日本語の記事 (1/1)

鬼と姫

鬼と姫

 動植物の名称に鬼や姫が冠せられたものがある。何が鬼とヒメを区別するのだろうか。
 ユリにオニユリとヒメユリがある。オニユリは花弁に斑(はんてん)点があり、めくれている。ヒメユリはオレンジ色の花弁で小さい。たけだけしいさまをオニ、つつましいさまをヒメとしたのか。
 オニアザミとヒメアザミがある。オニアザミは花が大きく葉のギザギザが鋭い。ヒメアザミはそれほどでもない。この剛と柔の差が命名の違いとなっているのだろう。
 ホタルにはオニのつくものはないが、ゲンジボタル、ヘイケボタル、ヒメボタルがある。ゲンジボタルは体長が2cm近くあるのに対して、ヘイケボタルは1cm程度。ヒメボタルは1cmにも達しない。この小ささがヒメボタルの命名になったものと考えられる。
 オニカワという語がある。若者ことばで、鬼のように(とても)可愛いさま。このミスマッチ感が若者ことばらしい。

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「どさくさ」「ざぎん」「やじお」

「どさくさ」「ざぎん」「やじお」

ヨーロッパではギリシャが財政破綻、イタリアも首相辞任で大騒ぎ。古代ヨーロッパ文明の発祥地の「どさくさ」にまぎれて、日本ではギリシャ神話の神々の地(オリンポス)を社名にする会社の経営があやしくなっている。

「どさくさ」は、現代でもよく使われる言葉だろう。

「くさ」は「定まらないさまを表す」語。接尾語のようなものだと理解されてもよかろう。問題は「どさ」のほうなのである。

「どさ」は江戸時代、博徒(ばくと)狩りの隠語(スラング)であり、捕らえられた博徒が佐渡金山の鉱山掘り人足(にんそく)に佐渡送りにされたことから、佐渡をひっくり返して読んだ「倒語(とうご)」の「どさ」となった、とされる。似たような言葉では「どさまわり」(地方興行をすること)などがある。

「どさくさ」は、慶長8年(1603)にポルトガル語で編纂刊行された『日葡(にっぽ)辞書』に載っている。だが、佐渡が幕府の管轄となったのは慶長6年(1601)のことだから、わずか2年の間で言葉が辞典に載るというのは無理なことではなかろうか。そうすると、「どさくさ」の「どさ」を佐渡の倒語とする説は見直されるべきであろう。

さて、江戸時代、佐渡の金は金貨小判の原料であり、銀貨を鋳造していたのは江戸の銀座であった。

今は日本屈指の繁華街。夜の銀座へくり出そうというとき、「ザギンへ行こう」というが、ザギンも銀座の倒語である。
かつて世に怖いものは「地震・雷・火事・親父(おやじ)」といったが、夜な夜な銀座で散財する放蕩息子がいたとしたなら、一番怖いのは親父だったはずだ。最近では親父の影などはめっきりうすくなってしまった。

江戸時代、怖い親父を、息子はひそかに「やじお」と倒語で呼んで敬遠していた。父親のことばかりでなく主人など、当主のことも含めて「やじお」と呼んでいる。

図版は、黄表紙(きびょうし)の『啌多雁取帳(うそしっかりがんとりちょう)』(天明3年〈1783〉刊)から。主人の親方の目を盗んで遊びほうけてしまった番頭が、裸で追放される場面。「やじお」の顔はどこまでも怖い。

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追放される番頭(左手前)と怒る主人(右奥)。「親方のやじお、はなはだ腹を立ち、古(どてら)に寝ござ一枚にてお払い箱の身となり」(色をかけた部分)とある。(『啌多雁取帳』東京都立中央図書館加賀文庫蔵)
『日葡辞書』…イエズス会宣教師が編纂刊行した日本語の辞書。約3万2800語を収録。ポルトガル語のアルファベットで記されているため当時の発音がわかる、大変貴重な資料。


売れっ子

売れっ子

今、「売れっ子」というとさしずめ「AKB48」あたりであろうか。総選挙とかじゃんけん大会とかで毎年大騒ぎ。今年は紅白応援隊までつとめている。なんだ、若い娘(こ)を「十把一絡(じっぱひとから)げ」で売り出して、という憎まれ口はやめておこう。

ひと昔まえなら、毎晩、お座敷がかかって人気のある芸妓を「売れっ子」と言った。江戸時代なら、柳橋の芸者といったところであろうか。

この「売れっ子」という言葉は、いわゆる江戸語だと思われている。

明治の作家・幸堂得知(こうどうとくち)が翻刻した、山東京伝(さんとうきょうでん)の黄表紙(きびょうし)『京伝憂世之酔醒(きょうでんうきよのえいさめ)』(寛政2年〈1790〉刊)に出てくるからだ(『続帝国文庫 黄表紙百種』、明治34年刊)。原文には「名ある妓女(ぎじょ)」と書かれているのに、「名ある妓女(うれっこ)」としてしまった。これによって、「売れっ子」は江戸語とされたが、同じ意味の江戸語なら「流行妓(はやりっこ)」であろう。
図版の三味線を弾いている娘が、その「名ある妓女」である。

得知がくずし字の原文を読めなかったのか、それとも明治の半ば頃に「流行妓」という言葉がすたって「売れっ子」芸妓の時代になったのか。歌舞伎の台本にも「売れっ子」が使われるようになっている。

なにしろ得知は道楽半分の文士の集団・根岸派の作家。原文をアレンジしたりストーリーをつなげたりする癖がある。かつて井上ひさし氏が、得知の翻刻を読んで、黄表紙は面白い大人のマンガだとさかんに推奨したが、得知が勝手に創作しているから読んで楽しいのである。

だが、面白いとばかり喜んでいられないのが研究者である。アリバイ探しの刑事のように、文献を吟味して言葉が存在するかどうか確認しなければならない。その労力を考えると、国語学のみならず日本文学基礎研究をコツコツやっている手合などは、華やかな脚光をあびる「売れっ子」には、とてもなれそうにもない。

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深川の遊郭で「名ある妓女」を呼び出して遊ぶ京伝(左)。ヒマを持てあました京伝が、仙人からなんでも望みがかなうという仙薬をもらい、深川~品川~吉原と遊里を遊び歩くが、すべて狐のしわざだったという話。(『京伝憂世之酔醒』東京都立中央図書館東京誌料蔵)

幸堂得知…1843~1913。江戸生まれの劇評家・小説家。根岸派の文人。銀行員から東京朝日新聞社員となり、江戸通として劇評や小説を多く発表。著作に『大通世界』『幸堂滑稽談』などがある。
根岸派…明治中期、東京都台東区根岸付近に住んだ文人の一団。饗庭幸村(あえばこうそん)、森田思軒(しけん)などを中心として、趣味性、遊興性が強い文芸を得意とした。


「どじょう」は江戸のファストフード

「どじょう」は江戸のファストフード

一国の総理大臣が自らを「どじょう(泥鰌)」になぞらえ、泥臭さでがんばっているという。「どじょう」は滋養強壮によいとされ夏の季語になっているが、そろそろ鍋が恋しい季節。今回は「どじょう汁」の話である。

さて江戸時代、「どじょう」は、ほかに「どぢゃう」「どじゃう」「どぜう」「どでう」とも書いて一定しない。四文字では縁起がわるいからと三文字で「どぜう」と書いたことや、「どぜう鍋」の元祖という老舗もあるが、「どぜう」も「どじょう汁」ももっと古くからあった。

江戸の町には、どんぶり飯に泥鰌の入った汁をかけた「どじょう汁」を出す店があり、一杯十六文(240円くらい)で食べさせた。今でいう牛丼屋というところだろうか。「つゆだく」の「どじょう汁」を江戸っ子はサラサラッとかきこんだ。

図版は、寛政3年(1791)に刊行された芝全交(しばぜんこう)の黄表紙(きびょうし)『京鹿子娘泥鰌汁(きょうがのこむすめどじょうじる)』の「どじょう汁」の店。この書名は「京鹿子娘道成寺(きょうがのこむすめどうじょうじ)」のダジャレで、娘と泥鰌を取り合わせたのは、なまぐさ坊主たちが泥鰌のことを、ゆでるときのはねるさまを踊りの芸に見立てて「踊り子(芸者)」と呼んだからである。

今、若い女性たちに泥鰌でも食べに行こうと言うと、「ちょっと…」と敬遠されることがある。泥鰌を丸ごと鍋に入れてグツグツ煮るのに抵抗があるらしい。

幕末生まれの文人・淡島寒月(あわしまかんげつ)は、「今日では通(つう)がって泥鰌の丸煮などを喰う者もあるが、これは江戸趣味ではないのだ」(『梵雲庵雑話』)と言っている。寒月の母親が泥鰌の丸煮を食べていたら、やってきた鳶人足(とびにんそく)が、「わたしらのような下々の者でも、骨のついた泥鰌(さばいて開かず、そのままのもの)は食べませんよ」と言ったとも書いてある。

泥鰌の踊り喰いなどは、江戸趣味ではなかったようだ。若い女性たちの感覚こそ、案外江戸趣味に近いのかもしれない。

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大鍋のどじょう汁をどんぶりにつぐ主人と、姉さんかぶりで給仕するおかみさん。客は縁台でくつろいで汁を食べている。浪人者だった主人が一念発起してはじめた店は大繁盛。看板には「やなぎばし どじやう御吸物 壱ぜん十六字(文)」とある。(『京鹿子娘泥鰌汁』、国立国会図書館蔵)
芝全交…1750~93。江戸後期の戯作者。滑稽洒脱な黄表紙を得意とした。
淡島寒月…1859~1926。日本橋生まれの文人。江戸文学を愛好して、元禄時代の作家・井原西鶴の価値を再発見し、尾崎紅葉や幸田露伴らに伝えた。


善玉・悪玉 その2

善玉・悪玉 その2

医者に「悪玉コレステロール価が高いですね」と言われると、患者の胸はドキリとする。「悪玉」という言葉が持つインパクトが、そうさせるのである。
寛政2年(1790)、寛政の改革のまっただ中に出版された『心学早染草(しんがくはやぞめぐさ)』は、松平定信(さだのぶ)が退場したあとも再版をくり返し、以後6年を過ぎても売れつづけた。そして、善玉・悪玉シリーズの黄表紙(きびょうし)として、『人間一生胸算用(にんげんいっしょうむなざんよう)』『堪忍袋緒〆善玉(かんにんぶくろおじめのぜんだま)』『四遍摺心学草帋(しへんずりしんがくそうし)』と、続編が3編も出された。『ハリー・ポッター』シリーズとはいかないまでも、大ヒットには間違いない。
そして、この黄表紙からうまれたヒーロー「悪玉」は、歌舞伎の舞台にのぼってさらに有名になった。
文化8年(1811)3月、市村座「盟話水滸伝(じだいせわすいこでん)」で、三代目坂東三津五郎(ばんどうみつごろう)が七変化で願人坊主(がんにんぼうず)にふんしたとき、「悪」と大書した丸いお面をかぶって「悪玉踊り」を踊り、観客の拍手喝采を浴びた。それ以後「悪玉踊り」は大流行して、文化13年(1816)には振り付けの独習書『踊ひとり稽古』が出版されるほどになった。図版はこの本から抜粋したもの。このあとも歌舞伎の舞台で「悪玉踊り」は大当りしている。やはり庶民は悪のヒーローをもとめていたようだ。
「悪玉」という言葉は、こうして世の中に定着していったと思われる。
もし、時代がもっとさかのぼる水戸黄門や徳川吉宗などが登場する時代劇で、「悪玉」といったセリフが出てきたなら、時代考証が間違っているということになる。彼らの時代には「悪玉」という言葉はなかったからだ。「悪役」という言葉も、そのころあったかどうかもあやしく、「悪玉」が一般化してから歌舞伎界で使われるようになったのかもしれない。

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「悪玉踊り」の踊り方がくわしく解説されている。黒線は動きの流れを表し、現代のダンスもびっくりの素早い動き。絵は葛飾北斎。(『踊ひとり稽古』国立国会図書館蔵)
寛政の改革…江戸中期、天明7年(1787)から寛政5年(1793)年まで、老中松平定信が行った改革。倹約をむねとした経済政策などをおしすすめ幕府の危機を乗り切ろうとしたが、失敗に終わった。
三代目坂東三津五郎…1775~1831。初代の子。江戸中期の歌舞伎役者。舞踊の名手だった。

善玉・悪玉 その1

善玉・悪玉 その1

「善玉菌」とか「悪玉コレストロール」という言葉をいちどは耳にしたことがあると思う。この「善玉・悪玉」という言葉がうまれたのは、江戸時代の大人のマンガ・コミックともいえる黄表紙(きびょうし)『心学早染草(しんがくはやぞめぐさ)』からである。

人間の心のありようをつかさどる魂(たましい)を半裸姿の絵で描き、人が善魂に支配されると善行をつみ、悪魂に取りつかれると悪行に走る、というわけである。悪魂は、まるで貧乏神や死神のようなものだという。その善魂・悪魂を「善玉・悪玉」と呼ぶようになった。

『心学早染草』の作者は山東京伝(さんとうきょうでん)、出版されたのは寛政2年(1790)のことである。この書名は、宝暦10年(1760)に神田橋元町二丁目の伊勢屋ゑい七が売り出して大評判になった、インスタント染め粉「早染草」をもじったものだ。これを読めば、当時大流行していた心学の教えが、「早染草」のように、たちまち身に染みこむというのである。

さて、まじめだった息子・理太郎(りたろう)は「悪玉」に取りつかれ、江戸の遊廓・吉原へつれていかれ、遊女・怪野(あやしの)のとりこになってしまう。図版は、悪玉と善玉に手を引かれ右往左往する理太郎。このあとついに善玉は悪玉に斬り殺されてしまい、理太郎は悪行のかぎりをつくすが、善玉の女房と子どもたちが悪玉をやっつけて、理太郎が正気にもどるというストーリー。

この「悪玉」は若者にうけ、「悪」と書いた丸提灯をさおにくくりつけて高くかかげた少年たちが夜な夜な街中を走りまわり、町奉行が禁止令を出したほどであった。今風にいえば暴走族である。作者・京伝は勧善懲悪の黄表紙に仕立てたつもりであったようだが、悪玉は悪のヒーローとしてもてはやされてしまった。これだから世の中はわからない。

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悪玉に引かれて「ああ、いっそ居続けよう」、善玉に引かれて「いや、早く帰ろう」と、遊廓の廊下を行きつもどりつする理太郎。遊女・怪野(右)は「お帰りなんすとも、居なすんともしなんしな、ばからしいよ」とあきれ顔。(小学館刊『新編日本古典文学全集79 黄表紙・川柳・狂歌』より。『心学早染草』東京都立中央図書館加賀文庫蔵)

黄表紙…江戸後期に出版された絵入りの読み物。洒落と風刺を織り交ぜた内容で、表紙や本文の絵に工夫をこらした。表紙が黄色であったことからこう呼ばれ、安永4年(1775)から文化年間(1804~1818)にわたり流行した。山東京伝…1761~1816。江戸後期の戯作者・浮世絵師。北尾重政(しげまさ)に浮世絵を学び、北尾政演(まさのぶ)としても活躍。黄表紙・洒落本(しゃれぼん)の第一人者となりベストセラーを次々発行。寛政の改革で洒落本が発禁になり刑を受け、以後は読本(よみほん)と考証随筆を書いた。

心学…江戸中期、石田梅岩(ばいがん)がとなえた神道・儒教・仏教を融合させた実践道徳の教え。心を正しくし身を修めることをとく。中沢道二(どうに)などが講釈して大いに広めた。