負け方次第では好感度アップにつながることもある。そういった人生における勝負の重みやセオリーを教えてくれたのがこの本です。『勝つために負けろ』というイヤらしい話ではなく、人間は不完全だからこそ、短所をどう相手に印象づけるかが重要なのだと。今でも常に意識している本だし、何年経って読み返しても勉強になります」
失敗の連続でも、いろいろやった。そう思って死にたい。

オトコなら、最低限持っておくべき矜持をつきつめろ。そう教えてくれたのも、『うらおもて人生録』だったと談春さんは語る。
「難しいことではあるけれど、それができると日々の行動が変わりますよ。目先のことに流されるのはラク。うろたえて悩むだけでも1日は終わる。でも、行動を起こさなければ、何も手に入らない。僕は悩み続けて何もしないまま人生を終えるより、『あれもダメだし、これもダメだったけれど、いろいろやれたから、まあいいか』と思いながら死にたい。全員に勧められる考えではないけれど、賛同してくれる方はぜひ、『うらおもて人生録』を読んでみてください」
文章が書けるのは、落語家として当然のこと

赤めだか
『赤めだか』
立川 談春
扶桑社

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アクの強さで知られる談志のもとで、その理不尽な要求に困惑しながらも、師匠に心底惚れ込み、悪戦苦闘した修行の日々。ユニークという一言では片づけられない、その破天荒な修行時代のエピソードを中心としたエッセイ集――初めての著書である『赤めだか』は今年、講談社エッセイ賞を受賞した。
「賞をいただいたこと自体は嬉しいし、光栄だけれど、『文章が上手い』と驚かれるのはどこか釈然としないんですよ。落語家は本を読んでおかなくてはいけない商売だし、文章がある程度のレベルにあるのは本来、当たり前のこと。じつは落語や講談は文学に大きな影響を与えているんです。例えば、子母澤寛は『私の雪の描写がうまいのは典山(明治時代の講釈師)の影響です』なんて言葉を残しているし、言文一致体の先駆けになった二葉亭四迷の『浮雲』だって、三遊亭圓朝の口演速記の影響で生まれたものなんですから」
ハッタリをかますなら、文学が狙い目


本を読むことは生活の幅を広げてくれる。しかし、何より大きなメリットは「頭が良さそうに見えること」だと談春さんは笑う。
「ファッションや音楽は、詳しい人が多いから知識量で勝負しようとしても分が悪い。ところが、文学の場合は数を読んでいる人が少ないのでハッタリをかましやすい。狙い目なんです。ウソでもいいから、『好きな作家は大江健三郎と村上春樹、京極夏彦、石原慎太郎……』いった具合に10人ぐらい有名作家の名前を挙げるんです。そうすると、たいていの相手は『本好きなんですか?』と尊敬のまなざしに変わりますよ。最初はハッタリでも構わない。その後で少しずつ本を読み、最終的に“本当に頭のいい人”になってしまえばいいんですから」
談春さんが今、もっとも注目している作家は福田和也。媒体によってまったく文体が違う。落語で言えば、「人情噺から芝居噺、怪談噺……とオールマイティに何でもできる名人のようなもの」だという。
「とくに今、面白いのは『昭和天皇』。とてもじゃないけれど、この1冊を書くためだけに勉強したぐらいでは、絶対に書けない本ですよ。昭和天皇の話なのに、右翼の親方のエピソードに、ポンと飛んだりする。また、そのエピソードがいい話でね。僕のような素人にも凄いって思わせるって、その道の専門家に『素晴らしい』と評価されること以上に凄いことですよ。それだけわかりやすいってことですから。福田さんは文芸での僕の師匠です。僕は師匠運だけはいいのが自慢です」