2017年04月13日の記事 (1/1)

無理心中

大観小観 4/13

無理心中というと、昔は「子殺し」で、切羽詰まった親へ同情が集まった。脳性マヒの団体が「泣きながらでも親不孝を詫びながらでも親の偏愛を蹴っ飛ばさなければならないのが我々の宿命」と言ったのは障害児を殺した親への助命嘆願が相次いだころだ。

「親の偏愛」とは「自分が死んだらこの子はどうなる」という心配がその中身。障害児は「不幸な存在」で「あってはならない、社会に迷惑な存在」という親と世間との共通認識があったという。

高齢化社会の無理心中は、親殺しへと変わる。四日市市で四十九歳の息子が八十二歳の母親を殺して首をつったのは二年前。この十一日は、川越町で、首に絞められた痕のある八十歳の父親の死体と、首をつっている五十二歳の息子が見つかった。

息子に殺害された四日市市の母親は糖尿病で両目は見えず、片足も切断していた。息子は献身的介護で知られたが「介護に疲れました。母親を殺して死にます」「迷惑をかけて申し訳ありません」などの遺書を残した。川越町の父親も足が悪く、息子は携帯電話に「こんな状態の父親を置いていけないので連れて行きます。すいません」の未送信メールと、「葬儀無用」のメモ書き。ともに、死後のことにまで気を遣っている。

四日市市の事件以降、同市の介護職員らが事件から学ぶべきことを話し合ったという。「介護者やその家族に目を向ける施策が必要だ」

ごもっともだが、その教訓は生きなかった。かつての「親の偏愛」が「介護者の偏愛」となり、世間との共通認識は依然温存されていることに根本的問題がある。

「老い」とのつきあい

風土計 4/13


病院の診察券がだんだん増えてきた。年のせいだから仕方がないとはいえ、体のあちこちにガタが来ている。でも、カードケースから取り出して扇形に並べてみせた先輩にはとても及ばない。

ある日、ぶらりと入ったそば屋。隣のテーブルで先輩と同世代の5~6人が昼酒を楽しんでいる。聞こえてくる会話が面白い。全員が病気自慢だ。「おれは糖尿だ」「お前は高血圧か」と、それぞれの症状をさかなに酒を飲む。

一定の年齢に達したご同輩ならば、同じような会話をした覚えがあるに違いない。しょせんは自己管理の失敗の果てなのだが、まるで武勇伝のごとく病気を語る。けがの大きさを友達に見せ合った少年時代を思い出した。

年を取るとなぜ病気自慢を始めるのか。心理学者の佐藤眞一大阪大大学院教授は「個人的なことを相手に話す自己開示」と著書に書く。秘密や弱みを見せることで親密さを増し、孤独感を解消できるという。

「老い」とつきあっていくための一つの方策。佐藤教授は定年後の長い時間を幸せに生きるため、後半生のステージに応じた心の準備が、老後に備えた貯金と同じように大切と提言している。

日本の将来推計人口が発表された。2065年は働き手が大きく不足し、高齢者も「終わった人」ではいられない。病気自慢はもうちょっと先になるかもしれない。


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南国土佐を後にして

中日春秋 4/13

今から三十年余前、ペギー葉山さんのディナーショーで“事件”が起きた。名曲「南国土佐を後にして」を歌い終わった直後、観客席から老紳士が突然、ステージに駆け上がって来たのだ。

その男性はペギーさんの手をしっかりと握りしめ、目に涙をためつつ、こう語り始めたという。「戦争のさ中、敵の弾に当たって倒れた戦友が僕の腕の中でしきりにつぶやいたんです。」

「そいつは高知の出身でね。よさこい、よさこいと、歌いながら彼は僕の腕の中で死んでいきました」「どうか、僕の戦友のためにもう一度あの歌を歌って下さいませんか」。ペギーさんが夫・根上淳さんとの共著『代々木上原めおと坂』に書きとめた逸話だ。

この名曲の原曲は、戦中に高知出身の兵士が故郷への思いを込めて口ずさんだ歌。ジャズ歌手だったペギーさんが最初は、「こんなのは、歌えない」と断った曲だった。だが、戦争の悲しい思い出が染み込んだ歌は、あの澄んだ声で歌われることで、新たな生命を吹き込まれたのだろう。

「私の分身」。ペギーさんはこの名曲をそう呼んでいたが、それでもコンサート中に頭が真っ白になり、歌詞が出てこなくなったことがあったという。そこで、ペギーさんはあわてず、客席に向かって両手を広げ、「さあ皆さま、ご一緒に!」

そんな「みんなの歌」をのこし、ペギーさんは八十三歳で逝った。


…………………………

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「南国土佐を後にして」

武政英策作詞・作曲


南国土佐を あとにして
都へ来てから 幾年(いくとせ)ぞ
思い出します 故郷の友が
門出に歌った よさこい節を
土佐の高知の 播磨屋橋(はりまやばし)で
坊さん簪(かんざし) 買うを見た

月の浜辺で 焚火(たきび)を囲み
しばしの娯楽の 一時(ひととき)を
わたしも自慢の 声張り上げて
歌うよ土佐の よさこい節を
みませ見せましょ 浦戸をあけて
月の名所は 桂浜

国の父さん 室戸の沖で
鯨釣ったと いう便り
わたしも負けずに 励んだ後で
歌うよ土佐の よさこい節を
いうたちいかんちや おらんくの池にゃ
潮吹く魚が 泳ぎよる
よさこい よさこい