コラムの記事 (1/119)

保健室通勤

春秋 6/26

「保健室登校」という言葉が広く言われだしたのは30年ほど前だったろうか。学校には行くものの友人関係での不安やストレスなどが理由で教室に入れず、保健室で過ごす子どもたちを指していた。

最近は「保健室通勤」という実態もあると聞く。体調が悪いのでも教室に入れないのでもない。業務多忙で家に帰れず、やむなく保健室のベッドで夜を明かす。翌日そのまま授業に出る先生がいるのだという。

教育現場が悲鳴を上げている。文部科学省は4月、教員の勤務状況の調査結果を公表した。「過労死ライン」を超える時間外労働をしていたのは小学校33・5%、中学校で57・7%にも達した。尋常ではない。

授業の準備や提出物の添削、子どもへの指導だけでこの数字なら、むしろ本望かもしれない。実情は会議や学校内外へ出す書類の作成、保護者などとの連絡調整に追われ、休日返上の部活動指導が待つ。先生個々人の熱意で補うにも限度がある。

松野博一文科相は教員の働き方改革の検討を中央教育審議会に諮問した。負担軽減策を議論してもらい年内にも緊急対策をまとめるという。急を要する。学校が「ブラック職場」と呼ばれる国に未来はない。

文科省には教員がたっぷり児童生徒に向き合える環境へと整備を願いたい。今どきの言葉を使えば「子どもたちファースト」である。無論、あの獣医学部の真相解明は二の次、という意味ではなく。

ひふみんアイ

水や空 6/26

 先日、現役最後の将棋を終えた加藤一二三・九段の若き日のエピソードである。タイトル戦の大舞台で長考に沈みながら彼は考えた。この局面、相手の目にはどう見えているのだろう、何かいい手はないか。

と、相手が席を外した。「相手の方にぐるっと回って、盤面を見渡しました。そうしたら何と、素晴らしい手が浮かんできたんです」。この手を境に加藤さんは優勢を築く。

ルール違反ではないが、行儀はよくない。記録係はさぞ面食らったことだろう。第一、プロ棋士なら、頭の中で盤面をひっくり返すぐらい造作もないことだ。ただ、実際に視点を切り替えてみたら、違う景色が見えた-という述懐は傾聴に値する。

ちょうど1週間前、安倍晋三首相が通常国会での自らの答弁について「深く反省している」と述べた。〈内閣支持率の急落を踏まえ、低姿勢を強調した格好〉と解説があったが。

その「低姿勢」が、どうにも伝わってこない。「強い口調」がまずかったのなら、さっさと改めればよかった。会期を延ばして「丁寧な説明」に臨む手もあった。

ネットの将棋中継では、盤の上下を反転させて映す機能が「ひふみんアイ」の名で親しまれている。首相も会見の動画を国民目線で眺めてみるといい。「謝ったふり」の自分がきっと見つかるはずだ。

大一番

時鐘 06/26

 知(し)らぬふりを決(き)め込(こ)んでいたが、もう限(げん)界(かい)である。きょう、新(しん)記(き)録(ろく)となる29連勝(れんしょう)に挑(いど)む大一番(おおいちばん)がある。

14歳(さい)の最年少棋士(さいねんしょうきし)は、どんな表情(ひょうじょう)で対局(たいきょく)に臨(のぞ)み、どんな思(おも)いを口(くち)にするのか。吹(ふ)けば飛(と)ぶようなコマの勝負(しょうぶ)が、将棋(しょうぎ)ファンならずとも大(おお)いに注目(ちゅうもく)を集めている。まだ14歳。肩(かた)にかかる重(おも)荷(に)が少(すこ)しでも軽(かる)くなれば、と無関心(むかんしん)を装(よそお)う知らんぷりを続(つづ)けてきた。

頼(たの)まれもしないのに、親心(おやごころ)に似(に)た感情(かんじょう)が湧(わ)く。憎(にく)らしいほどの強(つよ)さではなく、素直(すなお)さがぎこちなくネクタイを締(し)めたような好感(こうかん)度(ど)あふれる少年(しょうねん)棋士である。その小(ちい)さな肩が、重すぎるほどの期待(きたい)に耐(た)えている。下手(へた)に騒(さわ)ぐと、つぶれてしまうのではないか、という心配(しんぱい)が頭(あたま)をかすめる。だから選(えら)んだ知らんぷりである。

快進撃(かいしんげき)を横(よこ)目(め)で追(お)ううちに、一つ学(まな)んだ。黒星(くろぼし)が付(つ)きものの勝負の世界(せかい)である。少年棋士にも早(そう)晩(ばん)、無念(むねん)の日(ひ)が来(こ)よう。が、そのとき流(なが)す苦(にが)い涙(なみだ)は、すぐに明日(あす)の糧(かて)へと変(か)わるだろう。伸(の)び盛(ざか)りの14歳なら、それを大人(おとな)よりも数段(すうだん)やすやすとなし遂(と)げるに違(ちが)いない。

知らんぷりをしている間(あいだ)にも、少年は大きくなり、まぶしくなった。

緑のカーテン

日報抄 6/26

今年もゴーヤーを植えて緑のカーテン作りに挑戦している人は少なくないだろう。夏を涼しく過ごす工夫として、住宅地ばかりでなく、学校や役所など公共施設でも見掛けるようになった。

たまに、日当たりはよいのに、つるや葉の数が少ないものがある。何が違うのか。育て方を聞き合点がいった。ゴーヤーは本葉が6枚になったらつるの先端を切るとよいのだ。すると、複数のわき芽が出て子づるが広がる。時期を見極めた一手間が、その後を大きく左右する。

市街地で気軽に農業を体験できる市民農園が注目されている。県内では、企業が仲立ちして耕作放棄地を貸し出すスタイルが広がり始めた。市民農園では今、夏野菜作りが盛んだ。人気のトマトは、わき芽が出ると小さいうちに取り除くのが栽培のこつだ。

栄養を実に回し、葉が茂りすぎて日当たりや風通しが悪くなるのを防ぐという。同じ野菜だがゴーヤーとは正反対だ。個性や能力に合わせた育て方がある。その心得は子育てにも通じるところがある。

今春、法政大教授を退職した教育評論家の尾木直樹さんは教育現場の現状を憂い「競争主義から脱却して、個に寄り添わないと」と訴える。子どもたちへ「相手の心を想像できる共感力を育んであげて」とも。

農園や庭先では子どもたちが野菜の世話をする姿も見る。一株ごとに目を配って、水や肥料をあげる顔は輝いて見える。胸の中には他者を思いやる力がしっかりと根を張り、太く、まっすぐに育つことだろうと思う。

精いっぱい生きた

中日春秋 6/25

「天が、この国の歴史の混乱を収拾するためにこの若者を地上にくだし、その使命がおわったとき惜しげもなく天へ召しかえした」。若者とは坂本龍馬。司馬遼太郎さんの『竜馬がゆく』の最終回。近江屋で龍馬が刃(やいば)にたおれる場面である。

「惜しげもなく天へ召しかえした」の部分。最近見つかった自筆原稿によると当初は「惜しむように」だった。線で消し「惜しげもなく」と修正している。

読み返す。やはり、この部分、「惜しげもなく」でなければならぬ。そう思う。三十一歳での龍馬の死は早い。惜しいと書きたくなる。されどである。大政奉還、薩長同盟。龍馬の大仕事に天が心から満足し「よくやった」と考えるのなら「惜しげもなく」の方がぴたりとくる。それは精いっぱい生きたと同じ意味であるまいか。

小林麻央さんが亡くなった。病床にあってもそのブログには同じ病の人への慰めや励ましの言葉があふれていた。誰かのためにの大仕事を最後まで続けていた。

この人にも「惜しむように」が似合わぬか。そのときを迎えても「可哀想(かわいそう)に」とは思われたくない。そう書いていた。病気が「私の人生を代表する出来事ではないから」

かなえた夢、出会い、家族との生活。それこそが人生を代表する出来事。だとすれば、お別れは「可哀想」とか「惜しい」よりも「精いっぱい生きた」の方がふさわしかろう。


政治家は、曲芸師である

中日春秋 6/24

 「政治家は、曲芸師である」と喝破したのは、十九世紀から二十世紀にかけてフランスの政界と文壇で活躍したモーリス・バレスである。「政治家は、実際にやることとは逆のことを言って、バランスをとるのだ」

わが国の首相も、この手の曲芸の腕はかなりのものだろう。共謀罪への異論も獣医学部新設での疑惑も封じ込めるかのように国会を閉会して、会見で口にした言葉は「政府として分かりやすく説明していく」。だが、野党が臨時国会の召集を求めても、応じる気配はない。

憲法は臨時国会について、<いづれかの議院の総議員の四分の一以上の要求があれば、内閣は、その召集を決定しなければならない>と定める。

「召集の期限は書かれていない」と釈明するのかもしれないが、自民党の憲法改正草案では、この条文に、こんな一節が付け加えられている。<要求があった日から二十日以内に臨時国会が召集されなければならない>

なぜ、期限を切るようにしたのか。自民党は「憲法改正草案Q&A」できちんと説明している。<党内議論の中では、「少数会派の乱用が心配ではないか」との意見もありましたが、「臨時国会の召集要求権を少数者の権利として定めた以上、きちんと召集されるのは当然である」という意見が、大勢でした>

そんな見識もドロンと消えた。曲芸だけでなく、手品も得意らしい。


天才

河北春秋 6/23

将棋の中原誠16世名人(69)=塩釜市出身=は小学生時代、塩釜や仙台で盛んにプロ棋士やセミプロと対局し腕を磨いた。9歳の時には飛車角落ちで現役八段を破ることもあった。いわば伝説の始まりである。

「将棋界は天才というバケモノの世界、タダナラヌヒトの集団だ」と書いたのは文壇の強豪、故山口瞳さん。一流棋士と対局した奮闘記『血涙十番勝負』にある。プロ棋士160人余り。その世界はまさに一人一人が伝説を持ち寄っている。

ひときわ輝きを放つ伝説が誕生した。昨年12月のデビューから無敗を続ける最年少、藤井聡太四段(14)が公式戦最多連勝記録の「28」に並んだ。30年誰も踏破できなかった高き峰。頂に立ち「非常に幸運。つきがあった」と言った。何と落ち着いた物腰であろう。

山口さんの言葉をもう一回借りる。当時23歳の中原さんを「天才の中の天才、オバケの中のオバケ、野球でいえば長嶋茂雄」と評した。藤井四段は挑戦権を得られるA級に入れば史上初の10代で名人になる可能性があり、ついにはカミサマとでも呼ばれるかもしれない。

将棋界ではくしくも現役最高齢の加藤一二三・九段(77)が引退。「神武以来の天才」から藤井四段に伝説のバトンが託された。新たなる高みへ挑み、いまだ見ぬ景色を見せてほしい。

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斜面 6/23

将棋盤を見つめながら扇子をくるりくるりと回す。次の一手を考える藤井聡太四段の仕草だ。プロデビューから負け知らずの28連勝。将棋に門外漢の筆者もにわかファンの一人になった。14歳ながら言動には人を引きつける魅力がある。

 「大志」と自ら揮毫(きごう)した扇子が日本将棋連盟の公式グッズとして売り出され即完売になった。「少年よ大志を抱け」を思い起こす。札幌農学校の教頭だった米植物学者ウィリアム・クラークが明治10年に帰国する際、別れを惜しむ教え子に残した言葉だ。

 扇子にはプロ棋士の胸の内が表れるようで面白い。長考しながらもてあそんだり、少し開いてはパチッと音を鳴らして閉じてリズムをとったり。揮毫する文字には心の持ちようや信念がにじみ出る。1996年に25歳で7冠を制覇した羽生善治3冠は好んで「泰然自若」と書いた。

 将棋界で最も権威ある名人が、コンピューターの将棋ソフトに敗北する時代だ。藤井四段も将棋ソフトによってめきめき力をつけた。人工知能(AI)が人間の直感力さえも超える日が近い。だが個性ある人間同士の勝負の魅力には追いつかないはずだ。

 羽生3冠は勝利を確信する終盤、駒を持つ指が震えるという。その所作に魅力を感じるファンは多い。77歳で引退した希代の勝負師加藤一二三(ひふみ)・九段も「ひふみん」と呼ばれて愛された。藤井四段はいずれ先輩を乗り越えるだろう。道を究めるほどに人間味があふれる棋士に育ってほしい。


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春秋 6/23

将棋には、対局相手との実力差が大き過ぎるとき、駒を減らすハンディキャップルールがある。大駒の飛車、角を使わない「二枚落ち」は、6~7の段級差が目安という。

「マジでやばいなと思いましたよ。飛車角落ちとかいうやつっすか。王もいないぐらいですよ」。プロ野球交流戦を振り返ったホークスの柳田悠岐選手の弁だ。

和田毅、武田翔太、千賀滉大投手のエース級3人と、内川聖一、デスパイネ選手の中軸打者2人を故障で欠いた。既に負けている「王がいない」はご愛敬(あいきょう)としても、まさに飛車角落ちの大ピンチ。

が、終わってみれば3年連続の最高勝率。代役の桂馬や香車が躍動して敵陣に攻め込んだ。工藤公康監督の窮余の策に、チャンスを与えられた若手が応えた。

実際の将棋界では史上最年少棋士の藤井聡太四段が快進撃。相前後して福岡県嘉麻市出身の史上最年長棋士、「ひふみん」こと加藤一二三・九段の引退が決まった。史上最多の28連勝に並んだ14歳と63年間現役を続けた77歳。藤井四段のデビュー戦の相手が加藤九段というのも因縁めく。棋史に残る天才2人の「序章」と「終章」を同時に見せてもらった。

プロ野球現役最年長野手のこの人も。ロッテの井口資仁選手(42)が今季限りの引退を表明した。ダイエー時代の“飛車角”の活躍が懐かしい。期待と寂しさが交じる世代交代の風が吹く中でプロ野球はきょうリーグ戦再開。


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くろしお 6/23

藤井時代の幕開け

 雨が降ると織田作之助の小説「聴雨」を思い出す。早熟の天才で名をはせ、プロとしては型破りな棋風で一時代を築いた伝説の棋士坂田三吉の晩年の対局を描く実話ものだ。

 長年引退した後の復帰戦。奇抜な手を求める世間の期待に応えたか、後手の坂田は端歩を突いた。世間は喝采を送るが、昭和初期とはいえ理論的な近代将棋の勃興期。結局奇手が災いして負けたが、坂田は雨音を聞きながら、懲りずに次の対局での奇手を考える。

 梅雨空の下、中学生にして歴代最多の公式戦28連勝を達成した藤井聡太四段も驚嘆と賛辞の渦の中にあって、もう次の対局へ作戦を巡らしているに違いない。坂田とは棋風は対極的だが、同様に孤高の道を歩む雰囲気が既に感じられる。

 加藤一二三九段の史上最年少プロ棋士の記録を塗り替え、初対局ではその加藤九段を破って快進撃が始まった。都成竜馬四段との対局で本県出身棋士による連勝ストップを期待した以外は、藤井四段が生み出す“奇跡”の瞬間をもっと見たい気分が高まっていった。

 対戦相手には悪いが、藤井四段が記録を更新すると人間の可能性が広がったような気になる。彼が特別に強すぎるのか、多くの人が眠る能力を開花できずにいるだけか。全国で将棋熱が高まっているのは、彼が希望を与えたからだろう。

 コンピューターの将棋ソフトが人間を凌駕(りょうが)する時代になっても、限界ある人間同士が競うドラマだからこそ将棋はおもしろいし、廃れることはないはずだ。藤井時代の幕開けは手軽で奥の深い伝統ゲームを再認識させた点でも意義が深い。

沖縄慰霊の日

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中日春秋 6/23

沖縄には「艦砲の食い残し」という言葉がある。鉄の暴風と形容された沖縄戦の艦砲射撃で家も家族も食い尽くされた。その食い残しが、生き残った自分たち。言い尽くせぬ悲しみと虚(むな)しさが結晶となった言葉だ。

<♪うんじゅん 我(わ)んにん/いゃーん 我んにん/艦砲(かんぽー)ぬ喰(く)ぇー残(ぬく)さー…>。あなたもわたしも、おまえもおれも、艦砲の食い残し。そんな歌が大ヒットしたのは、戦後三十年を迎えたころだ。

仲松昌次さんの労作『「艦砲ぬ喰ぇー残さー」物語』によると、作詞作曲した比嘉恒敏(ひがこうびん)さんは、対馬丸の沈没で父母と長男を失い、働きに出ていた大阪での空襲で妻と次男を失った。

終戦後、廃虚となった故郷の村に帰って生活を再建させたが、米軍基地建設のため強制的に立ち退かされた。そんな自分の歩みを、民話を語るような木訥(ぼくとつ)とした口調と明るい曲調の島唄にしたのだ。

だが、比嘉さんが、この歌のヒットを見届けることはなかった。本土復帰の翌年、飲酒運転の米兵が起こした事故で、五十六歳で命を奪われてしまった。

沖縄の新聞・琉球新報に最近、七十七歳の方が詠んだ琉歌が載っていた。<野山(ぬやま)揺るがする艦砲の音(ぬうとぅ)やこの年(くぬちゃ)なるまでも追うてきよ(でぃんうーてぃちゅー)さ>源河朝盛(げんかちょうせい)。七十二年たっても止まぬ戦争の響きがある。「艦砲ぬ喰ぇー残さー」という言葉は今も痛みを伴って脈を打っている。きょうは、沖縄慰霊の日だ。

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 読谷村楚辺に「艦砲ぬ喰ぇ残さー」の歌碑がある。「若さぬ時ねー戦争ぬ世」で始まり、歌詞の最後は「いゃーん我んにん/艦砲ぬ喰ぇー残さー」のリフレインで歌われるあの歌だ。1970年代に4人姉妹の「でいご娘」によって、たちまちヒットした。作詞作曲は「でいご娘」の父親・比嘉恒敏。
 本書はその誕生と世に出るまでの物語である。著者はその歌詞を追いながら、恒敏とその家族の歴史をひもといていく。長年、テレビ・ディレクターを務めた手法さながらに、読者を引き込んでゆく。やがて読者は、この歌が作者の壮絶な人生から生まれたことを知る。
 楚辺で生まれた恒敏の人生は、出稼ぎ、戦争、両親や先妻とその子どもの戦死、戦後の故郷・楚辺の軍用地接収による立ち退きなど、戦前戦後の「沖縄」を体現したものであった。著者は「いくさ世を生き抜き、戦後の過酷な沖縄で生きたすべての人々に通底する物語となる」と書く。
 そうした苦しい生活の中でも、3男4女の子宝に恵まれ、4人娘に三線や踊りの手ほどきをしたのが評判となり、1964年に「でいご娘」としてデビュー。「艦砲の歌」ができたのは、60年代後半だった。恒敏は青年時代に、大阪で普久原朝喜の新作民謡の感化を受けている。
 70年代に入り、「でいご娘」は絶頂期に入る。ところが73年10月10日夜、公演帰りの車が、飲酒運転の米兵の車に正面衝突され、妻のシゲが即死、重体の恒敏も4日後に死亡。56歳の、あまりにも短い生涯であった。
 事故後、活動を休止していた「でいご娘」が、75年、父の遺志を継いで作曲家・普久原恒勇のプロデュースによる「艦砲ぬ喰ぇぬくさー」で活動を再開した。
 著者は言う。「単なる反戦歌ではない。親子、家族の絆をうたって希望をつなぐ歌ではないのか」と。戦後70年が過ぎ、時代はキナ臭さが漂い始めている。再び「艦砲」の犠牲を出さないために、「命のリレーの重さ」をかみしめたい。(三木健・ジャーナリスト)
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 なかまつ・まさじ 1944年、本部町瀬底島出身。首里高校・琉球大学史学科を経て日本放送協会にディレクターとして入局。主に文化教養系番組を制作。2005年に退職、帰郷。現在、フリーディレクター(演出)。

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艦砲の喰え残さ
かんぽうぬくぇーぬくさー
[kaNpoo]nu kweenukusaa
〇艦砲射撃の喰い残し
語句・くぇーぬくさー 食い残し。<くぇーぬくし 食べ残し。 語末の「あー aa」は 「・・の奴」「・・の人」と擬人化的表現。「食い残されし者」くらいの意味。

作詞作曲 比嘉恒敏


一、若さる時ね戦争の世 若さる花ん咲ちゆさん(若さる花ん咲ちゆさん)家ん元祖ん親兄弟 艦砲射撃の的になて着るむん喰えむんむるねえらん スーティーチャー喰で暮らちゃんや (うんじゅん我んにん 汝ん我んにん艦砲の喰い残さ)
わかさるとぅちねー'いくさぬゆー わかさるはなんさちゆーさん (わかさるはなんさちゆーさん)やーんぐゎんすん'うやちょ(ー)でーかんぽーしゃげきぬまとぅになてぃちるむん くぇーむんむるねーらん すーてぃーちゃーかでぃくらちゃんやー ('うんじゅんわんにん 'っやーやわんにん かんぽーぬくぇーぬくさー)
wakasaru tuchinee 'ikusanuyuu wakasaru hanaN sachiyuusaN (wakasaru hanaNsachiyuusaN )yaaN gwaNsuN 'uyacho(o)dee [kaNpooshageki]nu matu ni nati chirumuN kweemuN muruneeraN suutiichaa kadi kuracyaNyaa ('uNjyuN waNniN 'yaa ya waNniN  kaNpoo nu kweenukusaa)
〇若い時は戦争の世の中 若い花は咲くことが出来なかった(若い花は咲くことが出来なかった) 家もご先祖様も親兄弟も[艦砲射撃]の的になり 着るもの食べるものも全くなかった。ソテツを食べて暮らしたよ。(あなたもわたしも 君も僕も艦砲の食い残し)
(括弧は以下省略)
語句・わかさるとちねー 若い時には。 <わかさん 若い +とち 時 +ねー には(<にni+やjaで「ねー」になる。)・さちゆーさん  咲くことができなかった。 <さちゆん 咲く。+ゆー よく。・・する +さん しない。 よく・・することにならない。・・できない。 ・すーてぃーちゃー ソテツを。 <すーてぃーち ソテツ。+や をば。 蘇鉄は種や茎にでんぷんを多く含み救荒食料にもなるが猛毒のホルムアルデヒドなどを含むために毒抜きしないで食べると死に至る場合があり戦時中は「ソテツ地獄」(1920年代)ともいわれた。私の里九州宮崎でもよくこの話を聞かされた。
・くらちゃん 暮らした。 <くらしゅん 暮らすの過去形


ニ、神ん仏ん頼ららん 畑やカナアミ銭ならん 家小や風ぬうっ飛ばち戦果かたみてすびかって うっちぇーひっちぇーむたばって肝や誠どやたしがや
かみんふとぅきんたゆららん はるや[かなあみ]じんならん やーぐゎーやかじぬ'うっとぅばちせんくゎかたみてぃすびかってぃ 'うっちぇーふぃっちぇーむたばってぃ ちむやまくとぅどぅやたしがやー
kamiN hutukiN tayuraraN haruya [金網]jiN naraN yaagwaa ya kazinu 'uttubachi [戦果]katamiti subikatti 'ucchee hwichee mutabatti chimu ya makutudu yatashigayaa
〇神も仏も頼られない 畑は金網(張られて)銭にはならない。家は風が吹っ飛ばし戦果担いでしょっびかれて ひっくり返し返され弄ばれ 心は全く誠実だったのだがねえ
語句・はるやかなあみ 畑は金網。 おそらく戦後米軍が基地の為に張り巡らせた金網フェンスの事で、食料源であり生活の源の畑すら奪われた農民は多かったに違いない。・せんくゎ 戦果。 戦後すぐの食料難の時期「戦果あぎゃー」(戦果をあげる人)といって米軍の倉庫から食料や日用品を「盗む」ことが生きるためにされていた。もちろん銃殺も覚悟で必死だったであろう。 ・すびかってぃ しょっぴかれて。 <すびちゅん しょっぴく。の受け身と過去形 ・うちぇーふぃっちぇー ひっくり返し返し。 「なんどぅるふぃんどぅる」「たっくわいむっくわい」(べたべたひっつくさま)のようにある状態を表現するのに二つの語句をつなげるが 意味があるのは最初の語句で後のはリズミカルにするために意味がない場合が多い。疂語という。


三、泥の中から立ち上がて家庭もとめて妻とめて産子生まりて毎年産し次男三男ちんなんび哀れの中にも童ん達が笑い声聞ち肝とめて
どぅるぬなかからたちあがてぃちねーむとぅみてぃとぅじとぅめてぃ なしぐゎー'んまりてぃめーにんなしじなんさんなんちんなんびー'あわりんなかにんわらびんちゃーがわらいぐぃちちちむとぅめーてぃ
duru nu nakakara tachi'agati chinee mutumiti tuji tumeeti nashigwaa 'Nmariti meeniNnashi jinaNsaNsaN chiNnaNbii 'awariNnakaniN warabiNchaa ga waraigui chichi chimutumeeti
〇泥の中から立ち上がって家庭を求めて妻をめとり こどもも生まれて毎年産み次男三男とかたつむり(みたい)苦労の中も子どもらの笑い声聞き心を求めて
語句・ちんなんびー かたつむり。ちんなんみー とも。 ・あわり 苦労 つらいこと。


四、平和なてから幾年か子の達んまぎさなて居しが射やんらったるヤマシシの我が子思ゆるごとに潮水又とんで思れ 夜の夜ながた目くふぁゆさ
へいわなてぃから'いくとぅしか っくゎぬちゃんまぎさなて'うしが 'いやんらったるやまししぬわがく'うむゆるぐとぅに'うしゅみじまたとんでぃ'うむれーゆるぬゆながたみーくふぁゆさ
heiwanatikara 'ikutushika kkwanuchaaN magisa nati 'ushiga 'iyaNrattaru yamshishinu wagaku 'umuyurugutuni 'ushumiji matatu Ndi'umuree yurunu yunagata miikuhwayusa
〇平和になってから何年か 子ども達も大きくなっているが射られたイノシシが我が子を思うように潮が又くる(繰り返す)のだと思っては夜の夜中にねむれない
語句・いやんらったる 射たれた。 ・うすみじまたとぅ 潮がまたと。潮が繰り返すように。 また戦が繰り返されるのではないかと心配して と読まれる。 ・みーくふぁゆん 目が堅くて(寝られない)。  <みー 目 + くふぁゆん 堅い 目が堅い。


五、我親喰わたるあの戦我島喰わたるあの艦砲 生まれて変わても忘らりゆみ誰があの様しいいんじゃちゃら 恨でん悔やでん飽きざらん子孫末代遺言さな
わ'うやくわたる'あぬ'いくさ わしまくわたる'あぬ[かんぽう]'んまりてぃかわてぃんわしらりゆみ たーが'あぬさましーんじゃちゃら'うらでぃんくやでぃん'あきざらんしすんまちでー'いぐんさな
wa'uyakwataru 'anu'ikusa washima kwataru 'anu [艦砲] 'NmaritikawatiN washirariyumi taaga 'anusama shiiNjachara 'uradiNkuyadiN 'akijaraN shisuNmachidee 'iguNsana
〇私の親を食べたあの戦争 私の故郷を食べたあの艦砲射撃 生まれ変わっても忘れることができようか?誰があのようなことをしはじめたのか 恨んでも悔やんでも飽きたりない 子孫末代まで遺言したいねえ
語句・くわたる 食べた。 <くわゆん  ・しーんじゃちゃら しはじめたか。<しーんじやすん 仕出す 儲ける。 し+出す ・あきざらん 飽きたりない。 <あちざらん ←きki と ちchiが入れ代わっている。

この歌は厳粛な気持ちで訳した。私が本土出身の人間だからである。
明るい三下げ曲なのに歌詞は重たい。しかし一回聴いて重たさを感じないのは歌詞に比喩工夫がある。

あの沖縄戦を背景にうちなーんちゅがどう生きて来たかが切り取られ、切実な願いや憤りが歌に昇華している。
沖縄戦とは何だったか。
1945年日本が始めた太平洋戦争末期、連合軍は本土上陸のための足掛かりを沖縄に求め、日本軍部は抵抗する力がないことも「負け戦」になることも知りながら住民を狩り出し上陸作戦に抵抗しようとした。「捨て石作戦」とも言われた。沖縄戦の死者20数万人(これはヒロシマの被害とも匹敵する)、米軍が艦砲射撃などでうちこんだ砲弾の数60万発。鉄の暴風と言われた。いまだに不発弾が那覇市内でも見つかるくらい。ひめゆり部隊の悲劇やチビチリガマの「集団自決」(強制自殺とも言われる)。などなど狭い島で逃げる場所を失い、日本軍も敗走するなかで「切り捨てられた」戦場において何が起こったかは、私達戦後に生まれたものもその体験や事実にもっと耳をかたむけるべきである。

この唄は、唄という芸能を通じて、私達に語りかける。
それはやさしい三線の音色とウチナーグチのリズムで、ヤマトンチュにはすぐには理解できない言葉ではあるが、淡々と戦中、戦後を語っている。

耳をかたむけるものだけに聞こえる声がある。もう亡くなったたくさんの犠牲者の声、今も声にならない声で訴える声もある。そういう声をこの歌から聞き取っていきたい、と私はそう思う。
今進められている名護の新基地建設をすすめる人々、本土の私達には、この唄の遺言を今一度かみ締めてほしいと心から願う。

ひふみんと藤井四段

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小社会 6/22

 「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」。1951年、連合国軍最高司令官を解任されたマッカーサー元帥が日本から帰国し、米上下両院合同会議での演説の締めくくりに用いた言葉だ。実際には消え去らなかったのだが。

 そんな昔話を思い出したのは、将棋の現役最高齢記録を持つ加藤一二三・九段が引退したから。最後の棋戦で敗退したためだが、投了後、「きょうはコメントはありません」との言葉を残して静かに対局場を後にしたという。

 14歳7カ月で史上初めて中学生のプロ棋士となり、77歳の今日まで63年間に及んだ現役生活。色紙に好んで書く「直感精読」通りの深い読みで数々の名勝負を演じ、名人位などを獲得した。記録はむろん、長く記憶に残る棋士だろう。本当にお疲れさまでした。

 その最年少記録を5カ月短縮し、昨秋プロ入りした藤井聡太四段。デビュー戦で加藤九段に勝ったのを皮切りに、公式戦での連勝記録が歴代最多の28に並んだ。神谷広志八段の記録は1986~1987年度のものだから、30年ぶりの快挙となる。

 非公式戦ながら藤井四段に敗れた羽生善治3冠の言葉が、その強さを物語る。「攻守のバランスがよく、非常にしっかりしている将棋だ」。7月で15歳になる規格外の中学3年生はこの先、どこまで成長していくのか。

 勝負の世界にあって、新陳代謝は活性化への大きな力となる。新記録が懸かる6月26日の次回対局が待ち遠しい。

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南風録 6/22

 無人島に何か持っていくとしたら、何を持っていきますか。こんな質問に「(将棋界の第一人者である)羽生善治さん」と答えたという。引退が決まった最高齢棋士の加藤一二三・九段である。

 どこまでも将棋が好きなのだろう。最近テレビで見掛ける「ひふみん」の人柄を知り、この珍回答を少し納得できるようになった。中学生だった14歳でプロ入りし、77歳まで将棋一筋の人生だ。

 「神武以来の天才」と呼ばれ、名人など数々のタイトルを獲得した。ライバルが次々と引退し、棋士としてのピークを過ぎても闘志は衰えなかった。勝てば最高齢の勝利記録、負けて引退という対局で締めくくったのもこの人らしい。

 伝説の棋士の引退から一夜明けて、中学生棋士の藤井聡太四段が歴代最多の28連勝に並んだ。デビュー戦の相手を務めたのが加藤さんだ。因縁を感じる。

 トップ棋士が立て続けにコンピューターソフトに敗れる時代である。成長する人工知能と人間はどちらが強いかという問いの結論は出たのかもしれない。それでも将棋の神様に選ばれた天才が知力を振り絞る戦いの物語は、人々を魅了する。

 去る77歳と挑む14歳は、1000年を超える将棋の歴史で半年間だけ交わった。加藤さんが63年で重ねた勝ちは1324、負けは1180。勝って喜び、負けて涙するから人は面白い。藤井四段はどんな物語を紡いでくれるだろう。

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有明抄 6/22

藤井聡太28連勝

 「早く名人になって、将棋をやめたい」。10代の終わりに、そんな言葉を吐きながら盤に向かった棋士がいた。将棋界最高峰のA級に在籍したまま、がんのため29歳で早世した村山聖(さとし)である。自分には時間がなく、頂点にさえ立てれば悔いはないとの強い思いが伝わる。

幼くして腎臓の難病に侵され、病の床で将棋と出合う。それは魅力に富み、心を解放してくれるものだった。いわゆる「羽生世代」の一人で、ライバル羽生善治三冠は「感覚が鋭い。命がけで指していた」と評した。村山にとっては強くなること、目の前にある将棋に勝つことだけが支えだったという(大崎善生著『聖の青春』)。

勝負師とはそういうものだろう。ここにも勝つことに懸ける少年がいる。デビュー以来の公式戦連勝記録を歴代最多タイの28とした藤井聡太四段である。「望外」「醍醐味(だいごみ)」などと中学生とは思えない語彙(ごい)力を発揮する。きのうも大物の風格で勝利の弁を語った。

幼少時から「闘争心の塊」と言われた。はるか年上を相手に無難な手ではなく、リスクを負いながらも勝ち目がある手を選ぶ。負ければその悔しさを次の対局にぶつけて成長した。

村山にとって将棋は、大空を自由に駆ける翼のようなものだったという。藤井四段も翼を得て、のびのびと大器に。後に続く子どもたちの夢を乗せて-。


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水と空 6/22

加藤九段引退
 「フラッシュの点滅にご注意ください」。30年ぶりの大記録を成し遂げ、大勢の取材陣に囲まれて控えめな笑顔で喜びを語る14歳を画面で眺めながら、前の夜、同じ戦いの舞台から無言のまま足早に去った77歳のことを考えた。

既に引退が決まっていた現役最年長棋士の加藤一二三・九段。一昨日の敗局が最後の将棋になり、63年間の棋士生活に幕が下りた。通算1324勝はもちろん大記録だが、積み重なった1180敗も驚異的な数字。

この日の将棋は中盤で形勢を損ね、一方的に押し切られた。自玉に詰み筋が生じた最終盤、長い離席から戻ると相手に「(局後の)感想戦は無しで」と告げて直後に投了。取材にも応じずタクシーに飛び乗った。

終局後の振る舞いには「非常識だ」「大人げない」と批判の声も上がった。ただ、それほど将棋に詳しくない同僚は「その年齢になって、そんなにも『悔しい』と思えるハートがすごい」と、温かめの感想をもらしていた。同感である。

丸1日過ぎた昨日は気持ちも落ち着かれたのか、ニュース番組にゲストで登場。ケロリといつもの早口で表情豊かに「藤井将棋」を語っていた。

大物ルーキーの快進撃が"社会現象"になりつつある。加藤さんも引っ張りだこの日々が続きそうだ。お別れの言葉はゆっくり聞こう。

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「六か七」の壁

中日春秋 6/22

豪放磊落(ごうほうらいらく)な人柄で多くの人を魅了した囲碁棋士・藤沢秀行さんと、将棋棋士の芹沢博文さんが、こんな話をしたことがあったという。我々は囲碁や将棋をどれほど分かっているのか。神様が百としたら、どの程度か

二人で紙に数字を書いて見せ合ったら、答えが一致した。わずか六か七。藤沢さんは書いている。「碁打ちを五十年もやっていながら、何も分かっていない。ボウ然とするばかりだ。しかし失望はしていない。奥が深く、変化が広大無辺だからこそ、我々は強くなれる」(『勝負と芸』)

それが今や囲碁や将棋でトップ棋士たちが人工知能(AI)に勝てない時代となった。AIが百としてさて我々は…と問わねばならぬ時代となったのだから、それこそボウ然となる。

だが、そんなコンピューターの力を使い、飛躍的に力を伸ばした棋士もいる。十四歳で将棋の公式戦最多連勝記録に並んだ藤井聡太四段だ。「人間では思いつかない手を指すソフト」との対局で、既成観念にとらわれぬ一手を追い求めているそうだ。

囲碁の世界最強棋士の一人・中国の古力九段はAIについて、こう評している。「囲碁の神秘的な一つの門を開けてくれた。人類とAIは、碁の世界の大きな幕を開けるよう共に探究している。新たな革命が進んでいる」

藤井四段は連勝記録だけでなく、「六か七」の壁を破ってくれるだろう。


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藤沢秀行のプロフィール

人生、意気に感ず 藤沢秀行
藤沢秀行(ふじさわ ひでゆきorしゅうこう/1925年6月14日-2009年5月8日/男性)は、神奈川県横浜市出身の囲碁棋士(名誉棋聖)。本名は「藤沢 保」(-たもつ)。名人、天元、王座など、数々のタイトルを獲得した名棋士であり、碁界最高のタイトルである「棋聖」の六連覇などを果たした。現役引退も若手の指導に情熱を傾け、多くのトッププロを育成。また、若き頃より書の道にも励み、個展なども開催していた。

著書

主な著書に『人生、意気に感ず/ごま書房新社』『藤沢秀行 囲碁教室シリーズ/つちや書店』『野垂れ死に/新潮社』『勝負と芸 わが囲碁の道/岩波書店』『人生の大局をどう読むか/三笠書房』『置碁-白の作戦(解説)/山海堂』『故事・格言による囲碁上達の手ほどき/東京書店』『戦いはこれからだ 人間的魅力の研究/祥伝社』などがある。

藤沢秀行の名言集

人間は最終的には
自分の判断で
行動しなければ
ならないのだから

結果については
自分で責任を
とるしかない。

だから私は
失敗も修羅場も
恐れない。

人間、どんな仕事に
たずさわろうと

一生のうちに
一度や二度は
かならず痛い目に遭う。

そのとき、自分の力が
足りなかったのだと
あっさり割り切って
いっそう仕事に
励むのもよし。

二度とこんな悔しさは
ごめんだと
発奮するのもよし。

一番いけないのは
いつまでも負け惜しみを
ぐだぐだ言うだけで

ショックから
立ち直れないことである。

努力を怠れば
進歩が止まるばかりでなく
かならず退歩する。

自分がどんなに努力しても
すぐに結果が出る
とは限らない

結果にこだわりすぎると
安全な道を選び、
進歩は止まってしまう。

試合が勝負ではない。
毎日の積み重ねが
勝負なのだ。

若いうちは
わき目もふらずに
精進しろ。

目先の勝負に
こだわるな。

三連勝すれば
三連敗もありうるのが
人生だ。

努力というのは
報われるまでが
なかなかたいへんだが

いったん怠ると
その影響はてきめんに
出てくるから恐ろしい。

“定石”どおりの人生を生きて
何がおもしろいのか

(定石…最善とされる手順)

定石は相手が
定石どおりに打ってくれれば
互角になる。

が、相手がそのとおり
打ってくれるとは限らない。

定石なんか知らない人は
平気で定石にない手を
打ってくる。

強い人は相手を
混乱させるために
わざと定石はずしの手を
打つこともある。

それで負けたからといって
定石のせいではない。

要するに”自分流”を
持っていないから
“応用”がきかないのである。

最悪の状態で
戦えなければ
男ではない。

相手の不運を
期待した瞬間に
運は逃げていく。

これだと思った考えを
表現できる場がなくなったら

人生は如何にも
わびしいものになる。

わからないことを
わかっていれば一人前。

ヘボは、自分が未熟だ
ということをわかってない。

人間は、
死にたくても
死にきれないのだ。

だとしたら
生きているうちは
最善を尽くす

パーカッション・メンテナンス

中日春秋 6/21

「パーカッション・メンテナンス」。メンテナンスは修理とか修繕の意味なので、打楽器の修理かなにかかと考える人もいるだろうが、不正解。かつて日本の茶の間でもよく使っていた、「ある技」のことを指す。

その昔のテレビ受像機は古くなると画面が上下に乱れるなどよく不調になった。こういうとき、お父さんかだれかがテレビのどこかをポンポンとたたく。あら不思議、正常な画像に戻ることがよくあった。「パーカッション・メンテナンス」とは、この、まじないめいた懐かしの修理法のことである。

最近の支持率の急降下がよほど強い「パーカッション・メンテナンス」になったのか。安倍首相である。通常国会閉会を受けた記者会見で学校法人「加計(かけ)学園」の獣医学部新設計画をめぐる政府の対応などで「国民の不信を招いた」「率直に反省しなければ」「政府として分かりやすく説明していく」と低姿勢な言葉を並べていた。

たたいて直るのならありがたい。が、あの修理法、画面が正常なのは束(つか)の間で、しばらくするとまたおかしくなったものである。

低姿勢が続くことを期待するが、なにせ、都合が悪くなると画像が乱れ、大音量でまくしたて肝心な説明になると音声が途切れる症状のあったテレビである。

ちゃんと修理しなければ、七月二日の東京都議選後あたりにまた調子が悪くなる予感がないでもない。


藤井効果

大自在 6/21

 全国の書店員が選ぶ本屋大賞の第1回受賞作で、映画化もされた小川洋子さんの「博士の愛した数式」。小説の主人公は数学者。プロ野球の阪神タイガースをこよなく愛し、特に背番号に「完全数」の28を背負った往年の名選手江夏豊投手の大ファンだ。

 その数を除く約数を足した合計と等しいのが完全数。紀元前にギリシャの数学者が命名以来、これまで発見されたのは50個に満たない。28(=1+2+4+7+14)は6の次に大きい完全数である。

 将棋の神谷広志八段(浜松市)は自らの連勝記録に愛着を持つ理由の一つに「完全数というきれいな数字」を挙げる。30年前に樹立され、絶後ともみられたその28連勝に並ぶか。プロデビューから無敗を続ける中学生棋士藤井聡太四段がきょう、歴代タイ記録を懸けて対局する。

 本県の棋士が持つ大記録が塗り替えられるのは寂しいが、ここまでくれば並ぶだけでなく新記録を見てみたい。記録更新を予想するかとの本紙の取材に神谷八段も「もちろん」「通過点だ」とし「タイトルをいつ取るのかに期待している」と答えている。

 きょうの相手澤田真吾六段は今期の王位戦挑戦者決定戦に進出した若手実力者。2日にも対局し、20勝目を挙げた相手だが、藤井四段の師匠杉本昌隆七段は「総合力では相手が上」とみる。

 ただ、神谷八段の28勝目も当時第一人者だった故米長邦雄永世棋聖からだった。“藤井効果”で県内でも増えているという小中学生の将棋愛好者も注目しているに違いない一戦。午前10時に始まり、終局は夕方以降の見通しだ。


大観小観 6/21

「今度こそはのリベンジだ」と鈴木英敬知事が歴代連勝記録一位タイをかけて戦う中学3年生棋士・藤井聡太四段の対戦相手、澤田真吾六段にエールを送ったのは鈴鹿市出身だからということだが、「三重県人としては二十八連勝を澤田六段が止めたということになれば」。うまい政策でも思いついたか。

将棋界は早熟の天才、鬼才がひしめく場。二十八連勝が必ずしも大成を保証するものではあるまいが、やはり中学生棋士となった羽生善治王位を筆頭に強豪が集った羽生世代は、それまでの壁をいとも軽々と乗り越えていった。

藤井四段の連勝の初戦が、それまでの最年少プロ棋士記録保持者で「神武以来の天才」とうたわれた加藤一二三九段。優勢に進めたが終盤、巻き返され「素晴らしい才能の持ち主。渋い手とシャープな手の両方を持っている」とたたえたそうだが、かつて中原誠十六世名人が次々にタイトルを獲得していったころ、「大山さん(康晴十五世名人)の全盛期を知らない」と言ったといわれる。名人は確実と言われながら巨星大山の前に何度も跳ね返された苦渋がにじむ。

羽生世代の出現はコンピューター活用時代の到来でもあった。棋譜が効率よく一覧でき、棋力は格段に向上した。今や名人が人工知能に敗れる時代。コンピューターが計算、記憶媒体としてではなく、自身一兆回もの対局を繰り返し、最善手を導くという。人間の棋力にも劇的な変化が出てくる時代かもしれない。

加藤九段は棋譜は紙でしか見なかったという。古武士の風格だが、近代戦の前には消えゆく運命ではあるのだろう。

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国民の目

越山若水 6/21

人間とは何ともずるい生き物である。個人レベルでは心優しく善良なのに、集団社会になると平気で悪さをする。誰も見ていない、他の人もやっているから…と。

それを証明する興味深い実験を英国の動物行動学者、メリッサ・ベイトソンが行っている。その詳細が「モラルの起源」(亀田達也著、岩波新書)に載っている。

お金を払えば自由にコーヒーを飲める機械がある。自主的な代金納入が前提で、ただ飲みする者がいたら運営は厳しい。とはいえ見張りを立てるとコストが大きい。

そこでコーヒールームにこんな仕掛けを施した。ある週はきれいな花の写真を飾り、次の週は人の目の写真を貼りだした。数種類を試したところ、人の目の写真だと代金の回収率が大幅に改善された。

中でも「怖い目」が最も効果的だったという。ベイトソンは「誰かに見られている」「規範を破ると罰則を受ける」と案じる気持ちが、社会規範の逸脱を防いだと分析した。

内閣支持率が急落した安倍晋三首相が、加計(かけ)学園問題など通常国会での強気の答弁を謝罪した。その理由は「他人の目」に恐怖心を覚えたからだろう。

「真摯(しんし)に説明責任を果たす」と低姿勢を示したものの、特定秘密保護法や安全保障関連法の局面も乗り越えた自信か、端々に「安倍1強」のおごりが見え隠れする。独走する政治のブレーキは「国民の目」である。

天気屋

卓上四季 6/21

冷たい飲み物や食べ物が恋しい季節になってきた。食品業界には、天気と嗜好(しこう)品の売り上げに関する法則がある。

ビールは気温が22度を超すと、急激に増える。アイスクリームは気温が高ければ高いほど売れそうだが、30度を上回るとぱたっと落ちる。さっぱりとしたシャーベットや清涼飲料水の方が好まれるからだ。気象予報士の森田正光さんがエッセー「大手町は、なぜ金曜に雨が降るのか」に書いていた。

物を供給する側からすれば、法則は分かっていても気温が変動してから出荷量を調整するのは容易ではない。事前に天候の予測がついていれば対策を講じやすい。日本気象協会が天気予報を使って、需要を予測するサービスを本格的に始めたという。

食品メーカーのミツカンが、協会の配信した体感気温などの予測に基づいて冷やし中華のつゆの生産量を調整したところ、売り上げ予想と実績がほぼ一致した。取り組みが広がれば、仕事の無駄が省けるばかりか、食品ロスが減り、省エネにも役立つはず。

事前に予報で知らされていても、対策が難しい例もある。たとえば鶏は夏に気温が上がると、えさを食べなくなり、産卵が減る。養鶏業者には悩みの種だ。エアコンを備えればいいのかもしれないが、電気代を考えるとどうなのか。

もっとも、売る方が普段悩まされるのは、移り気な人間だったりして。「お天気屋」だけは致し方ない。

世界難民の日

中日春秋 6/20

「子どものあなたにとって戦争とはなんでしたか」と問われて、ある人はこう答えた。「ナイロン製の袋に、私の子ども時代は隠してある。それは、私が難民になったときに、家から持ち出したものすべて。」

二十万人近くが殺され、二百万人以上が難民となったボスニア・ヘルツェゴビナ紛争。その中で子どもたちは、どんな日々を送っていたのか。その証言を集めた『ぼくたちは戦場で育った サラエボ1992-1995』(角田光代訳)には、こんな言葉が並ぶ。

「戦争中に子どもでいるってことは、子どもではいられないってこと」「自分が子どもだって気づく前に、いい思い出も持たない大人になっていた。子どもでいられる時間はやつらに盗まれた」「スナイパーは兄を殺した。ぼくが子どもでいられる時間も。」

そういう思いを抱える子どもたちは、今も増え続けている。国連児童基金(ユニセフ)などによると、世界の子どもの二百人に一人は難民で、一千万人を超えているという。

戦火などで、故郷を追われただけではない。学齢期にある難民のうち半数以上は、学校に行くこともできないでいるという。親と離れて国境を越える未成年が激増して、人身売買業者らの牙にかかっているのではないかと危ぶまれている。

「子ども時代を盗まれている子どもたち」に目を凝らしたい。きょうは「世界難民の日」だ。

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先割れスプーン

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三山春秋 6/19

 昼食でいつものカレー屋さんに行くと、スプーンの先端が三つに割れた先割れスプーンが出てくる。カツカレーのカツを、フォークのように刺せて便利だ。毎日使っていた小学校の給食が懐かしい 。

 県教委に聞くと、今の給食で先割れスプーンを使用している学校は「たぶん無いと思う」。箸の使い方を覚えなくなるとか、犬食いを助長するとか、とかく評判が悪くて給食から姿を消したのだ 。

 だが有用なものは生き残る。沼田市に唯一の工場がある東商化学(本社・東京)は、プラスチック製スプーン、フォークなどの製造で全国トップシェアという。先端をフォーク状にしたフォークスプーン、片側にギザギザを入れたカッター付きスプーンなど、スプーンだけで40種類を作っている 。

 先割れスプーンをさらに進化させ、アウトドアをはじめ多様化した食のニーズに応える。意外なメード・イン・グンマの活躍を知ると、スプーンにふと愛着がわき、楽しく使ってみたくなる 。

 6月は政府提唱の「食育月間」で、毎月19日は「食育の日」。社会全体で子どもの食を考える日だ 。

 給食の質は確かに向上したのだろうが、それ以前に給食費が払えない子どもの貧困・格差がいたたまれない。みんなで先割れスプーンを使ったあの頃と比べ、おいしく食べているのだろうか、楽しくやっているのだろうか。

カフェイン

中日春秋 6/19

『人間喜劇』などのフランス作家、オノレ・ド・バルザックの日課に驚く。こんな具合である。

午後六時に夕食。その後就寝し午前一時に起床。七時間、執筆し午前八時から一時間半、仮眠。午前九時半から午後四時までまた、執筆。午後四時から散歩と風呂。これを続けた。

『天才たちの日課』(メイソン・カリー、フィルムアート社)にあった。ざっと、一日十三時間半の執筆を助けていたのはカフェインで、一説によると一日に五十杯ものコーヒーを飲んでいた。

一時間とて集中して原稿が書けぬ身としては、文豪のまねをしてもっとカフェインをと思わないでもないが、やめておく。日本中毒学会の調査結果によると、カフェインを多量に含む眠気防止薬や「エナジードリンク」などの急性中毒によって緊急搬送される人が増えているそうだ。過去五年間に少なくとも百一人が搬送され、三人が亡くなっている。

看護師さんなどの深夜勤務の人が緊急搬送されるケースもあったと聞けば、眠気ざましにと限度を超えて摂取してしまったか。仕事熱心のあまりであろう、お気の毒である。

カフェインの摂取許容量は定められていないが、海外の目安では成人で一日当たり〇・四グラム(マグカップのコーヒー三杯分)。<一杯のコーヒーから夢の花咲くこともある>。戦前の流行歌。限度を超せば、<夢の花散る>ことだってある。

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ちなみに、登場する161名の一覧は以下の通り。

ウィスタン・ヒュー・オーデン(詩人/「20世紀最大の詩人の1人」)
フランシス・ベーコン(画家)
シモーヌ・ド・ボーヴォワール(作家・哲学者/「第二の性」)
トーマス・ウルフ(小説家/20世紀初期の偉大な小説家の1人)
パトリシア・ハイスミス(小説家/「太陽がいっぱい(リプリー)」など)
フェデリコ・フェリーニ(映画監督/「甘い生活」「道」「8 1/2」など)
イングマール・ベルイマン(映画監督/「沈黙」「野いちご」「処女の泉」など)
モートン・フェルドマン(作曲家・図形楽譜の発案者)
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(作曲家/「交響曲第25番ト短調」「ピアノソナタ第11番(第3楽章 トルコ行進曲)」「フィガロの結婚」「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」など)
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(作曲家/「交響曲第5番 運命」「交響曲第9番」「ピアノソナタ第14番嬰ハ短調 月光」「エリーゼのために」など)
セーレン・キェルケゴール(哲学者/「不安の概念」「死に至る病」など)
ヴォルテール(哲学者)
ベンジャミン・フランクリン(政治家、雷が電気であることを証明した学者)
アンソニー・トロロープ(小説家・郵便職員)
ジェーン・オースティン(小説家/「分別と多感」「高慢と偏見」「エマ」など)
フレデリック・ショパン(作曲家/「華麗なる大円舞曲」「英雄ポロネーズ」「幻想即興曲」など)
ギュスターヴ・フローベール(小説家/「ボヴァリー夫人」「サランボー」など)
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック(画家/「ムーラン・ルージュにて」など)
トーマス・マン(小説家/「魔の山」など)
カール・マルクス(哲学者/「共産党宣言」「資本論」など)
ジークムント・フロイト(精神科医/「夢判断」「精神分析入門」など)
カール・グスタフ・ユング(精神科医、分析心理学を確立)
グスタフ・マーラー(作曲家/「大地の歌」「交響曲第1番ニ長調『巨人』」など)
リヒャルト・シュトラウス(作曲家/「ツァラトゥストラはかく語りき」「ドン・ファン」「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」など)
アンリ・マティス(画家、/「緑の筋のある女:マティス夫人」「ジャズ・サーカス」など)
ジョアン・ミロ(画家/「階段を昇る裸婦」「朝の星」など)
ガートルード・スタイン(著述家/「アリス・B・トクラスの自伝」など)
アーネスト・ヘミングウェイ(小説家/「日はまた昇る」「武器よさらば」「誰がために鐘は鳴る」「老人と海」など)
ヘンリー・ミラー(小説家/「北回帰線」など)
スコット・フィッツジェラルド(小説家/「グレート・ギャツビー(華麗なるギャツビー)」「ラスト・タイクーン」など)
ウィリアム・フォークナー(小説家/「響きと怒り」「八月の光」「アブサロム、アブサロム!」など)
アーサー・ミラー(劇作家/「セールスマンの死」「るつぼ」など)
ベンジャミン・ブリテン(作曲家/「シンプル・シンフォニー」「戦争レクイエム」など)
アン・ビーティー(著述家)
ギュンター・グラス(小説家/「ブリキの太鼓」など)
トム・ストッパード(劇作家/「ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ」、映画「恋に落ちたシェイクスピア」脚本など
村上春樹(小説家/「ノルウェイの森」「海辺のカフカ」「1Q84」など)
トニ・モリスン(小説家/「青い眼が欲しい」「ソロモンの歌」など)
ジョイス・キャロル・オーツ(小説家/「生ける屍」など)
チャック・クローズ(美術家)
フランシーン・プローズ(著述家)
ジョン・クーリッジ・アダムズ(作曲家)
スティーヴ・ライヒ(作曲家)
ニコルソン・ベイカー(小説家)
バラス・スキナー(心理学者、行動分析学の創始者)
マーガレット・ミード(文化人類学)
ジョナサン・エドワーズ(神学者)
サミュエル・ジョンソン(詩人)
ジェイムズ・ボズウェル(著述家)
イマヌエル・カント(哲学者/「純粋理性批判」「実践理性批判」「判断力批判」など)
ウィリアム・ジェームズ(哲学者)
ヘンリー・ジェイムズ(小説家/「ねじの回転」など)
フランツ・カフカ(小説家/「変身」「審判」など)
ジェイムズ・ジョイス(小説家/「ユリシーズ」など)
マルセル・プルースト(小説家/「失われた時を求めて」)
サミュエル・ベケット(小説家/「ゴドーを待ちながら」)
イーゴリ・ストラヴィンスキー(作曲家/「春の祭典」「火の鳥」「ペトルーシュカ」など)
エリック・サティ(作曲家/「ジムノペディ」など)
パブロ・ピカソ(画家/「アヴィニョンの娘たち」「ゲルニカ」など)
ジャン=ポール・サルトル(哲学者/「存在と無」)
T・S・エリオット(詩人/「荒地」「寺院の殺人」)
ドミートリイ・ショスタコーヴィチ(作曲家/「交響曲第5番」など)
ヘンリー・グリーン(作家/「パーティー・ゴーイング」「ラヴィング」など)
アガサ・クリスティ(小説家/「アクロイド殺し」「オリエント急行殺人事件」「ABC殺人事件」「カーテン」など)
サマセット・モーム(小説家/「月と六ペンス」など)
グレアム・グリーン(小説家/「権力と栄光」「第三の男」など)
ジョゼフ・コーネル(芸術家)
シルヴィア・プラス(詩人)
ジョン・チーヴァー(小説家/「泳ぐひと」ほか)
ルイ・アームストロング(ミュージシャン)
ウィリアム・バトラー・イェイツ(詩人)
ウォーレス・スティーブンス(詩人)
キングズリー・エイミス(小説家/「ラッキー・ジム」「地獄の新地図」など)
ウンベルト・エーコ(哲学者/「薔薇の名前」「フーコーの振り子」など)
ウディ・アレン(映画監督/「アニー・ホール」「ミッドナイト・イン・パリ」など)
デヴィッド・リンチ(映画監督/「エレファント・マン」「マルホランド・ドライブ」など)
マヤ・アンジェロウ(詩人)
ジョージ・バランシン(バレエ)
アル・ハーシュフェルド(風刺画家)
トルーマン・カポーティ(小説家/「ティファニーで朝食を」「冷血」など)
リチャード・ライト(小説家/「アンクル・トムの子供たち」「アメリカの息子」「ブラックボーイ」など)
H・L・メンケン(ジャーナリスト)
フィリップ・ラーキン(詩人)
フランク・ロイド・ライト(建築家)
ルイス・I・カーン(建築家)
ジョージ・ガーシュウィン(作曲家/「ポーギーとベス」「パリのアメリカ人」など)
ジョセフ・ヘラー(作家/「キャッチ=22」など)
ジェームス・ディッキー(詩人)
ニコラ・テスラ(電気技師)
グレン・グールド(ピアニスト)
ルイーズ・ブルジョワ(彫刻家)
チェスター・ハイムズ(小説家)
フラナリー・オコナー(小説家)
ウィリアム・スタイロン(小説家/「ソフィーの選択」など)
フィリップ・ロス(小説家/「さようならコロンバス」「ポートノイの不満」など)
P・G・ウッドハウス(小説家)
エディス・シットウェル(詩人)
トマス・ホッブズ(哲学者/「リヴァイアサン」など)
ジョン・ミルトン(詩人/「失楽園」など)
ルネ・デカルト(哲学者/「方法序説」など。『我思う、ゆえに我あり』が有名)
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(詩人/「若きウェルテルの悩み」「ファウスト」)
フリードリヒ・フォン・シラー(詩人)
フランツ・シューベルト(作曲家/「野ばら」「魔王」「ます」など)
フランツ・リスト(作曲家/「パガニーニによる大練習曲 第3番嬰ト短調 ラ・カンパネラ」「ハンガリー狂詩曲」など)
ジョルジュ・サンド(小説家)
オノレ・ド・バルザック(小説家/「ゴリオ爺さん」「谷間のゆり」など)
ヴィクトル・ユーゴー(小説家/「レ・ミゼラブル」など)
チャールズ・ディケンズ(小説家/「クリスマス・キャロル」「オリバー・ツイスト」など)
チャールズ・ダーウィン(科学者/「種の起源」「ビーグル号航海記」など)
ハーマン・メルヴィル(小説家/「白鯨」など)
ナサニエル・ホーソーン(小説家/「緋文字」など)
レフ・トルストイ(小説家/「戦争と平和」「アンナ・カレーニナ」など)
ピョートル・チャイコフスキー(作曲家/「白鳥の湖」「スラヴ行進曲」「交響曲第6番 悲愴」「ピアノ協奏曲第1番変ロ短調」)
マーク・トウェイン(小説家/「トム・ソーヤーの冒険」など)
アレクサンダー・グラハム・ベル(科学者/電話や金属探知機の発明者)
フィンセント・ファン・ゴッホ(画家/「ひまわり」「タンギー爺さん」など)
N・C・ワイエス(画家)
ジョージア・オキーフ(画家)
セルゲイ・ラフマニノフ(作曲家/「ピアノ協奏曲第2番ハ短調」など)
ウラジーミル・ナボコフ(小説家/「ロリータ」など)
バルテュス(画家)
ル・コルビュジエ(建築家)
バックミンスター・フラー(思想家)
ポール・エルデシュ(数学者)
アンディ・ウォーホル(画家、ポップアートの巨匠)
エドワード・アビー(作家)
V・S・プリチェット(著述家)
エドマンド・ウィルソン(著述家)
ジョン・アップダイク(作家/「走れウサギ」など)
アルベルト・アインシュタイン(科学者/「一般相対性理論」や「特殊相対性理論」で知られる)
ライマン・フランク・ボーム(児童文学作家/「オズの魔法使い」など)
クヌート・ハムスン(小説家)
ウィラ・キャザー(小説家)
アイン・ランド(小説家)
ジョージ・オーウェル(小説家/「1984年」「動物農場」など)
ジェイムズ・T・ファレル(小説家)
ジャクソン・ポロック(画家)
カーソン・マッカラーズ(作家)
ウィレム・デ・クーニング(画家)
ジーン・スタッフォード(作家)
ドナルド・バーセルミ(小説家)
アリス・マンロー(小説家/「イラクサ」「林檎の木の下で」など)
ジャージ・コジンスキー(小説家)
アイザック・アシモフ(小説家/「ファウンデーション」「われはロボット」「鋼鉄都市」など)
オリバー・サックス(神経学者/「レナードの朝」など)
アン・ライス(小説家/「夜明けのヴァンパイア(インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア)」など)
チャールズ・M・シュルツ(漫画家/「ピーナッツ」など)
ウィリアム・H・ガス(小説家)
デヴィッド・フォスター・ウォレス(漫画家)
マリーナ・アブラモヴィッチ(アーティスト)
トワイラ・サープ(ダンサー)
スティーヴン・キング(小説家/「シャイニング」「キャリー」「ミザリー」「ザ・スタンド」など)
マリリン・ロビンソン(小説家)
ソール・ベロー(小説家)
ゲルハルト・リヒター(画家)
ジョナサン・フランゼン(小説家)
マイラ・カルマン(画家)
ジョルジュ・シムノン(小説家)
スティーヴン・ジェイ・グールド(古生物学者)
バーナード・マラマッド(小説家)

父の日

南風録 6/18

 以前この欄で紹介したが、大相撲の大関に昇進した高安は入門当時、何度も自宅に逃げ帰った。部屋の人間関係に悩み、赤信号で止まった車から飛び出したこともあった。

 「逃げると負け癖がつく」。根気強く部屋に連れ戻したのは父親である。何と弟子たちの前で土下座してわびたのだ。父の覚悟が心に染みたのだろう。高安はそれから稽古に励み、ぐんぐん力をつけた。成長の陰に父子の絆があった。

 女子バレーボールの日本代表として活躍した鹿児島市出身の迫田さおり選手が先月、現役を引退した。右肩の痛みに苦しんだ時期を乗り越えて、五輪に連続出場を果たした。「娘に感動と夢をもらった」と話すのは父親の保行さんである。

 迫田選手は滞空時間の長い力強いスパイクが持ち味だ。コートに立たなくても、ベンチから笑顔でチームを鼓舞する姿が印象的だった。父親にとっても誇らしい娘に違いない。

 ふだん2人の会話は多くはないが、互いの心は通い合っているようだ。迫田選手は父の誕生日などに連絡を欠かさないらしい。引退後はゆっくり語り合う時間もあるかもしれない。

 きょうは父の日。NASAの宇宙飛行士ジェリー・リネンジャーさんは、宇宙ステーションから幼い息子に電子メールを送り続けたと著書に記す。「パパはおまえを上からいつも見守っている」。父と子にはさまざまな愛情表現の形がある。

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有明抄 6/18

 「お、きょうは父の日かぁ」-あまりの無関心ぶりに、さりげなく家族にアピールするお父さんも少なくないのでは。母の日はもちろん、こどもの日や敬老の日と比べても、圧倒的に影が薄い気がするが、ひがみ根性というわけでもなさそうだ。

日本生命保険のアンケート調査によると、父の日にプレゼントを贈る人は4割どまり。母の日には8割近い人がプレゼントを準備するというから、半分しかいない。プレゼントの予算が約6千円というのは意外に高額に思えるが、実は去年より800円も減ったのだとか。

佐賀市出身のお笑いタレントはなわさんが、今年の「ベストファーザー」に選ばれた。子どもたちとの仲むつまじい姿をテレビで見かける。ヒット中の新曲「お義父さん」は、はなわさん夫妻の実体験がベース。妻がまだ幼いころに家を出た義父へ語りかける形で、妻への感謝を歌う。佐賀市で開いたライブでは、涙ぐみながら女性ファンらが聞き入っていた。

ベストファーザー受賞時のはなわさんのコメントも好感が持てる。「この光栄な賞を頂けたのも家族のおかげです。家族みんなでもらった賞だと思っています」-。実に謙虚でさわやかである。理想の父にぴったり。

あ、はなわさんみたいに日頃の感謝を伝えてないから、わが家は「父の日」が盛り上がらないのかぁ…。

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くろしお 6/18

 梶原一騎原作の野球漫画「巨人の星」の一場面だ。上流家庭の子弟が通う高校の入試面接で主人公の飛雄馬が父親の職業を問われてこう答える。日本一の日雇い労働者、と。

 飛雄馬は昼夜分かたず工事現場でつるはしをふるって進学費用を工面してくれた父の一徹を誇りに思い、働く姿を脳裏に描きつつ「とうちゃん」とつぶやく。長尺ものの漫画の中で特別、印象に残るのは汗水たらして働く父親への感謝が凝縮された場面だからだ。

 父親をどう呼ぶかは当然ながら時代や地域によって違い、変化してきた。例えば近世後期の江戸では中層以上の武家、町人の間では「おとっつぁん」が使われ、一般庶民は時代劇「子連れ狼」でよく知られる「ちゃん」が一般的だった。

 「おとうさん」という呼称は明治36年の第一期国定読本「尋常小学読本-二」に「タローハ、イマ、アサノ アイサツヲ シテヰマス。

 オトウサンオハヤウゴザイマス」という例文が掲載されたことがきっかけになり全国へ広がった(神永曉著「悩ましい国語辞典」)。

 きょうは父の日。母の日に隠れて目立たないとか、いまいち話題にならないとされるが街を歩けば贈り物用セールがあちこちで展開されている。きのうは宮崎市内のデパート地階の酒売り場で何を買うか思案中の母娘らしい二人を見た。

 物を贈るという行為もいいが大切なのは心のこもった言葉だろう。とうちゃんでもおとっつあんでもおとうさんでもパパでもいい。その上に「日本一の」をのせて感謝の気持ちを伝えればぐっときて、疲れも吹っ飛ぶことまちがいなしだ。

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第10話

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春秋 6/18

 保険会社の支店長だった向田邦子さんの父は客を連れて帰ることが多かった。客が脱いだ靴をそろえるのは、小学生のころから向田さんの役目。そろえ方が悪いと父に叱られた。

きちょうめんな父は家族の靴の脱ぎ方、そろえ方にもひどくうるさかった。それなのに自分は靴をおっぽり出すように脱ぎ散らかした。父のいない時に文句を言うと、母がその訳を教えてくれた。

父は母親の手一つで育てられ、親戚や知人の家に間借りして暮らした。履物はそろえて隅に脱ぐようにと言われて大きくなった。母と結婚した直後に「出世して一軒家に住み、玄関の真ん中に威張って靴を脱ぎたいものだ」と言ったそうだ。

貧しい石工だった石牟礼道子さんの父は、牛小屋の廃材で家を建てた。最初の杭(くい)を打つ時、地面が水平にならされているかどうか調べながら小学生の娘に言った。「家だけじゃなか、なんによらず、基礎打ちというものが大切ぞ。物事の基礎の、最初の杭をどこに据えるか、どのように打つか。世界の根本とおんなじぞ。おろそかに据えれば、一切は成り立たん。」

廃屋のようなこの家に、水俣病支援の人たちが30年近く、何百人も泊まることになる。父の言葉は水俣病と向き合う石牟礼さんの「根本」にもなったようだ。

向田さんの「父の詫(わ)び状」(文春文庫)、石牟礼さんの「詩文コレクション6 父」(藤原書店)から引いた。きょうは父の日。


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水鉄砲 6/18

 18日の父の日を前に、本紙の「パパママひろば」に子どもたちが描いたお父さんの絵がカラーで紹介された。本紙折り込みのフリーペーパーには約30人の子どもたちが写真入りで登場、日ごろは伝えにくい父親への感謝の気持ちを話してくれた。

 それにしても、母の日に比べて父の日は影が薄い。日本生命のアンケートによると、父の日にプレゼントを贈る人は回答者の42・7%で、調査を始めた2013年以降4年連続で減少した。母の日にプレゼントを贈る人は同様の調査で76・2%いるからその差は大きい。家庭内でのお父さんの地位はやはり低下しているのだろうか。

 プレゼントの内容をみると「贈るもの」と「欲しいもの」のトップはいずれも食事・グルメ。これは予想通りだったが、興味深いのは「手紙・メール・絵」についての回答結果。贈る予定の順位は8位、欲しいものの順位は4位だが「もらって一番うれしかったものは何ですか」という問いでは1位になっている。物よりも気持ちの方が心に響くのだろう。

 わが家では毎年、東京で暮らしている子どもたちから銘酒が届く。居間の壁には長男が幼稚園で描いた輪郭だけの私の似顔絵がいまも貼ったままになっている。あらためて眺めると、その一角だけが30年、時間が止まっているように感じる。

 紙面に掲載されたイラストや写真も、時を越えて家族の記念になるのだろうか。そうであればうれしい。


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正平調 /6/18


父が交通事故に遭った。遺体を確認し、帰宅した母の手に遺品が三つ。ベルト、結婚指輪、そして秒針だけが動いている腕時計。母は泣きながら「父さん、本当に死んでた」と言った。

たとえ大金持ちでも買えないものがある。深い悲しみの中で、少女はそう感じたそうだ。それは命。ゲームのように人は生き返ったりはしない。だから、と思う。「わたしは、父の分をいきていくときめました。」

神戸などで遺児の支援を続けるレインボーハウスの冊子「こころに虹がかかるまで」でこんな内容の作文を読む。作者は小学3年生だ。この先、「父の分を」という決意が道を照らすともしびになるのだろう。

きょうは「父の日」である。日本生命の調査では贈り物をする人が減ってきたという。贈り物事情も気にはなるが、ふと立ち止まり、父のことを思う一日であってほしい。

〈父さんはこの世のどこを探してもいない父の日パートに励む〉身野佳奈。神戸新聞文芸の2016年最優秀作の一つである。勤め先に巣を作った親ツバメが、餌をとっては子に与える。他界した父と重なり、作者はその不在をあらためて感じている。

ツバメが街を舞う季節である。「父の分を」と誓ったあの少女も、飛ぶツバメを見上げているかもしれない。

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越山若水 6/18

イラストレーターの益田ミリさんにとって父親は「わかりやすくて、わかりにくい」存在(「オトーさんという男」幻冬舎文庫)。そして「ちょっと面倒くさい」

改まった場に出掛け、他人の靴を履いて帰ってくる。誰かが迷惑しているのに「そんなん気にしてへんもん」。いや、それは気にしてくださいよ、と益田さん。

家事は一切しないはずがあるとき自分が晩ご飯を作ると言いだした。困ったのは益田さん姉妹だ。短気なオトーさんは少しでも思い通りにならないと怒りだすから。

外出した母の代わりに、必死に働いた。ジャガイモを牛乳で煮る料理は割合、おいしくできた。が、益田さんたちは手伝いに疲れ、母も後片付けに疲れ、父だけが上機嫌だった。

そうそう、こうなるから嫌なのよという声が聞こえてくる。先ごろ内閣府が始めた「おとう飯(はん)」キャンペーンである。もっと男性も料理をという狙いだが案外、評判が良くない。

立派な料理でなくても「おとう飯」ならいい、とキャッチコピーにある。だったら「おかあ飯」は立派じゃないといけないの? との声も上がる。

世はいまだに男性優位、という指摘だろう。それを認めつつわが身を振り返れば、男は不器用でいけない。益田さんの父上も、大変な娘思いなのに伝えるのが苦手。でも、そこは大目に見てもらえないかと思う。「父の日」に免じて。

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中日春秋 6/18

 作家、池波正太郎の両親は正太郎が七歳のときに離婚した。十四歳のある日、その父親とばったり出会った

「お父さん」と声をかけると、父親は泣きだしそうな顔になって「おまえさんはだれだい。おまえさんなんか知りませんよ」。少年はさぞや傷ついたことだろう。「勝手にしろ」と怒鳴りつけ家へ帰った。後年、父親に「あの時なんでしらばっくれたのか」と聞いた。「おまえさんに忘れてもらいたいと」

離婚は父親の事業の失敗が原因。せがれのことを思うがあまり自分のことなんか忘れてほしいとがまんしていたか。そのまま人情芝居になる場面である。父の日である。池波親子を持ち出さずとも、父と子の愛はどうも、すれ違いやすいようだ。

コピーライターの岩崎俊一さんの作品に父と子、とりわけ息子との関係をぴたりと表現したこんな作品がある。<絶対に好きだと言い合わない愛があるなら、それは、父と息子だ>。母親に比較し、父親は率直に愛情を表現するのが不得意らしく、子どもは子どもでそういう父親には甘えにくい。

最近のアンケート結果によると父の日にプレゼントを贈る人の割合は約四割。母の日の約八割と比べ、大きな開きがあるそうだ。

これは愛情の開きではなく、父親への愛情表現の難しさの問題と信じる。父の日の食卓、日本中で<好きだと言い合わない愛>がモジモジしている。

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編集日記 6/18

 〈父帰宅一人一人と居間を去り〉。過去のサラリーマン川柳で見つけ、わが身を振り返ってどきっとした。幼い頃はなついていた娘たちも、思春期を過ぎて態度が素っ気なくなった。子離れ、親離れの時期なのだと分かっていても寂しさがよぎる

 そんな娘たちでもプレゼントをくれる時がある。小遣いを出し合って靴や財布を買ってくれたり、おいしい料理を振る舞ってくれる。普段と扱いの落差が大きいせいか、思わず胸が熱くなる。

 きょうは、そんなお父さんも多いのではないだろうか。日本生命保険のアンケート調査で、父の日のプレゼントに「贈るもの」と「欲しいもの」は、ともに食事・グルメが最多だった。家族で食卓を囲み、だんらんを楽しむ風景が目に浮かぶようだ。

 父親が最もうれしかった贈り物は、家族からの手紙や絵という答えがトップだった。ものがあふれる時代だからこそ手紙が持つぬくもりに心が癒やされるという人が多いのだろう。

 お父さんはいつも家族の生活を背中に背負い汗を流している。もし居間でテレビを見ている背中に哀愁が漂っていたら、きょうは「いつもありがとう」と声を掛けてみてはいかがだろう。決して催促するわけではないけれど。

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あぶくま抄 6/28

 男性が住んでいるアパートの隣室に、出産を終えた母親が赤ちゃんを連れて戻ってくる。泣き声はうるさくはないかと尋ねられた男性が答える。「知ってる赤ちゃんは、いくら泣いてもうるさくないよ」。吉田修一さんの小説「横道世之介」の一場面だ。

 県内を列車で移動中、近くの席の赤ちゃんが突然大声で泣きだし面食らった経験がある。ところが同じ車両に乗り合わせた年配の男性グループは泰然自若とした様子だった。10分ほども泣いただろうか、母親に抱かれた赤ちゃんが下車し静寂が再び訪れると男性の1人がつぶやいた。「やんちゃだなあ」。グループ全員が破顔した。

 男性たちにとって泣きやまなかった赤ちゃんは見知った存在ではなかっただろう。泣いてむずかるわが子をあやした遠い昔に、思いを巡らせていたのかもしれない。子どもを持つ身となって以来、何度もよみがえる記憶である。

 「冷蔵庫ひらく妻子のものばかり」(辻田克巳「昼寝」)。今日は父の日。母の日に比べ世間の認知度が低いことは否定すべくもないだろう。それでも父親にとって数少ない表舞台となる。わが子の産声が福音に思えたあの時を、もう一度かみしめてみようか。

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風土計 6/18

 一関市の広報誌に父の日の由来が載っていた。米国で始まった記念日で、苦労して6人きょうだいを育ててくれた父に感謝の気持ちを表すためある女性が教会に働きかけた。

日本に伝わったのは1953年ごろだ。6月第3日曜日なのは日本、米国などで、ドイツは復活祭の39日後の木曜日(早ければ4月30日、遅ければ6月2日)、ロシアは「祖国防衛の日」の2月23日といった具合に国によって違う。

先ごろ同僚の父親と話をした。別れ際に「息子のことをくれぐれもよろしく」と頭を下げられ恐縮した。逆の立場だったら自分も同じことをしただろう。男親の愛情表現は不器用なものだ。

親とはありがたいものだと思った。もっとも子からしたら「余計なお世話」なのかもしれないが。一人前になったようでも、親にとって子どもはいつまでたっても子どもなのだ。

同市出身で2年前に亡くなった作家内海隆一郎さんの随筆集「父から娘に贈る『幸福論』」(主婦と生活社)には、子どもの幸せを願う気持ちがあふれている。執筆理由は「わたし自身いつ娘を遺(のこ)して去っていくことになるかもしれないからだ」という。

「親は子より先に逝く定め」ということだろう。高価な贈り物などしなくても、元気に暮らしている姿を見せること、親より長生きすることが一番の親孝行なのかもしれない。

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天鐘(6月18日)

 何かと他県の後塵(こうじん)を拝すことの多い青森県だが、東北6県で初めて導入したものもある。戦後に米国発祥の習慣として日本へ伝わり、少しずつ知られるようになった「父の日」もその一つ。

県教委と婦人団体連合会が毎年6月の第3日曜日を父の日と定め、父親に感謝する行事を行うと決めた。1957年のことで、その年に県議会議事堂で行われた第1回父の日大会を小紙は大きく報じている。

記念作文入賞者の小中学生が約200人の出席者を前に作文を朗読。父親代表の知事や議長ら4人に感謝の花束が贈られ、子どもたちが歌や踊りを披露した。会場の父親たちは「気をよくした様子」だったという。

父の日は100年以上前に米国の女性の提唱で誕生した。男手一つで6人の子どもを育てた自分の父親に感謝し、「母の日があるなら、父の日も」と訴えた。それが共感を呼び、時の大統領まで動かした。

日本でも父の日は母の日に比べて普及に時間がかかった。今でも母の日ほど一般的ではない。父親たちが「母の日は1年で1日だけ。残る364日は父の日だ」と強がったところで、負け惜しみにしか聞こえない。

きょうは父の日。多くの家庭で父親をねぎらう言葉が聞かれるだろう。日ごろ存在感が薄くなりがちな父親にはうれしい日だ。同時に、父親が自らの役割と責任を果たしているのか、胸に手を当てて考える特別な日でもある。


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卓上四季 6/18

 きょう6月の第3日曜日は「父の日」だ。米国人女性の提唱で始まって1世紀余り。

父親にプレゼントを贈る人は4年連続で減っているそうだが、俳句の季語にもなっており、日本でもそれなりに定着してきたのだろう。そこで小学館「こども歳時記」で見つけた1句を。<父の日も/帰りがおそい/お父さん>。自分たち家族のために日夜、身を粉にして働く父親を思う心情が泣かせる。

政府は「働き方改革」の柱に長時間労働の是正を掲げる。父と子の触れ合う時間が少ないなんて、どう考えてもおかしい。企業と知恵を出し合って、早く実現してもらいたい。

「働き方改革」でもう一つ取り上げてもらいたいのが、単身赴任である。転勤辞令を受けても、教育の問題や親の介護など、さまざまな事情から家族一緒に任地に赴けないケースが増えているようだ。

「単身赴任が終わってやっと自宅に戻ることができると喜んだら、すでに子どもが巣立っていた」。以前、そんな嘆き節を聞いたことがある。転勤のない地域採用なども一部企業で始まったが、まだ手探り状態だ。家族と離れて暮らし仕事の能率が上がるとは到底、思えない。もちろん、人によって違うだろうが。

キリンビールが今年1月まとめた調査結果では、お父さんが初詣でお願いすることのトップは「子どもについて」だったという。家族はそろって暮らす。やはり自然である。

雨の語り口

南風録 6/17

 雨は雄弁な語り手だ。エッセイストの三宮麻由子さんが「雨の日の楽しみ」という一文を書いている。幼い時に視力を失い、音を聞き分ける感性は豊かである。

 晴れの日は無愛想なトタン屋根や路肩の空き缶が、雨粒があたると楽器になり、音を紡いで街の輪郭を浮かび上がらせる。特に梅雨のまっすぐな雨は細やかに語ってくれるという。降り方によっていろいろな音色を奏でると思えば、じめじめした季節も楽しく過ごせそうだ。

 だが、雨の語り口がいつも耳に心地よいとは限らない。気象庁が示す「雨の強さと降り方」によれば、時間50ミリを超えると滝のようなごう音が響く。車を運転中に激しい水しぶきで目の前が白っぽくなり、立ち往生した経験を持つ人もいるだろう。

 大隅半島は昨年の台風上陸で時間150ミリという記録的な大雨が降った地域もあった。雨音が大きくて、防災無線を聞き取れなかった住民もいた。この「降り方」は、息苦しいような圧迫や恐怖を感じるレベルだ。想像するだけで災害の不安にかられる。

 土石流などの大雨災害には、前兆現象が生じる。地鳴りなど聞き慣れない音が耳に入ることもある。過去の災害の貴重な教訓に違いない。

 この夏も多雨の予報が出ている。大隅には台風による流木や土砂が片付いていない河川もあり、少しの雨でも警戒は怠れない。雨の語り口に、じっと耳を澄ませたい。


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途中に信号が変わるのを待って
いた。頭上の傘に大粒の雨が降り注いでいる。あんまりう
るさく落ちてくるので、ふと、傘の天井あたりに内側から
掌をあててみた。 形からいうと手で傘を支えたような格
好である。そんなことをしたところで、雨が食い止められ
るはずもない。ところがそのとき、私は何か、とても不思
議な感覚を覚えた。掌に大きな丸いものがひっきりなしに
落ちてくる。まるで小人が掌の上で踊っているかのようだ
った。あるいは妖精たちが宝石をばらまいているとでもい
ったほういいかもしれない。
「雨粒だ」
その一瞬前まで、重苦しい音の圧力となって私の頭にのし
かかっていた雨が、突然、無邪気でかわいらしい粒々に姿
を変えて、掌の上で楽しそうに飛び跳ねている。それはま
さに、空が魔法の箱となって、恐ろしい雨をえもいわれぬ
滴の精に変身させた瞬間だった。  
(「雨の日の楽しみ」より)

4歳の時一夜にして視力を失い、<sceneless>(全盲) に
なったという三宮さんのエッセイを読むと、三宮さんは本
当によく見ているのだと、驚くばかりである。目の不自由
な方というのは、実は三宮さんのことではなくて、目に頼
って、ものを見ていない私たちのことだろう。

三宮さんは全国さまざまな所で講演をしている。中でも
学校で生徒を前に話をして、講演の後の質疑応答という
のを、楽しみにしているという。
あるとき三宮さんは一人の高校生から「もし、目が見える
ようになるといわれたら、晴眼者に戻りたいと思いますか」
と質問された。 大人には遠慮があって聞けない質問でも
晴眼者なら一度は聞きたい質問だろうと思っていたので、
とうとうこの質問が来た、と思って、三宮さんは即座に戻
りたいとは答えられなかったという。

会場はシーンと水を打ったように静まり返り、私が口を開
くのを待っている。私は決心すると、自分の深いところか
ら出てくるような声に心を預けて答えた。
「たしかに、目が見えたら、見てみたいものがたくさんあ
ります。さまざまな自然の姿や大好きな鳥たち、私を育ん
でくださる方々のお顔。でも反対に、たとえ見えるように
なれないと宣告されたとしても、かまわない気がします。
いつも見えるようになりたいと思っていなければいられ
ない人生より、見えなくて不便だけれど、これで十分幸せ
だっていえる人生のほうが、本当の意味で幸せでないかと
思うのです。いかがでしょう」
すると、その言葉が終わらないうちに、満場の拍手をいた
だいた。(「講演こぼれ話」より)

タワーリング・インフェルノ

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春秋 6/17

 超高層ビルには住みたくない。この映画を見た時、子供心にそう思った。1974年の「タワーリング・インフェルノ」。超高層ビル火災を描いたパニック映画だ

米サンフランシスコに完成した138階建ての超高層ビルで落成式のさなかに火災が起きる。電気系統から生じた小さな火は、あっという間に巨大な炎となってビルを包み込んだ。出口を求めて逃げ惑う人々。決死の救出作業を続ける消防隊員…。

火災の原因は経費を削るために行われた電気系統の手抜き工事だった。ビルの安全性を過信するオーナーが落成式の中止を渋ったことで避難が遅れ、大惨事となった。

タワーリング・インフェルノは「そびえ立つ地獄」という意味だ。ビルが炎に包まれるニュースの映像に、古い映画の題名が胸をよぎった。ロンドンで起きた24階建て高層住宅の火災。約120世帯が入居し、数百人が建物内にいたという。

住民が眠りに就いた未明の出火。窓辺で助けを求める声。炎に追われて飛び降りる人。この子だけは、と10階から赤子を投げた母もいた、と。まさに地獄だ。

くしくも、建物は映画が公開された74年の建造。老朽化対策は施されていたか。火災報知機やスプリンクラーが作動しなかったという証言も。住民らは以前から防火体制の不備を訴えていた。超高層ビルが象徴する人のおごりや油断、利益優先の安全軽視-。映画の警鐘は今なお重く響く。