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もっと変な論文

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内容紹介
研究の面白さをたっぷりと味わう!

珍論文ハンターのサンキュータツオが、人生の貴重な時間の多くを一見無駄な研究に費やしている研究者たちの大まじめな珍論文を、芸人の嗅覚で突っ込みながら解説する、知的エンターテインメント本。

【目次】
はじめに
一本目 プロ野球選手と結婚する方法
二本目 「追いかけてくるもの」研究
三本目 徹底調査! 縄文時代の栗サイズ
四本目 かぐや姫のおじいさんは何歳か
番外編1 お色気論文大集合
五本目 大人が本気でカブトムシ観察
六本目 競艇場のユルさについて
七本目 前世の記憶をもつ子ども
番外編2 偉大な街の研究者
八本目 鍼灸はマンガにどれだけ出てくるか
九本目 花札の図像学的考察
十本目 その1 「坊ちゃん」と瀬戸内航路
十本目 その2 「坊ちゃん」と瀬戸内航路 後日譚
あとがき

内容(「BOOK」データベースより)
論文は、笑えるものほど素晴らしい!「知りたい」を純粋につきつめた珠玉の論文をたっぷりご紹介します。奇妙キテレツ、でもスゴい!いざ、めくるめく珍論文の世界へ―。

著者について
●サンキュータツオ:1976年東京生まれ。芸人。オフィス北野所属。お笑いコンビ「米粒写経」として活躍する一方、一橋大学非常勤講師もつとめる。早稲田大学第一文学部卒業後、早稲田大学大学院文学研究科日本語日本文化専攻博士後期課程修了。文学修士。ラジオ出演や雑誌連載など多数。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
サンキュータツオ
1976年東京生まれ。芸人。オフィス北野所属。お笑いコンビ「米粒写経」として活躍する一方、一橋大学、早稲田大学、成城大学で非常勤講師もつとめる。早稲田大学第一文学部卒業後、早稲田大学大学院文学研究科日本語日本文化専攻博士後期課程修了。文学修士。日本初の学者芸人。
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岡田麿里

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「あの日みた花の名前を僕達はまだ知らない。」
「心が叫びたがってるんだ。」
ひきこもりだったじんたんと、
幼少期のトラウマで声が出なくなった成瀬順。
二人を主人公にした二本のアニメは、
日本中の心を揺さぶり、舞台となった秩父は
全国からファンが訪れるアニメの聖地となった。
実は、そのアニメの脚本を書いた岡田麿里自身が
小学校で学校に行けなくなっていたのです。
これは、母親と二人きりの長い長い時間をすごし
そして「お話」に出会い、
やがて秩父から「外の世界」に出て行った岡田の初めての自伝。


プロローグ 心が叫びたがっていたんだ。
『心が叫びたがってるんだ。』は、私の故郷、秩父を舞台にしている。その秩父での先行上映会。機材トラブルで途中で上映が止まるというパニックの中、私は、あの頃と何も変わっていない自分に気がついた。

第一章 学校のなかの居場所
小さいころから思ったことが言えない子だった。小学校に入学すると、苛められた。いじめっ子の背景には夕暮れに黒々とうかびあがる秩父の山々があった。それはでっかい檻のように見えた。

第二章 誰に挨拶したらいいかわからない
陽子は私と同じ愚鈍なのに皆から好かれていた。宮沢賢治の詩のように無私だったのだ。そういうキャラにならなくては。そう努力していたある朝の教室で、私は誰に挨拶したらいいかわからなくなってしまった。

第三章 一日、一日が消えていく
学校に行けなくなった私は、食うか、寝るか、ゲームをするか、本を読むかの日々を過ごしていた。母親はそんな私を恥じた。志賀直哉の「暗夜行路」を読んでいると「消日」という言葉があった。私のことだ。

第四章 行事のための準備運動
アニメ『あの花』でずっと学校を休んでいたじんたんが外に出るシーンがある。ドア前で近所の人の声が聞こえ、躊躇する。これは、私が学校行事のために、久しぶりに外に出るXデーをモデルにしている。

第五章 お母さんだってひどいことをしてる
私の父親は、浮気がばれ、祖父に離婚させられた。一人になった母は、男たちに「秩父の浅野温子」と呼ばれていた。私は母の彼氏に「おっぱいの絵を書け!」と命令される。

第六章 緑の檻、秩父
学校は休んでいても、作文の宿題だけは提出していた。それが新聞社の賞をとった。「岡田さんは学校にこなくてもいいから、一緒に作文を書いて賞に応募しましょう」。優しい女性の国語教師は言ったのだが。

第七章 下谷先生とおじいちゃん
何とか高校には合格したものの、その高校もすぐに行けなくなってしまった。担任の下谷先生は、読書感想文の文通を求めてくれた。その添削に「麿里という少女の」という言葉があったことに衝撃をうける。

第八章 トンネルを抜けて東京へ
下谷先生の奥さんは、「生きづらい人が集まるコミューンがある、卒業後はそこに」と言った。「麿里さんは、社会に出たらもっと傷つく」。こんな言葉がとっさに出てきた。「私はやりたいことがある。ゲーム学校に行く」

第九章 シナリオライターになりたい
新しくできた友達と夜明けの渋谷の街を歩きながら「どうして私はここにいるんだろう」と感じた。日常のささいなことがずっと手の届かないと思っていた奇跡だった。その中で将来に対する夢が形づくられ始める。

第十章 Vシネからアニメへ
シナリオライターになりたいという一念で、Vシネの仕事をしているうちに、アニメの現場に参加することになった。「君、シナリオライターになりたいの? 書いてみれば」。体中の毛穴がぶあっと開いた。

第十一章 シナリオ「外の世界」
そう言った監督にまず言われたこと。君はどんな人なのかそれがわかる脚本を書いてみなさい。私自身のことを書くならば、秩父のあの部屋にひきこもっていた時代のことを書くべきだ。

第十二章 かくあれかしと思う母親を主人公にする
オリジナルを書いてみれば? 学校に通えなかったせいで昇華されていない思春期が、終わりどころを見失っていた三十歳の私は、かくあれかしという母親をモデルにして脚本を書く。『花咲くいろは』の誕生。

第十三章 あの日みた花の名前を僕たちはまだ知らない。
企画コンペにオリジナル作品を。そう言われて私はある決断をする。それは学校に行けなかった少年を主人公にした物語だ。アニメの美しさにほんのひと振りの現実。じんたんの登場する「あの花」が書かれる。

第十四章 心が叫びたがっているんだ。
私の声さようなら。私の声消えたことみんな喜んだ。『ここさけ』のクライマックスで、喋ることができなくなってしまったヒロイン成瀬順が歌う「私の声」。これは、いきづまった私の声でもあった。

エピローグ 出してみることで形になる何か
「ここさけ」の劇場上映があってしばらくして母親から連絡があった。「お母さんも昔、麿里ちゃんに似たようなこと言っちゃったわね」。順の母親の台詞のことだった。「そんなに私のことが憎い?」「もう疲れちゃった」


…………………………
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『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』『心が叫びたがってるんだ。』

 普段アニメを観ない方も、このタイトルに聞き覚えがある方は多いのではないだろうか。

 映画の興行収入がともに十億を超え“聖地巡礼アニメ”として大きな話題になった両作。本書はそれらを手がけたアニメ界のカリスマ脚本家、岡田麿里さんの初の自伝となっている。

 書かれているのは成功者のサクセスストーリーとはほど遠い、闘病手記とでも言うべき小学校時代からの困難な自意識との闘い。

 なんと豊かで苦しい心か。

 私が鼻水垂らしていたような頃に周囲との不調和に直面し、友達を冷静に観察評価し、自覚的に自らの「キャラ設定」にあえぎ、結果挫折し、不登校になる。

 すでに作品を知っている私としては「そういうことだったのか」と腑に落ちた。本書は自伝であると同時に両作の裏設定が書かれた濃密な設定資料である。

 重苦しいのに引き込まれる。ついページをめくってしまう。これは岡田さんのアニメの印象そのものだ。舐めるとピリッと苦くて、えぐみがある。でも「苦い苦い」と舐めているうち気づけば瓶が空いている。そんな薄い毒の魅力。

 面白いのは、本文のあちこちから著者の“天然っぽい”部分がぽろぽろこぼれているところ。不登校の二年半を「たった二年半」とさらりと書いたり、教習所で耳栓を付けた理由も大したことがないかのように流されている(ように見える)。上京する列車で隣になったおじさんが居心地悪そうにしてコーヒーを飲まない理由を、「甘いのが苦手なのかもしれない」と考えたときは「鈍いよ!」とツッコミを入れてしまった。

 上京した彼女はシナリオライターという職業に出会い「アニメのライターになりたい」と道を定める。そして「登校拒否児は果たして、魅力的なキャラクターとして成立するのだろうか?」と、自分自身に基づくテーマに挑み、ヒット作『あの花』が生まれた。

 このあたりでは内容も軽快になり、前半の重苦しさとともに彼女の半生のトレンドを追体験した感覚になれる。特に『あの花』スタッフが秩父にある岡田さんの実家を訪問したくだりはコメディでありつつ感動的なシーン。なのにスタッフを招いた理由を「母親に見せつけたかったのだ」。ここでその言い方を選ぶのかと苦笑した。さすがだ。

 本書で彼女が美しいと感じた瞬間には、車窓や扉といった「額縁」の存在が記されている。次に飾られるのはどんな風景だろうかと読了し思いを馳せた。

学校珍百景 2



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内容紹介
「日直って本当に必要?」から始まった『学校珍百景』の続編。まだまだ出てくる「学校あるある」を、今回は教師・子どもを中心にし、より深く考えてみました。【学級経営/学級づくり/小中学校教師対象】

★目次より★
◇あいかわらずの珍百景 編
校門に並んで「おはようございます!」/日本の学校は「そろえさせたがり」/日本は学校で靴を履き替える国です。/下敷きがうちわだった時代があった/習字道具や絵の具のパレットは学校で洗わない/「○○学校スタンダード」!?/不審者訓練の本気度/守るべき? 遊びに行くときの約束/修学旅行は「学校あるある」の宝庫/修学旅行の枕投げはもう古い!?/「愛校心」って何だ?/通知表所見のチェックが多すぎ!?/PTAの学級役員が決まらない/ノー残業デーは何のため?/がんばれない「がんばりカード」/皆勤賞はいらない!?/喧嘩両成敗/給食中は私語禁止!?/大きな消しゴムは禁止になる?/そもそも校門は何のためにあるの?/学校に遊具がない!?/時間を守るのが「よい子」?/生徒指導教師のイメージはなぜジャージに竹刀?

◇教師珍百景 編
教師の朝ごはん/教師の給食好き嫌い!?/教師のトイレ休憩/パワハラでも「指導」!?/みんな知っている? 年休のこと/ブラックな学校、みっけ!/街で子どもに出会ったら/他のクラスと競争したがる教師/時々「おかあさん」と呼ばれる/日付と同じ出席番号の子を指す/忙しくて「仕事」ができない/「あの子は早めにつぶす」!?/「自分のことはあとにして!」/「怒りたくて怒ってるんじゃない!」/「正直に言えば怒らないよ」/教師の「取り調べ」?/勉強だけできればいいのか!?/「服装の乱れは心の乱れ」/教師のブラックなメンタルヘルス

◇[緊急提言]学力向上?珍百景 編
順位が上がったら校長を胴上げ&ビールかけ/繰り返されるテスト対策授業・過去問演習/どこへ向かう? 小学校での英語教科化/都道府県対抗の珍百景/学テで日本の子どもは「かしこくなった」?

内容(「BOOK」データベースより)
大好評の『1』に続き、今回も様々な「学校あるある」が満載!ただし、今回は少し重い話が多いかもしれません。笑えない「珍百景」も含め、改めて今の学校の「おかしさ」を捉え返してみませんか。

〆切本

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著者:夏目漱石、谷崎潤一郎、江戸川乱歩、川端康成、稲垣足穂、太宰治、埴谷雄高、吉田健一、野坂昭如、手塚治虫、星新一、谷川俊太郎、村上春樹、藤子不二雄A、岡崎京子、吉本ばなな、西加奈子ほか(全90人)

「かんにんしてくれ給へ どうしても書けないんだ……」
「鉛筆を何本も削ってばかりいる」
追いつめられて苦しんだはずなのに、いつのまにか叱咤激励して引っ張ってくれる……〆切とは、じつにあまのじゃくで不思議な存在である。夏目漱石から松本清張、村上春樹、そして西加奈子まで90人の書き手による悶絶と歓喜の〆切話94篇を収録。泣けて笑えて役立つ、人生の〆切エンターテイメント!


〈本書まえがきより〉

しめきり。そのことばを人が最初に意識するのは、おそらく小学生の夏休みです――。

本書は、明治から現在にいたる書き手たちの〆切にまつわるエッセイ・手紙・日記・対談などをよりぬき集めた“しめきり症例集”とでも呼べる本です。いま何かに追われている人もそうでない人も、読んでいくうちにきっと「〆切、背中を押してくれてありがとう!」と感じるはずです。だから、本書は仕事や人生で〆切とこれから上手に付き合っていくための“しめきり参考書”でもあります。


❖目次
締/切 白川静
はじめに

Ⅰ章 書けぬ、どうしても書けぬ
机 田山花袋
文士の生活/執筆/読書と創作ほか 夏目漱石
はがき 大正二年/大正六年 島崎藤村
作のこと 泉鏡花
はがき 昭和六年 寺田寅彦
手紙 昭和二十一年 志賀直哉
私の貧乏物語 谷崎潤一郎 
新聞小説難 菊池寛
『文藝管見』自序 里見弴
無恒債者無恒心 内田百閒
手紙 昭和二十六年 吉川英治
遊べ遊べ 獅子文六
はがき 大正十五年 梶井基次郎
三つの連載長篇 江戸川乱歩
書けない原稿 横光利一
日記 昭和十二年 林芙美子
友横光利一の霊に 稲垣足穂
日記 昭和三十一年 古川ロッパ
私は筆を絶つ 幸田文
人生三つの愉しみ 坂口安吾
日記 昭和二十五年/ 昭和三十五年 高見順
仕事の波 長谷川町子
手紙/はがき 昭和二十三年 太宰治
清張日記 昭和五十五年 松本清張 
文士の息子 大岡昇平
手紙 昭和二十七年 小山清
身辺雑記 吉田健一
仕事にかかるまで 木下順二
私の小説作法 遠藤周作
ガッカリ 山口瞳 
退屈夢想庵 平成四年 田村隆一
作家が見る夢 吉行淳之介×筒井康隆
吉凶歌占い 野坂昭如
なぜ正月なんかがあるんだろう 梶山季之
私の一週間 有吉佐和子
解放感 藤子不二雄Ⓐ
食べる話 後藤明生
作家生活十一年目の敗退 内田康夫
罐詰体質について 井上ひさし
著者校のこと 佐木隆三
自宅の黙示録 赤瀬川原平
書斎症候群 浅田次郎
作家の缶詰 高橋源一郎
おいしいカン詰めのされ方 泉麻人
怠け虫 大沢在昌
締切り忘れてた事件 新井素子
受賞の五月 吉本ばなな
肉眼ではね 西加奈子

Ⅱ章 敵か、味方か? 編集者
自著序跋 川端康成
編集中記 横光利一
『「近代文学」創刊のころ』のこと 埴谷雄高
〆切哲学 上林暁
手紙 昭和二十七年 扇谷正造
流感記 梅崎春生
歪んでしまった魂 胡桃沢耕史
編集者残酷物語 手塚治虫
似た者談義 憂世問答 深沢七郎×色川武大
編集者の狂気について 嵐山光三郎
〆切の謎をさぐれ!! 岡崎京子
パートナーの条件 阿刀田高
約束は守らなければなりません 永江朗
編集者をめぐるいい話 川本三郎
喧嘩 雑誌編集者の立場 高田宏
ドストエフスキー『賭博者』解説 原卓也
植字工悲話 村上春樹

Ⅲ章 〆切りなんかこわくない
私の発想法 山田風太郎
北国日記 三浦綾子
なぜ? 山口瞳
早い方・遅い方 笠井潔
早くてすみませんが…… 吉村昭
〆切り 北杜夫
「好色屋西鶴」書き始める 中島梓
何故、締切にルーズなのか 森博嗣


Ⅳ章 〆切の効能・効果
のばせばのびる、か 外山滋比古
勉強意図と締め切りまでの時間的距離感が勉強時間の予測に及ぼす影響 樋口収
子午線を求めて 跋 堀江敏幸
締切の効用 大澤真幸
〈ひとやすみ付録〉 締切意識度チェック まずは自分の性格を知ろう


Ⅴ章 人生とは、〆切である
イーヨーのつぼの中 小川洋子
自由という名の不自由 米原万里
書かないことの不安、書くことの不幸 金井美恵子
村の鍛冶屋 車谷長吉
大長編にも、数行の詩にも共通する文章の原則 轡田隆史
締め切りと枚数は守れ 池井優
締め切りまで 谷川俊太郎
作家の日常 星新一
明日があるのは若者だけだ。 黒岩重吾
時間について 池波正太郎
世は〆切 山本夏彦
作者おことわり 柴田錬三郎

著者紹介・出典
❖『文章読本』発売遅延に就いて 谷崎潤一郎



なぜあの人はいつもやる気があるのか

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なぜあの人はいつもやる気があるのか 中谷彰宏 著



 自分自身のモチベーションを高めたい。
 児童生徒のやる気を高めたい。
 そう思い、読み始めた冒頭の気づきが以下の内容。

・好きならば、やる気が出る。
・嫌いならば、やる気は出ない。
・嫌いな人にやる気を出せというのは余計なお世話。

 児童生徒にやる気を出させるためには、義務感や、強制力でなく、学習を好きになってもらえるような努力を教師は求めていかなければないらないとも捉えられる。

 やる気の湧いてくる方法が70紹介されているが、6つの観点で本書から学んだことを整理してみた。

◆やる気の習性
 好きなことは続く。 
 好きなことには、自分に厳しくなれる。 

 やる気は貰うものでも、出すものでもない、やる気は湧いてくるもの。

 (外部要因)叱られたり褒められたりして出たやる気は続かない。

 義務(教育)と思うとやる気を失う
 権利(学習)と思うとやる気になる。

 成長の実感があるとやる気が生まれる。

 効率を求めるとやる気が落ちる。手間がかかるものにやる気が出る。

◆結果を期待せずに全力でやる。 
 後のことを考え、力をセーブするとやる気がなくなる。 

 結果を期待するとダメだったときにやる気を失う。 

 ダメでも、次の手を打ち続けることが勝ち。 
 ミスをしても落ち込まずに、学びとする。

◆体(運動)と脳とやる気の関連を活用する
 運動をすることで、血流が良くなり脳に血が巡る。
 首を温める。 
 深い呼吸をする。
 姿勢の良くなる服を着るとやる気が出る。

 挨拶を自分からする。 

 朝起きたら光を浴びる。

 仕事の前の片づけや雑用は、仕事への集中力を高める儀式としてよい。

 笑顔でやると、楽しくなる。

 やる気が行動を生み、行動が新たなやる気を生む。

◆やる気を高める日々の心構え
 「やる気」とはやる気のない人の使う言葉。

 必死にやると続かない。
 できる程度のことを続ける。
 それを積み重ねれば特別なことが、当たり前の習慣になる。

 テクニックを学んでも持続しない。根本に気づく。

 やる気が出ないときはなぜ出ないのかを具体化する。

  憧れの人ならどうするかを考える。

◆人間関係 
 やる気のある人はやる気のある集団の中にいる。
 やる気の出ない人をどうにかしようと思わない。
 どうにかしようとすると害がある。

 自分の仕事に対するアンケートの一番良い部分を読む。 
 やる気のない人のアンケートの返答はやる気のないもの。
 それに振り回されない。 
 やる気のある人を満足させる。

 面白いと決めつけて、話を聞くと面白くなる。

 勝ってもやる気がなくなったら負け。 
 負けてもやる気があれば勝ち。

◆やる気がなくてもやるべき理由
 必要になる前に事前にやっておく。
 チャンスが来てから努力しても間に合わない。



反省させると犯罪者になります

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反省させると犯罪者になります(新潮新書)

学校教育の現場では,子どもたちによく反省をさせます。
例えば,「終わりの会」などで,
「〇〇君が,掃除をサボっていました。」
「〇〇君,本当ですか?」
「はい。」
「〇〇君,反省してください。」
「これからは,掃除をサボらないようにします。」
のような,やり取りがかなりあるのです。

また,中学校や高校では,問題行動を起こした子どもに,「反省文」を書かせることもよくあります。そして,その「反省文」の内容を問題行動に対する罪の意識や,これから行動を改めていくことの担保とするのです。

著者である岡本茂樹氏は,そのような「反省」を徹底的に批判します。
というのも,岡本氏は,受刑者を対象とした更生カウンセリングに長年関わっておられて,犯罪者の心理をよく理解されているからです。その心理のほとんどが,「反省」や「罪の意識」ではなく,被害者への否定的感情であることが多いのです。ですから,短絡的に「反省」する犯罪者は,上辺だけの反省をしていると言うのです。

さらに,そのような「反省」を繰り返している人は,「反省」のテクニックばかり上達し,問題行動や犯罪の根底にある,加害者の心理を抑圧してしまうといいます。そして,その抑圧された心理,感情が,いずれどこかで爆発するというのです。

この「いずれ」というのが意味深で,その反省をした人だけでなく,その人が親になればその子に,その子が親になればまたその子にというように連鎖していき,どこかで犯罪者を出すというのです。これを「世代間連鎖」と呼んでいます。

長年受刑者を相手にされている方の意見だけに,説得力があります。また,確かに,学校教育現場では,「反省」を子どもたちにさせる指導が横行しています。ですから,氏の意見は傾聴すべきところもあると思います。

一方,私の教育感では,上で紹介したような終わりの会での「反省」会は,これまでやらないようにしてきました。また,けんかのような問題があったときも,できるだけ,双方の話を聴くようにしてきました。というのも,先に暴力をふるった方にも,それなりの理由があるだろうし,ふるわれた方にも理由があるだろうという大前提があったからです。とにもかくにも暴力をふるった方が悪いという指導はしてきませんでした。

この,「理由を聞く」というのが大事だというのは,この著作の中にも出てきます。
つまり,「反省」をさせるのではなく,そのときの心情や理由を語らせるということが大事だと書いてあるのです。

ただ,この著作には,首を傾げるところもあります。それは,上述の「世代間連鎖」です。確かに,人が親になるとき,自分が受けてきた家庭教育しか知らないので,それを再生するというのも分かります。しかし,逆に,その教育に批判的であることで,つまり反面教師的に,そうでない家庭教育をするようになるということも考えられるのです。そうなれば,「世代間連鎖」は途切れます。

また,「親学」のようなものも必要で,社会的には,かなり地域ごとに普及しているようにも思います。つまり,単に自分が受けた家庭教育だけでなく,よりよい家庭の教育やしつけを学ぶ機会も増えてきているということなのです。

それでも,ここに書かれていることを真摯に受け止め,生徒指導や家庭教育に留意するということは大切なことではないかと痛感した,そんな著作でした。



学校珍百景―「学校あるある」を問い直す

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学校珍百景―「学校あるある」を問い直す


この本では,学校の日常にある,さまざまなことについて,疑問を呈しています。
つまり,学校の日常,先生の日々の姿を批判的に書いているのです。

ですから,ある意味,よくこのようなスタンスの本を出版したなぁという感を拭えません。
なぜなら,このような批判を書けば,当然反発や逆批判が予想されるからです。

しかし,この本に書かれていることは,現場の先生たちは真摯に受け止めるべきだと思います。
なぜなら,それが学校文化を見直し,更新したり改革したりするきっかけとなるからです。

学校には,それぞれの現場で文化とも呼べる特有の慣習があります。
それを伝達,継承していくだけでは,新たな文化を創造することはできません。

新たな文化創造のためには,今ある文化を批判的に捉えて革新していくことが必要となります。
それは,学校文化に限ったことではありません。

科学の分野では,「パラダイムの転換」ということが言われます。
これは,それまでのパラダイムが別次元のものに変わることで,あらたな理論や実践が生まれてくるという考え方です。トーマス・クーンが提唱しました。

まあ,この理論も今では流行を過ぎたという感が否めませんが,新たなパラダイムで文化を作り替えるという点においては,今でも通用するのではないかと思います。

パラダイムを変換しなくても,今の文化を継承しつつ改善していくという創造もあります。

どちらにしても,今の文化を批判的に見なおさなければなりません。
今回の文献は,その格好のきっかけになると思えるのです。

例えば,「日直はいらない」「子どもは朝,テンションが低い」「黙々清掃はおかしい」などいろいろな検討課題を提示してくれます。これらの課題や,課題提示の根拠は,確かに科学的ではありません。教師の経験上のものであり,主観的です。

しかし,この経験則や主観的見解が,これからのアカデミックな研究においても重要になってくるのではないと,以前から考えています。これは,社会的構築主義的な発想で,客観的,絶対的,本質的などを排除する考え方にピッタリだからです。

今一度,学校文化の一つ一つをみなおしてもいいのではないかと思います。なぜなら,一つの制度として学校教育ができてから,すでに70年近く経っているからです。ある意味,制度疲労をおこしているとも言えるからです。となると,学校文化もマンネリ化してきていることが考えられます。

ぜひ,この本を読んで,新たな学校文化,教育文化を創りだすことができればなぁと思っています。



成功する子 失敗する子

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「成功する子 失敗する子」です。
本の帯には,「アメリカ最新教育理論」とあります。

アメリカの理論が必ずしも日本の教育にそのまま役立つとは思いません。
それでも,「最新理論」と聞けば,興味がわきます。


成功する子 失敗する子――何が「その後の人生」を決めるのか


まだ,全部を読めていないので何とも言えません。
今読んでいる段階では,子どもの学力と気質(性格)にはかなり密接な相関関係があるということを,いろいろな実験や例をもとに明らかにしているところです。

そして,将来成功した子どもたちの事例を,学力よりは気質に重きを置いているのが特徴的です。

その気質とは,「やりぬく力」「自制心」「好奇心」などです。
これらは,それまで,気質としても重きを置かれてこなかったことですし,学力論としても重要であることは感じていたけれど,将来成功する条件であるということも証明されていませんでした。

ですから,その意味で,最新の教育理論とも言えます。

ただ,以前から,このブログで,「意欲」が重要であること,また,「勤勉性」や「継続力」が重要であるといろんなところでお話させていただいてきた私にとっては,至極当然のことだと思います。

それでも,そのようなことが子どもたちが将来,成功する要因であるというところまでは,なかなか明らかにできませんでした。それらを明らかにしようとしているという点で,興味深い文献です。

そして,それらの力をどのように学校教育で育むかということについても,論じてあるようです。まだ,そこまで読めていないので,これからですが。

一方,最近,こんなことを考えている私にとっては,それを後押ししてくれるような文献だと思います。
その考えていることというのは,
「分かる,できるより,やってみよう,つづけてみようが大切なのではないか」
「仮に,分かってできるようになっても,やる気が下がってしまうなら,それはよくないのではないか」
「分からなくても,できなくても,やる気を持てるような指導の方が重要なのではないか」
ということです。

最後のは,やや過激ですが,やはり重要なことは,「やる気」「継続」「勤勉」なのです。


この本を読んでいて,今の日本の学校教育は,あまりにも目先のことに執着しているのではないかと思いました。

できるできないが明確な算数を例に考えてみたいと思います。

算数が得意な子どもはいいとして,そうでない子どもについて考えてみます。

算数が苦手な子どもは,できれば算数をしたくないと思っています。
問題も解きたくない,授業も時間がただ過ぎればいい,そんな気持ちで毎日算数の授業に参加しています。

もちろん,算数がすらすら分かって,できれば,そんなことは思いません。
そうでない子どもたちは,特に高学年になれば,これまでの負の感情が,上のような気持ちで算数の授業に取り組ませることになります。

一方,教師は,これらの子どもたちが,何とかできるようになればと努力します。
他の子どもが終わっても,なかなか終わらない苦手な子どもたちに,時間を延長してできるようにしたり,放課後や休み時間など別の時間を使って分かるようにしたりと,がんばるのです。

しかし,何とかできるようになっても,子どもたちは算数をなかなか好きにはなりません。なぜなら,また,次の時間には,分からず得意な子どもより時間がかかってしまうからです。

それの繰り返しを,毎時間,苦手な子どもたちは続けることになります。これでは,苦手な子どもたちを得意や好きにすることは困難です。

このときの,教師の意識は,理解と技能に限定されています。つまり,目先の学習内容を理解させたり,計算できたりするように努力するのです。しかし,その結果,子どもたちの算数嫌いは再生され,問題の解決にはなりません。

やはり,目先の理解や技能から,この文献にあるような「やる気」「勤勉さ」「好奇心」を算数に対して育むような指導をしなければならないのです。

その具体的な方法は,実践からある程度導出しています。そのことと,この文献に書かれていることを照合しながら,あらたな教育理論を模索したいと考えています。





子どもの才能は3歳,7歳,10歳で決まる

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子どもの才能は3歳,7歳,10歳で決まる

林成之氏の新書
氏は脳科学の研究者で,その研究を基に,実践レベルでも様々な指導をされている方です。

今回の文献は,タイトルがかなり過激です。
読みようによっては,子どもの才能が10歳以降は,変えようがないと読めてしまうからです。

しかし,その内容は,学校教育になかなか示唆的なものがあります。
もちろん,3歳,7歳は,小学校の就学前の問題です。

氏は,そこで子どもの才能が決まってしまうというよりは,それぞれの時期に指導すべきことを明確に示されており,仮にそれぞれの年齢で指導できなくても,それ以降に活用することはできるというスタンスで述べられています。

その論で興味深いことは,単に,脳科学の決定論的な話ではないことです。
脳科学の知見を,心や思考に転移され,それを育む重要な示唆を与えてくださっているのです。

詳しくは,その著をごらんいただくのがいいかと思いますが,いくつか紹介したいと思います。

脳の本能的な「生きたい,知りたい,仲間になりたい」,「自己保存,統一・一貫性,自我」「違いを認めて共に生きる」という機能を,脳の発達段階のに照らし合わせながら論じていかれます。

そして,これらの脳の機能をもとに,子どもの脳がきちんと活用されるように指導することを説明されます。

これらは,大変参考になると思います。
特に,子育てで悩まれている保護者の方には,有効な手立てがたくさん書かれています。

しかし,ここには,学校教育の特性である,集団ということがややおろそかになっているのではないかと思われます。実際,どのように集団の中で,自分の個性を活かすのかという事については,あまり論じられていないのです。

あえて論じてある所というと,同期発火という理論です。

しかし,これもピア・トゥ・ピアの関係に有効な方法であり,集団の相互作用関係にはあまり有効でないように思われます。

それでも,よい質問をすること,子どもの自尊心を刺激すること,物事に取り組む順序を決めることなどは,実践的で,具体的な指導法として活用することができるのではないかと思います。


犯罪は予測できる

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小宮信夫「犯罪は予測できる」


日本の犯罪捜査や犯罪予防について,これまでの常識を完全に覆すものでした。
しかし,あまり取り上げられません。

その要旨は,犯罪は犯罪者の家庭環境や生育歴などとは関係なく,場所で起こるのだと言うものでした。
日本では,殺人事件などの犯罪が起こると,その犯罪者の心理学的分析や,家庭環境や生育歴の探求に明け暮れます。

これを著者は,「犯罪原因論」と呼びます。
しかし,これでは,本当に犯罪を防ぐことはできません。なぜなら,そのような心理,家庭環境,生育歴を外見からは,読み取ることができないからです。

それよりは,どこで犯罪が起こったのかということに着目し,「犯罪継起論」を提唱していました。
本書は,その発展の著書となっています。


犯罪は予測できる (新潮新書)

今回の著書では,それを「景色」と呼び,それを解読する力が犯罪を予防する力となると述べています。つまり,犯罪が起こる場所を日頃から見つけることができれば,犯罪を防止できるというのです。そして,「景色解読力」とラベリングすることで,読者には具体的に理解しやすい概念として提示されていることが分かります。

では,どのような景色が犯罪と関連しているのでしょうか。

これは,前著とほぼ同じです。
「だれもが入れる(入りやすい)」
「だれからも見られない」
という場所です。そこで犯罪が起こっているのです。

そして,これを前提に,日本では防犯として実践されていることをことごとく批判します。

例えば,防犯ブザーです。
ここでは,人間の恐怖と行動の関係について研究をもとに述べ,思考や行動より恐怖の方が先に来るから,防犯ブザーをならすことができないと述べています。

また,「いかのおすし」の合い言葉です。これは,「ついていかない」 「車にのらない」「おお声で叫ぶ」「すぐにげる」「しらせる」のそれぞれをつないだ標語です。しかし,この意味をしらない子どもたちが圧倒的であることをデータをもとに批判します。

さらに,「不審者」です。この呼び方は,日本固有のものだと言います。海外で,このような呼びかたをする国は無いそうです。なぜなら,この「不審者」という概念は,「人を信じる」という概念と矛盾するからです。ですから,海外では,このような矛盾する概念を教育現場に導入しないのです。

しかし,日本では,当たり前のように導入しています。
もっとおもしろいのは,本当に危険な「不審者」は,サングラスをかけてマスクをしているということはないそうです。

また,「不審者」は決して「知らない人」でもないのです。計画的な犯人は,十分知った人となってから犯罪を起こすのです。

まだまだ,これまで日本では常識とされていたことが,世界の非常識となっていることがあります。あるいは,防犯上の非常識となっています。

子どもたちの防犯意識を育てるためにも,今一度,小宮氏の考え方を受け入れ,考察し,実践すべきだと,改めて痛感しました。



知の休日

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『知の休日』
―退屈な時間をどう遊ぶか
五木 寛之  
休日は「知のゆりかご」
疲れた頭と心を劇的に活性化する刺戟にみちた遊びのヒント。ためしてみますか?

本と遊ぶ。アートと遊ぶ。車と遊ぶ。体と遊ぶ……。この本は、ふだん忙しい生活のなかで頭と心がコチコチに固まりきっているのを、どうすればまともな状態にもどすことができるかという遊びの実験である。<知>という字には、ココロとふりがなをふってもいいし、アタマと読んでもいい。著者は、身近な例をあげながら、アタマとココロに心地よい刺戟を与える新しい緊張感のある休日を提案する。好奇心と知的な娯しみに支えられた、本当の意味でのリフレッシュされた休日をつくりだすためのマニュアルがここにある。


知の休日―退屈な時間をどう遊ぶか (集英社新書)





というのも、下記の目次にもあるように、「~と遊ぶ」と題された各章の内容が、ディテールにこだわる五木さんの魅力でもあるのかもしれませんが、大きなテーマからそれているような気がして、あまり共感できなかったのです。また、安易なひまつぶしのすすめともとられかねない内容であるようにすら感じました。


『知の休日』目次

はじめに
 リラックスのしすぎは問題だ
 手巻き時計のネジは戻し戻し巻く
 「休日はゴロ寝が一番」は正しいか
 私は<休日性頭痛>に悩まされてきた
 休みの日に限って体調を崩す謎
 盃の最初の一杯は三分かけて飲め
 <ブルー・マンデー>の正体
 擬似知識人としての父の生き方

第一章 本と遊ぶ
 活字を読むのは病気である
 読書をしても人は美しくならない
 活字人間だった寺山修司
 アフマートワの三冊の本
 『歎異抄』を捨てられるか
 本は精神の道具である
 一冊の重さをしみじみと感じるとき

第二章 体と遊ぶ
 裸の姿を全身鏡に映してみる
 わらじ足に対する偏見
 自分の尻の正しい拭き方を考える

第三章 アートと遊ぶ
 名作地獄に堕ちる人びと
 脂ぎった目を洗う
 盗むか、買うか、究極の一点
 オペラに誘われて退屈しない方法
 バレリーナの恋人になったつもりで
 悪所の卑俗さを残してこそ

第四章 車と遊ぶ
 『日曜はダメよ』という歌があった
 車が生きがいだった頃のこと
 「無事これ名馬」のモットーを守るために
 事故をさけるための必須マニュアル
 安全のための具体的な提案
 車社会への愛と絶望の狭間に

第五章 声と遊ぶ
 黙読は新しい習慣である
 声に出して読まれて生きるもの
 軍人勅諭とモールス信号
 活字は声に出して読んでみる

第六章 靴と遊ぶ
 なぜ靴にこれほどこだわるのか
 三十年間はかないブルー・スウェード・シューズ
 靴は生命を支える道具である
 和足洋靴のムリを承知で
 快楽をもたらす靴を求めて

第七章 夢と遊ぶ
 夢野久作になってみよう
 夢の世界をどう創るか

第八章 何とでも遊ぶ
 虱をとる福沢諭吉の母親
 どんなものとでも遊ぶ
 退屈な時間をどう生かすか

おわりに
 お恥ずかしい<見本>として
 類似品のひとつとしての現代人
 退屈を黄金の時間に変えて



ところが、当時から10年経ち、このたび改めて読み返してみると、大きなテーマが隠されていることに気づきました。それは、「おわりに」に掲げられている「退屈を黄金の時間に変えて」というテーマなのです。この深刻な時代に「退屈」とは何を脳天気なと思われるかもしれませんが、ここに大きなテーマがあるのです。

第八章は、喜んで虱とりをする福沢諭吉の母親のエピソードを紹介して、五木さんがこれに感嘆するところから始まり、次いで、加賀平野の「虫送り」という害虫を絶滅させるのではなく追い遣る生命を大切にする日本人らしいエピソードを紹介しています。そして、そこから、二葉亭四迷がロシア語の「トスカ」を「ふさぎの虫」と訳した話を紹介します。

「ふさぎの虫」とは、人が生まれながらにして心の深いところに宿している深い<愁>のことで、五木さんは当時の著作で頻繁に紹介しています。不安とか愁いを、害虫をDDTで駆除するように排除するのではなく、それとともにあることをすすめています。

後に著わされた『不安の力』でも語られているように、この現代の状況に不安を感じるのは極めて人間的なことで、何も感じずにプラスチックのように無機質なこころであるよりはずっとよいというのが五木さんの持論です。

この『知の休日』でも、休日のながい一日を、うつうつと<ふさぎの虫>と向き合ってすごすのも、なかなか味わい深い人生の一シーンであるとすすめています。

驚くべきことに五木さんは、さらに踏み込んでこのように語っています。

畢竟、人間はその<虫>のことを忘れようとして、さまざまな慰めの方法や、気分をそらすさまざまな方法を考えてきた。宗教も、芸術も、文化もたぶんそういうものではないか、と、私は思う。

これは、当時私が哲学の勉強で接していたドイツの哲学者、マルティン・ハイデガーの考えとも通ずるところがあり、私はとても驚きました。

ハイデガーは、主著『存在と時間』で、現存在(人間存在)の根本気分は「不安」と「退屈」であり、その中でこそ存在と向き合うことができるとしています。ところが実際は、気晴らしや好奇心でそこから逃れるだけでなく、日々の生活のために必要なことで心が一杯になっており、その実用性にとらわれる態度こそが、非本来的な生き方であるとされています。もちろん、道徳的にそれが問題があるわけではないのですが、存在の明るみを隠すものであるという点で非本来的であるというのです。

さらにそれだけでなく、ハイデガーは一種の文化革命のようなことまで目論んでいましたから、諸科学など学問のあり方まで現存在のあり方の一つであるに過ぎないと論を展開していきます。あくまで、不安や退屈の中で死への存在としてのあり方を先回りして自覚すること(先駆的覚悟性)が本来的なあり方で、その存在論の上に全てを基礎付けしようという大胆な目論見を持って、ハイデガーは『存在と時間』を構成しています。


五木さんは第一章で、哲学が「わかる」ためには二つの道筋があり、一つは天与の哲学的人間であることで、もう一つは小学生くらいの頃から哲学的思考の基礎を学ばせることだとしていて、五木さん自身はそのいずれでもないとしていますが、五木さんも直観のレベルではハイデガーが謂わんとすることを見抜いているようにも思います。

「退屈」とは、ドイツ語でLangeweileで、それを分解するとLange(長い)+Weile(時間)となります。さらに、weilenという動詞には留まるという意味があり、ハイデガーはそれを積極的に解釈して、退屈とは存在の明るみのもとに永らく逗留する時のことであるとしていたような記憶があります。

一方で五木さんは、「退屈を黄金の時間に変えて」の最後で、以下のように述べています。まるでハイデガーとパラフレーズしているかのようで、次元と境域こそ違え、ハイデガーの言わんとすることを感覚的に平易に言うとこうなるのかもしれないと驚いています。

歳を重ねるごとに一年が早くすぎてゆく、とは、よく耳にすることだ。たしかに時間が矢のようにとび去っていく感じがある。しかし、ちゃんと退屈することができたとき、時間はゆるやかに流れはじめるのだ。さて、なにをしてきょう一日をすごそうか、と考えるときは、すでにもう世間の時間ではなく、自分の時間に変りはじめているのである。


私の二十代の精神世界は、ハイデガーと五木さんによって満たされていました。この二人のつながりが、今までは全く見えなかったのですが、この『知の休日』を読んで、はじめて見えてくるような気がしました。また、新たな五木さんの発見に喜びつつ、この文を結ばさせていただきます。



いじめの構造 なぜ人が怪物になるのか

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内藤朝雄 「いじめの構造―なぜ人が怪物になるのか」 (講談社現代新書)

いじめが社会的に大きな問題になったのは,1990年前後です。
それから,四半世紀経ちますが,その問題が解決したという話は聞きません。

それどころか,つい先日も,いじめが原因で自殺をした中学生のことがニュースになっていました。そこで取り上げられたのは,中学生自身が書いていた生活記録でした。毎日,担任に提出するノートの中に,自殺をほのめかすことが書かれていて,社会に衝撃を与えました。

そこで,今回,いじめそのものについて考察しようと,本文献を講読しました。

まず最初に,いじめをめぐる様々な言説を取り上げながら,それぞれの言説の矛盾から,生徒たちの属する秩序が一つではないことを明らかにしています。また,生徒同士の関係も,個人主義的な希薄なものではなく濃密であり,「濃密に付和雷同して生きている」と論じます。

ここを入り口に,いじめの構造を明らかにしていくのです。

まず,秩序についてですが,いじめの起こるそれを「群生秩序」と呼び,普遍的で人間的な「市民社会の秩序」とは異なることを説明しています。この「群生秩序」では,「市民社会の秩序」において悪でも,正になります。また,そこでは,「全能」を配分しようとしたり,身分の厳格化が起こったりします。

この「全能」は,まず「不全感」から「不全感の反転」を経て,「全能」になることをたくさんの事例から導出します。そして,「全能」になるために,でっち上げも含め,役に立つ体験を「全能筋書」と呼び,これをエネルギーに「全能」になり,それがさらに拡大すると述べています。

ここまでの,多数秩序の小社会や,「全能感」を目指す「全能筋書」などは,新しい概念で,新鮮でした。それだけでなく,なるほどと納得することばかりでした。

さらに,内藤氏は,「全能筋書」の三つのモデルを提示されます。
1「破壊者と崩れ落ちる生贄」 2「主人と奴婢」 3「遊びたわむれる神とその玩具」
いずれも,レトリカルな表現です。レトリカルであるゆえに,過激とも言えます。ただ,この比喩は,いじめの中でも,暴力的なものを指しているので,このような表現になったとも言えます。

これらの三つのモデルは,それぞれが圧縮されたり切り替わったりしなが,複雑に入り組みながら「筋書」として,いじめる側の「全能」に向かって行使されます。つまり,暴力的ないじめが実行されるのです。

他の「全能筋書」として,「タフ」さであるとか,「投影同一化」などもあると述べています。ここでは,詳しく紹介できませんが,どちらも興味深いものです。

その中でも「タフ」の筋書を例に,いじめの構造を「祝祭」と「属領」という概念で説明します。
「祝祭」というのは,「Xすることの全能」と「Xすることを通じて集まることYの全能」です。つまり,実際に暴力的ないじめ行為をする全能と,それを傍観したり一緒に参加したりする者の全能が,ちょうど祭りの主催者と参加者のようであり,「祝祭」と呼んでいるのです。

それだけでなく,「祝祭が物理的空間を覆い尽くすことの全能」まで拡大することを示し,これを「属領」と呼んでいます。つまり,学級全体や学年全体,学校全体を覆い尽くすようになるというのです。そこには,いじめに直接関与しない生徒や先生も含まれます。

以上の三つの全能を「全能筋書の三重圧縮」と呼んでいます。

さらに,「全能」は「利害」とマッチングしたり利害図式が全能筋書に転用されることでも,いじめの構造ができるといいます。

そして,氏は,このようないじめを強化したり固定化するものとして「学校共同体主義イデオロギー」だと,現行の教育制度を批判します。読みようによっては,この制度だからいじめが発生するとも読めます。

それは,「赤の他人であるのに,深いきずなでむすばれているかのようなふりをしなければならない,」や「学校の友達や先生に親密さを感じないこころの自由を否定している」のです。

普通の市民社会の秩序では,「単純明快に付き合わない」という選択肢があるのに,学校共同体ではそれが不可能な仕組みになっているというのです。

これらの指摘は,学校教育にかかわるのものとして,ドキッとさせられます。教師や学校が,理想としているものが,実は子どもたちにとっては,さまざまな自由,それも人間関係にかかわる自由を奪っていることになるかもしれないからです。

氏は最後に,解決策として,短期的・中期的・長期的な提案をされます。
短期的には,「学校の法化」「学級制度の廃止」「市民的な自由が確保された生活環境」などです。
「学校の法化」というのは,学校であるという聖域を排し,法のもとにさらすという意味です。つまり,警察や検察の力を持ち込むということです。

この短期的な解決策には,ほぼ同意できますが,実現するかというと難しい面もあります。「学校の法化」というのは,ある程度実現しているのではないかと思いますが,後の二つはかなり工夫が必要です。つまり,学校運営上の工夫が必要なのです。

中・長期的には,制度そのものを変えなければならないといいます。確かに,戦後70年ほとんど変わらない制度やシステムで,現代に通用するとは思えません。この際,小手先のマイナーチェンジではなく,学校制度そのものを変える必要があるのかもしれません。

そして,制度を変える時には,「狭い閉鎖的な空間に囲い込んでいる条件を変える」「公私の区別の明確化と客観的・普遍的なルールが力を持つ」ような枠組みを用意しなければならないと述べて,論を閉じられています。

なかなか,骨のある文章で,読み応えがありました。
そして,教師や学校の掲げる理想について,つまり学校共同体イデオロギーを,見直しつつ氏の提唱されることをどのように組み込んでいくのかということを考えたいと思います。ー

寅さんの教育論

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なぜ、日本人は寅さんにあこがれたか(「見えないから安心」と「見えたから不安」
映画 現代日本人の心理
やくざと寅さん
前項「なぜ日本人は説明がヘタか(「見えないから安心」と「見えたから不安」・4)」で、「やくざ型コミットメント」という言葉が登場している。社会心理学者の山岸俊男氏の言葉である。信頼の意味と構造―― 信頼とコミットメント関係に関する理論的・実証的研究――というPDFによれば、
山岸らの信頼理論が扱っているコミットメント関係は,社会的不確実性を低減させる手段としてのコミットメント関係であるが,Yamagishはこのようなコミットメント関係を,やくざ型コミットメントと呼んでいる.談合型コミットメントと呼んでもよいだろう.この型のコミットメントは,そもそも社会的不確実性を低減させる目的で形成されるものであり,逆に言えば,関係外の社会における社会的不確実性の存在を前提とするものである.やくざをはじめとする犯罪結社が「鉄の結束」を必要とするのは,お互いに好意を持ちあっているためというよりは,外部社会からの「攻撃」に対処するためである.別の言い方をすれば,社会的不確実性に満ちた社会で安心していられるのは,お互いの利益を保証し合っている,つまり「内集団ひいき」をし合っている,固定した関係の内部においてである.この意味での,つまり「内集団ひいき」の相互保証を与え合っている関係を,Yamagishは「やくざ型コミットメント関係」と呼んでいるわけである.本研究の出発点の一つは,日本社会では,この種のコミットメント関係,すなわちやくざ型のコミットメント関係が重要な役割を果たしているという点である.(信頼の意味と構造―― 信頼とコミットメント関係に関する理論的・実証的研究――P53)
「やくざ型コミットメント」では、敵対する関係と競争しているために「鉄の結束」が必要である。そして、このような社会では、「内集団ひいき」を維持するために同じ大学出身とか、同じ地域出身とかでコネクションが有効活用される。したがって、「やくざ型コミットメント」はやくざにかぎらず日本全体のコミュニティに共通する。
僕は、なぜか「やくざ」というと寅さんを思い出してしまう。年末年始になると、必ず松竹で上映された「男はつらいよ」シリーズである。寅さんは、自分のことを「やくざ者」と呼んでいた。だが、やくざの「鉄の結束」と寅さん、なんか違和感があるのはなぜだろう。「寅さんの社会学」(竹原弘著/ミネルヴァ書房)によれば、

寅次郎はやくざな男であり、自分自身も「俺は渡世人だ」とか、「やくざな人間だ」といった台詞を言い、またそれらしい格好をつけるが、やくざ映画に登場するような暴力団まがいのやくざとは違う。寅次郎は「男はつらいよ」の数々の場面で描かれている様に、一面は普通の社会から逸脱した様な行為を為し、また普通の社会人が持っている様な常識に欠ける所もあり、乱暴な言葉も吐くが、東映のやくざ映画に登場する様な、凄味があり、腕力も強い様な人物ではない。
また寅次郎の周りには、彼の妹のさくらをはじめとして、彼のおじやおば、またとらやの裏にある中小企業の印刷会社を経営しているタコ社長、それに旅先で出会い、彼が惚れる数々の美女達等、彼の言う堅気の人間が常に居て、そうした人達と関わりながら生きている。いわば「男はつらいよ」は、社会から逸脱し、また本人もその様に振る舞っている一人の男を中心にし、その男、車寅次郎が引き金になって引き起こし、堅気の人々を巻き込む騒動を描いている喜劇である。(竹原弘著「寅さんの社会学」p2/ミネルヴァ書房)
日本全体のコミュニティが「やくざ型コミットメント」で覆われているとするならば、寅さんの立場は、そのコミュニティから逸脱した存在になる。しかし、寅さんは、必ず「とらや」というコミュニティに帰ってくる。いわば、とらや並びにその地域のコミュニティは、その逸脱した寅さんを認め合うゆるい「やくざ型コミットメント」ということになるのではないか。僕は映画「おとうと」に見る家族内コミュニケーションでこんな引用をしている。
寅さんだって、彼の場合は不良になっちゃったけど、「本当に大事なものは何か」という価値観についてはギリギリ持ってる。だから犯罪者にはならなかった。生育の過程で、地域の人々の愛情を受けたからでしょう。みんなが「寅ちゃんは私たちの街の子だから、しょうがないね」って認めてた。とても大事な要素だと思う。小春も、もちろん街の人たちの愛情にくるまれて、愛すべきキャラクターに育ちました。(「おとうと」パンフレットより)
この山田洋次監督の言葉は、地域や家族がそういう存在を許さなくなったということではないか。
渥美清と車寅次郎
しかし、この寅さんという存在、いろいろ資料を集めてみると、渥美清という稀有なキャラクターなしでは成立できなかったことが明らかになっていく。例えば、彼の少年期。山田洋次監督は「寅さんの教育論」(岩波ブックレット)でこんなことを書いている。
渥美さんがいろいろぼくにしてくれた話のなかでこんなのがあるんですね。
彼はクラスのお荷物だから、一番後ろに坐らされている。彼の隣は知恵遅れの少年。
授業はさっぱりわからないし、興味もない。面白くもおかしくもない。だからぼんやりと先生を観察したり、一所懸命勉強している生徒の横顔を見たりしながら、退屈な時間が過ぎていく。ところが一所懸命勉強している少年たちも一時間の授業のうちに、一度や二度、一息入れる時間があるんだそうです。先生も、ちょっとくたびれて、このへんで一息という感じになると、チョークを置いて言葉を止める。
そうすると、生徒たちは一斉になんとなく渥美少年のほうを振り返ってみる。そのとき、渥美少年は、そこで俺の出番だとばかり、ニコニコッと笑うんだそうです。少年のころから、四角い顔した渥美さんの笑顔はとても面白かったんじゃないでしょうか。もう見ただけで吹き出すような笑い方をしたんじゃないでしょうか。
それで、みんなが「ワァーッ」と大声で笑う。そうすると、なぜかみんな元気が出てくるというんです。そしてふたたび授業が始まり、みんな勉強に戻る。そして、渥美少年には退屈な時間が始まる。
渥美さんが面白おかしく話してくれたことですから、多少の誇張もあるかもしれませんが、しかしぼくがこの話から考えることは、少年渥美清は、成長してからも、ずうっと一貫してそういう役割を、かつてのクラスにかわってこの社会で果たしている。その「役割」というのは、つまり俳優ということです。
俳優になって「寅さん」を演じるということは、一所懸命働いている人たちが、ときどき疲れて一息つきたいとき、いやなことが続いて、映画でも観て気を晴らしたいなと思うときに、精一杯の楽しい演技を観せて、その観客をワーッと大笑いさせて、大笑いした観客は少し元気が出て、また明日から頑張って生きていこうと思う、そういう役割を果たす、ということです。(山田洋次著「寅さんの教育論」p5-7/岩波ブックレット)
また、「寅さんと日本の民衆」(山田洋次著/抱樸舎文庫)では、中学の頃の渥美清のことが述べられている。
中学に入ると、休みの日には上野、浅草あたりをうろうろして、テキ屋に興味を感じる。街頭で大きな声を出して売っているテキ屋のおじさんやおにいちゃんたちに愛情を寄せていく。そして、かれらの口上を全部覚えちゃって、休み時間になると教壇に駆け登って、みんなの前で「四谷、赤坂、お茶の水、イキな姉ちゃん立ちしょんべん」なんてやって(笑い)、勉強に疲れた級友たちをさんざん喜ばしていた。授業中はだめな生徒だったけど、休み時間の英雄であっただろうと思います。
寅さんの映画のなかでいろんな口上を述べ立てるんですけど、あれは僕の創作ではないんです。あの手の言葉は渥美さんの引き出しのなかにたくさん詰まっている。彼が少年時代にあこがれて、メモしたことが全部頭に入っていますから、いくらでも出てくるんです。まったく見事な蓄えというかね。(山田洋次著「寅さんと日本の民衆」p22/抱樸舎文庫)
寅さんの言葉で有名な「労働者諸君!」という言葉について巻末の対談で明らかにされている。
住井すゑ ところで、寅さんが「労働者諸君!」というあのおかしさ、あれでわれわれはみんな味方だと思うわけですよね。あの「労働者諸君!」というセリフは山田さんがお考えになったの?
山田洋次 いえ、そうじゃないんですよ。あれは渥美さんのアドリブから始まったんです。台本にはないセリフでした。小さい印刷工場に寅さんが入ってきて、まじめに働いている労働者をからかうというシーンで、ぼくは「おい、君たち」とか、「お前たち」みたいなセリフを脚本には書いたんじゃないでしようか。渥美さんはそれを「おい、労働者諸君!」っていったら、ものすごくおかしかったんです。なんでこんなにおかしいんだって分析すると、とてもたくさんのことがそこにはあるのでしょうが。
例えば、これも予想しないときに渥美さんがひょいとアドリブでいったんですけれども、第五作ですからだいぶ前、松山政治君が機関車の助手の役になった。松山政治君は当時若かったので、渥美さんが彼を呼びかけるのに「おい、青年!」っていったんですよね。それがもうおかしくてね。一人の人間はいろんなジャンルに属していますから、さまざまな呼び方ができますね。「おい、男」「おい、女」とか、「おじさん」「坊や」「おい、おまわりさん」「駅員さん」「運転手さん」などなど。
しかし、この「青年」という呼び方は面白いですね。「青年」という言葉には、希望が託されているといえるんじゃないか。高い志を抱いて真剣に生きる、未来を目指してがんばっているという、そういうイメージをもっている。
だれもがそういったってだめなんです。渥美さんが、「おい、青年!」って呼ぶと、そんなイメージがふわっと、ちょっと戯画化されているけれども伝わってくる。そして、現実の日本の青年と渥美さんの心に描いている素敵な「青年!」というイメージとのずれがちょっとおかしくなるというところが、「おい、労働者諸君¡」というのと似ていますね。
つまり「労働者諸君!」というと、そこにある尊敬とあこがれ、つまりたくましい腕にハンマーを握り、労働歌を歌って人民の未来を真剣に考えているというような、ちょっと古風な人間像なんです。しかし、現実にそう呼ばれている青年たち、あるいは今日の日本の労働者と寅さんのイメージしている古風な労働者像とがちょっとずれていることに、何ともいえないおかしさと同時に、ものかなしさも交えてつい観客は吹き出しちゃうみたいなところがあるんですね。(山田洋次著「寅さんと日本の民衆」p57-59/抱樸舎文庫)
私たちは、寅さんの眼を通して世間を見ている。
「寅さんと日本人」(浜口恵俊・金児暁嗣著/知泉書館)には、山田洋次監督の言葉が引用されている。

……[たそがれ]清兵衛とは違う世界ですが、あの景気のいい高度経済成長の時代に、世の中の進歩とか変革とかその手の一切に背を向けて、定職につかず住む家もなく、年中失恋をしている情けないダメ男に、日本の中年男女が夢中になった。さあどんどん働いてお金を稼いで、洗濯機やテレビを買おうじゃないかという時代にです。寅さんのどこかに、日本人が憧れる部分があったんじゃないか。一生懸命働いてお金を貯めながらも、何か喪失感のようなものがあって、それを寅さんを見ることで、ふと安心できたというのかな。俺だって、何も喜んで欲望を追求しているわけじゃないんだ。寅さんみたいな生き方だってしてみたいんだよと思った時に、何か救われるような、癒されるような思いがしたのではないかと思うのです。……」(山田洋次「侍の生きていた時代に」文藝春秋、9月臨時増刊号『和の心の日本の美』2004年9月、48頁) (浜口恵俊・金児暁嗣著「寅さんと日本人―映画「男はつらいよ」の社会心理」p12-13/知泉書館)
正月になるたびに、ダメ男の寅さんの世界に浸るという行為は、会社というコミュニティに閉じこもっていた会社員たちが、日常から逸脱した非日常の世界から自分たちの姿を見渡すということなのだろうか。
奇人・変人とコミュニティ
また、山田監督は寅さんという奇人・変人の大切さを強調する。
1960年代から70年代にかけて、能率主義という言葉が産業界を中心に唱えられ出しました。
映画の世界にも当然この考えがもちこまれ、少数精鋭主義という言葉が流行しました。少数でもいい、精鋭がいれば映画はできる。更には精鋭が少数で作った方が良い映画ができる、という考え方でもあったのです。いままでのスタッフ編成はあまりにも無駄が多すぎた。従来50人でやって来たとすれば、よく働く優秀なスタッフなら25人でよい、そうすれば映画はもっと経済的に安くつくられるというわけです。
事実、そのころから映画のスタッフはどんどん少なくなってきました。人数を減らすとなれば、当然、よく働かない人、つまり会社的な見地から言って成績の悪い方の人から整理されていきました。しかし、そのことによって、次々とつくられ続けてきた日本映画は、芸術作品であれ娯楽作品であれ、全体としてだんだん面白くなくなっていきました。映画の面白さとはなにかというのはむずかしい問題で、言葉ではうまく説明しにくいのですが、たとえば楽しい喜劇といわれるもの、観客の心にいつまでも残るといった名作ではないけれど、見ている間は楽しくてならないような映画がかつてはたくさんつくられたものです。そして、こういう種類の楽しさを生み出すためには、チームに一見無駄に見えるような人間を平気で何人も抱えているようなゆとりがなくてはならないように思います。あるいは、そういう人間を自分のチームに抱えられるだけの心の広さがないといけないということかもしれません。
映画界には、昔は変人・奇人がたくさんいました。今にして思うと、人を楽しませる映画をつくるためには、スタッフの中に変人・奇人がいなければいけなかったんだとぼくは思います。そういう人を仲間として抱えて、みんなで彼を笑ったり、愛したりするというチームであってこそ、はじめて人を笑わせたり、楽しませたり、感動させたりする映画ができたということなのでしょう。
ましてや、ぼくたちのチームは寅という人間を主人公にしているわけです。寅というのはまさに落ちこぼれであり、変人・奇人です。役立たずです。その人間を描くぼくたちが、自分たちの集団からそういう人間を排除するわけにはとてもいかないわけです。(山田洋次著「寅さんの教育論」p33-34/岩波ブックレット)
世の中が不況になり、真っ先に首を切られるのは奇人・変人たちである。効率的にはなるが、発想が同質化し画期的なアイデアが生まれにくい。また、残った社員たちも絶えず上司の顔色を伺い、クビにされないことのみ考える。奇人・変人たちはこれと違う。「寅さんの社会学」では、こう書いている。
寅次郎は権威を前にしても、その権威の力に怯えることもなく、卑屈になることもない。またそうした権威の力を認めないというよりも理解しなかった、といった方が適当かも知れない。言い換えれば、寅次郎の心象風景は、ある意味では狭いし、ある意味では明快だと言えるだろう。彼の心象風景の中には、さくらと始めとするとらやの人々や、それから旅で出会う人達が有り、旅で出会う人々が陶芸の世界的な権威者であろうと、著名な作家であろうと、東大の教授であろうと、寅次郎にとっては同じであった。

寅次郎は現代の資本主義社会が、あるいはその中に組み込まれている人達が追求する利潤を、そうした人達と一緒に追求しようとはしない。彼にとっては、今晩寝る宿と気持ち良く酔える酒があれば、一応は満足なのである。寅次郎も地道な生活をしようと努力したことはあるが、いつもその努力は報われず、また寅次郎自身がそうした地道な生活に向いていないため、常に挫折に終わる。(竹原弘著「寅さんの社会学」p9/ミネルヴァ書房)
寅さんは、コミュニティから絶えず排除されてきたため、コミュニティに所属するあこがれはない。寅さんはあくまでも、個人主義の人である。そのことが、コミュニティ内の上司に盾つけないサラリーマンたちの寅さんへのあこがれになっていたのである。

薄っぺらいのに自信満々な人

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榎本博明「薄っぺらいのに自信満々な人」

心理学博士の榎本氏の著作です。

この本では,最近の若者が,できないのに「できる」と自信たっぷりに言うことや人について,心理学的な分析をすることから始まります。そして,人を注意できないことについて説明し,さらに,群れる人々について批判的に論じます。

一言で言うと,強すぎる自己肯定感や自己愛への批判と,群れることをコミュニケーション能力が高いと勘違いすることの明示です。

この中で,特に「群れる」ということにいろいろと気づかされることがありました。

例えば,教室でも子どもたちは,群れをつくっていると言えます。それが複数のときもあるし,一つのときもあります。特に一つのときは,その群れに入れない子どもが,仲間はずれやいじめにあっている可能性もあります。

また,職員室でも,いろいろな群れがあるのではないでしょうか。
特に,人を注意し合わないで,馴れ合っているような職員の群れには,警戒が必要です。

このことについて,榎本氏は,「鏡映自己」という心理学の概念を使って説明します。
『自己というのはすべて社会自己であり,それは他者の目に映ったものであるという意味』という概念です。そして,冗談ばかりで,なんでもネタにして笑いあうだけで,相手に遠慮して思っていることを率直に言わないといううわべだけの付き合いでは,「鏡としての他者」が機能しないといいます。

これが機能しないと,他者の目に自己が映し出されることがないのです。そうなると,自己を見失ってしまう。自分がわからないということに陥ってしまうのです。

また,群れたがる人は,異質性を認めたくないといいます。つまり,自分と同質の人とばかりいるのです。そうなると,その人は成長しません。なぜなら,異質性をなんらかの形で自己に取り入れることで,成長していくからです。これは,詳しい説明がなくても,容易に理解できるのではないでしょうか。

自己を磨き,より「できる人」になるためには,群れることをやめ,異質な他者と率直に語り合うことが大切なのだと,改めて感じました。




「おかあさん、ぼくが生まれてごめんなさい」

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お母さんへのすべての感謝を一篇の詩に凝縮させて二カ月後、生まれながらにして重度の脳性マヒだった奈良県の少年やっちゃんは天国に旅立った。やっちゃんを見守ったすべての人の愛と涙に溢れた珠玉の一冊。 親思う子の想い、子を思う親の想いってお世辞抜きに感動するよね。多くの人に読んでほしい。忘れていたものを思い出すかも。

 「おかあさん、ぼくが生まれてごめんなさい」

 ごめんなさいね おかあさん
 ごめんなさいね おかあさん
 ぼくが生まれて ごめんなさい
 ぼくを背負う かあさんの
 細いうなじに ぼくはいう
 ぼくさえ 生まれなかったら
 かあさんの しらがもなかったろうね
 大きくなった このぼくを
 背負って歩く 悲しさも
 「かたわな子だね」とふりかえる
 つめたい視線に 泣くことも
 ぼくさえ 生まれなかったら
 
 ありがとう おかあさん
 ありがとう おかあさん
 おかあさんが いるかぎり
 ぼくは生きていくのです
 脳性マヒを 生きていく
 やさしさこそが 大切で
 悲しさこそが 美しい
 そんな 人の生き方を
 教えてくれた おかあさん
 おかあさん
 あなたがそこに いるかぎり

「母より」

私の息子よ ゆるしてね
 わたしのむすこよ ゆるしてね
 このかあさんを ゆるしておくれ
 お前が 脳性マヒと知ったとき
 ああごめんなさいと 泣きました
 いっぱいいっぱい 泣きました
 いつまでたっても 歩けない
 お前を背負って歩くとき
 肩にくいこむ重さより
 「歩きたかろうね」と 母心
 ”重くはない?”と聞いている
 あなたの心が せつなくて
 わたしの息子よ ありがとう
 ありがとう 息子よ
 あなたのすがたを見守って
 お母さんは 生きていく
 悲しいまでの がんばりと
 人をいたわるほほえみの
 その笑顔で 生きている
 脳性マヒの わが息子
 そこに あなたがいるかぎり

「ひとつの願い 君ちゃん(17歳)」

お便所に ひとりで 行けるようになりたいのです
それが 私の願いです
たった ひとつのねがいです
神様 神様がいらっしゃるなら
私の願いを聞いて下さい
歩けないこと 口がきけないことも がまんします
たった ひとつ おべんじょに
ひとりで ひとりで
行けるようになりたいのです
お願いします

教育という病

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内田良『教育という病』

教育という病~子どもと先生を苦しめる「教育リスク」~ (光文社新書)


「組体操」「二分の一成人式」「部活動における体罰と事故」などをテーマに,学校教育の当たり前と考えていることに問題を提起します。

そこにおける,リスクを明確にしていくのです。その手法が,エビデンスです。このエビデンスは,科学的根拠です。印象的,感情的な議論ではなく,科学的な根拠をもとに議論しようというのです。

確かにその方法論は,社会科学的なもので,有効性があると思います。逆の言い方をすると,様々な教育問題は,感情的なのです。そのことに異論はありません。実際,マスコミなどで取り上げられるのは,このような事件的,感情的な話題ばかりです。

さて,「組体操」ですが,最近は,巨大化,高層化,低年齢化が進んでいるといいます。確かに,YouTubeなどを見れば,巨大な組体操の動画は,数多くあげられています。

それも,感動や一体感といった,美辞麗句のもとに紹介されています。そのことに,著者は,問題を投げかけます。感動などのために,子どもや生徒の安全を犯していいのかと。

この点に関しては,全く同感です。「組体操」では,子どもたちにかなりの無理を強いているなぁと以前から感じていました。ですから,どのようにその負担を減らすか,ということを指導に入れていますが,それだけでは足りないなと思いました。

もっと,崩れたときの身のこなしや,単に精神論に陥らないような指導が必要だと感じたのです。

その他にも,柔道を中心にした「部活動の問題」や「体罰の問題」などを提起しています。
その核心は,「つきもの論」です。

組体操には,けががつきもの。部活動には,厳しさがつきもの。という「つきもの論」なのです。

この「つきもの論」と,感動や良きものという概念が,本当に子どものためになっているのかということが問題なのです。

例えば,「二分の1成人式」では,保護者を感動させるために,いろいろと企画しているというのです。
それでいて,子どもと保護者の関係に,学校が深く立ち入る問題性に踏み込んでいます。

子どもと保護者の関係は,学校が「感動」という理屈で立ち入れるほど単純ではなくなっているのです。
そのことを考えずに式を開くことは,やはり問題でしょう。

さまざまな問題,さらにその問題に巻き込まれる教師のリスクについても論じてある著作です。
今一度,学校教育を見つめなおすのに大切な書籍ではないかと思います。


幸福学

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「幸福学」

「幸せ」について知っておきたい5つのこと NHK「幸福学」白熱教室 (中経出版)

「幸福学」…あまり聞きなれない学問です。
「幸福」であるかどうかは,心理的,主観的なもので,それを学問として調査したり一般化できるものだとは思いませんでした。

しかし,研究は,進んでいるのです。そのことにまず驚きました。

特に興味深いのは,「幸福」には,そうなるためのレシピのような方法論があることです。それが最近の研究で明らかになったというのです。

そのまず材料は,「人との交わり」「親切」「ここにいること」の三つだと言います。
前者二つは,わかりやすいと思いますが,最後の「ここにいること」というのは,「目の前のことに集中すること」です。

上の空で別のことを考えたり思い浮かべたりするのではなく,今,目の前のことに集中することなのです。

また,面白いのは,「お金」に裕福な人たちとそうでない人たちでは,「幸福だ」と感じるのにそれほど差がなかったそうです。つまり,裕福か貧乏かということは「幸福感」とは別のものなのです。

そして,「お金」でものを買うより「経験」の方が「幸福感」が高いという研究例を示しています。
また,「与える喜び」も「幸福感」につながると言います。

さらに,「仕事」についての講義も興味深いものです。
「仕事」には,「ジョブ」「キャリア」「コーリング」の三種類があり,「コーリング」が一番「幸福感」が強いと言います。

「ジョブ」は,単に仕事を労働と捉えるものです。
「キャリア」は,「ジョブ」に「経歴」や「向上」が加わったものです。
最後の「コーリング」は,仕事を天職と考えるものです。

例としていくつか挙げられていますが,「病院の清掃員」の例はわかりやすいと思います。
ただの労働だと思っている段階は「ジョブ」です。しかし,「病院をきれいにすることで,みんなが健康でいられる手助けをしている」という意識を持てば「コーリング」となります。

そして,この「コーリング」の人たちは,明らかに「ジョブ」や「キャリア」の人たちとは違う行動をとっているといいます。

この他,挫折や不快感からの立ち直り方や,人間関係の築き方などを紹介しています。

興味深いことは,いずれも具体的な方法論が明らかになっていることです。
つまり,行動を変えることで,「幸福感」も変わるのです。

これは,楽観的な人も悲観的な人も同じです。
「幸福」となる行動があるのです。

今回,この文献を読んだのは,私自身が「幸せ」になるためではありません。もちろん,その意味も全くないわけではありませんが,未来に向かって今日を生きる子どもたちに,どのような行動をさせるのが「幸せ」や「幸福感」につながるのかということを知りたかったからです。

実際,子どもたちに転用できる技能がたくさんありました。
これからの学級経営や子育てに活用していきたいと思います。




ほめると子どもはダメになる

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「体罰は野蛮だ」なんて大ウソ! 大学教授が訴える「ほめると子どもはダメになる」
『ほめると子どもはダメになる』榎本 博明[著]

「子どもを厳しくしつけるよりも、いいところを伸ばすように褒めて育てたほうがいい」――こんな風に信じて子育てをしている人も多いことだろう。子育てに限らず、若手社員に対しても「ほめて伸ばす」式の育成方法が奏功すると考えている人もいるのではないか。

 こうした考え方の背景には、かつてのスパルタ式の教育や体罰への反発があることは想像に難くない。そして、「欧米では、体罰や押し付けのような教育は採用しておらず、もっと自由に個人を尊重している」と思っている人もいることだろう。

 しかし、これは大きな勘違いだ、と指摘しているのは、心理学博士の榎本博明氏。実は欧米の親は、日本よりもはるかに厳しく、子どもに対して威厳がある存在だというのだ。そのうえで榎本氏は、新著『ほめると子どもはダメになる』の中で、「ほめて伸ばす」という教育方法の弊害を具体的に指摘している。

 以下、同書をもとに欧米などと日本の親とを比較してみよう。

(1)しつけをしない日本の親


「ほめて伸ばす」という教育方法の弊害とは
 日本の親(特に母親)は、子どもと友人のような関係を持とうとする傾向が強い。そのため、親の意見を押し付けたがらない。これは世界的に見てもかなり珍しい傾向のようだ。

「子どもの体験活動等に関する国際比較調査」(子どもの体験活動研究会)が2000年に日本、韓国、アメリカ、イギリス、ドイツの小学5年生と中学2年生を対象に行った調査結果がある。

 しつけに関する言葉がけとして「ちゃんとあいさつをしなさい」「うそをつかないようにしなさい」といったことを父母から「言われない」という子どもの比率は日本が圧倒的に高かった。以下はその調査結果である(数字は%)

・「ちゃんとあいさつをしなさい」
 
 お父さんから「言われない」 日本72 韓国46 アメリカ27 イギリス38 ドイツ66

 お母さんから「言われない」 日本54 韓国39 アメリカ23 イギリス29 ドイツ60

・「うそをつかないようにしなさい」
 
 お父さんから「言われない」 日本71 韓国27 アメリカ22 イギリス22 ドイツ42

 お母さんから「言われない」 日本60 韓国22 アメリカ21 イギリス18 ドイツ38

 もちろん「うそをつくな」「あいさつをしろ」と言われたからといって、子どもがそのように育つかどうかは別問題かもしれないが、それにしても親からしつけようという働きかけがなされていないことは数字から見てとれる。

(2)体罰は前時代的なものではない

 近年は特に体罰について、日本では過敏な反応が目立つ。少しでも体罰に類する行為をした教師は野蛮人のように扱われがちである。

 しかし、たとえばアメリカではつい最近行われた調査でも、体罰に対して肯定的な意見のほうが多いのだ。

 シカゴ大学が2014年に実施した「子どものしつけに対する意識調査」によれば、体罰に賛成という者が、18~29歳で74%、30~39歳で73%、40~49歳で70%、50代以上でも60%以上となっている。

 深刻なダメージを与えるような体罰は論外にしても、あきらかに子どもが悪い場合でも、一般的な体罰はもとより、正座させただけで大騒ぎになる日本とは意識が違うようだ。

 同書では、他にも具体的なデータ、事例を引いて「欧米の親は優しいというのは誤解に過ぎない」と断じている。何でもかんでも「ほめて育てる」といった風潮に違和感のある方には納得の1冊、逆に「子どもは叱ったら萎縮する」と信じている人には刺激的な1冊と言えるだろう。

日本の弓術


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~日本の弓術~


大正末期から昭和初期にかけて、あるドイツ人哲学者が来日していました。
彼の名前はオイゲン・ヘリゲル。東北帝国大学で、哲学講師を務めていました。

ヘリゲルは「日本の精神」を理解するため、「弓術」を学ぶことにしました。
我々日本人にとっては常識ですが、日本の武道は単なるスポーツではなく、精神的
な修行をも目的とします。

しかし、西洋人のヘリゲルにとって、それは驚くべきことだったのです。
西洋の武術は、敵を殺したり、破壊するためのテクニックです。戦闘のための技術
が、なぜ精神的な修行になるのか? ならば、日本の武道を習得することで、日本
の精神を理解しよう。彼はそう考えたのです。

当時、日本には阿波研造という、弓術における最高峰の達人がいました。
ヘリゲルは阿波師範の門をたたき、弟子入りを許されたのです。

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以下、ヘリゲルの著作「日本の弓術」を引用し、彼がいかにして「日本の精神」
を習得していったかをお話します。「日本の弓術」は岩波文庫から出ている、
非常に薄い本です。30分くらいで読めますので、ご興味のある方はどうぞ。

あと、話を分かりやすくするために、多少の改ざんを行いました。
まぁ、いつものことですので、勘弁してくださいね(笑)

            〆    〆    〆

□「日本の弓術」抜粋意訳
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修行が始まり、ヘリゲルは矢を放つことになった。
しかし、彼は矢を放つ方法が分からない。

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ヘリ「先生、どのように矢を放てばよろしいのですか?」
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師範「無になって、矢を放つのだ。」
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ヘリ「えっ!? 無になると言いますが、それでは誰が矢を放つのですか?」
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師範「あなたの代わりに誰が射るかが分かるようになったなら、一人前だ。」
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ヘリ「どういうことか、分かりません。きちんと説明してもらえませんか?」
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師範「経験してからでなければ理解できないことを、言葉でどう説明すれば
   よかろう? どんな知識や口真似も、何の役に立とう? 
   ただ、あなたは精神を集中し、まず意識を外から内へ向け、次に内にある
   意識すらも無くしていくことを努力しなさい。」
-------------------------------


阿波師範の言葉、「無心になって、矢を放て!」。
しかし、ヘリゲルにはそのことが理解できなかった。

そして、西洋合理主義者である彼は、いろいろ考えた結果、「無心」になるため
の何らかのテクニックがあるに違いないと考えた。彼は、阿波師範の矢の放ち方
を徹底的に研究し、そのやり方を真似た。

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ヘリ「これで、師範と同じように射放てる! 恐らくこれが無心なんだ!」
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彼は得意げに師範の前で射放った。
非常によい出来ばえだったので、彼は師範からのお褒めの言葉を期待した。
しかし、師範はそっけなくいう。

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師範「どうかもう一度。」
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ヘリゲルはもう一度、射放った。今度の矢は、最初の矢より上手くいった。
ヘリゲルは嬉しくなって、師範の顔を見た。

すると師範は、一言もなく歩み寄り、ヘリゲルの手から静かに弓を取り、それを
片隅に置いた。そして、誰も居ないかのように、無言のまま座り続けた。
ヘリゲルはその意味を悟り、その場を立ち去った。
(注:原本には書かれていないが、恐らく「破門」の意味だと私は解釈する)

ヘリゲルが技術的に解決しようとしたため、師範は深く傷ついたのである。
後日、ヘリゲルは師範に平謝りをし、何とか許してもらった。

            〆    〆    〆

それから何年かたって、ヘリゲルは「的」を射ることを許された。
それまでの4年間は、2メートル先の藁束に向かって、射放っていたのだった。
今度の「的」は60メートルも先にある。ヘリゲルは途方にくれた。

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ヘリ「矢を的に当てるためには、どうすれば良いのでしょうか?」
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師範「的はどうでも良いから、今までと同じように射なさい。」
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ヘリ「しかし、的に当てるならば、的を狙わないわけにはいきません。」
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師範「いや、その狙うということがいけない。的のことも、当てることも、
   他のどんなことも考えてはいけない。ただただ、無心になるのだ。」
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ヘリ「無心ですか?」
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師範「そう、無心だ。そうすれば的が自分の方に近づいてくるように思われる。
   そうして、的は自分と一体になる。」
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ヘリ「的と自分が一体に!? そんなことが、本当に可能なのですか?」
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師範「うむ。的と自分が一体になれば、矢は自分の中心から放たれ、自分の中心
   に当たるということになる。故に、あなたは的を狙わず、自分自身を狙い
   なさい。それが出来れば、あなたは宇宙になれる。」
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ヘリ「無理です。私には理解できません。」
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師範「弓術は技術ではない。理屈や論理を超越したものなのだ。弓を引いている
   自分は宇宙と一体となるべきであり、すなわち禅的生活なのである。」
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しかし、ヘリゲルには信じられない。

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師範「あなたは、どうやら信じられないようだな。ならば最後の手段を使おう。
   あまりやりたくはなかったのだが・・・」
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師範はヘリゲルに、その夜あらためて訪問するように言った。
そして、夜が来た・・・

            〆    〆    〆

21時にヘリゲルは師範の家に行った。
師範は黙って、ヘリゲルを道場につれていく。当然ながら道場は真っ暗である。
師範は1本の蚊取り線香に火をともし、的の前においた。


そして、師範は弓を引き絞り、2本の矢を立て続けに放った。
「発止(ハッシ)!」という音がなり、2本とも的に当たったようである。

師範は、ヘリゲルに的を見に行くようにうながした。
彼はそこで、恐るべし光景を見たのである。

なんと、1本目の矢は的の中心に当たり、2本目の矢は1本目の矢を真っ二つに引き
割いて、的の中心に当たっていたのである。

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師範「こんな暗さで、的を狙うことができると思うか? これでもまだ、
   あなたは、狙わずには当てられないと言い張るつもりか?」
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その後、ヘリゲルは疑うことも、考えることもやめた。
そして、ひたすら稽古に励み、免許状をもらうまでに上達したのである。

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ここから先は余談ですが、阿波師範と同時期を生きた武道家に、肥田春充という
達人がいました。

彼も色々エピソードがあるのですが、その一つに目隠しをしながら、弓矢で針金
を当てたというものがあります。Mr.マリックもビックリです(笑)
何度やっても、場所を変えても、一度たりとも外さなかったというのです。

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「1000万回やったら、一発くらいは外れませんか?」
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こう聞かれた肥田は、答えました。
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「当ててから矢を放っているのですから、外れるということはありません」
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阿波研造といい、肥田春充といい、恐らく同じ境地に達していたのでしょうね。


   ※∞∞※∞∞※∞∞※∞∞※∞∞※∞∞※∞∞※∞∞※∞∞※


~後日談~

ある人が、ヘリゲルの本を読んだ後、「暗闇の中で二つの矢を的に当てたこと」
について、阿波師範に確認をしたところ、彼は笑ってこう言ったといいます。

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「いや、まったく、不思議なことがあるものです。偶然にも、ああいうことが
 起こったのです(笑)」
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偶然か? 必然か?
あなたは信じますか?


現代の日本人ですら忘れてしまっている「日本の精神」。
かつて、それを体得したドイツ人が確かに存在していました。
私はなんとか、その「日本の精神」を後世に残したいと思うのですが・・・


「学力」の経済学

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中室牧子『「学力」の経済学』

なかなか衝撃的な表紙です。
「ゲームは子どもに悪影響?」
「教育にはいつ投資すべき?」
「ご褒美で釣るのっていけないの?」

いずれも,教育については定説となっていることに,あえて疑問を呈します。
そして,教育経済学という学問的立場から,データをもとに論じていきます。

科学的なエビデンスをもとに説明されるので,説得力があります。
また,定説にない,新たな知見も示してあり,興味深く読むことができます。

例えば,東大生の親の平均年収は1000万であることや,子どもをほめて育てることは下手をすると根拠のない自信を身につけさせることになること,ご褒美は漠然としたことに対してではなくて具体的な手立てを明確にしたことに対してしなければならないことなどなど。

要するに,教育論の個人的主観的な逸話を重視するような,「一億総教育評論家」ではなく,科学的な根拠をもとにした議論を教育の世界でもしなければならないということを主張されています。

ただ,この個人的主観的に意味がないかというとそんなことはないと思います。
個人の主観的な物語の中に,実は科学的ではないかもしれないけれど,教育の真実が含まれているかもしれないのです。

それを,個人的だからダメ,主観的だからあてにならないというのは,一面的なものの見方です。
できれば,両方のスタンス,つまり科学的・統計的な教育論と,個人的・主観的な教育論が,有機的に混在するのがいいのだと思います。

それでも,このような科学的・統計的な教育論は,これまであまりなかったので興味深いし,実践現場に役に立つのではないかと思います。

ちなみに,上述の「いつ投資するか」ですが,これは,就学前の幼児期がいいそうです。そのような科学的データがあるそうです。

科学的だから短絡的によいとも思いません。そのような立場があるのだなぁと,思いました。一方で,教育とは個人的・主観的な部分も持っています。その一例が不登校児への対応です。これは,なかなか科学的に一般化できません。

一人一人のデータが異なりすぎるからです。ですから,この不登校児にはうまくいったけど,別の不登校児にはうまくいかないというようなことがたくさんあるのです。

ただ,個人的・主観的な議論ばかりしていてもいけないと思います。なぜなら,それでは教育という学問が成立しないからです。ですから,科学的な視点も必要で,そのためには刺激的な文献だと思います。

まず,「しつけを受けた人は年収が高い」です。
ここでは,四つの基本的なモラルをしつけの一環として親から教わっているかどうかを調査したものです。

その四つとは,
「嘘をついてはいけない」
「他人に親切にする」
「ルールを守る」
「勉強をする」
だそうです。

しつけが子どもの勤勉性に因果効果をもつことを明らかにした,と述べています。
確かに,勤勉性は重要です。これは,成功する子どもたちという文献にも書いてありました。

昔から日本人は,勤勉だと言われてきました。それが最近あやしいのは,家庭でのしつけがうまくいっていないせいなのかもしれません。

ちょうど夏休みの終わりなので,おもしろい叙述があったので紹介します。
『この研究では,子どものころに夏休みの宿題を休みの終わりのほうにやった人ほど,喫煙,ギャンブル,飲酒の習慣があり,借金もあって,太っている確率が高いことを明らかにしています。』

さて,次は,少人数学級です。
これに教育的な効果があるかどうかを実験調査した結果を示しています。

それによると,35人と40人程度,つまり5人ぐらいの人数の差では,教育的な効果で有効な差異が出なかったそうです。さらに,少人数学級を政策として実施することは,費用対効果が低いといいます。つまりコストパフォーマンスが低いのです。

そこに力をいれるのではなく,もっとコストパフォーマンスが高いところにお金と力をかけたほうがいいといいます。

最後に,教員の質についてです。
教師の質を,子どもの学力をどれだけ上げたかという点で評価します。これを「付加価値」と呼ぶそうです。

では,どうすれば,この「付加価値」を高め,教師の質を高めるかというと,従来の方法ではあまり効果がないことが明らかになっているそうです。例えば,報酬を上げるとか,行政が行う教員研修などでは,質は高まらないのです。

この答えは,まだ明確になっていないそうですが,一つの提案として,教員免許制度を廃止してはどうかといいます。

教師として参入する門戸を広げようということです。
実際,塾などで教員免許はないけれど,子どもの付加価値を効率的に高めている先生はたくさんいます。
つまり,教員免許と教師の質は因果関係がないのです。

ただ,お医者さんでも医師免許があるのですから,教師にも免許はあってもいいと思います。
それより,国家試験をした方がよいのではないかと考えます。

お医者さん,弁護士などは,国家試験があります。
さらに,その試験に通るには,大学院を出ている方が有利なようにするのです。
そうすることで,教師の質は高まるように思います。

もちろん,何の科学的なエビデンスはありませんが…。

いろいろと刺激の多い文献でした。
全てを鵜呑みにすることはできませんが,新たな視点を示してもらったように思います。