★365日の紙飛行機★

20151219203551e1e.jpeg 朝の空を見上げて
今日という一日が
笑顔でいられるように
そっとお願いした

時には雨も降って
涙も溢れるけど
思い通りにならない日は
明日頑張ろう

ずっと見てる夢は
私がもう一人いて
やりたいこと 好きなように
自由にできる夢

人生は紙飛行機
願いを乗せて飛んでいくよ
風の中を力の限り
ただ進むだけ
その距離を競うより
どう飛んだか どこを飛んだのか
それが一番 大切なんだ
さあ 心のままに
365日

星はいくつか見えるか
何も見えない夜か
元気が出ない そんな時は
誰かと話そう

人は思うよりも
一人ぼっちじゃないんだ
すぐそばのやさしさに
気づかずにいるだけ

人生は紙飛行機
愛を乗せて飛んでいるよ
自信持って広げる羽根を
みんなが見上げる
折り方を知らなくても
いつのまにか飛ばせるようになる
それが希望 推進力だ
ああ 楽しくやろう
365日

人生は紙飛行機
願いを乗せて飛んでいくよ
風の中を力の限り
ただ進むだけ
その距離を競うより
どう飛んだか どこを飛んだのか
それが一番 大切なんだ
さあ 心のままに
365日

飛んでいけ!
飛んでみよう!
飛んでいけ!
飛んでみよう!
飛んでいけ!
飛んでみよう!

感情的なしきり

三山春秋 9/21

 わが子の入部を機に少年野球チームの運営に協力している。子供たちの成長する姿が何より楽しみだが、試合となれば保護者の方が熱くなりがち。ある大会でのことだ 。

 強豪チームに熱戦の末、惜敗した。試合後、相手の応援席から「もっと楽に勝てよ」との声が上がった。チームを激励するやじなのだろうが、無念をのみ込もうとしていた当方の選手や保護者はショックを受けた 。

 隣接する小学校のチーム同士。見知った顔が多く友好的な一方、何かと張り合う間柄だ。この出来事から関係は一時ぎくしゃくした 。

 身内や友人、近所付き合いなど関係が近いほど感情的しこりが一度生じると解消は難しい。それは国と国の関係も同じらしい 。

 都内で先日、日中関係に関する福田康夫元首相(81)の講演を聞いた。首相在任の2008年に日中共同声明を発表、今も中国政府要人と交流し融和に努める。「古代から交流し、お隣同士の近い関係だからこそ難しい」と指摘しつつ、関係が冷え込む現状を嘆いた 。

 両国は29日に国交正常化45周年、来年は故・福田赳夫元首相による平和友好条約締結40周年を迎える。これを念頭に「強硬論は幼稚。節目が続く今こそ信頼関係を築くべきだ」と強調した。相手への敬意と寛容さ。安倍政権が国民に信を問おうとする時、忘れてはならない重要な論点の一つに思える。


…………………………

□ 「戦略的互恵関係」の包括承認推進に関する日中共同声明(2008年)

 胡錦濤中華人民共和国主席は、日本国政府の招待に応じ、2008年5月6日から10日まで国賓として日本国を正式訪問した。胡錦濤主席は、日本国滞在中、天皇陛下と会見した。また、福田康夫内閣総理大臣と会談を行い、「戦略的互恵関係」の包括的推進に関し、多くの共通認識に達し、以下の通り共同声明を発出した。

1.双方は、日中関係が両国のいずれにとっても最も重要な二国間関係の一つであり、今や日中両国が、アジア太平洋地域及び世界の平和、安定、発展に対し大きな影響力を有し、厳粛な責任を負っているとの認識で一致した。また、双方は、長期にわたる平和及び友好のための協力が日中両国にとって唯一の選択であるとの認識で一致した。双方は、「戦略的互恵関係」を包括的に推進し、また、日中両国の平和共存、世代友好、互恵協力、共同発展という崇高な目標を実現していくことを決意した。

2.双方は、1972年9月29日に発表された日中共同声明、1978年8月12日に署名された日中平和友好条約及び1998年11月26日に発表された日中共同宣言が、日中関係を安定的に発展させ、未来を切り開く政治的基礎であることを改めて表明し、三つの文書の諸原則を引き続き遵守することを確認した。また、双方は、2006年10月8日及び2007年4月11日の日中共同プレス発表にある共通認識を引き続き堅持し、全面的に実施することを確認した。

3.双方は、歴史を直視し、未来に向かい、日中「戦略的互恵関係」の新たな局面を絶えず切り開くことを決意し、将来にわたり、絶えず相互理解を深め、相互信頼を築き、互恵協力を拡大しつつ、日中関係を世界の潮流に沿って方向付け、アジア太平洋地域及び世界のよき未来を共に創り上げていくことを宣言した。

4.双方は、互いの協力パートナーであり、互いに脅威とならないことを確認した。双方は、互いの平和的な発展を支持することを改めて表明し、平和的な発展を堅持する日本と中国が、アジアや世界に大きなチャンスと利益をもたらすことの確信を共有した。

(1)日本側は、中国の改革解放以来の発展が日本を含む国際社会に大きな好機をもたらしていることを積極的に評価し、恒久の平和と共同の繁栄をもたらす世界の構築に貢献していくとの中国の決意に対する支持を表明した。

(2)中国側は、日本が、戦後60年余り、平和国家としての歩みを堅持し、平和的手段により世界の平和と安定に貢献してきていることを積極的に評価した。双方は、国際連合改革問題について対話と意思疎通を強化し、共通認識を増やすべく努力することで一致した。中国側は、日本の国際連合における地位と役割を重視し、日本が国際社会で一層大きな建設的役割を果たすことを望んでいる。

(3)双方は、国際連合協議及び交渉を通じて、両国間の問題を解決していくことを表明した。

5.台湾問題に関し、日本側は、日中共同声明において表明した立場を引き続き堅持する旨改めて表明した。

6.双方は、以下の五つの柱に沿って、対話と協力の枠組みを構築しつつ協力していくことを決意した。

(1)政治的相互信頼の増進
  双方は、政治および安全保障分野における相互信頼を増進することが日中「戦略的互恵関係」構築に対し重要な意義を有することを確認するとともに、以下を決定した。
 ・両国首脳の定期的相互訪問のメカニズムを構築し、原則として、毎年どちらか一方の首脳が他方の国を訪問することとし、国際会議の場も含め首脳会談を頻繁に行い、政府、議会及び政党間の交流並ぶに戦略的な対話のメカニズムを強化し、二国間関係、それぞれの国の国内外の政策及び国際情勢についての意思疎通を強化し、その政策の透明性の向上に努める。
 ・安全保障分野におけるハイレベル相互訪問を強化し、様々な対話及び交流を促進し、相互理解と信頼関係を一層強化していく。
 ・国際社会が共に認める基本的かつ普遍的価値の一層の理解と追及のために緊密に協力するとともに、長い交流の中で互いを培い、共有してきた文化について改めて理解を深める。

(2)人的、文化的交流の促進及び国民の友好感情の増進
  双方は、両国民、特に青少年の間の相互理解及び友好感情を絶えず増進することが、日中両国の世々代々にわたる友好と協力の基礎の強化に資することを確認するとともに、以下を決定した。
 ・両国のメディア、友好都市、スポーツ、民間団体の間の交流を幅広く展開し、多種多様な文化交流及び知的交流を実施していく。
 ・青少年の交流を継続的に実施する。

(3)互恵協力の強化
  双方は、世界経済に重要な影響を有する日中両国が、世界経済の持続的成長に貢献していくため、以下のような強力に特に取り組んでいくことを決定した。
 ・エネルギー、環境分野における協力が、我々の子孫と国際社会に対する責務であるとの認識に基づき、この分野で特に重点的に協力を行っていく。
  ・貿易、投資、情報通信技術、金融、食品・製品の安全、知的財産権保護、ビジネス環境、農林水産業、交通運輸・観光、水、医療等の幅広い分野での互恵協力を進め、共通利益を拡大していく。
 ・日中ハイレベル経済対話を戦略的かつ実効的に活用していく。
 ・共に努力して、東シナ海を平和・協力・友好の海とする。

(4)アジア太平洋への貢献
  双方は、日中両国がアジア太平洋の重要な国として、この地域の諸問題において、緊密な意思疎通を維持し、協調と協力を強化していくことで一致するとともに、以下のような協力を重点的に展開することを決定した。
 ・北東アジア地域の平和と安定の維持のために共に力を尽くし、六者会合のプロセスを共に推進する。」また、双方は、日朝国交正常化が北東アジア地域の平和と安定にとって重要な意義を有しているとの認識を共有した。中国側は、日朝が諸懸案を解決し国交正常化を実現することを歓迎し、支持する。
 ・解放性、透明性、包含性の三つの原則に基づき東アジアの地域協力を推進し、アジアの平和、繁栄、安定、解放の実現を共に推進する。

(5)グローバルな課題への貢献
  双方は、日中両国が、21世紀の世界の平和と発展に対し、より大きな責任を担っており、重要な国際問題において協調を強化し、恒久の平和と共同の繁栄をもたらす世界の構築を共に推進していくことで一致するとともに、以下のような強力に取り組んでいくことを決定した。
 ・「気候変動に関する国際連合枠組条約」の枠組みの下で、「共通に有しているが差異のある責任及び各国の能力」原則に基づき、パリ行動計画に基づき2013年以降の実効的な気候変動の国際枠組みの構築に積極的に参加する。
 ・エネルギー安全保障、環境保護、貧困や感染症等のグローバルな問題は、双方が直面する共通の挑戦であり、双方は、戦略的に有効な協力を展開し、上述の問題の解決を推進するために然るべき貢献を共に行う。

    日本国内閣総理大臣      中華人民共和国主席
     福田康夫           胡錦濤

温暖化と糖尿病

卓上四季 9/21

地球温暖化が進めば糖尿病が増える―。「風が吹けば桶(おけ)屋がもうかる」の類いのこじつけかと思ったら、海外の専門家が発表したまじめな研究だった。

人体には褐色脂肪細胞があり、寒いと脂肪を熱に変え体温を維持する。平均気温が上がるとこの細胞が減り、脂肪が燃えにくくなって糖尿病患者が増えるという仕組みだ。平均気温が1度上がると、米国だけで年間10万人増えると試算する。

それだけではない。温暖化の弊害は広範に及ぶ。気温上昇で空気の密度が下がれば航空機は揚力を得にくくなり、重量制限が必要になる恐れがあるという。「暑すぎて離陸できません」という事態が冗談ではなくなるかもしれない。

猛暑や豪雨などの異常気象も、関係があるというのが科学的な知見だ。北海道では昨年大きな台風被害を受けた十勝管内が今年も再び被災するなど、毎年のように大雨災害に見舞われている。

各国、各地域が災害への対応を強化することは大切だが、温暖化対策は世界規模で進めなければ意味がない。まずは温暖化防止に向けた世界的枠組み「パリ協定」で掲げた目標を、各国が履行していくことが重要だ。

協定からの離脱を表明していたトランプ米大統領も、方針転換を検討しているそうだ。先月の大型ハリケーンでは、数十人の死者を含む大きな被害が生じている。大統領はこうした現実をしっかり直視しなくてはなるまい。

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風が吹けば桶屋が儲かる?(または女心と春の空?)

与太郎 花粉症って言えば、春先になって風が吹き出すと大変なんですよね。
大 家 春は結構強い風が吹きやすいですからね。
与太郎 「風が吹けば桶屋が儲かる」なんていう諺を聞いたことがあるけど、今は桶屋なんかないですよね。
大 家 ないですね。その諺が今でも通用しているのかどうかと思ってインターネットで調べて見たら結構まだ生きているようなんですね。Wikipediaにもちゃんと項目がありましたよ。
与太郎 この諺ってあれでしょう? 何ていうか、ありそうでなさそうな理屈を繋げて、いい加減なことを──結論にするって言うか・・・。
大 家 そういうことですね。
 ところで、私が高校生の時だったかな。60年も前のことだけれども、担任の先生が教えてくれたんですよ。若い物理の先生だったですね。
 「風が吹けば」というのは間違いで、「春・風が吹けば」というのが正しいってね。
与太郎 春風っていうと何か優しいそよ風みたいだけど──。
大 家 「春風」じゃなくて、「春・風が吹けば」ですよ。これは夏や秋では駄目なんです。どうしてかと言えば、春先はまだ空気がうんと乾燥しているでしょう? その時期にはまた結構強い風が吹きますね。春一番から始まって、花見の時期だってずいぶん強い風が吹きますね。
与太郎 そう言えばそうですね。空気は乾燥しているから、埃が目に入って目が見えなくなる人が多いっていうわけですね。
大 家 というわけで、どうしても季節は春でなければならないんですよ。
与太郎 そうか。で、目が見えなくなった人が増えると三味線が売れるようになるって言うのはどうなんですか?
大 家 目が見えなくなった人が就く職業としてはまず按摩さんがありますね。今で言うマッサージ師でしょうか。これには技術が要りますが──。
 もう一つは門付(かどづけ)ですね。浄瑠璃などの芸を聞かせながら家々を回って食べ物や金銭をもらう、芸付きの乞食ですね。これには三味線の伴奏が要る。これにも芸事の技術は要りますがね。
与太郎 ああ、それで三味線がね。三味線には猫の皮を使うんですよね。それで、猫が沢山捕まえられていなくなる。猫がいなくなれば鼠の天下だ。鼠が増えて桶なんかをかじりまくる。それで桶屋が儲かるって言う寸法なんだ。一応理屈は通ってますよね。

ノーベル賞の梶田さん

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雷鳴抄 9/21

 典型的な文系人間である。だが取り立てて文系の教科に秀でたわけではない。理数系が悲劇的にだめだったのである。とりわけ物理はちんぷんかんぷん。今でも物理と聞くと顔をしかめてしまう。

それではいけないと反省し先日、宇都宮市内で開かれた日本物理学会主催の市民科学講座に足を運んだ。2015年にノーベル物理学賞を受賞した東京大宇宙線研究所長の梶田隆章(かじたたかあき)氏がどんな講演をするか興味もあった。

テーマは「宇宙と素粒子のなぞへの挑戦」。ニュートリノ振動の発見でノーベル賞を獲得した梶田氏の話は、素人にも分かりやすくという工夫が感じられた。大きさがないくらい小さなニュートリノが素粒子の一種であることが分かった。

観測するのは極めて難しく特別な装置であるスーパーカミオカンデで実現できたこと。ニュートリノ振動で質量があることが裏付けられたこともおぼろげに理解できた。

あとは分かったような分からないような。要はこうした研究が宇宙の謎の解明につながるという点が理解できただけでも役に立ったように思う。国が基礎研究に補助金を出し渋るような報道にも接するが、日本が世界をリードできるよう適切な対応を求めたい。

会場には多くの高校生が詰めかけ、盛んに質問をした。理科離れが言われているが、何だか安心した。

始めの一歩

越山若水 9/21

福井市出身の故白川静さんが完成させた字書三部作がある。「字統」「字訓」「字通」(ともに平凡社)で、漢字の起源や体系を追求した白川学の集大成である。

字書をひもとき「歩」の項目を調べる。古代文字は足跡を表す「止」と逆向きの「止」を組み合わせた形。左右交互に足を運び「あるく」意味になったという。

さらに読み進むと、足を地面に接して歩くことは、その土地の霊に触れる方法で、重要な儀礼の式場に向かうときは、歩いて行くのが礼儀だった―と解説している。

成り立ちを知れば、一つ一つの歩みもおろそかにできない厳粛さがある。ふと思い出したことわざがある。「始めの一歩、末の千里」。最初は一歩から始まるが、歩き続ければ千里にも達すると説く。

北朝鮮に拉致された横田めぐみさんのことがニューヨークの国連本部で取り上げられた。「13歳の日本人の少女を拉致した」と、40年前に起きた国家犯罪を厳しく非難した。

発言の主は、意外にもトランプ米大統領。めぐみさんの母、早紀江さんも驚きを隠さないが「被害者の帰国につながることを期待する」と望みを託す。

最近は北朝鮮の核・ミサイル開発の陰に隠れ進展が見えなかった拉致問題。ようやく新たな足跡がしるされた。小さな努力の積み重ねが大きな成長につながるという例え通り、「始めの一歩」になるよう願っている。


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白川静 “字書”三部作『字訓』『字統』『字通』


 突然ですが、12月12日は何の日かご存知ですか。
 ヒントは、「1(いい)2(じ)1(いち)2(じ)」=「いい字1字」。毎年この日に清水寺で発表される「今年の一字」。もうお判りですね、答えは「漢字の日」です。その日にその年の世相を表す漢字が発表されることで、師走の風物詩となっています。

 さて、今回はこの「漢字」に生涯を捧げた故白川静氏に触れてみたいと思います。白川氏は、1910(明治43)年福井県生まれ。立命館大学助教授、教授を歴任後、1956年同大学名誉教授。平成16年には文化勲章を授与されました。平成18年逝去(享年96)。

 13歳の時に福井の生家を出て大阪へ。書生として住み込んだ法律事務所に偶然あった多くの漢籍が、以降の氏の人生を運命づけます。亀の甲羅に記された甲骨文字、古代の銅器に刻まれた金石文の文字一字一字の緻密な分析・研究が、「白川漢字学」を形成してゆきます。膨大な甲骨文字・漢字の地道な精査の結果、個々の文字に固有の意味があることは勿論、その文字を形成する篇(へん)・旁(つくり)、さらにはそれらを形作る一画一画までにも重要な意味を見出すに至ります。

 例えば「聖」という字。「神聖な」「聖職」といった熟語が想起されますが、氏によるとこの「聖」という字には「神の声を聞きうる人の意」があるということです。神の声を聞く、それ故に「聖」には「耳」という字が含まれていることも指摘されています。また、「経」という字。訓読みでは「つね」と読むこの字はもともと織物の縦糸を意味しました。縦糸がしっかりと貫いているから織物は織物たり得る。古代中国における人間や社会にとっての縦糸。それはとりもなおさず、普遍的な倫理観や道徳思想であり、それらは「経書」として大系化され、今日まで連綿と受け継がれています。(余談ですが、仏教の「経典」も「経」を用いますが、こちらはサンスクリット語の「スートラ」を意訳したものです。)「矢」という字。この字に「誓う」という意味があるのをご存知ですか。古代中国では神様に誓いをたてる時、弓矢の矢を折って誓いの言葉を述べていました。「矢」に「誓う」の意味があるのはこのためです。また「誓」に「折」という字が含まれているのも、この習慣を示唆しているといえるでしょう。

 このように見てくると、日常何気なく使っている漢字にもそれぞれ興味深い意味があることがお分かりでしょう。氏がその生涯をかけ、「白川漢字学」の集大成として完成させた『字統』『字訓』『字通』の“字書”三部作には、ここに紹介したようなお話がたくさん載っています。平易な表現をすれば、これら三部作は漢字辞典ということになりますが、辞典の枠を遥かにこえた「漢字学」の「研究書」と称するに相応しい書物です。

 冒頭にあげた「今年の漢字」。食の安全、金融不安、北京五輪、日本人のノーベル賞受賞などなど…。皆さんはこの1年を漢字一字でどのように表しますか。

 『字訓』
  白川静著 平凡社 1987.5
  
 『字統』
  白川静著 平凡社 1984.8
  
 『字通』
  白川静著 平凡社 1996.10
  
 『白川静著作集』全12巻
  白川静著 平凡社 1999.11-2000.11
  

マニュアル

正平調 9/21

作家の海老沢泰久さんがパソコンのマニュアルを書いたことがある。テーマは誰でも読めば分かる手引書。パソコンはずぶの素人の海老沢さんが難題に挑んだ。20年ほど前のことだ。

マニュアルが分かりにくいのは、その機器を熟知した人が書くからだ。どこが分かりにくいのかもつい見えなくなる。だから素人の疑問や視線を大事にしよう。そう考えたマニュアルは好評だったと、著書にある。

年金機構から届いた扶養親族等申告書への不満やいらだちが本紙イイミミに相次ぐ。「説明書を読んでも書き方が分からない」「理解しにくい」という。ここまで不評の文書は珍しい。同感の人は多かろうと推測しながら、海老沢さんの話を思い出す。

得てして役所の文書は読みづらい。抜け落ちがないよう、あれもこれも盛り込まれがちだ。そこに専門用語が交じれば、こちらはうーんとうなるしかない。大事な年金である。読めば誰もが分かるよう、いっそ高齢者に書いてもらったらどうかとまで思う。

作家井上ひさしさんが大切にしていたモットーがある。「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをゆかいに、ゆかいなことをまじめに」だ。

せめて「むずかしいことをやさしく」に心を配る説明書でありたい。


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■画期的だった操作マニュアルについて

▼操作マニュアルの一番の成功例

操作マニュアルの中で一番の成功例は、海老沢泰久の書いた「これならわかるパソコンが動く」だろうと思います。この操作マニュアルは、NECのパソコン「98シリーズ」に添付されました。すごくわかりやすいと評判になって、冊子が本として出版されました。

海老沢泰久は、直木賞をとった小説家です。亡くなるまでパソコンで文章を書いたことがない人です。なぜ、この人がパソコンの操作マニュアルを書くようになったのか、ちょっといわくがあります。

▼小説家がマニュアルを書いた理由

週刊朝日の編集長だった川村二郎さんが、ファクシミリを購入したのに、設定できなかったそうです。マニュアルの文章が理解不能だったとのこと。誰が、いいマニュアルを作れるだろうかと考えたら、一番文章の上手な海老沢泰久を思い出したというのです。

ちょうどNECも困っていました。ウィンドウズ95が出た当時、パソコンは40万円もしましたから、高価な買い物です。それなのに、4割の方がウィンドウズ95のセットアップ完了までたどり着けなかったそうです。これは大変なことです。

コールセンターには、電話がパンクしてしまうほど問い合わせが殺到していました。何とかしないとまずいという状況のとき、川村さんのお話があって、NECは、海老沢さんに操作マニュアルを作ってもらうということになったそうです。

▼内容はワープロ・メール・Web

この操作マニュアルでは、セットアップまでの手順が、7ページで説明されています。図は最小限に絞られていて、文章はわかりやすく書かれています。この説明で、ほとんどの方が、セットアップできたのです。コールセンターへの問い合わせは激減しました。

セットアップのあとの内容は、ワープロ、メール、パソコン通信(Web)に絞られていました。分量は、数十ページです。この本で、パソコンの使い方がわかったという人が多かっただろうと思います。2012年まで、図書館の棚に置かれていました。

縦書きのマニュアルですし、今では内容が古くなっています。文章も変えないといけないところがあります。しかし、パソコンの操作マニュアルの基本構造は、現在でもあまり変わらないのだろうと思います。画期的な操作マニュアルでした。

▼2つの成功要因

なぜこれほどまで成功したのでしょうか。第1に、文章がわかりやすかったということです。文章が適切だと、図は最小限ですみます。安易に画面の図が並べてある操作マニュアルは、たいてい文章に問題があります。

第2に、盛り込む情報を絞ったということです。必要な機能のみを説明して、これだけ出来たらユーザーも満足してくれるというものに絞りました。メーカー側が、標準となる使い方を示したのです。

これら2点は現在でも、操作マニュアルを作るときの基本です。


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てら子屋コラム

【コラム】 学びの場の極意

~むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、~


春らしくなりました。青葉がきれいです。青葉と言えば思い出すのがこの歌詞。♪三〇〇人中、二八〇番、だけど尻から数えてけさい♪ いまだに口ずさめるほど気に入って観ていた青春ドラマ『青葉繁れる』の主題歌です。仙台の進学校を舞台にしたこのドラマが放映されていたのは、ちょうど私は中3の頃。このドラマを機に、私はズブズブと井上ひさしさんの言葉の魅力に引き込まれ、ほとんどの著作を読み、こまつ座の芝居もほとんど観てきました。その井上ひさしさんが生前に繰り返し言っていたことがあります。「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、そしてゆかいなことはあくまでゆかいに」私もそんな言葉の使い手に少しでも近づきたい。

 「むずかしいことをやさしく」、他者に何かを説明したり教えたりしようとするとき、何ともこれが難しい。中途半端な知ったかぶりではできないことです。難しい術語を並べて煙に巻いて誤魔化したり、上辺だけをなぞって子供騙しをしたりする。そこですかさず、井上さんは「やさしいことをふかく」を求めます。このためには、理解の深さだけでなく、その表現のための最高の言葉を、最高の場面に配置しなくてはなりません。ここまでやれたら素晴らしい。

 だけど、井上さんは続けて踏み込みます。「ふかいことをおもしろく」。そうなんです、やさしくても、ふかくても、おもしろくなくては受け手の心と腹をブルブル振動させるには至りません。「ユーモア」、それは昨今のバラエティ芸人の人をバカにすることによる「お笑い」とは全く違うはずです。ユーモア(Humour)とは、ヒューマン(Human)から生まれたようです。さらにその先には、湿気や液体に源流をたどるとのこと。血液、体液、人体の約70%は水分のようですが、その人間らしさの源にある液体を揺さぶるものこそユーモアであり、だからこそ腹を抱えて笑っても、こらえきれずに涙をこぼしても、ホンモノのユーモアは、私たちをホンワカやさしい気持ちにさせてくれるのでしょう。

 少し飛躍してしまいますが、私は学びの場に最も必要なものこそ、この「ユーモア」(人間らしさ)だと思っています。先ほどからの、「むずかしいことをやさしく…」は、子どもたちの学びの場に最も必要とされていることではないでしょうか。だから、最初に難しいことに出会った時には、やさしく説いてくれる支え手も大切です。さらに、ドンドン学び進んで「おもしろく」あたりに達すると、自らの創造力、想像力がものを言うはずです。さらに、「ゆかいな」に達するには周囲と共鳴し共振する感受力になるのでしょう。

 少し前に内田樹さんの『日本辺境論』を読みました。そこにも多くの学びへの示唆があふれていました。中でも、「学ぶ力の劣化」を憂えて書かれていた以下の部分が強く心に残っています。

「今の子どもたちは「値札の貼られているものだけを注視し、値札の貼られていないものは無視する」ように教えられています。その上で、自分の手持ちの「貨幣」で買えるもっとも「値の高いもの」を探しだすように命じられている。幼児期からそのような「賢い買い物」のための訓練を施された子どもたちの中では、「先駆的に知る力(=学ぶ力)」はおそらく萌芽状態のうちに摘まれてしまうでしょう。「値札がついていないものは商品ではない」と教えられてきた子どもたちが「今はその意味や有用性が表示されていないものの意味や有用性を先駆的に知る力」を発達させられるはずがない。」

 きっと、ユーモアには値札はつかないでしょう。だから、(特に総合的な)学びの場は危機に瀕しているのでしょう。もっと、学びの場をユーモアで充たさなくては。そう思うと、井上ひさしさんの主張は、じつは「学びの場の極意」だったことに気づかされます。気づいたからには、私は「てら子屋」を通して、この極意を求め続けていきたいと思っています。「ゆかいなことはあくまでもゆかいに」生きていくことを諦めないようにしたいのです。井上ひさしさんが逝ってしまったのは、ほんとうに残念でした。もっともっと井上芝居を観て、腹を抱えて笑い、涙を滲ませ、心身の水分をブルブル振動させたかったなあ。

世界を救った男

中日春秋 9/21

その人が正しい判断をしなければ、われわれは今、生き延びているのだろうか。ちょっと、おどかしすぎかもしれぬ。それでも、「一歩間違えば」の事態は実際に起きた。その危機を食い止めた「世界を救った男」が五月に亡くなった。旧ソ連軍中佐のスタニスラフ・ペトロフさん。七十七歳。こんな話である。

東西冷戦下の一九八三年九月二十六日未明、ペトロフさんは米軍の核攻撃を警戒する任務についていた。

突然、ミサイル監視システムの警報が鳴った。五発の大陸間弾道ミサイルが発射され、こちらに向かっている。システムはそう表示している。本土到達まで約二十分。どうするか。

米軍に動きがあれば、ただちに上官に報告することになっていた。しかし「何かおかしい」と直感した。米軍の核攻撃で五発は少なすぎる。システムも信頼できない。規則を破って上司への報告を見合わせた。

二十三分が経過。何も起きない。システムの誤作動だった。米ソが鋭く対立する最中、米軍に攻撃されたとそのまま報告していれば、報復の手続きが進み、全面核戦争に向かった可能性は否定できない。自分にも同じ判断ができると言い切れる会社員はそれほどいないだろう。

事件のあった二十六日は、核兵器全面廃絶国際デーでもある。幸い、われわれはまだ生き延びている。幸い、核兵器廃絶に取り組むことがまだできる。


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大弦小弦 9/21

東西冷戦下、核戦争を防いだとされる旧ソ連の軍人が77歳で死去したことを、米メディアなどが伝えている。

スタニスラフ・ペトロフ中佐(当時)は、米軍の核攻撃を警戒していた1983年9月26日、5発のミサイルが発射された警報を確認。しかし、人工衛星監視システムの誤作動を疑い、上官へは報告せず「報復攻撃」を回避した。

ソ連軍が領空侵犯した大韓航空機を撃墜し、下院議員ら米国人63人を含む乗客乗員269人全員が、犠牲になった直後のことだ。中佐が規定通り伝達していれば、米ソ全面核戦争に発展する恐れがあったという。

米軍統治下の沖縄で59年、核弾頭搭載のミサイルを兵士が操作を誤り、那覇の沖合に発射していたことがNHKの報道で明らかになった。広島の原爆と同規模で「爆発していたら那覇が吹き飛んでいた」と当時の整備兵が証言している。

ソ連軍上層部は、ミサイル防衛システムの欠陥を認めたくなかったため、ペトロフ中佐は、服務規定違反に問われ左遷。米軍は沖縄の核兵器事故は「アメリカの国際的地位を脅かす」として隠蔽(いんぺい)した。

19日、トランプ米大統領は国連の演説で「北朝鮮を完全に破壊するしか選択肢がなくなる」と警告。これまでにない強い言葉を使った。偶発的な出来事が、予期せぬ衝突につながる可能性はゼロではない。

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世界を救った男

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1983年9月26日、ソ連軍の将校であったスタニスラフ・ペトロフはソ連の標準的な軍服務規程を逸脱し、監視衛星が発したミサイル攻撃警報を自ら誤警報(英語版)と断定した。複数の情報源によると、この決断はアメリカ合衆国に対する偶発的な報復核攻撃を未然に防ぐ上で決定的な役割を果たした。監視衛星の警報システムに対する調査により、システムは確かに誤動作していたことがその後判明した。以上より彼は核戦争を未然に防ぎ「世界を救った男」と呼ばれることがある。

彼がこの警報を上層部に伝達したかどうか、またその決断が核戦争を回避する上で厳密にいかなる役割を果たしたのかは依然諸説ある。が、彼が処罰される危険を冒して破局を未然に防いだことは、ソ連のミサイル警報システムの致命的な欠陥を暴露し、ソ連軍上層部を深く狼狽させた。この報復として彼は「信頼できない」将校との烙印を押され、軍歴を損なわれた。ソ連の軍事機密と外交政策の関係上、ペトロフの行動は1998年まで秘密とされていた。

この事件は冷戦時代に戦略核兵器を扱う軍によってなされたいくつかの際どい判断の1つである。それらはしばしば、最後の瞬間に、指揮系統(英語版)から遠く離れた担当責任者によって下された。

核戦争未遂事件

事件の背景
事件は米ソの外交関係が非常に悪化している時期に発生した。先立つこと僅か3週間前、ソ連軍がソ連領空を侵犯した大韓航空007便を撃墜し、乗員乗客269名全員が死亡するという事件が起きた。この際多数の米国人が死亡し、中には下院議員のラリー・マクドナルド(英語版)も含まれていた。また米国とその同盟国は軍事演習「エイブル・アーチャー83(英語版)」を実施している最中であり、これが米ソ間の緊張を著しく高めていた。KGBは西側に配置していた活動員に緊急通信を送り、核戦争の勃発を想定して準備するよう警告していた。

1983年の事件
スタニスラフ・ペトロフは戦略ロケット軍の中佐であり、1983年9月26日、モスクワはセルプコフ-15バンカーの当直将校だった。ペトロフの担当任務には、核攻撃に対する人工衛星による早期警戒網を監視し、ソ連への核ミサイル攻撃を認めた場合これを上官に通報することが含まれていた。そのような攻撃を受けた場合のソ連の対応は相互確証破壊戦略に基づいており、即時反応による米国への核攻撃を行うこととされていた。

0時40分、バンカーのコンピュータは米国からソ連に向けて飛来する一発のミサイルを識別した。ペトロフはこれをコンピュータのエラーだと考えた。何故なら、理論上、米国からの先制核攻撃は、何千発とは言わずとも何百発ものミサイルの同時発射によるソ連側反撃力の殲滅を含むはずだからである。また人工衛星システムの信頼性にも以前から疑問があった[5]。ペトロフはこれを誤警報として退けたが、コンピュータによる検知が誤りで米国はミサイルを発射していないと結論した後で、彼が上官に通報したか否かについては「した」という説と「しなかった」という説がある。この後、コンピュータは空中にあるミサイルをさらに4発(1発目と合わせて計5発)識別し、いずれもソ連に向けて飛来しつつあるとした。再びペトロフはコンピュータシステムの誤動作と断定したが、彼の判断を裏付ける情報源は実は何一つなかった。ソ連のレーダーには地平線の向こうに隠れたミサイルを探知する能力はなかったので、それらが脅威を探知するまで待ったとすると、ソ連が事態に対処できる余裕は僅か数分間に限られてしまっただろう。

もしペトロフが誤って本物の攻撃を誤報と考えたのだとしたら、ソ連は何発かの核ミサイルに直撃されていただろう。もし彼が米国のミサイルが飛来中だと通報していたならば、上層部は敵に対する破滅的な攻撃を発動し、対応して米国からの報復核攻撃を招いていたかも知れない。ペトロフは自身の直観を信じ、システムの表示は誤警報であると宣言した。彼の直観は後に正しかったことが明らかになった。飛来してくるミサイルなどは存在せず、コンピュータの探知システムは誤動作していた。後日、高高度の雲に掛かった日光が監視衛星のモルニヤ軌道と一列に並ぶというまれな条件が原因だったことが判明した(後にこのエラーは追加配備された静止衛星との照合によって回避されるようになった)。

ペトロフが後に述べたところによると、彼のこの重大な決断は、次のような事柄を根拠にしていたという。1つには米国の攻撃があるとすればそれは総攻撃になるはずだと告げられていたこと。5発のミサイルというのは先制としては非論理的に思われた。発射検知システムはまだ新しく、彼から見て未だ完全には信頼するに足りなかったこと。そして地上のレーダーはその後何分間かが経過しても何ら追加証拠を拾わなかったこと。

余波

国際ドレスデン賞授与式に出席するペトロフ(2013年、ドイツ・ドレスデンのゼンパー・オーパーにて)
あわや核惨事に至るところをコンピュータシステムの警告を無視して防いだにもかかわらず、ペトロフ中佐は彼が核の脅威に対処したやり方を巡って抗命と軍規違反の咎で告発された。以後、彼は上層部から厳しい審問にさらされ、結果として最早これ以上信頼の置ける将校ではないとの評価を受けた。

ペトロフ中佐の司令官らは事件後の審理で彼を非難し、事件の責任を負わせた。彼の行動はソ連の軍事機構の欠陥を暴露し、上層部をまずい立場に立たせた。彼は書類仕事のミスを口実に懲戒処分を受け、前途洋洋としていた彼の軍歴は恒久的に損なわれた。彼は重要度の低い部署に左遷され、やがて早期退役して神経衰弱に陥った。

ペトロフを巡るこの事件は、ソ連防空軍ミサイル防衛部隊の元司令官ユーリー・ヴォーチンツェフ(英語版)大将の回顧録が1998年に出版されて初めて公になった。以来、各種メディアで採り上げられ、ペトロフの行動は広く知られるようになった。

晩年

ペトロフの行動が知れ渡った1998年の時点で彼は既に年金生活に入っており、フリャジノの町で比較的貧しい退役生活を送った(年金額200米ドル/月)。彼自身はその日にしたことで自分を英雄とは思っていないと述べている。しかし2004年5月21日、 サンフランシスコに本拠を置く平和市民協会は、ペトロフ中佐が世界的な破滅を防ぐ上で果たした役割を称え、世界市民賞と副賞のトロフィー、賞金1,000米ドルを贈呈した。

2006年1月には、ペトロフはアメリカ合衆国を訪問し、ニューヨーク市における国際連合の会合で表彰された。その際、平和市民協会は改めて2つ目の特別世界市民賞を彼に贈った。翌日ペトロフはニューヨークにあるCBSの社屋で米国人ジャーナリストウォルター・クロンカイトによる取材に応じた。このインタビュー内容は、ペトロフの米国旅行におけるハイライトの様子と共にドキュメンタリー映画『赤いスイッチと世界を救った人間』に収録された。

2013年2月17日には、紛争や暴力を停止させた人物を表彰する国際ドレスデン賞を授与された。

2017年5月19日、モスクワ近郊で77歳で死去[15]。しかし、その死はロシア国内の報道ではほぼ取り上げらなかったという。ペトロフの友人であるドイツの映画作家が9月7日、2日後に迫ったペトロフ78歳の誕生日を祝おうと電話で問い合わせたところ、ペトロフの息子が父親の死去を伝え、そのことを映画作家がブログで言及したことを機にドイツのメディアに取り上げられることとなった。結局、ペトロフの死が大々的に報じられたのは死去約4ヶ月後の9月18日であった。

懐疑論

ニューヨークの国連でペトロフが表彰された同日、ロシア駐米大使館はプレスリリースを発表し次のように反論した。1個人が核戦争を起こしたり防いだりするのは無理で、特に「核兵器を用いるという決断がただ1つの情報源やシステムに依存して下されるような事態は、米国であれソ連(ロシア)であれ起こり得ず想定もできない。そのためには複数のシステムによる確認を要する。例えば地上レーダー、早期警戒衛星、諜報報告等々」。

しかしながら、冷戦に関する評論家の中には、スタニスラフ・ペトロフが関わったようなミサイル攻撃警報のケースでもこのような規定が厳密に遵守されたか疑問を呈する向きもある。1983年当時のソ連首脳部の心理状態と、同じく当時の緊張を高めるばかりの諜報報告のために、ソ連首脳部は米国からの核ミサイルによる奇襲攻撃が現実になるかも知れないと深刻に懸念しているように見えた。冷戦時代の核戦略に関する専門家で現在ワシントンDCにあるWorld Security Instituteの代表を務めるブルース・ブレアは、次のように述べている。米ソ関係は「極めて悪化しており、システムとしてのソ連全体、つまり単にクレムリンやアンドロポフやKGBというのではなく、システム全体が、攻撃を予期し迅速に反撃する態勢に移行していた。それは一触即発の警戒態勢だった。非常に神経質なあまり誤りや事故を起こしやすい状況にあった。…ペトロフが当直だった際に生じた誤警報は、米ソ関係上これ以上ないほど最悪のタイミングで起きたのだ。」。全米視聴インタビューでブレアが述べたところによると「ロシア人から見ると、米国政府は先制攻撃を準備しており、また実際にそれを命令し得る大統領によって率いられていた。」ペトロフの事件は「我々が偶発的核戦争に最も近づいた瞬間だと思う」。

KGBの元対外防諜責任者で当時のソ連最高指導者ユーリ・アンドロポフをよく知っていたオレグ・カルーギン(英語版)は、アンドロポフの米国指導者に対する不信は深刻だったと述べる。もしペトロフが衛星の警報を本物と宣言していたら、誤った通報でもソ連指導部を好戦論に追いやったことは考えられる。カルーギンによると「危険はソ連指導部の考え方にあった。『米国は攻撃するかもしれないから、いっそ我々が先制するべきだ』」。

ペトロフ自身は自分がその日したことで自分を英雄とは思っていないと述べている。ドキュメンタリー映像「The Red Button and the Man Who Saved the World」収録のインタビューでペトロフ曰く「起きたことは全て私にとってどうということはなかった ― それが私の仕事だった。私は単に自分の仕事をしていただけで、たまたま私がその時そこにいるべき人間だったまでだ。当時10年連れ添っていた妻はそれについて何も知らなかった。『で、あなたは何をしたの?』と彼女は聞いた。私は何もしなかった」。

ベテラン教員 

編集日記 9/20  

 録音した自分の話を自分で聞くのは気恥ずかしい。国語教育で知られた大村はまさんは、東京都の中学校教員を70代で退職するまで録音テープで自分の話をしっかりと聞き、話し方を練習したことを、教え子との対談で明かしている。

 大村さんは約50年の教員生活で子どもの気持ちをつかむため授業の工夫と教材開発に打ち込んだという。「研究することが先生の資格」と著書で説いた言葉は多くの後進に受け継がれている。

 文部科学省が2016年度、全国の小中学校、高校などを対象に行った学校教員統計調査の結果が公表され、ベテラン教員が培った指導技術の継承を心配する声が上がっているという。20代の教員の割合が増えて若返りの傾向が顕著になり、年齢構成の偏りが浮き彫りになったためだ。

 本県では、少子化をはじめ、東日本大震災と原発事故などで採用を抑えたため平均年齢が上昇した。数年後には教員の定年退職がピークを迎える見通しで若手の育成が急務になっている。

大村さんは、教員が研究して蓄えた知恵を子どもに伝える大切さを強調している。ベテラン教員から引き継ぐ教える技術と知恵は、若い教員が子どもたちを育む大きな力になっていくことだろう。

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「研究」をしない教師は先生ではないと思います。まあ、今ではいくらか寛大になって、毎日でなくてもいいかもしれないとも思ったりしますが。(略)子どもというのは「身の程知らずの伸びたい人」のことだと思うからです。一歩でも前進したくてたまらないのです。そして、力をつけたくて、希望に燃えている、その塊が子どもなのです。(略)研究をしていて、勉強の苦しみと喜びをひしひしと、日に日に感じていること、そして伸びたい希望が胸にあふれていることです。私はこれこそ教師の資格だと思います。

「教えるということ」より  大村はま

大村はまは、1906(明治39)年横浜市に生まれ、開明的な空気に溢れたこの港町で育ちました。昭和の初めに東京女子大学を卒業の後、長野県諏訪市の諏訪高等女学校に赴任。言語感覚の鋭い、学ぶこと・教え育てることの機微をよく知った誠実な教師として信頼を集めました。その後、東京府立第八高等女学校へと転任。すぐれた生徒たちを育てますが、戦中、慰問袋や千人針を指導し、学校が工場になる事態まで経験します。

大村はまを大村はまたらしめたのは、敗戦の荒廃に苦しみ抜いた末に、できたばかりの新制中学校への転任を決めてからの奮闘でした。
机も椅子もない、教科書もノートも鉛筆もない焼け跡の教室。はいてくる靴がなくて、欠席する生徒もいる。長い混乱と窮乏の中で、勉強からすっかり離れた子どもたち。あったのは、晴れて全員があこがれの中学生になったという明るさと、民主主義教育に戦後の活路を見出そうとする希望だけでした。その中で、大村はまが必死で取り組んだ実践が、後に国語単元学習と呼ばれるようになったものでした。古新聞の記事を切り抜いて、その一枚一枚に生徒への課題や誘いのことばを書き込んで、100枚ほども用意し、駆け回る生徒を羽交い締めにして捕まえては、一枚ずつ渡していった。その時のエピソードは、大村の代表的著書『教えるということ』の感動的な一節となっています。

1979(昭和54)年に教職を去るまで、大村は、目の前の子どもたちのことばの力を育てるために、単元計画をたて、ふさわしい教材を用意し、こどもの目をはっと開かせる「てびき」を用意して、ひたすらに教えつづけました。大村教室でことばの力と学ぶ力を手にして巣立った教え子は5000人と言われています。

退職後も、大村は国語教育研究から離れませんでした。90歳を超えるまで、新しい単元を創りつづけ、そのためにも膨大な数の本を読み続けました。教える人は、常に学ぶ人でなければならない、ということを自ら貫きました。
晩年を迎えた大村は、いくつもの問題意識・危機意識を持っていました。たとえば次のようなものです。
・こどもの語彙の貧困 ・話し合うことを育てていない現実(大人たち自身が話し合えないという事実) ・評価が人を育てるためのものになっていないこと(人と比べて成績をつけるため、合格・不合格を決めるためのものでしかないこと) ・優劣にとらわれて、子どもも教師も学ぶ喜びとかけ離れた場所にいること ・命令形で指示するのでなく「てびき」をすべきなのに、それができていないこと ・空疎なことばが溢れていること・・・

98歳10ヶ月で大村は亡くなりましたが、その前日まで推敲を進めていた詩が「優劣のかなたに」です。人間にとって宝のような存在である「ことばの力」。それを育てていくこと、学んでいくことは、本来、この上なく明るい試みであるはず。その明るさを知っていた大村であったからこそ、教え、育てる仕事に、惜しみなく一生を捧げたのでしょう。


優劣のかなたに

優か劣か
そんなことが話題になる、
そんなすきまのない
つきつめた姿。
持てるものを
持たせられたものを
出し切り
生かし切っている
そんな姿こそ。

優か劣か、
自分はいわゆるできる子なのか
できない子なのか、
そんなことを
教師も子どもも
しばし忘れて、
学びひたり
教えひたっている、
そんな世界を
見つめてきた。

学びひたり
教えひたる、
それは 優劣のかなた。
ほんとうに 持っているもの
授かっているものを出し切って、
打ち込んで学ぶ。
優劣を論じあい
気にしあう世界ではない。
優劣を忘れて
ひたすらな心で、ひたすらに励む。

今は、できるできないを
気にしすぎて、
持っているものが
出し切れていないのではないか。
授かっているものが
生かし切れていないのではないか。

成績をつけなければ、
合格者をきめなければ、
それはそうだとしても、
それだけの世界。
教師も子どもも
優劣のなかで
あえいでいる。

学びひたり
教えひたろう
優劣のかなたで。

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動物愛護週間

四季風 9/20

きょうから26日までは動物愛護週間。犬や猫と人間のより良い暮らしのために汗を流す人たちに接し、自分にできることを考えた。

初めて訪れた山口市の老犬ホームは、人が寄り付かない寂しい所というイメージとは違い、飼い主や愛犬家が集う和やかな場所だった。郡真美さんらスタッフのからりとした明るさと、苦い経験も味わってきた懐の深さが温かい空間をつくっているのだろう。

施設の「伝」という名前はさまざまな思いを伝える場所にという願いが込められている。まずは老犬ホームという存在を知ってもらい、心積もりをしてほしいという。

山口市のてしま旅館が始めた保護猫シェルターの「猫庭」。猫の存在は、旅館と宿泊客という素通りの関係性をがらりと変え、温かいコミュニケーションが生まれている。

2015年度の山口県内の犬猫殺処分数が全国で3番目に多かったことが注目を集め、危機感が強まった。16年度は大幅に減少したが、殺処分を減らす取り組みを継続する必要がある。「猫と暮らして知的さに驚いた。殺処分なんてあり得ない」とてしま旅館オーナーの手島英樹さん。統計数字だけでは分からない温度感を少しでも伝えたい。



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老犬ホーム 伝

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山口県の阿知須温泉にある、てしま旅館の「猫庭(ねこにわ)」

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ヒロインは液体か?

地軸 9/20

 「猫は固体か、液体か?」。インターネット上で目にした問いに、フランス人の学者は悩んだ。物理学に基づき導き出した答えは「液体にもなれる」

 猫がどんな小さなスペースにでも入る体の柔らかさに着目した。「液体は容器に合わせて形を変える」との定義を引き合いに、猫がグラスの中に丸く収まっている姿で「立証」。ユニークな研究に贈られる今年の「イグ・ノーベル賞」物理学賞を受賞した。くすっと笑えるテーマに研究者は真剣に取り組む。

 本家のノーベル賞ではなおさら。だが91年前の医学生理学賞「がん細胞の原因は寄生虫」に代表されるように、後に「誤り」とされるケースもある。

 科学分野よりも物議を醸すのが平和賞。ベトナム戦争の停戦に貢献したとして受賞したキッシンジャー米元国務長官は「戦争を起こした国なのに」と批判を浴びた。そして今、ミャンマー民主化の「ヒロイン」とされるアウン・サン・スー・チー国家顧問兼外相に賞剝奪を求める声が上がる。

 少数民族ロヒンギャを不法移民と扱い、ミャンマー国軍が迫害しているにもかかわらず、策を打ち出さないからだ。国際社会の批判を受け、ようやく人権侵害に厳しく対処すると言い出したが、政権に影響力を残す軍への配慮がみえる。

 猫ではあるまいに、軍事政権という「古い器」に身を入れて目指す民主化の形を変えてしまったのか。器を新しくしなければ、真の民主化は遠い。

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定義をするのはむずかしい - ネコは液体か?

イグ・ノーベル賞の季節である。Improbable Researchの発表によれば、トップに来るのが物理学賞「ネコのレオロジーについて」。この「レオロジー」、聞き慣れない言葉だが、連続体力学の中で粘性をもって流動するもの一般を扱うものらしい。そういえば学生の頃に「流れ学」みたいな講義があって、「それって流体力学とちがうんですか?」と、主に単位の関係で疑問に思ったものの、適当に過ごしてしまったような記憶が蘇ってきた。流体力学がニュートン流体と非ニュートン流体の力学を対象とするのに対し、レオロジーは非ニュートン流体の力学と塑性力学をまとめて扱う。といったあたりは俄仕込みの知識だ。

で、非ニュートン流体というのは、水や空気のような単純な挙動をする流体ではなく、塩ビやゴム、デンプンのような高分子がドロっと動くような場合の流体を指すらしい(ああ!いい加減だ)。飛行機の揚力みたいなのは割とニュートン流体的な解釈で計算できるのだけれど、マヨネーズとかケチャップみたいな食品工業で扱うものはだいたい非ニュートン流体らしいので、そっち方面の工学ではけっこう重要な基礎らしい(このあたりとか、参照)。

で、受賞論文を読んでみた。なかなかおもしろい。その紹介。


まず、この論文、半分はジョークである。末尾のAcknowledgementを読むとわかるのだが、これは非ニュートン流体力学の権威(らしい)Gareth H. McKinley教授の50歳の誕生日とビンガム賞受賞を記念して書かれたもので、所属も大学と学会(これもちょっと怪しめ)に加えて、「McKinley一家」と、明らかにジョークがかかっている。それでも一応は学会誌なので、決しておふざけには流れていない。ところどころにジョーク(たとえば株屋の慣用句である「死んだネコでも高いところから落とせば少しは反発する」みたいなのを引用するとか)を散りばめてはいるが、論旨はしっかりしている。

で、その論の要は、つまりは固体、液体の定義だ。すなわち、古くから物質の三態は、定性的に定義されてきた。しかし、レオロジーでは、より定量的に、数式を使って定義する。その定義に照らして、ネコを判定してみようというわけだ。ちなみに、いかにも学術論文らしくネコは学名で記載されているが、これもジョークのうちだろう。

さて、レオロジーでは、固体か液体かをデボラ数を用いて判定する(らしい)。デボラ数についてはこちらの解説がシロウトにはわかりやすかったのだけれど、

デボラ数ですが,これは材料の緩和時間と工程の滞留時間の比で定義され,緩和時間に対して通過する工程の滞留時間が短ければ材料は弾性体(固体)として振舞い,滞留時間が長ければ粘性体(液体)として振舞います.
とのこと。つまり、ネコについてデボラ数が算出できれば、それは現代的な科学らしく定量的に固体か液体かを判定できるだろう、ということらしい。

で、そこからの(おそらく玄人受けするジョークを含んだ:たとえばキャピラリー数をわざとcatpillaryと綴り間違えるとか)ディスカッションはすっ飛ばして読み進めると、さらにネコの乾湿、摩擦、降伏応力、接着性などを検討している。わけわからない。たぶんレオロジー関係者には馴染みの深いさまざまな流動体の性質や状態になぞらえているのだろう。そして後半、さらに踏み込んだ検討としてレイノルズ数やWeissenberg数を持ち出し、さらには古代ギリシアのヘラクレイトスまで持ち出す衒学ぶりで議論を進めるのだが、このあたりもシロウトには読みこなせない(仕事ならもうちょっと頑張るんだけどね)。ざっと見たところでは、万物流動のヘラクレイトスの思想は、「力」がなければすべてのものは止まると考えたアリストテレスによって影響力を失い、さらにガリレオ以降の合力がゼロであれば運動は変化しないという古典物理学の思想によって否定されたみたいな歴史が書いてあって、結局レオロジーはヘラクレイトス的でもありアリストテレス的でもありガリレオ的でもある、みたいな感じの議論なのかなあと思う。

で、ネコなんだけど、結局それは慣性的であるのか弾性的であるのかなどの考察を経て、結論はネコはじっとしてないし、「さらなる研究が必要」みたいなことになっている。ま、このあたりはお約束の書き方なのかな。論文は以上。

で、ネコは固体なのか液体なのかということでいえば、もちろん、常識的に言ってこれは固体。まあ生物というのは大半が水でできていて、特に動物は革袋に入れた水みたいなもんだから、液体っぽい動きも多少はある。けれど、常識的には液体じゃあり得ない。

ただ、学問の世界での用語は、日常の世界とは微妙に異なる。例えば論文中でも出てくるpowerは日常的には「力」だけれど、物理学では仕事率のことであって、日常的な意味とは別な意味合いをもつ。ニュートン力学での「力」はforceだが、これは決してジェダイが操る「銀河の万物をあまねく包み込む」ものではない

学問に限らないのだけれど学問の世界では特に、言葉は定義された上で用いられる。だがその定義は、ときには日常の経験や常識と整合しない。この論文が(たとえ笑いの要素を評価の尺度としている賞とはいえ)イグ・ノーベル賞を受賞したのは、そういった定義による判定と日常的な経験による判定のズレをしっかりと把握していたからではないだろうか。(かなり強引なこじつけや飛躍があるといえ)、レオロジーの定義を杓子定規に当てはめていくと、ネコは固体であると同時に液体であるとも判定されるのかもしれない。だが、それでもって我々の日常経験が否定されるわけではない。学問の正当性も揺るがない。それがこの論文の鮮やかな結論ではないかと、私はシロウトなりに読んだ。

実際、言葉はむずかしい。定義されて使う文脈であっても、往々にして日常的な文脈での用法が混入し、議論を混乱させる。正確な定義の重要性についてはこのブログでも書いてきたし、言葉の定義を辞書から引用した記事も数多い。そうはいいながら、私自身、定義されない言葉に頼って文を書くし、定義がはっきりしている言葉をわざわざひっくり返してみたりもする。かくもいい加減なことばかりしているのに、定義が重要だなんて、聞いて呆れるかもしれない。

それでも、ほんと、誰かが何かを言ったときに、その言葉がどういう意図で用いられているのかを正確に見極めることが、どんどんと重要になってきている。バベルの塔が崩壊したようなこの時代、その作業をおろそかにしたら、次に来るのは混沌しかない。

いや、もう混沌の中にいるのか。マヨネーズのような流動体の中でもがいているのが、案外と現代の人間かもしれないよな。レオロジーよ、救っておくれ!

「世界を救った男」の寂しい死

日めくり 9/20

「世界を救った男」の寂しい死

スタニスラフ・ペトロフ氏=2015年8月、モスクワ郊外の自宅(AP=共同)スタニスラフ・ペトロフ氏=2015年8月、モスクワ郊外の自宅(AP=共同)
 少年のころ、「世界を救う英雄」に強い憧れを抱いた。それはウルトラマンやウルトラセブンといった怪獣映画のヒーローだったり、スーパーマンなどSF映画の主人公だったりしたが、大人になるにつれ、そんなことは平凡な一個人の力ではできないことを悟り、寂しい思いにとらわれた。冷戦を終結させた旧ソ連のゴルバチョフ元大統領やレーガン元米大統領、ゴルバチョフ氏の後を継ぎ核大国ロシアを率いたエリツィン元大統領といったそうそうたる人物にも、直接的な意味で「世界を救う」決定的な瞬間はなかっただろう。しかし、ロシアには本当に「世界を救った」男がいた。今年5月、モスクワ郊外の自宅で77歳で死去したが、その死はつい最近まで世界に知られることはなかったほど、英雄にしては寂しい晩年だった。

 ▽ 熱したフライパン

 その人物はスタニスラフ・ペトロフ氏で、英BBC放送などによると、冷戦下の1983年当時、旧ソ連軍中佐として米国や北大西洋条約機構(NATO)諸国からの核攻撃早期警戒拠点に勤務。同拠点はモスクワにあり敵国からの核ミサイル飛来を人工衛星で察知する任務を帯びており同年9月26日深夜、ペトロフ氏が当直に当たっていた。突然、コンピューターが旧ソ連に向け1発のミサイルが飛来していると警告。ミサイルの数は計5発にまで増え、ペトロフ氏は直ちにこの情報を軍トップに報告しなければならなかった。

 当時は大韓航空機撃墜事件の直後で、米ソ関係は緊張の極みにあった。もしペトロフ氏がこの情報を伝えていたら、旧ソ連軍は相互確証破壊(MAD)戦略に基づき、米国に対し核攻撃の報復措置を取る可能性が高かったとされる。しかしペトロフ氏は、もし本当に米国が核攻撃を仕掛けたなら、何百発ものミサイルによる同時攻撃となったはずで5発だけというのはおかしいと判断。衛星監視システムの誤作動の可能性があるとして、軍トップへのホットラインの受話器を取らなかった。その際の心境を後に「熱したフライパンの上に座り込んだように感じた」と語った。

 ▽ 服務規律違反

 結果的に雲に反射した日光を人工衛星がミサイルと誤認したことが原因の警戒システムの誤作動だったと判明。しかし、軍上層部は直ちに報告しなかった服務規律違反を問題視し、ペトロフ氏を審問に掛け懲戒処分とし左遷。同氏はその後、軍を退役しひっそりと年金生活を送ることとなった。事件は極秘扱いとされたがソ連崩壊後の98年、旧ソ連軍幹部の回顧録で初めて公になり、2006年には国連で表彰されたほか、その後、自身がモデルのドキュメンタリー映画も公開された。そのタイトルは「赤いスイッチと世界を救った人間」だった。ペトロフ氏は生前、自らの行為について「当然のことをしたまで」と謙虚に話していたという。

 ペトロフ氏を英雄視することに対しては、ロシア政府は、たとえ同氏がミサイルの飛来を報告していたとしても、報復のための核攻撃までには何段階もの確認システムがあり、「世界を救った」というのは誇張だとする立場を示している。

 ▽ 偶然

 5月19日にこの世を去ったが、ロシアのメディアは冷淡で死去の事実にはほとんど触れなかった。その死が世界に知られたのは偶然の産物だった。友人であるドイツの映画作家が9月7日、ペトロフ氏の誕生日を祝おうと電話したところ息子から同氏の死を伝えられた。映画作家はブログでこのことを報告し、ドイツメディアの目に触れることになった。

 命令に反して多くの人名を救った点では、第2次大戦中、外務省からの訓令に反して、リトアニアで大量の通過査証を発給し、多数のユダヤ人避難民を救った故杉原千畝さんを思い起こさせる。折しも、トランプ米大統領が19日、就任後初めて国連総会の一般討論演説を行い、核実験などを強行した北朝鮮を世界共通の脅威と非難、米国が自国や日本など同盟国の防衛を迫られれば「完全に破壊(TOTALLY DESTROY)」すると言明した。東アジアで核をめぐる危機が高まっている中、いまこそこうした勇気ある人が求められているのかもしれない。