雑学の記事 (1/7)

ドッジボール

70年代の小学校にはあったのに今の小学校ではなくなっているもの
小学校から消えたものは安全面から至極当然なもの、学校のIT化による進化の結果として消えていくものなど色々あると思いますが……。

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・米国では数年前から、ドッジボールを危険なスポーツとして禁止する小学校が増加する傾向にある。
背景には、けがをした場合の責任を回避したいという教育現場の保身があるようだ。

・過保護な親の要求主義が日に日に過剰になっていっている状況は、日本でも同じかもしれない。

ライン引き

70年代の小学校にはあったのに今の小学校ではなくなっているもの
小学校から消えたものは安全面から至極当然なもの、学校のIT化による進化の結果として消えていくものなど色々あると思いますが……。

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チャイム

70年代の小学校にはあったのに今の小学校ではなくなっているもの
小学校から消えたものは安全面から至極当然なもの、学校のIT化による進化の結果として消えていくものなど色々あると思いますが……。

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生徒の自主性を伸ばす目的で、時計を見て時間を管理する「ノーチャイム制」を取り入れている学校が増えているそうです。チャイムの鳴らない学校って、私たちにとってはなんだか不思議ですよね。


・うちの子の学校もチャイムはありません。
やはり時計を見て行動出来るようにって事らしいです。
うちの子はまだ1年生で時計を読めない子が多いので、数字で「この数字」になったら休み時間が終りみたいな感じて教えてるようです。
でもまだ1年生では要領得ないようで、時間通りにはみんな集まらないみたいです。

・最近では徐々にノーチャイムの学校が増えてきているようです。
「キンコンカンコン コンカンキンコン」というチャイムを聞くと、「やっと授業が終わったぜ…」と喜んだ人も多いでしょう。

・授業中には待ちわび、休み時間では「まだ鳴るな!」と願った学校のチャイムですが、実は福岡県の小中学校で、このチャイムを鳴らさない学校が増えているというんです。

・これは、子供達に自分で時間割や時計を見て行動するように、自主性を伸ばすのが狙いだとか。先生側も「終了のチャイムが鳴ると子供は一気に集中力がなくなってしまう。鳴らないと切りのいいところまで授業が伸ばせる」と肯定的。

でも子供側は「授業が延長されて休み時間が減っちゃう」「休み時間でつい遊びすぎちゃって授業に遅れる」などと不満の声も多いとか。

・完全週休2日など今年4月から始まった新しい学校制度の一環で、授業時間が自由に設定できることから始まったチャイムの廃止。本当に子供のためになっているんでしょうかね?「授業が早く終わって休み時間も増えるから良いよ」などと賛成している子供達も結構多いらしいですが…。

チョーク

70年代の小学校にはあったのに今の小学校ではなくなっているもの
小学校から消えたものは安全面から至極当然なもの、学校のIT化による進化の結果として消えていくものなど色々あると思いますが……。

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チョークの弱点
チョークは、主成分である炭酸カルシウムの粉末を黒板に付着させる形で筆記を行ないます。そのため、どうしても黒板周辺はチョークの粉だらけになってしまい吸い込むと喉を痛めることがあります。このようなチョークの弱点を避けるため、黒板からマジックペンで書き込めるホワイトボードへの転換が盛んになっています。

進む学校の電子化
20世紀末ごろから盛んになったIT教育と少子化の影響で、学校の設備は大きく変化しているといえます。黒板とプロジェクター用のスクリーンを統合した「電子黒板」の登場はその一端であるといえます。電子黒板は、パソコンの表示装置と手書き入力装置を組み合わせたもので、消耗品であるチョークが不要になることや授業内容をデータとして保存することが出来るなどのメリットを持っています。

かみつきヘビ


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焼却炉

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小学校から消えたものは安全面から至極当然なもの、学校のIT化による進化の結果として消えていくものなど色々あると思いますが……。


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・時代と共に変化した用務員の業務内容としては、代表的なものに塵芥(ごみ)の処理がある。かつては校内から出た塵芥は、用務員が管理する校内の焼却炉で焼却処分していたが、現在では小型焼却炉のダイオキシン発生などの諸問題の影響から学校用焼却炉の撤去が進められ、学校内での焼却はほとんど行われなくなった。


・かつて学校から出るゴミは焼却炉で燃やしていたが、プラスチックなどのゴミを燃やした際にダイオキシンが発生し、少量でも長期間吸ってしまうとがんや発育異常になる危険性があった。そのため文部科学省が1997年に全国の学校に焼却炉の廃止を通達。現在は清掃業者が学校のゴミを処理している。

名札

70年代の小学校にはあったのに今の小学校ではなくなっているもの
小学校から消えたものは安全面から至極当然なもの、学校のIT化による進化の結果として消えていくものなど色々あると思いますが……。

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近年では名札から不審者に個人情報が漏れてしまうとの理由から、登下校時には名札をつけず、靴箱にも名前の記載はなし。さらに連絡網も学校からの一斉メールに変化している。


・個人情報、不審者、などの理由で、
うちの子の学校では朝登校したら付けて、下校時に外して帰ります。

・娘の学校は校内のみ名札をつけます。
帰りは机に置いて先生が集め保管しています。
不審者対策で名前が割れないようにする為だと入学時に説明会がありました。

・うちの子たちの通う小学校は回転式名札です。
外(登校や下校の時)にいる時は、名前が見えない方に向けておいて、
学校の中にいる時は名前が見える方に向けておく!!!

最近の小学校では登下校時に名札をつけない、あるいは名札自体を廃止する学校が増えています。


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回転式の名札。安全ピンが付いた留め具の中央部をひねると、表裏がひっくり返る


 「1941年に小学校が国民学校に改組されると、布でできた名札を上着の胸に縫い付けました」。東京都練馬区の元小学校長、中牧修さん(83)が、長野県の山村で過ごした子ども時代について語ってくれた。

 戦時中、学校では戦争に即応した教育が行われた。京都市学校歴史博物館学芸員の和崎光太郎さん(39)は「写真を見てもこの時期に名札を着ける子どもが増える。命令や動員をしやすくし、戦災に遭った時の身元確認に役立てる狙いがあったのではないか」とみる。

 戦後は種類が増えた。学年・学級、名前を書いた紙などをビニールケースに入れ、服に安全ピンで留めるタイプ、長方形のプラスチック板に名前を刻んだもの、丸形、小判形など様々だ。

 「1学年300人など、子どもの多い学校が増え、教員も担任しない子の名前まで覚えきれない。名札は随分役立った」と中牧さんは話す。70年前後、1年生を受け持つたびに、一人ひとりの名札を手書きして名前を覚えた。「児童への愛情が自然と湧いてきた」という。

 公衆電話が普及すると、子どもが必要な時に家へ電話できるよう、名札ケースに10円玉を入れておく保護者もいた。

 ところが、登下校時に誘拐など、犯罪の被害に遭う不安が高まった90年頃、名札の着用を校内だけにしたり、名札そのものを廃止したりする学校が出てきた。他方、「児童の名前が分かったほうが指導しやすい」と、着用を続ける学校もまだ多い。

 こうした中、2006年には登下校時に留め具をクルッと回して裏返し、名前を隠せる名札が登場。製造元の「西敬にしけい」(大阪市)によると、「年間の生産量は約20万個。最近は注文に追いつかない」人気ぶりという。

 千葉県いすみ市は14年、この回転式名札を全市立小学校に導入。今春、市教委の学校教育課長から同市立大原小の校長になった浅野洋通さん(58)は「保護者の要望に応えた。すっかり定着した」と経緯を話す。

 回転式名札に日本語と英語で名前を書いて英語学習に利用する小学校もあり、今後、名前の確認以外にも使い道が広がりそうだ。

ブルマー

70年代の小学校にはあったのに今の小学校ではなくなっているもの
小学校から消えたものは安全面から至極当然なもの、学校のIT化による進化の結果として消えていくものなど色々あると思いますが……。

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1970年代以降、ブルマーは従来のもんぺ・ちょうちん型からショーツのように太股を完全に露出するスタイルに変貌した。当時の人気スポーツであったバレーボールの影響から、スポーティーで格好いいと好意的に受け止められる向きがあった反面、性的な羞恥心が強くなる思春期の女子にとっては潜在的な抵抗感もあったという。

軽量で動きに対する追従性がよい反面、ブルマー着衣部分の体型が強調されたり、ブルマーの裾からヒップが露出したり、ブルマーの裾からショーツが露出するいわゆる「ハミパン」が生じるという問題もあった。また、太股の露出に抵抗を持つ者も多くなった。

1987年、名古屋西高校で女子生徒の体操着として新たにブルマーを導入したところ、生徒による反対運動が起こった。1988年、朝日新聞で女子中高生がブルマーに反対する投書が掲載された。

1990年代に入ると、それまでは一部のマニアのものであったブルセラ趣味が商業的に展開され、女子生徒から着用済みのブルマーやセーラー服などを買取り販売するブルセラショップが誕生した。

ブルマーが性的好奇心の対象として一般に認知されるようになると、運動会などの学校行事においてブルマー姿の女子生徒を盗撮したり、校舎に侵入してブルマーの窃盗をはたらいて逮捕されるといった事件が、社会問題として取り上げられるようになっていった。

1993年にJリーグが開始される前後より始まったサッカーブームから、プロサッカー選手のユニフォームとして着用されていたハーフパンツが注目されるようになった。

こうした時代背景の中、ブルマー着用の必然性に対して疑問の声が上がり始め、新聞にブルマー廃止を訴える女子中高生の投書が掲載されるようになった。

1995年には東京都小金井市議会で若竹綾子市議が問題提起を行い、それが朝日新聞に掲載されると、学校や保護者も含めたブルマ―廃止機運が高まった。また男女同権論者・ジェンダーフリー教育論者の中からは、通常体育の授業時は男女別服装である合理的理由はなく、男女平等教育の観点に照らして男子・女子とも同じ運動着を着るべきであると主張する人々も現れた。

これらの動きにマスコミも追従し、追放運動は1990年代中盤にピークを迎えた。1994年にいくつかの県で廃止が決定されると、ブルマーの指定廃止は数年のうちに全国に広がった。

こうして公立校は2004年、私立校でも2005年を最後に、女子の体操着としてブルマーを指定する学校は日本から消滅した。多くの学校では、ブルマーの代わりに太股を覆ったハーフパンツまたはクォーターパンツが採用されることとなった。

「石綿(アスベストス)付き金網

70年代の小学校にはあったのに今の小学校ではなくなっているもの
小学校から消えたものは安全面から至極当然なもの、学校のIT化による進化の結果として消えていくものなど色々あると思いますが……。

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理科の授業で使っていた「石綿(アスベストス)付き金網、三脚とセット」

石綿の繊維1本は直径0.02-0.35 μm(髪の毛の5,000分の1)程度である。耐久性、耐熱性、耐薬品性、電気絶縁性などの特性に非常に優れ、安価であるため、「奇跡の鉱物」として重宝され、建設資材、電気製品、自動車、家庭用品等、様々な用途に広く使用されてきた。しかし、空中に飛散した石綿繊維を長期間大量に吸入すると肺癌や中皮腫の誘因となることが指摘されるようになり「静かな時限爆弾」と呼ばれるようになった。

発ガン性などが問題となり、日本では2006年9月から、化学工業プラントで配管同士の接続に使用される「シール材」などの5製品を除き、原則禁止になった。しかし、厚生労働省は、2008年4月に、例外的に認められていた5製品についても2011年度を目途に全廃することとし、同年度以降は、新たな石綿製品は日本では製造されないことになった。

理科の実験で、ビーカーなどを火に掛ける際に使う石綿付き金網(石綿金網、アスベスト付金網とも。金網の中央にある円形の白っぽい部分が温石綿)が1988年3月頃まで販売されていた。

上記の問題から使用が中止され、2005年(平成17年)11月10日現在すべての小中高校での使用中止、および廃棄または廃棄を前提とした密封保管されていることが確認されている。

現在はセラミックやセラミックファイバーを利用したセラミック付金網が使用されている。ただし、一部のセラミックファイバーについても、発癌性が疑われている(国際がん研究機関 グループ2B)

アルコールランプ

70年代の小学校にはあったのに今の小学校ではなくなっているもの
小学校から消えたものは安全面から至極当然なもの、学校のIT化による進化の結果として消えていくものなど色々あると思いますが……。

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理科の授業で使っていた「アルコールランプ」

かつては、学校の化学実験でのフラスコ等の加熱によく用いられた。
近年の日本では、子供がマッチやライターの扱いを知らない、危険性を気にせず実験に集中させたい、などの思惑から、小学校の理科の教科書からアルコールランプの記述が消えた。

2005年度から、多くの教科書でガスコンロを推奨している。また、より高学年になるに従い、あるいはより専門的な場では、火力が強く安定しているガスバーナーを使うようになる。

腰洗い槽

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小学校から消えたものは安全面から至極当然なもの、学校のIT化による進化の結果として消えていくものなど色々あると思いますが……。


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腰洗い槽はプールに入る前に腰までつかる消毒槽の事だったが、塩素濃度は、プールの最高250倍で、そのため様々な症状が続出し、厚生労働省は1992年から洗浄はシャワーで十分と腰洗い槽を否定したのだった。

実は昭和三〇年代のプールは水の入れ換えをあまりしていなかった。汗や小便で汚れた水は最初に入れた塩素だけでは消毒しきれない。そのため雑菌が増える。昭和三二年には岐阜県の大垣市では結膜炎が多くなり、さらには「プール熱(咽頭結膜熱)」と呼ばれた。

プール熱はアデノウイルスが引き起こすが、このウイルスを殺菌するため、岐阜薬科大が高濃度の塩素を入れた腰洗い槽を発明した。

文部省はこの実験結果をもとにプールの衛生設備として全国に建設を推進、昭和三〇年代後半にかけて広まっていったのだった。 

現在では腰洗い槽があってもなくてもプール熱が流行ることが経験則からわかっているし、プールの水も適度に浄化されている現状がある。そこで、アトピーなどを引き起こす原因となる腰洗い槽不要論がでてきているが、一度建設したものはなかなか撤去できないようだ。

文部科学省の通達では校長の裁量にまかすことになったが、判断をまかされた校長も困惑顔。いまや腰洗い槽が必要なほど衛生環境がひどいプールは存在しないというのに……。

スコップとシャベル

スコップとシャベル

 辞書を見て驚いた。スコップを調べると「小型のシャベル」(『日本国語大事典 第2版』)と書いてある。自分の知識の中では、スコップは大きいもの(子どもの用のおもちゃを除く)で、シャベルは片手で握る小さなもの、別名、移植ごて、というはっきりした区別があったから。
 ところが、辞書では、スコップもシャベルも同じものというような説明ぶりなのだ。
 『大辞林 第2版』のシャベルの項に「関西では移植ごてなど小形のものをいう」と注記してある。なるほど、東西で呼び方や指すものが異なっているのだ。
 1957年ごろにホッピングがブームになった。本物は手に入らないので、「スコップ」で代用していた。先端が折れ曲がってしまったこともある。
 スコップはschopというオランダ語に由来する外来語。シャベルは英語shovelから。今日ではパワーシャベルのような大きなものもシャベルと言うから、スコップは劣勢かと思えばそうでもなさそうだ。
 園芸用の小さなもの(移植ごて)がガーデンスコップの名前で売ってある。大きなものはガーデンシャベルとかフローラルシャベルと呼ばれている。
 半世紀に渡って認識してきたスコップとシャベルの区別が、ここにきて大きく揺らいだ。カタログを見ないで、電話だけで注文すると大変なことになるところだった。

ハリセンボン

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「ハリセンボン」というお魚、ご存じですか?
(あの、芸人の「ハリセンボン」ではないですよ。とはいっても春菜さんに似てなくもないかな…。)


ふぐの仲間の魚で、怒るとぷくっと写真のようにふくれます。ふぐの仲間ですが、卵以外に毒はないので一部食用としても親しまれています。(沖縄など)。でも、多くのハリセンボンは実際は食べられるところが少ないので、一般的には食用としては敬遠されているようです。

このハリセンボン、針自体は大体5センチくらいでとくに毒はありません。ただ、先は結構とがっていて刺さると痛いものです。

さて、昔の人はこの魚のことを「ハリセンボン」と名付けましたが、実際に針は千本あるのでしょうか?

結論から言うと、個体の大きさによって針の数は違うものの、大きな個体であっても、せいぜい針は400~500本くらいだとのことです。

それでは実態に合わせて「ハリゴヒャッポン」にでも改名しましょうかね、なんて言ってもいいのですが、昔の人は
「たくさん」の意味で「センボン」と名付けたのでしょうね。

ということで、ハリセンボンの針は、せいぜい500本程度というお話でした。

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渡辺和子 名言

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人生はいつもいつも第一志望ばかりを歩けるものではありません。 そして必ずしも、第一志望の道を歩くことだけが、 自分にとって最良と言えないことだってあるのです。

人生はいつもいつも第一志望ばかりを歩けるものではありません。 そして必ずしも、第一志望の道を歩くことだけが、 自分にとって最良と言えないことだってあるのです。
いのちは大切だ。と、言われるより、あなたが大切だ。と、
言われた方が生きてゆける。
目立たない仕事をしている人へのあいさつを忘れてはいけない。私たちはお互いに「おかげさま」で生きているのだから。

置かれた場所で咲きなさい
どんなに忙しくても、いや、むしろ、忙しいからこそ、
一日の中、5分でも、10分でも静かな時間、
一見「無駄な時間」をつくらなくてはいけないのです。
いつまでもおぼえていたら とても辛いだろうと思ういろいろなことを、 ありがたいことに私たちは忘れることができる。 そして、時間というお薬があるんです。

いつまでもおぼえていたら とても辛いだろうと思ういろいろなことを、 ありがたいことに私たちは忘れることができる。 そして、時間というお薬があるんです。
「自分と仲良く生きる」といい。
好きな自分と四六時中一緒にいる人は、自然と笑顔が多くなり、
言葉から刺がなくなり、相手の言葉をふんわりと
受け止めることができるようになるから不思議です。
今という瞬間は、
今を先立つわたしの歴史の集大成であると同時に、
今をどう生きるかが次の自分を決定するということです。
人生は点のつながりとして一つの線であって、
遊離した今というものはなく、過去とつながり、
そして未来とつながっているわけです。
神様は私たちの「願ったもの」よりも、
幸せを増すのに「必要なもの」を与えてくださいます。
それは必ずしも自分が欲しくないものかもしれません。
しかしすべて必要なものなのだと、
感謝して謙虚に受け入れることが大切です。
一生の終わりに「残る時間」、
無駄に過ごさなかった時間を多く残すためには、
小さなことに愛を込め、
意味あるものとしていかなくてはなりません。
それこそが「新しい生き方」なのです。
数多い出会いがあっても 「自分」というものがしっかりしてさえいれば それらの影響に流されることなく むしろ、それらを通して 自分というものが鮮明になってきます。

数多い出会いがあっても 「自分」というものがしっかりしてさえいれば それらの影響に流されることなく むしろ、それらを通して 自分というものが鮮明になってきます。
いい出会いをするためには、自分が苦労をして出会いを育てなければならない。

仏頂面をして、他人の暮らしまで暗くする権利はない。不機嫌は、立派な環境破壊。
ほほえみを忘れた人ほどそれを必要とする人はいない。相手の出方に左右されることなく私の人生を笑顔で生きるという決意。
女性が、一日の間に鏡をのぞきこむ回数ほどに、
自分の心をのぞきこみ、内省し、
心の手入れを怠らなかったならば、
どんな高価な化粧品や装身具も与えることができない美しさが、
いつしかその人に備わることでしょう。
それは年とともに色あせるどころか、
むしろ深まっていく「美しさ」なのです。
この世に「雑用」という用はありません。 私たちが用を雑にした時に、雑用が生まれます。

この世に「雑用」という用はありません。 私たちが用を雑にした時に、雑用が生まれます。
人間は寂しさの中で成長します。
寂しさを感じない時には気づかなかった自分の無力さと限界を知り、
他人と自分の間に横たわる
必然的な距離について考察するようになります。
寂しさの苦杯をなめて、はじめて、
他人もまた味わっている孤独感への
やさしいいたわりの心を育てることができるのです。
自分の存在が受け入れられたと知ったら、相談者は恐れげなく語り始める。話しながら、自分で解決への道を歩き始める。
何かを失うと言うことは、別の何かを得ることでもある。今日より若くなる日は無い。今日という日を私の一番若い日として輝いて生きて行こう。
1.いつもにっこり笑うこと。
2.人の身になって思うこと。
3.自分の顔を恥じないこと。
この「3つの化粧品」は、お金がいらない、使っても減らない、
使えば使うほど質がよくなる、
どこへでも持っていける。そしてアンチエイジング、
つまり、年をとらないために、
とても大事な「化粧品」だと思います。

一生の終わりに残るものは、自分が集めたものではなく、自分が与えたもの。

一生の終わりに残るものは、自分が集めたものではなく、自分が与えたもの。
不要な枝葉を切り落とし、身軽になること。維持や執着を捨てて素直になること、他人の意見に耳を傾けて謙虚になることが成熟ということ。
大切なのは「人のために進んで何かをする」こと。
「人に迷惑をかけない」からもう一歩進んで、
「手を差し伸べる」気持ちが愛の実践につながる。

愛情の深さと歳月は比例しない。たとえどんなに短くても、本物の愛は心を充分に満たしてくれる。

「スワン型オマル」の巻


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「スワン型オマル」の巻


 子どもの頃、便所に入る前は大変だった。私はなぜかズボンからパンツまで全部脱がないと用が足せない。和式だったから便槽に落ちないよう、金隠しを両手でつかむのに、二つ折りした新聞紙も必要だった。長屋の共同便所だから、汚い。親が直につかませないのである。
「スワン型オマル」 昭和四〇年代初頭、千葉市に記録的な大雪が降った日があり、深々と雪が積もる中を、五歳の私は歩いて三分、ダリア園を経営しているおじさんのウチに遊びにいった。その家には三つ下の女の子がいて、縁側に、白鳥の形をしたオマルが置いてあった。オマルは自分より小さな子が使うものだとは知っていた。でも、一度は白鳥にまたがって、取っ手をつかんでみたかった。そんな淡い憧れを抱いたことを、「大雪の中の白鳥」という清楚なイメージとともに覚えている。

 オマルの歴史は日本でも世界でも古い。古いがそれは広義の意味でのオマルである。昔は大人も子どももオマルで用を足していたという。常設便所の出現前は手近に置いてある専用便器に用足しをしていたのである。
 縄文時代は戸外や川で用を足していたが、奈良時代の貴族は家の中で排泄をするようになった。しかし便所というものが設けられたわけではなく、筒や壺や箱に排泄し、その中身を捨てて洗った。これらの壺や箱は「マル」(まり筥(はこ)とも。用便をすることを「放る(まる)と呼んだことから」とか、「虎子(おおつぼ)」という。確かに「便器」という表現だから「器」であったのだろう。マルが置かれる場所は一定ではない。手持ちで移動が簡単な便器であった。
 では、オムツからトイレへの橋渡しをする『トイレトレーニング』の意味を持つ幼児用便器、狭義のオマルはなぜ生まれたか。日本では和式便所は穴に落ちる危険性があった。また、深く臭い穴は子どもにとって恐ろしい空間だ。恐怖感から便所にいかなくなるという心理的弊害がある。そこで、トイレトレーニングをしながら、バランスをとる訓練ができ、便所が決して「憚る」ものではないという習慣をつけるためにオマルが幼児用に転用されたのではないか。

 純白のスワン型オマルを発売したコンビ株式会社は、もとは三信株式会社(昭和三十二年創業)という医療用具メーカーであった。同社の中尾新六氏は工業学校出身でプラスチック方面に明るく、昭和三十四年頃、暗い色しかできなかったプラスチックに白色ができる技術が開発されたことを知り、これをオマルに応用しようと考えた。当時、三信では子どもが締める「脱腸帯」などを製造していた。この下地があったことで、新しい「子どもに優しい商品」を開発しようというニーズをベビー用品の方向に向かわせたのだ。
 昭和二十年代後半はベビー服も高く、ベビーカーに至ってはサラリーマンの給料が一万円の時代に数万円もした。しかし三十年代に入ると生活も豊かになり、ベビー用品市場も成長のきざしがあった。
 「昭和三十年代の始めは子どものオマルは病人用のを流用していたんです。ブリキの枠の上にクマやウサギの形を装飾するのがせいぜいで、そのあとホーロー引きのオマルがでました」(コンビ株式会社松浦康雄社長・談)。
 そんな中、昭和三十五年に同社はオマル製造に参入、日本初のプラスチック製オマルを発売した。型を作って樹脂を成形するため大量生産できる。スワンの目は女子従業員が手で描いていたという。
 だが、三千個作ったが半年は売れず在庫の山だった。
 「店頭で目立つことが第一だ」と考えた同社は営業マンがオマルを背負って、薬店・デパートを回り陳列に努めた。マーケティングでいう「店頭占拠率」を高める手法のはしりだった。

 素材が高価なせいもあって他社は追随してこない。奥さん同士のクチコミで売れだした昭和四十年代にはシェアが七割に達した。売れた原因はお母さんの省力化ができたこと。紙オムツが普及する前は浴衣などを裂いてオムツにしていたから、いちいち洗わなくてはならない。「おしっこ」と言われれば抱きかかえて外に出、開脚させて「しー」とさせていた。しかしオマルがあればその手間がいらない。
 また、当時の住環境も影響している。便所が遠くにあることも多かった時代、寒い冬に温かい室内でオマルで用足しできるのは快適だった。ホーロー引きオマルではお尻が冷たいのだ。

「スワン型オマル」 姿勢が保持できるよう、スワンの頭部には取っ手をつけた。このスワン形のイメージは非常に強く、完成度が高いため自社内で作った、子熊や象など他の動物デザインも太刀打ちできない。そこで他社は「打倒スワン!」ということで方向転換を図り、キャラクター物のオマルを開発した。
 「ウチは逆にスワンがあるためにキャラクターに入るのが遅れました」。
 では開発者はなぜ白鳥を選んだのだろう。
 「白鳥は優しいとか清潔という印象を与えますし、デザイン的にもオマルの形に成りやすかったのでしょう。『親子』というイメージも大きかったと思います」
  なるほど水面で親子の白鳥がスイスイ泳ぐ風景は美しいイメージとして多くのひとの頭の中にある。バレエの「白鳥の湖」(白鳥湖と呼ばれていたが戦後はじめて「の」が入った)が日本ではじめて公演されたのが昭和二十一年。NHKラジオの子ども向け番組『新諸国物語』第1部「白鳥の騎士」がスタートしたのが昭和二十七年。長距離特急「白鳥」が誕生したのが昭和三十六年。世の中に「白鳥」の優しくて美しいイメージは浸透していた時代でもあっただろう。
 実はスワン型は数年前に製造中止となったが、オマルは同社の今日を作った起爆剤である。売上に貢献したのはもとより、ベビー用品会社としてのイメージをつけ、プラスチック事業のノウハウを得て、ベビーラックやベビーバスへの展開はもとより食器分野にも進出、総合ベビー用品会社としての基礎を固めたのだ。

●「毎日新聞」に加筆改稿

あげパンの歴史


2月の献立表 (揚げパンは、ないみたいだな。残念。)

滝野川第二小学校では、1月12日に揚げパンが給食にでました。 給食・献立表

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あげパンは鵜の木発祥?
あげパンの歴史

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あげパンは大田区鵜の木発祥 今も昔も学校給食で変わらぬ人気メニュー、あげパンが給食メニューに加えられるようになったのは、大田区鵜の木の嶺町小学校にいた一人の調理士がきっかけとなりました。

昭和27年大田区鵜の木の嶺町小学校の調理士の篠原常吉さんが、固くなったパンをどうやったら美味しく食べれるか?を考え、油で揚げて砂糖をまぶし、病気で学校を休んだ児童の家に届けさせたそうです。
昭和27年といえば戦後間もない頃で、様々な物資が不足し、学校給食も手探りで実施していた時代です。おいしいものが多くなかった当時、砂糖をまぶした甘〜いあげパンは衝撃的な美味しさだったでしょう。

これがきっかけとなり、学校給食のメニューに「あげパン」が加えられました(昭和29年6月18日の学校給食の献立にあげぱんが記録に残っています)。篠原さんは学校給食コンクールで優勝され、いろいろな場で「あげパン」を披露したことにより、全国の給食メニューとして広がりました。

東京都大田区は、製造業の町として全国的に有名です。そんな大田区があげパン発祥の地であることは意外に思われる方が多いかと思います。東京あげパンの活動を通じて、大田区は製造業だけの町ではなく、様々な文化が根付いた地域ということを知ってもらいたいと考えています。

帰れま10 (居酒屋 半兵衛編)

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帰れま10(2月6日)居酒屋 半兵衛の結果「ベスト10の揚げパンと食パン耳揚げのランキング順位は?」

2月6日放送の『帰れま10&Qさま!!豪華2本立て3時間スペシャル』では、ヤキトリ(もも)54円、ホルモン煮込皿(140円)、お好み焼き(ミックス玉)216円、ポテトサラダ(108円)、おでん 大根(65円)とリーズナブルな値段でコスパ最高の女性に大人気の超激安居酒屋「薄利多賣半兵ヱ(半兵衛)」で『帰れま10』が行われました。

この「薄利多賣半兵ヱ(半兵衛)」はコスパ以外にも、昭和レトロな雰囲気を楽しめる店内が特徴で、懐かしの給食メニューの揚げパン(きな粉味)194円を始め、お弁当の定番だったタコウインナー(313円)、昭和駄菓子屋のもんじゃ焼きの半兵ヱ焼き(421円)の他、食パン耳揚げ(54円)、ソフト麺(216円)、昭和のナポリタン(313円)など、昔懐かしの昭和レトロなメニューが楽しめます。

そんな「薄利多賣半兵ヱ(半兵衛)」のメニュー数は帰れま10史上ナンバー1の180品にものぼります。


『帰れま10!』薄利多賣半兵ヱ(半兵衛)の結果


9:00PM『帰れま10!』薄利多賣半兵ヱ(半兵衛)スタート

1品目(ザキヤマ):串焼おまかせ五本盛(313円)→6位

2品目(なんぶ桜・澤山裕仁):半兵ヱ焼き(421円)→11位

3品目(メイプル超合金・カズレーザー):おでん 大根(65円)→31位

4品目(メイプル超合金・安藤なつ):揚げパン(きな粉)194円→5位

5品目(乃木坂46・秋元真夏):食パン耳揚げ(54円)→2位

6品目(サンシャイン池崎):ミックス玉(216円)→3位

7品目(相席スタート・山崎ケイ):タコウインナー(313円)→7位

8品目(モト冬樹):昭和のナポリタン(313円)→72位

9品目(タカ):病み付き芋フライ(313円)→13位

10品目(トシ):串炊き全部盛(486円)→167位

11品目(ザキヤマ):ヤキトリ(もも)54円→1位

12品目(なんぶ桜・澤山裕仁):砂肝(54円)→112位

13品目(メイプル超合金・カズレーザー):鳥かわ(54円)→15位

14品目(メイプル超合金・安藤なつ):アスパラベーコン(97円)→44位

15品目(乃木坂46・秋元真夏):団子(65円)→115位

16品目(サンシャイン池崎):名古屋手羽先揚げ(86円)→9位

17品目(相席スタート・山崎ケイ):カエル(313円)→8位

18品目(モト冬樹):すいとん(108円)→90位

19品目(タカ):フィリックスガム(11円)→166位

10品目(トシ):ウインナー串炊き(76円)→180位

21品目(ザキヤマ):ハムカツ(194円)→4位

22品目(なんぶ桜・澤山裕仁):ソフト麺(216円)→19位

23品目(メイプル超合金・カズレーザー):鳥唐揚(313円)→26位

24品目(メイプル超合金・安藤なつ):ポテトサラダ(108円)→38位

25品目(乃木坂46・秋元真夏):ソーセージ串揚げ(80円)→79位

26品目(サンシャイン池崎):タコ入道ウインナー(410円)→87位

27品目(相席スタート・山崎ケイ):小麦粉焼き(108円)→154位

28品目(モト冬樹):コーンバター炒め(205円)→98位

29品目(タカ):ホルモン煮込み皿(140円)→10位

かかった時間:7時間30分、29品58人前完食!


『帰れま10!』薄利多賣半兵ヱ(半兵衛)の人気商品ベスト10


1位:ヤキトリ(もも)54円

2位:食パン耳揚げ(54円)

3位:ミックス玉(216円)

4位: ハムカツ(194円)

5位:揚げパン(きな粉)194円

6位:串焼おまかせ五本盛(313円)

7位:タコウインナー(313円)

8位:カエル(313円)

9位:名古屋手羽先揚げ(86円)

10位:ホルモン煮込み皿(140円)

以上、『帰れま10!』薄利多賣半兵ヱ(半兵衛)の人気商品ベスト10のランキングでした。

「アルマイトの弁当箱」の巻


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「アルマイトの弁当箱」の巻
日曜研究家串間努

 私は左下の犬歯が曲がっている。高校時代からずっとだ。ある日、弁当を食べていて、一かたまりのご飯を口に入れた途端、「ガリリ」とイヤな音がして、歯に激痛が走った。吐き出してみると、梅干しのタネが粉々になっていた。梅干し地雷が、ご飯の平野に埋設されているとも知らずに噛んでしまったのである。家に帰った私が母親に文句をいうと、「梅干しがアルミの弁当箱につくとフタが溶けてしまうから、埋めたのよ。気をつけて食べなきゃ」と言い放たれた。梅干しを入れないと夏場はご飯が腐りやすい。私は今後の事故を警戒し、梅干し埋設地点に黒ゴマをふりかけて注意を喚起してくれと頼んだ。 だが、これは母の間違った思い込みであった。アルミ弁当箱で六、七割のシェアを持つテイネン工業の話ではこうだ。
 「終戦直後は高級な材料がなかったのでジュラルミンの弁当箱がありました。ジュラルミンは強度を増すためアルミに亜鉛や銅を混ぜたものですが、耐腐蝕性に難があります。長期間使用していたら酸やアルカリと結び付きやすいのです。また、アルマイトはアルミに酸化被膜を施したものですが、当時の技術力が不充分だったことも考えられます。現在は純度が高いので梅干で穴が空いたりはしないでしょう」(同社取締役工業品部長)

 つまり、終戦後一時期の現象だったのだ。戦前生まれの母には当時の経験が刷り込まれてしまっていたのだろう。おかげで私は「母親が隠しておいた梅干しで歯を曲げた男」の汚名を着せられてしまった……。

 帝国撚糸織物株式会社としてスタートしたテイネン工業は、軍需工場時代に飛行機の脚や燃料タンクをジュラルミンで作っており、戦後、その材料を生かして米びつやふるいを生産し、家庭用品メーカーとなった。昭和27年には厚底の通称「ドカベン」を発売、また、アルミの弁当箱にオフセット印刷をする技術を開発した「絵付き弁当箱」は市場を席巻し圧倒的なシェアを確立した。おかずの汁もれを防止するため、フタにゴム製パッキングを付け、両サイドのローラーでパチンと留める「小判型安全菜入れ」を開発したのも同社だ。
 昭和45年には、「中学生用ブック弁当箱」を発売した。これまでの弁当箱はかさばり、カバンと別に持っていかねばならなかった。しかし、安全菜入れを角型にして内装し、ご飯との仕切り板をつけ、フタ横に箸入れを装着したブック弁当箱はスマートな長方形デザインとなり、教科書とともに学生カバンに入れられるようになった。大ヒットとなり「百貨店に行列ができた」ほど。
 基本的な設計は30年間かわっていないが、時代の流れに合わせてマイナーチェンジした部分がある。
 「年々、ご飯を食べる量が少食となり、昭和50年からおかず入れが大きくなる傾向にあります。デザイン的には昭和五十年代半ばに、花柄からポパイやアニメキャラクターへとファンシー化しています」

 そして、一番大きな変化は、弁当を新聞紙に包まなくなったことだろう。布製弁当カバーや、ビニールケースで包装するようになったのは昭和四十年代から始まっているそうだ。確かに、私が弁当を持っていった昭和五十年代には新聞紙に包んでくる同級生は一人もいなかった。空腹を満たす昼食の携行入れ物に過ぎなかった容器が、いまや持つ人のセンスが反映されるファッション商品となっている。いま、弁当箱のフタでお茶を呑むなんてダサイのだろうな……。
 
 アルミ弁当箱と比べて、色やデザインの面で自由度が高いプラスチック製弁当箱が台頭してきたのが昭和55年ころ。昭和六十年代には売上高でアルミ製を追い抜いた。
  「特に女性はアルミから冷たい感じを受けるのか、カラフルなプラスチック製を選択するようです」アルマイトの弁当箱
 とはいえ、弁当箱の品揃えに独自性を持たせたいと考えるお店に支持され、ブック弁当箱をはじめ、アルミ製もまだまだ健闘を続けている。

●毎日新聞を改稿

「金鳥サッサ」の巻

「金鳥サッサ」の巻
日曜研究家串間努

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 小学校4年(昭和48年)のころだったか、担任の先生が「家からぞうきんを1枚持ってきなさい」といったことがあった。習字(書写)の時間に、墨汁で汚れた机や床を拭くためにだった。もちろん、普段の掃除の時間に床を拭くぞうきんは、各自が用意して洗濯ばさみでイスに止めていたが、その他に持ってきなさいという指示だ。私は母が「雑巾には木綿がいいのだ」と言い張るので、古いランニングシャツを大雑把に縫ってくれたものを持っていった。クラスの大半が古いタオルをミシンできちんと縫ってくるなか、薄くて、胴のくびれがありありとし、もともとは下着であったことがわかるぞうきんはとても恥ずかしかった。しかしもっとうわてがいた。Tちゃんが持ってきたぞうきんは黄色かった。しかも紙である。たちまち先生に告げ口するやつがいた。「先生、Tちゃんは紙持ってきました」うるさい奴である。まわりを見ない生真面目さは、ときどき他人に迷惑をかける。
「金鳥サッサ」 先生は困った。教育的指導をすべきなのかどうなのか。Tちゃんのぞうきんは、テレビで宣伝している金鳥サッサである。製品として雑巾である。しかしこのころの常識は雑巾は布の素材であるべきだった。
 このエピソードを大日本除虫菊株式会社(以下金鳥と表記)の上山久史常務に話したことがある。
「汚れにはチリ・ホコリの『ダスト』と、ガラスなどにベチャっと付いている『ダート』があります。サッサは『ダスト』を吸着するのに向いてますから、おそらく墨汁を拭くのは無理でしょう」と笑っていた。

 金鳥サッサが発売されたのは昭和45年。大阪万博が開かれたこの年、大阪に本社を置く金鳥から、世界で初めての『化学ぞうきん』が生まれたのだ。
 当時、金鳥の主力製品は、蚊取り線香を始めとする殺虫剤関連だった。虫に悩まされるのは夏。殺虫剤の消費のピークが夏場だけであることから、一年を通じてコンスタントに売上がある商品の開発が望まれていた。その候補として「今後、お掃除用品が注目されるのでは」と考え同社は、化学ぞうきんの開発を進めていた。当初は布で試作をしていたが、これが現在の紙製に変わったのには次のようなエピソードがある。
 現社長の父である上山直武常務(当時の肩書き)が、昭和44年にブラジルへ殺虫剤の視察に行ったとき交通事故にあってしまった。日本に帰国して、同社近くの病院に入院し静養していたが、仕事熱心な常務は社員に試作商品を持ってこさせ、病室からあれこれと指示を与えていた。そのとき、看病のために付き添っていた常務の奥さんが、「何度も同じぞうきんを使うのはいやですね。紙にして捨てるタイプにしたらどうでしょう」と提案、その声を取り上げて布から紙へ素材を転換したという。まさに怪我の功名だ。
 昭和45年の夏に広島でテスト販売をしたときには白い紙だったので、暑がりのお客さんがタオルと勘違い、「これ、いいな」といって顔を拭いてしまったこともある。そこで色を再検討することに。踏切や工事現場で見られる、黒と黄色の組み合わせが目立つことをヒントに、ホコリがハッキリとれたという感覚を得られるよう、紙の色を黄色に変えた。
 ホコリを吸着するだけでなく、ピカピカのつやも出す『金鳥サッサ』は、家具・電化製品・楽器・自動車など、食品が直接触れるところ以外、ほとんどの場所で使える。高度経済成長下で家の中にモノがあふれる時代、『金鳥サッサ』が活躍する場所はどんどん増えていった。

 通年商品のつもりであった『金鳥サッサ』だが、大掃除時期の需要や、冷たい水でぞうきんをゆすぎたくないという理由で、冬場に売上のピークが来た。思えば金鳥には季節商品が多い。春秋は衣替えで防虫剤の「ゴン」、夏は殺虫剤の「キンチョール」、冬は「サッサ」に加えてカイロの「どんと」だ。「四季のけじめがあってこそ、金鳥の日用雑貨があるのです」と上山常務は意義づける。
 経営幹部の妻の一言から生まれた『金鳥サッサ』。聞けば、最初は棒状だった蚊取り線香を渦巻にしたらと、金鳥の創業者上山英一郎に進言したのも妻のゆきさんだという。金鳥の製品には細やかな女性の視点が生かされているのだった。

「ゴールド芯のひみつ」の巻

「ゴールド芯のひみつ」の巻
日曜研究家串間努

◆学用品に「金と銀」が導入された

 高級感や付加価値を高める時のネーミングに「ゴールド」を使うことが多い。「ゴールデンアワー」「ユンケルゴールド」「明治ゴールド牛乳」「ゴールデンハーフ」……。ゴールドを冠すると『ウルトラスーパーハイデラックス』的なイメージを与えられる。余談だが、この手の修飾言葉で一番手軽なのが「ニュー」。スーパーマーケットで一日でも日付が新しい牛乳や豆腐を奥から引っ張り出して買うような日本人は「ニュー」にも弱いのだ。

 さて、日本人がメタリックなヒカリモノを好むのはナゼなのか。子どもの世界でも、折り紙時代から『金と銀』は貴重なものとしてもてはやされてきた。

 洗濯洗剤の『ブルーダイヤ』(ライオン)が「金銀パールプレゼント」をしていたころ小学校に上がった私は、描画材としてまずクレヨンや色鉛筆にお目にかかった。だが普通の「一二色セット」には金銀は入っていない。親にねだってもなかなか買ってもらえない「二四色」だの「三六色」のセットだけに金と銀が入っていた。親の言い分は「一二色で充分だ。なぜ金色がいるのか」。よくよく考えると金や銀色が必要なときが思いつかず、反論できずに黙ってしまうしかないのであった。

 描画材に盛んに金や銀が使われるようになったのは昭和三〇年代に入ってのことで、昭和三〇年に、文具メーカーのあおいとり本舗が「手提附木函の27色(金銀入り)あおいとりパス」を発売したのが元祖のようだ。翌年からクレヨン・パスメーカー各社から挙って金銀入りが出たが、当時の有力ブランド王様商会の甲斐惟隆社長は「クレパスに金銀色は必要だ。王様クレイヨンには戦前から金銀色が入っていて……」と業界紙にコメントをしているので、戦前にも一時、金銀入りが存在していた模様である(しかし記録として確認していないことと、戦前に金銀色が児童間に普及していたとの実感を持っていないため、昭和三〇年代より広まったと認識した)。

 絵の具では、みさくら堂の「みさくらペイント金銀入15色」というのが初めてで、やはり昭和三一年の発売である。この年から一斉に金銀入りが発売されたのは、中島金属箔粉工業株式会社が「クレヨン・絵具用金銀粉」という原料を発売したためではないかと思われる。新しい素材や原料が、開発、上市されることによって、一般消費者向けの製品の開発もまた、進むのだ。

 昭和三二年にはコーリン鉛筆本舗が「金銀入り24色色鉛筆筆函入」を発売し、これでクレヨン・絵の具・色鉛筆とすべての児童用描画材で金銀が出揃った。

 昔は「そうめん」の中に数本だけ赤とか青が入っていてそれに当たると嬉しかったものだが、金銀の描画材にもそんな希少価値を感じていた。現在の子どもも金銀に喜びを見ているのだろうか。

◆ 君は『ゴールド芯』を知っているか

 今ではシャープペンシルは百円で買えるけれど、私が小学校に入った昭和四十年代は、最低でも五百円。「鉛筆があるじゃないの」といわれて買って貰えない。昔の親は子どもの要求への断りかたがうまい。グーの音も出すことができない。
 一年生の時に隣の席のOくんが持ってきたシャーペンをいじり壊してしまった時がある。真っ青になったOくんから「絶対ベンショーしろよー」と迫られた。ことの重大さにビビった私は親にお金を貰って弁償した。ところがそれを知ったOくんの親はO君に「返してきなさい」といい、素直に持ってきたOくんだったが、私も親に事情を話してあるから「もらえないよ」と断った。親からは返せと言われる。私には受け取ってもらえない。板挟みになったOくんは、そのお金で新しいシャーペンを買って私によこした。つまり私は同級生のシャーペンを壊したことで、回りまわって念願のシャープペンシルを手に入れたことになる。うれしー。

 いつだったか、クラスのだれかがスバラシイ文房具を買ってきた。金色に輝く、シャーペンの芯「ゴールド芯」である。私らはこれを見て驚き、「この芯は五百円のシャーペンではなく、千円のシャーペンに入れる芯ではないか」と納得しあった。だが、当然のことだけど五百円のシャーペンに入れても使えるのである。うわああああすごい。しかも入れ物も垢抜けていた。角柱のなかに円柱が入っており、クリスタル感あふれる高級ケースなのだ。それまで使っていたP社のひし形(ダイヤモンドというよりひし型)の、ベージュの容器が色褪せてみえた。買ってきた子はクラスメイトにせがまれるままに、1本1本おごそかにくれてやっていた。私は一生のうち、あれほど、シャーペンの芯を折れないよう慎重に自分のペンに移し変えたことはない。細い芯を細い内筒に入れるものだから緊張のあまり指がプルプルプルと震えた。

  『金色』はとても価値ある色だ。金と銀の折り紙は、最後まで使えなかったし、クレヨンで『きんいろ』入りの三十色を持っている子はスターだった。使うものじゃなくて、ただながめるもの。まるでドロップの缶に数個しか入っていないチョコレート味を惜しんでなめるように、大切にしたものだ。

 実はコーリン鉛筆という会社はもうない。
 「ゴールド芯」を開発したコーリン鉛筆の関係者を探しだした。日本文化用品安全試験所のMさんという方である。
「昭和四十七、八年頃発売したのですが、良くうれました。三十本で二百円です。透明な樹脂のケースに入れたのも初めてですが、三十本入りというのも初めてなんですよ。シャープの芯を差し替えるとき、手が黒く汚れますから、それを防ぐために芯の周りに何かをかぶせたらどうだろうというのがきっかけです」
 なるほど、手を汚さないためだったとは。決して豪華な芯を作ろうとしたワケではなかったことは次のことばからもわかる。
「赤や青の塗料だと表面がカチカチになってしまって字が書けないんですね。書いているうちにポロポロ崩れるものでないと。そこで金属の粉を塗ったのです」
 のちに自動機械化されるが、最初のころは手で粉を吹き付けていたので、マスクをしていても顔中が金粉だらけで、舞踏家のようになったそうだ。ユーザーが手を汚さない芯を作るために、製造者の顔は汚れてしまったとは!
 「ゴールドできれいということと、手が黒くならない点でヒットしたのでしょう」
 もういちど発売したら、また売れるのではと私は思う。
 ラメですかね? (一応いっておきますが、駄洒落入ってます)

●毎日小学生新聞に加筆