コラムの記事 (1/134)

感情的なしきり

三山春秋 9/21

 わが子の入部を機に少年野球チームの運営に協力している。子供たちの成長する姿が何より楽しみだが、試合となれば保護者の方が熱くなりがち。ある大会でのことだ 。

 強豪チームに熱戦の末、惜敗した。試合後、相手の応援席から「もっと楽に勝てよ」との声が上がった。チームを激励するやじなのだろうが、無念をのみ込もうとしていた当方の選手や保護者はショックを受けた 。

 隣接する小学校のチーム同士。見知った顔が多く友好的な一方、何かと張り合う間柄だ。この出来事から関係は一時ぎくしゃくした 。

 身内や友人、近所付き合いなど関係が近いほど感情的しこりが一度生じると解消は難しい。それは国と国の関係も同じらしい 。

 都内で先日、日中関係に関する福田康夫元首相(81)の講演を聞いた。首相在任の2008年に日中共同声明を発表、今も中国政府要人と交流し融和に努める。「古代から交流し、お隣同士の近い関係だからこそ難しい」と指摘しつつ、関係が冷え込む現状を嘆いた 。

 両国は29日に国交正常化45周年、来年は故・福田赳夫元首相による平和友好条約締結40周年を迎える。これを念頭に「強硬論は幼稚。節目が続く今こそ信頼関係を築くべきだ」と強調した。相手への敬意と寛容さ。安倍政権が国民に信を問おうとする時、忘れてはならない重要な論点の一つに思える。


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□ 「戦略的互恵関係」の包括承認推進に関する日中共同声明(2008年)

 胡錦濤中華人民共和国主席は、日本国政府の招待に応じ、2008年5月6日から10日まで国賓として日本国を正式訪問した。胡錦濤主席は、日本国滞在中、天皇陛下と会見した。また、福田康夫内閣総理大臣と会談を行い、「戦略的互恵関係」の包括的推進に関し、多くの共通認識に達し、以下の通り共同声明を発出した。

1.双方は、日中関係が両国のいずれにとっても最も重要な二国間関係の一つであり、今や日中両国が、アジア太平洋地域及び世界の平和、安定、発展に対し大きな影響力を有し、厳粛な責任を負っているとの認識で一致した。また、双方は、長期にわたる平和及び友好のための協力が日中両国にとって唯一の選択であるとの認識で一致した。双方は、「戦略的互恵関係」を包括的に推進し、また、日中両国の平和共存、世代友好、互恵協力、共同発展という崇高な目標を実現していくことを決意した。

2.双方は、1972年9月29日に発表された日中共同声明、1978年8月12日に署名された日中平和友好条約及び1998年11月26日に発表された日中共同宣言が、日中関係を安定的に発展させ、未来を切り開く政治的基礎であることを改めて表明し、三つの文書の諸原則を引き続き遵守することを確認した。また、双方は、2006年10月8日及び2007年4月11日の日中共同プレス発表にある共通認識を引き続き堅持し、全面的に実施することを確認した。

3.双方は、歴史を直視し、未来に向かい、日中「戦略的互恵関係」の新たな局面を絶えず切り開くことを決意し、将来にわたり、絶えず相互理解を深め、相互信頼を築き、互恵協力を拡大しつつ、日中関係を世界の潮流に沿って方向付け、アジア太平洋地域及び世界のよき未来を共に創り上げていくことを宣言した。

4.双方は、互いの協力パートナーであり、互いに脅威とならないことを確認した。双方は、互いの平和的な発展を支持することを改めて表明し、平和的な発展を堅持する日本と中国が、アジアや世界に大きなチャンスと利益をもたらすことの確信を共有した。

(1)日本側は、中国の改革解放以来の発展が日本を含む国際社会に大きな好機をもたらしていることを積極的に評価し、恒久の平和と共同の繁栄をもたらす世界の構築に貢献していくとの中国の決意に対する支持を表明した。

(2)中国側は、日本が、戦後60年余り、平和国家としての歩みを堅持し、平和的手段により世界の平和と安定に貢献してきていることを積極的に評価した。双方は、国際連合改革問題について対話と意思疎通を強化し、共通認識を増やすべく努力することで一致した。中国側は、日本の国際連合における地位と役割を重視し、日本が国際社会で一層大きな建設的役割を果たすことを望んでいる。

(3)双方は、国際連合協議及び交渉を通じて、両国間の問題を解決していくことを表明した。

5.台湾問題に関し、日本側は、日中共同声明において表明した立場を引き続き堅持する旨改めて表明した。

6.双方は、以下の五つの柱に沿って、対話と協力の枠組みを構築しつつ協力していくことを決意した。

(1)政治的相互信頼の増進
  双方は、政治および安全保障分野における相互信頼を増進することが日中「戦略的互恵関係」構築に対し重要な意義を有することを確認するとともに、以下を決定した。
 ・両国首脳の定期的相互訪問のメカニズムを構築し、原則として、毎年どちらか一方の首脳が他方の国を訪問することとし、国際会議の場も含め首脳会談を頻繁に行い、政府、議会及び政党間の交流並ぶに戦略的な対話のメカニズムを強化し、二国間関係、それぞれの国の国内外の政策及び国際情勢についての意思疎通を強化し、その政策の透明性の向上に努める。
 ・安全保障分野におけるハイレベル相互訪問を強化し、様々な対話及び交流を促進し、相互理解と信頼関係を一層強化していく。
 ・国際社会が共に認める基本的かつ普遍的価値の一層の理解と追及のために緊密に協力するとともに、長い交流の中で互いを培い、共有してきた文化について改めて理解を深める。

(2)人的、文化的交流の促進及び国民の友好感情の増進
  双方は、両国民、特に青少年の間の相互理解及び友好感情を絶えず増進することが、日中両国の世々代々にわたる友好と協力の基礎の強化に資することを確認するとともに、以下を決定した。
 ・両国のメディア、友好都市、スポーツ、民間団体の間の交流を幅広く展開し、多種多様な文化交流及び知的交流を実施していく。
 ・青少年の交流を継続的に実施する。

(3)互恵協力の強化
  双方は、世界経済に重要な影響を有する日中両国が、世界経済の持続的成長に貢献していくため、以下のような強力に特に取り組んでいくことを決定した。
 ・エネルギー、環境分野における協力が、我々の子孫と国際社会に対する責務であるとの認識に基づき、この分野で特に重点的に協力を行っていく。
  ・貿易、投資、情報通信技術、金融、食品・製品の安全、知的財産権保護、ビジネス環境、農林水産業、交通運輸・観光、水、医療等の幅広い分野での互恵協力を進め、共通利益を拡大していく。
 ・日中ハイレベル経済対話を戦略的かつ実効的に活用していく。
 ・共に努力して、東シナ海を平和・協力・友好の海とする。

(4)アジア太平洋への貢献
  双方は、日中両国がアジア太平洋の重要な国として、この地域の諸問題において、緊密な意思疎通を維持し、協調と協力を強化していくことで一致するとともに、以下のような協力を重点的に展開することを決定した。
 ・北東アジア地域の平和と安定の維持のために共に力を尽くし、六者会合のプロセスを共に推進する。」また、双方は、日朝国交正常化が北東アジア地域の平和と安定にとって重要な意義を有しているとの認識を共有した。中国側は、日朝が諸懸案を解決し国交正常化を実現することを歓迎し、支持する。
 ・解放性、透明性、包含性の三つの原則に基づき東アジアの地域協力を推進し、アジアの平和、繁栄、安定、解放の実現を共に推進する。

(5)グローバルな課題への貢献
  双方は、日中両国が、21世紀の世界の平和と発展に対し、より大きな責任を担っており、重要な国際問題において協調を強化し、恒久の平和と共同の繁栄をもたらす世界の構築を共に推進していくことで一致するとともに、以下のような強力に取り組んでいくことを決定した。
 ・「気候変動に関する国際連合枠組条約」の枠組みの下で、「共通に有しているが差異のある責任及び各国の能力」原則に基づき、パリ行動計画に基づき2013年以降の実効的な気候変動の国際枠組みの構築に積極的に参加する。
 ・エネルギー安全保障、環境保護、貧困や感染症等のグローバルな問題は、双方が直面する共通の挑戦であり、双方は、戦略的に有効な協力を展開し、上述の問題の解決を推進するために然るべき貢献を共に行う。

    日本国内閣総理大臣      中華人民共和国主席
     福田康夫           胡錦濤

温暖化と糖尿病

卓上四季 9/21

地球温暖化が進めば糖尿病が増える―。「風が吹けば桶(おけ)屋がもうかる」の類いのこじつけかと思ったら、海外の専門家が発表したまじめな研究だった。

人体には褐色脂肪細胞があり、寒いと脂肪を熱に変え体温を維持する。平均気温が上がるとこの細胞が減り、脂肪が燃えにくくなって糖尿病患者が増えるという仕組みだ。平均気温が1度上がると、米国だけで年間10万人増えると試算する。

それだけではない。温暖化の弊害は広範に及ぶ。気温上昇で空気の密度が下がれば航空機は揚力を得にくくなり、重量制限が必要になる恐れがあるという。「暑すぎて離陸できません」という事態が冗談ではなくなるかもしれない。

猛暑や豪雨などの異常気象も、関係があるというのが科学的な知見だ。北海道では昨年大きな台風被害を受けた十勝管内が今年も再び被災するなど、毎年のように大雨災害に見舞われている。

各国、各地域が災害への対応を強化することは大切だが、温暖化対策は世界規模で進めなければ意味がない。まずは温暖化防止に向けた世界的枠組み「パリ協定」で掲げた目標を、各国が履行していくことが重要だ。

協定からの離脱を表明していたトランプ米大統領も、方針転換を検討しているそうだ。先月の大型ハリケーンでは、数十人の死者を含む大きな被害が生じている。大統領はこうした現実をしっかり直視しなくてはなるまい。

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風が吹けば桶屋が儲かる?(または女心と春の空?)

与太郎 花粉症って言えば、春先になって風が吹き出すと大変なんですよね。
大 家 春は結構強い風が吹きやすいですからね。
与太郎 「風が吹けば桶屋が儲かる」なんていう諺を聞いたことがあるけど、今は桶屋なんかないですよね。
大 家 ないですね。その諺が今でも通用しているのかどうかと思ってインターネットで調べて見たら結構まだ生きているようなんですね。Wikipediaにもちゃんと項目がありましたよ。
与太郎 この諺ってあれでしょう? 何ていうか、ありそうでなさそうな理屈を繋げて、いい加減なことを──結論にするって言うか・・・。
大 家 そういうことですね。
 ところで、私が高校生の時だったかな。60年も前のことだけれども、担任の先生が教えてくれたんですよ。若い物理の先生だったですね。
 「風が吹けば」というのは間違いで、「春・風が吹けば」というのが正しいってね。
与太郎 春風っていうと何か優しいそよ風みたいだけど──。
大 家 「春風」じゃなくて、「春・風が吹けば」ですよ。これは夏や秋では駄目なんです。どうしてかと言えば、春先はまだ空気がうんと乾燥しているでしょう? その時期にはまた結構強い風が吹きますね。春一番から始まって、花見の時期だってずいぶん強い風が吹きますね。
与太郎 そう言えばそうですね。空気は乾燥しているから、埃が目に入って目が見えなくなる人が多いっていうわけですね。
大 家 というわけで、どうしても季節は春でなければならないんですよ。
与太郎 そうか。で、目が見えなくなった人が増えると三味線が売れるようになるって言うのはどうなんですか?
大 家 目が見えなくなった人が就く職業としてはまず按摩さんがありますね。今で言うマッサージ師でしょうか。これには技術が要りますが──。
 もう一つは門付(かどづけ)ですね。浄瑠璃などの芸を聞かせながら家々を回って食べ物や金銭をもらう、芸付きの乞食ですね。これには三味線の伴奏が要る。これにも芸事の技術は要りますがね。
与太郎 ああ、それで三味線がね。三味線には猫の皮を使うんですよね。それで、猫が沢山捕まえられていなくなる。猫がいなくなれば鼠の天下だ。鼠が増えて桶なんかをかじりまくる。それで桶屋が儲かるって言う寸法なんだ。一応理屈は通ってますよね。

ノーベル賞の梶田さん

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雷鳴抄 9/21

 典型的な文系人間である。だが取り立てて文系の教科に秀でたわけではない。理数系が悲劇的にだめだったのである。とりわけ物理はちんぷんかんぷん。今でも物理と聞くと顔をしかめてしまう。

それではいけないと反省し先日、宇都宮市内で開かれた日本物理学会主催の市民科学講座に足を運んだ。2015年にノーベル物理学賞を受賞した東京大宇宙線研究所長の梶田隆章(かじたたかあき)氏がどんな講演をするか興味もあった。

テーマは「宇宙と素粒子のなぞへの挑戦」。ニュートリノ振動の発見でノーベル賞を獲得した梶田氏の話は、素人にも分かりやすくという工夫が感じられた。大きさがないくらい小さなニュートリノが素粒子の一種であることが分かった。

観測するのは極めて難しく特別な装置であるスーパーカミオカンデで実現できたこと。ニュートリノ振動で質量があることが裏付けられたこともおぼろげに理解できた。

あとは分かったような分からないような。要はこうした研究が宇宙の謎の解明につながるという点が理解できただけでも役に立ったように思う。国が基礎研究に補助金を出し渋るような報道にも接するが、日本が世界をリードできるよう適切な対応を求めたい。

会場には多くの高校生が詰めかけ、盛んに質問をした。理科離れが言われているが、何だか安心した。

始めの一歩

越山若水 9/21

福井市出身の故白川静さんが完成させた字書三部作がある。「字統」「字訓」「字通」(ともに平凡社)で、漢字の起源や体系を追求した白川学の集大成である。

字書をひもとき「歩」の項目を調べる。古代文字は足跡を表す「止」と逆向きの「止」を組み合わせた形。左右交互に足を運び「あるく」意味になったという。

さらに読み進むと、足を地面に接して歩くことは、その土地の霊に触れる方法で、重要な儀礼の式場に向かうときは、歩いて行くのが礼儀だった―と解説している。

成り立ちを知れば、一つ一つの歩みもおろそかにできない厳粛さがある。ふと思い出したことわざがある。「始めの一歩、末の千里」。最初は一歩から始まるが、歩き続ければ千里にも達すると説く。

北朝鮮に拉致された横田めぐみさんのことがニューヨークの国連本部で取り上げられた。「13歳の日本人の少女を拉致した」と、40年前に起きた国家犯罪を厳しく非難した。

発言の主は、意外にもトランプ米大統領。めぐみさんの母、早紀江さんも驚きを隠さないが「被害者の帰国につながることを期待する」と望みを託す。

最近は北朝鮮の核・ミサイル開発の陰に隠れ進展が見えなかった拉致問題。ようやく新たな足跡がしるされた。小さな努力の積み重ねが大きな成長につながるという例え通り、「始めの一歩」になるよう願っている。


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白川静 “字書”三部作『字訓』『字統』『字通』


 突然ですが、12月12日は何の日かご存知ですか。
 ヒントは、「1(いい)2(じ)1(いち)2(じ)」=「いい字1字」。毎年この日に清水寺で発表される「今年の一字」。もうお判りですね、答えは「漢字の日」です。その日にその年の世相を表す漢字が発表されることで、師走の風物詩となっています。

 さて、今回はこの「漢字」に生涯を捧げた故白川静氏に触れてみたいと思います。白川氏は、1910(明治43)年福井県生まれ。立命館大学助教授、教授を歴任後、1956年同大学名誉教授。平成16年には文化勲章を授与されました。平成18年逝去(享年96)。

 13歳の時に福井の生家を出て大阪へ。書生として住み込んだ法律事務所に偶然あった多くの漢籍が、以降の氏の人生を運命づけます。亀の甲羅に記された甲骨文字、古代の銅器に刻まれた金石文の文字一字一字の緻密な分析・研究が、「白川漢字学」を形成してゆきます。膨大な甲骨文字・漢字の地道な精査の結果、個々の文字に固有の意味があることは勿論、その文字を形成する篇(へん)・旁(つくり)、さらにはそれらを形作る一画一画までにも重要な意味を見出すに至ります。

 例えば「聖」という字。「神聖な」「聖職」といった熟語が想起されますが、氏によるとこの「聖」という字には「神の声を聞きうる人の意」があるということです。神の声を聞く、それ故に「聖」には「耳」という字が含まれていることも指摘されています。また、「経」という字。訓読みでは「つね」と読むこの字はもともと織物の縦糸を意味しました。縦糸がしっかりと貫いているから織物は織物たり得る。古代中国における人間や社会にとっての縦糸。それはとりもなおさず、普遍的な倫理観や道徳思想であり、それらは「経書」として大系化され、今日まで連綿と受け継がれています。(余談ですが、仏教の「経典」も「経」を用いますが、こちらはサンスクリット語の「スートラ」を意訳したものです。)「矢」という字。この字に「誓う」という意味があるのをご存知ですか。古代中国では神様に誓いをたてる時、弓矢の矢を折って誓いの言葉を述べていました。「矢」に「誓う」の意味があるのはこのためです。また「誓」に「折」という字が含まれているのも、この習慣を示唆しているといえるでしょう。

 このように見てくると、日常何気なく使っている漢字にもそれぞれ興味深い意味があることがお分かりでしょう。氏がその生涯をかけ、「白川漢字学」の集大成として完成させた『字統』『字訓』『字通』の“字書”三部作には、ここに紹介したようなお話がたくさん載っています。平易な表現をすれば、これら三部作は漢字辞典ということになりますが、辞典の枠を遥かにこえた「漢字学」の「研究書」と称するに相応しい書物です。

 冒頭にあげた「今年の漢字」。食の安全、金融不安、北京五輪、日本人のノーベル賞受賞などなど…。皆さんはこの1年を漢字一字でどのように表しますか。

 『字訓』
  白川静著 平凡社 1987.5
  
 『字統』
  白川静著 平凡社 1984.8
  
 『字通』
  白川静著 平凡社 1996.10
  
 『白川静著作集』全12巻
  白川静著 平凡社 1999.11-2000.11
  

マニュアル

正平調 9/21

作家の海老沢泰久さんがパソコンのマニュアルを書いたことがある。テーマは誰でも読めば分かる手引書。パソコンはずぶの素人の海老沢さんが難題に挑んだ。20年ほど前のことだ。

マニュアルが分かりにくいのは、その機器を熟知した人が書くからだ。どこが分かりにくいのかもつい見えなくなる。だから素人の疑問や視線を大事にしよう。そう考えたマニュアルは好評だったと、著書にある。

年金機構から届いた扶養親族等申告書への不満やいらだちが本紙イイミミに相次ぐ。「説明書を読んでも書き方が分からない」「理解しにくい」という。ここまで不評の文書は珍しい。同感の人は多かろうと推測しながら、海老沢さんの話を思い出す。

得てして役所の文書は読みづらい。抜け落ちがないよう、あれもこれも盛り込まれがちだ。そこに専門用語が交じれば、こちらはうーんとうなるしかない。大事な年金である。読めば誰もが分かるよう、いっそ高齢者に書いてもらったらどうかとまで思う。

作家井上ひさしさんが大切にしていたモットーがある。「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをゆかいに、ゆかいなことをまじめに」だ。

せめて「むずかしいことをやさしく」に心を配る説明書でありたい。


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■画期的だった操作マニュアルについて

▼操作マニュアルの一番の成功例

操作マニュアルの中で一番の成功例は、海老沢泰久の書いた「これならわかるパソコンが動く」だろうと思います。この操作マニュアルは、NECのパソコン「98シリーズ」に添付されました。すごくわかりやすいと評判になって、冊子が本として出版されました。

海老沢泰久は、直木賞をとった小説家です。亡くなるまでパソコンで文章を書いたことがない人です。なぜ、この人がパソコンの操作マニュアルを書くようになったのか、ちょっといわくがあります。

▼小説家がマニュアルを書いた理由

週刊朝日の編集長だった川村二郎さんが、ファクシミリを購入したのに、設定できなかったそうです。マニュアルの文章が理解不能だったとのこと。誰が、いいマニュアルを作れるだろうかと考えたら、一番文章の上手な海老沢泰久を思い出したというのです。

ちょうどNECも困っていました。ウィンドウズ95が出た当時、パソコンは40万円もしましたから、高価な買い物です。それなのに、4割の方がウィンドウズ95のセットアップ完了までたどり着けなかったそうです。これは大変なことです。

コールセンターには、電話がパンクしてしまうほど問い合わせが殺到していました。何とかしないとまずいという状況のとき、川村さんのお話があって、NECは、海老沢さんに操作マニュアルを作ってもらうということになったそうです。

▼内容はワープロ・メール・Web

この操作マニュアルでは、セットアップまでの手順が、7ページで説明されています。図は最小限に絞られていて、文章はわかりやすく書かれています。この説明で、ほとんどの方が、セットアップできたのです。コールセンターへの問い合わせは激減しました。

セットアップのあとの内容は、ワープロ、メール、パソコン通信(Web)に絞られていました。分量は、数十ページです。この本で、パソコンの使い方がわかったという人が多かっただろうと思います。2012年まで、図書館の棚に置かれていました。

縦書きのマニュアルですし、今では内容が古くなっています。文章も変えないといけないところがあります。しかし、パソコンの操作マニュアルの基本構造は、現在でもあまり変わらないのだろうと思います。画期的な操作マニュアルでした。

▼2つの成功要因

なぜこれほどまで成功したのでしょうか。第1に、文章がわかりやすかったということです。文章が適切だと、図は最小限ですみます。安易に画面の図が並べてある操作マニュアルは、たいてい文章に問題があります。

第2に、盛り込む情報を絞ったということです。必要な機能のみを説明して、これだけ出来たらユーザーも満足してくれるというものに絞りました。メーカー側が、標準となる使い方を示したのです。

これら2点は現在でも、操作マニュアルを作るときの基本です。


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てら子屋コラム

【コラム】 学びの場の極意

~むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、~


春らしくなりました。青葉がきれいです。青葉と言えば思い出すのがこの歌詞。♪三〇〇人中、二八〇番、だけど尻から数えてけさい♪ いまだに口ずさめるほど気に入って観ていた青春ドラマ『青葉繁れる』の主題歌です。仙台の進学校を舞台にしたこのドラマが放映されていたのは、ちょうど私は中3の頃。このドラマを機に、私はズブズブと井上ひさしさんの言葉の魅力に引き込まれ、ほとんどの著作を読み、こまつ座の芝居もほとんど観てきました。その井上ひさしさんが生前に繰り返し言っていたことがあります。「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、そしてゆかいなことはあくまでゆかいに」私もそんな言葉の使い手に少しでも近づきたい。

 「むずかしいことをやさしく」、他者に何かを説明したり教えたりしようとするとき、何ともこれが難しい。中途半端な知ったかぶりではできないことです。難しい術語を並べて煙に巻いて誤魔化したり、上辺だけをなぞって子供騙しをしたりする。そこですかさず、井上さんは「やさしいことをふかく」を求めます。このためには、理解の深さだけでなく、その表現のための最高の言葉を、最高の場面に配置しなくてはなりません。ここまでやれたら素晴らしい。

 だけど、井上さんは続けて踏み込みます。「ふかいことをおもしろく」。そうなんです、やさしくても、ふかくても、おもしろくなくては受け手の心と腹をブルブル振動させるには至りません。「ユーモア」、それは昨今のバラエティ芸人の人をバカにすることによる「お笑い」とは全く違うはずです。ユーモア(Humour)とは、ヒューマン(Human)から生まれたようです。さらにその先には、湿気や液体に源流をたどるとのこと。血液、体液、人体の約70%は水分のようですが、その人間らしさの源にある液体を揺さぶるものこそユーモアであり、だからこそ腹を抱えて笑っても、こらえきれずに涙をこぼしても、ホンモノのユーモアは、私たちをホンワカやさしい気持ちにさせてくれるのでしょう。

 少し飛躍してしまいますが、私は学びの場に最も必要なものこそ、この「ユーモア」(人間らしさ)だと思っています。先ほどからの、「むずかしいことをやさしく…」は、子どもたちの学びの場に最も必要とされていることではないでしょうか。だから、最初に難しいことに出会った時には、やさしく説いてくれる支え手も大切です。さらに、ドンドン学び進んで「おもしろく」あたりに達すると、自らの創造力、想像力がものを言うはずです。さらに、「ゆかいな」に達するには周囲と共鳴し共振する感受力になるのでしょう。

 少し前に内田樹さんの『日本辺境論』を読みました。そこにも多くの学びへの示唆があふれていました。中でも、「学ぶ力の劣化」を憂えて書かれていた以下の部分が強く心に残っています。

「今の子どもたちは「値札の貼られているものだけを注視し、値札の貼られていないものは無視する」ように教えられています。その上で、自分の手持ちの「貨幣」で買えるもっとも「値の高いもの」を探しだすように命じられている。幼児期からそのような「賢い買い物」のための訓練を施された子どもたちの中では、「先駆的に知る力(=学ぶ力)」はおそらく萌芽状態のうちに摘まれてしまうでしょう。「値札がついていないものは商品ではない」と教えられてきた子どもたちが「今はその意味や有用性が表示されていないものの意味や有用性を先駆的に知る力」を発達させられるはずがない。」

 きっと、ユーモアには値札はつかないでしょう。だから、(特に総合的な)学びの場は危機に瀕しているのでしょう。もっと、学びの場をユーモアで充たさなくては。そう思うと、井上ひさしさんの主張は、じつは「学びの場の極意」だったことに気づかされます。気づいたからには、私は「てら子屋」を通して、この極意を求め続けていきたいと思っています。「ゆかいなことはあくまでもゆかいに」生きていくことを諦めないようにしたいのです。井上ひさしさんが逝ってしまったのは、ほんとうに残念でした。もっともっと井上芝居を観て、腹を抱えて笑い、涙を滲ませ、心身の水分をブルブル振動させたかったなあ。

世界を救った男

中日春秋 9/21

その人が正しい判断をしなければ、われわれは今、生き延びているのだろうか。ちょっと、おどかしすぎかもしれぬ。それでも、「一歩間違えば」の事態は実際に起きた。その危機を食い止めた「世界を救った男」が五月に亡くなった。旧ソ連軍中佐のスタニスラフ・ペトロフさん。七十七歳。こんな話である。

東西冷戦下の一九八三年九月二十六日未明、ペトロフさんは米軍の核攻撃を警戒する任務についていた。

突然、ミサイル監視システムの警報が鳴った。五発の大陸間弾道ミサイルが発射され、こちらに向かっている。システムはそう表示している。本土到達まで約二十分。どうするか。

米軍に動きがあれば、ただちに上官に報告することになっていた。しかし「何かおかしい」と直感した。米軍の核攻撃で五発は少なすぎる。システムも信頼できない。規則を破って上司への報告を見合わせた。

二十三分が経過。何も起きない。システムの誤作動だった。米ソが鋭く対立する最中、米軍に攻撃されたとそのまま報告していれば、報復の手続きが進み、全面核戦争に向かった可能性は否定できない。自分にも同じ判断ができると言い切れる会社員はそれほどいないだろう。

事件のあった二十六日は、核兵器全面廃絶国際デーでもある。幸い、われわれはまだ生き延びている。幸い、核兵器廃絶に取り組むことがまだできる。


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大弦小弦 9/21

東西冷戦下、核戦争を防いだとされる旧ソ連の軍人が77歳で死去したことを、米メディアなどが伝えている。

スタニスラフ・ペトロフ中佐(当時)は、米軍の核攻撃を警戒していた1983年9月26日、5発のミサイルが発射された警報を確認。しかし、人工衛星監視システムの誤作動を疑い、上官へは報告せず「報復攻撃」を回避した。

ソ連軍が領空侵犯した大韓航空機を撃墜し、下院議員ら米国人63人を含む乗客乗員269人全員が、犠牲になった直後のことだ。中佐が規定通り伝達していれば、米ソ全面核戦争に発展する恐れがあったという。

米軍統治下の沖縄で59年、核弾頭搭載のミサイルを兵士が操作を誤り、那覇の沖合に発射していたことがNHKの報道で明らかになった。広島の原爆と同規模で「爆発していたら那覇が吹き飛んでいた」と当時の整備兵が証言している。

ソ連軍上層部は、ミサイル防衛システムの欠陥を認めたくなかったため、ペトロフ中佐は、服務規定違反に問われ左遷。米軍は沖縄の核兵器事故は「アメリカの国際的地位を脅かす」として隠蔽(いんぺい)した。

19日、トランプ米大統領は国連の演説で「北朝鮮を完全に破壊するしか選択肢がなくなる」と警告。これまでにない強い言葉を使った。偶発的な出来事が、予期せぬ衝突につながる可能性はゼロではない。

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世界を救った男

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1983年9月26日、ソ連軍の将校であったスタニスラフ・ペトロフはソ連の標準的な軍服務規程を逸脱し、監視衛星が発したミサイル攻撃警報を自ら誤警報(英語版)と断定した。複数の情報源によると、この決断はアメリカ合衆国に対する偶発的な報復核攻撃を未然に防ぐ上で決定的な役割を果たした。監視衛星の警報システムに対する調査により、システムは確かに誤動作していたことがその後判明した。以上より彼は核戦争を未然に防ぎ「世界を救った男」と呼ばれることがある。

彼がこの警報を上層部に伝達したかどうか、またその決断が核戦争を回避する上で厳密にいかなる役割を果たしたのかは依然諸説ある。が、彼が処罰される危険を冒して破局を未然に防いだことは、ソ連のミサイル警報システムの致命的な欠陥を暴露し、ソ連軍上層部を深く狼狽させた。この報復として彼は「信頼できない」将校との烙印を押され、軍歴を損なわれた。ソ連の軍事機密と外交政策の関係上、ペトロフの行動は1998年まで秘密とされていた。

この事件は冷戦時代に戦略核兵器を扱う軍によってなされたいくつかの際どい判断の1つである。それらはしばしば、最後の瞬間に、指揮系統(英語版)から遠く離れた担当責任者によって下された。

核戦争未遂事件

事件の背景
事件は米ソの外交関係が非常に悪化している時期に発生した。先立つこと僅か3週間前、ソ連軍がソ連領空を侵犯した大韓航空007便を撃墜し、乗員乗客269名全員が死亡するという事件が起きた。この際多数の米国人が死亡し、中には下院議員のラリー・マクドナルド(英語版)も含まれていた。また米国とその同盟国は軍事演習「エイブル・アーチャー83(英語版)」を実施している最中であり、これが米ソ間の緊張を著しく高めていた。KGBは西側に配置していた活動員に緊急通信を送り、核戦争の勃発を想定して準備するよう警告していた。

1983年の事件
スタニスラフ・ペトロフは戦略ロケット軍の中佐であり、1983年9月26日、モスクワはセルプコフ-15バンカーの当直将校だった。ペトロフの担当任務には、核攻撃に対する人工衛星による早期警戒網を監視し、ソ連への核ミサイル攻撃を認めた場合これを上官に通報することが含まれていた。そのような攻撃を受けた場合のソ連の対応は相互確証破壊戦略に基づいており、即時反応による米国への核攻撃を行うこととされていた。

0時40分、バンカーのコンピュータは米国からソ連に向けて飛来する一発のミサイルを識別した。ペトロフはこれをコンピュータのエラーだと考えた。何故なら、理論上、米国からの先制核攻撃は、何千発とは言わずとも何百発ものミサイルの同時発射によるソ連側反撃力の殲滅を含むはずだからである。また人工衛星システムの信頼性にも以前から疑問があった[5]。ペトロフはこれを誤警報として退けたが、コンピュータによる検知が誤りで米国はミサイルを発射していないと結論した後で、彼が上官に通報したか否かについては「した」という説と「しなかった」という説がある。この後、コンピュータは空中にあるミサイルをさらに4発(1発目と合わせて計5発)識別し、いずれもソ連に向けて飛来しつつあるとした。再びペトロフはコンピュータシステムの誤動作と断定したが、彼の判断を裏付ける情報源は実は何一つなかった。ソ連のレーダーには地平線の向こうに隠れたミサイルを探知する能力はなかったので、それらが脅威を探知するまで待ったとすると、ソ連が事態に対処できる余裕は僅か数分間に限られてしまっただろう。

もしペトロフが誤って本物の攻撃を誤報と考えたのだとしたら、ソ連は何発かの核ミサイルに直撃されていただろう。もし彼が米国のミサイルが飛来中だと通報していたならば、上層部は敵に対する破滅的な攻撃を発動し、対応して米国からの報復核攻撃を招いていたかも知れない。ペトロフは自身の直観を信じ、システムの表示は誤警報であると宣言した。彼の直観は後に正しかったことが明らかになった。飛来してくるミサイルなどは存在せず、コンピュータの探知システムは誤動作していた。後日、高高度の雲に掛かった日光が監視衛星のモルニヤ軌道と一列に並ぶというまれな条件が原因だったことが判明した(後にこのエラーは追加配備された静止衛星との照合によって回避されるようになった)。

ペトロフが後に述べたところによると、彼のこの重大な決断は、次のような事柄を根拠にしていたという。1つには米国の攻撃があるとすればそれは総攻撃になるはずだと告げられていたこと。5発のミサイルというのは先制としては非論理的に思われた。発射検知システムはまだ新しく、彼から見て未だ完全には信頼するに足りなかったこと。そして地上のレーダーはその後何分間かが経過しても何ら追加証拠を拾わなかったこと。

余波

国際ドレスデン賞授与式に出席するペトロフ(2013年、ドイツ・ドレスデンのゼンパー・オーパーにて)
あわや核惨事に至るところをコンピュータシステムの警告を無視して防いだにもかかわらず、ペトロフ中佐は彼が核の脅威に対処したやり方を巡って抗命と軍規違反の咎で告発された。以後、彼は上層部から厳しい審問にさらされ、結果として最早これ以上信頼の置ける将校ではないとの評価を受けた。

ペトロフ中佐の司令官らは事件後の審理で彼を非難し、事件の責任を負わせた。彼の行動はソ連の軍事機構の欠陥を暴露し、上層部をまずい立場に立たせた。彼は書類仕事のミスを口実に懲戒処分を受け、前途洋洋としていた彼の軍歴は恒久的に損なわれた。彼は重要度の低い部署に左遷され、やがて早期退役して神経衰弱に陥った。

ペトロフを巡るこの事件は、ソ連防空軍ミサイル防衛部隊の元司令官ユーリー・ヴォーチンツェフ(英語版)大将の回顧録が1998年に出版されて初めて公になった。以来、各種メディアで採り上げられ、ペトロフの行動は広く知られるようになった。

晩年

ペトロフの行動が知れ渡った1998年の時点で彼は既に年金生活に入っており、フリャジノの町で比較的貧しい退役生活を送った(年金額200米ドル/月)。彼自身はその日にしたことで自分を英雄とは思っていないと述べている。しかし2004年5月21日、 サンフランシスコに本拠を置く平和市民協会は、ペトロフ中佐が世界的な破滅を防ぐ上で果たした役割を称え、世界市民賞と副賞のトロフィー、賞金1,000米ドルを贈呈した。

2006年1月には、ペトロフはアメリカ合衆国を訪問し、ニューヨーク市における国際連合の会合で表彰された。その際、平和市民協会は改めて2つ目の特別世界市民賞を彼に贈った。翌日ペトロフはニューヨークにあるCBSの社屋で米国人ジャーナリストウォルター・クロンカイトによる取材に応じた。このインタビュー内容は、ペトロフの米国旅行におけるハイライトの様子と共にドキュメンタリー映画『赤いスイッチと世界を救った人間』に収録された。

2013年2月17日には、紛争や暴力を停止させた人物を表彰する国際ドレスデン賞を授与された。

2017年5月19日、モスクワ近郊で77歳で死去[15]。しかし、その死はロシア国内の報道ではほぼ取り上げらなかったという。ペトロフの友人であるドイツの映画作家が9月7日、2日後に迫ったペトロフ78歳の誕生日を祝おうと電話で問い合わせたところ、ペトロフの息子が父親の死去を伝え、そのことを映画作家がブログで言及したことを機にドイツのメディアに取り上げられることとなった。結局、ペトロフの死が大々的に報じられたのは死去約4ヶ月後の9月18日であった。

懐疑論

ニューヨークの国連でペトロフが表彰された同日、ロシア駐米大使館はプレスリリースを発表し次のように反論した。1個人が核戦争を起こしたり防いだりするのは無理で、特に「核兵器を用いるという決断がただ1つの情報源やシステムに依存して下されるような事態は、米国であれソ連(ロシア)であれ起こり得ず想定もできない。そのためには複数のシステムによる確認を要する。例えば地上レーダー、早期警戒衛星、諜報報告等々」。

しかしながら、冷戦に関する評論家の中には、スタニスラフ・ペトロフが関わったようなミサイル攻撃警報のケースでもこのような規定が厳密に遵守されたか疑問を呈する向きもある。1983年当時のソ連首脳部の心理状態と、同じく当時の緊張を高めるばかりの諜報報告のために、ソ連首脳部は米国からの核ミサイルによる奇襲攻撃が現実になるかも知れないと深刻に懸念しているように見えた。冷戦時代の核戦略に関する専門家で現在ワシントンDCにあるWorld Security Instituteの代表を務めるブルース・ブレアは、次のように述べている。米ソ関係は「極めて悪化しており、システムとしてのソ連全体、つまり単にクレムリンやアンドロポフやKGBというのではなく、システム全体が、攻撃を予期し迅速に反撃する態勢に移行していた。それは一触即発の警戒態勢だった。非常に神経質なあまり誤りや事故を起こしやすい状況にあった。…ペトロフが当直だった際に生じた誤警報は、米ソ関係上これ以上ないほど最悪のタイミングで起きたのだ。」。全米視聴インタビューでブレアが述べたところによると「ロシア人から見ると、米国政府は先制攻撃を準備しており、また実際にそれを命令し得る大統領によって率いられていた。」ペトロフの事件は「我々が偶発的核戦争に最も近づいた瞬間だと思う」。

KGBの元対外防諜責任者で当時のソ連最高指導者ユーリ・アンドロポフをよく知っていたオレグ・カルーギン(英語版)は、アンドロポフの米国指導者に対する不信は深刻だったと述べる。もしペトロフが衛星の警報を本物と宣言していたら、誤った通報でもソ連指導部を好戦論に追いやったことは考えられる。カルーギンによると「危険はソ連指導部の考え方にあった。『米国は攻撃するかもしれないから、いっそ我々が先制するべきだ』」。

ペトロフ自身は自分がその日したことで自分を英雄とは思っていないと述べている。ドキュメンタリー映像「The Red Button and the Man Who Saved the World」収録のインタビューでペトロフ曰く「起きたことは全て私にとってどうということはなかった ― それが私の仕事だった。私は単に自分の仕事をしていただけで、たまたま私がその時そこにいるべき人間だったまでだ。当時10年連れ添っていた妻はそれについて何も知らなかった。『で、あなたは何をしたの?』と彼女は聞いた。私は何もしなかった」。

ベテラン教員 

編集日記 9/20  

 録音した自分の話を自分で聞くのは気恥ずかしい。国語教育で知られた大村はまさんは、東京都の中学校教員を70代で退職するまで録音テープで自分の話をしっかりと聞き、話し方を練習したことを、教え子との対談で明かしている。

 大村さんは約50年の教員生活で子どもの気持ちをつかむため授業の工夫と教材開発に打ち込んだという。「研究することが先生の資格」と著書で説いた言葉は多くの後進に受け継がれている。

 文部科学省が2016年度、全国の小中学校、高校などを対象に行った学校教員統計調査の結果が公表され、ベテラン教員が培った指導技術の継承を心配する声が上がっているという。20代の教員の割合が増えて若返りの傾向が顕著になり、年齢構成の偏りが浮き彫りになったためだ。

 本県では、少子化をはじめ、東日本大震災と原発事故などで採用を抑えたため平均年齢が上昇した。数年後には教員の定年退職がピークを迎える見通しで若手の育成が急務になっている。

大村さんは、教員が研究して蓄えた知恵を子どもに伝える大切さを強調している。ベテラン教員から引き継ぐ教える技術と知恵は、若い教員が子どもたちを育む大きな力になっていくことだろう。

…………………………

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「研究」をしない教師は先生ではないと思います。まあ、今ではいくらか寛大になって、毎日でなくてもいいかもしれないとも思ったりしますが。(略)子どもというのは「身の程知らずの伸びたい人」のことだと思うからです。一歩でも前進したくてたまらないのです。そして、力をつけたくて、希望に燃えている、その塊が子どもなのです。(略)研究をしていて、勉強の苦しみと喜びをひしひしと、日に日に感じていること、そして伸びたい希望が胸にあふれていることです。私はこれこそ教師の資格だと思います。

「教えるということ」より  大村はま

大村はまは、1906(明治39)年横浜市に生まれ、開明的な空気に溢れたこの港町で育ちました。昭和の初めに東京女子大学を卒業の後、長野県諏訪市の諏訪高等女学校に赴任。言語感覚の鋭い、学ぶこと・教え育てることの機微をよく知った誠実な教師として信頼を集めました。その後、東京府立第八高等女学校へと転任。すぐれた生徒たちを育てますが、戦中、慰問袋や千人針を指導し、学校が工場になる事態まで経験します。

大村はまを大村はまたらしめたのは、敗戦の荒廃に苦しみ抜いた末に、できたばかりの新制中学校への転任を決めてからの奮闘でした。
机も椅子もない、教科書もノートも鉛筆もない焼け跡の教室。はいてくる靴がなくて、欠席する生徒もいる。長い混乱と窮乏の中で、勉強からすっかり離れた子どもたち。あったのは、晴れて全員があこがれの中学生になったという明るさと、民主主義教育に戦後の活路を見出そうとする希望だけでした。その中で、大村はまが必死で取り組んだ実践が、後に国語単元学習と呼ばれるようになったものでした。古新聞の記事を切り抜いて、その一枚一枚に生徒への課題や誘いのことばを書き込んで、100枚ほども用意し、駆け回る生徒を羽交い締めにして捕まえては、一枚ずつ渡していった。その時のエピソードは、大村の代表的著書『教えるということ』の感動的な一節となっています。

1979(昭和54)年に教職を去るまで、大村は、目の前の子どもたちのことばの力を育てるために、単元計画をたて、ふさわしい教材を用意し、こどもの目をはっと開かせる「てびき」を用意して、ひたすらに教えつづけました。大村教室でことばの力と学ぶ力を手にして巣立った教え子は5000人と言われています。

退職後も、大村は国語教育研究から離れませんでした。90歳を超えるまで、新しい単元を創りつづけ、そのためにも膨大な数の本を読み続けました。教える人は、常に学ぶ人でなければならない、ということを自ら貫きました。
晩年を迎えた大村は、いくつもの問題意識・危機意識を持っていました。たとえば次のようなものです。
・こどもの語彙の貧困 ・話し合うことを育てていない現実(大人たち自身が話し合えないという事実) ・評価が人を育てるためのものになっていないこと(人と比べて成績をつけるため、合格・不合格を決めるためのものでしかないこと) ・優劣にとらわれて、子どもも教師も学ぶ喜びとかけ離れた場所にいること ・命令形で指示するのでなく「てびき」をすべきなのに、それができていないこと ・空疎なことばが溢れていること・・・

98歳10ヶ月で大村は亡くなりましたが、その前日まで推敲を進めていた詩が「優劣のかなたに」です。人間にとって宝のような存在である「ことばの力」。それを育てていくこと、学んでいくことは、本来、この上なく明るい試みであるはず。その明るさを知っていた大村であったからこそ、教え、育てる仕事に、惜しみなく一生を捧げたのでしょう。


優劣のかなたに

優か劣か
そんなことが話題になる、
そんなすきまのない
つきつめた姿。
持てるものを
持たせられたものを
出し切り
生かし切っている
そんな姿こそ。

優か劣か、
自分はいわゆるできる子なのか
できない子なのか、
そんなことを
教師も子どもも
しばし忘れて、
学びひたり
教えひたっている、
そんな世界を
見つめてきた。

学びひたり
教えひたる、
それは 優劣のかなた。
ほんとうに 持っているもの
授かっているものを出し切って、
打ち込んで学ぶ。
優劣を論じあい
気にしあう世界ではない。
優劣を忘れて
ひたすらな心で、ひたすらに励む。

今は、できるできないを
気にしすぎて、
持っているものが
出し切れていないのではないか。
授かっているものが
生かし切れていないのではないか。

成績をつけなければ、
合格者をきめなければ、
それはそうだとしても、
それだけの世界。
教師も子どもも
優劣のなかで
あえいでいる。

学びひたり
教えひたろう
優劣のかなたで。

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動物愛護週間

四季風 9/20

きょうから26日までは動物愛護週間。犬や猫と人間のより良い暮らしのために汗を流す人たちに接し、自分にできることを考えた。

初めて訪れた山口市の老犬ホームは、人が寄り付かない寂しい所というイメージとは違い、飼い主や愛犬家が集う和やかな場所だった。郡真美さんらスタッフのからりとした明るさと、苦い経験も味わってきた懐の深さが温かい空間をつくっているのだろう。

施設の「伝」という名前はさまざまな思いを伝える場所にという願いが込められている。まずは老犬ホームという存在を知ってもらい、心積もりをしてほしいという。

山口市のてしま旅館が始めた保護猫シェルターの「猫庭」。猫の存在は、旅館と宿泊客という素通りの関係性をがらりと変え、温かいコミュニケーションが生まれている。

2015年度の山口県内の犬猫殺処分数が全国で3番目に多かったことが注目を集め、危機感が強まった。16年度は大幅に減少したが、殺処分を減らす取り組みを継続する必要がある。「猫と暮らして知的さに驚いた。殺処分なんてあり得ない」とてしま旅館オーナーの手島英樹さん。統計数字だけでは分からない温度感を少しでも伝えたい。



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老犬ホーム 伝

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山口県の阿知須温泉にある、てしま旅館の「猫庭(ねこにわ)」

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ヒロインは液体か?

地軸 9/20

 「猫は固体か、液体か?」。インターネット上で目にした問いに、フランス人の学者は悩んだ。物理学に基づき導き出した答えは「液体にもなれる」

 猫がどんな小さなスペースにでも入る体の柔らかさに着目した。「液体は容器に合わせて形を変える」との定義を引き合いに、猫がグラスの中に丸く収まっている姿で「立証」。ユニークな研究に贈られる今年の「イグ・ノーベル賞」物理学賞を受賞した。くすっと笑えるテーマに研究者は真剣に取り組む。

 本家のノーベル賞ではなおさら。だが91年前の医学生理学賞「がん細胞の原因は寄生虫」に代表されるように、後に「誤り」とされるケースもある。

 科学分野よりも物議を醸すのが平和賞。ベトナム戦争の停戦に貢献したとして受賞したキッシンジャー米元国務長官は「戦争を起こした国なのに」と批判を浴びた。そして今、ミャンマー民主化の「ヒロイン」とされるアウン・サン・スー・チー国家顧問兼外相に賞剝奪を求める声が上がる。

 少数民族ロヒンギャを不法移民と扱い、ミャンマー国軍が迫害しているにもかかわらず、策を打ち出さないからだ。国際社会の批判を受け、ようやく人権侵害に厳しく対処すると言い出したが、政権に影響力を残す軍への配慮がみえる。

 猫ではあるまいに、軍事政権という「古い器」に身を入れて目指す民主化の形を変えてしまったのか。器を新しくしなければ、真の民主化は遠い。

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定義をするのはむずかしい - ネコは液体か?

イグ・ノーベル賞の季節である。Improbable Researchの発表によれば、トップに来るのが物理学賞「ネコのレオロジーについて」。この「レオロジー」、聞き慣れない言葉だが、連続体力学の中で粘性をもって流動するもの一般を扱うものらしい。そういえば学生の頃に「流れ学」みたいな講義があって、「それって流体力学とちがうんですか?」と、主に単位の関係で疑問に思ったものの、適当に過ごしてしまったような記憶が蘇ってきた。流体力学がニュートン流体と非ニュートン流体の力学を対象とするのに対し、レオロジーは非ニュートン流体の力学と塑性力学をまとめて扱う。といったあたりは俄仕込みの知識だ。

で、非ニュートン流体というのは、水や空気のような単純な挙動をする流体ではなく、塩ビやゴム、デンプンのような高分子がドロっと動くような場合の流体を指すらしい(ああ!いい加減だ)。飛行機の揚力みたいなのは割とニュートン流体的な解釈で計算できるのだけれど、マヨネーズとかケチャップみたいな食品工業で扱うものはだいたい非ニュートン流体らしいので、そっち方面の工学ではけっこう重要な基礎らしい(このあたりとか、参照)。

で、受賞論文を読んでみた。なかなかおもしろい。その紹介。


まず、この論文、半分はジョークである。末尾のAcknowledgementを読むとわかるのだが、これは非ニュートン流体力学の権威(らしい)Gareth H. McKinley教授の50歳の誕生日とビンガム賞受賞を記念して書かれたもので、所属も大学と学会(これもちょっと怪しめ)に加えて、「McKinley一家」と、明らかにジョークがかかっている。それでも一応は学会誌なので、決しておふざけには流れていない。ところどころにジョーク(たとえば株屋の慣用句である「死んだネコでも高いところから落とせば少しは反発する」みたいなのを引用するとか)を散りばめてはいるが、論旨はしっかりしている。

で、その論の要は、つまりは固体、液体の定義だ。すなわち、古くから物質の三態は、定性的に定義されてきた。しかし、レオロジーでは、より定量的に、数式を使って定義する。その定義に照らして、ネコを判定してみようというわけだ。ちなみに、いかにも学術論文らしくネコは学名で記載されているが、これもジョークのうちだろう。

さて、レオロジーでは、固体か液体かをデボラ数を用いて判定する(らしい)。デボラ数についてはこちらの解説がシロウトにはわかりやすかったのだけれど、

デボラ数ですが,これは材料の緩和時間と工程の滞留時間の比で定義され,緩和時間に対して通過する工程の滞留時間が短ければ材料は弾性体(固体)として振舞い,滞留時間が長ければ粘性体(液体)として振舞います.
とのこと。つまり、ネコについてデボラ数が算出できれば、それは現代的な科学らしく定量的に固体か液体かを判定できるだろう、ということらしい。

で、そこからの(おそらく玄人受けするジョークを含んだ:たとえばキャピラリー数をわざとcatpillaryと綴り間違えるとか)ディスカッションはすっ飛ばして読み進めると、さらにネコの乾湿、摩擦、降伏応力、接着性などを検討している。わけわからない。たぶんレオロジー関係者には馴染みの深いさまざまな流動体の性質や状態になぞらえているのだろう。そして後半、さらに踏み込んだ検討としてレイノルズ数やWeissenberg数を持ち出し、さらには古代ギリシアのヘラクレイトスまで持ち出す衒学ぶりで議論を進めるのだが、このあたりもシロウトには読みこなせない(仕事ならもうちょっと頑張るんだけどね)。ざっと見たところでは、万物流動のヘラクレイトスの思想は、「力」がなければすべてのものは止まると考えたアリストテレスによって影響力を失い、さらにガリレオ以降の合力がゼロであれば運動は変化しないという古典物理学の思想によって否定されたみたいな歴史が書いてあって、結局レオロジーはヘラクレイトス的でもありアリストテレス的でもありガリレオ的でもある、みたいな感じの議論なのかなあと思う。

で、ネコなんだけど、結局それは慣性的であるのか弾性的であるのかなどの考察を経て、結論はネコはじっとしてないし、「さらなる研究が必要」みたいなことになっている。ま、このあたりはお約束の書き方なのかな。論文は以上。

で、ネコは固体なのか液体なのかということでいえば、もちろん、常識的に言ってこれは固体。まあ生物というのは大半が水でできていて、特に動物は革袋に入れた水みたいなもんだから、液体っぽい動きも多少はある。けれど、常識的には液体じゃあり得ない。

ただ、学問の世界での用語は、日常の世界とは微妙に異なる。例えば論文中でも出てくるpowerは日常的には「力」だけれど、物理学では仕事率のことであって、日常的な意味とは別な意味合いをもつ。ニュートン力学での「力」はforceだが、これは決してジェダイが操る「銀河の万物をあまねく包み込む」ものではない

学問に限らないのだけれど学問の世界では特に、言葉は定義された上で用いられる。だがその定義は、ときには日常の経験や常識と整合しない。この論文が(たとえ笑いの要素を評価の尺度としている賞とはいえ)イグ・ノーベル賞を受賞したのは、そういった定義による判定と日常的な経験による判定のズレをしっかりと把握していたからではないだろうか。(かなり強引なこじつけや飛躍があるといえ)、レオロジーの定義を杓子定規に当てはめていくと、ネコは固体であると同時に液体であるとも判定されるのかもしれない。だが、それでもって我々の日常経験が否定されるわけではない。学問の正当性も揺るがない。それがこの論文の鮮やかな結論ではないかと、私はシロウトなりに読んだ。

実際、言葉はむずかしい。定義されて使う文脈であっても、往々にして日常的な文脈での用法が混入し、議論を混乱させる。正確な定義の重要性についてはこのブログでも書いてきたし、言葉の定義を辞書から引用した記事も数多い。そうはいいながら、私自身、定義されない言葉に頼って文を書くし、定義がはっきりしている言葉をわざわざひっくり返してみたりもする。かくもいい加減なことばかりしているのに、定義が重要だなんて、聞いて呆れるかもしれない。

それでも、ほんと、誰かが何かを言ったときに、その言葉がどういう意図で用いられているのかを正確に見極めることが、どんどんと重要になってきている。バベルの塔が崩壊したようなこの時代、その作業をおろそかにしたら、次に来るのは混沌しかない。

いや、もう混沌の中にいるのか。マヨネーズのような流動体の中でもがいているのが、案外と現代の人間かもしれないよな。レオロジーよ、救っておくれ!

「世界を救った男」の寂しい死

日めくり 9/20

「世界を救った男」の寂しい死

スタニスラフ・ペトロフ氏=2015年8月、モスクワ郊外の自宅(AP=共同)スタニスラフ・ペトロフ氏=2015年8月、モスクワ郊外の自宅(AP=共同)
 少年のころ、「世界を救う英雄」に強い憧れを抱いた。それはウルトラマンやウルトラセブンといった怪獣映画のヒーローだったり、スーパーマンなどSF映画の主人公だったりしたが、大人になるにつれ、そんなことは平凡な一個人の力ではできないことを悟り、寂しい思いにとらわれた。冷戦を終結させた旧ソ連のゴルバチョフ元大統領やレーガン元米大統領、ゴルバチョフ氏の後を継ぎ核大国ロシアを率いたエリツィン元大統領といったそうそうたる人物にも、直接的な意味で「世界を救う」決定的な瞬間はなかっただろう。しかし、ロシアには本当に「世界を救った」男がいた。今年5月、モスクワ郊外の自宅で77歳で死去したが、その死はつい最近まで世界に知られることはなかったほど、英雄にしては寂しい晩年だった。

 ▽ 熱したフライパン

 その人物はスタニスラフ・ペトロフ氏で、英BBC放送などによると、冷戦下の1983年当時、旧ソ連軍中佐として米国や北大西洋条約機構(NATO)諸国からの核攻撃早期警戒拠点に勤務。同拠点はモスクワにあり敵国からの核ミサイル飛来を人工衛星で察知する任務を帯びており同年9月26日深夜、ペトロフ氏が当直に当たっていた。突然、コンピューターが旧ソ連に向け1発のミサイルが飛来していると警告。ミサイルの数は計5発にまで増え、ペトロフ氏は直ちにこの情報を軍トップに報告しなければならなかった。

 当時は大韓航空機撃墜事件の直後で、米ソ関係は緊張の極みにあった。もしペトロフ氏がこの情報を伝えていたら、旧ソ連軍は相互確証破壊(MAD)戦略に基づき、米国に対し核攻撃の報復措置を取る可能性が高かったとされる。しかしペトロフ氏は、もし本当に米国が核攻撃を仕掛けたなら、何百発ものミサイルによる同時攻撃となったはずで5発だけというのはおかしいと判断。衛星監視システムの誤作動の可能性があるとして、軍トップへのホットラインの受話器を取らなかった。その際の心境を後に「熱したフライパンの上に座り込んだように感じた」と語った。

 ▽ 服務規律違反

 結果的に雲に反射した日光を人工衛星がミサイルと誤認したことが原因の警戒システムの誤作動だったと判明。しかし、軍上層部は直ちに報告しなかった服務規律違反を問題視し、ペトロフ氏を審問に掛け懲戒処分とし左遷。同氏はその後、軍を退役しひっそりと年金生活を送ることとなった。事件は極秘扱いとされたがソ連崩壊後の98年、旧ソ連軍幹部の回顧録で初めて公になり、2006年には国連で表彰されたほか、その後、自身がモデルのドキュメンタリー映画も公開された。そのタイトルは「赤いスイッチと世界を救った人間」だった。ペトロフ氏は生前、自らの行為について「当然のことをしたまで」と謙虚に話していたという。

 ペトロフ氏を英雄視することに対しては、ロシア政府は、たとえ同氏がミサイルの飛来を報告していたとしても、報復のための核攻撃までには何段階もの確認システムがあり、「世界を救った」というのは誇張だとする立場を示している。

 ▽ 偶然

 5月19日にこの世を去ったが、ロシアのメディアは冷淡で死去の事実にはほとんど触れなかった。その死が世界に知られたのは偶然の産物だった。友人であるドイツの映画作家が9月7日、ペトロフ氏の誕生日を祝おうと電話したところ息子から同氏の死を伝えられた。映画作家はブログでこのことを報告し、ドイツメディアの目に触れることになった。

 命令に反して多くの人名を救った点では、第2次大戦中、外務省からの訓令に反して、リトアニアで大量の通過査証を発給し、多数のユダヤ人避難民を救った故杉原千畝さんを思い起こさせる。折しも、トランプ米大統領が19日、就任後初めて国連総会の一般討論演説を行い、核実験などを強行した北朝鮮を世界共通の脅威と非難、米国が自国や日本など同盟国の防衛を迫られれば「完全に破壊(TOTALLY DESTROY)」すると言明した。東アジアで核をめぐる危機が高まっている中、いまこそこうした勇気ある人が求められているのかもしれない。 

太陽のくしゃみ

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「宇宙災害 太陽と共に生きるということ」
片岡龍峰 著

内容紹介:
近場の宇宙空間の利用が進み、火星への移住計画が話題になる現代。私たちは、地球を取り巻く宇宙空間について、どれだけ理解しているだろうか。
本書ではまず、通信障害、衛星墜落、世界停電などの事例から、宇宙災害とは何かを紹介。地球と宇宙のつながりを理解する研究の様子が、現場での体験と共に生き生きとした筆致で描かれる。さらに、全球凍結や大量絶滅をめぐる仮説を提示し、近い将来の現実的な宇宙利用の方向性までも探る。
天の川銀河を旅する太陽系に暮らす私たちが、これからも地球で健やかに生きていくための教養がつまった1冊である。

目次
はじめに

第1章 宇宙災害
通信途絶
衛星墜落
デブリ事故
隕石落下
オゾン層破壊
放射線被ばく
世界停電

第2章 大地から太陽系の果てまで
第一の槍:宇宙塵
第二の槍:紫外線
第三の槍:宇宙線
第一の盾:大気
第二の盾:地磁気
第三の盾:太陽風
オーロラと三つの盾
放射線帯の電子
磁気嵐の陽子
太陽の心拍

第3章 宇宙天気予報
太陽に邪魔された実験
宇宙天気予報の現場へ
宇宙の寒冷前線と台風
地下の水に守られた日本
オーロラと日本の間に
太陽の爆発に次ぐ爆発
パイロットの被ばく
電子の集中豪雨

第4章 宇宙と生命
動物と磁場
マウンダー極小期と魔女狩り
大量絶滅
宇宙線雲仮説
星雲の冬

第5章 宇宙利用
宇宙就活
スペースデブリの撃墜
月面基地
アポロの教訓
テラフォーミング
塵の悪魔
伊達政宗の羅針盤
将来の宇宙災害に向けて

あとがき

…………………………

中日春秋 9/20

今からちょうど五十年前、米軍の司令官は、核攻撃の準備に入っていた。弾道ミサイルを探知するためのレーダーが突然、機能を停止したのだ。

原因は不明。ソ連の仕業ではないか。ならば、弾道ミサイルで攻撃される前に、核兵器を搭載した爆撃機を発進させねばならない。

そういう緊迫した状況を救ったのは、米空軍の「宇宙天気予報士」だった。フレアという太陽の爆発現象で地球では磁気嵐が起き、通信障害や停電などが引き起こされる。「レーダー故障の真犯人は太陽」との分析で、危機は回避された。

強烈な太陽フレアも磁気嵐も当然ながら、人類は繰り返し経験してきた。だが、現代ほどその危険性が高まった時代はなかろう。電子機器の故障や誤作動が、惨禍を招きかねないのだ。

今月六日に観測された大型の太陽フレアで大きな被害は出なかった。しかし、『宇宙災害』などの著書がある片岡龍峰(りゅうほう)・国立極地研究所准教授は、「爆発の規模自体は五十年前のものより強かった。たまたま地球が影響を受けにくい位置にあったからというだけのこと」と話す。

物理学者の寺田寅彦は八十余年前、「天災と国防」と題した随筆で<文明が進めば進む程天然の暴威による災害がその劇烈の度を増す>と書いたが、人類は「太陽のくしゃみ」をきっかけに自らを破滅させかねぬほどの「核の文明」を手にし続けているのだ。

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天災と国防

寺田寅彦


「非常時」というなんとなく不気味なしかしはっきりした意味のわかりにくい言葉がはやりだしたのはいつごろからであったか思い出せないが、ただ近来何かしら日本全国土の安寧を脅かす黒雲のようなものが遠い水平線の向こう側からこっそりのぞいているらしいという、言わば取り止めのない悪夢のような不安の陰影が国民全体の意識の底層に揺曳ようえいしていることは事実である。そうして、その不安の渦巻うずまきの回転する中心点はと言えばやはり近き将来に期待される国際的折衝の難関であることはもちろんである。
 そういう不安をさらにあおり立てでもするように、ことしになってからいろいろの天変地異が踵くびすを次いでわが国土を襲い、そうしておびただしい人命と財産を奪ったように見える。あの恐ろしい函館はこだての大火や近くは北陸地方の水害の記憶がまだなまなましいうちに、さらに九月二十一日の近畿きんき地方大風水害が突発して、その損害は容易に評価のできないほど甚大じんだいなものであるように見える。国際的のいわゆる「非常時」は、少なくも現在においては、無形な実証のないものであるが、これらの天変地異の「非常時」は最も具象的な眼前の事実としてその惨状を暴露しているのである。
 一家のうちでも、どうかすると、直接の因果関係の考えられないようないろいろな不幸が頻発ひんぱつすることがある。すると人はきっと何かしら神秘的な因果応報の作用を想像して祈祷きとうや厄払やくばらいの他力にすがろうとする。国土に災禍の続起する場合にも同様である。しかし統計に関する数理から考えてみると、一家なり一国なりにある年は災禍が重畳しまた他の年には全く無事な回り合わせが来るということは、純粋な偶然の結果としても当然期待されうる「自然変異ナチュラルフラクチュエーション」の現象であって、別に必ずしも怪力乱神を語るには当たらないであろうと思われる。悪い年回りはむしろいつかは回って来るのが自然の鉄則であると覚悟を定めて、良い年回りの間に充分の用意をしておかなければならないということは、実に明白すぎるほど明白なことであるが、またこれほど万人がきれいに忘れがちなこともまれである。もっともこれを忘れているおかげで今日を楽しむことができるのだという人があるかもしれないのであるが、それは個人めいめいの哲学に任せるとして、少なくも一国の為政の枢機に参与する人々だけは、この健忘症に対する診療を常々怠らないようにしてもらいたいと思う次第である。
 日本はその地理的の位置がきわめて特殊であるために国際的にも特殊な関係が生じいろいろな仮想敵国に対する特殊な防備の必要を生じると同様に、気象学的地球物理学的にもまたきわめて特殊な環境の支配を受けているために、その結果として特殊な天変地異に絶えず脅かされなければならない運命のもとに置かれていることを一日も忘れてはならないはずである。
 地震津波台風のごとき西欧文明諸国の多くの国々にも全然無いとは言われないまでも、頻繁ひんぱんにわが国のように劇甚げきじんな災禍を及ぼすことははなはだまれであると言ってもよい。わが国のようにこういう災禍の頻繁であるということは一面から見ればわが国の国民性の上に良い影響を及ぼしていることも否定し難いことであって、数千年来の災禍の試練によって日本国民特有のいろいろな国民性のすぐれた諸相が作り上げられたことも事実である。
 しかしここで一つ考えなければならないことで、しかもいつも忘れられがちな重大な要項がある。それは、文明が進めば進むほど天然の暴威による災害がその劇烈の度を増すという事実である。
 人類がまだ草昧そうまいの時代を脱しなかったころ、がんじょうな岩山の洞窟どうくつの中に住まっていたとすれば、たいていの地震や暴風でも平気であったろうし、これらの天変によって破壊さるべきなんらの造営物をも持ち合わせなかったのである。もう少し文化が進んで小屋を作るようになっても、テントか掘っ立て小屋のようなものであって見れば、地震にはかえって絶対安全であり、またたとえ風に飛ばされてしまっても復旧ははなはだ容易である。とにかくこういう時代には、人間は極端に自然に従順であって、自然に逆らうような大それた企ては何もしなかったからよかったのである。
 文明が進むに従って人間は次第に自然を征服しようとする野心を生じた。そうして、重力に逆らい、風圧水力に抗するようないろいろの造営物を作った。そうしてあっぱれ自然の暴威を封じ込めたつもりになっていると、どうかした拍子に檻おりを破った猛獣の大群のように、自然があばれ出して高楼を倒壊せしめ堤防を崩壊ほうかいさせて人命を危うくし財産を滅ぼす。その災禍を起こさせたもとの起こりは天然に反抗する人間の細工であると言っても不当ではないはずである、災害の運動エネルギーとなるべき位置エネルギーを蓄積させ、いやが上にも災害を大きくするように努力しているものはたれあろう文明人そのものなのである。
 もう一つ文明の進歩のために生じた対自然関係の著しい変化がある。それは人間の団体、なかんずくいわゆる国家あるいは国民と称するものの有機的結合が進化し、その内部機構の分化が著しく進展して来たために、その有機系のある一部の損害が系全体に対してはなはだしく有害な影響を及ぼす可能性が多くなり、時には一小部分の傷害が全系統に致命的となりうる恐れがあるようになったということである。
 単細胞動物のようなものでは個体を切断しても、各片が平気で生命を持続することができるし、もう少し高等なものでも、肢節しせつを切断すれば、その痕跡こんせきから代わりが芽を吹くという事もある。しかし高等動物になると、そういう融通がきかなくなって、針一本でも打ち所次第では生命を失うようになる。
 先住アイヌが日本の大部に住んでいたころにたとえば大正十二年の関東大震か、今度の九月二十一日のような台風が襲来したと想像してみる。彼らの宗教的畏怖いふの念はわれわれの想像以上に強烈であったであろうが、彼らの受けた物質的損害は些細ささいなものであったに相違ない。前にも述べたように彼らの小屋にとっては弱震も烈震も効果においてたいした相違はないであろうし、毎秒二十メートルの風も毎秒六十メートルの風もやはり結果においてほぼ同等であったろうと想像される。そうして、野生の鳥獣が地震や風雨に堪えるようにこれら未開の民もまた年々歳々の天変を案外楽にしのいで種族を維持して来たに相違ない。そうして食物も衣服も住居もめいめいが自身の労力によって獲得するのであるから、天災による損害は結局各個人めいめいの損害であって、その回復もまためいめいの仕事であり、まためいめいの力で回復し得られないような損害は始めからありようがないはずである。
 文化が進むに従って個人が社会を作り、職業の分化が起こって来ると事情は未開時代と全然変わって来る。天災による個人の損害はもはやその個人だけの迷惑では済まなくなって来る。村の貯水池や共同水車小屋が破壊されれば多数の村民は同時にその損害の余響を受けるであろう。
 二十世紀の現代では日本全体が一つの高等な有機体である。各種の動力を運ぶ電線やパイプやが縦横に交差し、いろいろな交通網がすきまもなく張り渡されているありさまは高等動物の神経や血管と同様である。その神経や血管の一か所に故障が起こればその影響はたちまち全体に波及するであろう。今度の暴風で畿内きない地方の電信が不通になったために、どれだけの不都合が全国に波及したかを考えてみればこの事は了解されるであろう。
 これほどだいじな神経や血管であるから天然の設計に成る動物体内ではこれらの器官が実に巧妙な仕掛けで注意深く保護されているのであるが、一国の神経であり血管である送電線は野天に吹きさらしで風や雪がちょっとばかりつよく触れればすぐに切断するのである。市民の栄養を供給する水道はちょっとした地震で断絶するのである。もっとも、送電線にしても工学者の計算によって相当な風圧を考慮し若干の安全係数をかけて設計してあるはずであるが、変化のはげしい風圧を静力学的に考え、しかもロビンソン風速計で測った平均風速だけを目安にして勘定したりするようなアカデミックな方法によって作ったものでは、弛張しちょうのはげしい風の息の偽週期的衝撃に堪えないのはむしろ当然のことであろう。
 それで、文明が進むほど天災による損害の程度も累進する傾向があるという事実を充分に自覚して、そして平生からそれに対する防御策を講じなければならないはずであるのに、それがいっこうにできていないのはどういうわけであるか。そのおもなる原因は、畢竟ひっきょうそういう天災がきわめてまれにしか起こらないで、ちょうど人間が前車の顛覆てんぷくを忘れたころにそろそろ後車を引き出すようになるからであろう。
 しかし昔の人間は過去の経験を大切に保存し蓄積してその教えにたよることがはなはだ忠実であった。過去の地震や風害に堪えたような場所にのみ集落を保存し、時の試練に堪えたような建築様式のみを墨守して来た。それだからそうした経験に従って造られたものは関東震災でも多くは助かっているのである。大震後横浜よこはまから鎌倉かまくらへかけて被害の状況を見学に行ったとき、かの地方の丘陵のふもとを縫う古い村家が存外平気で残っているのに、田んぼの中に発展した新開地の新式家屋がひどくめちゃめちゃに破壊されているのを見た時につくづくそういう事を考えさせられたのであったが、今度の関西の風害でも、古い神社仏閣などは存外あまりいたまないのに、時の試練を経ない新様式の学校や工場が無残に倒壊してしまったという話を聞いていっそうその感を深くしている次第である。やはり文明の力を買いかぶって自然を侮り過ぎた結果からそういうことになったのではないかと想像される。新聞の報ずるところによると幸いに当局でもこの点に注意してこの際各種建築被害の比較的研究を徹底的に遂行することになったらしいから、今回の苦にがい経験がむだになるような事は万に一つもあるまいと思うが、しかしこれは決して当局者だけに任すべき問題ではなく国民全体が日常めいめいに深く留意すべきことであろうと思われる。
 小学校の倒壊のおびただしいのは実に不可思議である。ある友人は国辱中の大国辱だと言って憤慨している。ちょっと勘定してみると普通家屋の全壊百三十五に対し学校の全壊一の割合である。実に驚くべき比例である。これにはいろいろの理由があるであろうが、要するに時の試練を経ない造営物が今度の試験で[#「試験で」は底本では「試練で」]みごとに落第したと見ることはできるであろう。
 小学校建築には政党政治の宿弊に根を引いた不正な施工がつきまとっているというゴシップもあって、小学生を殺したものは○○議員だと皮肉をいうものさえある。あるいは吹き抜き廊下のせいだというはなはだ手取り早で少し疑わしい学説もある。あるいはまた大概の学校は周囲が広い明き地に囲まれているために風当たりが強く、その上に二階建てであるためにいっそういけないという解釈もある。いずれもほんとうかもしれない。しかしいずれにしても、今度のような烈風の可能性を知らなかったあるいは忘れていたことがすべての災厄さいやくの根本原因である事には疑いない。そうしてまた、工事に関係する技術者がわが国特有の気象に関する深い知識を欠き、通り一ぺんの西洋直伝じきでんの風圧計算のみをたよりにしたためもあるのではないかと想像される。これについてははなはだ僣越せんえつながらこの際一般工学者の謙虚な反省を促したいと思う次第である。天然を相手にする工事では西洋の工学のみにたよることはできないのではないかというのが自分の年来の疑いであるからである。
 今度の大阪おおさかや高知こうち県東部の災害は台風による高潮のためにその惨禍を倍加したようである。まだ充分な調査資料を手にしないから確実なことは言われないが、最もひどい損害を受けたおもな区域はおそらくやはり明治以後になってから急激に発展した新市街地ではないかと想像される。災害史によると、難波なにわや土佐とさの沿岸は古来しばしば暴風時の高潮のためになぎ倒された経験をもっている。それで明治以前にはそういう危険のあるような場所には自然に人間の集落が希薄になっていたのではないかと想像される。古い民家の集落の分布は一見偶然のようであっても、多くの場合にそうした進化論的の意義があるからである。そのだいじな深い意義が、浅薄な「教科書学問」の横行のために蹂躙じゅうりんされ忘却されてしまった。そうして付け焼き刃の文明に陶酔した人間はもうすっかり天然の支配に成功したとのみ思い上がって所きらわず薄弱な家を立て連ね、そうして枕まくらを高くしてきたるべき審判の日をうかうかと待っていたのではないかという疑いも起こし得られる。もっともこれは単なる想像であるが、しかし自分が最近に中央線の鉄道を通過した機会に信州しんしゅうや甲州こうしゅうの沿線における暴風被害を瞥見べっけんした結果気のついた一事は、停車場付近の新開町の被害が相当多い場所でも古い昔から土着と思わるる村落の被害が意外に少ないという例の多かった事である。これは、一つには建築様式の相違にもよるであろうが、また一つにはいわゆる地の利によるであろう。旧村落は「自然淘汰しぜんとうた」という時の試練に堪えた場所に「適者」として「生存」しているのに反して、停車場というものの位置は気象的条件などということは全然無視して官僚的政治的経済的な立場からのみ割り出して決定されているためではないかと思われるからである。
 それはとにかく、今度の風害が「いわゆる非常時」の最後の危機の出現と時を同じゅうしなかったのは何よりのしあわせであったと思う。これが戦禍と重なり合って起こったとしたらその結果はどうなったであろうか、想像するだけでも恐ろしいことである。弘安こうあんの昔と昭和の今日とでは世の中が一変していることを忘れてはならないのである。
 戦争はぜひとも避けようと思えば人間の力で避けられなくはないであろうが、天災ばかりは科学の力でもその襲来を中止させるわけには行かない。その上に、いついかなる程度の地震暴風津波洪水こうずいが来るか今のところ容易に予知することができない。最後通牒さいごつうちょうも何もなしに突然襲来するのである。それだから国家を脅かす敵としてこれほど恐ろしい敵はないはずである。もっともこうした天然の敵のためにこうむる損害は敵国の侵略によって起こるべき被害に比べて小さいという人があるかもしれないが、それは必ずしもそうは言われない。たとえば安政元年の大震のような大規模のものが襲来すれば、東京から福岡ふくおかに至るまでのあらゆる大小都市の重要な文化設備が一時に脅かされ、西半日本の神経系統と循環系統に相当ひどい故障が起こって有機体としての一国の生活機能に著しい麻痺症状まひしょうじょうを惹起じゃっきする恐れがある。万一にも大都市の水道貯水池の堤防でも決壊すれば市民がたちまち日々の飲用水に困るばかりでなく、氾濫はんらんする大量の流水の勢力は少なくも数村を微塵みじんになぎ倒し、多数の犠牲者を出すであろう。水電の堰堤えんていが破れても同様な犠牲を生じるばかりか、都市は暗やみになり肝心な動力網の源が一度に涸かれてしまうことになる。
 こういうこの世の地獄の出現は、歴史の教うるところから判断して決して単なる杞憂きゆうではない。しかも安政年間には電信も鉄道も電力網も水道もなかったから幸いであったが、次に起こる「安政地震」には事情が全然ちがうということを忘れてはならない。
 国家の安全を脅かす敵国に対する国防策は現に政府当局の間で熱心に研究されているであろうが、ほとんど同じように一国の運命に影響する可能性の豊富な大天災に対する国防策は政府のどこでだれが研究しいかなる施設を準備しているかはなはだ心もとないありさまである。思うに日本のような特殊な天然の敵を四面に控えた国では、陸軍海軍のほかにもう一つ科学的国防の常備軍を設け、日常の研究と訓練によって非常時に備えるのが当然ではないかと思われる。陸海軍の防備がいかに充分であっても肝心な戦争の最中に安政程度の大地震や今回の台風あるいはそれ以上のものが軍事に関する首脳の設備に大損害を与えたらいったいどういうことになるであろうか。そういうことはそうめったにないと言って安心していてもよいものであろうか。
 わが国の地震学者や気象学者は従来かかる国難を予想してしばしば当局と国民とに警告を与えたはずであるが、当局は目前の政務に追われ、国民はその日の生活にせわしくて、そうした忠言に耳をかす暇いとまがなかったように見える。誠に遺憾なことである。
 台風の襲来を未然に予知し、その進路とその勢力の消長とを今よりもより確実に予測するためには、どうしても太平洋上ならびに日本海上に若干の観測地点を必要とし、その上にまた大陸方面からオホツク海方面までも観測網を広げる必要があるように思われる。しかるに現在では細長い日本島弧にほんとうこの上に、言わばただ一連の念珠のように観測所の列が分布しているだけである。たとえて言わば奥州街道おうしゅうかいどうから来るか東海道から来るか信越線から来るかもしれない敵の襲来に備えるために、ただ中央線の沿線だけに哨兵しょうへいを置いてあるようなものである。
 新聞記事によると、アメリカでは太平洋上に浮き飛行場を設けて横断飛行の足がかりにする計画があるということである。うそかもしれないがしかしアメリカ人にとっては充分可能なことである。もしこれが可能とすれば、洋上に浮き観測所の設置ということもあながち学究の描き出した空中楼閣だとばかりは言われないであろう。五十年百年の後にはおそらく常識的になるべき種類のことではないかと想像される。

 人類が進歩するに従って愛国心も大和魂やまとだましいもやはり進化すべきではないかと思う。砲煙弾雨の中に身命を賭として敵の陣営に突撃するのもたしかに貴たっとい日本魂やまとだましいであるが、○国や△国よりも強い天然の強敵に対して平生から国民一致協力して適当な科学的対策を講ずるのもまた現代にふさわしい大和魂の進化の一相として期待してしかるべきことではないかと思われる。天災の起こった時に始めて大急ぎでそうした愛国心を発揮するのも結構であるが、昆虫こんちゅうや鳥獣でない二十世紀の科学的文明国民の愛国心の発露にはもう少しちがった、もう少し合理的な様式があってしかるべきではないかと思う次第である。
(昭和九年十一月、経済往来)


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まゆにつばして聞く理想

くろしお 9/19

 「論語」に「よい発言をする者が、必ずしも徳のある者とは限らない」とある。確かに大上段に理想を振りかざす人に限って行動が逆だったりすることは時々、見聞きする。

 戦前、戦中の教育方針だった教育勅語を掲げ、経営する幼稚園の園児に暗唱もさせていた学校法人「森友学園」前理事長・籠池泰典氏の数々の疑惑が上がるにつれて、論語の教訓が補強される思いがする。大阪地検は、籠池氏を詐欺と詐欺未遂の罪で追起訴した。

 学園が運営する幼稚園の障害児数に応じた大阪府と市の補助金をだまし取るなどしたという。小学校の建設を巡り既に起訴した国の補助金詐取や未遂分を含めると立件総額は2億150万円に及ぶ。補助金不正の捜査はこれで終結する。

 「徳と才能を磨き上げ、進んで公共の務めや世間の務めに尽力し、いつも憲法を重んじ、法律に従いなさい」と教育勅語(現代語訳)は記す。容疑はともかく、金額の異なる工事請負契約書を国や大阪府などに提出した時点で籠池氏が教えに反するのは明らかだ。

 これに容疑の本命とされる、国有地を不当に安く払い下げてもらった疑惑が加わると愛国どころか亡国的な行為と言えよう。籠池氏を持ち上げていたにもかかわらず、都合が悪くなると即、籠池切りに走った政治家や官僚も同罪だろう。

 そもそも主権在君や神話的国体観に基づく教育勅語は、1948年に衆参両院が排除、失効を確認する決議を行っており、教材にふさわしいとは思えない。森友問題は、高い理想を唱える者はまゆにつばして聞くべしという教訓にはなる。

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教育費

春秋 9/19

1877年、来日した米国の生物学者モースは、横浜から東京に向かう列車の窓から気になるものを見つけた。後にモースの名を世に知らしめる大森貝塚である。許可を得て発掘を始めたのが140年前の9月16日のことだ。

掘ってみると、土器や土偶、石斧(せきふ)などが見つかり、縄文時代後期の遺跡と判明した。日本で最初の科学的な発掘調査で、大森貝塚は日本の考古学発祥の地とされる。

モースは日本の文化風俗にも深く関心を寄せ、各地を見て回った。科学者らしく、多くのスケッチが添えられた滞在記「日本その日その日」は当時の暮らしぶりをよく伝える。その中でモースは「日本は子どもの天国だ」と述べている。

日本ほど子どもが大切に取り扱われ、深い注意が払われる国はない。子どもたちはあれこれやかましく言われることはなく、小さな子を一人家に置いて行くこともない。子どもは行儀がよく親切で、日本の母親ほど辛抱強く、愛情に富み、子どもに尽くす母親はいない-。

今の日本を知ったらモースは何と記すだろうか。経済協力開発機構(OECD)加盟国の国内総生産(GDP)に占める教育への公的支出の割合をみると、日本は比較可能な34カ国中、最低だったl

子どもの教育費が家計に重くのしかかり、家庭の経済状況による教育の格差が大きいことを意味する。「日本ほど子どもの教育費を出し渋る政府はない」とあきれようか。


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日本その日その日

序――モース先生

石川千代松


 一八八七年の春英国で科学の学会があった。此この時ワイスマン先生も夫それへ出席せられ、学会から帰られた時私に「モースからお前に宜しく云うて呉れとの伝言を頼まれたが彼れは実に面白い人で、宴会のテーブルスピーチでは満場の者を笑わせた。」夫れから後其年の十一月だと思ったが、先生がフライブルグに来られた事がある。其時折悪くワイスマン先生と私とはボーデンセイへ研究旅行へ行って留守であった。であったのでウィダーシャイム先生が先生を馬車に載せて市の内外をドライブした処カイザー・ストラーセに来ると、モース先生が、「アノ家の屋根瓦は千年以上前のローマ時代のものだ。ヤレ彼処にも、此処にも」と指されたので、ウィダーシャイム先生も始めて夫れに気付き、後考古学者に話して調べた処、夫れが全て事実であったと、ウィダーシャイム先生もモース先生の眼の鋭い事には驚いて居られた。先生の観察力の強い事では此外幾等も知れて居るが、先生はローウェルの天文台で火星を望遠鏡で覘いて其地図を画かれたが、夫れをローウェルが前に研究して画いたものと比べて見た処先生の方が余程委しい処迄出来て居たので、ローウェルも驚いたとの事を聴いて居た。夫れで先生は火星の本を書かれた。処が此本が評判になって、先生はイタリア其他二、三の天文学会の会員に選ばれたのである。私が一九〇九年にセーラムで先生の御宅へ伺った時先生は私に Mars and its Mystery を一部下さって云われるのに、お前が此本を持って帰ってモースがマースの本を書いたと云うたらば、日本の私の友達はモースは気が狂ったと云うだろうが、自分は気が狂って居ない証拠をお前に見せて置こうと、私に今云うた諸方の天文学会から送って来た会員証を示された。此時又先生が私に見せられたのは、ベルリンの人類学会から先生を名誉会員に推薦した証書で、夫れに付き次ぎの様な面白い事を話された。自分がベルリンへ行った時フィルショオが会頭で人類学会が開かれて居た。或る人に案内されて夫れへ行って見た処南洋の或る島から持って来た弓と矢とを前に置いて、其使用方を盛んに議論して居た。すると誰かがアノ隅に居るヤンキーに質して見ないかと云うので、フィルショオから何にか良い考えがあるならば話せと云う。処が自分が見ると其弓と矢とは日本のものと殆んど同じで、自分は日本に居た時弓を習ったから、容易にそれを説明した処が大喝采かっさいを博した。で帰って見たら斯んな物が来て居たと。先生は夫れ計ばかりでなく、実に多才多能で何れの事にでも興味を有たないものはなく、各種の学者から軍人、商売人、政治家、婦人、農民、子供に至る迄先生が話相手にせないものはない。殊に幼い子供を先生は大層可愛がられ、私がグロースターのロブスター養殖所へと行くと云うたら、先生が私に自分の友達の婦人を紹介してやると云われたので、先生に教わった家へ行って見ると、老年の婦人が居て、先生の友達は今直きに学校から帰って来るから少し待って下さいと云われるので、紹介して下さった婦人は或いは学校の先生ででもあるのかと思い、待って居ると、十四、五位の可愛い娘さんが二人帰って来て、一人の娘さんが、此方こちらは自分のお友達よと云うて私に紹介され、サー之これからハッチェリーへ案内を致しましょうと云われて、行ったが、此可憐の娘さんが、先生の仲好しの御友達であったのだ。先生は日本に居られた頃にも土曜の午後や日曜抔などには方々の子供を沢山集め、御自分が餓鬼大将になって能く戦争ごっこをして遊ばれたものだが、又或る時神田の小学校で講演を頼まれた時、私が通訳を勤めた。先生の講演が済んだ後、校長さんが、先生に何にか御礼の品物でも上げ度いがと云われるので、先生に御話した処自分は何にも礼を貰わないでも宜しい。今日講演を聴いて呉れた子供達が路で会った時に挨拶をして呉れれば夫れが自分には何よりの礼であると申された。
 今云うた戦争ごっこで思い出したが、先生の此の擬戦は子供の遊戯であった計りではなく、夫れが真に迫ったものであったとの事である。夫れは当時或る日九段の偕行社の一室で軍人を沢山集めて、此擬戦を行って見せた事があったが、其時専門の軍人連が、之れは本物だと云うて大いに賞讃された事を覚えて居る。
 斯様かように先生は各方面に知人があって、又誰れでも先生に親んで居たし、又直ぐに先生の友人となったのである。コンクリン博士が先生の事に就き私に送られた文章に「彼れは生れながら小さい子供達の友人であった計りでなく又学者や政治家の友人でもあった」と書いて居られるが実に其通りである。
 先生が本邦に来られたのは西暦一八七七年だと思って居るが、夫れは先生が米国で研究して居られた腕足わんそく類を日本で又調べ度いと思ったからである。で其時先生には江の島の今日水族館のある辺の漁夫の家の一室を借りて暫くの間研究されたが、当時我東京大学で先生を招聘しょうへいしたいと云うたので、先生には直ぐに夫れを承諾せられ一度米国へ帰り家族を連れて直ぐに又来られたのである。此再来が翌年の一八七八年の四月だとの事であるが、夫れから二年間先生には東京大学で動物学の教鞭を執って居られたのである。
 其頃の東京大学は名は大学であったが、まだ色々の学科が欠けて居た。生物学も其一つで此時先生に依って初めて設置されたのである。で動物学科を先生が持たれ植物学科は矢田部良吉先生が担任されたのであった。先生の最初の弟子は今の佐々木忠次郎博士と松浦佐与彦君とであったが、惜しい事には松浦君は其当時直きに死なれた。此松浦君の墓は谷中天王寺にあって先生の英語の墓碑銘がある。
 先生は此両君に一般動物学を教えられた計りでなく、又採集の方法、標本の陳列、レーベルの書き方等をも教えられた。之これ等は先生が大学内で教えられた事だが、先生には大学では無論又東京市内の各処で進化論の通俗講演を致されたものである。ダーウィンの進化論は、今では誰れも知る様、此時より遙か前の一八五九年に有名な種原論が出てから欧米では盛んに論ぜられて居たが、本邦では当時誰独りそれを知らなかったのである。処が茲ここに面白い事には先生が来朝せられて進化論を我々に教えられた直ぐ前にマカーテーと云う教師が私共に人身生理学の講義をして居られたが、其講義の終りに我々に向い、此頃英国にダーウィンと云う人があって、人間はサルから来たものだと云う様な説を唱えて居るが、実に馬鹿気た説だから、今後お前達はそんな本を見ても読むな又そんな説を聴いても信ずるなと云われた。処がそう云う事をマカーテー先生が云われた直ぐ後にモース先生が盛んにダーウィン論の講義をされたのである。
 先生は弁舌が大層達者であられた計りではなく、又黒板に絵を書くのが非常に御上手であったので、先生の講義を聴くものは夫れは本統に酔わされて仕舞ったのである。多分其時迄日本に来た外国人で、先生位弁舌の巧みな人はなかったろう。夫れも其筈、先生の講演は米国でも実に有名なもので、先生が青年の時分通俗講演で金を得て動物学研究の費用にされたと聴いて居た。
 処が当時本邦の学校に傭やとわれて居た教師連には宣教師が多かったので、先生の進化論講義は彼れ等には非常な恐慌を来たしたものである。であるから、彼れ等は躍起となって先生を攻撃したものである。併し弁舌に於ても学問に於ても無論先生に適う事の出来ないのは明かであるので、彼れ等は色々の手段を取って先生を攻撃した。例えば先生が大森の貝塚から掘り出された人骨の調査に依り其頃此島に住んで居た人間は骨髄を食ったものであると書かれたのを幸いに、モースはお前達の先祖は食人種であったと云う抔など云い触し、本邦人の感情に訴え先生は斯様な悪い人であると云う様な事を云い触した事もある。併し先生だからとて、無論之れ等食人種が我々の先祖であるとは云われなかったのである。
 此大森の貝塚に関して一寸ちょっと云うて置く事は先生が夫れを見付けられたのは先生が初めて来朝せられた時、横浜から新橋迄の汽車中で、夫れを発見せられたのであるが、其頃には欧米でもまだ貝塚の研究は幼稚であったのだ。此時先生が汽車の窓から夫れを発見されたのは前にも云う様に先生の視察力の強い事を語るものである。
 斯様にして先生は本邦生物学の祖先である計りでなく又人類学の祖先でもある。又此大森貝塚の研究は其後大学にメモアーとして出版されたが、此メモアーが又我大学で学術的の研究を出版した初めでもある。夫れに又先生には学会の必要を説かれて、東京生物学会なるものを起されたが、此生物学会が又本邦の学会の嚆矢こうしでもある。東京生物学会は其後動植の二学会に分れたが、其最初の会長には先生は矢田部良吉先生を推されたと私は覚えて居る。
(先生が発見された大森の貝塚は先生の此書にもある通り鉄道線路に沿うた処にあったので、其後其処そこに記念の棒杭が建って居たが、今は夫れも無くなった。大毎社長本山君が夫れを遺憾に思われ大山公爵と相談して、今度立派な記念碑が建つ事になった。何んと悦ばしい事であるまいか。)
 之れ等の事の外先生には、当時盛んに採集旅行を致され、北は北海道から南は九州迄行かれたが其際観察せられた事をスケッチとノートとに収められ、夫れ等が集まって、此ジャッパン・デー・バイ・デーとなったのである。何んにせよ此本は半世紀前の日本を先生の炯眼けいがんで観察せられたものであるから、誰れが読んでも誠に面白いものであるし、又歴史的にも非常に貴重なものである。夫れから此本を読んでも直ぐに判るが先生は非常な日本贔屓びいきであって、何れのものも先生の眼には本邦と本邦人の良い点のみ見え、悪い処は殆んど見えなかったのである。例えば料理屋抔の庭にある便所で袖垣根や植木で旨く隠くしてある様なものを見られ、日本人は美術観念が発達して居ると云われて居るが、まあ先生の見ようは斯こう云うたものであった。
 又先生は今も云う様にスケッチが上手であられたが、其為め失敗された噺はなしも時々聞いた。其一は先生が函館へ行かれた時、或る朝連れの人達は早く出掛け、先生独り残ったが、先生には昼飯の時半熟の鶏卵を二つ造って置いて貰いたかった。先生は宿屋の主婦を呼び、紙に雌鶏を一羽画かれ、其尻から卵子を二つと少し離れた処に火鉢の上に鍋を画き、今画いた卵子を夫れに入れる様線で示して、五分間煮て呉れと云う積りで、時計の針が丁度九時五分前であったので、指の先きで知らせ何にもかも解ったと思って、外出の仕度をして居らるる処へ、主婦は遽あわただしく鍋と火鉢と牝鶏と卵子二つを持って来た。無論先生は驚かれたが、何にかの誤りであろうと思い、其儘外出され、昼時他の者達が帰って来られたので、聞いて見ると宿屋の御神さんは、九時迄五分の間に夫れ丈けのものを持って来いと云われたと思い、又卵子も夫れを生んだ雌鶏でなくてはと考えたから大騒をしたとの事であった。
 之れは先生の失策噺の一つであるが、久しい間に又は無論斯様な事も沢山あったろう。併し先生は今も云うた様にただ日本人が好きであられた計りでなく、又先生御自身も全く日本人の様な考えを持って居られた。其証拠の一つは先生が日本の帝室から戴かれた勲章に対する事で、先生が東京大学の御傭で居られたのは二年であったので、日本の勲章は普通では戴けなかったのである。併し先生が日本の為めに尽された功績は非常なもので、前述の如く日本の大学が大学らしくなったのも、全く先生の御蔭であるのみならず、又先生は帰国されてからも始終日本と日本人を愛し、本統の日本を全世界に紹介された。であるから日清、日露二大戦争の時にも大いに日本の真意を世界に知らしめ欧米人の誤解を防がれたのである。其上日本から渡米した日本人には誰れ彼れの別なく出来る丈け援助を与えられボストンへ行った日本人でセーラムに立ち寄らないものがあると先生の機嫌が悪かったと云う位であった。であるから、我皇室でも初めに先生に勲三等の旭日章を授けられ其後又勲二等の瑞宝章を送られたのである。誰れも知る様外交官や軍人抔では夫れ程の功績がなくとも勲章は容易に授けらるるのは世界共通の事実であるが、学者抔で高級の勲章をいただく事は真に功績の著しいものに限られて居る。であるから先生が我皇室から授けられた勲章は真に貴重なものである事は疑いのない事である。処が先生は、日本皇帝からいただいた勲章は、日本の皇室に関する時にのみ佩用はいようすべきものであるとの見地から、常時はそれを銀行の保護箱内に仕舞い置かれた。尊い勲章を売る様な人面獣心の奴が日本人にもあるのに先生の御心持が如何に美しいかは窺われるではないか。
 私は前に先生が左右の手を同時に使われる事を云うたが、先生は両手を別々に使わるる計りでなく、先生の脳も左右別々に使用する事が出来たのである。之れに付き面白い噺がある。フィラデルフィアのウィスター・インスチチュートの長ドクトル・グリーンマン氏が或る時セーラムにモース先生を訪い、先生の脳の話が出て、夫れが大層面白いと云うので先生は死んだ後は自分の脳を同インスチチュートへ寄贈せようと云われた。其後グリーンマン氏はガラス製のジャーを木の箱に入れて先生の処へ「永久之れを使用されない事を望む」と云う手紙を付けて送った。処が先生は之れを受け取ってから、書斎の机の下に置き、それを足台にして居られたと。先生が御亡くなりになる前年であった、先生の八十八歳の寿を祝う為めに、我々が出して居る『東洋学芸雑誌』で特別号を発行せようと思い、私が先生の所へ手紙を上げて其事を伺った処斯様な御返辞が来たのである、
“The Wister Institute of Anatomy of Philadelphia sent a glass Jar properly labelled …… in using for my brain which they will get when I am done with it.”
(……の処の文字は不明)。
 此文章の終りの when I am done with it は実に先生でなければ書かれない誠に面白い御言葉である。
 斯様な事は先生には珍しくない事で、先生の言文は夫れで又有名であった。であるから何れの集会でも、先生が居らるる処には必ず沢山の人が集り先生の御話を聴くのを楽みにして居たものである。コンクリン博士が書かれたものの中に又次ぎの様なものがある。或る時ウーズ・ホールの臨海実験で先生が日本の話をされた事がある。此時先生は人力車に乗って来る人の絵を両手で巧に黒板に画かれたが、其顔が直ぐ前に坐って居る所長のホイットマン教授に如何にも能く似て居たので満場の人の大喝采を博したと。
 併し先生にも嫌いな事があった。其一つは家蠅で、他の一つは音だ。此音に付き、近い頃日本に来る途中太平洋上で死なれたキングスレー博士は、次ぎの様な面白い噺を書いて居る。モースがシンシナチイで、或る豪家に泊った時、寝室に小さい貴重な置時計があって、其音が気になってどうしても眠られない。どうかして之れを止めようとしたが、不可能であった。困ったあげく先生は自分の下着で夫れを包み、カバンの中に入れて、グッスリ眠ったが、翌朝此事を忘れて仕舞い、其儘立った。二十四時間の後コロンビアに帰り、カバンを開けて大きに驚き、時計を盗んだと思われては大変だと云うので直ぐに打電して詫び、時計はエキスプレッスで送り返したと。
 先生は一八三八年メイン州のポートランドに生れ、ルイ・アガッシイの特別な門人であられたが、アガッシイの動物学の講義の中で腕足類に関した点に疑問を起し、其後大いにそれを研究して、声名を博されたのである。前にも云うた様に先生が日本に来られたのも其の研究の為めであった。其翌年から前述の如く二年間我大学の教師を勤められ、一度帰られてから八十二年に又来朝せられたが之れは先生には主として日本の陶器を蒐集せらるる為めであった。先生にはセーラム市のピーボデー博物館長であられたり又ボストン美術博物館の日本陶器類の部長をも勤めて居られた。で先生が日本で集められた陶器は悉く此美術博物館へ売られたが、夫れは諸方から巨万の金で買わんとしたが、先生は自分が勤めて居らるる博物館へ比較的安く売られたのであると。之れは先生の人格の高い事を示す一つの話として今でも残って居る。夫れから先生は又此陶器を研究せられて、一大著述を遺されたが、此書は実に貴重なもので、日本陶器に関する書としては恐く世界無比のものであろう。
 先生は身心共に非常に健全であられ老年に至る迄盛んに運動をして居られた。コンクリン博士が書かれたものに左の様な言葉がある。「先生は七十五歳の誕生日に若い人達を相手にテニスをして居られた処、ドクトル・ウワアヤ・ミッチェル氏が七十五歳の老人にはテニスは余り烈しい運動であると云い、先生の脈を取って見た処、夫れが丸で子供の脈の様に強く打って居たと。」私が先年ハーバード大学へ行った時マーク氏が話されたのに、モースが八十六(?)で自分が八十で共にテニスをやった事があると。斯様であったから先生は夫れは実に丈夫で、亡くなられる直前迄活動を続けて居られたと。
 先生は一九二五年十二月廿日にセーラムの自宅で静かに逝かれたのである。セーラムで先生の居宅の近くに住い、久しく先生の御世話をして居たマーガレット・ブルックス(先生はお玉さんと呼んで居られた)嬢は私に先生の臨終の様子を斯様に話された。
 先生は毎晩夕食の前後に宅へ来られ、時々夜食を共にする事もあったが、十二月十六日(水曜日)の晩には自分達姉妹が食事をして居る処へ来られ、何故今晩は食事に呼んで呉れなかったか、とからかわれたので、今晩は別に先生に差し上げるものもなかったからと申し上げた処、でも独りで宅で食うより旨いからと云われ、いつもの様に肱掛椅子に腰を下して何にか雑誌を見て居られたが、九時半頃になって、もう眠るからと云うて帰られた。夫れから半時も経たない内に先生の下婢が遽しく駈込んで来て先生が大病だと云うので、急いで行った処、先生には昏睡状態で倒れて居られた。急報でコンコードに居る御嬢さんが来られた時に少し解った様であったが、其儘四日後の日曜日の午後四時に逝かれたのである。であるから、先生には倒れられてからは少しの苦痛も感ぜられなかった様であると。
 斯様に先生は亡くなられる前迄活動して居られたが八十九年の長い間には普通人に比ぶれば余程多くの仕事をせられたのである。夫れに又前述の如く、先生には同一時に二つの違った仕事もせられたのであるから、先生が一生中に致された仕事の年月は少なくとも其倍即ち一九八年にも当る訳である。
 先生の此の貴い脳は今ではウィスター・インスチチュートの解剖学陳列室に収めてある。私も先年フィラデルフィアへ行った時、グリーンマン博士に案内されて拝見したが、先生の脳はドナルドソン博士に依って水平に二つに切断してあった。之れは生前先生の御希望に依り先生の脳の構造に何にか変った点があって夫れが科学に貢献する処があるまいかとの事からである。併しドナルドソン博士が私に話されたのには、一寸表面から見た処では別に変った処も見えない。先生が脳をアノ様に使われたのは多分練習から来たものであったろうと。
 であるから「先生は生きて居られた時にも亦死んだ後にも科学の為めに身心を提供されたのである」とは又コンクリン博士が私に書いて呉れた文章の内にあるが、斯様にして「先生の死で世界は著名な学者を失い、日本は最も好い親友を失い、又先生の知人は楽しき愛すべき仲間を失ったのである」と之れも亦コンクリン博士がモース先生に就いて書かれた言葉である。
 私がセーラムでの御墓参りをした時先生の墓碑は十年前に死なれた奥さんの石の傍に横になって居たが、雪が多いので、其時まだ建てる事が出来なかったとの事であった。
        ×   ×   ×   ×   ×
 終りに茲ここに書いて置かなくてはならぬ事は、此書の出版に就き医学博士宮嶋幹之助君が大層骨を折って下さった事と、啓明会が物質上多大の援助を与えられた事と、モース先生の令嬢ミセス・ロッブの好意許可とで、之れに対しては大いに御礼を申し上げ度いのである。
 夫れに又附言する事を許していただき度い事は私の子供の欣一が此書を訳させていただいた事で、之れは欣一が米国に留学して居た時先生が大層可愛がって下さったので、殊に願ったからである。


かば焼きの味

あぶくま抄 9/19

 ウナギの価格上昇で庶民の食卓にウナギのかば焼きがのる回数が減っているという。ウナギよりだいぶ安いサンマを使う料理店も増えてきた。ふっくらとしてコクがある。実に美味だ。おまけに懐にも優しい。

 そのサンマも資源量の減少などにより値上がり傾向にあるというから心穏やかではいられない。潮の流れなど漁場の変化に加え、急速に需要を高める中国や台湾などの乱獲が一因という指摘もある。秋の食卓を彩る主役の影が薄くなると気をもむ人も多かろう。

 福島市のある男性はかば焼きに母の面影を見る。祝い事や家族の節目などのときには、母親が決まって腕を振るってくれた。身はいつもやや小ぶりながら、うま味はたっぷり。甘辛く炊いたタレが程よく絡まったご飯を夢中でかき込んだ。ウナギはおふくろの味だった。

 就職した会社から独立して起業した。がむしゃらに働き、順調に売り上げを伸ばした。ある日、久々に母親にかば焼きをねだった。まな板の上には大きなサンマが一匹…。驚く顔を横目に母はおどけてみせた。「あら、言ってなかった?」。料理上手ならではの暮らしの知恵だった。天上の母を思い、あの味を懐かしむ。

秋刀魚 三馬 鰶

中日春秋 9/19

秋の味覚を代表するサンマを漢字で書けば、「秋刀魚」が一般的だが、夏目漱石は「吾輩は猫である」の中で「三馬」と書いている。「この間おさんの三馬を偸(ぬす)んで…」。どうも、三馬では旨(うま)そうな細長の姿は浮かばぬか

もう一つ別の漢字がある。魚ヘンに「祭」で「鰶」。それは「コノシロ」だろうと魚ヘンに詳しい人に叱られそうだが、サンマが水揚げ時期になると、かつての河岸では「売り場が祭りのような騒ぎになる」ことからサンマにも「鰶」の字が当てられたそうだ。

この分だと今年の「祭」はかなり寂しい。サンマの深刻な不漁である。国立研究開発法人「水産研究・教育機構」によれば、二〇一七年に日本近海にやってくるサンマの量は過去最低だった前年からさらに半減する見通し。そう聞けば、大根をおろす手も止まるだろう。

不漁のあおりで東京・目黒のサンマ祭りも提供されたのは昨年取った冷凍ものだったとか。本州最大の漁獲量の岩手県大船渡市でさえ、恒例のサンマ祭りを延期している。「鰶」の漢字が悲しかろう。

環境変動による水温変化でサンマ自体が減少した上、中国、台湾などの漁獲量が増加。これでは日本近海にたどりつけぬか。

資源保護のための国・地域別の漁獲枠など国際ルールづくりもままならぬ。魚ヘンに「消」。はたまた「惨魔」か。いやな漢字ばかりが頭の網にひっかかる。

…………………………



夏目漱石「吾輩は猫である」

 吾輩は猫である。名前はまだない。

 どこで生れたか頓(とん)と見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めて人間というものを見た。しかもあとで聞くとそれは書生という人間中で一番獰悪(どうあく)な種族であったそうだ。この書生というのは時々我々を捕(つかま)えて煮て食うという話である。しかしその当時は何という考(かんがえ)もなかったから別段恐しいとも思わなかった。ただ彼の掌(てのひら)に載せられてスーと持ち上げられた時何だかフワフワした感じがあったばかりである。掌の上で少し落ち付いて書生の顔を見たのがいわゆる人間というものの見始(みはじめ)であろう。この時妙なものだと思った感じが今でも残っている。第一毛を以て装飾されべきはずの顔がつるつるしてまるで薬缶(やかん)だ。その後猫にも大分逢(あ)ったがこんな片輪には一度も出会(でく)わした事がない。のみならず顔の真中が余りに突起している。そうしてその穴の中から時々ぷうぷうと烟(けむり)を吹く。どうも咽(む)せぽくて実に弱った。これが人間の飲む烟草(タバコ)というものである事は漸(ようや)くこの頃(ごろ)知った。

 この書生の掌の裏(うち)でしばらくはよい心持に坐っておったが、暫(しばら)くすると非常な速力で運転し始めた。書生が動くのか自分だけが動くのか分らないがむやみに眼(め)が廻(まわ)る。胸が悪くなる。到底助からないと思っていると、どさりと音がして眼から火が出た。それまでは記憶しているがあとは何の事やらいくら考え出そうとしても分らない。

 ふと気が付いて見ると書生はいない。沢山おった兄弟が一疋(ぴき)も見えぬ。肝心の母親さえ姿を隠してしまった。その上今までの所とは違ってむやみに明るい。眼を明いていられぬ位だ。果てな何でも容子が可笑(おかし)いと、のそのそ這(は)い出して見ると非常に痛い。吾輩は藁(わら)の上から急に笹原(ささはら)の中へ棄(す)てられたのである。

 漸(ようや)くの思いで笹原を這い出すと向うに大きな池がある。吾輩は池の前に坐ってどうしたらよかろうと考えて見た。別にこれという分別も出ない。暫(しばら)くして泣いたら書生がまた迎(むかい)に来てくれるかと考え付いた。ニャー、ニャーと試みにやって見たが誰も来ない。その内池の上をさらさらと風が渡って日が暮れかかる。腹が非常に減って来た。泣きたくても声が出ない。仕方がない、何でもよいから食物(くいもの)のある所まであるこうと決心をしてそろりそろりと池を左りに廻り始めた。どうも非常に苦しい。そこを我慢して無理やりに這って行くと漸くの事で何となく人間臭い所へ出た。此所(ここ)へ這入(はい)ったら、どうにかなると思って竹垣(たけがき)の崩(くず)れた穴から、とある邸内にもぐり込んだ。縁は不思議なもので、もしこの竹垣が破れていなかったなら、吾輩は遂(つい)に路傍に餓死したかも知れんのである。一樹の蔭(かげ)とはよくいったものだ。この垣根の穴は今日(こんにち)に至るまで吾輩が隣家(となり)の三毛(みけ)を訪問する時の通路になっている。さて邸(やしき)へは忍び込んだもののこれから先どうして善(い)いか分らない。その内に暗くなる、腹は減る、寒さは寒し、雨が降って来るという始末でもう一刻も猶予が出来なくなった。仕方がないからとにかく明るくて暖かそうな方へ方へとあるいて行く。今から考えるとその時は既に家の内に這入っておったのだ。ここで吾輩はかの書生以外の人間を再び見るべき機会に遭遇したのである。第一に逢ったのがおさんである。これは前の書生より一層乱暴な方で吾輩を見るや否やいきなり頸筋(くびすじ)をつかんで表へ抛(ほう)り出した。いやこれは駄目だと思ったから眼をねぶって運を天に任せていた。しかしひもじいのと寒いのにはどうしても我慢が出来ん。吾輩は再びおさんの隙(すき)を見て台所へ這い上った。すると間もなくまた投げ出された。吾輩は投げ出されては這い上り、這い上っては投げ出され、何でも同じ事を四、五遍繰り返したのを記憶している。その時におさんという者はつくづくいやになった。この間おさんの三馬(さんま)を偸(ぬす)んでこの返報をしてやってから、やっと胸の痞(つかえ)が下(お)りた。

     ◇

 【書生】当時の学生の総称。多くは地方から上京し、下宿や間借り生活をしながら学問をした。【大きな池】イギリス留学から帰国した漱石が、しばらく住んだ本郷区(現、文京区)駒込千駄木町57番地の借家の近くにあった太田ノ原の古池がモデルと推定される。鬱蒼(うっそう)とした椎(しい)の大木が生い茂り、蛇と藪蚊(やぶか)で有名であったとされている。【おさん】お手伝いさんの総称。おさんどん。本作品ではおさん、御三、お三と表記されている。

…………………………

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今が旬、さんまを漢字で書くと魚へんに何?

さんま

最近めっきり涼しくなって、すごしやすい日々になっています。
さて、食欲の秋です。皆さんは秋においしい旬の料理や果物を、もう食べましたか?
たとえばさんま。あぶらの乗ったさんまを塩焼きにすると、とてもおいしいです。
また、さんまの血合にはビタミンA、B群、D、E、ミネラルなどの栄養素が豊富に含まれており、体によいとされています。
さて、表題の漢字ですが、「魚」に「秋」と想像した方は直観力があります。でも「鰍」はさんまではなく「かじか」と読みます。
鰍(かじか)とは、主に海や山に生息する魚。アンコウみたいな縦に縮んだ顔をしている。
正解は「秋刀魚」。魚へんの1文字の漢字ではなく、3文字でした。

「なぜ1文字で表現できないの?」
「秋刀魚」の名前の由来は、「狭真名(さまな)」。その姿が細長いという意味でつけられたそうです。
その過程で分かったのですが、魚へんに祭とかいて「鰶(さんま)」と呼ぶことがあるそうです。
ただし、本来の「鰶」は、「このしろ」という魚を指します。
鰶(このしろ)とは、ニシンのような海の魚で、主に「こはだ」という名前で呼ばれ、すしのネタに使われます。
秋になり、昼夜の温度差で体調をくずされる話をちらほらと耳にします。
体調管理のために栄養のある旬のさんまを食べて、よい休日を迎えてみませんか?

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魚へんの漢字一覧表

鮮 あざ(やか)/すくな(い)
鯏 あさり/うぐい
鯵 あじ
鰺 あじ
鮎 あゆ
鮑 あわび
鰒 あわび/ふぐ
鮻 いさぎ
鯆 いるか
鰛 いわし
鰮 いわし
鰯 いわし
鰻 うなぎ
鱗 うろこ
魵 えび
鰕 えび
鰓 えら
鮖 かじか
鰍 かじか/どじょう
鯑 かずのこ
鰹 かつお
鰈 かれい
鱚 きす
鯢 くじら
鯨 くじら
鯉 こい
鯒 こち
鮗 このしろ
鮴 ごり
鮏 さけ
鮭 さけ
鯖 さば
鮫 さめ
鰆 さわら
鯱 しゃち
鮓 すし
鮨 すし
鱸 すずき
鯣 するめ
鯛 たい
鮹 たこ
鱆 たこ
鱈 たら
鰔 たら/かれい
鯲 どじょう
鰌 どじょう
鱠 なます
鯰 なまず
鯡 にしん
鰊 にしん
鰰 はたはた
鱧 はも
鮠 はや
鰉 ひがい
鮃 ひらめ
鰭 ひれ
鰾 ふえ/うきぶくろ
鱶 ふか
鮒 ふな
鰤 ぶり
鮱 ぼら
鯔 ぼら/いな
鮪 まぐろ
鱒 ます
鰥 やもお/や(む)
鰐 わに
魴 ホウ/ボウ
鮟 アン
鯀 コン
鯤 コン
鰄 イ
鰀 カン
鰡 リュウ
鱇 コウ
魚 うお/さかな
鰲 おおがめ
魯 おろ(か)
鯊 はぜ
漁 ギョ/リョウ/いさ(る)/あさ(る)

自殺

金口木舌 9/18

夏休みが終わり、子どもたちの元気な笑顔が学校に戻ってきた。友達との再会を楽しみにしていた子も多いだろう。一方で、長い休みの残りを数え、ため息を漏らす児童生徒も多かったに違いない。

ため息だけで終わればいいが、自ら命を絶つ子どもが少なくないことは、深刻な問題だ。内閣府がまとめた1972~2013年のデータによると、18歳以下の子どもが自殺した日は、夏休み明けの9月1日が突出して多かった。

自殺の原因は、小中学生が「家族からのしつけ、叱責(しっせき)」など家庭生活に関するものが多いが、高校生は「学業不振」「進路に関する悩み」が増える。いじめや友人関係などの悩みもある。

9月や4月の新学期が始まる前後に件数が増え、夏休み期間中は減る傾向があった。15年版自殺対策白書は「休み明けの直後は大きなプレッシャーや精神的動揺が生じやすい」と指摘している。

文部科学省は、子どもの悩みの早期発見など、夏休み明けの自殺予防で対応を強化するよう、都道府県教育委員会などに通知している。相談態勢の強化や居場所づくりなど、民間団体を含めた取り組みが全国で広がっている。

大事なのは、悩みを抱える子を孤立させないことだ。SOSを見逃さないよう見守る必要がある。子どもたちには、知っておいてほしい。生きる道は、学校の外にもたくさんある。

忍びの術

滴一滴 9/18

海外から日本を訪れる観光客の関心が極めて高い。「今でも実在している」と信じ、「なりたい」と思っている人も多いという。忍者のことである。神秘さや超人的アクションが魅力のようだ。

その忍者に新たな光が当たろうとしている。三重大学が大学院入試の選択科目に「忍者・忍術学」の導入を決めた。入学後は、古文書の解析など忍者に関する研究を深めてもらう。

三重県伊賀市は、伊賀流忍者発祥の地。地元の三重大などと連携し、“忍者文化”に着目した地域活性化に取り組んでいる。7月には国際忍者研究センターも発足し、本格的な学術研究とPRに動きだした。

もっとも、時代劇や漫画などで広く知られる忍者のイメージは実態とは異なるようだ。忍者研究で知られる同大の山田雄司人文学部教授は「本当の忍者を正しく知ってもらい、その知恵や精神を現代社会に生かしたい」と語る。伝わる忍術書には、情報収集における忍びの心構えが記されているという。

例えば「会話は聞き上手で」。また“忍術の三病”に「恐れ」「侮り」「考え過ぎ」を挙げ、戒めている。各地の大名に仕えた当時の忍者はさまざまな人に扮(ふん)して巧みに心理を突き、諜報(ちょうほう)活動をする存在だったようだ。

情報を制することは何事も成功の近道とされる。現代にも“忍びの術”は十分に通用しそうだ。

定年後

時鐘 9/18

 定年後(ていねんご)、60歳(さい)から80歳代(だい)半(なか)ばまでに自由(じゆう)に使える時間(じかん)は8万(まん)時間。これは20歳から60歳までの40年(ねん)間(かん)の総実労働(そうじつろうどう)時間より多(おお)いそうだ。自(みずか)らの経験(けいけん)も加(くわ)えてライフプランについて執(しっ)筆(ぴつ)している楠木新氏(くすのきあらたし)の著書(ちょしょ)「定年後」に紹介(しょうかい)されている。

もちろん個別(こべつ)にさまざまなケースはあるだろうが、多くの勤(つと)め人(にん)にとって、定年を境(さかい)に膨大(ぼうだい)な自由時間が待(ま)ち受(う)けていると考(かんが)えてよさそうだ。

楠木氏は定年後、無理(むり)に起(お)きなくなったことで、朝(あさ)目覚(めざ)めた時に夢(ゆめ)を覚(おぼ)えていることが多くなったり、誰(だれ)からも名前(なまえ)を呼(よ)ばれず唯一(ゆいいつ)呼ばれるのは病院(びょういん)の順番待(じゅんばんま)ちの時だけ…といったおかしくも悲(かな)しげな経験(けいけん)をつづっている。

現(げん)役当時(えきとうじ)の残像(ざんぞう)が頭(あたま)から薄(うす)れた後(あと)に押(お)し寄(よ)せる孤独(こどく)を、いかに前向(まえむ)きに転換(てんかん)させるか。言(い)うは易(やす)しだが、大都会(だいとかい)の退職(たいしょく)者(しゃ)が組(そ)織(しき)を離(はな)れると社会(しゃかい)とのつながりが少(すく)なくなるのに対(たい)し、地方(ちほう)では、農作業(のうさぎょう)や自治(じち)会(かい)役員(やくいん)など頼(たよ)れる存在(そんざい)として地域(ちいき)で歓迎(かんげい)されるという。

100歳以上(いじょう)の人生(じんせい)の先輩(せんぱい)が7万人に迫(せま)るご時(じ)世(せい)。一段(いちだん)と増(ふ)えそうな自由時間を生かすため、若(わか)いうちにこそ地方へ移(うつ)っておいでと言いたい。

…………………………
地軸 9/18

 生命保険会社を2年前に定年退職した楠木新(あらた)さんは、誰からも名前を呼ばれなくなったことに気付いた。病院で看護師に声を掛けられたのが、その年の唯一の機会だった。

 電話やファクスも自分宛てには来ない。「名前を全く呼ばれないということは社会とつながっていないということ」と、定年退職者の不安を「定年後」(中公新書)で吐露している。

 もちろん元気に活躍する人は多い。でも家に居づらい男性たちは居場所を探す。楠木さんは、開館直後の図書館で新聞を取り合う「小競り合い」や、スポーツクラブの掲示板の「ここは養老院か」という苦情を目撃する。将来のわが身を思い、やるせなくなる。

 「定年退職して、毎日家にいるのはやめてね」―妻の言葉に、東京新聞の清水孝幸さんは50代での「地域デビュー」を思い立つ。記者生活30年近く。飲み友達は同僚や取材相手ばかりで、近所に友人はいなかった。

 まず最初は地元の将棋サークルに入会、やがて飲み会に誘われた。趣味講座やイベント、ボランティア活動などにも参加して地域の人たちと交流。その体験を新聞で連載した。「男性は最初の一歩がなかなか踏み出せない」と清水さん。記事に触発され、地域デビューを果たした読者もいたそうだ。

 定年後の自由な時間は、定年前の総労働時間に匹敵するという推計もある。今日は敬老の日。随分長くなった「老後」をどう生きるか、思いをはせる。

民主化 ?

中日春秋 9/18

ある男が神様に願をかけた。「明日は晴れにしてください。もし願いがかなえば、羊の頭をお供えします」。おみくじを引くと、願いはかなえられると出た。

別の男がやって来て願をかけた。「明日は雨を降らせてください。かなえば豚の頭をお供えします」。おみくじではやはりかなうと出た。神様は奥さんに告げた。「明日は天気なら羊、雨ならば豚が食べられるぞ。」

中国の笑い話という。相反する約束とは腹立たしい。その民主化運動指導者にはそんな「神様」になってほしくないのである。イスラム教徒少数民族ロヒンギャ問題で対応を非難されるミャンマーのアウン・サン・スー・チー国家顧問である。

政府の治安部隊がロヒンギャの村を焼き払い、銃撃したとの報告もある。「民族浄化」。おぞましき指摘もあるが、スー・チー氏は沈黙する。「どこで暮らす人々も自由や平和を享受できる世界を」。ノーベル平和賞の受賞演説でそう語った人がロヒンギャに背を向ける。

対応が難しいのは分かる。国民の九割が仏教徒でロヒンギャには冷ややか。スー・チー氏は民主化推進の上でも、その支持を失いたくない。軍の反発も避けたい。

しかし、それでは、正反対の約束をして、平気な顔のあの神様になる。少数民族の血と叫び声。それに目をつむり、民主化を推進したところで、誰がそれを民主化と称賛するだろうか。


木に学べ

日報抄 9/17

その本を読むと人の身勝手を考えさせられる。「人間、賢いと思ってるけど一番アホやで」。宮大工として法隆寺の大修理をした故・西岡常一(つねかず)さんが「木に学べ」に書いた。

木は雪だからといって逃げられない。風雪に曲げられてたまるものかと反発し、身をよじる。それは木材のクセとして現れる。棟梁(とうりょう)は、ねじれの個性をうまく抱き合わせ木を組んだものだった。そうやって建てられた法隆寺は1300年を経ても美しく立っている。いまは個性をクギで押さえる。

怒りは過去にも向けられる。「昔の人は、木はヒゲと同じように思うてたんや。伐(と)ってもええ、はやしてもええと。これじゃ木はなくなりまっせ」。建築に使いたい千年もののヒノキは、もう日本にない。この嘆きは30年ほど前のものだ。

現在は、切り育てる人がいない。県内でもだいぶ前から問題になっている。「モヤシの林」と呼ばれたこともある。やせたモヤシのような杉しか植林地にない。安い輸入材に押され、林業では食っていけないから山に手が入らない。やせた山は雨をためる力を失った。

先日の「窓」欄でも指摘があった。元営林署員の男性が林業への思いが乏しい政治を嘆いた。山地崩壊と流木が命を奪った九州豪雨災害を目の当たりにしたいま、林業の活性化を力強く語るべきだと訴えた。

宮大工の西岡さんは、木を育む山は人にとって「ふところ」だと例えた。「母親のふところやと思います」と言った。おろそかにされた母なる山の涙が災害を招く。

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職人世界の業を究めた人

西岡常一
きょうは法隆寺、薬師寺、法輪寺を復興させた「最後の宮大工」 西岡常一(にしおか つねかず)の誕生日だ。
1908(明治41)年生誕~1995(平成7)年逝去(86歳)。

奈良県生駒郡法隆寺村西里に、明治以来 法隆寺に仕える宮大工棟梁 西岡楢光の長子(三代目)として生まれる。
法隆寺の棟梁をつとめた祖父の常吉に小学校に入る前から仕事を仕込まれた。1924(大正13)年16歳の時、木を育てる土を学び生駒農学校卒業、1925(大正14)年17歳の時 大工見習から宮大工、棟梁への道に進んだ。

1934(昭和9)年26歳の時から始まった法隆寺の「昭和の大修理」で、世界最古の木造建築の金堂や五重塔の解体修理に携わった。
西岡はこれを「天運」、時代の巡り合わせだと言う。法隆寺には最古の飛鳥建築から、天平・藤原・鎌倉・室町・江戸の建築様式が全て揃っていて、各時代の日本建築の特徴を学ぶ幸運に巡り合った。

このときの金堂の解体では、学者の間で玉虫厨子のような錣葺き(しころぶき)だとされていた屋根が、「入り母屋」造りであることを、実際に組み立てて証明し、定説をくつがえした。

1971(昭和46)年63歳の時、奈良 薬師寺復興の大工棟梁となり、1976(昭和51)年68歳の時には竜宮造りといわれる金堂を復興した。続いて西塔、中門、玄奘三蔵院などを完成させ、回廊や講堂の復興に尽力した。

1975(昭和50)年、戦時中に落雷で焼失した斑鳩(いかるが)の三古塔のひとつ法輪寺 三重塔の再建の棟梁を務めた。
1992(平成4)年84歳の時には宮大工としては初めて文化功労者に選ばれた。1995(平成7)年亡くなった。

西岡は、日本建築の原点ともいうべき飛鳥時代の古代工法で大伽藍を造営することのできる「最後の宮大工」といわれた。木を生かす為の道具として槍鉋(やりがんな:古代のかんな)を復元を使用した。

職人世界の業を究めた人ならではの、深く考え得た珠玉の言葉の数々を、『法隆寺を支えた木』や『木のいのち木のこころ 天』(小川三夫著)などに残した。
吉川英治文化賞(1974昭和49年)、日本建築学会賞(1981昭和56年)、国土緑化推進機構のみどりの文化賞(1991平成3年)など数々の賞を受けている。

宮大工の世界に代々伝わる口伝に、「木を買わず山を買え」という言葉がある。山には当然ながら、東西南北というものがある。山の南側の木は、細いけれど強い。北側の木は、太いけれど弱い。そうした性質の木を、建物の東西南北に合わせてそのまま使えという。

ひと口に木と言っても、育つ環境はさまざまである。強風の地では左右に捻れ、大きな伽藍の心柱などに用いられる樹齢2000年前後の檜(ひのき)に至っては、人を寄せつけない岩盤に、根が岩を割って生育しているのが常だという。

こうしたくせの強い木ほど耐用年数も長く、水分が多く嵐の少ない環境で育った素直でくせのない木は弱いのだそうだ。しかし、弱いから、くせが強いから、曲がっているから「だめだ」というのではない。強い木は柱や桁、梁などの骨組みに用い、弱い木は長押(なげし)や天井、化粧板に用いればよい。

西岡は云う。「性根というもんは、直せるもんやないんですわ。やっぱり包容して、その人なりの場所に入れて働いてもらうんですな。曲がったものは曲がったなりに、曲がったところに合う所にはめ込んでやらんといかんですな」

法隆寺には先人の技術と知恵が凝縮されていること。木に残された手斧(ちょうな)の跡や鑿(のみ)が彫り込んだほぞに職人の腕や心構えが見えること。木を生かす技は数値に表せず「手の記憶」によって引き継がれること…。

西岡常一は、最後の宮大工といわれた人で、法隆寺、薬師寺、法輪寺など優れた仕事をしている。彼はあまり弟子をとらなかったようだが、仕事を通して多くの人に人としての生き方を教えている。書物にもなっているが、彼の考え方が形として残っているので説得力は大きく、謙虚にならざるを得ない。

企業においても、教育は非常に大切な項目だが、あれこれと手取り足取り教え込むよりも、自分の仕事ぶりを見せて、それを学ばせるのがベストである。要は、学ぶ姿勢を学ばせることだ。

西岡常一のことば
  「個性を殺さず癖を生かす。人も木も、育て方、生かし方は同じだ」
  「みんな自然の中での行いです。自然を無視して建築はできませんわ」
  「古いことでもいいものはいいんです。
   明治以来ですな、経験を信じず、学問を偏重するようになったのは」
  「1300年前に法隆寺を建てた飛鳥の工人の技術に現代は追いつけない」