コラムの記事 (1/128)

親の欲目

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内容紹介
「あいのり」から「わんこそば」まで、1155項目 食す人も、打つ人も、必携!
蕎麦の歴史と文化、調理法、栄養、習俗、諺、隠語、方言――あらゆる知見を集成した決定版<読む事典>

故・司馬遼太郎が「よき江戸時代人の末裔」と称賛した市井の研究者によって体系化された、「蕎麦」に関する膨大な知見。江戸時代の文芸や大衆文化に登場する蕎麦、全国各地に根付いたさまざまな食し方、植物としてのソバと製粉の過程、蕎麦打ちの用語、そば店の隠語、蕎麦をめぐる史跡・習俗・諺など、あらゆる資料を博捜し、探究した1155項目。

そば店の屋号に多い「庵」とは?
隠語で「筏」「抜き」「山入り」「りんだ」とは?
蕎麦のことわざ「慳貪屋の冷や飯」「紺屋の明後日 蕎麦屋の只今」「蕎麦種三角 絵描きは五岳」「蕎麦で首をくくる」とは?
「コロッケ蕎麦」「カレー南蛮」の登場はいつ、どこで?
新潟の「蕎麦犬」、長野の「蠅蕎麦」、山形の「板蕎麦」、高知の「蕎麦すべり」とは?
そば店の「通し言葉」で、「かけまじり七枚もり」「きんで願います」「岡で天ぷら」とは?

※本書の原本は、1999年、柴田書店より刊行されました。

内容(「BOOK」データベースより)
故・司馬遼太郎が「よき江戸時代人の末裔」と称賛した市井の研究者によって体系化された、「蕎麦」に関する膨大な知見。江戸時代の文芸や大衆文化に登場する蕎麦、全国各地に根付いたさまざまな食し方、植物としてのソバと製粉の過程、蕎麦打ちの用語、そば店の隠語、蕎麦をめぐる史跡・習俗・諺など、あらゆる資料を博捜し、探究した一一五五項目。

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「親ばかちゃんりん、そば屋の風鈴」

そば屋の風鈴と親ばかの関係、そのカギは夜鳴きそば屋にアリ。
「親ばかちゃんりん」という言葉を時々耳にしますが、これは「親ばかちゃんりん、そば屋の風鈴」と続くきまり文句で、盲目的に子供をかわいがる親の様子を揶揄した言葉。ではなぜ「親ばか」=「そば屋の風鈴」なのでしょう。屋台のそば屋がたくさん登場した江戸の頃、衛生的でタネモノを加えたそば屋がかけそば一辺倒で不衛生な「夜鷹そば」と混同されぬよう屋台の四隅に風鈴をぶらさげ「風鈴そば」として売り出しました。季節はずれに冬でも鳴っているこの風鈴のとんちんかんな様子が親ばかと同じであると表現されたのです。ちなみに当時、風鈴そばは売り声なしに風鈴の音だけでお客を集めていました。騒音などとは無縁な静かな時代に響きわたるそば屋の清新な風鈴の音・・・現代によみがえって欲しいものの一つであります。

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中日春秋 8/23

「あたりき車力車引き」「言わぬが花の吉野山」「見上げたもんだよ屋根屋のふんどし」。言葉遊びの「無駄口」。一種の語呂合わせで、何かの一言に語呂の良い言葉を加え、おもしろさや威勢の良さをまぶす。映画の寅さんがよく使っていたが、最近はあまり聞かれない。

「親ばかちゃんりんそば屋の風鈴」。親の欲目や過保護を冷やかす、この無駄口はまだ使われている方だろう。『蕎麦の事典』によると宝暦(一七五一~六四年)ごろ、江戸の町に屋台に風鈴をぶら下げたそば屋が登場したとあるが、これとの関係か。

「親ばか」も控えめな風鈴の音ほどなら笑いの種にもなる。されど、ここまでくると親ばかの親とばかの順をあべこべにしたくもなる。山梨県山梨市の職員不正採用事件である。

中学校長が自分の息子を市役所に採用してもらおうと当時の市長(収賄容疑で逮捕)に現金八十万円を渡したとして贈賄の容疑で逮捕された。

子どもを等しく扱うべき立場を忘れ、わが子ばかりはと裏口採用を頼む校長とそれを請け負う市長。古い社会派ドラマも顔を赤らめる展開である。これが二十一世紀の日本とは、頭を抱える。

いたたまれないのは採用された息子だろう。息子の将来を心配したのかもしれないが、とどのつまりが息子を傷つけている。その「あたりき」がなぜ分からなかったか。風鈴の音が寂しく聞こえる。

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【地口:付け足し言葉】

●字典
あたりき車力よ車引き(あたりき しゃりきよ くるまひき)=「あたりまえ」の職人言葉で、車力と続けて、それは車曳き者のことだと説明合わせ。
蟻が鯛なら芋虫ゃ鯨(ありがたいなら いもむしゃくじら)=「ありがたい」の「あり」を蟻に、「たい」を鯛にかけたしゃれ。この後に「百足(むかで)汽車なら蠅(はえ)が鳥」と続く。「蟻が十なら芋虫や二十、蛇は二十五で嫁に行く」と同形の交ぜっ返しも。
いやじゃ有馬の水天宮(いやじゃありまの すいてんぐう)=「いやじゃありませんか」+「有馬の水天宮」(江戸の水天宮は久留米藩主有馬家の藩邸内にあった)
嘘を築地の御門跡(うそをつきじの ごもんせき)=「うそをつく」+「築地門跡 (「築地の御門跡」は築地本願寺のこと)
裏山椎の木山椒の木(うらやましいのき さんしょのき)=うらやましいという言葉遊び。
恐れ入谷の鬼子母人(おそれいりやの きしぼじん)=「恐れ入りやした」の「いりや」を地名の「入谷」に掛け、同地にある「鬼子母神」と続けたもの。「恐れ入りました」をしゃれていう語。
おっと合点承知之助(おっとがってん しょうちのすけ) =合点だ、承知した、という語を二つ重ねて人名のようにしたごろ合わせのしゃれ。
驚き桃の木山椒の木(おどろき もものき さんしょのき) =「驚き」の「き」に「木」をかけた語呂(ごろ)合わせ。たいそう驚いたの意。
その手は桑名の焼き蛤(そのてはくわなの やきはまぐり)=「その手は喰わない」+「桑名の(名物の)焼き蛤」。いくらうまいことを言っても、そんなことぐらいではひっかからないということ。
何か用か九日十日(なにかようか ここのかとうか)=何か用か?と七日八日をもじったもの。
びっくり下谷の広徳寺 (びっくりしたやの こうとくじ) =広徳寺は、もともと上野下谷にあって、その壮大さから「びっくりした」の表現言葉(現在は練馬区桜台に移転)
何だ神田の大明神(なんだかんだの だいみょうじん) =何だ「かんだ」と神田をもじって後は神田にある稲荷神社の名前を付けたした。
会いに北野の天満宮(あいにきたのの てんまんぐう)= 会いに「来たの」と「北野」+「天満宮」
とんだ所へ北村大膳(とんだところへ きたむらだいぜん)=「とんだ所へ来た」の「きた」に「北村」の「きた」を掛けて続けた言葉遊び。
とんだ目に太田道灌(とんだめに おおたどうかん)=「とんだ目に遭うた」の「おうた」に「太田」を掛けて続けた言葉遊び。
腹が空いて北山時雨(はらがすいて きたやましぐれ)=「北」を「来た」に掛けて、腹が空いてきたことをいう洒落。

●有名な文句をもじったもの
「舌切り雀」をもじって、「着たきり娘」
「いずくも同じ秋の夕暮れ」をもじって「水汲む親父秋の夕暮れ」
「お前百までわしゃ九十九まで」をもじって「お前掃くまでわしゃ屑熊手」
「しづ心無く花の散るらむ」をもじって「しづ心無く髪の散るらむ」
「沖の暗いのに白帆が見える」をもじって「年の若いのに白髪が見える」

●韻を踏むことによってリズムをつけるだけで、特に意味のないもの
あたりき車力、けつの穴ブリキ
嘘を筑紫(つくし)」
美味かった(馬勝った)、牛負けた
美味しかった(大石勝った)、吉良負けた
驚き桃の木山椒(さんしょ)の木
お茶の子さいさい河童の屁
おっかさんの落下傘
いないないばあさん
すいませんねん 亀は万年
ちんぷんかんぷん猫の糞
敵もさるもの引っ掻くもの
結構毛だらけ猫灰だらけ、けつのまわりは糞だらけ→映画「男はつらいよ」の寅さんの的屋のセリフ(啖呵売)で有名。
何か用か(七日八日)九日十日
日光、結構、もう結構
言わぬが花の吉野山
参ったさん、成田山
真っ平御免素麺冷や素麺
見上げたもんだよ屋根屋のふんどし
大したもんだよマレーシア→タイの南(下)にマレーシアが位置しているため。
I'm sorry ヒゲソリー、髭を剃るならカミソリー
何のこっちゃ、抹茶に紅茶
草加、越谷、千住の先よ
願ったり叶ったり、晴れたり曇ったり
しまったしまった島倉千代子
まいったまいった舞の海

●掛詞の技法を使い、後に意味のない言葉をつなげたもの。
すみま千円(「すみません」+「千円」)
あたり前田のクラッカー(「当たり前だ」+「前田のクラッカー」)
そうはいかのキンタマ(「そうは行かない」+「烏賊の金玉」) 何がなんきん唐茄子かぼちゃ(なにがなんきん とうなすかぼちゃ)
どうぞかなえて暮の鐘(「どうぞかなえてくれ」+「暮の鐘」)
そうで有馬の水天宮(「そうであります」+「有馬の水天宮」)
申し訳有馬温泉(「申し訳ありません」+「有馬温泉」)
田へしたもんだ蛙のしょんべん( 皮肉として、大したもんだ、蛙のしょんべん程度の価値だ)
アメリカンフットバース(「アメリカンフットボール」+「吹っ飛ばす」)

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江戸っ子の会話はまず駄洒落から
隣近所の人とも、初めて会う人とも、江戸の庶民は、まず駄洒落で打ち解け、笑顔からコミュニケーションが始まります。江戸っ子は、言葉に対する鋭い感覚を持っていて、地口(じぐち)、もじり、無駄口など、言葉遊びの達人です。例えば、「ありがたい」といわれれば、「蟻が鯛なら芋虫ゃ鯨」と切り返し、「ありがとう」には「蟻が十なら、芋虫ゃ二十歳」と、即座にまぜっ返す。喧嘩などで「その手は汚ねぇぞ」とくれば、「北がなけれゃ日本は三角」といい返す。揚げ足取りに過ぎませんが、ふっと和んでいくんですね。
用件のみを伝える会話を切り口上といって嫌い、少しでも楽しい会話を心がけます。諸国万人の吹き溜まりの江戸では、異郷の者同士が、初顔合わせをする機会が毎日あるわけです。薩摩の人が隣に引っ越してきたり、お向かいには会津の人だったりします。だからこそ、和やかに過ごすためには「笑い」が秘薬となるのです。笑いは、「他意がございません」という意思表示でもあります。その点、無口な人や無愛想な人は用心した方がいいと敬遠されます。
江戸っ子好みはカラッとした快活なユーモア。相手をバカにしたり、皮肉ったり、自分を卑下するような笑いは下品とされ、嫌われます。上等な笑いとは、スコーンと突き抜けた、茶の笑い。お茶目、茶化す、茶々を入れるなどの「茶」です。緊張をふっと抜く笑いが人付き合いを円満にしました。
「お江戸風流さんぽ道」 杉浦日向子編著 世界文化社 

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フーテンの寅さんの自己紹介

「わたくし、生まれも育ちも葛飾柴又です。
帝釈天で産湯を使い、姓は車、名は寅次郎、
人呼んでフーテンの寅と発します。
わたくし、不思議な縁もちまして、生まれ故郷にわらじをぬぎました。
あんたさんと御同様、東京の空の下、ネオンきらめき、
ジャンズ高鳴る花の都に、仮の住まい まかりあります。
故あって、わたくし、親分子分持ちません。」


「労働者諸君!稼ぐに追いつく貧乏なし、か?
結構、結構、結構毛だらけ、ネコ灰だらけ
尻(しり)の周りはクソだらけ、か!」

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がってん音頭



おっと おっと おっと おっと
がってん がってん がってん がってん

しょうちのすけくん おどりましょ
おどろき もものき さんしょのき
あたりき しゃりきよ くるまひき

なにが なんきん とうなす かぼちゃ
おそれいりやの きしぼじん

おっと おっと おっと おっと
がってん がってん がってん がってん

おどろき もものき さんしょのき
あたりき しゃりきよ くるまひき

ありがたいなら いもむしゃくじら
こまり いりまめ さんしょみそ

おっと おっと おっと おっと
がってん がってん がってん がってん

なにか ようか ここのか とおか
けっこうけだらけ ねこはいだらけ
こまった こうやく はりばがねえ

おどろき もものき さんしょのき
あたりき しゃりきよ くるまひき

とんでも はっぷん あるいて じゅっぷん
うそをつきじの ごもんぜき

おっと おっと おっと おっと
がってん がってん がってん がってん
おっと おっと おっと おっと
がってん がってん がってん がってん

しょうちのすけくん おどりましょ……
 つけたし言葉とは、本来の言葉の後に、調子を合わせたり、語呂を合わせたりした言葉を付け足したもの。私の子供の頃にはよく使われていました。最近ではとんと聞きませんね。「オヤジギャグ」のように扱われ、使うことが躊躇されているのでしょうか? ところがところが、子供は美しい言葉にとても敏感で、この番組を通じて一種の「付け足し言葉」ブームのようになっています。今の子供たちが大人になったときには、はやり言葉になっているかもしれませんね。


1 おっと がってん しょうちのすけ(おっと合点承知之助)

2 おどろき もものき さんしょのき(驚き桃の木山椒の木)

3 あたりき しゃりきよ くるまひき(あたりき車力よ車曳き)

4 なにが なんきん とうなす かぼちゃ(何がなんきん唐茄子かぼちゃ)

5 おそれいりやの きしぼじん(恐れ入谷の鬼子母神)

6 ありがたいなら いもむしゃくじら(蟻が鯛なら芋虫ゃ鯨)

7 こまり いりまめ さんしょみそ(困り煎り豆山椒味噌)

8 なにか ようか ここのか とおか(何か用か九日十日)

9 けっこうけだらけ ねこはいだらけ(結構毛だらけ猫灰だらけ)

10 こまった こうやく はりばがねえ(困った膏薬貼り場がねえ)

11 とんでも はっぷん あるいて じゅっぷん(とんでもはっぷん歩いて十分)

12 うそをつきじの ごもんぜき(嘘を築地の御門跡)

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「 道 」

歌:宇多田ヒカル
作詞:宇多田ヒカル 作曲:宇多田ヒカル

黒い波の向こうに朝の気配がする
消えない星が私の胸に輝き出す
悲しい歌もいつか懐かしい歌になる
見えない傷が私の魂彩る

転んでも起き上がる
迷ったら立ち止まる
そして問う あなたなら
こんな時どうする

私の心の中にあなたがいる
いつ如何なる時も
一人で歩いたつもりの道でも
始まりはあなただった
It's a lonely road
But I'm not alone
そんな気分

調子に乗ってた時期もあると思います
人は皆生きてるんじゃなく生かされてる

目に見えるものだけを
信じてはいけないよ
人生の岐路に立つ標識は
在りゃせぬ

どんなことをして誰といても
この身はあなたと共にある
一人で歩まねばならぬ道でも
あなたの声が聞こえる
It's a lonely road
You are every song
これは事実

私の心の中にあなたがいる
いつ如何なる時も
どこへ続くかまだ分からぬ道でも
きっとそこにあなたがいる
It's a lonely road
But I'm not alone
そんな気分

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明窓 8/21

 歌手・宇多田ヒカルさん(34)の本名は「光」と書く。名前の通り、活動歴と名声は輝かしい。天然水のテレビCMで奥大山の清流にたたずむ姿も様になる。ただ、表情や歌詞には憂いや影が見え隠れする。亡き母で人気歌手だった藤圭子さんの記憶と重なるからだろう。

圭子さんは2013年8月22日、マンションの13階から飛び降りた。享年62歳。「薄幸の歌姫」の衝撃的な最期から明日で4年になる。

死の4日後、ヒカルさんは自身のサイトに後悔の念をつづった。精神の病に苦しんでいた圭子さんの言動に翻弄(ほんろう)され、どう支えたらいいか悩んだ。そして、何もできなかったという。

一方で、圭子さんについて「正義感にあふれ、誰よりもかわいらしい」「娘であることは誇り」と敬愛と感謝の言葉も残した。ヒカルさんにとって圭子さんは人生の影であり、光でもあった。

親子の歩みをどう受け止めて生きるか。昨年発表した曲「道」に思いを込めた。「一人で歩いたつもりの道 でも始まりはあなただった」「心の中にあなたがいる いつ如(い)何(か)なる時も」。ストレートな歌詞が聴く者に問い掛ける。「あなたたち親子も、そうでしょ」と。

筆者は五十路(いそじ)を目前にする。年を取ったのか、両親は健在なのに「道」を聴くと涙腺がゆるむ。親子で共にした喜怒哀楽や、受け継いだ長所短所の数々が思い浮かんでしまう。「ありがとう」。口にするのは父の日や母の日にとっておく。それまでは背中を見て学び、知らず知らず導かれた道を懸命に歩む。

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よくできたジョーク

中日春秋 8/21

「この間、南部でレストランに入ったんだ。そしたら白人のウエートレスが飛んできてこう言うんだ。『うちの店じゃ、黒人は食べられないよ』。オレは言い返したよ。『大丈夫、オレは黒人を食べないから』」

米国では有名なジョーク。誘われるのは爆笑というよりもちょっと引きつった笑いか。発表されたのは黒人差別がなお強い一九六〇年代。この作品をはじめ、差別に対する辛口のジョークで一世を風靡(ふうび)した黒人コメディアンで人権活動家のディック・グレゴリーさんが亡くなった。八十四歳。

米国には黒人の進出を許さぬ、さまざまなカラードバリアーがあったが、グレゴリーさんは六一年、白人相手にスタンダップコメディーを初めて見せた黒人だったと聞く。

その芸は笑いに巧みにまぶした差別への敵意と悲しみである。「黒人の宇宙飛行士が実は大勢いると聞いた。何でも最初の太陽着陸のためだってさ」。自伝の題名は黒人の蔑称である「ニガー」。許せない呼び方にもかかわらず、そう付けたのは「もし、どこかで白人が黒人をそう呼べば、本を宣伝することになる。」

差別や差別する者をちゃかし笑う。その笑いが広がれば世の中は変わる。「よくできたジョークには力がある」。しなやかな武器で、差別と闘った人である。

大統領が白人至上主義者に遠慮する時代。「よくできたジョーク」が聞きたい。

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児童虐待

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『日本の心は銅像にあった』

『日本の心は銅像にあった』渡部昇一監修、丸岡慎弥著(育鵬社)を紹介します。

表紙には紫式部、楠木正成、真田幸村、勝海舟らの銅像写真が使われ、「銅像が教えてくれる大切なこと」「楠木正成、真田幸村、二宮金次郎、勝海舟など、銅像になった偉人25名のエピソードを収録!」と書かれています。さらには「どうぞ、見にきて下さい」のダジャレまで! 監修者があの渡部昇一先生であることも驚きです!


本書の「目次」は、以下のようになっています。
「銅像が日本人に教えてくれる大切なこと」上智大学名誉教授 渡部昇一
●古代・中世編
(1)紫式部
   日本人として初めて世界の偉人に選定された文豪
(2)道元禅師
   修行とは、大宇宙が恵んでくださった自己に気付くこと
(3)楠木正成
   敗戦必至で出陣した忠臣が最後に息子に託したこと
●戦国編
(4)島津義弘
   勇猛な武将が故郷を守るために決断した最後の奇策!
 コラム「朝鮮出兵で明・朝鮮軍を震え上がらせた島津軍」
(5)長宗我部元親
   姫若子から鬼若子へ! 初陣で魅せた本当の強さ
(6)加藤清正
   清正が築いた天下の名城は明治時代に難攻不落を証明した
●近世編
(7)伊達政宗
   苦難を乗り越え続けた東北の雄が仙台に遺したものとは」
(8)真田幸村
   徳川家康の脳裏に自害をよぎらせた、徹底抗戦!
(9)鈴木正三
   日本人の心に生きる、正三の「労働とは修行である」という教え
(10)宮本武蔵
    勝つために生まれてきた二刀流兵法の開祖
(11)中江藤樹
    人は損得で動いてはならない。正直と正義で動くのが人の道
(12)玉川兄弟
    水不足を救った技術力と情熱が江戸を世界一の都市へ
(13)石田梅岩
    松下幸之助も尊敬した梅岩は、商業倫理で何を説いたのか
(14)二宮金次郎
    東京駅前で見つけた! 
    経済と道徳の調和を目指した巨匠……ほか
●近現代編
(15)吉田松陰
    人、賢愚ありと雖も 各々一二の才能はなきはなし
(16)勝海舟
    百万人の民を救った江戸城無血開城という決断
(17)大久保利通
    近代日本の礎を作った信念の政治家
(18)木戸孝充
    開国後にまとめた日本の国是
    「五箇条の御誓文」は現代でも通用する
(19)陸奥宗光
    外務省にある唯一の銅像は、国益を賭けて戦う外交官の象徴
(20)明治天皇
    率先垂範の大切さを説き、行動で示した近代日本の国父
 コラム「明治時代の道徳的混迷と教育勅語」
(21)特攻隊
    家族のため、祖国のため、愛する人を守るため
(22)吉田茂
    サンフランシスコ講和条約調印で日本は悲願の独立へ
(23)森信三
    子供への躾は、まず腰骨を立てさせることから!
●海外編
(24)八田與一
    台湾人は、戦後の反日の雰囲気でなぜ八田の銅像を守ったのか
(25)遠山正瑛
    中国政府が建てた日本人の銅像
「あとがき」丸岡慎弥

「銅像が日本人に教えてくれる大切なこと」では、渡部氏が「なぜ日本人の道徳心は衰えたのか?」として、以下のように書いています。
「敗戦後、GHQは日本弱体化のために様々な政策を施しましたが、その内の1つに、戦後教育の方針を定めた教育基本法の施行があります。この法律が施行された時点では『愛国心』や『道徳』といった徳目が盛り込まれていた教育勅語がまだ存在していました。したがって教育基本法には教育勅語に盛られていた徳目は記されておりませんでした。そうした徳目は教育勅語に記されているわけですから、わざわざ入れる必要はなかったのです。教育基本法と教育勅語は教育における言わば車の両輪の役割を担うはずだったのです。ところがその後、GHQの意向を酌んだ文部省及びわが国の国会が、不当にも教育勅語の排除・失効確認の決議をしてしまったのです。その結果、『愛国心』や『道徳』といった条項が日本のどこにも無いということになってしまったのです。二輪車のつもりでいたのが一輪車になってしまいました。これが今日の教育荒廃の最大の原因です」

また渡部氏は「世界から褒められた教育勅語」として、こう述べます。
「教育勅語は特定の倫理学によらず、また、あらゆる宗教色を排除しており、けっして狂信的なものではなかったのです。この教育勅語には普遍的価値が謳われており、非常にわかりやすく、効き目がありました。戦前ではこの教育勅語を小学校4年生になれば暗記しましたので、日本人共通の価値観になったのです。教育勅語が必要とされたのは、明治時代に外国の文化がどんどん日本に入ってきた結果、今日の日本のような道徳的混乱状態にあったからです。下手をすると日本の伝統が失われそうだと、一番心配なさったのが明治天皇でした。そして山県有朋が総理になったときに、枢密顧問官の井上毅が教育勅語の原案を考え、天皇側近の元田永孚の案とすり合わせながら作りあげていったのです」

さらに渡部氏は「教育で大切なことは『良いイメージ』をさせること」として、以下のように述べています。
「かつての日本においては、少なくとも小学生から中学生くらいまでは素晴らしい日本人や、見習うべき大人の話をたくさん教えていました。そのおかげで子供たちは良いイメージができるようになったのです。物事が成就するか否かは『イメージの力』が大きく左右します」

そこで銅像から偉人をイメージしながら伝えていこうというのが本書です。
渡部氏は「銅像から偉人のエピソードを」として、以下のように述べます。
「銅像には、しぐさや向いている方向、建てられた場所など細部にわたり多くの人々の想いが込められていますので、子供だけではなく全ての日本人に大切なことを思い出させてくれると思います。また、その偉人の歴史的偉業の瞬間を切り取った姿をした銅像も少なくありません。ぜひ、銅像を見た時には『なぜ?』と問いかけてみてください。その『なぜ?』という問いから、その偉人の様々なエピソードや後世への影響がわかると思います」

銅像教育研究会(そんな会が存在すること、初めて知りました!)の代表である著者は本書で銅像になった25人の偉人を紹介しながら、銅像の場所、しぐさ、姿などから見えてくる偉人たちのエピソードを紹介しています。
中でも特にわたしの関心を引いたのは「石田梅岩」の項です。
著者は、梅岩について以下のように書いています。
「梅岩は『神道』『儒教』『仏教』など、ありとあらゆる学問を学びました。1つの学問にこだわるのではなく、広く学んでいきました。また学問の師匠を持つこともなく独学で勉強を進めていきました。そんな中から自身の身分であった商人の生き方を示す『石門心学』を確立しました。梅岩は言うならば武士道ならぬ『商人道』を打ち立てたのです。
梅岩は石門心学を広めようと、何度も講義を開いていました。『誰が聞きに来ても良い。女性が聞いても良い(当時、女性がそのような場に行くことは大変珍しいことでした)。聴講料は無料で良い』など、一人でも多くの人に聞いてもらおうと梅岩は活動しました」

また著者は「世界一の老舗大国・日本」として、大化の改新以前に創業し、現在までに1400年も続いている金剛組(大阪市)を紹介しています。
続けて、著者は以下のように書いています。
「金剛組は戦後、寺社建築だけでなく、マンション、オフィスビルなど一般建築も手がけるようになりました。また、金剛組を含め、日本には創業1000年以上続く会社が7社存在します。その7社は次の通りです。

 ・金剛組(建築工事業)大阪市天王寺区
 ・西山温泉慶雲館(温泉旅館)山梨県早川町
 ・古まん(温泉旅館)兵庫県豊岡市
 ・善吾楼(温泉旅館)石川県小松市
 ・源田紙業(紙業)京都市上京区
 ・田中伊雅仏具店(仏具製造販売)京都市下京区
 ・須藤本家(清酒製造)茨城県笠間市

世界で見てもこれだけの会社が1000年以上続いているという国はありません。日本にはもともと商売をする上での倫理観を大切にする文化があったと思います。だからこそ、梅岩が説いた商道徳は日本人の琴線に触れるものだったのではないでしょうか。これは、日本にある創業100年以上の企業数に表れているかと思います」

日本には、創業100年の企業はどのくらい存在するのでしょうか?
なんと、約26000社(2013年8月現在)あるそうですが、著者は以下のように述べています。
「これらの老舗企業の大半に、代々伝えられてきた家訓や言い伝えがあるそうです。その家訓には『利に走るな』『贅沢するな』など梅岩心学の精神が反映されているといいます。また、松下幸之助氏が創立したパナソニックも今年(2015年)で創業97周年となり、もうまもなく創業100周年を迎えます。また、創業200年以上続く会社でも約3000社あり、2位のドイツが約800社、3位のオランダが約200社と続いています。いかに日本が老舗大国かおわかりいただけるかと思います」

石田梅岩の思想は、二宮尊徳に受け継がれました。
二宮尊徳の幼名は二宮金次郎です。著者は述べます。
「実は、道徳と経済を調和させようとする思想は、二宮金次郎という人物の大きな特徴の1つです。そして金次郎は経済行為を通して道徳教育を行ったのです。この教育を「五常講」といいます。五常とは、儒教の基本的な5つの徳目『仁・義・礼・智・信』のことを指します」

著者は、二宮金次郎について以下のように述べます。
「父の兄の家に引き取られた金次郎は朝早くから夜遅くまで働きました。当時、農家に生まれた者は、金次郎くらいの年齢になると働くのが当然でした。金次郎は仕事をしながらでも勉強ができる機会を見つけては読書に励んでいました。このシーンが、後世、全国各地の銅像の形となります。私は金次郎の銅像をみると彼の生前の様子が思い浮かび、胸が熱くなります。それは『周囲の人々には後ろ指をさされながら、ひたむきに学問を続けていたのだろうな』ということです」

金次郎は後に「尊徳(たかのり)」と名を改めます。
しかし、人々は有職(ゆうそく)読みで彼を「そんとく」と呼びました。
著者は、このことについて以下のように述べています。
「有識読みとは、周囲の人々が慕い、尊敬することで呼ばれるようになる呼び名です。有識読みをされていたというのは、当時から人々に慕われ尊敬されていたことを表すのです。その教えは金次郎の弟子たちにより『報徳仕法』としてまとめられました」

さらに、著者は金次郎の偉業について以下のように述べています。
「金次郎は自身の二宮家のみならず、多くの村を立て直していきましたが、その際、次の3つを大切にし、仕事に正面から取り組んでいったのです。
『勤労』『分度』『推譲』
勤労とは文字通り『よく働く』こと、分度とは自分の収入の範囲内で暮らすこと、推譲とは分度の結果余ったものを社会に戻すことです。金次郎はこれらを家族や農民、さらには藩主と身分などに関係なくすべての人に求めていきました。金次郎が農村を立て直すためにずっと考えていたことは次のことです。
『農村の立て直しは人心の立て直しから』
金次郎は何よりも人心の荒廃を立て直すことが最優先だと思っていました。まず自らが一番に働き、神社仏閣も修復したりして、人心さえ変われば村は必ず立ち直ると考えていたのです」

「あとがき」で、著者は以下のように述べています。
「それまでも、偉人のエピソードは好きでしたが、どうも少し離れた世界のようにも思っていました。今、自分の目の前に存在していないからです。偉人の話を聞き、自分の想像でしかその人物と向き合うことはできませんでした。ところが銅像であれば、目の前に堂々と建っています。写真で見ても、風景は昔のものではなく現代の風景ですので『あぁ、○○にあるんだな』と実感できます」

続けて、著者は「あとがき」で述べます。
「銅像は時空を超えて私たちに『感化・影響』を与えてくれているのです。
私は銅像のそのような効果を『時空を超えた感化』と言っています。
銅像には、しぐさ・向き・大きさなどすべてのことに意味が込められています。私は一体でも多く、この銅像について調べ、一人でも多くの方に銅像を通じてその偉人の生き方を伝えていきたいと思っています」

ブログ「『銅像に学ぶ』開始!」で紹介したように、わたしは観光が大好きです。観光地ではさまざまな発見がありますが、多くの観光地にはその土地ゆかりの銅像が建立されています。わたしは三度の飯より銅像が好きだと言いましたよね。正確には、銅像の真似をして写真に写ることが好きなのですが・・・・・・。


しかし、これは単におふざけでやっていることではありません。
「銅像」は偉大なる先人たちの憑代(よりしろ)であり、そのポーズには何かしらのメッセージが潜んでいます。その偉人と同じポーズをとることで偉人の志を感じることが大事なのです。これは先人に対する「礼」でもあり、その精神を学ばせていただいているのです。もともと「学ぶ(まなぶ)」という言葉は「真似ぶ(まねぶ)」から来ています。銅像の真似をすることには深い意味があるのです!


…………………………

くろしお 8/20

 戦後、家庭教育の大切さを訴え、「朝のあいさつをする」「ハイと返事ができる」など子どもにしつけることを提唱した森信三が親に対して「これだけは守れ」と説いたこと。

 それは「わが子の前でだけは絶対に夫婦げんかしてはいけない」だ。森先生は親の不和やけんかほど子を不安にするものはなく度重なれば重大な悪影響が出ると喝破した。その人が現状を知ったら肩を落とすことだろう(丸岡慎弥著「日本の心は銅像にあった」)。

 児童相談所が2016年度に対応した児童虐待の件数が12万2578件(速報値)で過去最多となった。児童虐待への意識が高まって、相談・通告が増えた側面もあるが面前ドメスティックバイオレンス(DV)の深刻度が増している。

 厚生労働省によると暴言や無視、子どもの目前で配偶者に暴力を振るう面前DVなどの心理的虐待は前年度比で1万4487件も増えて、全件数のほぼ半分を占めた。夫婦間の暴力沙汰を警察が処理して児童相談所に通告するケースも年を追うごとに増えている。

 「一切の人間関係のうち夫婦ほど、互いに我慢の必要な間柄はないと云(い)ってよい」と森先生も言うほど難しい夫婦関係だがひとたび制御不能になれば「父が母の首をベルトで絞めていた」(体験者の証言)など地獄のような様相になる。

 俗に夫婦げんかは犬も食わぬ、と言われ放っておくものとされてきたが現状を知ってはそうはいくまい。近所の異変に気付けば児童相談所あるいは警察へ相談するおせっかい心を持ちたい。子どもを守るという大人の役割を果たすためだ。

列車好き

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阿房列車―内田百けん集成〈1〉 ちくま文庫
作者: 内田百けん
出版社/メーカー: 筑摩書房
発売日: 2002/10


紀行の極地
阿房列車。タイトルの通り、列車にまつわるお話です。
いわゆる紀行文ということになりますか。

紀行文といえば、文学における一大ジャンルです。

旅行記だとか道中記とも言ったりしますが要は、旅行の道中で何々があったよだとか、どこそこではあれを見たよ、これを食べたよなどといった、旅行中の体験を記す文学ですね。
個人的にこのジャンルが面白いと感じる点は、ただ単純に個人の"日記(旅行編)"といった枠におさまらない色々な試みがなされているところ。旅行にまつわるという点のみでカテゴライズされるという側面が強いこのジャンルには、小説でもないし随筆でもないといったような型にはまらない独特な作品が多いように感じます。

「男もすなる日記といふものを女もしてみんとてするなり」

という超有名な一文から始まる『土佐日記』。この作品こそ我が国最初の紀行文なのですが、最初の作品からして女性の立場になって書いてみるという冒険をしているジャンルですので、もう伝統的にそういうことなんですかね。

ということで、そんな我が国の偉大な紀行文の歴史にばばんと立ち並ぶこの『阿房列車』も、なかなかに強烈なユニークさを持っています。

阿房列車とは、単なる列車旅のことではありません。
厳格なルールがあります。それは「用事もなく列車に乗って出かける」ということ。

行き先に何かを求めたり、誰かと会ったり、物を食べたり、というような一般的に旅行の目的とされるものは阿房列車においては重要視されません。重要視されないというよりもむしろ、積極的に回避を図るほど。何しろ、帰り道には「家に帰り着く」という目的が発生してしまうので厳密には阿房列車と呼べるのは行きの道だけ、という徹底ぶり。

変わった旅行だな、とは思いますが、旅というものに変わった「縛り」のルールを設定すること自体は特に珍しいことではないのも確か。ヒッチハイクや青春18切符を使った電車旅なんかは移動手段に縛りを入れた旅の定番ですし、田舎に泊まろう的な地元の人との交流を重視したり、旅先で必ずジョギングをするというルールを持っていたり、どこかに行く度決まって買うものを決めていたり、などなど。何かしら旅にまつわる個人ルールを持っている人は多いのではないかと思います。

そして、「移動そのものを目的に」するという旅行の捉え方は個人的にはとても共感します。
大学時代には何度か一人で車旅行をしました。オンボロのワゴンRで最長半月ぐらい走り回ってました。特別車が好きな訳でも、車に詳しいわけでもなくて、ただひたすら運転していることが好きで1日10時間ぐらいも運転し続ける旅行を繰り返してました。
移動の行程そのものにこそ意味を求めるというのは、ある意味では旅行の極地とも言えるのではないかと思います。

内田百閒氏の場合は、それが列車なのでしょう。
列車で移動するというただそれだけのことをこれだけ語れるのは百閒先生にしかできない芸当でしょうが、その背景にあるのはもうただ単純に列車が好きで好きでたまらないという強烈な愛情に尽きるのだと思います。

"阿房"という大人の余裕
さて、そんな愚直な列車旅の自称は『阿房列車』。愚直というか「阿房」だそう。
列車移動のみを目的とする一途さをもって「阿房」と言っているのですが、それ以外にも色々と「阿房」を演出する大人の余裕によって構成されているのが本書の魅力。

大人の余裕というか、全体にまどろっこしいのです。

まずすごいのは、出発しないこと。移動のみを目的とした列車旅なのに、全然出発しないんです。
切符の手配に始まり、切符を購入するためのお金の無心やら、列車に乗る前の食事を気にしてみたり、見送りに来ただれそれとのやりとりであったりといったことが、つらつらと書き連ねられていき、出発までもだいぶ長い道のり。

毎回の旅程には、同行者ヒマラヤ山系君がいるのですが、彼との会話がまた中身がないというかはりあいがないというか。百閒先生が何をいっても「はあ」と返す退屈な会話なのに、妙に面白い。

そして、なんといっても洗練された周りくどい言い回しの一文一文が本書最大のまどろっこしさです。

一人になって大分長い間ぼんやりしていた。さて一服して考えてみると、私はまだ起きてから顔を洗っていない。何十年来同じ顔を洗っているけれど、別に綺麗にもならず段々古くなった計りである。無駄かもしれないが、今日突然羇旅の鹿児島でその習慣を廃すれば心的衝動の因となる恐れがある。だからタオルを持って洗面所へいった。

洗面所へ顔を洗いに行くための描写がこれ。この無駄無駄しい文章の引きこむ力は半端ない。

何を買おうとしているかと云えば、白雪糕のお菓子である。私は白雪糕が好きで、塩釜では名物だそうだから、買っていこうと思い立った。そう思った時は塩釜がこんなに雨が降っているとは知らなかったのだから、是非買わなければならないわけもないし、その為に山形や盛岡のおみやげの包みがびしょ濡れになってしまう。よせばいいと思うけれど、雨が降っていないならよしてもいいが、雨が降ってこんなに困っている今となっては、よすわけには行かない。やけ気味で、無闇にトラックの通る街をうろついて、二人とも川から上がった様な雫を引きながら、やっとそのお菓子屋へ這入った。

雨が振っていればこんな調子。気を抜いていると意味のないトートロジーのようにも感じてしまいかねないあやうい、でも計算されつくした回りくどさ。真似しようと思ってもできません。

このまどろっこしい雰囲気が好きになれるかどうかが本書の楽しみの分岐点。僕は憧れるくらいに好きでしたが、おそらく苦手な人も多いことと思います。

列車のいま・むかし
周りくどい文章で進んでいくお話の主眼はやはり列車です。淡々とローテンションで書き進めながら、ふとした瞬間に切り取る景色の描写が目に浮かぶほどの力を持っていてハッとすることもあります。車窓から見る景色の感慨深さというものは、見える景色が移り変わっていても、大きくは変わらない列車旅の醍醐味の一つかと思います。

一方で、いまの列車しか知らない僕にはなかなか想像の難しい昔の列車ならではの姿にも興味を覚えました。

例えば、一等、二等、三等という客室の区別。今でもグリーン車なんかはありますけど、今のものとは席はもちろんのこと、乗客の様子なんかもだいぶ違っていたのだろうなと思います。

夜行列車での旅も何度か登場します。最近、北斗星が廃止されるなど、寝台列車がどんどんと少なくなって寂しいですよね。いまよりもっともっと夜行列車が多かった時代。どんな姿で、どんな人たちが乗っていたんでしょう。

トンネルや山道を走るために、汽車と電車の車両の付け替えが行われるだとか、昔の汽車には電灯がなかったからトンネルの手前の駅で駅員さんが屋根に登って頭の上にどしどし足音をさせて歩きながら、石油ランプを天井から差し込んだだとか、今はもうなくなってしまった姿もあり、いろいろと想像しながら読むのが楽しかったです。
以上。
いまの電車旅とはいろいろ勝手が違うだろうなとは思いますが、それでも共感できる電車旅の魅力というか、雰囲気というかはあるんですよね。なかなか休みも取りにくい日常を過ごしていると、たまの旅行も移動なんかは極力短くして予定を詰め込みたくなってしまいがちですが、あえてゆったりと移動することを楽しむ旅行をまたしてみたいなーと感じさせる本でした。

…………………………

小社会 8/20

 小説家、内田百閒(ひゃっけん)の列車好きはよく知られている。何しろ用事も目的もないのに、ただ列車に乗りたいという理由だけで旅に出る。それも2等や3等車は嫌。1等車を好むが、金はないから借金までして旅費に充てる。

 どうしても行かなければならない急な仕事ができれば、やむを得ず3等に乗ることもある。だが、それ以外は自分の主義を貫く。紀行文「阿房列車」シリーズには、百閒が守り通した「自由」が生き生きと描かれていて楽しい。

 乗客が百閒先生のような一徹な人ばかりなら、鉄道会社の苦労も少ないかもしれない。JR四国と4県知事、学識者らによる懇談会が、路線維持の方策について検討を始めた。

 国鉄の分割民営化でJR四国が発足して30年。鉄道事業で黒字になったことは一度もない。今後も高速道の延伸や人口減で需要見通しは先細る。「10年、20年先を見据えれば自助努力のみでは維持は困難」。JR四国・半井社長の言葉が、苦境を端的に示している。

 もし廃線などが検討される場合、利用減が著しい予土線などは候補に挙がりかねない。税金投入による公的支援もテーマになってこよう。住民生活に死活的に関わるだけにオープンに議論し、情報は逐一提供してもらいたい。

 百閒の時代、車は今ほど普及していなかった。これから少子高齢化が進めば交通弱者も増えてくる。車にばかり頼ってはいられない未来を想定しておいてよい。

ちゃらんぽらん

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日本人以上に、この国を愛するちょっと不思議な外国人。
ソバハニさんを、知っていますか?

イランの首都テヘランで生まれ、宗教的迫害にあい、小学校卒業とともに渡米する。
ニューヨークの移民の町で、青春時代を過ごす。同じ町にあのトランプさんが住んでいた!  
英語を必死に勉強し、アメリカでビジネスを大成功させる。
そして、ハワイの地でイラン人女性と運命的な出会いをし、結婚後すぐに、日本へ。
故郷のカスピ海と同じ匂いがした、香川・高松で暮らすことを決意。英語を教えながら、少林寺拳法を教わる。
漁師さんや、高松市長さんとも大の仲良しになり、サラリーマンとして働く。
そして、ペルシャ絨毯やオリーブオイルの販売を手掛ける会社を設立。
気がついたら、日本の友達がたくさんできて、外国人初のロータリークラブ(高松南)の会長にもなっていた! 
大好きな日本語は「おかげさま」。
毎日、「おかげさま」と手を合わせていたら、どんどん幸福なご縁と、チャンスがやってくる。
なぜこんなにも、日本を愛している? 日本の素晴らしいところって、どこ?  
見知らぬ土地で、どうしてビジネスが成功して、子育ても順調にいったの? 
……ちょっと、いや、かなり不思議な外国人、ソバハニさんが教えてくれる、日本人が忘れた、日本人らしい生き方。
ほんとうの幸福の探し方とは?

「おかげさま」。私はこの日本語を知ったときに、今まで生きてきた国とは文化も言葉もまるで違う日本が大好きになり、この地で生きていこうと決めたのです。「おけげさま」を言い続けることで、人を憎まない生き方ができるようになります。誰のことも、憎まない。「おかげさま」は憎しみを断ち切れる魔法の言葉。人間が幸福になるには、それしか道がないのです。そして私の初の著書が日本語で出版されることが嬉しく、親切にしてくれた日本の皆さんへの感謝の気持ちでいっぱいです。   OKAGESAMADE!―マスウド・ソバハニ

≪contents≫
【序章●嘘をついてはいけません。嘘は、憎しみを生み出す源です。】
「おかげさま」と「ご縁」という日本語は宝物/ペルシャ絨毯と友情は、時間が経つほど価値が出るもの/日本の皆さんに、イランとペルシャのことを正しく知ってほしい

【第一章● たとえ憎まれても、愛しなさい。愛し続けなさいと母は言いました。】
六人兄弟の四番目に生まれて/アメリカと仲がよかった時代のイラン/自然が豊かな、美しい国/ゴム風船に父が描いた世界地図/動物と自然が大好き/母の教えは、「愛しなさい」/ある朝突然、アメリカに渡る/ はじめまして、ニューヨーク!/ご近所にトランプさんが住んでいた!/短期間でマスターした、私の英語勉強法/自分を守るために戦う/アルバイトで触れた日本/運命を変えたイラン革命/個人の力では、どうにもならないことがある

【第二章●日本に来た意味を知る。】
妻・ナヒードとの運命の出会い/来日して結婚。ところが…/妻の恩人に紹介されたご縁で、四国・高松市へ/親切な人たちと行く先々で出会った/脇信男さんと出会い、日本に来た意味を知る/困ったときの友が、真の友/少林寺拳法で四国のチャンピオンになる/瀬戸内海の香りと、カスピ海の香り/英語でお手伝いができる喜び/脇さんとのお別れ

【第三章● 異文化に触れると、自分が何者なのかが見えてきます。】
最初に覚えた「おかげさま」/ペルシャと日本の共通点、遠慮と謙遜の美学/友人をつくることで言葉を覚え、日本史を学んだ/教育にも成功した元就/和合─ロータリークラブとの出会い

【第四章● お金を持っているのなら、人を育てるために使ってください。】
夢の中に現れた父が言ったこと/お天道様が見てなくても、ちゃんと生きる/日本で子どもを育てるというチャレンジ/スカイ・イズ・ザ・リミット/お金は、欲を満たすためではない、必要なことに使うためにある/お金も物も、喜びもシェアをする/ケンカは一度怒って、忘れる。そうすれば相手を憎まない/人に騙されても責任は自分にある。クヨクヨしない

【附章● 和合─誰とも対立しない生き方が、本当はいちばん強いのです。】
私の心のよりどころ/バハイ教はすべての宗教を否定しない/義務も個人の主体性に任される/バハイの義務、戒律/他人への奉仕がもっとも重要/神様からの伝言は、本当はとてもシンプルです/神ではなく、権力者たちが人々を煽っています/飲む人がコップを出してから、水を注ぎましょう/バハイ共同体は選挙を重視する/日本人の道徳心を世界に広げましょう

【解説】
マスウド氏、その一家と私─シルクロードの端と端

≪PROFILE≫
マスウド・ソバハニ Masoud Sobhani
1955 年、イランに生まれる。結婚を機に日本へ。
1987 年、高松で当時の市長であった脇信男氏らの応援によって、ペルシャンパレスというペルシャ絨毯を取り扱う会社を設立。
一男一女を日本で育て上げる。
高松南ロータリークラブの会長に就任するなど、香川と海外各国との交流のために尽力をしてきた。
また、日本の心を知るためにさまざまなことにチャレンジ。
特に、少林寺拳法は5000 時間の稽古を重ね、初段で香川県チャンピオンになったこともある。
現在も高松と神戸を拠点に、全国的にビジネスを展開中。


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越山若水 8/20

いいかげんなことを「ちゃらんぽらん」と言ったりする。感じは分かるが、漢字が浮かばない。思えば妙なこの言葉をイラン人も使う。意味も発音も全く同じだ。

イラン生まれで米国籍、高松市に住んで30年余というマスウド・ソバハニさんの著書「憎まない」(ブックマン社)に教わった。考えさせられる話の多い本だ。

なかでも印象深いのは、こんな話。結婚を機に高松に住み始め、会社経営のために観光ビザから切り替えるときだった。申請は入国管理事務所にあっさり拒まれた。

すでに会社はでき、仕事も始めている。観光ビザの期限は残り少ない。この窮地に、手をさしのべたのは当時の市長だった。入管の所長に掛け合い自身が保証人になってくれた。

故人となったその人の色紙が宝物だという。書かれた言葉の意味は「困ったときの友が、真の友」。それがジャパニーズ・スピリット(日本人の精神)だと、市長はいっていた。

日本には「ご縁」や「おかげさま」といった考え方や言葉がある。イランにもある。神様や仏様、先祖へ広がるご縁に感謝するところが似ている。

イランといえば怖い国―。そんなイメージとは裏腹に、繊細な国民性や文化は日本に近い。何といってもペルシャ帝国以来の悠久の歴史を持つ。気付かせてくれた1冊は書店の棚にぽつんとあった。たまたま手に取ったのもご縁である。

教え子の法要

時鐘 8/20

 お盆過(ぼんす)ぎの紙面(しめん)で「教(おし)え子(ご)の冥福祈(めいふくいの)る」との記事(きじ)を読(よ)んだ。89歳(さい)になる元小学校教諭(もとしょうがっこうきょうゆ)が、自分(じぶん)より先(さき)に亡(な)くなった教え子たちの法要(ほうよう)をしているというのである。

「教え子はわが子(こ)同然(どうぜん)、寂(さび)しくてどうしようもない」と話(はな)している。これもいわゆる「逆縁(ぎゃくえん)」である。先(さき)に死(し)ぬ運命(うんめい)にある親(おや)が、子の供養(くよう)をすることになる。昨今(さっこん)の長寿社会(ちょうじゅしゃかい)では「後先(あとさき)」が逆になるケースは昔以上(むかしいじょう)に多(おお)くなる。切(せつ)ないことである。

中学(ちゅうがく)1年(ねん)の夏休(なつやす)み中(ちゅう)のことだった。クラスメートが海水浴事故(かいすいよくじこ)で亡(な)くなった。新学期(しんがっき)、机(つくえ)が一(ひと)つ空(あ)いた教室(きょうしつ)に母親(ははおや)が来(き)て「みんなは大人(おとな)になるまで元気(げんき)でいて」と訴(うった)えたのを覚(おぼ)えている。その時(とき)の担任(たんにん)の顔(かお)まで思(おも)いだす。つらかったと思う。

夏休み前(まえ)、教師(きょうし)や校長先生(こうちょうせんせい)は「みんな事故(じこ)に遭(あ)わないで」と、生徒(せいと)を送(おく)り出(だ)す。平凡(へいぼん)で月並(つきな)みな訓示(くんじ)に聞(き)こえるが、先生としては何(なに)よりも大事(だいじ)なことを心(こころ)から願(ねが)って伝(つた)えているのだという。

夏休みも残(のこ)りわずか。子どもは無事(ぶじ)で元気が何(なに)よりだが、当(あ)たり前(まえ)が当たり前でないこともある。夏休み明(あ)けが怖(こわ)い子もいるだろう。無理(むり)をしないでと先生は祈(いの)っている。

奇跡

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自分におどろく

たなかかずお 文
あべ弘士 絵


きみのいのちは 
40億年前に生まれた
たった一つの細胞から始まった。
いのちは進化して
木や草やライオンや象になった。
ムカデやタコにならず、
きみは まっすぐ人間の道をたどって
いま そこにいる。
それは すごいことだ。まさに奇跡なのだ。
........
童話屋のたなかかずお。
動物となかよしな絵本作家・あべ弘士。
二人がタッグを組んで作った一大叙事詩が、たのしいポケット詩絵本になりました。
ビッグバンからコンピューター文明に至る、壮大な宇宙と人間の歴史をひもときます。


…………………………

卓上四季 8/20

地球上に生命が誕生したのは約40億年前とされる。以来、生命は進化を続け、多様な生物に枝分かれした。あるものは植物に、あるものは魚や鳥に。そして、約400万年前に人類の祖先が現れて、十数万世代を経て現代に至る。

たった一つの細胞から命の赤い糸がつながり、私たちはいまここにいる。気の遠くなるような時間と恐るべき確率の低さだ。だからこそ「きみの存在は、奇跡そのものだ」と、童話作家のたなかかずおさんは「自分におどろく」(童話屋)で命の大切さを訴える。

小中学校の夏休みが終わる。若者の自殺の多くは長期の休み明けに集中する。いじめや友人関係のもつれ、成績不振、家庭問題など、さまざまな理由があろう。家族や教師は子どもの様子に気をつけたい。

起床が遅い、覇気がない。そんな微妙な変化がSOSかもしれない。つらい思いを口に出せない子は思った以上に多い。まずは大人が目を配り、耳を傾け、寄り添いたい。そして、生きているだけで奇跡だということを教えてあげてほしい。

死にたいほどつらいことや、悲しいこともあろう。そんなときは無理をすることはない。走り疲れたら歩けばいいし、歩き疲れたら立ち止まればいい。しばらくしたら、きっと走れるようになる。

焦ることはないのだ。人類400万年の歴史と比べれば、人生はほんの一瞬だが、それでも私たちにとっては十分長い。

なつやすみどろぼう

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▼書評 『雨の自然誌』

著者 シンシア・バーネット
訳者 東郷 えりか
出版社 河出書房新社
発行 2016 09.30

《アメリカ・シアトルとイギリス・マンチェスターの共通項とは?》
昨年の秋は大変雨降りの日が多かった信州。9月は、観測史上最多の雨量で日照時間は平年の3割にも満たなかったそうです。その影響などもあり、野菜の価格が高騰したのは周知のとおりです。
本書は、そんなところから「Rain」にまつわるエピソードと思いセレクトしました。読了後は、「雨の文化史」の印象です。地球規模のエピソードから雨の日に車で通う際に視界を快適にするワイパーまで、網羅されており今では雨を待ち望む日々です。

そうです。「人々の日常の生活に直接の影響を及ぼすことになるのは、雨」だったのですね。そのことを如実に各テーマごとに記した力作です。最終章は、世界で最も雨の多い地域に著者自身足を踏み入れます。

上述したように、昨今の気象条件は、乾燥した地域はより旱魃に、雨の多い地域はさらに多雨になる傾向が顕著になっております。この現象は著者のいう、「私たち頭上に降る雨は往々にして、人間が地上で放出したものを、ただ空から降らせているのだ」と。たとえば、「酸性雨」が良い例ですね。よって人類の日々の生活は様々なかたちで雨となって現れているということです。

ウガンダのヴィクトリア湖は、年平均242日も雷が轟き、インドの北東部のチェラプンジ村は有史以来最高の降雨を観測し、一年間で2万6446ミリであります。そして、このまま地球の温暖化が進めば、あの金星で起こった「暴走温室」という海がすべて蒸発してしまったような終末的な観測もされる気象学者もいるそうです。マイクロソフトの創業者・億万長者のビル・ゲイツ氏がハリケーンの勢力を弱める技術を研究する科学者とともに、特許を申請した事実は本書ではじめて知りましたが、それは過去に「雨を降らせる技術」の職業が本当にあったことに基づいております。

もともと環境史が専門だった著者が、アメリカ史の修士号も取得し精通を成しえたところから、本書のような力作になったのだと窺い知れます。

たとえば、実際の雨量以上に文化的な心理に基づき「雨の都市」と呼ばれるアメリカ・シアトルとイギリスのマンチェスターの2都市。この2都市は、不安に満ちた独自の音楽ジャングルを生み出したのは、何も偶然ではなく、雨に関連していたのです。シアトルでは、グランジ(薄汚いという意味)、マンチェスターでは、ザ・スミスやニュー・オーダーetc..のバンドによる暗いギターポップとなりました。

さらには、著者の腕にかかれば「近代建築の三大巨匠」のひとりフランク・ロイド・ライドまで引っ張り出されます。その当時は、いかに「雨除け」に四苦八苦していたか窺い知れ、雨とともに歩んできたきた人類を鑑みられるのです。

雨が降るのが待ち遠しくなるエピソードが盛りだくさん。そして、著者の専門の環境史も忘れてはなりません。地球温暖化に対するボク達の日々の行動にも苦言を。自然・文学・音楽・雨具の歴史etc..と本書の翻訳は東郷 えりか氏ですからおススメの書籍です。


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中日春秋 8/20

 米国の小売店の棚には「雨」があふれているという。洗剤から美容製品まで、「雨」と名のつく商品が、ずらりと並んでいるそうなのだ。

洗濯洗剤は「爽やかな雨」で、柔軟剤は「よみがえる雨」。体を洗うためには「純粋な雨」というせっけんがあり、シャンプーは「白い雨」、男性用の制汗剤は「花崗岩(かこうがん)の雨」で、女性用は「雨にキスされた睡蓮(すいれん)」…と、雨ばかり。

人類と雨のかかわりを描いた『雨の自然誌』(河出書房新社)によると、一九七〇年代までは、米国でも「花」の香りが洗剤などの主流だったが、ここ三十年ほどで「雨」を思わせる香りが人気となった。米国では雨が新鮮なイメージを喚起するからだというが、日本で洗剤のたぐいに「よみがえる雨」と名付けたら、悪い冗談だと思われるだろう。

それにしても、本当に悪い冗談のような空模様。東京都心ではきのうまで連続十九日、仙台では二十九日も雨が記録された。仙台のここ二十日間の日照時間は平年のわずか五分の一だというから、望まれる洗剤の名は、「よみがえる陽光」だろう。

子どもの詩を集めた『ことばのしっぽ』(中央公論新社)を開いたら、山梨県の五歳の子が書いたこんな詩が載っていた。<もしもし/こうふけいさつしょ/ですか/くもをたいほしてください/あめをふらせてこまります>

くもの容疑は「なつやすみどろぼう」か。

…………………………

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この本は読売新聞で50年連載が続いている、『子どもの詩』コーナーから、ステキな詩を更に選んで紹介したものです。詩はもちろん、大人が投稿してくれるものなので、一つ一つの詩には、共感してくれる身近な大人がいる、ということ・・・。僕はそこがすごく「素敵だなぁ」と感じています。

具体的にどんな詩が載っているかと言うと

【あめ】
あめ、ちょうだい
いっこだけでいいです
あか と みどり

【とけい】
もうちょっと
ゆっくりの
とけい
かいたい

【お姫さまごっこ】
さや(妹のこと)
お姫さまごっこしようよ
やだ
いっつもお姉ちゃん
ばっかり
お姫さまなんだもん
それじゃ
さやを王子さまにしてあげるから
王子
ごみをすててきてください

【せきがえ】
きょう 
せきがえが ありました
一がっき つかっていた
つくえと いすに
みんなにわからないように
チューしました

【かさ】
これ(かさ)は
あめのおとが
よくきこえる きかいです

【おてがみ】
まま わたしね ちっちゃいころ
ほこりがようせいさんからの
おてがみかとおもってたんだよ
かわいいね

【どんぐり】
なぜか
ひろってしまう
別に使わないのに
わすれてしまう
ハンカチを取る時
ポケットからころがり出る

【ねぇおかあさん】
赤ちゃんゆびって
いちばんはじっこで
さむくないのかなぁ?

ニホンカワウソ

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河北春秋 8/19

 供え物をして先祖を祭るように、カワウソは捕った魚を並べるという。書物に囲まれて文を書く様になぞらえる「獺祭(だっさい)」の言葉が生まれ、諧謔(かいぎゃく)たっぷりに「獺祭屋主人」と号したのが明治の俳人正岡子規だ。当時はそれほど身近な存在だったのだろう。

38年前、高知県で目撃されたのが最後の確認例とされるカワウソが長崎県の対馬で見つかった。琉球大の研究者らが偶然に動画で姿を捉え、環境省の調査の結果、2匹分のふんもあった。

同省が絶滅種に指定する固有のニホンカワウソが生きていたとすれば奇跡。ふんの分析では大陸の近親種ユーラシアカワウソかもしれぬというが、ならば対岸の韓国から海を渡ったことにもなり、それまた奇跡。

「獺沢(おそざわ)川」の地名が仙台にあり、カワウソはもともと日本中にいた。絶滅させたのは人間。明治以後、毛皮を防寒具に珍重し乱獲した。戦後は川辺の生息地が護岸工事で失われ、農薬で汚され、海辺でも多くがナイロン漁網に掛かり死んだ。

子規の古里愛媛県は、カワウソが県獣。県独自に絶滅危惧種に据え置き、42年前に捕獲例がある宇和島周辺でカメラを据え、情報を募り続ける。同県自然保護課は「対馬からのニュースは心強い」。自然の守り手となった人間の改心を、対馬のカワウソに伝えられたら。

…………………………

正平調 8/19

むかし、カワウソありけり。「イチゴがある」とサルに連れてこられた山中で置き去りにされた。オオカミに追われる羽目になり、命からがら逃げたという話が兵庫北部に伝わる(喜尚晃子編纂(へんさん)「但馬・温泉町の民話と伝説」)

もう一話。魚捕りに秀でたカワウソに「たまには1匹よこせ」と声をかけた老人がいた。翌日、家の前には立派なクロダイが置かれてあったという。こちらは本紙姫路版に載っていた播磨・家島の昔語りである。

明治のころまで全国にいたというから、兵庫各地でも見られたのだろう。民話から思うに、食いしん坊で少し間が抜けてはいるが、愛嬌(あいきょう)があって憎めない生き物らしい。

事実は時に伝承の世界に勝るほどのロマンをかきたてる。長崎・対馬で野生らしきカワウソの姿がカメラにとらえられた。国内での目撃は実に38年前の高知以来という。

絶滅したはずのニホンカワウソが息を潜めて暮らしていたか。韓国から大陸系の種が泳いでやってきたか。何となく渡来説に分がありそうな気配だが、まだ分からない。

彼らには捕った魚を並べて楽しむ習性があるそうだ。そのさまを獺(かわうそ)の祭り、「獺祭(だっさい)」と呼ぶ。久しぶりの登場で人を驚かせ、してやったりの気分かもしれない。今ごろは祭りのさなかだろう。


…………………………

地軸 8/19

 一報に「えっ!」と声を上げた。長崎の対馬で、国内で38年ぶりとなるカワウソの生息が確認された。環境省が、ニホンカワウソを絶滅種としたのは5年前。カメラに写り込んだ姿は「元気だよ」とアピールしているよう。

 種類の判別には、さらなる調査が必要。しかし、環境悪化や乱獲で激減したカワウソが、日本で生きていたことを素直に喜びたい。

 全国で唯一、ニホンカワウソを県獣とする愛媛。環境省が絶滅種に指定した後も、県は絶滅危惧種に据え置き、調査を続ける。県内では1975年、宇和島市九島での情報が最後とされるが、人の手が入っていない自然は多く残り「再発見」へ期待が高まる。

 見掛けなくなった今も、宇和島市は出生届にイラストを載せ、愛南町はゆるキャラのモチーフにする。地元ゆかりの生き物に関心を持ってほしい、との思いがにじむ。

 7年前、山梨の西湖で70年ぶりに確認された淡水魚クニマスを思い出す。秋田の田沢湖にだけ生息し、絶滅種とされていたが、西湖に卵が放流されていたという。発見に関わった「さかなクン」の笑顔も印象に残る。田沢湖では今、クニマスが再びすめるよう水質改善が進む。

 四国南西部は、ニホンカワウソの生息が最も期待される地域。魚介類しか食べず、環境変化に対応できない彼らのために、きれいな水を取り戻し、自然の海岸や河川を守りたい。それはすべての生き物にとっても、望ましいはず。

加熱たばこ



「ぼくの好きな先生」

歌:RCサクセション
作詞:忌野清志郎 作曲:肝沢幅一

たばこを吸いながらいつでもつまらなそうに
たばこを吸いながらいつでも部屋に一人
ぼくの好きな先生
ぼくの好きなおじさん
たばこと絵の具のにおいのあの部屋にいつも一人
たばこを吸いながらキャンバスに向かってた

ぼくの好きな先生
ぼくの好きなおじさん

たばこを吸いながら困ったような顔して
遅刻の多いぼくを口数も少なくしかるのさ

ぼくの好きな先生
ぼくの好きなおじさん

たばこと絵の具のにおいのぼくの好きなおじさん

たばこを吸いながらあの部屋にいつも一人
ぼくと同じなんだ職員室がきらいなのさ

ぼくの好きな先生
ぼくの好きなおじさん

たばこを吸いながら劣等生のこのぼくに
すてきな話をしてくれたちっとも先生らしくない

ぼくの好きな先生
ぼくの好きなおじさん

たばこと絵の具のにおいのぼくの好きなおじさん

…………………………


有明抄 8/19

 ♪たばこを吸いながら…で始まるロックバンド「RCサクセション」の名曲「ぼくの好きな先生」は故忌野清志郎(いまわのきよしろう)さんの作詞である。歌は<いつでもつまらなさそうに/たばこを吸いながら/いつでも部屋に一人/ぼくの好きな先生/ぼくの好きなおじさん/たばこと絵の具のにおいの…>と続く。

清志郎さんには終生慕った高校の美術部顧問の先生がいた。歌のモデルだが、<劣等生のこのぼくに/すてきな話をしてくれた>と詞にあるように、忘れられない人だったのである。たばこの匂いが青春の日々を思い起こさせてくれたのだろう。

たばこの形態が変わってきた。電気で葉タバコに熱を加えて専用の器具で吸う「加熱たばこ」が増えている。煙や灰が出ない上、有害物質も大きく減るという触れ込み。だが、税額が紙巻きより小さいことと、たばこ離れもあって、今年のたばこ税が前年より500億円以上も減るとの予想が出た。

身近でも見かけるようになった加熱たばこ。スマートな喫煙スタイルがいいのか、市場のベクトルは次世代たばこへと向いている。禁煙は世の趨勢(すうせい)とされる中、愛煙家には共存の道とも映っているのだろうか。

歌人の寺山修司に一首ある。<煙草(たばこ)くさき国語教師が言ふときに明日という語は最もかなし>。同じたばこの匂いも受け取り方はさまざまなようだ。

カワウソ

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『画図百鬼夜行』より「獺」

狸、狐、貂らと同様に、化けて人を脅かすと言われる獺(動物のカワウソと同じ)。
地方によって様々な伝承があり、中には河童の正体は獺であるというものまである。
それについては、河童が結局のところ謎な妖怪であるので、その正体を川辺に棲息する獺に求めるのは自然な気もする。とにかく、恐らくあなたが思っている以上に、獺の伝承というのは色々なところに存在しているのである。
石燕の描いたこの獺は、これから化けるところなのか、それとも化け終えたところなのか、はたまた化け損なった姿なのか。何にしろ傘を被って提灯を持つ様はどこか人間臭くってかわいい。

ちなみにカワウソはラッコの仲間でもあり、性格は至って温厚。
きっとその愛くるしいカワウソに嫉妬して誰かが妖怪に仕立て上げたに違いない。うん、違いない。

…………………………

宮城県の事例

かつて仙台の荒巻伊勢堂山に、夜毎に唸り声を発する大岩があった。さらにはその大岩が雲をつくような大入道に化けるという話もあった。
当時の藩主の伊達政宗はこの怪異を怪しんで家来に調査させたが、戻って来た家来たちは、大入道の出現は確かでありとても手に負えないと皆、青ざめていた。
剛毅な政宗は自ら大入道退治に出向いた。現場に着くとひときわ大きな唸り声と共に、いつもの倍の大きさの入道が現れた。政宗が怯むことなく入道の足元を弓矢で射ると、断末魔の叫びと共に入道は消えた。岩のそばには子牛ほどもあるカワウソが呻いており、入道はこのカワウソが化けたものであった。以来、この坂は「唸坂(うなりざか)と呼ばれたという。
この唸坂は仙台市青葉区に実在しているが、坂の名を示す碑には、かつて荷物を運ぶ牛が唸りながら坂を昇ったことが名の由来とあり、妖怪譚よりもこちらのほうが定説のようである。

…………………………

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中日春秋 8/18

昔話などで、何かに化けて人をだます動物といえば、キツネやタヌキを連想するが、この動物もなかなかの化かし上手らしい。カワウソである。

青森県の津軽地方では生首に化けて川を流れ、漁をする人を驚かせていたという話が残る。宮城県の伝説ではカワウソが大入道に化け、伊達政宗に退治されたそうな。水木しげるさんの『日本妖怪大全』にあった。

まさか人をたぶらかそうと現れたわけではあるまいな。琉球大学の研究チームが長崎県・対馬で野生のカワウソを確認したと発表した。国内で野生のカワウソが確認されたのは一九七九年、高知県で目撃されたニホンカワウソ以来、三十八年ぶりという。

気になるのはカワウソの種。絶滅したはずのニホンカワウソだとすれば対馬で細々と生き残っていたことになるし、ユーラシアカワウソなら、生息する韓国の離島から約五十キロも泳いで対馬にやって来たことになる。

見つかったふんからユーラシアカワウソのDNAが検出されているが、断言はできないらしい。どっちの種でも、キツネではなく、カワウソにつままれたような話である。

カワウソにつままれたとしても人間に叱る資格はなかろう。かつて日本全国に分布していたカワウソは明治以降、毛皮目当ての乱獲と河川の水質悪化などで姿を消していった。昔話と違い、ひどい目にあわせてきたのは人間の方である。

…………………………

越山若水 8/18

森の夜道を男が1人歩いていると怪しい声がする。「げた貸そか〜、傘貸そか〜」。テレビでかつて放送されていた「まんが日本昔ばなし」に、そんな回があった。

「竹やぶから化けもの」と題された話は、敦賀市内に残る民話に材を得たらしい。オチを明かすのは気が引けるが題名の化け物とはほかでもない、カワウソだ。

真っ暗な道中、雨に降られて難儀する男を見かねたとの美談である。人を化かすキツネやタヌキとは違い、彼らは優しい。そんな温かい地元民のまなざしを感じる。

長崎県・対馬で琉球大のチームがカワウソを撮影したという。これがニホンカワウソと特定されれば奇跡のようなニュースである。彼らは38年も前に絶滅したと考えられている。

昔は全国のどこにもいた。先の民話が残る敦賀市内には「獺河内(うそごうち)」、福井市にも「獺ケ口(うそがぐち)」という地名がある。この「獺」がカワウソで、身近な存在だったことをうかがわせる。

「獺祭(だっさい)」という言葉もある。近ごろは山口県の地酒の銘柄として知られるが、もともとは中国の書物「礼記(らいき)」の「獺(かわうそ)魚を祭る」から来た言葉だ。

カワウソは捕らえた魚を岸に並べる習性を持つという。それはまるで、物を供えて祭りをするようだと見立てた。いまは並べるほど魚もいない。そもそも「絶滅」させたのは誰か―。島の片隅で彼らは無言で抗議しているのだろうか。

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竹やぶから化けもの

演出:木村哲 文芸:沖島勲(脚本:平柳益実) 美術:古宮陽子 作画:数井浩子

あらすじ
むかし、ある村に九右衛門辻子(くえもんずし)という小さな道があった。この道は2つの寺のある大きな森の中を通っており、森の中には道を横切る小川があった。小川には半分朽ちかけた土橋が架かっており、辺りは浄泉寺のこんもりとした竹やぶ、その奥は良覚寺の墓場となっていた。そこは昼間でも薄暗く気味が悪いので、大の大人でも九右衛門辻子を通るのを避けていた。

しかし、全く通らないという訳にもいかず、ここに二人の男が村の寄り合いで遅くなったため、雨の中、夜の九右衛門辻子を急いでいる。二人が小川に架かる土橋のところまで来ると、小川から赤く光る目がのぞき、怪しい声が聞こえる。「下駄貸そか~~~、傘貸そか~~~」二人は震え上がり、大慌てでその場から走り去る。

それからしばらくして、彦三郎という男が親戚の招きで隣村まで行くことになった。隣村に行くためにはどうしても九右衛門辻子を通らねばならない。この彦三郎という男、臆病者であったが酒には目がなく、親戚の集まりで振舞われる酒のことなど考えながら九右衛門辻子を通って行った。彦三郎は親戚の家で勧められるままに酒を飲み、グテングテンに酔っ払ってしまう。

彦三郎が半ば追い出されるように親戚の家を出た時には、あたりは真っ暗になっており、おまけに黒い雲まで立ち込めていた。彦三郎が千鳥足になりながら九右衛門辻子を通る頃、とうとう雨が降り出した。彦三郎はそれでも上機嫌で鼻歌を歌いながら土橋のところまで来る。すると風が吹き始め、小川の中から赤い目が光る。そしてどこからともなく怪しい声が聞こえる。

「下駄貸そか~~~、 傘貸そか~~~。」酒が入っていた彦三郎はさほど怖いとも感じず、ちょうど雨に降られ濡れていたので、「下駄も傘も貸してくれ~~~!!」と怪しい声に答えた。すると竹やぶの中から傘と下駄が飛び出し、彦三郎の前にやって来た。彦三郎は、これで濡れなくて済むと思い、「化け物、明日返すぞ~~」と言って家に帰って行った。

翌朝、酔いから覚めた彦三郎は自分のしたことが怖くなってしまい、嫁さんと二人で化け物から借りた下駄と傘を恐る恐る見てみる。すると土間には馬の骨と馬用のわらじが転がっているだけだった。

これを聞いた村人は、雨に降られて難儀している彦三郎をみかねて、カワウソが助けてくれたのだろうと言った。それから九右衛門辻子の化け物の噂は消えて、周りに人家なども建つようになったという話だ。(カワウソが小川から顔をのぞかせる)

…………………………

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獺祭(だっさい)とは

獺祭

山口県にある旭酒造が作る、国内外で愛飲されている吟醸酒です。吟醸酒とは、玄米の表面を40%以上削り取り、精米の度合いが60%以下の低温で時間を掛けて作ったものです。時間やコストがかかるため、値段も張り普通酒と異なります。
また、大吟醸酒の場合、玄米の表面を50%以上削り取る必要があります。「酔うため、売るための酒ではなく、味わう酒」をコンセプトに、杜氏制度を廃止した上で、社員と共に年間を通して作っています。一般的な酒作りは、杜氏と蔵人たちによって行われるため、旭酒造のこの取り組みは斬新なものでした。そのため、生産性が上がることはもちろん、お客さんの要望にも迅速に応えられるようになり、品質向上に繋がっています。

名前の由来

旭酒造の所在地「獺越(おそごえ)」の由来が、「川上村に古い獺(カワウソ)が居て、子供を化かして当村まで追越してきた」ということから獺越と称され、この地名から一字取って「獺祭」と名付けました。
また、獺祭とは獺が捕まえた魚を岸に並べて、祭りをするかのように見えることから、文章などを作る時に数多くの資料を広げることを意味します。

獺祭ができるまで

旭酒造では、「遠心分離システム」を採用しています。これは、1分間におよそ3,000回転し、遠心力によってもろみからお酒を分離させます。日本酒業界においてこのシステムは画期的で、袋吊りで絞った時と同じように無加圧状態でお酒を分離させられるため、純米吟醸酒のもつ香りなどが損なわれず、非常に純度の高い酒が完成します。

袋吊り
もろみが完成してから酒を絞る過程で、槽を使用せずにもろみの入った布袋を吊るし、圧力をかけずに自然に落ちた酒のみを集める方法です。

海外でも人気がある

獺祭は、国内だけでなく海外でも人気があり、ニューヨーク・パリ・香港などの飲食店においても展開しているのです。このように、旭酒造が特に力を入れているのが海外市場の開拓です。2002年に初めて海外進出したところが台湾で、一定の成果を得てから米国に販売ルートを作りました。

獺祭のラインナップ

獺祭 発泡にごり酒 スパークリング50
獺祭には、さまざまな種類があり「発泡にごり酒 スパークリング50」は、女性の間で非常に人気があります。この酒の特徴は泡で、通常の炭酸ガスではなく酵母が発酵した時に生まれる二酸化炭素になります。瓶の中では、酵母から生まれた二酸化炭素により気圧が高くなっており、開栓するとポンッと心地よい音が鳴ります。

獺祭 磨き二割三分
繊細で、上品な香りと旨味が特徴です。ふんだんにお米を使っているため、お値段は張りますが飲む価値は十分にあります。ヨーロッパにおいて、最も権威のある食品コンクール「モンド・セレクション」を2002年に金賞受賞しています。米の精米歩合23%、日本最高峰といっても過言ではありません。精米歩合とは、玄米に対する重量の割合を指します。精米歩合60%であれば、玄米の表面を40%削り取って米ぬかに、60%まで磨いていること表します。
このことから、精米歩合の数値が低いほど、硬度に精米しているということになります。吟醸酒は27%が最高でしたが、二割三分の登場によって記録が塗り替えられ、酒造関係者を驚かせました。

おわりに

獺祭は日本酒を飲んだことのない方、苦手な方にも楽しんで飲めるように開発されたものです。獺祭の裏舞台を知ることで、より楽しんで飲んでいただけたら幸いです。

藪入り





藪入り(やぶいり)/落語


たっぷり笑わせ、しっかり泣かせる名品です。ホントはエロネタ!?

正直一途の長屋の熊五郎。

後添いができた女房で、
一粒種の亀をわが子のようにかわいがる。

夫婦とも甘やかしたので、
亀は、朝も寝床で芋をたべなければ起きないほど、
わがままに育った。

これではいけない、かわい子には旅をさせろだと、
近所の吉兵衛の世話で、泣きの涙で亀を奉公に出した。

それから三年。

今日は正月の十五日で、
亀が初めての藪入りで帰ってくる日。

おやじはまだ夜中の三時だというのに、
そわそわと落ち着かない。

かみさんに、奉公をしていると食いたいものも食えないからと、
「野郎は納豆が好きだから買っておけ。
鰻が好きだから中串で二人前、刺し身もいいな。
チャーシューワンタンメンというのも食わしてやろう。
オムレツカツレツ、ゆで小豆にカボチャ、安倍川餠」
と、きりがない。

時計の針の進みが遅いと、一回り回してみろ
と言ったり、
帰ったら品川の海を見せて、
それから川崎の大師様、横浜から江ノ島鎌倉、
足を伸ばして静岡、久能山、
果ては京大阪から、讃岐の金比羅さま、九州に渡って……
と、一日で日本一周をさせる気。

無精者なのに、
持ったこともない箒で家の前をセカセカと掃く。

夜が明けても
「まだか。意地悪で用を言いつけられてるんじゃねえか。
店に乗り込んで番頭の横っ面を」
と、大騒ぎ。

そのうち声がしたので出てみると
「ごぶさたいたしました。お父さんお母さんにもお代わりがなく」

すっかり大人びた亀坊が、
ぴたりと両手をついてあいさつしたので、
熊五郎はびっくりし、胸がつまってしどろもどろで
「今日はご遠方のところをご苦労様で」

涙で顔も見られない。

この間、風邪こじらせたが、おめえの手紙を見たら途端に治ってしまった
と、打ち明け
「この間、店の前を通ったら、
おめえがもう一人の小僧さんと引っ張りっこをしているから、
よっぽど声を掛けようと思ったが、里心がつくといけねえと思って、
目をつぶって駆けだしたら、大八車にぶつかって……」
と、泣き笑い。

亀が小遣いで買ったと土産を出すと、
「もったいねえから神棚に上げておけ。
子供の御供物でござんすって、長屋中に配って歩け」
と、大喜び。

ところが亀を横町の桜湯にやった後、
かみさんが亀の紙入れの中に、
五円札が三枚も入っているのを見つけたことから一騒動。

心配性のかみさんが、
子供に十五円は大金で、そんな額をだんながくれるわけがないから、
ことによると魔がさして、お店の金でも……
と言いだしたので、気短で単純な熊、
さてはやりゃあがったなと逆上。

帰ってきた亀を、いきなりポカポカ。

かみさんがなだめでわけを聞くと、
このごろペストがはやるので、
鼠を獲って交番に持っていくと一匹十五円の懸賞に当たったものだ
と、わかる。

だんなが、子供が大金を持っているとよくないと預かり、
今朝渡してくれたのだ、という。

「見ろ、てめえが余計なことを言いやがるから、
気になるんじゃねえか。
へえ、うまくやりゃあがったな。
この後ともにご主人を大切にしなよ。
これもやっぱりチュウ(=忠)のおかげだ」

【うんちく】

江戸時代の児童性的虐待

原話は詳細は不明ながら、
天保15年(1844=12月から弘化と改元)正月、
日本橋小伝馬町の呉服屋・島屋吉兵衛方で、番頭某が小僧をレイプし、
気絶させた実話をもとに作られた噺といいます。

表ざたになったところを見ると、何らかの
お上のお裁きがあったものと思われますが、
当時、商家のこうした事件は何ら珍しいことではなく、
黙阿弥の歌舞伎世話狂言「加賀鳶」・「伊勢屋の場」にも、

太助: これこれ三太、よいかげんに言わないか、たとえ鼻の下が長かろうとも。
左七: そこを短いと言わなければ、番頭さんに可愛がられない。
三太: 番頭さんに可愛がられると、小僧は廿八日だ。
太・左: なに、廿八日とは、
三太: お尻の用心御用心。

というやりとりがあります。

「お釜様」から金馬十八番へ

明治末期に初代柳家小せん(→「五人まわし」)が
アブナイ男色の要素を削除して、きれいごとに塗り替えて改作しましたが、
それまでは演題は「お釜様」で、サゲも
「これもお釜さま(お上さま=主人と掛けた地口)のおかげだ」
となっていました。

つまり、亀が独身の番頭にお釜(=尻)を貸し、
もらった小遣いという設定で、小せんがこれを
当時の時事的話題(→次項)とつなげ、「鼠の懸賞」と改題、
サゲも現行のものに改めたわけです。

小僧奉公がごく普通だった明治・大正期によく高座に掛けられましたが、
昭和初期から戦後にかけては、三代目三遊亭金馬が
「居酒屋」と並ぶ、十八番中の十八番としました。

金馬の、親子の情愛が濃厚な人情噺の要素は、
自らの奉公の経験が土台になっているとか。
現役では、三遊亭円楽が得意にしています。

鼠の懸賞

明治38年、ペストの大流行に伴い、その予防のため
東京市がネズミを一匹(死骸も含む)3~5銭で買い上げたことは
「意地くらべ」のその項に記しました。

補足すると、ペストの最初の日本人犠牲者は明治32年11月、広島で、
東京市が早くも翌年、明治33年1月に、ネズミを買い取る旨の
最初の布告を出しています。

希望者は区役所や交番で切符を受け取り、
交番に捕獲したネズミを届けた上、銀行、区役所で換金されました。

東京市内の最初のペスト患者は明治35年12月で、
38年にピークとなったのは「意地くらべ」でご紹介の通りです。
噺の中の15円は、特別賞か、金馬が昭和初期の物価に応じて変えたものでしょう。

ネズミの買い上げは、大正12年9月、関東大震災まで続けられました。

藪入り

「藪入りや曇れる母の鏡かな」
という、哀れを誘う句をマクラに振るのが、この噺のお決まりですが、
藪入りは江戸では、古くは宿入りといい、
商家の奉公人の特別休暇のことです。
江戸から明治・大正にかけ、町家の男の子は
十歳前後(明治の学制以後は、尋常または高等小学校卒業後)で
商家や職人の親方に奉公に出るのが普通でした。

一度奉公すると、三年もしくは五年は、親許に帰さないならわしでした。
それが過ぎると年二回、盆と旧正月に一日(女中などは三日)、
藪入りを許されました。
商家の手代・小僧は奉公して十年は無給で、五年ほどは
小遣いももらえないのが建前でした。

「藪」は田舎のことで、転じて親許を指したものです。
なお、「藪入り」の言葉と習慣は、労働条件が改善された
昭和初期まで残っていて、相撲史上有名な横綱・双葉山の
「70連勝ならざるの日」がちょうど
藪入りの日曜日(昭和14年1月15日)だったことは、
今でも昭和回顧で、よく引き合いに出されます。



…………………………

水や空 8/17

はなし家の語りにぴたりと合わせて役者が演技するテレビ番組がある。「落語の映像化」という感じだろうか。先ごろ見たのは「藪(やぶ)入り」だった。その昔、奉公人が正月と盆の16日だけ暇をもらい、実家に帰ったことを指すという。

3年ぶりに帰省した亀吉は目の前にいるのに、父は「亀、大きくなったか?」と妙なことを言う。姿を見ようにも「顔上げると涙がこぼれそうで、上げらんねえ」のだ。

昔も今も変わるまい。祖母なのだろう、JRで県外にUターンする親子を、涙ぐんで見送るご年配の女性の姿がテレビニュースで流れていた。心待ちにして迎え、ともに過ごしたのも、つかの間だったろう。

帰省にUターンにと続いた人の大移動が、ようやく落ち着いたらしい。もっとも11日の「山の日」から連休という人もいて、盆休みは近ごろ分散化しているとも聞く。人いきれがいくらか緩むといい。

こちらはむしろ、人いきれが望まれたろうに。対馬市が、島外から帰省した人に地元就職を促そうと11日に企業説明会を開いた。訪れたのは島内の2人きりで、空振りに終わったという。記事に寂しさが漂う。

日取りとか、周知の仕方とか、工夫の余地はあるのかもしれない。おそらくは「藪入り」の父に負けないほどの"待つ身"の思いが、そのうち届きますよう。

実家問題

凡語 8/16

 「土地・家屋」という、詩らしからぬ題の作品が1968年刊の石垣りん詩集にある。<ひとつの場所に/一枚の紙を敷いた。/ケンリの上に家を建てた。>

だれもがマイホームを夢見た高度成長期。<不動産という名称はいい、/「手に入れました」/という表現も悪くない。>けれど権利書一枚のために人生の大半を労働に費やす滑稽、やるせなさを問いかけているようにも読める作品である。

苦労して手に入れたのに、いまや「負動産」と呼ばれるそうだ。子どもたちが巣立ち、継ぐ人のない古家や土地。処分しようにも買い手がつかず、管理費と税金がかかるばかり-との声は交通の便に恵まれない地域で特に多い。

お盆に帰省した息子・娘夫婦と相続や墓守について話すつもりが、今年も切り出せなかった-ともよく聞く。あわただしく都会へ戻る姿を見送り、ため息をつく親。子の側にも事情や遠慮があり、実家の整理問題は先送りになりがちだ。

25歳の時に空襲で焼け出された前掲の詩人は、病弱な父と、父が次々に迎えた3人の後妻の子を含む弟妹たちの生計を女性の独り身で支えた。14歳から40年間働き、定年前にやっと自分の家を得た。

家は生涯の安心を意味した。それが変わる中、負の遺産にしない策を、社会全体で考える時にきている。

…………………………

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石垣りんの詩

「シジミ」 「子供」 「表札」 「くらし」 「夜毎」 「旅情」 「海辺」 「花」 「幻の花」 「島」 「えしやく」 「杖突峠」 「冠」 「崖」 「健康な漁夫」 「仲間」 「藁」 「貧しい町」「落語」「めくら祭り」 「海のながめ」 「土地・家屋」 「鬼の食事」 「経済」「愚息の国」 「カッパ天国」「銭湯で」「公共」「ひとり万才」「弔詞」 「唱歌」 「家出のすすめ」「干してある」「母の顔」「ちいさい庭」「童謡」「生えてくる」


「シジミ」

夜中に目をさました。
ゆうべ買つたシジミたちが
台所のすみで
口をあけて生きていた。

「夜が明けたら
ドレモコレモ
ミンナクツテヤル」

鬼ババの笑いを
私は笑つた。
それから先は
うつすら口をあけて
寝るよりほかに私の夜はなかつた。


「子供」

子供。
お前はいまちいさいのではない、
私から遠い距離にある
とうことなのだ。

目に近いお前の存在、
けれど何というはるかな姿だろう。

視野というものを
もつと違つた形で信じることが出来たならば
ちいさくうつるお前の姿から
私たちはもつとたくさんなことを
読みとるに違いない。

頭は骨のために堅いのではなく
何か別のことでカチカチになつてしまつた。

子供。
お前と私の間に
どんな淵があるか、
どんな火が燃え上がろうとしているか、
もし目に見ることができたら。

私たちは今
あまい顔をして
オイデオイデなどするひまに
も少しましなことを
お前たちのためにしているに違いない。

差しのべた私の手が
長く長くどこまでも延びて
抱きかかえるこのかなしみの重たさ。


「表札」

自分の住むところには
自分で表札を出すにかぎる。

自分の寝泊りする場所に
他人がかけてくれる表札は
いつもろくなことはない。

病院へ入院したら
病室の名札には石垣りん様と
様が付いた。

旅館に泊まつても
部屋の外に名前は出ないが
やがて焼場の鑵(かま)にはいると
とじた扉の上に
石垣りん殿と札が下がるだろう
そのとき私はこばめるか?

様も
殿も
付いてはいけない、

自分の住む所には
自分の手で表札をかけるに限る。

精神の在り場所も
ハタから表札をかけられてはならない
石垣りん
それでよい。


「くらし」

食わずには生きてゆけない。
メシを
野菜を
肉を
空気を
光を
水を
親を
きょうだいを
師を
金もこころも
食わずには生きてこれなかつた。
ふくれた腹をかかえ
口をぬぐえば
台所に散らばつている
にんじんのしつぽ
鳥の骨
父のはらわた
四十の日暮れ
私の目にはじめてあるれる獣の涙。



「夜毎」

深いネムリとは
どのくらいの深さをいうのか。
仮に
心だとか、
ネムリだとか、
たましい、といつた、
未発見の
おぼろの物質が
夜をこめて沁みとおつてゆく、
または落ちてゆく、
岩盤のスキマのような所。
砂地のような層。
それとも
空に似た器の中か、
とにかくまるみを帯びた
地球のような
雫のような
物の間をくぐりぬけて
隣りの人に語ろうにも声がとどかぬ
もどかしい場所まで
一個の物質となつて落ちてゆく。
おちてゆく
その
そこの
そこのところへ。
旅情
ふと覚めた枕もとに
秋が来ていた。

遠くから来た、という
去年からか、ときく
もつと前だ、と答える。

おととしか、ときく
いやもつと遠い、という。

では去年私のところにきた秋は何なのか
ときく。
あの秋は別の秋だ、
去年の秋はもうずつと先の方へ行つている
という。

先の方というと未来か、ときく、
いや違う、
未来とはこれからくるものを指すのだろう?
ときかれる。
返事にこまる。

では過去の方へ行つたのか、ときく。
過去へは戻れない、
そのことはお前と同じだ、という。


がきていた。
遠くからきた、という。
遠くへ行こう、という。



「海辺」

ふるさとは
海を蒲団(ふとん)のように着ていた。

波打ち際(ぎわ)から顔を出して
女と男が寝ていた。

ふとんは静かに村の姿をつつみ
村をいこわせ
あるときは激しく波立ち乱れた。

村は海から起きてきた。

小高い山に登ると
海の裾は入江の外にひろがり
またその向うにつづき
巨大な一枚のふとんが
人の暮らしをおし包んでいるのが見えた。

村があり
町があり
都がある
と地図に書かれていたが、

ふとんの衿から
顔を出しているのは
みんな男と女のふたつだけだつた。



「花」

夜ふけ、ふと目をさました。



私の部屋の片隅で

大輪の菊たちが起きている

明日にはもう衰えを見せる



この満開の美しさから出発しなければならない

遠い旅立ちを前にして

どうしても眠るわけには行かない花たちが

みんなで支度をしていたのだ。



ひそかなそのにぎわいに。

「幻の花」

庭に

今年の菊が咲いた。



子供のとき、

季節は目の前に、

ひとつしか展開しなかつた。



今は見える

去年の菊。

おととしの菊。

十年前の菊。



遠くから

まぼろしの花たちがあらわれ

今年の花を

連れ去ろうとしているのが見える。

ああこの菊も!



そうして別れる

私もまた何かの手にひかれて。

 「島」

姿見の中に私が立つている。

ぽつんと

ちいさい島。

だれからも離れて。



私は知つている

島の歴史。

島の寸法。

ウエストにバストにヒップ。

四季おりおりの装い。

さえずる鳥。

かくれた泉。

花のにおい。



私は

私の島に住む。

開墾し、築き上げ。

けれど

この島について

知りつくすことはできない。

永住することもできない。



姿見の中でじつと見つめる

私――はるかな島。

「えしやく」

私は私をほぐしはじめる。

おさない者に

煮魚(にざかな)の身を与える手つきで



風の中で薄れて流れる雲の方向で

種子(たね)を播(ま)く畑の土を鋤(す)き返す力で

青いりんごが季節を迎え

熟れてゆくあの頃合いで



亡母の手編みのセーターを解いてゆく

古いちいさい形への愛惜で



満ちた月はその先どうするか

飽きることなく教えつづけてくれた

あの方のほうへ会釈して



いまは素直にほぐしはじめる。

「杖突峠」

信州諏訪湖の近くに

遠い親類をたずねた。



久しぶりで逢つた老女は病み

言葉を失い

静かに横たわつていた。



八人の子を育てた

長い歳月の起伏をみせて

そのちいさい稜線の終るところ

まるい尻のくぼみから

生き生きと湯気の立つ形を落とした。



杖突峠という高みに登ると

八ケ岳連峯が一望にひらけ

雪をまとつた山が

はるかに横たわつていた。



冬が着せ更(か)えた白い襦袢(じゅばん)の冷たさ、

衿もとにのぞく肌のあたたかさを

なぜか手は信じていた。

うぶ毛のようにホウホウと生えている裸木

谷間から湧き立つ雲。



私は二つの自然をみはらす

展望台のような場所に立たされていた。

晴天の下

鼻をつまんで大きく美しいものに耐えた。

「冠」

奥歯を一本抜いた

医者は抜いた歯の両隣り

つごう三本、金冠をかぶせた

するとそのあたり

物の味わいばつたり絶え

青菜をたべても枯葉になつた

ああ骨は生きていなければならない

けだものの骨

鳥の骨

魚の骨

みんな地球に生えた白い歯

それら歯並びのすこやかな日

たがいに美しくふれ合う日

金冠も王冠もいらなくて

世界がどんなにおいしくなるか。

「崖」

戦争の終り、

サイパン島の崖の上から

次々に身を投げた女たち。



美徳やら義理やら体裁やら

何やら。

火だの男だのに追いつめられて。

とばなければならないからとびこんだ。

ゆき場のないゆき場所。

(崖はいつも女をまつさかさまにする)



それがねえ

まだ一人も海にとどかないのだ。

十五年もたつというのに

どうしたんだろう。

あの、

女。

「健康な漁夫」

天空に海苔シビのようなものが並び

家ごとにテレビのアンテナが並び。



光や風や水滴の中の

おりのような

こけのような

かすのような

人間の映像がひつかかり

少しづつたまり。



いまや季節の当来。

晴れた日、

寒冷に舟をやつて、

アンテナに生えた海苔のようなものを集め。



人間が食糧として好む、

有名

光栄

満足

等を。

簀(す)にうつすらのべて

干しあがるのを待つている。



向う岸で

赤銅色に焦げている漁夫とその家族。

「仲間」

行きたい所のある人、

行くあてのある人、

行かなければならない所のある人。

それはしあわせです。



たとえ親のお通夜にかけつける人がいたとしても、

旅立つ人、

一枚の切符を手にした人はしあわせです。

明日は新年がくる

という晩、

しあわせは数珠(じゅず)つなぎとなり

冷たい風も吹きぬける東京駅の通路に、

新聞紙など敷き

横になつたり 腰をおろしたりして

長い列をつくりました。



この国では、

今よりもつと遠くへ行こうとする人たちが

そうして待たされました。



十時間汽車に乗るためには、

十時間待たなければ座席のとれないことをわきまえ

金を支払い。



でも、

行く所のある人

何かを待ち

何かに待たれる人はとにかくしあわせ。



かじかんだ手の浮浪者が列の隣りへきて、

横になりました。

大勢のそばなので

彼は今夜しあわせ。

ひとりぽつちでない喜び

ああ絶大なこの喜び。

彼は昨日より

明日よりしあわせ。

何という賑やかな夜!



目をほそめて上機嫌の彼。

やがて旅立つ  誰よりもさき

誰よりも上手にねてしまつた  彼。

「藁」

午前の仕事を終え、

昼の食事に会社の大きい食堂へ行くと、

箸を取りあげるころ

きまつてバックグラウンド・ミュージックが流れはじめる。



それは

はげしく訴えかけるようなものではなく、

胸をしめつける人間の悲しみ

などでは決してなく、

働く者の気持をなごませ

疲れをいやすような

給食がおいしくなるような、

そういう行きとどいた配慮から周到に選ばれた

たいそう控え目な音色なのである。



その静かな、

ゆりかごの中のような、

子守唄のようなものがゆらめき出すと

私の心はさめる。

なぜかそわそわ落ち着かなくなる。

そして

牛に音楽を聞かせるとオチチの出が良くなる、

という学者の研究発表などが

音色にまじつて浮んでくる。



最近の企業が、

人間とか

人間性とかに対する心くばりには、

得体の知れない親切さがあつて

そこに足の立たない深さを感じると、

私は急にもがき出すのだ。



あのバックグランド・ミュージックの

やさしい波のまにまに、

溺れる

溺れる

おぼれてつかむ

おおヒューマン!

「貧しい町」

一日働いて帰つてくる、

家のちかくのお惣菜屋の店先きは

客もとだえて

売れ残りのてんぷらなどが

棚の上に  まばらに残っている。



そのように

私の手もとにも

自分の時間、が少しばかり

残されている。

疲れた  元気のない時間、

熱のさめたてんぷらのような時間。



お惣菜屋の家族は

今日も店の売れ残りで

夕食の膳をかこむ。

私もくたぶれた時間を食べて

自分の糧(かて)にする。



それにしても

私の売り渡した

一日のうち最も良い部分、

生きのいい時間、

それらを買つて行つた昼の客は

今頃どうしているだろう。

町はすつかり夜である。

「落語」

世間には

しあわせを売る男が、がいたり

お買いなさい夢を、などと唄う女がいたりします。



商売には新味が大切

お前さんひとつ、苦労を売りに行つておいで

きつと儲かる。

じや行こうか、  と私は

古い荷車に

先祖代々の墓石を一山

死んだ姉妹のラブ・レターまで積み上げて。



さあいらつしやい、  お客さん

どれをとつても

株を買うより確実だ、

かなしみは倍になる

つらさも倍になる

これは親族という丈夫な紐

ひと振りふると子が生まれ

ふた振りで孫が生れる。

やつと一人がくつろぐだけの

この座布団も中味は石

三年すわれば白髪になろう、

買わないか?



金の値打ち

品物の値打ち

卒業証書の値打ち

どうしてこの界隈(かいわい)では

そんな物ばかりがハバをきかすのか。

無形文化財などと

きいた風なことをぬかす土地柄で

貧乏のネウチ

溜息のネウチ

野心を持たない人間のネウチが

どうして高値を呼ばないのか。



四畳半に六人暮す家族がいれば

涙の蔵が七つ建つ。



うそだというなら

その涙の蔵からひいてきた

小豆は赤い血のつぶつぶ。

この汁粉  飲まないか?

一杯十円、

寒いよ今夜は、

お客さん。



どうしたも買わないなら

私が一杯、

ではもう一杯。

「めくらの祭り」

人は持っている

ふたつの顔。

顔には見鼻だち

からだにも

ひとくみの目鼻だち。

(そのひとくみを

いつからか、人はかくした)

両方の乳房は

見えない眼、

めくらは知っている

みえなくとも何かが在る。



何があるのだろう

ふれながらたしかめる。

ある日

たいかめたものの喜びと悲しみに

女の眼はうるみ

白い涙をとめどなくこぼした。

白い涙で育つ子。



おなかのまんなかにあるちいさいくぼみは

原初の鼻、

鼻は

遠い日母胎の中から

不思議なものを吸い上げてしまつた。

そこから花の匂い

潮の香り

風も光も吹き込んできた、

あのはじめての記憶を

やわらかいヒダのおくに

深くたたみこんでいる。



鼻のしたはくさむら、

女も男も

古い沼のほとりに羊歯(しだ)類を生やし

そのかげで鳴く虫

燃えているたくさんの舌。



舌は知つている、

海のようなテーブルの上に

やがてととのえられるご馳走について。



どこの国にも

ふたつとない果実

どんな料理人もつくりかたを知らない

華麗な晩餐

火の酒。



世界中の人たちが

すべての衣裳を捨てて

その食卓に向かう。



めくらの祭り

祭りの太鼓

熱も色もないかがり火。

「海のながめ」

海は青くない

青く見えるだけ。



私は真紅の海

海には見えないだけ。



生まれたときから皮膚は

からだ全体をおしつつみ

いつも細かく波立つていた。

そして自分の姿

私をとりかこむすべて

岸辺という岸辺に

打ち寄せ打ち寄せてきた。



けれどどんなことをしても

私の波立つ血が私を離れて

あの陸地、

と呼ぶ所にあがることは出来なかつた。



太陽にあたためられる表皮

つかの間の体温

内部にひろがる暗い部分は

冷えた祖先の血の深み。



もういわない、

私が何であるか

食卓でかみ砕いたのは岩

町で語りかけたのは砂

森で抱きしめたのは風

それだけ。



両手を顔にあてれば

いつかはげしく波立ちはじめる、

落日の中

暮れてゆく

みえなくなる

女。

「土地・家屋」

ひとつの場所に

一枚の紙を敷いた。



ケンリの上に家を建てた。



時は風のように吹きすぎた

地球は絶え間なく回転しつづけた。



不動産という名称はいい、



「手にいれました」

という表現も悪くない。



隣人はにつこり笑い

手の中の扉を押してはいつて行つた。



それつきりだつた

あかるい灯がともり

夜更けて消えた。



ほんとうに不動のものが

彼らを迎え入れたのだ。



どんなに安心したことだろう。

「鬼の食事」

泣いていた者も目をあげた。

泣かないでいた者も目を据えた。



ひらかれた扉の奥で

火は

矩(く)形にしなだれ落ちる

一瞬の火花だつた。

行年四十三才

男子。



お待たせいたしました、

と言つた。



火の消えた暗闇の奥から

おんぼうが出てきて

火照(ほて)る白い骨をひろげた。



たしかにみんな、

待つていたのだ。



会葬者は物を食う手つきで

箸を取り上げた。



礼装していなければ

恰好のつくことではなかつた。

「経済」

買ってきた一束の花を

紐でくくつて逆さにつるす。

流通のいい所、冷房の風が吹きぬける天井の近くに。



彼女は笑いながら言う。

こうして乾くのを待つの、

すると――

するとどうなる?

花はしぼまない、

花は色あせない。

咲いている花の姿のままで

いのちだけが吹きぬけてゆく。

いま流行の

キレイで経済的なドライフラワーが

どつさりできる。



熱気に満ちた外界の夏をよそに

そこは本当に設備のととのつた

涼しい



大会社の

女子社員控室の

頭の上のあたりで

やがてすつかり乾き

目的通り出来あがつた花が

通常の位置に返り咲くと。



こんどは逆さにぶるさがり、

揺れながら笑っているのは彼女たちだ。

あの新しい花をつくつた

手先きをヒラヒラさせて。

「愚息の国」

あなたはどなたでいらつしやいますか。



ロケットが、もう月の世界にとどいている

一九六〇年の一月一日

新聞をひらけば

我が子を「日の御子(みこ)」と呼んで

その結婚をことほぐあなたの歌がのせられている。



元来つつしみ深い日本の庶民たちは

賢い子供も愚息と呼び

トン児などと言い捨ててきた。



正月気分で街に出れば

年令はこの国の皇太子がらみ

丈高く面影うつくしい若者がいて

片手に大きなプラカードを持ち

さあいらつしやい、遊んでらつしやい

おたのしみはこちら。



指さす戸口にはパチンコ屋の騒音が

チンチンじやらじやらとあふれでている。

これはどなたの御子、か。



晴着を持たないひとりの女が外から帰り

すり切れた畳の部屋で

「ついこの間

一杯の塩もない新年があつた」

と呟きながら

餅焼網で餅を焼けば

白い餅よりもたいかな手ざわりで

喜びはかなしみに

愛はいかりに 裏返され。



しかも家族はめでたくて

地続きに住む雲上人の御慶事に

目を輝かせているばかり。



日、とは抽象。

御子、は尊称。



そこぬけに善意の御方とうかがえば

善とは何でありましょう。



あなたはどなたでいらつしやいますか。

「カッパ天国」

そこで、お勤めのほうはいかがですか

と、きた。



「重いですよ、月給が」



多すぎて重いですか、とはさすがに

きかなかつた。



無い、と生きてゆけない

その重たさ、だ。



どれはごく、うすでの枯葉色の

紙製品で、私の生活をつつむ

ただ一枚の衣裳で

いわば、かっぱの背にはりついているアレ。



精神の恥部はまるだしで

顔に化粧するご愛嬌。

このへん、みんなカッパだから

まあいいや。



(ひよつとすつと人間は、どこかの寓話の川のほとりに、すんでいる

かもしれないな)



私はにつこり笑つて

いつた

とてもいい所なんです。



ある日、遠くからきた新聞記者に答えたこと。

「銭湯で」

東京では

公衆浴場が十九円に値上げしたので

番台で二十円払うと

一円おつりがくる。



一円はいらない、

と言えるほど

女たちは暮らしにゆとりがなかつたので

たしかにつりを受け取るものの

一円のやり場に困つて

洗面道具のなかに落としたりする。



おかげで

たつぷりお湯につかり

石鹸のとばつちりなどかぶつて

ごきげんなアルミ貨。



一円は将棋なら歩のような位で

お湯のなかで

今にも浮き上がりそうな値打ちのなさ。



お金に

値打ちのないことのしあわせ。



一円玉は

千円札ほど人に苦労もかけず

一万円札ほど罪深くもなく

はだかで健康な女たちと一緒に

お風呂などにはいつている。

「公共」

タダでゆける

ひとりになれる

ノゾキが果される、



トナリの人間に

負担をかけることはない

トナリの人間から

要求されることはない

私の主張は閉(し)めた一枚のドア。



職場と

家庭と

どちらもが

与えることと

奪うことをする、

そういうヤマとヤマの間にはさまつた

谷間のような

オアシスのような

広場のような

最上のような

最低のような

場所。



つとめの帰り

喫茶店で一杯のコーヒーを飲み終えると

その足でごく自然にゆく

とある新築駅の

比較的清潔な手洗所

持ち物のすべてを棚に上げ

私はいのちのあたたかさをむき出しにする。



三十年働いて

いつからかそこに安楽をみつけた。

石垣りん

「ひとり万才」

新年!

と言つてみたところで

それは昨日の今日なのだ。

別段のこともあるまいと

寝正月を決めれば

蒲団の衿のあたりから

新年らしいものがはいり込んできて

何となくそんな気分になつてしまう。



習慣とか

しきたりとか

常識とか

それらは木や石でこしらえた家より

何倍かがつちり仕組まれていて

人間共の心の住処(すみか)になつている。



だから

正月といえば

正月らしい気分になり

今夜は是非とも良い初夢を見よう、などと

夢のような期待を

自分にかけたりする。



それ、

それほどの目出度(めでた)さで

新年という

あるような

ないようなものがやつてくる

地球の上の話である。

「弔詞」

職場新聞に掲載された105名の戦没者名簿に寄せて



ここに書かれたひとつの名前から、ひとりの人が立ちあがる。



ああ あなたでしたね。

あなたも死んだのでしたね。



活字にすれば四つか五つ。その向こうにあるひとつのいのち。悲惨にとぢられたひとりの人生。



たとえば海老原寿美子さん。長身で陽気な若い女性。一九四五年三月十日の大空襲に、母親と抱き合って、ドブの中で死んでいた、私の仲間。



あなたはいま、

どのような眠りを、

眠つているだろうか。

そして私はどのように、さめているというのか?



死者の記憶が遠ざかるとき、

同じ速度で、死は私たちに近づく。

戦争が終つて二十年。もうここに並んだ死者たちのことを、覚えている人も職場に少ない。



死者は静かに立ちあがる。

さみしい笑顔で

この紙面から立ち去ろうとしている。忘却の方へ発(た)とうとしている。



私は呼びかける。

西脇さん、

水町さん、

みんな、ここへ戻つて下さい。



どのようにして戦争にまきこまれ、

どのようにして

死なねばならなかつたか。

語つて

下さい。



戦争の記憶が遠ざかるとき、

戦争がまた

私たちに近づく。

そうでなければ良い。



八月十五日。

眠っているのは私たち。

苦しみにさめているのは

あなたたち。

行かないでください 皆さん、どうかここに居て下さい。

「唱歌」

みえない、朝と夜がこんなに早く入れ替わるのに。

みえない、父と母が死んでみせてくれたのに。



みえない、

私にはそこの所がみえない。

               (くりかえし)

「家出のすすめ」

家は地面のかさぶた

    子供はおできができると

    それをはがしたがる。



家はきんらんどんす

    馬子にも衣裳

    おかちめんこがきどる夜会。



家は植木鉢

    水をやつて肥料をやつて

    芽をそだてる

    いいえ、やがて根がつかえる。

家は漬け物の重石

   人間味を出して下さい

   まあ、すつぱくなつたこと。



家はいじらしい陣地

   ぶんどり品を

   みなはこびたがる。



家は夢のゆりかご

   ゆりかごの中で

   相手を食い殺すかまきりもいる。



家は金庫

   他人の手出しはゆるしません。



家は毎日の墓場

   それだけに言う

   お前が最後に

   帰るところではない、と。



であるのに人々は家を愛す

   おお、愛。



愛はかさぶた

   子供はおできができると

    ………。



だから家をでましょう、

みんなおもてへでましよう

ひろい野原で遊びましよう

戸じまりの大切な

せまいせせまい家をすてて。

「干してある」

私の肩にかかる

ふんわりとやさしいものが

よせてくる波打ち際(ぎわ)

なんべんも溺れて解けて

消えて生れる。

意識というもの

記憶というもの

あたたかい波の

きれぎれの海岸線に沿つて、

夫婦という町

兄弟という町

親子という町

恋人という町

その入江にひろがる

夜の深さ

夜明けのうすあかり。

ふとんはひろがる

いのちの半分

こころの半分

世界の半分

太陽が月にかぶせる

あの遠い半分の影のように。

浅く深く

かたくおもく

やがて呑む、

うめたくはげしく

全部の町

全部の人

ふとんの中の魚

ふとんが打ち上げる貝殻

たえまない饒舌

白い歯。



ふとんが空にいちまい。

「母の顔」

家は古い

死んだ母親が住んでいる。



どの新しいと呼ばれる家庭にも

母親がひとり。



働き者で

料理好きで

掃除好きで

洗濯好きで。



若い嫁がシチューをつくるそばで

赤ん坊の指を伸ばしたりしている

死んだ母親。



私は見た。

廊下を拭くため

人間のハラワタをしぼつているのを。



少年の肌は

死んだ母親が洗つている間に黄ばんでくる。



うつかりしていると

みんな片付けられて

その辺がせいせいしている。



やさしく、残酷な

生きている母たちの本当の母親。

死んだ母親。



家はどこもたいそう古い。

「ちいさい庭」

老婆は長い道をくぐりぬけて

そこへたどりついた。



まつすぐ光に向かつて

生きてきたのだろうか。

それともくらやみに追われて

少しでもあかるい方へと

かけてきたのだろうか。



子供たち――

苦労のつるに

苦労の実がなつてだけ。

(だけどそんなこと、

人にいえない)



老婆はいまなお貧しい家に背をむけて

朝顔を育てる。

たぶん

間違いなく自分のために

花咲いてくれるのはこれだけ、

青く細い苗。



老婆は少女のように

目を輝かせていう

空色の美しい如路(じょろ)が欲しい、と。

「童謡」

お父さんが死んだら

顔に白い布をかけた。



出来あがつた食事の支度に

白いふきんがかけられるように。



みんなが泣くから

はあん、お父さんの味はまずいんだな

涙がこぼれるほどたまらないのだな

と、わかつた。



いまにお母さんも死んだら

白い布をかけてやろう

それは僕たちが食べなければならない

三度のごはんみたいなものだ。



そこで僕が死ぬ日には

僕はもつと上手に死ぬんだ

白い布の下の

上等な料理のように、さ。



魚や 鶏や 獣は 

あんなにおいしいおいしい死にかたをする。

「生えてくる」

私の家はちいさいのに暮らしが重い。

二本の足で支えているのに

屋根がだんだんずり落ちてくる。



しかたがないので

希望とか理想とか

幸福とかいうもの

それらの骨格のようなものを

ひとつずつぬき捨て

ついに背景までひきぬいていまい

わたしのからだはぐにゃぐにゃになつていまい。



どうぞこの家、

過去のしがらみ、

仏壇ばかりにぎやかに

仏壇の中に台所まであり

毎日の料理もそこでつくられる

その味わいの濃さ

血の熱量に耐えられますように

と両手のなかで祈るうち。



私の同体からは

タコみたいな足が生え

四本も五本も生え

八本にもなって。

さあこれでどうやら支えられると安堵したら

その足を食べにくる

見たような顔をした不思議な人間。



あなたは?

と聞けば

親だという

誰々だという

忘れたの?

という。



私は首をふつて涙をこぼす、

いいえ

私の同族ではない、

私はタコです、人間ではない。



けれどタコの気持は人間に伝わらなくて

八本の足が食べられる

きのう一本、今日一本。



悲しまぎれに

六本足をたべられた、

と言いふらしたら

人間の足はもともと二本

二本足の人間なら

言つてならないことがある。



と、私を愛する家族がいう。

口をとがらせてみても

吸いこんでみても

広い、深い

正真正銘の愛というものが



海のようにとりまくので

かぎりなくとりまくので

私の足は減つたところから

またどうにか食べられそうな恰好で

生えてくる。

石垣りん詩集「表札など」完結

三すくみ

(ガマの妖術)市川猿之助の天竺徳兵衛

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 映画やテレビ、ましてインターネットなどなかった江戸時代、芝居見物は庶民にとって最高の楽しみでした。娯楽のあふれる現在でも、歌舞伎の舞台を見ていると、究極のエンターテインメントを目指した当時の芝居関係者の心意気を感じることができます。超常現象を舞台上でどう見せて客をあっと言わせるか、作者や裏方たちは、日夜工夫に明け暮れていたのです。
 「東海道四谷怪談」で知られる四世鶴屋南北は遅咲きの狂言作者でした。50歳で書いた出世作「天竺徳兵衛韓噺(てんじくとくべいいこくばなし)」の初演は1804(文化元)年7月の江戸・河原崎座でした。客入りの悪い夏場を乗り切ろうと、小屋主が座頭の初代尾上松助に出演を頼み、松助の指名で南北が初めて新作を書いたのです。芝居は、さまざまな仕掛けをほどこした「ケレン」と呼ばれる演出が評判を呼んで大当たりとなり、主役の徳兵衛を演じた松助は、毎夏の盆狂言で上演される怪談ものには欠かせない人気役者となりました。
 天竺徳兵衛というのは、江戸時代初期に実在した商人です。少年時代から朱印船に乗ってベトナムやシャム(タイ)に渡航、さらにオランダ人ヤン・ヨーステンと天竺(インド)に渡ったことから「天竺徳兵衛」と呼ばれるようになりました。鎖国令が出された以降は見聞録を書き、珍しい異国のありさまを伝えています。死後、歌舞伎や浄瑠璃に取り上げられた徳兵衛は、キリシタンと結びつけられ、ガマの妖術を使って日本転覆を志す悪人として描かれました。ご本人には気の毒ですが、鎖国下の人々には「キリシタン=妖術使い」という怪しいイメージがあったのでしょう。
 南北の名を世に知らしめた「韓噺」は、徳兵衛を描いたさまざまな先行作を集大成した芝居です。屋体崩しの屋根の上に、火を噴く大ガマに乗って現れ、舞台上の池の水に飛び込み、すぐに裃(かみしも)を着た使いに化ける早替わりを見せるなどで人々をあっと驚かせました。水中の早替わりがあまりに鮮やかなので、「キリシタンの妖術を使っているらしい」といううわさが江戸市中に広まり、奉行所の役人が調べに来る騒ぎとなって、それがまた人気に火を付けました。実はそのうわさは、芝居関係者がわざと広めたのだそうで、あざとい宣伝は江戸の昔も今と変わらないようです。
 天竺徳兵衛の正体は、朝鮮国王の臣下、木曽官(もくそかん)の息子大日丸。日本に潜入して吉岡宗観と名を変えていた父からガマの妖術を譲り受け、切腹した父の思いを受け継いで日本転覆を目指します。奇想天外、荒唐無稽なお話ですが、序幕では、厚司(あっし)という蝦夷(えみし)模様の入ったエキゾチックな衣装を着た徳兵衛が、珍しい異国の話をするのが見どころです。天竺の話ですが、ここは当て込みで現代の話題を話してもいいというのが歌舞伎の約束で、オバマ大統領やワールドカップなどの話も出てきます。
 次の見どころは追っ手に取り囲まれた徳兵衛が、ガマに乗って大屋根に現れる大スペクタクル。その場を逃れた徳兵衛は、今度はガマに変身して水門に現れ、立ち回りを演じます。花道でガマのぬいぐるみを脱ぎ、元の姿に戻った徳兵衛は六方を踏んで花道を引っ込むのですが、主役がぬいぐるみを着て出るのも歌舞伎では珍しい演出です。大詰めでは、座頭に化けた徳兵衛が現れて木琴を演奏しますが、正体を見破られると水に潜って姿を消し、すぐに上使の姿に変わって現れる早替わりを見せます。
 動物を使った妖術というと「伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)」の悪役、仁木弾正が使うネズミの妖術などが知られていますが、ガマの妖術が広まったのは「天竺徳兵衛」以降のことで、絵双紙などに盛んに描かれました。幕末に人気を集めた「児雷也」は、主人公の児雷也がガマの妖術を使って活躍する話で、現代のマンガにも影響を与えています。舞踊劇「将門」に登場する平将門の娘、滝夜叉姫は、筑波山でガマ仙人から妖術を授かり、大宅太郎光圀と戦う幕切れで、屋体崩しの中を大ガマとともに現れます。
 ガマ仙人は中国由来の伝説ですが、キリシタンと結びつけられたのは、近松門左衛門が天草四郎をガマの妖術使いとして描いたのが始まりのようです。徳兵衛はガマの妖術で「南無さったるまグンダリギャ、守護聖天、はらいそはらいそ」と呪文を唱えますが、これはキリシタンの祈とう(オラショ)から来たのだと言われています。ガマの妖術は、巳の年月日時刻のそろった女性の生血で破れますが、ガマと蛇は相争う関係で、こうした話は数多く残されています。
 「天竺徳兵衛韓噺」は、松助から養子の三代目尾上菊五郎に受け継がれ、音羽屋(菊五郎家)の家の芸となりました。これとは別に、二代目市川猿翁(三代目猿之助)が別の怪談話を加え、宙乗りやつづら抜けなどケレンを増やした「天竺徳兵衛新噺(いまようばなし)」を近年上演し、当代の猿之助にも受け継がれています。


…………………………
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中日春秋 8/16

紙、はさみ、石ではなく、江戸期に蛇、カエル、ナメクジのじゃんけんが流行したのは歌舞伎「天竺徳兵衛韓噺(てんじくとくべえいこくばなし)」の大当たりによる。芝居に出てくる大ガマが評判になった影響と聞く。蛇はカエルにカエルはナメクジに勝つ。最も弱そうなナメクジは蛇を溶かし勝つ。三すくみの関係が成立し、じゃんけんとなる。

東京タワーにほど近い、東京都港区の宝珠院。このお寺にその三すくみの蛇、カエル、ナメクジがいる。といっても石像や彫刻でそれぞれが、にらみあっている。

どうも不思議である。「三すくみ」と聞けば、物騒なにらみ合いを思い浮かべ、あまり、ありがたいものには思えぬが、お寺の見方は違うらしい。

三すくみであろうとにらみ合いであろうと物事が動かぬ状態は平和ではないか。そういうお考えである。なるほど。内心ではどう思っていようと動きさえしなければ、最悪の事態には発展しない。

三すくみではないが、にらみ合う米朝にこちらはすくむばかりである。攻撃すれば、待つのは反撃であろう。お寺の「三匹」が意を決しそれぞれに飛びかかったらを想像するまでもない。

ミサイル発射をちらつかせ、強気一辺倒だった北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長が十四日、やや軌道修正し「米国の行動を見守る」と発言した。決して楽観はしない。だが、その言葉が、賢き「すくむ」の兆しであることを願う。

八月十五日男

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俘虜記/大岡昇平のあらすじ

 神戸の造船会社で事務員をしていた35歳の「私」は、建艦状況を見て日本の敗北を確信していた。1944年(昭和19年)3月に召集され、フィリピンに送られた。1945年(昭和20年)1月25日、ルソン島の西南に位置するミンドロ島(大きさは四国の半分ほど)の山中において米軍の捕虜になった。ミンドロ島の守備隊のほとんどは、昭和19年に召集され、3か月の訓練の後に島に送られた補充兵だった。

 「私」は、マラリアにかかって弱り、部隊から見捨てられ、自決するためにピンを抜いた手榴弾が不発で、水を求めてさ迷った末に米軍の捕虜となった。「私」は、山道は両脇を米兵に支えられて歩き、ふもとに降りてからは担架に乗せられて運ばれた。「私」は、「文明国の俘虜となったこと」を知った。

 サンホセの野戦病院に収容され、米兵から「フジヤマ」と「ゲイシャ」について質問責めにされた後、レイテ基地俘虜病院に収容された。

 レイテ基地俘虜病院では、米兵は気を利かしてたばこの吸い残しを、患者が拾いやすい場所に投げ捨てたりしたが、日本人の捕虜の中から選ばれた食事配膳係などは粗暴が不親切で、横領など「あらゆる日本軍隊の悪習を継承していた」。

 「私」はたまたま病院を訪れた従軍牧師から「新約聖書」をもらいうけ、20年ぶりに読み返した。米兵から興味を持たれ、クリスチャンなのか、どこで英語を学んだのかなどを尋ねられた。

 レイテ基地俘虜病院が約2キロ南の村に移動し、約2か月を過ごした後、退院。病院車で、タナワンという村にあるという収容所に移送された。ベッドにはホコリがたまり、毛布が汚れ、用便は小屋の隅に置かれたバケツに足すという不潔で不衛生な環境になり、「また日本軍隊の匂いが濃くなってきた」。

 昭和20年3月中旬、レイテ島の俘虜収容所に入った。

 「決定的な敗軍から生き残った兵士のみより成った収容所では、既に日本精神は存在し得なかった」という。「私」は英語を教えるなどによって親しくなった病棟の衛生兵から事務用紙をもらい、薬品の空箱の段ボール紙の表紙といっしょに包帯でとじて、鉛筆で、帰還するまでに「大小説のシナリオ化」も含めて11編のシナリオを書いた。「かつて私はこの時ほど独創的であったことはない。多くのものが一晩か二晩で連続して書かれ」た。

 戦局は悪化し、4月には米軍が沖縄に上陸。6月から7月にかけて新収容所に移動したりしたが、捕虜たちは、新しいシャツと猿股を着て、チューインガムを噛み、煙草を吸い、労働に従事した際は賃金が積み立てられ、「単にカロリーにおいて十分であるばかりではなく、生活の快適においても、日本の戦時的市民生活より遥かにましになっていた。我々は一段と落着き払って来た」。

 捕虜の中のリーダー的存在である本部にいる「日本人収容所長」に選ばれたのは、今本(米兵は「イマモロ」と呼ぶ)という自称曹長の十六師団上等兵。今本の下には織田(米兵は「オラ」と呼ぶ)という兵曹がいた。

 今本は英語を理解しなかったが、米軍がいったんきめた代表者を変更することをめんどうくさがったために、その地位が存続。今本の役割は、米軍収容所長の指令を捕虜に徹底させることと、捕虜に不平や不満がある場合に代表して申し立てることだった。が、「この後の方の任務は殆ど実行されることがなかった」。

 今本は、食料分配でも古参の捕虜に多く分配し、山中をさまよい続けていたために栄養を必要としていた新米捕虜には食料をしっかりと分配しないなどした。しかし、中隊ごとに米兵が管理者として付くようになると、今本の存在意義が薄れ、権益を取り戻そうと躍起なった。そんな今本を、捕虜たちはおもしろがって無視した。今本は中隊の捕虜たちを「お前ら」ではなく「あんた方」と呼ぶようになった。

 中隊付きの管理者たちは日本兵捕虜を刺激しないよう特命を受けており、捕虜の前では、昭和天皇を必ず、「ヒロヒト」ではなく「エンペラー」と呼んだ。

 収容所で「私」は、南京の「暴兵」が語る、南京郊外の堤防上で着物を裂かれた半裸の女が放心したように足を投げ出して柳の幹に背をもたせかけていた光景を聞き、その光景の凄惨さではなく、その光景を語る「暴兵」の「平静な態度」に驚いた。セブで部隊と行動を共にした女性の従軍看護婦たちが、職業的従軍慰安婦ほど酷い扱いではなかったものの、1日に1回、兵士の性処理の相手をしないと食料を与えられなかったという。

 「私」は、米軍が捕虜に自国の兵士と同じ給与を与え、一方では、兵站が完備していたために捕虜を使役する余地がなかったことが「多分我々の堕落の原因」と分析。ある捕虜はベッドの下に穴を掘り、ドラム缶をすっぽり一つ隠して、その中にスウェター、手袋、化粧品から米軍の女子兵士用の生理用品まで、盗んできたありとあらゆるものを隠し、それを発見した米兵を感嘆させたりした。

 広島に原子爆弾が投下され、ソ連が参戦し、長崎にも原子爆弾が投下され、日本は降伏した。

 日本が降伏した1時間後の旧日本軍捕虜の状態は「要するに無関心の一語に尽きる」。今本のいる大隊本部からは、確報のあるまで軽挙妄動を慎むことや、特に団体行動は戒しむことなどの注意事項が出された。捕虜たちは「自殺すべからず」という事項を見て「大いに笑った」。

 レイテ戦から終戦までの間、「私」の知る限り、収容所からの脱走事件は1件しかなかった。

 終戦時、既に捕虜になっていた者はレイテ島第一収容所には7個中隊2000名がいたが、9月中旬からは終戦後に武装解除された者たちが入り、中隊の数は11個に増えた。新しく捕虜になったある元少尉は、捕虜たちの堕落した姿を見て「貴様等何故腹を切らんか」などと怒鳴りつけたが、「何だと。ただ山ん中逃げ廻ってやがった癖に、大きなことをいうな。憚りながら俺達は最前線に出たばっかりに負傷して、止むを得ず捕虜になったんだ」などと怒鳴り返された。

 古参の捕虜たちは、錆びて止まってしまった懐中時計や腕時計も内地に持ち帰り修理すれば動くことを知っていたため、飢えていた新しい捕虜たちから、たばこや缶詰と交換という形で巻き上げ、古参捕虜の多くが得意になって腕時計を付け始めた。

 「私」は、同朋の間で食料を分け合わず、さらに、「残酷な交易」に従事したものの多くがおとなしい捕虜であることに悲しんだが、そばにいた中隊長から、「奴等の持っている時計がそもそも怪しい代物なんだ」(=兵士の遺品かフィリピン人からの強奪品)などと諭された。

 「私」は、「『これが軍隊』なのではなく、『これが世間』なのである」と記した。

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中日春秋 8/15

「俘虜記(ふりょき)」などの作家、大岡昇平さんは自分のことを「八月十五日男」だと『成城だより』の中に書いている

こういう意味だ。八月十五日が近づくと、新聞から終戦記念日に当たっての感想やコメントの依頼が殺到する。したがって「八月十五日男」であり「手頃なマスコミ・フィギュア(人形)と化せしものの如し」

お書きになったのが一九八二年八月。当時よほどひっぱりだこだったのだろう。困惑はごもっともとはいえ、生身の体験として戦争はいやだときっぱりと語ってくれる「八月十五日男・女」の声がどうしても必要である。

怖かった。痛かった。悲しかった。その声はいかなる反論も戦争の美化も許さぬ現実である。その声は戦いに向かいたがる足をためらわせ続けてきたはずである。

「空襲で弟の手を離してしまった。今でも胸が痛い」「上級生が描いてくれた食べ物図鑑で空腹をまぎらわせた」。最近の新聞の発言欄で読ませていただいた。「八月十五日男・女」の声は今なお健在とはいえ、「戦後生まれ」は総人口の八割を既に超えている。生身の声は、か細く、やがては消えてしまう。戦争に向かう足にすがり、食い止めていた手が失われることになるまいか。それをおそれる。

声を聞く。覚える。真似(まね)でよい、口にする。それならば「八月十五日子ども」や「八月十五日孫」にもできる。声は消えぬ。


故郷へ帰りたい



中日春秋 8/14

米カントリー歌手ジョン・デンバーの「故郷へかえりたい」は一九七一年のヒット曲で日本でもおなじみだろう。「カントリー・ロード」と呼んだ方がピンとくるか。望郷の歌である。

歌詞にウェストバージニアと出てくる。この縁でウェストバージニア州歌の一つになったそうだが、歌われるブルーリッジ山脈、シェナンドー川はいずれもウェストバージニア州というよりもお隣のバージニア州に大部分がかかっている。作詞者は地元出身ではなく、勘違いした可能性もあるそうだ。

そのシェナンドー渓谷にほど近く、世界遺産も抱えるバージニア州シャーロッツビルでの痛ましい事件である。白人至上主義者とこれに抗議する人々が衝突。猛スピードの車が抗議の声を上げていた人々に突っ込んで、女性一人が死亡。十九人が負傷した。

独立宣言起草のトーマス・ジェファソン大統領ゆかりの地。落ち着きある歴史の町に人種対立の血が流れた。

「家に帰れ」。州知事が白人至上主義者を厳しく非難したのに対し、トランプ大統領はどうも腰が定まらぬ。白人至上主義者を最後まで名指しせず「すべての側からの憎悪、偏見、暴力を非難する」。これでは差別への抗議者も悪いかのように聞こえる。

自分の支持層への配慮らしい。差別する者。それに目をつぶるかのような国のリーダー。望郷のあの温かい歌がうまく重ならぬ。

彗星


「ジャコビニ彗星の日 」

歌:松任谷由実
作詞:松任谷由実作曲:松任谷由実

夜のFMからニュースを流しながら
部屋の灯り消して窓辺に椅子を運ぶ
小さなオペラグラスじっとのぞいたけど
月をすべる雲と柿の木ゆれてただけ

72年 10月9日
あなたの電話が少いことに慣れてく
私はひとりぼんやり待った
遠くよこぎる流星群

それはただどうでもいいことだったのに
空に近い場所へでかけてゆきたかった
いつか手をひかれて川原で見た花火
夢はつかの間だと自分に言いきかせて

シベリアからも見えなかったよと
よく朝弟が新聞ひろげつぶやく
淋しくなればまた来るかしら
光る尾をひく流星群

…………………………

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談話室 8/13

少し切ない恋心を歌う松任谷由実さんの「ジャコビニ彗星(すいせい)の日」は、詞の中に1972年10月9日という具体的な日付が唐突に出てくる。流星群が大出現するとの予想に日本中が沸いたものの、空振りだった日である。

流星の正体は、彗星が通った後に川のように残された大量の塵(ちり)だ。その塵でできた川と地球の軌道が年に1度交差する夜が流星群となる。ジャコビニ流星群は後年、太いと思われていた塵の川が実は細い川の集まりで、川と川の隙間を地球がするりと抜けたことが判明した。

国立天文台副台長の渡部潤一さんも小学生だった45年前、流星群を待ちながら会津若松市の夜空を眺めていた。予想の大外れで逆に、謎に満ちた宇宙への興味をかき立てられ天文学者になったそうだ。あの夜、流星群が出現しなかった謎を自らの手で解き明かした人である。

さてペルセウス座流星群は昨晩からきょう未明が出現ピークだった。県内は曇りや雨で観測条件は厳しかったようだが、この流星群は天気さえ良ければ観測チャンスがまだ数日は続くという。夏休みの一夜、親子でわくわくしながら流れ星を待つだけでもいい思い出になる。


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・ペルセウス座流星群とは

ペルセウス座流星群は毎年8月12日、13日頃を中心に活動する流星群です。

ペルセウス座流星群は、とても観察しやすい流星群です。

毎年、ほぼ確実に、たくさんの流星が出現することがその理由のひとつです。1月の「しぶんぎ座流星群」、12月の「ふたご座流星群」とともに「三大流星群」と呼ばれています。条件が良ければ最大で40個以上の流星を見ることができます。

また、流星群の活動期間が多くの方の夏休みやお盆休みに重なっているため、夜更かしをしやすかったり、星のよく見える場所に行きやすかったりすることも理由に挙げられます。

さらに、「しぶんぎ座流星群」と「ふたご座流星群」の活動は寒い冬の時期に当たりますが、ペルセウス座流星群の活動は夏の盛りに当たりますので、観察時の寒さについてあまり心配する必要がありません。

・ペルセウス座流星群を観察するために

今年のペルセウス座流星群を観察するのに役立つ情報をまとめました。

・観察に適した時期

・観察に適した日

8月12日から13日にかけての夜に最も多くの流星が見られそうです。

また、13日から14日にかけての夜も、ある程度の数の流星が出現すると考えられます。

2017年のペルセウス座流星群の極大は、日本時間の8月13日4時頃と予想されています。その頃ちょうど日本ではペルセウス座流星群の放射点が高く昇り、多くの流星が出現することが期待されます。そのため、12日から13日にかけての夜は、最も多くの流星を見ることができそうです。
また、極大からは時間的に少し離れてしまうために極大の夜ほどではありませんが、13日から14日にかけての夜も、ある程度の数の流星が出現すると考えられます。

ただ、いつ晴れるかはわかりませんし、予想外のタイミングで流星が活発に出現する可能性もあります。上記の予想にあまりとらわれず、なるべく長い時間、そして長い期間観察を続けてみてください。長く観察すれば、それだけ流星を見るチャンスが増えることになります。

8月7日頃から15日頃までは、ペルセウス座流星群の活動が比較的活発な状態が続いているため、普段より多くの流星を見ることができると考えられます。出現する流星の数は、極大から日が離れるほど少なくなります。
また、ペルセウス座流星群の全活動期間はさらに長く、7月17日頃から8月24日頃まで続くと考えられています。

・観察に適した時間帯

なるべく、夜半から未明までの間に観察するのがよいでしょう。

(流星群自体の活動が一定であれば)流星群の放射点の高度が高いほど多くの流星が出現します。ペルセウス座流星群では、時間帯ごとの流星の出現状況は、おおよそ次のようになります。

21時前放射点がまだ地平線近くの低い位置にあるため、流星はあまり出現しません。21時過ぎから夜半まで放射点の高度が徐々に上がり、流星が出現し始めます夜半から未明まで放射点の高度は高くなり続け、未明に最も高くなります。放射点の高度が高くなるにつれて出現する流星の数も多くなっていき、空が明るくなり始める前に最も多くの流星が出現します。

・月明かりの影響

極大の前後数日間は、観察に適した時間帯に明るい月が見えています。なるべく月が視界に入らないようにして観察しましょう。

今年は、8月8日が満月、15日が下弦です。出現する流星の数が多くなると考えられる13日頃を含む数日間は、観察に適した時間帯にさしかかる夜半前には月が昇ってきます。下弦前の月は明るく、月が出ている間は、暗い流星は月明かりにまぎれて見ることができません。月は夜が明けるまで沈みませんので、今年は月明かりを避けることはなかなか難しいでしょう。

今年のように月明かりがある場合には、月がなるべく視界に入らない方向を向いて観察をするとよいでしょう。また、月明かりに負けないくらい明るい流星が現れることを期待しましょう。

月の出入り時刻は、国立天文台暦計算室の「こよみの計算(CGI版)」で調べることができます。


・見える流星の数

夜空が十分に暗い場所で観察すれば、最も多いときには、1時間当たり35個程度の流星を見ることができると考えられます。
これは、(月が出ていなければ肉眼で5.5等星まで見えるような)夜空が十分に暗い場所で観察した場合を想定しています。

街明かりの中で観察したり、極大ではない時期に観察したりした場合には、見ることのできる流星の数が何分の1かに減ってしまうことがあります。反対に、目のよい方や、流星観測の熟練者が観察した場合には、2倍以上の数の流星を観察できることがあります。

・観察に適した方向と流星の見分け方

空の広い範囲が見渡せれば、どちらを向いて観察しても構いません。月が視界に入らないようにしましょう。

ペルセウス座流星群の放射点の位置を示した図
画像サイズ:中解像度(2000 x 1265) 高解像度(5500 x 3480)
流星群の流星はある一点を中心に放射状に出現します。中心となる点を「放射点」といい、ペルセウス座流星群の場合は、ペルセウス座のγ(ガンマ)星の近くにあります。
しかしこれは、放射点のあるペルセウス座付近だけに流星が出現するということではありません。流星は夜空のどこにでも現れます。例えば、放射点とは反対の方向を見ていても、平均すれば、放射点の方向を見たときと同じ数の流星を見ることができます。

ですから、放射点の方向にはあまりこだわらず、空の広い範囲に注意を向けるようにしましょう。空をより広く見渡しているほうが、より多くの流星をとらえられる可能性が高くなります。

今年は、月明かりの中で観察することが多くなると思われます。月が視界の中にあるとその明るさのために暗い流星を捉えづらくなります。月がなるべく視界に入らない方向を向いて観察しましょう。

ペルセウス座流星群が活動する期間にも、ペルセウス座流星群以外の流星が出現します。
ペルセウス座流星群の流星かどうかは、流星の軌跡を反対の方向にたどり、ペルセウス座流星群の放射点を通るかどうかで判断します。 放射点を通らなければペルセウス座流星群の流星ではありません。放射点を通れば、ペルセウス座流星群の流星である可能性が高いと考えられます。

放射点との位置関係によって、流星の軌跡の長さは違ってきます。放射点近くに出現する流星は、こちらに向かって飛んでいるために短い軌跡の流星が多く、一方、放射点から離れた方向では、流星の軌跡を横から見ることになるために、長い軌跡の流星が多くなります。

詳しい見分け方は、キャンペーンサイトの「流星の見分け方」(「夏の夜、流れ星を数えよう 2017」キャンペーンサイト)をご覧ください。

・観察に適した場所

空をなるべく広く見渡すことができ、街灯などが少ない場所で観察しましょう。

林の中のように空があまり見渡せない場所や、ベランダのように空の一部しか見えない場所では、空全体に現れる流星をとらえきれません。なるべく視界を遮るものが少なく、空を広く見渡せる場所を探してください。

また、できるだけ、街灯など人工の明かりが少ない場所を選びましょう。流星の光は、街灯の明かりなどに比べるととても弱いものです。明かりが多いと、その明るさに妨げられて暗い流星が見づらくなり、それだけ、見ることのできる流星の数が少なくなってしまいます。

大きな都市やその周辺地域では、都市全体の明るさに妨げられ、暗い流星を見ることができません。大きな都市からはなるべく遠く離れた場所で観察できるとなおよいでしょう。

・観察の際の注意

望遠鏡や双眼鏡などの特別な道具は必要ありません。肉眼で観察しましょう。望遠鏡や双眼鏡を使うと視野がたいへん狭くなってしまうため、流星の観察には適しません。
立ったままで長い時間観察をすると疲れます。レジャーシートなどを用意して、寝転がったまま観察できるよう準備をしておくとよいでしょう。
屋外に出てから暗さに目が慣れるまで、最低でも15分間は観察を続けるようにしましょう。
夜遅く屋外で行動することになりますので、事故などに十分注意してください。
人家の近くで大声を出したり、立入禁止の場所に入ったりしないよう、マナーを守ってください。

クールダウン

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七転び八転びしながら、身体ぐるみで子どもを育て、仕事に全力投球してきた西原さんが、ずっと言えなかったこと、今だからこそようやく書けたこと。
胸に刺さりまくる、大切な気づきが詰まった人生のトリセツ――『女の子が生きていくときに、覚えていてほしいこと』。発売たちまち大反響&共感の嵐を呼んでいる本作の冒頭「はじめに」を特別公開! ぜひご一読ください。
はじめに 私が女の子だった頃
 女の子って、いつの間に大人になるんだろう。
 上京した日のことは、今でもよく覚えている。
 見送りにきたのは、あの頃つきあっていた彼氏で「別れたくない」って泣いてくれた。「あたしも」って言ったけど、頭の中はこれから東京で始まる新しい生活のことでいっぱいで、優しくて、かっこよくて、おまけに地方公務員という、この先、二度とめぐりあえないハイスペックな彼氏とさよならすることに何のためらいもなかった。
 あの時、私は19歳で、なんにもなかった女の子だったのに、どうしてそんなことができたんだろう。
 全部捨てて、東京で生きていく。
 美大に進学して、絵を描いて食べていく人になる。
 高知にはもう戻らない。そう決めて、ただ、前だけを見ていた。
 進学することも、上京することも、当たり前に許される環境じゃなかった。
 私の田舎はとても貧しくて、子どもの頃、私の友達は大人たちから本気で殴られていた。貧しさからくるどうしようもない怒りや悲しみは、暴力になって、一番弱い者にいく。周りを見回しても、地方のとりたてて何のウリもない町で暮らす女の子がたどる道は、だいたい決まっていた。
 あの町でイケてる男って言ったらやんちゃ自慢の不良のこと。言い換えれば無職のバカ。
 カワイイ子ほど、ろくでもない男につかまって、人生決まっちゃうのが早い。離婚率も高くって、シングルマザーになっても、養育費をもらえないどころか、逆に借金だらけ。男に頼るような生き方をしていたら、確実に路頭に迷う。みんなひどくイライラしていた。それはすぐに暴力になって、男は女を殴り、最後は子どもにいく。そういう生き方を山ほど見てきた。
 あぶなっかしいよね、女の子が生きていくのって。なんの心構えもできないうちに、いちかばちかの出たとこ勝負。
 初心者のサーフィンみたい。
 うまく波に乗れたらいいけど、最初の波でつまずいたら、あっという間に沖に流されちゃう。周りを見回しても、お手本にできる大人なんていなかった。地方に生まれて、勉強もできないわ、器量もフツーで、ろくな男がいないとなれば、逃げ場ナシ。
 それが、あの頃の私──。
 自分も、将来はあんなふうに男に殴られて、子どもを殴る親になるのかと思ったら、大人になるのが、すっごく怖かった。働ける場所も今よりずっと限られていて、こんなところにいたくない、そう思っても、抜け出す術がない。
 今思うに、決して順風満帆な船出じゃなかった。
 私が大学を受験するはずの日に、父親が首を吊って死んだ。
 お葬式に呼び戻された私を待っていたのは、借金まみれの父親に、私の進学のためのお金を「出せ」と迫られて、ボッコボコに殴られた母親で、母親が死守したわが家の全財産140万円のうち、100万円が、私が東京に行って、予備校に通うための軍資金になった。
 あんな状況で、高校を中退したバカ娘に、ほとんど全財産をぶっ込んでくれた母には感謝しかない。本当にありがとう。
 何かやろうとしても「みっともないから、やめなさい」って言うばっかりで、どうせ何を言っても、わかってくれないと思っていた。あんなふうにはなりたくないと背中を向けていた母親に、私は、道をつないでもらった。
 夢や希望があって、ここまで歩いてこられたわけじゃなかった。
 働こう。自分でお金を稼げるようになれば、あんなつらい場所には戻らないで済む。もう二度と、あの場所には戻らない。そう心に決めていたからこそ、どんな時だって前を向くことができた。
 あれから32年が経って、私は52歳になった。
 東京で漫画家になり、大学に通う息子と高校2年生の娘の母親になった今、19歳だった私のことを、ふと思い出すことがある。
 私なんて、田舎にいた頃は、ホント、ただのヤンキーだったから。
 へたしたら、今ごろどうなっていたかわからない。
 だから今、逆風の中にいて、どうしたらいいかわからずにいる女の子たちに、言っておきたい。そこから1歩踏み出すことを、どうか諦めないで。
 20歳までは、困れば誰か助けてくれるかもしれない。でもそこから先は、自分で道を切り開いていくしかない。若さや美貌は、あっという間に資産価値がゼロになってしまう。仕事のスキルや人としての優しさ、正しい経済観念。ゼロになる前にやっておかなければならないことはたくさんあります。自立するって、簡単なことじゃないからね。
 結婚したからって、そこがゴールじゃない。相手が病気になることもあれば、リストラされちゃうことだってある。どんなに立派な人だって、壊れてしまうことがある。つぶれない会社、病気にならない夫はこの世に存在しません。そうなってから「やだ。私、なんにも悪くないのに」じゃ、通らない。
 だから、娘に言っています。
「王子様を待たないで。社長の奥さんになるより、社長になろう」
 女磨きって、エステやネイルサロンに通うことじゃないからね。お寿司も指輪も自分で買おう。その方が絶対楽しいよ。
 娘は、今、反抗期真っただ中で、だからお互い口もきいてない。私にも身に覚えがあるから、なんの心配もしていない。
 ああ、そろそろ彼女も、船出の時が近づいてきたんだなって。
 旅立つ前に、伝えておきたい。
 これから世の中に出ていく女の子に、覚えておいてほしいことがある。
 立派な言葉なら世の中に溢れてるけど、私が言いたいことは、そういうことじゃない。本当に覚えておかなきゃいけないのは、たぶん、転んだ時の立ち上がり方。
 長い人生、人は何回も転ぶ。その時腐らず立ち上がる方法。
 どうか、覚えておいて。

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…………………………


小社会 8/13

 さっきまで笑って話していたのに、突然「うざいんだよ!」。ここはぐっと我慢と思っても、ついカッとなって言い返し一触即発の状態に。子どもが反抗期だったころ一度ならず経験した。

 そんな時、役立つのが「5分間ルール」と高知市出身の漫画家、西原理恵子さん。感情的になる前に5分間だけ別室に行き、互いに冷静になる。たった5分、でもその5分が、手をあげたり声を荒らげたりしないための防御壁になる、と新刊エッセーに書いている(「女の子が生きていくときに、覚えていてほしいこと」)。

 長年、子育て奮闘記「毎日かあさん」を描いてきた西原さん。説得力がある。国と国との対立を親子げんかに重ねるのは気が引けるが、国のトップも感情を持つ人間なのだからあながち的外れではあるまい。

 グアム島周辺への弾道ミサイル発射を警告する北朝鮮に、トランプ米大統領は「炎と怒りに直面する」。言葉の戦争は激化の一途で、ついには本県を含む中四国4県に地対空誘導弾パトリオットが展開する事態になった。

 万が一に備えるのはむろん大切だ。ただし、対決姿勢をエスカレートさせるだけでは、不測の事態を招く確率も高まろう。万が一を回避する対話の努力がいっそう求められる時である。

 北朝鮮問題を巡っては、6カ国協議という「別室」もあったはず。クールダウンに向けて「5分間ルール」の精神を生かしたい。

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マダニ

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中日春秋 8/13

私たちの体は、実によくできたもので、血管に傷がつけば、ぎゅっと収縮して、血を止めようとする。だが、敵もさる者。血を吸う虫は、血を止めさせぬための巧みな術(すべ)を持っている。

東京医科歯科大学の岩永史朗教授らは、アフリカに棲(す)むある種のマダニが使う「血管拡張ホルモン」をつくる遺伝子を調べた。その由来を探ると、二億四千万~九千四百万年前の恐竜か爬虫類(はちゅうるい)に由来するものだと判明した。

つまり、このマダニは恐竜などの血を吸ううちにその中にあった遺伝子を受け取り、それを使って吸血の技を発展させたというわけだ。小さなマダニの中に、巨大な恐竜の遺伝子があるかもしれぬというのは、何と、生命進化のスケールの大きさを感じさせる発見か。

…と感心してばかりもいられぬのが、最近のマダニによる感染症の増加である。国立感染症研究所によると、マダニが細菌を媒介する日本紅斑熱の患者は、最多だった昨年を超す勢いだという。

つい数年前に中国で見つかったばかりの重症熱性血小板減少症候群(SFTS)はマダニがウイルスを媒介し、死亡率20%という怖い病気だが、わが国でも報告例が増えているという。

小さなマダニの危険は、決して小さくない。噛(か)まれた後に発熱したら、すぐに病院へ…ということを頭の片隅に置いて、野山へ。まだまだ知られぬ謎を秘めた虫たちが、待っている。