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長崎平和宣言

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 「ノーモア ヒバクシャ」
  この言葉は、未来に向けて、世界中の誰も、永久に、核兵器による惨禍を体験することがないように、という被爆者の心からの願いを表したものです。その願いが、この夏、世界の多くの国々を動かし、一つの条約を生み出しました。
 核兵器を、使うことはもちろん、持つことも、配備することも禁止した「核兵器禁止条約」が、国連加盟国の6割を超える122か国の賛成で採択されたのです。それは、被爆者が長年積み重ねてきた努力がようやく形になった瞬間でした。
 私たちは「ヒバクシャ」の苦しみや努力にも言及したこの条約を「ヒロシマ・ナガサキ条約」と呼びたいと思います。そして、核兵器禁止条約を推進する国々や国連、NGOなどの、人道に反するものを世界からなくそうとする強い意志と勇気ある行動に深く感謝します。
 しかし、これはゴールではありません。今も世界には、15,000発近くの核兵器があります。核兵器を巡る国際情勢は緊張感を増しており、遠くない未来に核兵器が使われるのではないか、という強い不安が広がっています。しかも、核兵器を持つ国々は、この条約に反対しており、私たちが目指す「核兵器のない世界」にたどり着く道筋はまだ見えていません。ようやく生まれたこの条約をいかに活かし、歩みを進めることができるかが、今、人類に問われています。
 核兵器を持つ国々と核の傘の下にいる国々に訴えます。
 安全保障上、核兵器が必要だと言い続ける限り、核の脅威はなくなりません。核兵器によって国を守ろうとする政策を見直してください。核不拡散条約(NPT)は、すべての加盟国に核軍縮の義務を課しているはずです。その義務を果たしてください。世界が勇気ある決断を待っています。
 日本政府に訴えます。
 核兵器のない世界を目指してリーダーシップをとり、核兵器を持つ国々と持たない国々の橋渡し役を務めると明言しているにも関わらず、核兵器禁止条約の交渉会議にさえ参加しない姿勢を、被爆地は到底理解できません。唯一の戦争被爆国として、核兵器禁止条約への一日も早い参加を目指し、核の傘に依存する政策の見直しを進めてください。日本の参加を国際社会は待っています。
 また、二度と戦争をしてはならないと固く決意した日本国憲法の平和の理念と非核三原則の厳守を世界に発信し、核兵器のない世界に向けて前進する具体的方策の一つとして、今こそ「北東アジア非核兵器地帯」構想の検討を求めます。
 私たちは決して忘れません。1945年8月9日午前11時2分、今、私たちがいるこの丘の上空で原子爆弾がさく裂し、15万人もの人々が死傷した事実を。
 あの日、原爆の凄まじい熱線と爆風によって、長崎の街は一面の焼野原となりました。皮ふが垂れ下がりながらも、家族を探し、さ迷い歩く人々。黒焦げの子どもの傍らで、茫然と立ちすくむ母親。街のあちこちに地獄のような光景がありました。十分な治療も受けられずに、多くの人々が死んでいきました。そして72年経った今でも、放射線の障害が被爆者の体をむしばみ続けています。原爆は、いつも側にいた大切な家族や友だちの命を無差別に奪い去っただけでなく、生き残った人たちのその後の人生をも無惨に狂わせたのです。
 世界各国のリーダーの皆さん。被爆地を訪れてください。 遠い原子雲の上からの視点ではなく、原子雲の下で何が起きたのか、原爆が人間の尊厳をどれほど残酷に踏みにじったのか、あなたの目で見て、耳で聴いて、心で感じてください。もし自分の家族がそこにいたら、と考えてみてください。
  人はあまりにもつらく苦しい体験をしたとき、その記憶を封印し、語ろうとはしません。語るためには思い出さなければならないからです。それでも被爆者が、心と体の痛みに耐えながら体験を語ってくれるのは、人類の一員として、私たちの未来を守るために、懸命に伝えようと決意しているからです。
 世界中のすべての人に呼びかけます。最も怖いのは無関心なこと、そして忘れていくことです。戦争体験者や被爆者からの平和のバトンを途切れさせることなく未来へつないでいきましょう。
 今、長崎では平和首長会議の総会が開かれています。世界の7,400の都市が参加するこのネットワークには、戦争や内戦などつらい記憶を持つまちの代表も大勢参加しています。被爆者が私たちに示してくれたように、小さなまちの平和を願う思いも、力を合わせれば、そしてあきらめなければ、世界を動かす力になることを、ここ長崎から、平和首長会議の仲間たちとともに世界に発信します。そして、被爆者が声をからして訴え続けてきた「長崎を最後の被爆地に」という言葉が、人類共通の願いであり、意志であることを示します。
 被爆者の平均年齢は81歳を超えました。「被爆者がいる時代」の終わりが近づいています。日本政府には、被爆者のさらなる援護の充実と、被爆体験者の救済を求めます。
 福島の原発事故から6年が経ちました。長崎は放射能の脅威を経験したまちとして、福島の被災者に寄り添い、応援します。
 原子爆弾で亡くなられた方々に心から追悼の意を捧げ、私たち長崎市民は、核兵器のない世界を願う世界の人々と連携して、核兵器廃絶と恒久平和の実現に力を尽くし続けることをここに宣言します。

2017年(平成29年)8月9日
長崎市長  田上 富久

平和への誓い

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平和への誓い 深堀好敏さん

 原爆が投下された1945年8月9日、私は16歳。爆心地から3・6キロ離れた長崎県疎開事務所に学徒動員されていました。11時2分、白い閃光(せんこう)と爆発音を感じ慌てて机の下にもぐり込みました。夕方、帰宅命令が出て、私は学友と2人、金比羅山を越えて帰ろうと山の中腹まできたところ、山上から逃げてくる多くのけが人に「山の向こうは一面火の海だから…」と制止され、翌朝、電車の線路に沿って歩き始めました。長崎駅の駅舎は焼け落ち、見慣れた町並みは消えてなくなり、別世界に迷い込んだようでした。ようやく辿(たど)りついた山王神社近くの親せきの家は倒壊していました。その中で家の梁(はり)を右腕に抱きかかえるような姿で18歳の姉は息絶えていました。あの時、私が無理をしてでも家に帰っていれば、せめて最期に声をかけられたのではないかと、今でも悔やまれてなりません。そのあと大学病院へ向かい、さらに丘を越えると眼下に浦上天主堂が炎上していました。涙があふれ出るとともに怒りを覚え、「ああ、世界が終わる」と思いました。ここ平和公園の横を流れる川には折り重なって死体が浮いていました。私は、三ツ山に疎開していた両親に姉の死を報告し、8月12日、母と弟と3人で材木を井桁に組み、姉の遺体を荼毘(だび)に付しました。その日は晴天でした。頭上から真夏の太陽が照りつけ、顔の正面からは熱気と臭気がせまり目がくらみそうでした。母は少し離れた場所で地面を見つめたまま、ただ祈り続けていました。
 たった一発の原子爆弾は7万4千人の尊い命を奪い、7万5千人を傷つけました。あの日、爆心地周辺から運よく逃げ延びた人々の中には、助かった喜びも束(つか)の間、得体(えたい)のしれない病魔に襲われ多くが帰らぬ人となりました。なんと恐ろしいことでしょう。私は「核は人類と共存できない」と確信しています。2011年3月、福島第一原子力発電所の事故が発生し国内の原発は一斉に停止され、核の脅威に怯(おび)えました。しかし、リスクの巨大さに喘(あえ)いでいる最中、こともあろうに次々と原発が再稼働しています。地震多発国のわが国にあって如何(いか)なる厳しい規制基準も「地震の前では無力」です。原発偏重のエネルギー政策は、もっと自然エネルギーに軸足を移すべきではないでしょうか。戦後「平和憲法」を国是として復興したわが国が、アジアの国々をはじめ世界各国から集めた尊敬と信頼は決して失ってはなりません。また、唯一の戦争被爆国として果たすべき責務も忘れてはなりません。
 私は1979年、原爆で生き残った有志6人で原爆写真の収集を始め、これまでに様々な人たちが撮影した4千枚を超える写真を収集検証してきました。原子雲の下で起きた真実を伝える写真の力を信じ、これからも被爆の実相を伝え、世界の恒久平和と核廃絶のために微力をつくすことを亡くなられた御霊の前に誓います。

2017年(平成29年)8月9日
被爆者代表 深堀好敏

ハンドスピナー

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ハンドスピナー 遊び方

ハンドスピナーの遊び方は、
大きく分けて2つあります。

■1つ目
勢いよく回して、どのハンドスピナーが一番回るのか?
ストップウォッチを用意して、タイムを競い合うもの。
(これは、テーブル上などで止まるまで待ち続ける)

そして、長く回ったハンドスピナーの勝ち。

■2つ目
回転が止まるまで待つのではなく、ハンドスピナーを一度回しては止め、回しては止め。
という作業を無意識レベルで繰り返す。遊び方です。

ペン回しのような、手遊び感覚として利用するケースがほとんどです。
指の腹にハンドスピナーを乗せ、落とさないようにバランス感覚を取りながら、
回転している円盤を見たり、指にハンドスピナーを乗せながら人と話をしたり・・・

「●●~ながら」ながら作業を行う時に、無意識にハンドスピナーを回すものです。

長くハンドスピナーと接していると、この手遊び感覚が忘れられず、
また近くで誰かがハンドスピナーを回していたら気になって自分も回したくなる症候群になってきます。

ここで紹介した以外にも、回しているハンドスピナーを
指から指へ移動させたり、肘の上でハンドスピナーを回してみたり・・・
ハンドスピナーをジャンプさせてジャンピングキャッチをしてみたり・・・

遊び方は、無限大です。

是非、あなたも、ハンドスピナーを手にとってみて、
あなた好みの遊び方を見つけてみてください!

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平和への誓い

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2017年 平和への誓い

原子爆弾が投下される前の広島には、美しい自然がありました。
大好きな人の優しい笑顔、温もりがありました。
一緒に創るはずだった未来がありました。
広島には、当たり前の日常があったのです。

昭和20年(1945年)8月6日 午前8時15分、広島の街は、焼け野原となりました。
広島の街を失ったのです。
多くの命、多くの夢を失ったのです。
当時小学生だった語り部の方は、「亡くなった母と姉を見ても、涙が出なかった」と語ります。
感情までも奪われた人がいたのです。
大切なものを奪われ、心の中に深い傷を負った広島の人々。

しかし、今、広島は人々の笑顔が自然にあふれる街になりました。
草や木であふれ、緑いっぱいの街になりました。
平和都市として、世界中の人に関心をもたれる街となりました。

あのまま、人々があきらめてしまっていたら、
復興への強い思いや願いを捨てていたら、
苦しい中、必死で生きてきた人々がいなければ、今の広島はありません。

平和を考える場所、広島。
平和を誓う場所、広島。
未来を考えるスタートの場所、広島。

未来の人に、戦争の体験は不要です。
しかし、戦争の事実を正しく学ぶことは必要です。

一人一人の命の重みを知ること、互いを認め合うこと、まっすぐ、世界の人々に届く言葉で、あきらめず、粘り強く伝えていきます。
広島の子どもの私たちが勇気を出し、心と心をつなぐ架け橋を築いていきます。

平成29年(2017年)8月6日
こども代表
広島市立大芝小学校6年 竹舛 直柔
広島市立中筋小学校6年 福永 希実

ペンケース (面白文具)

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面従腹背

日めくり 7/25

 「面従腹背」という言葉に、いいイメージを持つ人は少ないだろう。うわべは従っていると見せて、心は背いている。不誠実な姿だ。好意的に評価しても、せいぜい「したたか」という言葉にたどり着くぐらいが関の山か。
 文部科学事務次官を退任後、前川喜平さんは加計学園の問題で各メディアのインタビューに応じ、その中で座右の銘は「面従腹背」だと発言していた。座右の銘も変わっていないけれど、人にどう見られるかということに頓着しないところも、そのままだと感じた。
 5月29日本欄の「公教育からのエクソダス」で書いたとおり、この一連の原稿は2000年秋に聞いた前川さんの話に依拠している。そのとき彼は、文部省入省当時のことにも触れた。いま考えると、それはおそらく、官僚組織を含む共同体のあり方に関する彼の考え方を示すためだったのだが、当時の私は理解が及ばず、その部分はメモの中で( )に包んでいる。本論から外れた雑談と受け止めたのだ。そのまま採録する。
 (文部省入省当時、私は家来なのかと思った。上司と部下の関係ではなかった。そのときから、いかに面従腹背するかだと思ってきた)
 古くからの組織は多くの経験・事例を経て、さまざまな準則や手法を構築している。内部にいながら、それらに違和感を持ったり、不合理だと感じている人も少なくないはずだ。だが、多くの人は組織の厚い壁の前で立ちすくんでしまう。自分の頭でものを考える人ほど、そういう場面が多くなる。そのとき志を、異論を、どう身内に保ち続けるのか。
 私の貧しい経験を挙げれば「被疑者呼び捨て」がそれだった。
 大学では法律を学んだから、刑法や刑事訴訟法の基礎ぐらいは知っていた。そして、有罪確定までは罪を犯していないとみなす「無罪推定の原則」や、人の自由を制約する場合の歯止めとなる「適正手続きの保障」などは、市民を守る大切な法理だと考えていた。ところが報道は、被疑者段階で犯人扱いする。その象徴が呼び捨てだった。有罪の蓋然性が高まる起訴時点で、ようやく「被告」を付ける。扱いが逆転していた。
 日々「手を汚している」という感覚が消えなかった。労組の集会でそう発言したこともある。しかし「容疑者」呼称が採用されるまで、入社から8年近く、1989年末まで待たねばならなかった。付言すれば、それでも「逮捕=犯人」と言わんばかりの報道はなくなっていない。それに対して、私は何もできていない。忸怩たる思いがある。
 経験を積み、実績を示し、発言力や権限を増す中で、職場や組織自体を少しずつ民主化する。「殿様と家来」の関係から、ものを言い合える「上司と部下」になる。そうすれば、仕事の中身にもヒューマニズムが生きてくる。人間が人間として尊重されない組織に、人間を大切にする仕事はできない。前川さんの「面従腹背」はそれほどの意味だったろう。
 それを実践し続け、曲折はあったが、官僚トップの事務次官になった。そこに天下り問題が露見する。その経緯や違法性の軽重、背景などについては語るべき情報を持たない。ただ国会で前川さんが「万死に値する」と述べたことは心に刺さった。
 それほどのことなのか。大時代的に聞こえる「万死に値する」とまで表現するのは、なぜなのか。彼は先輩が作りあげたシステムを容認してしまっただけではないのか。
 しかし、よく考えてみればそうではなかった。面従腹背というなら、面従する相手がいなくなったら、正義を貫かねばならない。違法な天下りシステムは文部科学省内部で構築され、内部でほぼ完結していた。事務次官なら悪しきシステムを廃することは可能だったのではないか。少なくとも、なくすために力を尽くすべきだった。彼は過ちを犯した。
 「万死に値する」という発言は、なにより自らの生きる倫理に照らしての悔いであったろう。
 吉野源三郎の名著「君たちはどう生きるか」の一節を引く。中学生のときに読み、私にとっては一生の指針となっている言葉だ。もちろん満足に実践できてはいないけれど。
 僕たちは、自分で自分を決定する力をもっている。
 だから誤りを犯すこともある。
 しかし―
 僕たちは、自分で自分を決定する力をもっている。
 だから、誤りから立ち直ることも出来るのだ。
 前川さんがこの言葉を知っているかどうか分からない。しかし、彼のこの間の行動は、まさにこの言葉どおりのものであった。ヒロイズムでも正義感でもない。過ちから立ち直り、誤りを正すための闘い。
 このシリーズの最初に触れた村上龍の「希望の国のエクソダス」で、学校にも日本という国にも「ノー」を突き付けた中学生のリーダー「ポンちゃん」は、国会でこう言う。「この国にはなんでもある。本当にいろいろなものがあります。だが、希望だけがない」
 しかし、ポンちゃんに言いたい。この国の無数の現場に、前川さんのように生きる人たちがいる。それを私は見てきた。「ポンちゃん、ここには間違いなく、希望があります」  

JAXA視察断りに憤り

知事「現政権のおごり反映」 JAXA視察断りに憤り

 来月初旬とされる「内閣改造」を理由に、宇宙航空研究開発機構(JAXA)からH2Aロケットの打ち上げ視察を断られたことを受け、大村秀章知事は二十四日の定例会見で、「安倍政権の傲慢(ごうまん)さ、おごり高ぶりが反映されている」と述べ、不快感や憤りをあらわにした。

 H2Aロケットは三菱重工業飛島工場(飛島村)で製造され、県が航空宇宙産業を全面支援することなどから、JAXAから知事に再三、視察の要請があった。ただ、これまで日程調整がつかなかった。

 来月中旬に決まった35号機の打ち上げも、JAXAが六月中旬に視察を打診。知事側はこれまでの経緯もあり、「ほかの行事をキャンセル」して、参加の意向を伝えた。

 七月十一日、JAXAから一方的に「視察は秋以降に変更を」と連絡があった。

 内閣改造後、新しい文部科学相らの視察を優先しようとしたとみられ、本紙の取材にJAXAの担当者は「内閣府から、内閣改造に伴って、再調整するよう要請を受けた」と認めた。知事は「私も決して暇なわけではない。日程をやりくりして行こうとしたが、そんなことは一顧だにされない。極めて遺憾だ」と語った。

 自民党は、今月上旬の都知事選で惨敗。二十三日の仙台市長選でも支持した候補が敗れた。加計問題などの対応は、安倍一強の「おごり」「傲慢」などと指摘され、二十五日には参院予算委で閉会中審査がある。

 知事は「(政府自民党は)反省、謙虚と口にするが、そういう雰囲気はみじんもない。新しい文部科学相は打ち上げの視察より(目の前のことを)勉強しないといけないのではないか」と皮肉った。

 知事側は十九日にJAXAあてに抗議文を提出。JAXAから県の担当者に二十日午後、メールがあり、謝罪と「県の意向次第」で日程を調整するなどの内容だったという。

 「とってつけたようなアリバイづくり、言い訳」と知事。どう転んでも、H2Aの視察には「行かない」と述べた。


芥川賞・直木賞

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第157回「芥川賞」に沼田真佑氏の『影裏』 「直木賞」に佐藤正午氏の『月の満ち欠け』

 日本文学振興会は19日、『第157回芥川龍之介賞・直木三十五賞(平成29年上半期)』の選考会を東京・築地「新喜楽」で開き、芥川龍之介賞に沼田真佑氏(38)の『影裏』(文學界5月号)、直木三十五賞に佐藤正午氏(61)の『月の満ち欠け』(岩波書店)を選出した。2人は初受賞。

 両賞は1935(昭和10)年に制定。芥川賞は新聞・雑誌(同人雑誌を含む)に発表された純文学短編作品、直木賞は新聞・雑誌(同)・単行本として発表された短編および長編の大衆文芸作品の中から優れた作品に贈られる。前者は主に無名・新進作家、後者は無名・新進・中堅作家が対象となり、受賞者には正賞として時計、副賞として賞金100万円が与えられる。

 前期・第156回(平成28年下半期)の芥川賞は山下澄人氏の『しんせかい』、直木賞は恩田陸氏の『蜜蜂と遠雷』が選出された。

 第157回候補作は以下の通り(五十音順・敬称略)。

■第157回芥川龍之介賞 候補作(掲載誌)
今村夏子『星の子』(小説トリッパー春号)
温又柔『真ん中の子どもたち』(すばる四月号)
沼田真佑『影裏』(文學界5月号)
古川真人『四時過ぎの船』(新潮六月号)

■第157回直木三十五賞 候補作(出版社)
木下昌輝『敵の名は、宮本武蔵』(KADOKAWA)
佐藤巖太郎『会津執権の栄誉』(文藝春秋)
佐藤正午『月の満ち欠け』(岩波書店)
宮内悠介『あとは野となれ大和撫子』(KADOKAWA)
柚木麻子『BUTTER』(新潮社)

君より先には死ねない

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 「ドラえもん」の声優で知られる大山のぶ代(83)の夫で俳優の砂川啓介(さがわ・けいすけ、本名山下啓一=やました・けいいち)さんが11日午前4時10分、尿管がんのため都内の病院で死去した。80歳。2015年に大山が認知症で、自身が介護していることを公表。「君より先には死ねない」と病と闘ってきたが、無念の最期となった。

 マネジャーによると、砂川さんは5月に肺にたまった水を抜くために入院。退院4日後の先月13日、連絡がつかないためマネジャーが自宅に行くと意識を失った状態で倒れていた。救急搬送された都内の病院で脳梗塞と診断され、再び入院。意識はすぐに戻ったが、今月11日に悪化し、息を引き取った。病室には、マネジャーが介護施設で暮らす大山を連れて何度か見舞っていた。大山は顔を見れば砂川さんのことは分かるようで、「啓介さん」「お父さん」と呼びかけ、テレビで相撲を観戦するなど夫婦だけの時間を過ごした。

 死去後に対面した大山は、棺の横で「お父さん」と言ってポロっと涙をこぼした。永遠の別れがつらかったのか、マネジャーは「すぐに部屋から出ていこうとして、“帰るの?”と聞いたら“帰る”と。最後は短い時間でした」と明かした。喪主を務めたが、通夜、葬儀の両日とも出席しなかった。

テレビ寺子屋 山元加津子

…………………………
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講師 山元加津子
講師紹介
1957年、金沢市生まれ。
富山大学理学部卒業後、小学校の先生を経て、石川県内の特別支援学校に勤務。
エッセイ、旅行記、イラストなどの制作活動も行っており、
子どもだけでなく大人の心も開き、感動の輪を広げている。


…………………………

第2040回「人の幸せを願う」

今回はブータンの話をします。

毎年、夏になると友達と旅行に出かけます。
ある時パソコンで動画を見ていました。
それは青年海外協力隊としてブータンで体育教師をしていた。
関健作さんという写真家の方が撮った作品でした。
関さんが男の子に「あなたはどんな時が幸せですか?」と聞くと
「家族が幸せそうにしている時。」と答えます。
女の子に聞くと「おかあさんが笑っている時が幸せです。」と。
人の幸せを願っている子どもを見て私はすごく感動しました。
そこで関さんに連絡して、私の友達と一緒にブータンに行きました。
ブータンでバスに乗って移動している時に
「ブータンの子どもたちは写真を撮ってもらったり、
手を振ってもらうのが好きなんですよ。」と関さんが教えてくれました。
私がバスから手を振ったら、子どもたちだけでなく、
おじいさんやおばあさんも手を振ってくれました。
ブータンの小学校を訪問した時、私の友達が、
学校に教育目標が書かれているのを見つけました。
そこには「他の人のことを祈れる子どもを育む」と書いてありました。
授業を見せていただいた後、私は子どもたちに聞きました。
「将来の夢は何ですか?」
ある男の子は、「医者になりたい。」と答えました。
「なぜ?」と聞くと、
「病気で苦しんでいる人を幸せにしてあげたい。」と言うのです。
次に女の子に同じ質問をしました。
「先生になりたい!」
「なぜ?」
「子どもたちを幸せにしたいから!」
私は子どもが自分の夢を語る時、
「お金持ちになりたい!」とか「きれいな服が着たい!」など
自分の幸せを優先する答えが返ってくると思っていました。
次の男の子に聞くと「サッカー選手になりたい!」と答えました。
これが普通の子どもの答えだと思ったのですが、理由を聞くと
「一生懸命頑張って多くの人に夢と希望を与えたい!」と言うのです。

養護学校も訪問しました。
ダウン症の幼い子どもが私の手を引っ張って
高校生くらいの子どものところに連れていってくれました。
その子は目が見えません。
でも私の顔を両手で包み込むように挨拶し、
私を感動させてくれました。
人が仲よくなるのに言葉はいらないのだと感じました。

ブータンは決して裕福な国ではありません。
でもブータンの人々はお経の書かれた旗を
自分のお金で買い山の上に立てます。
「ここでお祈りをした人々の優しい思いが
風にのって世界中の人たちに届きますように。」と。
本当に人の幸せを願っている国でした。

…………………………

第2038回「みんなひとつ」

私は「銀河の雫」というドキュメンタリー映画を作りました。

これはネパールで撮影したものです。
なぜネパールなのかという事を私の体験とともにお話します。
私は子どもの頃、ぼうっとしていることが多く、
虫や動植物などを見ているのが大好きでした。
友達と遊ぶ事もありましたが、運動神経が悪くて
鬼ごっこをしてもずっと私が鬼のまま。
友達もおもしろくなくなり迷惑をかけていました。
だから虫とかを見ている方が好きでした。
それから、私はうんちを見るのも好きでした。
ある時、祖母に面倒をみてもらっていると
私が急にいなくなったそうです。
祖母が「便所に落ちたんじゃないか?」と心配していると、
私は便所の中を覗き込んでいたそうです。
私は祖母に聞きました。
「なぜ一杯だったうんちが無くなったの?」
「汲み取ったから。」
「そのうんちはどこにいったの?」
「地球上には動物が一杯いるからそのうんちで一杯なの?」
祖母は「変な子だなあ。」と心配したそうです。

母と買い物に行った時も、
かたつむりが道を横断しているところを応援したりしていたそうです。
そんな私を近所の人も「変わった子だなあ。」と言っていました。
私は悲しくなり父に相談しました。
でも父は「かっこちゃんは、かっこちゃんのままでいいんだよ。」と言ってくれました。
私は安心してそれからも自然を観察する事に熱心だったようです。
そして自然を観察していると色んなことが分かって来ました。
桜の花びらが散っても銀杏の葉っぱが落ちても
ミミズやダンゴ虫がそれを食べうんちをしてまた大地に帰っていく。
「宇宙ってうまくできてるなあ。」、
そして「みんな平等なんだなあ。」と思いました。

今から十数年前ネパールを旅行している時、
ギータちゃんという現地を案内する人に出会いました。
彼女はこう言いました。
「この世の中はすべて同じ、平等なんですよ。」と。
私が子どもの頃から考えていた事と一緒でした。
私が彼女に色々な事を話したら
「そのとおりですよ。」と受け入れてくれるのです。
「目の前の犬がおなかを空かしていたら食べ物をあげよう。
傷ついた人がいたら助けてあげよう。
この世の中はすべて平等だから。」と。

そんなネパールで大地震が起こりました。
私はとにかく現地に向かいました。
そしてお葬式にも立ち会いました。
亡くなった方を布で木に巻いて燃やし、川に流します。
私は涙が止まりませんでした。
そんな私を見て近くにいた見ず知らずのおばあさんが
私を抱きしめてくれました。
目の前で悲しんでいる人がいれば優しくしてあげる。
ネパールの人はみんなそれが当たり前のように育っています。

映画では「みんな一緒、みんなひとつだ。」
という考えをもつネパールの人を描きました。

…………………………

第1756回「いのちの輝き」

私はおっちょこちょいで方向音痴なので、
講演会に出かけるにも、多くの人に助けてもらっています。
その一人だった同僚の宮田俊也さん(通称宮ぷー)が、2009年に脳幹出血で倒れました。
どんな重篤な病気かを私は知らなかったのですが、
医者は、「3日の命。命をとりとめても一生、植物状態です」と言いました。
でも、私はそのとき、何の根拠もなく、「大丈夫です」と言っていました。
医者は「僕の言っていることが分かりますか」と、私のことを心配してくださいました。
なにしろ、宮ぷーの瞳孔は開いたままで、汗もかけないので、体温は40度もあったのです。
私は学校の子どもたちがいつもどんなふうにすれば元気になるか考えました。
思いついたのは、「あなたのことが大好き」と言って抱きしめることでした。
私は宮ぷーの体の管の間から手を突っ込んで、「生きて!大好き!」と言い続けました。
祈り、話し、体をさすりました。
すると8日目に目が開きましたが、
「植物状態の人は昼間目を開いて、夜は閉じていることが多いのですよ」と医者に言われました。
私は「そんなことはない」と思って、開いた目に映るように、自分の顔を近づけたり、
日記を書いて宮ぷーに読み続けました。
半年が過ぎたころ、首が少し動くようになりました。
そこで私と宮ぷーは、首の動きで「はい」と「いいえ」を判別し、
あかさたなの表で文字をつないで言葉を作りました。
初めて宮ぷーが伝えてくれたのは「こわい、たすけて」でした。
その後、一般にはよく知られていませんが、意思伝達装置という機械を持ち込むと、
宮ぷーが次のような言葉を打ちました。
「まんげつをきれいとぼくはいえるぞ」病室の窓に映った満月を見て宮ぷーは泣いていました。
身体の不自由な方に接するとき、
私は「体が痛くないか」とか「トイレは?」など体のことばかりに気を取られていました。
誰でも思いはもっと深いところにあり、きれいなものをきれいと、
さびしいときにさびしいと言うのが人間なんだと、宮ぷーが教えてくれたのです。
あきらめなければ伝える方法は必ず見つかる。
宮ぷーが倒れた意味もきっとそこにあると思うのです。

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第1754回「素晴らしい大ちゃん」

大阪から6年生の時に私のいる特別支援学校に転校してきた、原田大助君の話です。
大ちゃんは、はじめ、私と目も合わせようとせず、
廊下の隅を何やら独り言を言いながら歩いていました。
近づくとそれもやめてしまいます。
私が「大ちゃん、今日は何曜日?」と聞くと、
「うーんそうやなあ、おれカレーライス食べたんやで」とか、
つじつまの合わない答えしか返ってきませんでした。
あとから分かったことですが、大ちゃんは、仲もよくないのに目を合わせたり、
人の言葉を自分の心に入れることなんてできないと思っていたのです。
そんなことに気付かない私は、大ちゃんに小学校1年生の平仮名ばかりの教科書で勉強させていました。
大ちゃんは何かを紙に書くのが大好きで、
そのころ、マス目のある紙に黒い丸のようなものをしきりに書いていて、
それを私たちは「執筆活動」と呼んでいました。
私はただマス目を埋めたいだけと思っていましたが、
ある時、ワープロを大ちゃんの所に持っていったところ、
大ちゃんは、「俺、これ好きやわ」と言って、
あっという間にやり方を覚え、友達の名前を打ちました。
南川泰範という名前なのですが、「泰範」の「泰」がすぐに変換できません。
そこで、大ちゃんは「お家安泰」と打ち、「泰」の字を出したのです。
私はびっくりし、またショックを受けました。
私は大ちゃんに、平仮名だけで勉強させてきたのに、
大ちゃんは何の不平も言わずに私の言うとおりにしてくれていたのです。
本当に悪いことをしたと思いました。
それから大ちゃんが1本の指で入力した内容をプリントアウトしてみると、
「ドラゴンボールZ」の脚本を自分で書いたもので、
それは「執筆活動」で大ちゃんが書いていたのと同じ内容だったのです。
大ちゃんは、文字で人に気持ちを伝えられることを理解し、それから詩を書くようになりました。
「さびしいときは心のかぜです。せきしてはなかんでやさしくしてねてたら1日でなおる」
私の友達が病気でさびしいのに何もできないと話した時に作ってくれた詩です。
大ちゃんには障害がありますが、自分のことが大好きと言います。
私も自分が何も出来ず、悲しくなることがありますが、大ちゃんや学校の子どもたちは、
「カッコちゃんはそのままでいいんや。大好きだから守ってあげるで」と言ってくれるのです。

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第1609回「雪絵ちゃんの願い」

今日は私の大切な友達でもある雪絵ちゃんという女の子のお話をします。

雪絵ちゃんとは、重い病気を抱え地域の学校に通うのが困難な子どもたちが学ぶ病弱養護学校で出会いました。彼女が抱える病気はMS(多発性硬化症)というもので、脳の障害により発熱すると目が見えにくくなったり、手足が動きにくくなります。発熱が治まれば病状は緩和されるのですが、私はまたいつ再発するかといつも不安でした。
しかし雪絵ちゃんはどんなにつらい時でも自分の力で立ち直ることのできる強いお子さんでした。そして「MSになって良かった」というのが口癖で「車椅子の生活をしているからこそ気付けたことや、多くの人々との出会いがたくさんあった」と前向きに生きていました。私はそんな風に思えるなんて素敵だなと思っていました。
そんな雪絵ちゃんとの日々が続いていたある年末の日、悲しい知らせが届きました。雪絵ちゃんが亡くなったということでした。私は、雪絵ちゃんの容態がどんなに悪化してもまさか亡くなることは無いだろうと思い込んでいたのでしばらくつらい思いでいっぱいでした。
数日後、私のもとに彼女からの一通の手紙が届きました。その一部を紹介します。「12月28日、私の大好きで大切で幸せな日、今日生まれてきて大成功。Snowに生まれてきてこれまた大成功。」Snowというのは雪絵ちゃんの愛称なのですが、最後の最後まで雪絵ちゃんは自分を丸ごと愛していたのだなと思います。

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第1610回「"大好き"は魔法の言葉」

今日は、養護学校で出会ったかおりちゃんとななちゃんのお話をします。

かおりちゃんは喜怒哀楽の表情が少なく、声に出して表現することが困難なお子さんでした。彼女のお母さんは、かおりちゃんが言葉を発することは半ば諦めていて、「ママと呼んでもらえることはこの先無いだろう」と悲しそうに話していました。それでも私は何とか話せるようになってほしいと一生懸命接していると、少しずつ私に心を許すようになりました。
ある時、机の上の本が落ちたことに驚いてかおりちゃんが「あっ」と声を発したのです。私が思わず「ママ」と言うと、小さな声で「ママ」と言いました。このことをお母さんに伝えると、涙ながらに「かおりと先生の"大好き"という気持ちが奇跡を起こしてくれました」と言ってくれました。
"大好き"という気持ちの大切さは、ななちゃんからも教えられました。ななちゃんは初めての場所が苦手で、大声で叫ぶことで気持ちを落ち着かせているお子さんでした。そんな彼女が私の顔を見て「柔らかそうな顔しとる」と言ったことがあります。彼女は自分を受け入れてくれそうな人を常に探していたのだと思います。そして私のことをそのように思ってくれたのですね。ななちゃんが私のことを好きでいてくれることがとても心地よく"大好き"の力を改めて感じました。
自分を好きでいてくれる人が周りにいるということは何にも代えがたいパワーの源だなと思います。このことは養護学校の子どもたちがいつも教え続けてくれていることです。

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第1569回「みんな同じ みんな素敵」

今日は、養護学校の教員になったばかりの頃に出会った「きいちゃん」という女の子のお話をします。

きいちゃんは、出生後まもなく高熱が出て、手足が思うように動かないという障害を持ちました。
ある日、きいちゃんがとても元気に職員室へ飛び込んできました。何かと思うと、お姉さんの結婚式に出席することになり、楽しみで仕方がないということでした。しかし、数日後に教室を覗くと、きいちゃんが机に伏して泣いていたのです。そして、「お母さんが、お姉ちゃんの結婚式に出てはいけないって言うの。私のことが恥ずかしいんだわ。」と言いました。私は、きいちゃんのお母さんがそのようなことを言うはずがないと思いました。しかし、今から25年近く前の当時は、障害者に対する偏見が強かったので、苦渋の思いでそう言ったのでしょう。
私は、お姉さんへプレゼントをしたらどうか提案しました。きいちゃんは手に重い障害があるにもかかわらず、一生懸命着物を縫い上げました。そんな思いを酌んで、お姉さんは改めてきいちゃんにも結婚式に出席して欲しいと言ってくれたのです。
私は、きいちゃんと出会って、自分は間違っていたなと思うことがあります。自分は教師なんだから子ども達に色々と指導しなくてはいけないと考えていました。しかし、人間が出会うということは、どちらかが一方的に教えるというのではなく、お互いに教え合い、学び合い生きているのだと思います。それは、年齢や性別や身体的なことなど、様々な違いがあっても誰でも同じことだと思います。

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第1571回「子どもと出会って知る幸せ」

私は養護学校の教員になる前に、小学校の講師をしていました。

大学を卒業したばかりの私が休養中の先生の代わりとして赴任しましたから、親御さんは不安で仕方なかっただろうと思います。しかし、子ども達はとても元気で明るくて、初めて教室に入った時に、駆け寄ってきてくれたことを覚えています。
そして、教科書を忘れた子をクラス全員で慰めるようなとても優しい子ども達でした。
ある日、油粘土を使った授業を行いました。その授業の後の休み時間に、子どもに呼ばれて階段の踊り場に行ってみると、クラスの子ども達が集まっていたのです。天井を見上げると、油粘土が穴に埋め込まれて油染みがたくさん付いていました。職員会議で、教頭先生から「教室はきれいに使いましょう」と注意されたばかりだったので、私は大変なことをしてしまったと思いました。その他にも色々な失敗があったので、子ども達のことは大好きだけど、私には教師は向いていないんじゃないかと悩みました。
校長室に呼び出された私は、きっと油粘土の件で怒られるんだと思いましたが、校長先生は「愉快、愉快!」と笑って迎えてくれました。私が来る前に子ども達が校長室に来て「先生は悪くない」と私をかばってくれたと言うのです。そして、どんなキャリアのある先生よりも、若い先生の「子ども達が大好きだ」という気持ちに勝るものは無いと言ってくれました。私は、子ども達の真っ直ぐな気持ちと、やさしさのお陰で、今教師として仕事ができることを幸せに思っています。

色チョークの使い方


色チョークの使い方

─ 一般的な黒板は深緑色 ─


 色盲や色弱の生徒に配慮して、白と黄のチョークしか使わない先生がいますが、基本的に、もっとカラフルに楽しい黒板にしなければなりません。先生は色彩感覚を磨き、さまざまな色チョークを使って、見やすく分かりやすい黒板にするよう研究をしなければなりません。

 色覚に関する配慮が必要な生徒は、保健の先生などから連絡を受けているはずです。個別に色弱の程度を確認したり、授業中、机間巡視などで確認することが本当の意味での配慮です。画一的な行為は配慮とはいいません。


1 白(しろ)
 基本となる色です。光学では、白は可視光線すべてを波長を反射しています。したがって、明度が最大となり、暗い黒板に対して、もっとも目立つ色(光)です。また、白はとても安定感あり、落ち着いた雰囲気を持っています。板書する内容の80~90%は白が良いでしょう。

2 黄(き)
 白の次に明度が高く、よく目立つ色です。しかし、白との組み合わせは変化に乏しく面白くありません。多用すると、白と黄のうち、どちらが重要なのか分からなくなります。したがって、最重要ポイントに使う場合は、文字の大きさを微妙に大きくしたり、他のよりも丁寧に書くなどの工夫が必要です。

3 赤(あか)
 赤緑色盲の生徒には見えません。事前に、赤緑色盲の生徒は分かっているはずなので、個人的に配慮します。該当生徒にとっては空欄になりますが、生徒の様子を見ながらタイミングを合わせて書きます。1学級に数人までなら、十分に対応できると思います。このとき、他の生徒には分からないようにしますが、それぐらいの配慮ができないようでは、色チョークは使えません。また、赤緑色弱の場合は、微妙に見えます。

 また、赤は明度が黒板と近いので目立ちません。教室が暗い場合は、とくに顕著です。

 生徒が書く白いノートに対しては、赤は最も効果的な色です。心理学的にも、目に飛び込んで来ます。赤緑色盲でも、明度の幅からよくわかります(赤は暗い)。したがって、ノートを書くことが不得意な生徒集団の場合は、あえて赤を使うこともあります。

4 緑(みどり)
 明度が低く、よく見えません。しかし、表の罫線や、グラフや図の補助線として有効です。白や黄で書くと黒板が煩くなるので、控えめな色を使うのです。また、緑は黒板の深緑と同系色なので、多用しても落ち着きます。白との相性も抜群です。是非、お試し下さい。

5 青(あお)
 同じように、明度が低くよく見えません。私は緑がない時、あるいは、緑の他にもう1色使いたい時に青を使います。また、青は静かな色なので、チョークを横にして広い面積を塗ってもうるさくありません。理科の授業では「空」「海」「水」「寒気」などを描くと良いでしょう。その他の色は、広い面積を塗ると、とてもくどい表現になります。まず、青から塗って下さい。

6 茶(ちゃ)
 あまり使いませんが、理科で「地面」を書く時に使います。その他、化学でいろいろな原子を書く時にも使います。図表の補助線として使うこともあります。意外性があるので、ワンポイントして使うこともあります。

7 複数のチョークを混ぜて色を作る
 観察やスケッチで微妙な色に着目し、色として記録表現する時に使います。化学の原子を表現する時にも使います。理論的には、色の3原色「マゼンタ」「黄」「シアン」から全色作ることができるので、実際の黒板上で混色して下さい。簡単にはできませんが、それなりの色が作れます。効果的な混色は「マゼンタ」と「黄」による「オレンジ」です。また、全ての色を混ぜると「灰色」になります。

参考比較資料:光の3原色は「赤」「緑」「青」です。それらから作られる色は「黄」「シアン」「マゼンタ」で、全てを混ぜると「白」になります。


8 蛍光オレンジ、蛍光イエロー、蛍光グリーン
 いずれも明度がそこそこ高いので、いろいろな色盲や色弱の人に優しいチョークです。是非とも購入し、ご利用下さい。価格が若干高いのが難点ですが、表現力の高さと実用性からお勧めです。使ったことがない人は、とにかくどうぞ! 喰わず嫌いはいけません。

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・発色がとても鮮やかではっきりと見える蛍光色です。
・密度があるので石膏製チョークの2倍使えます。
・夕方や暗い日には特に効果的で、近視の児童にもよく見えると評判です。
・主原料は、歯磨などに使われる炭酸カルシウムですから、安心して使えます。
・粒子が重いため、粉末が飛散せず、着衣や室内を汚しません。
・ソフトでなめらかな書き味のため、長時間使用しても疲れません。
・コーティング加工してありますので、手を汚しません。

たった一つの約束

 前文部科学事務次官・前川喜平さんの考える公教育とは、どんなものだろうか。ここで結論を先取りして、彼の理想を体現しているような公立校を紹介したい。
 その小学校には、校区内の全ての子どもが登校して来る。つまり不登校がない。それどころか、学校に行けなくなった子たちが全国から集まってくる。障害がある子も、その程度にかかわらず、クラスで一緒に学ぶ。だから特別支援学級というくくりも存在しない。
 いじめもない。どうしてそんなことができるのか。
 子どもの行動を数々のスローガンや校則で縛り、監視の目を光らせているからではない。「たった一つの約束」があり、それがみんなに理解され、行動の基本になっているからだ。その約束は言葉にすれば簡単なことだ。
 「自分にされて嫌なことは、人にしない、言わない」。もちろん先生もそれを守らなければならない。言うはやすく、よく考えると、実践には相当な困難が伴いそうだ。守れなかったら校長室、別名「やり直しの部屋」に行く。待っているのは罰でも、お説教でもない。自分で何がどう間違っていたのか、どう解決するか宣言し、クラスに帰っていく。「やり直し」は何度でも。一発退場どころか、退場そのものがない
 すごいと思ったエピソードがある。2006年の開校時から、月曜の朝会は「校長の話」と決まっていた。校長の木村泰子先生は、子どもたちに大切なことを伝えようと、意気込んで臨んでいた。
 ところが、夏休みが迫ったとても暑い日、小2の男の子がシャツを脱いで「校長先生、おしまい!」と言いだした。みんながざわざわする中、もう一言「暑い!お話、終わり」。とどめは「お風呂に入りたい」。校長はついに話をやめる。
 「お話、終わり」と言った子は、保育園のころ「イヤ」という言葉しか言えなかった子だった。その子がここまで表現できるようになった。そしてその言葉を、その場で何も言わなかった子どもたちの気持ちをも代弁していると、木村さんは受け止めた。子どもがやめてほしいと思っている講話を続けることは「されて嫌なこと」だろう。
 木村さんは「本当に思ったことを言える子こそ学びのリーダーです」と言い切る。聞きたくなくても、面白くなくても、校長の話だから取りあえずがまんして話を聞くなら、それは学びの場ではない。どこかの国の政治や行政に横行する忖度(そんたく)の社会だ。そこからは、本当のことに向き合う姿勢は決して生まれない。
 この時間は後に「全校道徳」に変わり、大阪市立大空小学校にとって特別な時間になった。答えのない課題に、子どもも大人も全員が取り組むのだ。
 どんな相手をも対等の存在として尊重すること。そして、自分がされて嫌なことを相手にしないこと。これらは前川さんが公教育のレゾンデートルとして語った「人権教育」そのものだった。

カール

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<明治>「カール」販売終了 中部地方以東 販売低迷で
明治カール=2017年5月25日

 菓子大手の明治は25日、スナック菓子「カール」の中部地方以東での販売を終了すると発表した。8月で同地域向けの生産を終え、9月には店頭から姿を消す見通しだ。滋賀県、京都府、奈良県、和歌山県以西の西日本地域では「カールチーズあじ」「カールうすあじ」のみの販売となる。

 明治によると、スナック菓子の競争激化に伴い販売が低迷。1990年代に190億円だった売上高は2015年に60億円程度までに減少していた。一時は全国での販売終了も検討したが、1968年発売のロングセラーとして広く親しまれてきたことから、地域を縮小したうえで販売を継続することにした。

 カール生産5拠点を松山市の工場1カ所に集約する。キャラクターである「カールおじさん」「カールぼうや」など「おらが村キャラクター」は引き続き使用する。

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動物園園長

 動物園に関係する人なら、増井光子さんの名を知らない人はいないだろう。獣医師で、東京・上野動物園や横浜市の動物園「ズーラシア」の園長を務めた。長く男社会だった動物園界にあって、上野でもズーラシアでも、増井さんは初の女性園長だった。
 9年前の冬、ズーラシアの園長室で、初めて増井さんに会った。それまで動物園には関心がなかったから、増井さんのことは全く知らなかった。先輩記者に「そういうことならまず増井さんと話したら」とアドバイスを受けて出かけたのである。
 「そういうこと」とは、当時、子ども向けの記事を充実させたいという社の方針があり、その企画として「動物園長のリレー連載」を提案して採用されたものの、どう具体化していくか思いあぐねていたのだった。
 増井さんに企画の趣旨を説明し「トップバッターをお願いできないか」と依頼した。うなずきながら聞いていたのに、増井さんの返事は意外だった。
 「それはあなたが自分で書いた方がいい。園長に書かせたって面白くない。現場の飼育係はそれぞれ、生きものとの関わりの中で、いろんな経験をして、いろんな思いを持っている。彼らにインタビューして発掘した方が絶対面白くなります」
 それは「言うは易く行うは難し」ではないか。第一、私は生きものについては無知だ。自分で書くとなると手間暇もかかる。いったいどこの動物園に行き、誰に話を聞き、どう書けばいいというのか。
 「園長の連載」にこだわって粘る私を、増井さんが逆に説得する形になった。いわく、園長は現場の人ではないので、いま起きている現場の話を生き生きと書くことはできない。生きものの専門家であることもネックになる。専門家が専門家の視点で書くものは、一般の人には往々にしてつまらないからだ。
 とどめは動物園で長く働いてきた人の実感だった。「お客さんが一番求めているのは飼育係と会話することです。初めは動物の姿やしぐさを見たいと思って来てくださるが『もう一回行こう』とか『動物園って楽しい』と思わせるのは飼育係なんです。それも動物園が用意したガイドツアーなんかじゃ駄目、一方的でしょ。そういうのじゃなくて、そのへんに飼育係の姿が見えてて、その人とちょっと動物にまつわる会話をしたいわけですよ」
 単なる生きものの紹介という枠を超え、飼育担当者の姿が見え、声が聞こえるような記事にするべきだ。増井さんの言うことを、私はそう理解した。生きものの間近にいる人間を通して、生きものと人の関わりの機微に触れるような記事を書いてほしいと。
 最近の動物園の記事は詰まらないと、増井さんは嘆いた。「動物園から記者クラブに発表文と写真を提供する。それを一斉に横並びで記事にするだけ。だからどの社も同じです。以前はみなさん、動物園に来ていた。現場をまわり、現場の人に話を聞いて、それではっと思う話を書いていました」。聞いていて耳が痛かった。ことは動物園に限らない。
 増井さんは当時、兵庫県豊岡市の「コウノトリの郷公園」の園長も兼ね、コウノトリの野生復帰に取り組んでいた。それを熱っぽく語った。それきりお目にかかる機会がないまま時が過ぎ、2年後、英・ケンブリッジで客死したとの報に接した。
 コウノトリに限らず、動物園や生きものについて、書きたいこと、伝えたいことがいっぱいあったと思う。それなのに自分を抑えて、なぜ私に書くことを強く勧めたのか。増井さんの求めた記事を私はいま、書けているのか。
 増井さんからの宿題によって、自然と生きものと人の関わりや、動物園とメディア・社会との関係について学び、考えるようになった。問いは思いの外、深く難しく、簡単には答えが見つからない。宿題を抱えながら、動物園や水族館を歩き続けている。 

午前中5時間

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 午前中の授業を4時限から5時限に増やす小学校が増えている。福岡市では2016年度までに約2割が実施しており、新学期から少なくとも4校が導入。福岡県うきは市でも取り入れる学校がある。各時限の合間の休み時間を一部ゼロにし、登校時刻も前倒しして児童と教員に放課後のゆとりを生み出す。2020年度の新学習指導要領に伴う授業時間増にも備える。

 「先生たちの働き方改革なんです」。本年度から午前中5時限にする愛宕浜小(福岡市西区)。森宏介校長(59)は打ち明ける。

 小学校は1時限(1こま)が45分間。毎朝午前8時半から読書などに充てていた「朝タイム」を「朝の会」に改め、10分前倒し。合間の休み時間(昼休みなどを除く)も0~5分にする。「実際はトイレ休憩や体育の着替えの時間を随時取ることになる」(森校長)見通しだが、6時限まである日の下校時刻は25分早まる計算だ。

 授業自体は勤務時間内に終えても、その準備や保護者対応で残業が常態化している教員たち。森校長は「わずかでも勤務時間内に教材に目を通す時間を増やしたかった」と狙いを語る。

 家庭訪問などで昼までに授業を終える日もあり、5時限にすれば消化授業数を増やすことが可能。教員が午後から出張する場合、これまで自習に充てていた時間も減らせる。

 文部科学省によると、現行の学習指導要領は授業時間数を規定している一方、休み時間を含めた時間割は学校側の「弾力的な編成」を認める。

 近年の学力低下傾向を受け、各校が土曜授業や夏休みの短縮に踏み切っているのに加え、新学習指導要領では小3以上に週1こま、英語(外国語活動)が上積みされる。年間授業時間数は週5日制の完全導入(02年度)前の水準に戻る。道徳の教科化やプログラミング教育の必須化も始まり、教員の多忙に拍車が掛かるのは間違いない。

 福岡市教育委員会によると16年度、午前中を5時限にした小学校は全143校のうち32校。福岡市西区に本年度開校し、午前中を5時限とする西都小は「子どもの集中力は午前中が高い。放課後の時間の余裕は学習に充てたい」、うきは市の千年小は「授業時間の確保につなげたい」としている。

   ◇    ◇

 各学校の工夫増える

 文部科学省教育課程課の石田有記専門官の話 新学習指導要領を見据え授業時間を確保するための工夫の一つといえる。今後、各校でさまざまな工夫が増えるとみられる。東京では1こま40分授業を午前中に5時限やるような小学校もある。ただし、トイレ休憩などで授業時間にロスが生じた場合、その分を別の時間に振り替えるなど、年間を通して必要な時間数を確保するよう努めてほしい。

教員 争奪戦

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 大量定年時代を迎え、教員採用試験の対象年齢を引き上げる自治体が相次いでいる。九州でも福岡、佐賀、熊本3県や北九州市の教育委員会などがこれまで39、40歳以下だった新卒・既卒の上限を49~59歳以下に緩和。若手の指導役でもあるベテラン勢がごっそり抜ければ学校運営にも支障が出かねず、他県で採用された現役教員や育児による離職者の呼び戻しにも期待を寄せる。

 「これからは全国で、人材の奪い合いが始まる」。福岡県教委の担当者は危機感を隠さない。福岡は2月中旬、受験の準備を早く整えてもらおうと、2017年度に実施する試験の採用条件を例年より3カ月も早く発表。対象年齢を40歳以下から59歳以下とした。

 福岡、北九州両政令市を除く県教委の小中高の正規教職員は約1万6千人(16年度)。うち50代以上が48・6%に上り、中学は50・9%を占める。団塊ジュニア世代のために大量に雇用された教員たちが定年を迎え、小中高それぞれの定年退職者のピークは20~24年度の見込みだ。

 授業のノウハウなど経験のあるベテランも確保してバランスの取れた教員配置を実現するため、ほかの教委で採用された現職教員枠の対象年齢も50歳から59歳に引き上げ。「他県などに流れた人材を呼び戻す」(教職員課)のが狙いだ。

 受験者自体が減っていることも背景にある。

 大分県も本年度に行う採用試験から、対象を10歳引き上げて50歳以下に見直す。16年度の受験倍率は4・2倍で、1989年度以降、最高だった18・5倍(00年度)と比べて4分の1以下となり、受験者も約4割減った。当時より採用枠が増えたため何度も挑戦する既卒者の合格が増え、相対的に受験者数が少なくなったという。「育児による離職者や、かつて合格を諦めた人の再チャレンジ」(教育人事課)を願う。

 16年度から39歳以下の年齢制限を49歳以下に改めた熊本県は、志願者が前年度比112人増の1931人となり「一定の効果があった」(学校人事課)としている。

消えたポテチ

中日新聞 社説 4/22

温暖化と私たち 風が吹けばポテチが

 風が吹けば、ポテチが消える-。それはつまり、温暖化は台風に姿を変えて北海道に上陸し、その影響が私たちの暮らしの中に分け入ってきたということだ。気候変動は人ごとではないということだ。

 畑の異変は、暮らしに及ぶ。

 この春、ポテトチップスの販売の完全中止や一時休止が相次ぎ、商品の種類が激減した。

 原因は、気候変動、温暖化だと言っていい。

 ジャガイモの主産地、北海道十勝地方では昨年、六月に長雨が続き、八月だけで三つの台風が上陸し、畑の被害も相次いだ。

 近年まで、梅雨はなく、台風とも無縁に近かった北海道。気候は急変しつつある。国内産の八割を占める道産ジャガイモの出荷量は、前年に比べ約一割、減少した。

 ポテトチップスメーカーは、国産志向が強い。100%をうたう大手もある。輸入を増やすにも限りがある。五月から九月に収穫される原料の不足が反映されて、メーカー側は定番や売れ筋商品への絞り込みを余儀なくされた。

 大手ネットオークションサイトに、「入手困難」になった商品が、二十袋十二万円で出品された例もあるという。

 世界の年間平均気温は三年連続で最高を更新中だが、十勝でも夏場の高温による農業被害が近年目立つ。もともと寒冷地で強く高温に弱いジャガイモ、小麦は、それでなくても近年は減少傾向にあるという。一方で、サツマイモやワインブドウの適地になりつつある。激変だ。

 水産の分野でも、海水温の変化によるとみられるサケの不漁、ホタテの斃死(へいし)も深刻化しつつある。

 農産物は、天気のたまものだ。それだけに農業王国北海道では、温暖化の推移にも敏感だ。

 北海道開発局と道が先月まとめた「今後の水防災対策のあり方」に関する提言は、道内で毎時三〇ミリを超える大雨が三十年前の約二倍に増加と指摘して、今世紀末には最大日降水量が今の一・二四倍になるとの予測を提示。「気候変動の影響が現実のものになったと認識し、北海道から先導的に気候変動の適応策に取り組むべきだ」と訴える。

 “消えたポテチ”が、教えてくれている。

 温暖化はすでに北海道の主産業に大きな変化をもたらして、私たちの暮らしにも入り込んでいる。

 米大統領が方針を変えようと変えまいと、それは私たち自身の身近に迫った重要な課題なのだと。


PTA

 新年度が始まる4月は、子どもが幼稚園や小学校に通う母親たちにはゆううつな季節でもある。この時期、よく話題に上るのはPTAの役員決めだ。入学式後や新年度最初の学校公開時の保護者会で決める地域が多いと思う。中には自分から進んで手を挙げてくださる人もいるが、やりたくないと思っている人が圧倒的に多い。
 筆者の子どもが小学生だった時代を振り返ると、4月最初の保護者会は必ずしーんと静まりかえっていた。仕事が忙しい…、専業主婦だからとやらされるのはずるい…さまざまな思惑が無言の教室の中で交錯し、担任の先生もひと言も発せず押し黙ったままで、時間だけが過ぎていった。
 PTAで取り組むのは子どものための活動だったはずなのに、課題を先送りにしたままシステム化されてしまうと、弟や妹がまだ幼い家庭や共働きの家庭にとっては思わぬ負担となってしまう。結果として役員にしわ寄せがいくのも皆が役員をやりたがらない理由だ。
 登下校の見守り活動もその一つ。どの家も朝は家事等に追われていて、子どもの送りまでは余裕がないだろう。たまたま、住んでいた地区は孫のためにと朝、車の多い道路に立って見守ってくださるシニアの方々に恵まれて安心して子どもを送り出すことができた。
 しかし、実際に地域ボランティアとして登下校の見守り活動をしていた方々からは、毎日毎日、雨の日も寒い日も続く活動には人が集まらなくなっていき、「ボランティアは一度やったら抜けられない…」というぼやきをよく聞いた。
 そのため、保護者に公平負担を促そうと放課後はクラスごとに日時が決められ、地域のボランティアとともに見守るという風に活動が改められた。半休をとって指定の日に行ってみると、40人近いクラスだったが、同じように仕事を休んできた保護者とPTA役員合わせて4、5人だけの参加ということもあった。読み聞かせなど“人気”の保護者の活動もあるが、事情がそれぞれあるとはいえ、“地味”な見守りには親の参加があまりにも少ないことに正直とまどった。
 一方で、見守りを一緒にやってくださった地域の方からは自転車のマナーなど親こそ交通ルールがなっていない…と苦言も頂いた。(自分も含めて確かに…そうだったが…)。お世話になっているはずなのに、子どもたちを見守ってくれている地域の方々と親たちの間には距離があり、お互いの顔が見えていないと、地域の活動にいくつか参加して感じていた。
 千葉県の小学生の女の子が殺害された事件で、小学校の保護者会会長が逮捕された。この衝撃の展開は、子を持つ親にとってゆううつな4月をますますゆううつにしたと思う。子どものための活動を、やってくれる誰かに頼って任せきりになってはいなかっただろうか。痛ましい事件に憤りつつ、当時の自分に問うている。

イルカ

 きらきらと光る巨体が水面を突き破り、青い空に高く舞う。ザッバーンという着水音。スタンドまで水しぶきが飛ぶ。悲鳴や歓声が明るい。
 イルカショーは水族館の人気イベントだ。だが、それは水族館に不可欠なものだろうか。
 日本動物園水族館協会には主要な動物園・水族館のほとんどが加盟する。略称「日動水」、またはJAZA(ジャザ)。ZはZOO(動物園)、最後のAはAQUARIUM(水族館)の頭文字だ。
 最近、このJAZAから4水族館が脱退した。4館のうち複数の館が脱退理由として、和歌山県太地町のイルカ追い込み漁で捕獲したイルカの購入を、JAZAが禁じたことを挙げている。
 JAZAが禁止措置をとったのは、世界動物園水族館協会(WAZA)から追い込み漁によるイルカの入手を問題視されたからだ。WAZAはJAZAの会員資格を停止してまで改善を求め、JAZAがこれに応じて禁止を決めたという経緯がある。
 4館の脱退によって、JAZAは組織的な危機を迎えたようにみえる。イルカ追い込み漁を巡って、加盟水族館とWAZAの板挟みとなり、WAZA残留を選んだ結果、加盟館の離脱を招いた。くしの歯が欠けるように、これからも脱退が続くかもしれない。追い込まれたのはイルカではなく、実はJAZAだったのか。
 他にとるべき道はなかったのか。WAZAを脱退して自国の伝統と文化(イルカの追い込み漁)を守り、いわば「光栄ある孤立」を選ぶことはできなかったのか。あるいは、WAZAに日本の伝統文化をよく説明して、理解を得る努力は尽くしたのか。そんな声もあるが、いずれもことの本質を捉えていないように思う。
 ▽ボーンフリー
 私はこの9年間、動物園や水族館の取材を続けている。詳しい事情は省くが、生きもの好きでも動物園・水族館のファンでもなかったから、取材は手探りで始まった。その最初のころ、東京・多摩動物公園の昆虫館を訪れた。
 扉を開けた瞬間、むっとする熱気に包まれ、目の前を大型のチョウが横切った。色とりどりのチョウたちは、熱帯の植物の間を自由に飛びまわっている。別世界だった。
 ベテランの飼育係に取材した。飼育にまつわる苦労や工夫を聞いた後、「楽園のようなところで暮らせて、チョウたちは幸せなんでしょうね」と問うと、予想外のボールが返ってきた。
 「そういう擬人的なのはいけないんじゃないの。僕は擬人化は嫌いだね」
 どういう意味だろう。でも、この人は意地悪で言っているわけではないようだ。そこで「そうですか、擬人化はいけませんか」と緩いボールを返して、説明してくれるのを待った。たばこに火を付け、ちょっと間を置いてから彼が口を開いた。
 「外敵がいなくて毎日えさもらえて幸福ですね、って言われても、どっちが幸福だか分かんないでしょ。自然界で自由に飛びまわっているのと」
 動物園の取材を始めるに当たって、私は関係の本を何冊か買い込み、斜め読みしていた。その中に書いてあったことを思い出し、もう一度、食い下がった。
 「動物園のゾウは不幸なのかと問われると、外敵がいなくて食べ物の心配もないんだから野生よりいいんだ、長生きもするんだと答える人もいますよね」
 「そう。だけど、外敵なんかにおびえながら、それでもたくましく野生で生きるのが、やっぱり野生動物なわけでしょ。こういうことを言うと動物園を否定するみたいになるけれど、本来こんなもの、ない方がいいわけですよ。生物というのはボーンフリーだと思う」
 そして彼は「野生のエルザ」の話を持ち出した。人間の手で育てられたライオンを野生にかえす物語の原題は「ボーンフリー」。生まれながらにして自由とでも訳すのか。「本当はおりに入れて飼うべきじゃない。長く勤めてきてやっぱりそういうジレンマがありますよ」。率直な述懐だった。
 「そういう意味で、擬人化して『チョウも幸せだろう』というのは駄目なわけですね」。彼はうなずいた。「動物はボーンフリー。擬人化すれば、どうしても人間の視点になってしまう」
 ▽擬人化の徹底
 「擬人化」とは何か。確かに不徹底な形で生きものに適用すれば、動物園や水族館にいる方が幸せだということになりかねない。だが、もっと徹底して擬人化したらどうだろう。
 WEB記事を検索すると、JAZAを脱退した4水族館のうちのある館長は、インタビューで「自分を魚にたとえたら?」と問われ「イルカ」と答えていた。もし自分がイルカだとしたら―。擬人化をそこまで徹底すれば、事態はもっとはっきり見えてくるのではないか。
 私はイルカだ。広い広い海を仲間とともに泳ぐ。病気や天敵、自然条件のリスクはあっても、どこまでも自由だ。ある日、私は人間に生け捕りにされた。プールに運ばれ、えさを与えられ、ショーの訓練を受ける。うまくやれば、より多く与えられる。きょうも狭いプールで高く飛ぶ。あの自由な海であり得なかったほど高く。毎日、朝から夕方まで何度も―。
 ショーで能力の限界までジャンプさせることに対して、専門家からは健康上の問題を指摘する声もある。イルカの背中には空気孔があるが、それが閉まり切らないで水に降りる危険があり、そうすると海水を吸って誤嚥性(ごえんせい)肺炎を起こすこともあるという。
 今回の脱退騒動のきっかけは、イルカの追い込み漁だった。だが、究極の問題はそこにはない。イルカという種だけに限定される問題でもない。人間はなぜ生きものを野生から捕まえてきて、飼うことができるのか。見せ物にすることができるのか。
 危機はJAZAに迫っているのでない。動物園や水族館そのものの根拠が問われているのだ。 

「褒める」のバリエーション

「褒める」のバリエーション

 ほめることの効用は分かるとしても、ワンパターンのほめ言葉では子どもには響かない。
「はやい」「すごい」「よし」「えらいなあ」「さすが」などがすぐに浮かび、サ行で並べてみたりしてみたが、圧倒的に足りない。

「さ」・・さすがだなあ。
「し」・・知らなかったなあ。
「す」・・すごい・すばらしい。
「せ」・・先生みたいだ。
「そ」・・そうなんだ。そういうことか。

 いつ・どこで・だれを・どんな観点でというように分類化して、自分の褒め言葉をリストアップしてみたいと思っていた。
 
 学校に送られた「英語情報 2017冬号(日本英語検定協会)」に「CLASSROOM ENGLISH!!!」の連載があり、大木優喜子氏がほめ言葉を紹介している。
 ただの列挙でなく、5項目に分けてあった。
 Englishとしても大事だが、日本語でもこれくらいのバリエーションでほめていきたいと思った。
 いつも「すごい」「上手」「がんばったね」だけでは、おそまつであることがよく分かる。

(1) Good(良い)の他にも使える一言褒め言葉(Goodの類義語集)

Very good! とても良い!
Teriffic! 大変良い。
Fantasuteic! 素晴らしい!
Well done よくできました!
Great! とても良い。
Wonderful 素晴らしい!
Excellent! 優秀!
Close 惜しい!
Awesome! とても良い
Superme! 素晴らしい!
Perfect! 完璧!
Wow! わあすごい

・・・一言で、12のバリエーションだが、訳だけみると同じものがあって7種類になってしまう。そこには微妙な差異があるのだろう。

①よし ②すごい ③うまい ④さすが ④すばらしい ⑤完璧 ⑥上手 ⑦驚いた ⑧感激した ⑨素敵 ⑩最高 ⑪合格 ⑫惜しい ⑬あと少し で13種類か。 

(2) Good job(よくできました)の他にも使える表現

Much better!      前より大変良くなりました。
keep up the good work! その調子でがんばってください
Thats great idea!    とても良いアイデアですね。
I know you can do it!  あなたならできます
Great teamwork!    とてもよいチームワークです
Thats an interesiting ponit 面白い点ですね
Good try!       よい試みです。
Great effort!     大変良い努力です。
Thats a good guess!  良い推測です。

・・・ノートへののコメントは、(1)の一言パターンではさみしいのでこれくらい書きたいところ。

①努力を褒める ②結果を褒める ③成長を褒める ④試みを褒める ⑤発想を褒める ⑥協力を褒める

などが観点になるか。

(3)生徒の具体的な態度、能力を褒める表現
※生徒一人一人を褒める時には、具体的に何が良かったのかを示す。

You make lots of effort to speak English in class!
あなたは授業で英語を話す努力をしています。

Your writing skills have improved so much! 
あなたのライテイング能力はとても進歩しました。

Im impressed by your speaking skills! 
私はあなたのスピーキング能力に感心しました。

(4)その他の生徒一人一人を褒める表現
You work very hard! 
あなたはとても一生懸命勉強しています。

You worked very hard in class today! 
あなたは今日の授業でとても一生懸命勉強しました。

I love having you in my class! 
あなたが私のクラスの生徒でうれしいです。

・・・(3)はピンポイントの褒め方、(4)は総括した形の褒め方と言えるだろうか。
通知票の所見みたいなレベルになってきた。ありきたりの褒め言葉ではなく、その場でのその子に対するオリジナルな言葉かけをしていきたい。
「あなたは努力や成長をしています」という客観パターンと「私はあなたの努力や成長に感心しています」の主観表現のパターンがあることが分かる。

(5)クラス全体を褒める時の表現
※クラス全体を褒めることによって、生徒との間にチームワーク・統一性が生まれます。

Thank you for sharing your ideas! 
 みんなのアイデアを話してくれてありがとう。
(注 「おたがい意見を出し合ってありがとう」という意味かな?)

Everyone worked very hard today! 
今日はみんなとてもよくがんばりました。

・・・授業のまとめや帰りの会の最後のお話でみんなに伝えたいメッセージという感じ。
 熱い語りバージョンもあるだろうが、毎日のことだから、さらりと褒めるのが基本形ではないだろうか。