雑学の記事 (1/6)

スコップとシャベル

スコップとシャベル

 辞書を見て驚いた。スコップを調べると「小型のシャベル」(『日本国語大事典 第2版』)と書いてある。自分の知識の中では、スコップは大きいもの(子どもの用のおもちゃを除く)で、シャベルは片手で握る小さなもの、別名、移植ごて、というはっきりした区別があったから。
 ところが、辞書では、スコップもシャベルも同じものというような説明ぶりなのだ。
 『大辞林 第2版』のシャベルの項に「関西では移植ごてなど小形のものをいう」と注記してある。なるほど、東西で呼び方や指すものが異なっているのだ。
 1957年ごろにホッピングがブームになった。本物は手に入らないので、「スコップ」で代用していた。先端が折れ曲がってしまったこともある。
 スコップはschopというオランダ語に由来する外来語。シャベルは英語shovelから。今日ではパワーシャベルのような大きなものもシャベルと言うから、スコップは劣勢かと思えばそうでもなさそうだ。
 園芸用の小さなもの(移植ごて)がガーデンスコップの名前で売ってある。大きなものはガーデンシャベルとかフローラルシャベルと呼ばれている。
 半世紀に渡って認識してきたスコップとシャベルの区別が、ここにきて大きく揺らいだ。カタログを見ないで、電話だけで注文すると大変なことになるところだった。

ハリセンボン

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「ハリセンボン」というお魚、ご存じですか?
(あの、芸人の「ハリセンボン」ではないですよ。とはいっても春菜さんに似てなくもないかな…。)


ふぐの仲間の魚で、怒るとぷくっと写真のようにふくれます。ふぐの仲間ですが、卵以外に毒はないので一部食用としても親しまれています。(沖縄など)。でも、多くのハリセンボンは実際は食べられるところが少ないので、一般的には食用としては敬遠されているようです。

このハリセンボン、針自体は大体5センチくらいでとくに毒はありません。ただ、先は結構とがっていて刺さると痛いものです。

さて、昔の人はこの魚のことを「ハリセンボン」と名付けましたが、実際に針は千本あるのでしょうか?

結論から言うと、個体の大きさによって針の数は違うものの、大きな個体であっても、せいぜい針は400~500本くらいだとのことです。

それでは実態に合わせて「ハリゴヒャッポン」にでも改名しましょうかね、なんて言ってもいいのですが、昔の人は
「たくさん」の意味で「センボン」と名付けたのでしょうね。

ということで、ハリセンボンの針は、せいぜい500本程度というお話でした。

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渡辺和子 名言

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人生はいつもいつも第一志望ばかりを歩けるものではありません。 そして必ずしも、第一志望の道を歩くことだけが、 自分にとって最良と言えないことだってあるのです。

人生はいつもいつも第一志望ばかりを歩けるものではありません。 そして必ずしも、第一志望の道を歩くことだけが、 自分にとって最良と言えないことだってあるのです。
いのちは大切だ。と、言われるより、あなたが大切だ。と、
言われた方が生きてゆける。
目立たない仕事をしている人へのあいさつを忘れてはいけない。私たちはお互いに「おかげさま」で生きているのだから。

置かれた場所で咲きなさい
どんなに忙しくても、いや、むしろ、忙しいからこそ、
一日の中、5分でも、10分でも静かな時間、
一見「無駄な時間」をつくらなくてはいけないのです。
いつまでもおぼえていたら とても辛いだろうと思ういろいろなことを、 ありがたいことに私たちは忘れることができる。 そして、時間というお薬があるんです。

いつまでもおぼえていたら とても辛いだろうと思ういろいろなことを、 ありがたいことに私たちは忘れることができる。 そして、時間というお薬があるんです。
「自分と仲良く生きる」といい。
好きな自分と四六時中一緒にいる人は、自然と笑顔が多くなり、
言葉から刺がなくなり、相手の言葉をふんわりと
受け止めることができるようになるから不思議です。
今という瞬間は、
今を先立つわたしの歴史の集大成であると同時に、
今をどう生きるかが次の自分を決定するということです。
人生は点のつながりとして一つの線であって、
遊離した今というものはなく、過去とつながり、
そして未来とつながっているわけです。
神様は私たちの「願ったもの」よりも、
幸せを増すのに「必要なもの」を与えてくださいます。
それは必ずしも自分が欲しくないものかもしれません。
しかしすべて必要なものなのだと、
感謝して謙虚に受け入れることが大切です。
一生の終わりに「残る時間」、
無駄に過ごさなかった時間を多く残すためには、
小さなことに愛を込め、
意味あるものとしていかなくてはなりません。
それこそが「新しい生き方」なのです。
数多い出会いがあっても 「自分」というものがしっかりしてさえいれば それらの影響に流されることなく むしろ、それらを通して 自分というものが鮮明になってきます。

数多い出会いがあっても 「自分」というものがしっかりしてさえいれば それらの影響に流されることなく むしろ、それらを通して 自分というものが鮮明になってきます。
いい出会いをするためには、自分が苦労をして出会いを育てなければならない。

仏頂面をして、他人の暮らしまで暗くする権利はない。不機嫌は、立派な環境破壊。
ほほえみを忘れた人ほどそれを必要とする人はいない。相手の出方に左右されることなく私の人生を笑顔で生きるという決意。
女性が、一日の間に鏡をのぞきこむ回数ほどに、
自分の心をのぞきこみ、内省し、
心の手入れを怠らなかったならば、
どんな高価な化粧品や装身具も与えることができない美しさが、
いつしかその人に備わることでしょう。
それは年とともに色あせるどころか、
むしろ深まっていく「美しさ」なのです。
この世に「雑用」という用はありません。 私たちが用を雑にした時に、雑用が生まれます。

この世に「雑用」という用はありません。 私たちが用を雑にした時に、雑用が生まれます。
人間は寂しさの中で成長します。
寂しさを感じない時には気づかなかった自分の無力さと限界を知り、
他人と自分の間に横たわる
必然的な距離について考察するようになります。
寂しさの苦杯をなめて、はじめて、
他人もまた味わっている孤独感への
やさしいいたわりの心を育てることができるのです。
自分の存在が受け入れられたと知ったら、相談者は恐れげなく語り始める。話しながら、自分で解決への道を歩き始める。
何かを失うと言うことは、別の何かを得ることでもある。今日より若くなる日は無い。今日という日を私の一番若い日として輝いて生きて行こう。
1.いつもにっこり笑うこと。
2.人の身になって思うこと。
3.自分の顔を恥じないこと。
この「3つの化粧品」は、お金がいらない、使っても減らない、
使えば使うほど質がよくなる、
どこへでも持っていける。そしてアンチエイジング、
つまり、年をとらないために、
とても大事な「化粧品」だと思います。

一生の終わりに残るものは、自分が集めたものではなく、自分が与えたもの。

一生の終わりに残るものは、自分が集めたものではなく、自分が与えたもの。
不要な枝葉を切り落とし、身軽になること。維持や執着を捨てて素直になること、他人の意見に耳を傾けて謙虚になることが成熟ということ。
大切なのは「人のために進んで何かをする」こと。
「人に迷惑をかけない」からもう一歩進んで、
「手を差し伸べる」気持ちが愛の実践につながる。

愛情の深さと歳月は比例しない。たとえどんなに短くても、本物の愛は心を充分に満たしてくれる。

「スワン型オマル」の巻


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「スワン型オマル」の巻


 子どもの頃、便所に入る前は大変だった。私はなぜかズボンからパンツまで全部脱がないと用が足せない。和式だったから便槽に落ちないよう、金隠しを両手でつかむのに、二つ折りした新聞紙も必要だった。長屋の共同便所だから、汚い。親が直につかませないのである。
「スワン型オマル」 昭和四〇年代初頭、千葉市に記録的な大雪が降った日があり、深々と雪が積もる中を、五歳の私は歩いて三分、ダリア園を経営しているおじさんのウチに遊びにいった。その家には三つ下の女の子がいて、縁側に、白鳥の形をしたオマルが置いてあった。オマルは自分より小さな子が使うものだとは知っていた。でも、一度は白鳥にまたがって、取っ手をつかんでみたかった。そんな淡い憧れを抱いたことを、「大雪の中の白鳥」という清楚なイメージとともに覚えている。

 オマルの歴史は日本でも世界でも古い。古いがそれは広義の意味でのオマルである。昔は大人も子どももオマルで用を足していたという。常設便所の出現前は手近に置いてある専用便器に用足しをしていたのである。
 縄文時代は戸外や川で用を足していたが、奈良時代の貴族は家の中で排泄をするようになった。しかし便所というものが設けられたわけではなく、筒や壺や箱に排泄し、その中身を捨てて洗った。これらの壺や箱は「マル」(まり筥(はこ)とも。用便をすることを「放る(まる)と呼んだことから」とか、「虎子(おおつぼ)」という。確かに「便器」という表現だから「器」であったのだろう。マルが置かれる場所は一定ではない。手持ちで移動が簡単な便器であった。
 では、オムツからトイレへの橋渡しをする『トイレトレーニング』の意味を持つ幼児用便器、狭義のオマルはなぜ生まれたか。日本では和式便所は穴に落ちる危険性があった。また、深く臭い穴は子どもにとって恐ろしい空間だ。恐怖感から便所にいかなくなるという心理的弊害がある。そこで、トイレトレーニングをしながら、バランスをとる訓練ができ、便所が決して「憚る」ものではないという習慣をつけるためにオマルが幼児用に転用されたのではないか。

 純白のスワン型オマルを発売したコンビ株式会社は、もとは三信株式会社(昭和三十二年創業)という医療用具メーカーであった。同社の中尾新六氏は工業学校出身でプラスチック方面に明るく、昭和三十四年頃、暗い色しかできなかったプラスチックに白色ができる技術が開発されたことを知り、これをオマルに応用しようと考えた。当時、三信では子どもが締める「脱腸帯」などを製造していた。この下地があったことで、新しい「子どもに優しい商品」を開発しようというニーズをベビー用品の方向に向かわせたのだ。
 昭和二十年代後半はベビー服も高く、ベビーカーに至ってはサラリーマンの給料が一万円の時代に数万円もした。しかし三十年代に入ると生活も豊かになり、ベビー用品市場も成長のきざしがあった。
 「昭和三十年代の始めは子どものオマルは病人用のを流用していたんです。ブリキの枠の上にクマやウサギの形を装飾するのがせいぜいで、そのあとホーロー引きのオマルがでました」(コンビ株式会社松浦康雄社長・談)。
 そんな中、昭和三十五年に同社はオマル製造に参入、日本初のプラスチック製オマルを発売した。型を作って樹脂を成形するため大量生産できる。スワンの目は女子従業員が手で描いていたという。
 だが、三千個作ったが半年は売れず在庫の山だった。
 「店頭で目立つことが第一だ」と考えた同社は営業マンがオマルを背負って、薬店・デパートを回り陳列に努めた。マーケティングでいう「店頭占拠率」を高める手法のはしりだった。

 素材が高価なせいもあって他社は追随してこない。奥さん同士のクチコミで売れだした昭和四十年代にはシェアが七割に達した。売れた原因はお母さんの省力化ができたこと。紙オムツが普及する前は浴衣などを裂いてオムツにしていたから、いちいち洗わなくてはならない。「おしっこ」と言われれば抱きかかえて外に出、開脚させて「しー」とさせていた。しかしオマルがあればその手間がいらない。
 また、当時の住環境も影響している。便所が遠くにあることも多かった時代、寒い冬に温かい室内でオマルで用足しできるのは快適だった。ホーロー引きオマルではお尻が冷たいのだ。

「スワン型オマル」 姿勢が保持できるよう、スワンの頭部には取っ手をつけた。このスワン形のイメージは非常に強く、完成度が高いため自社内で作った、子熊や象など他の動物デザインも太刀打ちできない。そこで他社は「打倒スワン!」ということで方向転換を図り、キャラクター物のオマルを開発した。
 「ウチは逆にスワンがあるためにキャラクターに入るのが遅れました」。
 では開発者はなぜ白鳥を選んだのだろう。
 「白鳥は優しいとか清潔という印象を与えますし、デザイン的にもオマルの形に成りやすかったのでしょう。『親子』というイメージも大きかったと思います」
  なるほど水面で親子の白鳥がスイスイ泳ぐ風景は美しいイメージとして多くのひとの頭の中にある。バレエの「白鳥の湖」(白鳥湖と呼ばれていたが戦後はじめて「の」が入った)が日本ではじめて公演されたのが昭和二十一年。NHKラジオの子ども向け番組『新諸国物語』第1部「白鳥の騎士」がスタートしたのが昭和二十七年。長距離特急「白鳥」が誕生したのが昭和三十六年。世の中に「白鳥」の優しくて美しいイメージは浸透していた時代でもあっただろう。
 実はスワン型は数年前に製造中止となったが、オマルは同社の今日を作った起爆剤である。売上に貢献したのはもとより、ベビー用品会社としてのイメージをつけ、プラスチック事業のノウハウを得て、ベビーラックやベビーバスへの展開はもとより食器分野にも進出、総合ベビー用品会社としての基礎を固めたのだ。

●「毎日新聞」に加筆改稿

あげパンの歴史


2月の献立表 (揚げパンは、ないみたいだな。残念。)

滝野川第二小学校では、1月12日に揚げパンが給食にでました。 給食・献立表

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あげパンは鵜の木発祥?
あげパンの歴史

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あげパンは大田区鵜の木発祥 今も昔も学校給食で変わらぬ人気メニュー、あげパンが給食メニューに加えられるようになったのは、大田区鵜の木の嶺町小学校にいた一人の調理士がきっかけとなりました。

昭和27年大田区鵜の木の嶺町小学校の調理士の篠原常吉さんが、固くなったパンをどうやったら美味しく食べれるか?を考え、油で揚げて砂糖をまぶし、病気で学校を休んだ児童の家に届けさせたそうです。
昭和27年といえば戦後間もない頃で、様々な物資が不足し、学校給食も手探りで実施していた時代です。おいしいものが多くなかった当時、砂糖をまぶした甘〜いあげパンは衝撃的な美味しさだったでしょう。

これがきっかけとなり、学校給食のメニューに「あげパン」が加えられました(昭和29年6月18日の学校給食の献立にあげぱんが記録に残っています)。篠原さんは学校給食コンクールで優勝され、いろいろな場で「あげパン」を披露したことにより、全国の給食メニューとして広がりました。

東京都大田区は、製造業の町として全国的に有名です。そんな大田区があげパン発祥の地であることは意外に思われる方が多いかと思います。東京あげパンの活動を通じて、大田区は製造業だけの町ではなく、様々な文化が根付いた地域ということを知ってもらいたいと考えています。

帰れま10 (居酒屋 半兵衛編)

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帰れま10(2月6日)居酒屋 半兵衛の結果「ベスト10の揚げパンと食パン耳揚げのランキング順位は?」

2月6日放送の『帰れま10&Qさま!!豪華2本立て3時間スペシャル』では、ヤキトリ(もも)54円、ホルモン煮込皿(140円)、お好み焼き(ミックス玉)216円、ポテトサラダ(108円)、おでん 大根(65円)とリーズナブルな値段でコスパ最高の女性に大人気の超激安居酒屋「薄利多賣半兵ヱ(半兵衛)」で『帰れま10』が行われました。

この「薄利多賣半兵ヱ(半兵衛)」はコスパ以外にも、昭和レトロな雰囲気を楽しめる店内が特徴で、懐かしの給食メニューの揚げパン(きな粉味)194円を始め、お弁当の定番だったタコウインナー(313円)、昭和駄菓子屋のもんじゃ焼きの半兵ヱ焼き(421円)の他、食パン耳揚げ(54円)、ソフト麺(216円)、昭和のナポリタン(313円)など、昔懐かしの昭和レトロなメニューが楽しめます。

そんな「薄利多賣半兵ヱ(半兵衛)」のメニュー数は帰れま10史上ナンバー1の180品にものぼります。


『帰れま10!』薄利多賣半兵ヱ(半兵衛)の結果


9:00PM『帰れま10!』薄利多賣半兵ヱ(半兵衛)スタート

1品目(ザキヤマ):串焼おまかせ五本盛(313円)→6位

2品目(なんぶ桜・澤山裕仁):半兵ヱ焼き(421円)→11位

3品目(メイプル超合金・カズレーザー):おでん 大根(65円)→31位

4品目(メイプル超合金・安藤なつ):揚げパン(きな粉)194円→5位

5品目(乃木坂46・秋元真夏):食パン耳揚げ(54円)→2位

6品目(サンシャイン池崎):ミックス玉(216円)→3位

7品目(相席スタート・山崎ケイ):タコウインナー(313円)→7位

8品目(モト冬樹):昭和のナポリタン(313円)→72位

9品目(タカ):病み付き芋フライ(313円)→13位

10品目(トシ):串炊き全部盛(486円)→167位

11品目(ザキヤマ):ヤキトリ(もも)54円→1位

12品目(なんぶ桜・澤山裕仁):砂肝(54円)→112位

13品目(メイプル超合金・カズレーザー):鳥かわ(54円)→15位

14品目(メイプル超合金・安藤なつ):アスパラベーコン(97円)→44位

15品目(乃木坂46・秋元真夏):団子(65円)→115位

16品目(サンシャイン池崎):名古屋手羽先揚げ(86円)→9位

17品目(相席スタート・山崎ケイ):カエル(313円)→8位

18品目(モト冬樹):すいとん(108円)→90位

19品目(タカ):フィリックスガム(11円)→166位

10品目(トシ):ウインナー串炊き(76円)→180位

21品目(ザキヤマ):ハムカツ(194円)→4位

22品目(なんぶ桜・澤山裕仁):ソフト麺(216円)→19位

23品目(メイプル超合金・カズレーザー):鳥唐揚(313円)→26位

24品目(メイプル超合金・安藤なつ):ポテトサラダ(108円)→38位

25品目(乃木坂46・秋元真夏):ソーセージ串揚げ(80円)→79位

26品目(サンシャイン池崎):タコ入道ウインナー(410円)→87位

27品目(相席スタート・山崎ケイ):小麦粉焼き(108円)→154位

28品目(モト冬樹):コーンバター炒め(205円)→98位

29品目(タカ):ホルモン煮込み皿(140円)→10位

かかった時間:7時間30分、29品58人前完食!


『帰れま10!』薄利多賣半兵ヱ(半兵衛)の人気商品ベスト10


1位:ヤキトリ(もも)54円

2位:食パン耳揚げ(54円)

3位:ミックス玉(216円)

4位: ハムカツ(194円)

5位:揚げパン(きな粉)194円

6位:串焼おまかせ五本盛(313円)

7位:タコウインナー(313円)

8位:カエル(313円)

9位:名古屋手羽先揚げ(86円)

10位:ホルモン煮込み皿(140円)

以上、『帰れま10!』薄利多賣半兵ヱ(半兵衛)の人気商品ベスト10のランキングでした。

「アルマイトの弁当箱」の巻


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「アルマイトの弁当箱」の巻
日曜研究家串間努

 私は左下の犬歯が曲がっている。高校時代からずっとだ。ある日、弁当を食べていて、一かたまりのご飯を口に入れた途端、「ガリリ」とイヤな音がして、歯に激痛が走った。吐き出してみると、梅干しのタネが粉々になっていた。梅干し地雷が、ご飯の平野に埋設されているとも知らずに噛んでしまったのである。家に帰った私が母親に文句をいうと、「梅干しがアルミの弁当箱につくとフタが溶けてしまうから、埋めたのよ。気をつけて食べなきゃ」と言い放たれた。梅干しを入れないと夏場はご飯が腐りやすい。私は今後の事故を警戒し、梅干し埋設地点に黒ゴマをふりかけて注意を喚起してくれと頼んだ。 だが、これは母の間違った思い込みであった。アルミ弁当箱で六、七割のシェアを持つテイネン工業の話ではこうだ。
 「終戦直後は高級な材料がなかったのでジュラルミンの弁当箱がありました。ジュラルミンは強度を増すためアルミに亜鉛や銅を混ぜたものですが、耐腐蝕性に難があります。長期間使用していたら酸やアルカリと結び付きやすいのです。また、アルマイトはアルミに酸化被膜を施したものですが、当時の技術力が不充分だったことも考えられます。現在は純度が高いので梅干で穴が空いたりはしないでしょう」(同社取締役工業品部長)

 つまり、終戦後一時期の現象だったのだ。戦前生まれの母には当時の経験が刷り込まれてしまっていたのだろう。おかげで私は「母親が隠しておいた梅干しで歯を曲げた男」の汚名を着せられてしまった……。

 帝国撚糸織物株式会社としてスタートしたテイネン工業は、軍需工場時代に飛行機の脚や燃料タンクをジュラルミンで作っており、戦後、その材料を生かして米びつやふるいを生産し、家庭用品メーカーとなった。昭和27年には厚底の通称「ドカベン」を発売、また、アルミの弁当箱にオフセット印刷をする技術を開発した「絵付き弁当箱」は市場を席巻し圧倒的なシェアを確立した。おかずの汁もれを防止するため、フタにゴム製パッキングを付け、両サイドのローラーでパチンと留める「小判型安全菜入れ」を開発したのも同社だ。
 昭和45年には、「中学生用ブック弁当箱」を発売した。これまでの弁当箱はかさばり、カバンと別に持っていかねばならなかった。しかし、安全菜入れを角型にして内装し、ご飯との仕切り板をつけ、フタ横に箸入れを装着したブック弁当箱はスマートな長方形デザインとなり、教科書とともに学生カバンに入れられるようになった。大ヒットとなり「百貨店に行列ができた」ほど。
 基本的な設計は30年間かわっていないが、時代の流れに合わせてマイナーチェンジした部分がある。
 「年々、ご飯を食べる量が少食となり、昭和50年からおかず入れが大きくなる傾向にあります。デザイン的には昭和五十年代半ばに、花柄からポパイやアニメキャラクターへとファンシー化しています」

 そして、一番大きな変化は、弁当を新聞紙に包まなくなったことだろう。布製弁当カバーや、ビニールケースで包装するようになったのは昭和四十年代から始まっているそうだ。確かに、私が弁当を持っていった昭和五十年代には新聞紙に包んでくる同級生は一人もいなかった。空腹を満たす昼食の携行入れ物に過ぎなかった容器が、いまや持つ人のセンスが反映されるファッション商品となっている。いま、弁当箱のフタでお茶を呑むなんてダサイのだろうな……。
 
 アルミ弁当箱と比べて、色やデザインの面で自由度が高いプラスチック製弁当箱が台頭してきたのが昭和55年ころ。昭和六十年代には売上高でアルミ製を追い抜いた。
  「特に女性はアルミから冷たい感じを受けるのか、カラフルなプラスチック製を選択するようです」アルマイトの弁当箱
 とはいえ、弁当箱の品揃えに独自性を持たせたいと考えるお店に支持され、ブック弁当箱をはじめ、アルミ製もまだまだ健闘を続けている。

●毎日新聞を改稿

「金鳥サッサ」の巻

「金鳥サッサ」の巻
日曜研究家串間努

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 小学校4年(昭和48年)のころだったか、担任の先生が「家からぞうきんを1枚持ってきなさい」といったことがあった。習字(書写)の時間に、墨汁で汚れた机や床を拭くためにだった。もちろん、普段の掃除の時間に床を拭くぞうきんは、各自が用意して洗濯ばさみでイスに止めていたが、その他に持ってきなさいという指示だ。私は母が「雑巾には木綿がいいのだ」と言い張るので、古いランニングシャツを大雑把に縫ってくれたものを持っていった。クラスの大半が古いタオルをミシンできちんと縫ってくるなか、薄くて、胴のくびれがありありとし、もともとは下着であったことがわかるぞうきんはとても恥ずかしかった。しかしもっとうわてがいた。Tちゃんが持ってきたぞうきんは黄色かった。しかも紙である。たちまち先生に告げ口するやつがいた。「先生、Tちゃんは紙持ってきました」うるさい奴である。まわりを見ない生真面目さは、ときどき他人に迷惑をかける。
「金鳥サッサ」 先生は困った。教育的指導をすべきなのかどうなのか。Tちゃんのぞうきんは、テレビで宣伝している金鳥サッサである。製品として雑巾である。しかしこのころの常識は雑巾は布の素材であるべきだった。
 このエピソードを大日本除虫菊株式会社(以下金鳥と表記)の上山久史常務に話したことがある。
「汚れにはチリ・ホコリの『ダスト』と、ガラスなどにベチャっと付いている『ダート』があります。サッサは『ダスト』を吸着するのに向いてますから、おそらく墨汁を拭くのは無理でしょう」と笑っていた。

 金鳥サッサが発売されたのは昭和45年。大阪万博が開かれたこの年、大阪に本社を置く金鳥から、世界で初めての『化学ぞうきん』が生まれたのだ。
 当時、金鳥の主力製品は、蚊取り線香を始めとする殺虫剤関連だった。虫に悩まされるのは夏。殺虫剤の消費のピークが夏場だけであることから、一年を通じてコンスタントに売上がある商品の開発が望まれていた。その候補として「今後、お掃除用品が注目されるのでは」と考え同社は、化学ぞうきんの開発を進めていた。当初は布で試作をしていたが、これが現在の紙製に変わったのには次のようなエピソードがある。
 現社長の父である上山直武常務(当時の肩書き)が、昭和44年にブラジルへ殺虫剤の視察に行ったとき交通事故にあってしまった。日本に帰国して、同社近くの病院に入院し静養していたが、仕事熱心な常務は社員に試作商品を持ってこさせ、病室からあれこれと指示を与えていた。そのとき、看病のために付き添っていた常務の奥さんが、「何度も同じぞうきんを使うのはいやですね。紙にして捨てるタイプにしたらどうでしょう」と提案、その声を取り上げて布から紙へ素材を転換したという。まさに怪我の功名だ。
 昭和45年の夏に広島でテスト販売をしたときには白い紙だったので、暑がりのお客さんがタオルと勘違い、「これ、いいな」といって顔を拭いてしまったこともある。そこで色を再検討することに。踏切や工事現場で見られる、黒と黄色の組み合わせが目立つことをヒントに、ホコリがハッキリとれたという感覚を得られるよう、紙の色を黄色に変えた。
 ホコリを吸着するだけでなく、ピカピカのつやも出す『金鳥サッサ』は、家具・電化製品・楽器・自動車など、食品が直接触れるところ以外、ほとんどの場所で使える。高度経済成長下で家の中にモノがあふれる時代、『金鳥サッサ』が活躍する場所はどんどん増えていった。

 通年商品のつもりであった『金鳥サッサ』だが、大掃除時期の需要や、冷たい水でぞうきんをゆすぎたくないという理由で、冬場に売上のピークが来た。思えば金鳥には季節商品が多い。春秋は衣替えで防虫剤の「ゴン」、夏は殺虫剤の「キンチョール」、冬は「サッサ」に加えてカイロの「どんと」だ。「四季のけじめがあってこそ、金鳥の日用雑貨があるのです」と上山常務は意義づける。
 経営幹部の妻の一言から生まれた『金鳥サッサ』。聞けば、最初は棒状だった蚊取り線香を渦巻にしたらと、金鳥の創業者上山英一郎に進言したのも妻のゆきさんだという。金鳥の製品には細やかな女性の視点が生かされているのだった。

「ゴールド芯のひみつ」の巻

「ゴールド芯のひみつ」の巻
日曜研究家串間努

◆学用品に「金と銀」が導入された

 高級感や付加価値を高める時のネーミングに「ゴールド」を使うことが多い。「ゴールデンアワー」「ユンケルゴールド」「明治ゴールド牛乳」「ゴールデンハーフ」……。ゴールドを冠すると『ウルトラスーパーハイデラックス』的なイメージを与えられる。余談だが、この手の修飾言葉で一番手軽なのが「ニュー」。スーパーマーケットで一日でも日付が新しい牛乳や豆腐を奥から引っ張り出して買うような日本人は「ニュー」にも弱いのだ。

 さて、日本人がメタリックなヒカリモノを好むのはナゼなのか。子どもの世界でも、折り紙時代から『金と銀』は貴重なものとしてもてはやされてきた。

 洗濯洗剤の『ブルーダイヤ』(ライオン)が「金銀パールプレゼント」をしていたころ小学校に上がった私は、描画材としてまずクレヨンや色鉛筆にお目にかかった。だが普通の「一二色セット」には金銀は入っていない。親にねだってもなかなか買ってもらえない「二四色」だの「三六色」のセットだけに金と銀が入っていた。親の言い分は「一二色で充分だ。なぜ金色がいるのか」。よくよく考えると金や銀色が必要なときが思いつかず、反論できずに黙ってしまうしかないのであった。

 描画材に盛んに金や銀が使われるようになったのは昭和三〇年代に入ってのことで、昭和三〇年に、文具メーカーのあおいとり本舗が「手提附木函の27色(金銀入り)あおいとりパス」を発売したのが元祖のようだ。翌年からクレヨン・パスメーカー各社から挙って金銀入りが出たが、当時の有力ブランド王様商会の甲斐惟隆社長は「クレパスに金銀色は必要だ。王様クレイヨンには戦前から金銀色が入っていて……」と業界紙にコメントをしているので、戦前にも一時、金銀入りが存在していた模様である(しかし記録として確認していないことと、戦前に金銀色が児童間に普及していたとの実感を持っていないため、昭和三〇年代より広まったと認識した)。

 絵の具では、みさくら堂の「みさくらペイント金銀入15色」というのが初めてで、やはり昭和三一年の発売である。この年から一斉に金銀入りが発売されたのは、中島金属箔粉工業株式会社が「クレヨン・絵具用金銀粉」という原料を発売したためではないかと思われる。新しい素材や原料が、開発、上市されることによって、一般消費者向けの製品の開発もまた、進むのだ。

 昭和三二年にはコーリン鉛筆本舗が「金銀入り24色色鉛筆筆函入」を発売し、これでクレヨン・絵の具・色鉛筆とすべての児童用描画材で金銀が出揃った。

 昔は「そうめん」の中に数本だけ赤とか青が入っていてそれに当たると嬉しかったものだが、金銀の描画材にもそんな希少価値を感じていた。現在の子どもも金銀に喜びを見ているのだろうか。

◆ 君は『ゴールド芯』を知っているか

 今ではシャープペンシルは百円で買えるけれど、私が小学校に入った昭和四十年代は、最低でも五百円。「鉛筆があるじゃないの」といわれて買って貰えない。昔の親は子どもの要求への断りかたがうまい。グーの音も出すことができない。
 一年生の時に隣の席のOくんが持ってきたシャーペンをいじり壊してしまった時がある。真っ青になったOくんから「絶対ベンショーしろよー」と迫られた。ことの重大さにビビった私は親にお金を貰って弁償した。ところがそれを知ったOくんの親はO君に「返してきなさい」といい、素直に持ってきたOくんだったが、私も親に事情を話してあるから「もらえないよ」と断った。親からは返せと言われる。私には受け取ってもらえない。板挟みになったOくんは、そのお金で新しいシャーペンを買って私によこした。つまり私は同級生のシャーペンを壊したことで、回りまわって念願のシャープペンシルを手に入れたことになる。うれしー。

 いつだったか、クラスのだれかがスバラシイ文房具を買ってきた。金色に輝く、シャーペンの芯「ゴールド芯」である。私らはこれを見て驚き、「この芯は五百円のシャーペンではなく、千円のシャーペンに入れる芯ではないか」と納得しあった。だが、当然のことだけど五百円のシャーペンに入れても使えるのである。うわああああすごい。しかも入れ物も垢抜けていた。角柱のなかに円柱が入っており、クリスタル感あふれる高級ケースなのだ。それまで使っていたP社のひし形(ダイヤモンドというよりひし型)の、ベージュの容器が色褪せてみえた。買ってきた子はクラスメイトにせがまれるままに、1本1本おごそかにくれてやっていた。私は一生のうち、あれほど、シャーペンの芯を折れないよう慎重に自分のペンに移し変えたことはない。細い芯を細い内筒に入れるものだから緊張のあまり指がプルプルプルと震えた。

  『金色』はとても価値ある色だ。金と銀の折り紙は、最後まで使えなかったし、クレヨンで『きんいろ』入りの三十色を持っている子はスターだった。使うものじゃなくて、ただながめるもの。まるでドロップの缶に数個しか入っていないチョコレート味を惜しんでなめるように、大切にしたものだ。

 実はコーリン鉛筆という会社はもうない。
 「ゴールド芯」を開発したコーリン鉛筆の関係者を探しだした。日本文化用品安全試験所のMさんという方である。
「昭和四十七、八年頃発売したのですが、良くうれました。三十本で二百円です。透明な樹脂のケースに入れたのも初めてですが、三十本入りというのも初めてなんですよ。シャープの芯を差し替えるとき、手が黒く汚れますから、それを防ぐために芯の周りに何かをかぶせたらどうだろうというのがきっかけです」
 なるほど、手を汚さないためだったとは。決して豪華な芯を作ろうとしたワケではなかったことは次のことばからもわかる。
「赤や青の塗料だと表面がカチカチになってしまって字が書けないんですね。書いているうちにポロポロ崩れるものでないと。そこで金属の粉を塗ったのです」
 のちに自動機械化されるが、最初のころは手で粉を吹き付けていたので、マスクをしていても顔中が金粉だらけで、舞踏家のようになったそうだ。ユーザーが手を汚さない芯を作るために、製造者の顔は汚れてしまったとは!
 「ゴールドできれいということと、手が黒くならない点でヒットしたのでしょう」
 もういちど発売したら、また売れるのではと私は思う。
 ラメですかね? (一応いっておきますが、駄洒落入ってます)

●毎日小学生新聞に加筆

「家の中には家電リモコンがいっぱい」の巻

「家の中には家電リモコンがいっぱい」の巻

●日本リモコン史

リモコン この間、テレビのチャンネルを代えようとして、リモコンを持ち、ボタンを押したところ、全然変わらんのである。
 おかしいな? と思ったらCDラジカセのを握っていた。テレビ、ビデオ、エアコンとこんなにリモコンが家庭内に増えたのは一体いつからなんだろう。

 松下電器産業の歴史館に尋ねてみると、やはり最初はのリモコンはテレビから始まったという。
 「昭和30年代なかばにはあったようです。当時は超音波を飛ばしてロータリー式のチャンネルを回すものです」(同社歴史館の話)
 テレビにも回るチャンネルがついていてそれが遠隔操作でグルグル回転したらしい。まるで奇術だ。だが、時計周りに13468と、一方通行でしか変えられず、4から1へと逆に飛ぶことはできなかった。最近、明和電機がチャンネルの形をしたリモコンを開発したが、なんと最初は物理的に丸いチャンネルを廻していたなんて……。
 とにかく離れたところでテレビを視聴していて、いちいちチャンネルを回すのはメンドウだ。リモコンが普及したいまはザッピングといって、次から次ぎへとチャンネルを視聴者が変えるようになり、テレビ局も視聴率をとるのに大変らしい。確かに昔はあまりチャンネルを次々に変えたりしなかったものなあ。
リモコン 昭和40年代になると、チャンネルはロータリー式ではなくプッシュボタン式になり、これを超音波を飛ばすリモコンで押すようになった。しかし、超音波だと、電話のベルや皿が触れあう音でも誤って切り変わってしまうことが多かったという。リモコン電波が届く距離も短い。
 超音波はボタンを押し続けなくてはなかなか切り替わらなかったが、ICで制御することですぐにチャンネルが替わるリモコンテレビも発売された。そして昭和47年に松下電器産業が、赤外線を使ったリモコンテレビを発売してこれらの問題を解決する。

 昭和50年代になると、チャンネルだけでなく電源オンオフや音量もリモコン一つで制御できるようになり、テレビの前面のコントロールパネルは簡素化していく。
 「冬、コタツから出て代えるのは面倒という、誰もが持つものぐささが産んだアイデアなんでしょう」
 この赤外線方式が生まれたあと、テレビ以外の家電にもリモコンが普及していくのである。

 まずエアコンだ。昭和53年、三洋電機は超音波リモコンの「ズバコン式エアコン」を発売した。韻を踏んだネーミングだな。当時、普及型と高級型の二極に分かれ始めており、高級化路線に対応したものだ。高齢者や体の不自由な人も離れた場所から操作できる。翌年には松下が、ほとんどすべての機能をリモコンでできるステレオ「ザ・スペース」を発売してオーディオへの応用を行う。おなじく松下は昭和61年に、ラジカセ初のワイヤレスリモコンを発売、カセットテープサイズなので、使わない時はデッキの中へしまえるというのがアイデアだ。

 平成2年には、風の強弱や首ふりなどを制御できる、リモコン式扇風機まで登場。すでに昭和57年にはあったものだが、当初は壁かけ式扇風機のスイッチが押しづらいため生まれたようで、平成になってから卓上型扇風機に波及する。

 当初のリモコンは各電化製品専用だったが、平成5年になると、家庭内に平均6台もあるリモコンを一つにまとめようと、国内12社のテレビやビデオを一つのリモコンで操作できるという、学習型リモコンが発売された。家中に転がっているリモコンの中から探すのが手間で、探している間に手で代えた方が早いという笑い話も生まれる中での需要だ。

 「お年寄りの中にはどれがどれやらわからなくなる人もいますし」
 中にはピストルの形をしていて、引き金を引く発射音が各メーカーごとに異なるという、遊びこころを持ったものもあったという。

 さて、今度はどんな家電にリモコンがつくのか楽しみだ。個人的には冬の夜にヒモを引っ張って消灯するのがメンドウなので、照明リモコンの手元スイッチが欲しい!

『お子さまランチ』」の巻

デパートその2 『お子さまランチ』」の巻

 

 『お子さまランチ』というのは微妙なメニューだ。有名なのに、子どもの頃に食べた記憶、懐かしい思い出があるアイテムというには今一歩なのだ。たいていは年齢制限があるので、お子さまであるうちでしか注文できない。
 第一、高度成長時代に、デパートに行って大食堂に入るというのはかなり特別な行事だから、お子さまランチ食べたことないというひとも多いのである。
 注文シーンとしても、玩是ない子どもの機嫌をとるために、とりあえずお子さまランチでも頼むか……という消極的理由でお母さんが頼む。子どもにとっても、何を食べたいのか明確な意思がないころだから、食べているのに食べた記憶がないことになる。「あれを食べたい」という、メニューを特定できるほど成長していれば、まあ、お子さまランチを頼まないで、ハンバーグとか寿司とかを頼むに違いない。少なくても6歳の私は「お子さまランチを頼むなんて……」という子どもながらの美学がありました。

 お子さまランチというメニューの元祖は、昭和5年に日本橋三越が「御子様定食(洋食という説あり)」の名で出したのが最初といわれている。チキンライスの型で抜いたグリンピースをのせた2色ごはん、スパゲティ、コロッケ、ボンボン菓子、三角サンドイッチ二切れで構成され、旗は丸に「越」のマークがついていた。値段は30銭。当時の人気少年雑誌「少年倶楽部」が50銭で、ビンボーな家庭にはなかなか購入できなかったというから、30銭は『出せないこともないが、ちょっとゼイタク』なくらいの価格だろう。いまだったら、1500円くらいか? 当初はこどもよりお年寄りに受けていたそうだ。
 開発のきっかけは、三越の食堂部主任の安藤太郎氏が、恐慌にあえいでいた不景気な世の中だが、せめて子ども達には夢を与えようとして考案したものだという。これが公式見解。その他に、「ヒントは食器商が可愛い皿を持ってきたので、これを利用して子ども向きの楽しいメニューはできないかと考えた。頂上に日の丸を立てたら喜ぶと思った」という記録もある。私としては皿ありきのほうが具体的で腑に落ちる。
 翌年には上野の松坂屋が「お子さまランチ」と名付けてメニュー化しており、この名前が普通名詞となったといわれている。松坂屋の内容はコロッケとオムレツとポテトサラダがあったことしか判明していない。
 お子さまランチといえば、型押しライスの上に立っている紙製の小旗がシンボルだが、この旗は内職で作っているそうで、平成三年のテレビ番組のルポによれば大阪の河内長野市の老人夫婦2人が、1日千本生産して、五百円だそうだ(1991/10/18金19時日本TV「追跡」で放映した内容の記憶より)。

 女性には多くの種類を安く食べられるお子さまランチは魅力的らしく、注文したいと望む声が高いらしい。デパート側としては「値段が安いのは子どもへのサービス」という姿勢のため、年令制限を設けているところもある。三越では昭和5年当時のレシピで数年前に復刻したが、ボンボン菓子の再現が難しかったという。
 注文するのは恥ずかしいが、私も郷愁の味として、もう一度食べてみたい気もする。


レトロスタイルを気取るなら『スモカ』で行こう!

「雑貨店」タイトル
串間努

「レトロスタイルを気取るなら『スモカ』で行こう!」の巻スモカ

 一〇数年前のこと。二〇歳台なかばでもなお、青年客気が激しかった私の生活上の美学は「レトロな生活」であった。当時付き合っていた彼女も、旧家のたたずまいに憧れ、ロングセラー商品を愛用するなど「古き懐かしきもの」を大切にする少女であった。彼女に気に入られたい一心で私は、東急ハンズでアルミのドカベン弁当箱を購入したり、頭にはアイパーをあてて柳屋ポマードや丹頂チックで整髪するなど、レトロチックな生活スタイルを追い求めていた。いまから考えると笑い話だけれども。なにしろ大学生だったころ(一年間だけですが)の私は、学生帽をフライパンで炒め、靴墨を塗ってテカテカの破帽にして被った。風呂敷包みを抱えて昔の大学生を気取り、「どうだ!」と世間を闊歩してくらいなのである。
 その美学の延長上に「スモカ歯磨」があった。生活のなにからなにまでを「レトロ」でまとめたかった私は、歯磨き粉は「粉でなくては」と思い、東急ハンズで「スモカ歯磨赤缶」を買い求め、朝の歯磨きタイムからレトロな時間を持つことに悦に入っていたのであった。レトロな歯磨には片岡敏郎の新聞広告で有名だったスモカ歯磨しかない。そう信じて、両切りピースの愛煙家だった私は、毎日歯ブラシを缶の中に浸していたのである。

スモカ スモカ歯磨の前身は大正十四年にさかのぼる。当時の歯磨き粉は紙袋入りの粉歯磨の全盛時代で、使用中に粉が衣服に飛び散るという欠点があった。寿屋(現・サントリー株式会社)から創製発売されたスモカは、日本で初めて開発された、粉と練歯磨の中間の湿潤した粉(潤性歯磨)で、飛び散らないという利点があり、丸缶に入っていた。五〇グラム入り一五銭で「タバコのみの歯磨スモカ」として全国のタバコ屋で発売、一躍脚光を浴びた。企画立案者は寿屋にいた広告の鬼才片岡敏郎氏であった。
 昭和七年には現在の発売元であるスモカ歯磨株式会社が寿屋からスモカの権利を継承し、創製時の原点を守りながらレパートリーを広げていった。それが現在もお馴染みの赤缶であり、緑缶である。戦後はすぐに手持ちの材料でいち早く復活発売したが、「タバコ屋さんの復員が遅れ、戦前にもっていたタバコ屋ルートを絶たれてしまいました」(スモカ歯磨株式会社社長談)愛煙家歯磨の販路は今では薬局や化粧品屋さんだ。
 昭和二二年に入社した常務は、「材料を混ぜるのに当時は臼と杵を使っていましたが、現在は機械化されてミキサーです。でも缶には今でも木のヘラで詰めているんですよ」と思い出を語る。最初に詰める役のパートの主婦の熟練の技は1グラム程度の誤差しかなく、次の計量係りが修正していく。なんと手作り歯磨粉だったのだ。
 愛煙家人口は減っており、ヤニとり歯磨であるスモカの出番が少なくなったように見受けられたが、そんなことはなかった。最近、あるオールドファンからは、「チューブ入りや義歯洗浄剤よりも、スモカのほうが入れ歯がきれいに洗える」というお礼状が届いたという。「老人ホームでは、手元が震えるお年よりにはチューブが使いづらく、粉を付けるだけのスモカが好評なんですよ」「パラオなどの南洋諸島で、市場規模の割にスモカが売れているので、調べてみたら『べっこう』磨きに使っているようです」と、社長もエピソードを披露する。
 昭和三五年に一五〇円で出した赤缶は今でも二五〇円という低価格。コスト高になって採算に苦しみながらも出しつづけているのは「根強いファンが全国に残っている」からであり「メーカーである私たち自身が好きな品」であるからだという。社長は「会社がある限り作っていきます」と約束してくれた。

「算数セットの歴史をひもとく」の巻

「算数セットの歴史をひもとく」の巻
日曜研究家串間努

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●「けいすうき」が元祖

 実は「算数セット」というのは戦前からある、当時は「算術(算数)教材」だ。算術・算数の教科書が、四則演算をおはじきやお金の図解で説明しているのをみて、リアルな商品化を誰かが思いついたと思われる。
 当初はそろばん状の「けいすうき」(計数器)といわれるものが算数教材の主軸だったが、算数の教材教具は各地で多くのモノが工夫されたため、色板や数え棒、おはじきなど使いやすいものがだんだん精選されて残っていったのだろう。それらの教材を教師や児童が自作するのは大変なので、単品で商品化され、さらに誰かが『算数セット』『おけいこどうぐ』として算数教材をひとまとめにしたものと思われる。いったいいつ誰が作ったかのかというルーツを特定するのは難しい。
 戦後すぐのものと思われる「さんすうのとも」という製品は、メインが木製のそろばん状計数器であり、それがふたとなっている。箱のなかには、紙時計、数カード、竹棒、サイコロ四個、木角材六個、木のチップなどが入っている。
 また、海外の教材で「ウインストン算数教具」というのものがある。これは、各種の教具の組み合わせで、かぞえ円板・10のかず玉・20のかず玉・位とり計数器・分数板・四則学習盤・ウインストン時計板・百のかず玉などがある。ウインストン氏は世界の算数教育研究の権威者らしいが、この内容は算数セットに酷似している。ここから教材会社がヒントを得たものではないかという推測も成り立つ。
 私の親(昭和十一年生まれ)も「確か『けいすうき』っていってたね。おはじきはガラスで。1銭銅貨を模したお金、三角形の板、木の棒などが入っていたかな。時計……はうーんあったような気もするけど、よくわからない」という。
 当時は先生から「明日はけいすうきを使うので持ってきてください」といわれた時だけ持参して、「ほとんど使わなかった」という記憶が強いという。「いちど箱を開けたら他人のおはじきが入っていてびっくりした」という記憶から戦前からひとつひとつに名前を書いていたらしい。ただここで「けいすうき」と呼ばれているものは狭義の「計数器」単体ではなく算数セット全体の通称としての意味である。すでに戦前から「けいすうき」といえば「算数セット」のことをさしていたのである。

 「計数器」と呼ばれるものは各種ある。おもにそろばんの珠のようなものを使って、加減乗除を具体的直感的に覚えられるものである。「計数器」という名前は、特許庁のデータベースを検索すると、明治三十五年からつかわれていた。明治三十年代の計数器は「教育玩具算術器」や「九九ひとりおぼえ」などの、個人が勉強するための算術補助教材であり、教室の集団で共通の教材を使って算術を習う補助道具ではなかった。また、明治四十一年には分数の教授用具ができているが、これは教師用であった。このころの算術教材はまだ個人的に購入したり、学校側の備品として全児童が共用するものではなかったようだ。
 「児童用」をうたう「計数器」が登場するのは明治四十二年。秋田の奈良吉太郎の発案になるもので、サイコロの六面に野菜・動物などのイラストが描かれたものが十八個、箱に収められている。同年、「小学校児童用計数器」も山口県の弘中彦三郎より実用新案がとられている。のちには計数器はそろばんの珠状のもので数取りするものを指し、「百珠計数器」、「児童用三線計数器」が代表的なものになっていく。
 大正七年になると、紙製の計数カードがでてきて、面子のようなものに数字や数字分の黒丸をしるしたカードが用いられるようになった。これものちに算数セットに収録されるようになる。
戦後になるともっとわかりやすい。文具の業界新聞から発売状況を拾うと、
昭和二十三年 株式会社原田屋「三和算数セット」発売
昭和二十四年 新日本教材株式会社「算数せっと」発売
昭和二十五年 モハン教材株式会社「けいすうき」発売
 という感じになる。

 戦後すぐから算数セットを作っていたという老舗メーカー、大阪の誠文社に話を聞いてみたことがある(詳細は拙著「昭和40年代思い出鑑定団」ぶんか社、199X、絶版、に所収)。
 同社創業者の永橋平吉氏は、小学校の校長先生だったが、終戦後、退職。教員の経験を生かして事業を起こすことにした。戦後直後は物資不足で満足な教具が教室にはみあたらない。子どもたちに教材を与えなければという心で、教材会社を設立した。原材料が不足するなか、俳句仲間の親友の資産家に応援を受けて商品化に着手。まず教師用指導テキストを作成した。そして算数セットだ。昭和二十三年には確実に発売していたという。基本的な教具の原形は当時からあったので(戦前の計数器に範をとったのだろう)、カードは紙で、サイコロは木、数え棒は竹でつくった。おはじきは丸い棒を薄く切断して染料で塗った。お金はボール紙をトムソン加工で打ち抜いたもの、時計は紙製で、針も紙で出来ており、中心を割りピンで止めて回転できるようにした。これらを内職で貼ってもらった紙袋に詰めて発売した。
 ボール箱に入ったのは昭和二十五年頃からという。材料は紙から金属へ、そして昭和三十年代になってプラスチックに変わって行く。昭和五十年代にはおはじきに磁石がついてボードに簡単に止められるような工夫もなされ、昔と今とでは大違いだ。昭和三十年代からは生産は機械化されているが、それでも箱詰め作業だけは平成の今でもまだ人力に頼っている。農家の農閑期に和歌山で手詰め作業を行っているという。

 少子化といって、今、子どもの数は減っている。それでもメーカーでは、「教材会社としてもちろん今後も生産していきます。これからも改良を重ね、時代に見合ったものを作っていきます」と胸を張っていた。子ども自身が手にもって自分で考えることができるし、家庭に持ち帰って親子のコミュニケーションも図れる教材なのだ。平成十七年には、「人生ゲーム」や「魚雷戦ゲーム」など、電子ゲームではなく、対戦相手が必要なボードゲームを買う親が増えたというプチブームがあった。算数セットも今後親子三代、四代と受け継がれて行くことは間違いない。

最近見ないな 百葉箱 焼却炉



 歴史が古い街を歩いていると古い医院の建物にお眼にかかることがある。白いペンキをよろい戸に塗った有様は、まるで学校の庭に建っていた百葉箱のようだ。気象観察のために箱のなかには気温、気圧、湿度を量る計器が収められていた。あまり中をみたことはないが、なんとなく児童が触ってはいけないブラックボックスのようなものだった。なぜ百葉箱というのか。百はたくさんを意味し、たくさんの板を使用しているからという説があるがそうではあるまい。小学館の漢和辞典では百葉とは「八重の花びら、牛や羊の胃のこと」とある。百葉箱の外観はよろい戸になっているので、これがヒダが多い牛の胃の形に似ているからだろう。しかし命名したひとはすごい比喩を持ち出してきたものだな。ところで百葉箱を最近お見かけしないのはなぜなんだろう。

 最近、道を歩いていると、タバコの火がついたまま捨てられていることがある。実際に若い男が燃えているタバコを路上に落とし、靴で踏み付けもせずに立ち去った場面を何度もみている。そのたびに私は「火事になっちゃうよ」と煙を消さずにはいられない。いったいどうしてこんな所業ができるのか。思うに若い世代は子どものころに家のなかに裸の火がなかったのだろう。仏壇の御灯明もなく、暖房もエアコンで、七輪や豆炭行火は知らないで育った彼らは、もしかしたら火が熱くてキケンということを実感できないのではないか。そして何より外で「火遊び」をしてない世代なのだ。
 冬の子ども遊びに「焚き火」があった。サツマイモを蒸して焼きいもを作ったりもしたが、実はこれはあまりうまいものではない(焼き芋屋さんで買うほうがよい)。私たちの遊びグループでは、ビー玉を焼いていた。お寺の境内でビー玉を焚き火で熱し、頃合いを見て手水鉢に放り込むと、温度差で「ジュ」という音を立ててビー玉内部にヒビが入るのだ。それを「柄ビー」と称して珍重していた。柄ビーはキレイだったが、実際に遊ぶときにはすぐに割れてしまう危険なシロモノであった。
 ビー玉を埋め、焚き火の燃え盛る火をじっと見ていると、魅入られたようになり、ボーッと意識が遠くに飛んでいきそうになるときがあった。環境ホルモンのことなど何も知らない時期であったから、おそらくダイオキシンたっぷりの煙を吸いながら、メラメラと踊る焔を凝視していた。子どもながらにも、そんな朦朧状態がなんとなくいけないことだということを感じていて、意識を正常に取り戻しながら、落ち葉を足して火勢を盛り上げていたが、そんな焚き火でトリップ体験、みなさんにもないでしょうか。
 火に関することは子どもの世界でも特別な存在で、理科のアルコールランプを使った実験や、夏の花火遊びもワクワクする出来事だった。
 とにかく学校でマッチや火を扱えるヤツは子ども世界でのステータスであり、冬にクラス内に設置される石油ストーブに火を付ける係には人気が殺到したものだった。また、焼却炉当番というのが七〇年代の小学校にはあった。
 学校清潔方法(昭和23年4月14日文部省訓令第2号)では次にように学校ごみについて指導している。
 (8) ちり,あくたの類は,ごみ箱又は一定の場所にあなを掘り,その中に集めておき,しばしば焼き又は適当の場所に搬送しなければならない。
 また、昭和25年度 小学校保健計画実施要領(試案)によれば次のような文部省の方針があったことがわかる。
 七)ごみの処理と設備
 ごみは大別して雑かい(不燃雑かいと可燃雑かいとに分かれる),台所じんかいの二種があり,それぞれ衛生的なふた付ごみ箱に集められたものを,市町村営,または会社営等によって,搬出処理されるのが普通であるが,学校内にごみ焼き炉を設けて焼却することもできる。ごみ焼き炉は特にその設置場所に注意し,学校内で一日に排出されるごみの量を一回に焼き捨てることができる大きさとすれば手数が省ける。
 校内の落葉,枯れ枝等は別に焼却して学校農園の加里質肥料とし,またつみごえともなろう。台所の廃物は,学校の農業科で飼育するぶたの飼料や,農業実習地のつみごえ原料とならないこともないが,これは衛生上その取り扱いに特に注意を要する。
 校舎内のそうじには,ほうき,はたき,床ふき用柄付ぞうきん,机上等をふくぞうきん,ガラスふきの布片,バケツ,ちり取り等と備えて,校舎の諸所にそれらのそうじ用具入れ場を設ける。

 だが実際に小規模な焼却炉が都市の学校に設置されはじめるのは昭和三十六年ころからだ。それまでは校庭の片隅で焼いたり、穴を掘って埋めていたが、火災予防の見地や衛生面の問題から、焼却炉が設置されていった。そしてダイオキシン対策のため一九九七年で原則廃止という指導が文部省からでるまで存続していたのだ(「子供を持つ親たちの心配に早くこたえたい」ため(町村信孝文相))。
 校庭の片隅にあった年代物の鉄でできたカマは、蒸気機関車の男らしさを思わせた。毎日選ばれた当番なり、焼却炉係なりがフタを開く係とゴミを入れる係の二人一組になって、低学年が持ってくるゴミ箱の中身を燃やした。最後に灰のなかに残った鉛筆の長い芯は焼却炉係のものにできる特権だった。もはや校庭の片隅から白い煙が棚引かなくなって久しい。

「理科室のガイコツは夜うごく」の巻

「理科室のガイコツは夜うごく」の巻

「科学大観」より 理科室は特別教室のなかでも特に印象が残る部屋である。人体模型のガイコツは夜中に一人でに動き出し、子どもたちの授業中はじっとしているという噂があったし、ホルマリン着けのフナやカエルがしんみりと並べられていた。
 理科の実験器具は木製の箱に入っているものが多く、顕微鏡は厳かに木製ケースの鎌のような鍵をはずして取り出した。接眼レンズと対物レンズがあり、対物レンズをスライドガラスの上の薄いカバーガラスに近づけすぎるとペリンといういやな音がして壊れた。上皿天秤の重りもニス塗りの木製ケースに整然と重さ別に並べられており、さびがつくので手で直接触るのは厳禁、付属のピンセットで慎重にくびれをつかんで皿に載せるのはまさにちびっ子科学者の雰囲気がでるしぐさであった。軽い重りは角がちょいと折れておりつまみやすいように工夫がしてあった。

 アルコールランプの実験ではまず、マッチのつけかたを習い、なかなか火をつけられない男子は笑われたが、もっとすごいのはランプの火をガラスのフタで消すことだった。息をふきかけて消火するのではなく、燃焼もとの酸素を絶つためにフタをするのである。これが皆なかなかできない。絶対にフタをすれば消えると頭ではわかっているが、フタが命中する面積が小さいので失敗して火が消えずに指をヤケドしてしまうのではないかと思ってしまうのである。

 アスベスト(石綿)の危険性が叫ばれている今日であるが、石綿付金網を五徳の上に乗せフラスコをアルコールランプで熱していた私たちが肺がんになった場合、どうしてくれるのだろう? 焼却炉でごみを燃やしてダイオキシンを出した私だからおアイコととでも?

 ビーカー、メスシリンダー、ピンチコック、試験管、リトマス試験紙と、勉強なのに子どもたちの別の関心を引き出すものがいっぱいの理科室だったが、その実験器具に囲まれて充実していた世代は実はそんなに多くはない。あくまでイメージだ。

 学制発布後、明治十年代の理科教育は施設・備品が不充分であったが、島津製作所が理化学器械の輸入や国産化を行う努力を続け、二十年代になると理科教育の重要性に基づき、理科設備基準が公布された。大正七年には中学校の生徒実験要目が制定され、実験設備は普及したが、昭和十年代になると戦争のため理科器械は簡易化され、衰退の一途をたどっている。

 戦後は戦災にあった小学校では理科室どころか顕微鏡さえも揃っていなかった。修理すれば使える教具もあったが修理代にも事欠く有りさまだった。昭和二十五年に「実験なき科学教育」が問題視され、設備とともに理科教師の層の薄さが憂慮されていた。なにしろこのころは文部省のなかにも科学教育の担当部署がなかったという。

 紙と鉛筆だけでは日本の科学振興は図れないと、昭和二十八年に理科教育振興法が制定、翌年に設備基準が作られた。再び理科器械の充実がはじまったのであったが、一校あたりの予算も少ないなかでなにを購入するかは悩みのたね。僻地の学校では十分な予算もなく別項で記すような教育設備助成運動(ベルマーク)によって実験道具が買いそろえられていく現状があった。たとえば、教師が実験をしてはいそれで終わりになるところもあれば、六名前後の一班に一セットの実験道具を支給できるところもあっただろう。一番最良なのはひとりひとりが顕微鏡を覗き、実験の主体的観察者になることであるが、班に一つではちっとも触れることができない児童も当然でる。理科の授業で疎外感を味わうと学科への興味も関心も失うことになる。カエルの解剖のときにただ友人の肩越しに眺めていただけの少年が医師を目指すことはあるのだろうか。日本人が理数科が弱い人が多いというのは民族的な頭のつくりの違いではなく、国力の違いで十分な理科教育を受けてこなかったのが一因なのではと私は思っている。日本の子どもたちが戦後の戦災復興のなかで不十分な理科教育を受けているころ、アメリカでは街なかに科学博物館があり、全国理科教師協会も結成されていた。

 国も、科学技術振興のためには、その基盤となる小学校の理科を充実させるべきだということで、昭和三十五年には理科教育審議会が「すべての小学校に理科室と理科準備室を設けること、理科設備充実のための財政的措置、都道府県への理科教育センターの設置と教員の理科指導力向上・増員」を建議している。なんと昭和三十三年の行政管理庁調査では理科室を持っている学校は全体の四一パーセントに過ぎなかったのである。昭和三十六年には理科機器の進歩や学習指導要領の改正に応じて、二十九年に作られた設備基準が改められ、たとえば「上皿てんびん」がこれまでの三倍用意されるようになるなど理科教育の充実が図られた。

「戦後の教室の風景」の巻


「戦後の教室の風景」の巻

 みなさんは、自分が学んだ小学校の教室の様子をいまでもありありと思い起こすことができるだろうか。
 ここでは、教室にあったもの、たとえば黒板や机などの教具や、くずかごやストーブなどの備品を教材や学用品も含めて『学校文化財』と呼ぶことにしよう。
 戦後の学校文化財が教室にそろえてある風景の基本は、『昭和25年度 小学校保健計画実施要領(試案)』によって次のような文部省の方針があったことがわかる。この実施要領の本文を借りながら教室の風景を描くことにして、「教室」にかかわる歴史的基本知識を得て行きたい。

・机・腰掛は児童の身体に正しく適合するものでなければならない。したがって、一教室に備え付ける机、腰掛はすくなくとも大、中、小三種類の寸法のもので編成する必要がある。机・腰掛は、堅固な構造で、つやのない落ち着いた色の塗装を施し、机の平面は手ざわりのなめらかな堅木を用い、腰掛座面にはすわったときの上たい(上腿)面に適合した曲面をもたせる。
・黒板は暗緑色または黒色のつや消し塗料を施したもので、すべての児童から見やすい位置と大きさにする。黒板の自墨みぞや黒板ふきは,毎日きれいにそうじしなければならない。
・掲示や児童の作品展示などに用いる掲示板は,テックス類(せんい板)か、やわらかい木質の板を用い適宜移動して張り付けられるようにすれば簡便である。
・教室があれば,その教室備え付けの机に児童所持品を入れることができ、教室内の適当な場所に所持品入れの小戸だなを設けることもできる。各組児童に個有の教室がない場合は,廊下・広間・児童控え所等にロッカー(個人別小戸だな)を設けなければならない。
・教室・講堂・食堂・児童控所・広間等の壁面に、美しい絵画・写真・ポスター等を掲げ、また卓上や適当な高さの飾りだなの上などに美しい花びん・塑像等を置くことも望ましい。しかし,絵画・写真ポスター等を黒板の上や窓と窓の中間壁面に掛けてはならない。
・教室その他の室・広間・廊下・校舎外の運動場・校庭等には、要所要所に紙くず,ごみ等を捨てるふた付のかごや箱を備えつけておかなければならない。
・防寒については,室内気温が摂氏10度以下に下がった場合は暖房が望ましい。暖房の方法には,いろいろあるが、多くの場合、置ストーブに石炭またはまきをたく方法を用いているから、この際は必ず煙突を設けて、排気ガスを戸外に導かねばならない。火鉢に木炭をもやす方法は、教室では禁止すべきである。特別の場合、火鉢を用いることがあれば、換気に注意しなければならない。石炭、まき、木炭、ガスなどの燃料が燃焼するときは、炭酸ガス、じんあい等の発生のほか、身体に有毒な一酸化炭素を生ずるから、特に注意を要する。

・水飲み場は学校内の適当な位置に分散して設けなければならない。保健衛生上完全を期するため、給水は噴泉式(ファウンテン)とするのがよい。
 絶えず噴水しているのは水の不経済であるから、水せんを設け、それは手で回す水せんでなく、足で踏むと水の出る装置にするのが理想的である。かつ噴水口は、上方に露出しないで,斜めに水の出るしかけとするのがよい。
・水飲みコップ。手ぬぐい、せっけん等は、児童各自の個人用のものでなければならない。
・洗面手洗い場は、なるべく各教室ごとに作りたい。清潔な洗面器または手洗い器を取り付け、水は流水式として,新鮮な水がいつも豊富に流出する設備とする。洗面または手洗い場には大きな鏡を取り付ける。足洗い場は、運動場,教室入口附近等に設置する。足洗い場から教室にはいるところには足ふきのマットを備える。
・児童の弁当、食器類を個人別に入れる小戸だなを食堂に設けるのが望ましく、さらに冬季の弁当保温設備があれば申し分がない。

 この文章から当時の理想とされた教室の形態が想像される。腰掛がなぜあんなに硬く、「児童座布団」と呼ばれるような商品が必要だったのかもわかるし、ロッカーの必要性、そしてなぜどのどの教室にも「花瓶」が置いてあったのかもわかる。家の中に「花」がない生活をしていた私にとっては教室の花というのは大変不思議な存在だった。ゴミ箱・ストーブがある理由も明記されているし、理想の水のみ場もここには描かれている。「足洗い場」というのはおそらく当時ははだしで体育をやっていたから、その足の裏を清潔にするために必要だったのではないか。あとででてくる「暖ぱん器」の必要性も書いてあり、実現できたかどうかは別にして、戦争が終わってたった五年でのこの時代で最小限、最高の児童生活がここにあるのではないだろうか。

「通知表とはなんだったのか」の巻

日曜研究家串間努
「通知表とはなんだったのか」の巻

 冬休み前の期末テストというのは子どもたちにとって楽しみだ。、給食も「クリスマス給食」というお楽しみ給食が出て、生クリームではなく、安物のバタークリームが乗っかった、三角ケーキが出たものだ。

 私たちの学校では、欠席者の分の給食は、家までわざわざ持っていって上げる制度がなく、それらは希望者たちがじゃんけんをした。だからクリスマス給食の頃は、風邪のシーズンでもあったので、「できるだけ欠席者が出るように」と、不純にも思ったものである。

 短縮授業はあるし、図画工作の時間は、年賀状のイモ版画づくりだったりと、普段とは違った空気が冬の冷たさとあいまって、特別な季節感を醸し出していたような気がしてならない。だが、この浮かれた気分の中に唯一つ水を差すのが、「通信簿」である。
 
 教育勅語が発布された明治二十四年に「小学校教則大綱」が制定され、「小学校の試験は教授上の参考のためと卒業の認定のためのもの」とされていたが、特に、通知表のためにテストを行っていたのではないようだ。
 試験の評価法は、明治二十四年の「学事表簿様式制定の事」(文部省達第11号)によれば、点数か「上中下等比較的ノ意味ヲ有スル」ことばを用いることが示めされ、ここから明治三〇年代に「甲乙丙丁」の評価法が全国にひろまったと考えられる(江戸時代にも評価として甲乙があった)。

 明治三十三年には「学籍簿」に学業成績を記入することが義務づけられるようになった。埼玉県では大正九年には「教育手帳」という名前で通信簿を発行していた。
 昭和十三年、文部省は成績の表記を統一し、相対法での、学籍簿成績の10点法による記入を指示。操行科目だけは優良可と表記した。
 戦争が始まった昭和十六年には文部省が学籍簿・通知簿の成績は「優良可ノ区別ニ依リ記入スルコト」と、「甲乙丙丁」を全廃し「優良可」(昭和十八年からは秀優良可不可)で記入するよう定めた。これは絶対評価法であったから出来る子どもはみな「優」であった。ただし、筆者の聞き取り調査では、戦前は教師の差別意識がひどく、経済的に困窮している世帯の子どもや不潔な子どもには「優」をつけることがあまりなく、勉強ができなくても裕福だったり地元の実力者の子弟には「優」がついていたという談話も得ている。絶対評価の場合は教師の主観で左右される度合が「相対評価」よりは大きいからその可能性は十分あったといえる。

 戦後、昭和二十四年に「学籍簿」を「指導要録」と改めた、占領軍CIEの政策で通信簿が作られた。これは国語が「5」とか「良」とか記すものではなく、行動と学習の記録を「ひとと親しむ」「書く」などと目標別に0を中心として両端を+2と-2とする評価する。趣旨としては、学習児童の発達の過程を記録した原簿で、「新しい教育」の精神からみて重要なものを記録する、客観的に記録されるように作ったということである。、しかし記入する教師側も迷うことが多く、親もどう判断してよいかすぐにわからない、就職や進学先からも序列がはっきりとわかるようにして欲しいなどの要望が出、昭和三〇年に、この評価法をやめ、小・中・高等学校とも5、4、3、2、1に統一した。これは正規分布を描くように7%・24%・38%・24%・7%の割合で5・4・3・2・1に成績をふり分けるものである。

 昭和三十六年には「一般に3程度のものが最も多数を占め、5または1はきわめて少数にとどまるであろう」と指導要領に示されていたが、四十六年の改正では5段階評定を行うに当たって 「この場合、あらかじめ各段階ごとに一定の比率を定めて、児童をそれに機械的に割り振ることのないように留意すること」とした。つまり「1」をつけなくてもよいことになったのである。昭和五十五年には小学校低学年は3段階評価になった(平成3年には全学年が321の3段階評価になった。二〇〇二年度の新学習指導要領では相対から絶対評価に変わった。二〇〇四年では教科の総合評価である評定を通知表に入れた学校は三割でしかなく、おおくは321方式)

 だが、一般に通知表と言われるものは法の定めがあるわけではない。文科省では「子どもの学習状況を家庭に伝える連絡簿」という位置づけであり、作っても作らなくてもいいが、昔からの慣習で続いているとのこと。だったらそんなに一喜一憂することもなかったのである。

力士が昇進時の口上に入れた四字熟語

力士が昇進時の口上に入れた四字熟語
大相撲 四字熟語

力士名 年代 昇進 使用した四字熟語 言葉の意味

貴乃花 1993 大関 不撓不屈(ふとうふくつ) 困難にあってもくじけないこと。
若乃花 1993 大関 一意専心(いちいせんしん) 他のことには目もくれず、しゃにむに頑張ること。
貴乃花 1994 横綱 不惜身命(ふしゃくしんみょう) 自分の身をかえりみないで物事にあたること。
貴ノ浪 1994 大関 勇往邁進(ゆうおうまいしん) 勇気を持って目的に向かい突き進むこと。
若乃花 1998 横綱 堅忍不抜(けんにんふばつ) 意思、節操が堅く、つらいこともにも耐え、心を動かさないこと。
武双山 2000 大関 正正堂堂(せいせいどうどう) 手段や態度が正しくて立派なこと。
朝青龍 2003 横綱 一生懸命(いっしょうけんめい) 真剣に物事に打ち込むこと。 命がけで物事にあたること。一所懸命から出た語。
白鵬 2006 大関 全身全霊(ぜんしんぜんれい) 身も心もすべて。
白鵬 2007 横綱 精神一到(せいしんいっとう) 精神を集中して事に当たれば、どんなことでも成し遂げられる。
琴光喜 2007 大関 力戦奮闘(りきせんふんとう) 力の限り努力すること。
日馬富士 2008 大関 全身全霊(ぜんしんぜんれい) 身も心もすべて。
琴奨菊 2011 大関 万里一空(ばんりいっくう) 一つの目標に向かって努力を続けること。
日馬富士 2012 横綱 全身全霊(ぜんしんぜんれい) 身も心もすべて。
鶴竜 2014 横綱 一生懸命(いっしょうけんめい) 真剣に物事に打ち込むこと。 命がけで物事にあたること。一所懸命から出た語。




「学級文庫」の巻

日曜研究家串間努 「学級文庫」の巻


 両手で唇をひっぱりながら発音すると「机の上の学級ウンコ」と聞こえる、という子ども遊びが流行ったことがある。
 学級文庫は教室の後ろの低いロッカー棚の上にちんまりと並んでいた。二〇冊くらいだろうか。ホントはクラス全員がなにかしらの本を持ってこなくてはいけなかったのだが、ブックオフという新刊古書店もない時代には、本はあまり買ってもらえなかったし、誕生日などのプレゼントでいただいた本を寄付できないしで、なかなか充実した学級文庫にはならなかった。不要として持ってこられた本は他の子にとっても興味を引く本ではなく、あまり利用されずに、文字通り棚ざらしになったままであった。私がいた小学校には日本ではじめてできた移動図書館車が毎週来ていたし、学校の図書室にも本が並んでいたので、本好きの子はもっぱらそっちを利用して、ことが足りていたという理由もある。だが、昭和四〇年代になって学校の図書室が十分な予算で機能しはじめるまでは、志の高い教師によって、学級内に文庫が設置され、子どもたちに好評だったようだ。


 学級文庫の歴史は古い。全国に普及していたかはさて置き、明治四十二年にはその制度があったようだ(島根県の尋常高等小学校)。学級文庫は児童たちの生活空間で適当な読書ができること、図書の管理をクラスの児童の自治管理下に置いて、紛失や整頓の教育になることがメリットとされていた。問題は図書購入費だが、大正年間には各地の進歩的教師により導入が試みられていた。大正七、八年頃の沖縄の小学校では芋皮を一学級分集めて、豚を養っている人に売った代金で担任が学級文庫を揃えたという。また、山形県の河北町立谷地西部小学校では昭和三年 二十周年記念事業として各戸の寄付により学級文庫を創設した。本が好きだけれど家が裕福でない子どもにとっては、まさにオアシスのような存在だったろう。
 クラスのなかでの相互扶助や、借りたものを返すという教育的効果を見いだせる学級文庫。いつまでも続いて欲しい小学校文化である。

●「はるか」を改稿

「純潔教育と初潮映画」の巻

「純潔教育と初潮映画」の巻

 小学生のとき、男子と女子とでは、男子のほうがなんとなく優遇されていて、女子はいろいろな場面で後回しにされたり割りを食っていたような印象がある。といってもそれは日常の細かいことで、遠足のバスに男子が先に乗ったり、掃除の時間にいちはやくホウキを独占してしまうようなことなのだが。



 唯一、男子が女子を羨ましいと思った日がある。高学年のときに女子だけ理科室に集められて映画を見せられたのだ。なんで女子だけなんだと男は文句をいい、理科室から戻った女子に「ねえ、ナンの映画だった?」と聞いたが答えてくれない。クラスの女子が担任の女教師と一致団結して箝口令をひいているのだ。

 それが性教育の映画だかスライドで、月経の手当てについてだったことは大人になってから知った。暗幕の閉まる部屋で男子に秘密裏に月経教育をする。なんだか女性の生理は恥ずかしくて隠さなければならないことというネガティブな印象づけはこのような密やかな月経教育に根ざすところが大きいのではあるまいか。

 月経教育を中心とする性教育は、教育現場では「純潔教育」という名前でオブラートに包まれた。明治時代から、性を学校現場で口にするのははばかれるところがあり、理科でも植物の受粉は教授してもよいが動物は「生殖機能ヲ説クベカラズ」とされていたくらいである。これが終戦後、アメリカによる民主教育施策で性についても以前よりは解放された。

 昭和二十二年、文部省は「純潔教育の実施について」というタイトルで社会教育局長通達を出し、戦後の性教育の一歩が始まった。「男女間の道徳秩序をうちたてること」と書かれているように、このころの純潔観念は貞操を重視し良妻賢母を作るものであった。昭和二十四年には「純潔教育基本要項」(純潔教育委員会)、昭和三〇年には「純潔教育の進め方(試案)」(純潔教育分科審議会)と「純潔教育」が強調され、文部省は「性教育」という言葉には消極的である。昭和三〇年代から四〇年代は性教育についてはまったく進歩がなかったが、昭和五〇年後半から月経教育以外の性教育、男女の生殖器、受精、妊娠、発生、出産、第二次性徴などについての方針検討や研究がなされた。昭和60年代になると道徳の時間で性を科学的に教えはじめ、体格の向上や性モラルの崩壊化など時代背景の変化に学校現場でも対応を迫られるようになった。しかし小中学生でも援助交際をしているなどのニュースを聞くにつけ、私たちの時代は純情だったのだなと感慨を新たにする。

●「はるか」を改稿